イコール

増田翡翠

小説

3,423文字

初めて書いた小説です。『第26回ゆきのまち幻想文学賞』(2016年)投稿作品。落選したのは全く幻想的じゃないからでしょう。クリスマス小説。

「どうして賢太郎の偏差値がまた下がっているんですか?」
あの日の夕方、小川さんは面談室の椅子にバッグと大きな紙袋を叩きつけるように置くなり、私を怒鳴りつけた。その胸元には、大粒のアクアマリンが輝いていた。
「大変申し訳ございません」
「謝罪なんかはいいんです。今回の模擬試験の結果について、高橋先生はどうお考えなんですか?」
「はい……。正直に申し上げまして、このままではどの私立中学にも合格は難しいと思われます」
「あの、この成績では当然ですよね? そういうことを言いたいのではなくて、私が聞きたいのは今後塾の方でどういう対応を取っていただくかということなんです」
「はい……。本人との面談をさせていただき、もう一度立て直して、二月を迎えさせたいと考えております」
「つまり、面談をすれば、賢太郎は中学に受かるということなんですか? 考えが甘くないですか? 賢太郎には何としても私立に受かってもらわないと、我が家は困るんです。正直に申し上げますと、経験が浅い高橋先生が担当されると決まった時から、私は違和感を覚えていたんです。賢太郎も塾に通うのが楽しそうではなさそうですし」
騒ぎを聞いて部屋に入ってきた教室長が、すかさずフォローしてくれた。
「こちらの指導が至らず、誠に申し訳ございません。教室でやれることは全てやりますので。それに成績推移を見ると、漢字の書き取り問題などは上昇傾向にあるようですし、望みがない訳ではないと思われますよ。もう一度私の方で教材の見直しや指導の仕方を考えさせていただきますし、もちろん高橋にも私から指導いたします」
その日、外では予報通りの雪が降り続いていたことを、私は今でもはっきりと覚えている。

 

冷えた夜に、乾いたベルの音が響いた。生徒たちはリュックサックを片手に、「さようなら」と古いエレベーターに駆けていった。私は手を振りながら、生徒たちに「また明日ね、お疲れ様」と精一杯の笑顔で声をかけた。少し遅れて、ケンくんはドアの前で一礼してから、「くれぐれも愚息をお願いします」と言い残した母親と共に帰っていった。
教室から生徒がいなくなったのを確認してから、私は窓際の椅子に座り、溜息をついた。「生徒の前で溜息はついてはいけない」と大学の教職課程で学んでから、常にそうしていた。その溜息が聞こえたのだろうか、教室長が私に尋ねた。
「さっきはお疲れ様。ケンくん、今日はどうだったの?」。間を空けて、私は「そうですね」と答えた。
思えばこの塾に講師として就職して、ケンくんの担当になってから、二年が経っていた。初めてケンくんの授業を持った時のことは忘れもしない。彼は小テストの最中、突然シャープペンシルのラバーを強くつねり出した。シャープペンシルに激しい憎悪でも抱いているかのように、彼はそれをやめなかった。その後も掲示されたカレンダーを見たり、指のささくれを細かく剥いだり、窓際で光を浴びるポトスの葉脈をつぶさに観察していた。彼は何かに急かされているようだった。
ケンくんには、緊張感というものがまるで見られなかった。いつか絶対にわかってくれる。今私が嫌われていたとしても、結果が出れば、きっと喜びに変わるはずだ。今頑張ることは無駄ではないし、将来ケンくんの背中を押すことになる。学問とは、わずかな時の間に数百千年の人類の経験を受け取ることなのだから。
どんな生徒が相手でも、諦めることだけはしたくなかった。何度も何度も想いを伝えたはずだった。しかし、ケンくんの行動は驚くほど変わらなかった。この日もそうだった。私が個別ブースに入ると、ケンくんは露骨に嫌そうな顔をした。提出課題は家に忘れてきていた。そして、好きな野球選手が移籍してしまったことと、失恋したことがどれだけショックなのかを執拗に語った。授業中、消しゴムは四度落とされた。
教室長に幾度となく相談したものの、入塾当初から変わらないのだという。ケンくんは、夢を持って塾講師になった私に、努力してもどうにもならないことがあるということを教えてくれているのかもしれない。
「正直、難しいと思います。今日も全然授業に集中していませんでしたし」。私は、母とともに駅へ向かう、地上のケンくんの姿を見下ろしながら言った。ビルの六階から見た二人の姿は、とても小さかった。今朝からの雪は途切れることなく降っていた。今夜は彼氏の家に泊まる予定だった。このままだと電車が止まって、行けなくなるかもしれない。せっかく久しぶりに一緒に過ごせるのに、どうしてこんな日に限って雪が降るんだろう。
「それは分かってるよ。言いたいことはよく分かる」塾長は怒ったように言った。「でも、それをなんとかするのが俺たちの仕事だろう? 一年生から預かっている生徒がどこにも受からなかったら、うちの信用問題に関わる。お母さんの性格からして、ケンくんが失敗したら、すぐ悪い噂が広がると思うよ。それにただでさえ、今年は六年生が少ないんだし」。

