わかちあうこと

斗田翡翠

小説

6,096文字

『文芸川越38号』(2018年2月)掲載作品。約6000字の短編です。
入院中の主人公・ふーこが、双子の妹・夏子と入れ替わって男性とデートする、というストーリー。
身体の入れ替わり、スピッツ、『ゴドーを待ちながら』、スマートフォン、川越観光。

おはよう。夏子の声で私は眠りから覚めた。病室の床が、ハチミツ色の西日で輝いていた。
「ごめん、寝てた?フェイスタオル、洗濯していっぱい持ってきたよ。調子どう?」
「特に変わんないよ。今週はずっと七度三分。食欲もあるし、元気ではあるんだけど。今日何曜日だっけ?」
「木曜日」
夏子に訊いてから、大した意味のない質問だと思った。夏子は詰め替え用のシャンプーとボディーソープをそれぞれ二袋ずつビニール袋から取り出して、棚にしまった。
「新河岸川の桜、もうちょっとで見られる季節になるね」
私の個室には小さな窓しかついておらず、病院の駐車場と大通り、少し離れたところにある丘しか見られなかった。駐車場は最近工事をしていて、しばらくは使えなさそうだった。その脇にはオレンジのキンセンカがもう何本も咲いていて、その花びらは夕陽を強く受けて煌めいていた。
「ふーこさあ、ちょっと提案があるんだけどさ」
夏子は小窓から外を眺めながら、はにかんで言った。
「明後日、私が一日寝ててあげるからさ、こっそり外出しちゃいなよ」
「?」
「私がここで寝てて、一日ふーこのふりするの。おでこのほくろさえ見えなければ、どうせわからないんだから」
「いや、でも……」
「なんで?外出たくないの?つまんないでしょ、こんなところでただずっと寝てたって」
確かにベッドの上に寝ていても面白くはなかった。元々読書やテレビに全く興味はなかった。一ヶ月前に夏子が数独の本を持ってきたが、どうもこの手のものは苦手で、解けない状態のままもう棚から取り出すことはなくなっていた。やることなんて、数日分の下着の洗濯と、駐車場の工事の進み具合の確認、スマートフォンをいじること、わずかに見える星空を静かに見上げることぐらいしかなかった。
「その代わり、LINEで写真送ってね。後でインスタに上げるから」
「了解。私もシェアする」
「それと」
悪戯っぽい声で夏子は言った。
「土曜日は重信さんと会うことになってるの。ほら、この間の街コンで出会った人」

 

その日は、夏子が来るまでどうも落ち着かなかった。朝五時半の採血を終えた後、私はどうしても二度寝することができなかった。仕方なく起き上がって窓を開けると、爽やかな微風が部屋に入りこんできた。
夏子は面会時間が始まる午後一時ぴったりに病室へ来た。すぐに私は、夏子の着ていた淡い黄色のセーターと白いスカートに着替えた。私が着ていたダークブルーの院内着に着替えた夏子は、顔を洗い終わっても、化粧した私より頬に艶がある気がした。
「つまんないから、ちょくちょくLINEしてよ」
夏子はそう言うと、スマートフォンを片手に布団を被ってしまった。普段と違う前髪の夏子は、どこか楽しそうだった。ひどく晴れた空が、小さな窓から見えた。

 

駅の改札前にある鐘突き台のような形の案内板の前で、私たちは二時に待ち合わせすることになっていた。すみません、渡辺さんでしょうか。突然背後から、とても背が高くて、痩せ型の男性に呼び止められた。大丈夫大丈夫、無害そうな人だから。夏子の言葉が蘇った。
夏子は重信さんに関する情報を事前に教えてくれなかった。だから、街コンで夏子と重信さんが何を話したのかも知らなかった。職業も知らなかった。どこに住んでいるのかも知らなかった。そもそも重信さんというのも、苗字なのか、名前なのかすらわからなかった。ただ、なぜか一目見た瞬間から、重信さんと私は何らかの同類項で括れるのではないかという、懐かしさにも似た感覚があった。
重信さんは私よりもひと回りほど年上のように見えた。黒いコートに黒い中折れ帽子、紺のマフラーという出で立ちで、前髪が目にかかるほど長かった。そして、滝廉太郎みたいなロイド眼鏡をかけていた。

 

時の鐘、行ったことがありますか。
何度もあります。大好きな場所です。
では、行きましょう。バスを降りながら重信さんはそうつぶやき、路地へと入っていった。私たちは時の鐘をスマートフォンのカメラで撮った後、近くの喫茶店に入った。
「四十七歩で着いてしまいました」
意味がわからなかった。どうやら喫茶店までの道の途中に、「店まで四十九歩」という看板があったらしい。
私達はパリの古地図が掛かった壁沿いの席に座った。とても静かな喫茶店だった。かすかなボリュームでピアノジャズが流れていて、それがかえって静けさを引き立てているようだった。机や椅子は温もりのある焦げ茶色で統一されていた。カウンターでは、私の父親くらいの年齢の男性が、文庫本を読んでいた。壁にはコーヒー農園の写真やフランス語のポスターが飾られていて、レトロなランプが蒲公英の花の色のような光で、その一つ一つを照らしていた。なんだか小さな美術館を訪れたようだった。重信さんはベイクドチーズケーキと深煎りコーヒーを、私は手づくりのジャムトーストと「本日の旬」を注文した。カウンター横の黒板には、「本日の旬 エチオピアモカ 中浅煎り」と書かれていた。私は重信さんの目を見て、尋ねてみた。
「重信さんのお好きなものは、なんですか」
重信さんは表情を変えぬまま、そうですね、とつぶやいた。どこか遠くを見ているように見えた。
「『ゴドーを待ちながら』、ご存知ですか」
「わかりません」
「そうですか」
「それは何ですか」
「サミュエル・ベケットの戯曲です」
「そうですか」
古時計の音が、心地よく店内に響いていた。
「それはどんな話なんですか」
「主人公はゴドーを待っているのですが、最後までゴドーが来ないという話です」
「なぜゴドーは待ち合わせに来ないのですか」
「わかりません。最後までゴドーは来ないので」
「そうですか」
しばし沈黙が流れ、軽やかなピアノの音色が再び聞こえてきた。
「なぜ重信さんは、その話が好きなのですか」
「最後までゴドーが来ないからです」
「そうですか」
私はジャムトーストを口に運びながら、壁のパリの古地図を見た。これはいつの時代のものなのだろう、と思った。
「夏子さんは何がお好きなのですか」
「そうですね」
しばらく考えて、私は重信さんの目を見て言った。
「スピッツです」
「ほう、家で飼われているんですか」
「いえ、バンドの」
「はあ」
「『空も飛べるはず』とか」
「ちょっと存じ上げません」
私は、スマートフォンで「空も飛べるはず 歌詞」と検索し、重信さんに画面を見せた。
「ああ、なんとなく聞き覚えがあるような気がします」
「この歌を知っている人は多いのに、歌詞の意味までちゃんと考えたことがある人は、すごく少ないと思うんです」
「そうなんですね」
おかわり、もらいますか。重信さんはもう一杯同じものを頼み、私は中深煎りを頼んだ。

店を出てから私たちは、向かいにある小さな煎餅屋に入った。夏子へのお礼にと濃口のフライせんべいを二袋買ったら、おばあさんが二枚サービスしてくれた。
「ここです。この辺りに看板があったのですが」
道を戻る途中、重信さんはフライせんべいを囓りながら、電信柱の根っこを指さした。そこに看板はなかった。ちょうどその時、近くで鐘の鳴る音がした。風が強く吹いていて、病院から見える丘の方角の空では、雲の切れ目から中世の西洋絵画のような白い光が射し込んでいた。私は今でもその風景を、はっきりと思い出すことができる。

 