 

教室のデジタル時計は、二二時半を示していた。教室長は「ごめん、娘に苺のショートケーキ買って帰らないといけないからさ」と言い残して、先に帰ってしまった。アルバイトの大学生たちも、先輩の多田先生も帰り、教室にいるのは私だけになっていた。
私は今回の外部模擬試験の資料を見るために、パソコンを見つめていた。今回の模擬試験の成績は、ケンくんのせいだけにはできない。まだ出来ることはある。現に多田先生は、今回の模擬試験で担当生徒の成績を上げている。もう時間がないが、とにかく行動していくしかない。「私の人生哲学は、本質的には単純な言葉ですが、『辛抱強く頑張る』ところにあります」。採用面接の時、自分でそう言い切ったじゃないか。
模擬試験のデータを参考に、残りわずかな冬期講習会で何ができるのかを考えながら、私は個別ブースを掃除していた。全ての机の落書きを消し終えて、部屋の電気を消そうとした時、ケンくんの座っていた机の中に忘れ物を見つけた。それは汚く折れ曲がったクリアファイルだった。学校の宿題や塾のテスト、模擬試験の結果などが無造作に押し込められていて、酷く出来の悪いミルフィーユのように見えた。
裏返すと、クリアファイルの端にメッセージカードが挟まっていた。授業とは、明らかに関係のないものだった。私はカードを裏返した。
「クリスマスプレゼントありがとう。
中学校ではこのグローブで野球やるね。
いつも、お母さんに心配かけてごめんね。
でも、お母さんのために、受けんがんばるね!
けん太ろうより」
メッセージカードは、ビクスバイトとエメラルドによく似た色だった。鉛筆で濃く書かれた字は酷くよれていて、漢字テストであれば×がつく字であるのは一目でわかった。
その時だった。突然全ての明かりが消え、辺りは暗闇と化した。つけっぱなしだったパソコンのモニターも、暖房の音も消えた。
私は何が起きたのかわからなかった。窓の外を見ると、大通りの向かいのビルのネオンも、街灯も消えていた。夜空を見上げると、霧のように細かい雪が、暗闇の中で静かに降っていた。雪はかすかな月明かりに照らされて、かすかながらも確かに存在していた。そこには、脆くて壊れてしまいそうな美しさがあった。静かな夜だった。雪はこの街の全てを、この世界の全てを包んでいるようだった。その瞬間、何かがわかったような気がした。涙が頬を伝い、こぼれた。
後で知ったのだが、この日山間部ではかなりの積雪量となっており、倒木によって高圧線が断線したのだという。しばらく我を失っていた私は、雪と涙で滲んだガラスの向こうに、ふと冷え切った夜を感じた。電池の切れかけた携帯電話をポケットから取り出し、彼氏に「ごめん。迎えに来て」とメッセージを送った。

 

私の一人息子は、今年の九月であの日のケンくんと同い年になった。あの日から随分時間が経ったものだ。もう塾講師も辞めてしまったし、苗字も変わった。住む街も、何もかも変わってしまった。
大きな紙袋をそっとソファに置いてから、私はエプロンを取りに二階へと上がった。ベランダのクリスマスツリーの装飾が、夕陽を浴びて強く光り輝いている。ホワイトクリスマス、息子に見せてあげたいな。十二年前のクリスマスイヴの雪を思い出しながら、私はそっと祈った。

2018年10月21日公開

© 2018 増田翡翠

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