どこか、行きたい場所はありますか。
重信さんの問いかけに、私は答えた。
プラネタリウムを、見たいです。
そうですか。少し遠いので、人力車で行きましょうか。

 

児童館のプラネタリウムでは、すでに親子連れが十組ほど投影を待っていた。係員が、真っ暗になると怖くなってしまう人は前の席で見てくださいね、と案内していた。私たちは一番後ろの席に座った。そしてスマートフォンの電源を切る前に、無音カメラでこっそりスクリーンを撮った。
投影されたプログラムは季節の星座解説だった。「ベテルギウスは、アラビア語で〝巨人の脇の下〟という意味の言葉から名付けられたと言われています」というナレーションが入ると、なんかやだー、なんだそれかっこわるい、と前方に座っていた子どもたちは一斉に不満を表した。さらに、「日本では、源氏と平家が合戦の際に使用した旗の色と似ていることから、ベテルギウスを平家星、リゲルを源氏星と呼んでいたそうです」というナレーションを聞き、そっちのほうがいい、という声が上がって、確かにそれもそうだなと思い、くすっと笑ってしまった。
重信さんはどんなことを考えながらプラネタリウムを眺めているのかが気になって、様子を窺ってみたのだが、暗くて表情までは見えなかった。はっきり感じ取れたのは、香水の優しい仄かな香りと、肩越しに伝わるあたたかな体温だけだった。

 

私たちは夕焼けに染まる道を戻り、神社を訪れた。境内にはなぜか足つぼを刺激するための石が並んでいて、あまりの痛さから私は最後まで歩くことが出来なかった。そして白蛇の像を祀る祠にお参りをした。私は巻物をくわえた方の蛇の身体をよく撫でておいた。重信さんは長い間懸命に二匹の蛇の卵を撫でていた。なんだか面白かったので、私はその様子を隠し撮りしてしまった。その後私たちは宝池の水を柄杓ですくって、一万円札にかけて洗った。するとどこからともなく白い野良犬の子どもがやってきて、ずっと私のことを見つめてきたので、こっそりとよく冷えた霊水を柄杓で飲ませてあげた。運試しの輪投げにも挑戦したが、私も重信さんも三回投げて全て外れてしまった。
神社を後にして、蔵通りの辺りを散歩していると、雰囲気のいい小さなイタリアンレストランを見つけたので、私たちは夕食を取ることにした。私たちは入り口に近い、市役所への通りに面した席に座った。店内のテーブルには、赤いチェックのテーブルクロスが掛かっていた。壁にはステンレスの小さなフライパンや鍋が掛けられ、ワインボトルが並んでいて、カウンター席にはペペロンチーノの作り方がかわいらしい絵で描かれていた。私はイタリアなんて行ったことなかったが、イタリアの下町でおばあさんが切り盛りする食堂に来たような気分になった。重信さんは店員を呼び、メニューを見ながら、ミケランジェロの白にしようかな、と呟いた。そして私たちはオレンジジュースとサラダ、アスパラのイタリア風、茄子のチーズ焼き、アサリの白ワイン蒸しを注文した。
「今日はお酒を召し上がらないんですか」
「ええ、少し体調が良くないものですから」
「そうでしたか、すみません」
「いえ、お気になさらないでください」
なんだか申し訳ない気持ちになった。夏子の方が来れば良かったのに、と思った。
「ワインの銘柄でミケランジェロというものがあるんですね、初めて知りました」
「私もです」
「ミケランジェロのようなイメージのワイン、とはどのようなものなのでしょうかね、楽しみです」
「ワインって、葡萄の種類とか、産地が分かるような名前が多いですよね。歴史上の偉人の名前が付くのはあまり聞いたことがありません」
「そうですね」
重信さんは遠くを見ながらしばらく考えていた。
「でもそう考えてみると、例えば日本酒に北斎なんていう銘柄、ありそうじゃないですか」
「なるほど」
私はスマートフォンで「日本酒 北斎」と検索した。すると、料理用日本酒の販売サイトが見つかった。
「確か北斎は酒をあまり好まなかったと思うのですが」
「それはちょっと意外ですね」
「まあイメージで名付けられたのでしょう」
「日本酒の銘柄になっていそうな歴史上の偉人、他にいますかね」
私たちは下を向いて真剣に考えた。しばらくしてから重信さんは、清盛、と小さく呟いた。そして私が、政宗、独眼竜政宗、と小声で答えた時、重信さんはこの日初めて微笑んだ。もしかしたらこの人は今まで一度も笑ったことがないんじゃないかと思うほど、不器用な微笑み方だった。その笑顔を見て、思わず私もくすっと笑ってしまった。ちょうどそのタイミングで、みずみずしいグリーンレタスのサラダと、ミケランジェロの白とオレンジジュースが運ばれてきたので、私たちは笑いながら乾杯をした。

 

肉眼で観る星空も、いいですね。
あれ、北斗七星。ドゥーベ、メラク、フェクダ、メグレズ、アリオト、ミザールとアルコル、ベネトナシュ。
本当だ、七つありますね。よくご存じですね。
いえいえ。星、また観ましょうね。
以前お会いした際から思っていたのですが、夏子さんは、黒木華に似ていますね。
全然似てないです。そんなこと、初めて言われましたよ。

 

重信さんと駅で別れてから、私はバスに乗り、後ろの五人席の端に座った。透きとおった夜空が、ガラス越しに見えた。私は星空をスマートフォンの無音カメラで撮って、他の画像と一緒にLINEで夏子に送った。そしてバスの微かな振動を感じながら目を閉じ、窓にもたれかかった。気がつくと私は、夢の中で観覧車に乗っていた。観覧車は見覚えのない大きな建物の屋上にあって、そこではネコやクマ、キリン、ライオンの形をした乗り物、馬車、青い車が動いていた。屋上にいる人たちは皆、観覧車を見上げて、こちらに手を振っていた。遥か遠くには、鮮やかな緑に染まった、大きな丘が見えた。オレンジ色の陽射しが、とても眩しかった。そして、私の向かいには男の子が座っていた。その子の顔には見覚えがあった。幼稚園の時同じクラスだった子のような気がした。でも名前までは覚えていなかったし、何を話したとか、お遊戯会で一緒になったとか、そういう類のことまでは一切覚えていなかった。男の子は外を見ず、右手に持っているキャラメルリボンのアイスクリームに気を留めず、ただ私の瞳をまっすぐ見つめていた。私は、なんで外を見ないの、せっかく観覧車に乗っているんだから、外を見ればいいじゃない、と尋ねた。すると男の子は微笑みながら、そとなんてないよ、と言った。何言ってるの、と私が聞き返すと、男の子は一語一語噛みしめるように、ふーこちゃん、そとなんてないんだよ、ぜんぶがそとなんだよ、と言った。ここはゆうえんちじゃないし、かんらんしゃじゃないよ。ぜんぶがゆうえんちで、ぜんぶがかんらんしゃ。ぜんぶがどうぶつえんで、ぜんぶがしょくぶつえんで、ぜんぶがすいぞくかんで、ぜんぶががっこうなんだよ。その瞬間、強い風が吹いて、私たちの乗っている観覧車が大きく揺れた。男の子は、わっと短く叫んで、アイスクリームを手から落とした。陽射しが突然なくなり、街中の電気が消えて薄暗がりに包まれ、男の子は目の前からいなくなった。観覧車の中には床でどろどろになったキャラメルリボンとコーン、そして私だけが取り残された。どうしたのだろうと思いながら見下ろした先には、もう誰もいなかった。星は見えるのかなと思い、空を見上げてみたが、もう何も見えなかった。その時私は、男の子の言っていたことが、何となくわかったような気がした。観覧車は風に揺られながら、何も見えない夜空の下で、いつまでもいつまでもゆっくりと、同じ場所を回り続けていた。

2018年10月9日公開 (初出 『文芸川越38号』2018年2月)

© 2018 斗田翡翠

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