彼女は二度

牧野楠葉

小説

9,973文字

The Shanghai Literary Review誌 掲載決定

喫煙所で煙草を吸ってたら、泣いてた。おれはなんもない青い空に向かって泣いてた。今更全部おれの自己満足じゃないかと思ったんだ。目の前には中学校がある。灰色の制服のズボンに包まれたいくつもの二本足が黄色と黒の入り混じったサッカーボールを蹴り飛ばして、ほがらかに、笑って、ワッと走り回ってた。その背景には、いくつもの、硬くて、空まで届きそうな高いビルがぐどんとそびえ立っていて、おれは漠然と東京で働いているいま、ということについて考えた。生徒たちが植えたカシの葉っぱが陽の光を浴びて、虹色に照っていた。溢れそうな鱗粉を吹きながら小柄なエメラルドブルーの蝶が二羽、そのまわりで飛び散っていた。

今日は土曜日で、少しデータを調整するだけで済んだから、彼女との待ち合わせ時間より少し早かったけどオフィスを出た。隣のデスクで同僚がいびきをかいているのを残して。

おれは待ち合わせに設定したイタリアンレストランの道路に面したテラス席で、ちびちびと舌の焼け千切れるような温度のコーヒーを啜った。昼を少し過ぎていたが、客足は不思議にも全く衰えることがない。ついさきほども、つばの大きな白い帽子を目深に被った、ベビーカーを押した若い母親が、赤い線の入った運動靴の踵を大きくすりながらおれの脇を通って店内に入って行ったところだった。店は活気に満ちていた。肌が湿るほどの熱気と笑顔でごったがえしていた。背の高いハンサムなウェイターは、両手に大きな皿を持って、席と席の間を大道芸人のようにくるくると回転しながら、まだ湯気を立てているぬらぬらとしたトマトと茄子のスパゲッティや、健康な人間の血を丸ごと抜いて振りかけたかのように真っ赤なマルゲリータ・ピザを運んだ。おれは次々に額に浮いてくる汗の粒を手の甲で拭いながら、アイスコーヒーにすればよかったと思った。暑かった。うだるような暑さだった。
「渡辺さん?」

波の間から零れ見える飛沫のような声が耳をかすめた。いつの間にか首を重く傾げて微睡んでいたおれは、目の前に現れた彼女に向かって急いではにかんだ笑みを作り、指の中で煙を立ち上らせていた煙草を灰皿に押しつけた。本当におれはびっくりしてしまった。あまりにも、最初に渡したデータ通り精巧に作られていたから、着ている服も全て、顔だってもちろん。本物なのかと思ったんだ。おれは木の椅子から立ち上がりなんだかよくわからないままとりあえず頭を下げた。
「あ……初めまして」

彼女はおれの慌てに気づいたかのように、自分も慌てたように涼し気な美しい水色のサンダルを少しよろめかせ、急いでおれより深く頭を下げた。髪から香ばしい煙草の匂いがした。それも、昔のままだった。

 

 

家に着くと彼女は灯りのついていないリビングのソファにぐったりよりかかって、それからすぐに瞼を閉じた。だからおれはしばらく固まったあと焦りに焦って小指の爪の中に埋め込まれた電源を確認するとただの本体の電池切れだった。おれは廊下でまるで惨めな虫みたいに背中を丸めて送られてきた段ボールを漁り必死で専用コードを見つけ出した。そして、彼女の真っ白な右足の裏に空いた差込口から充電してる間、台所の換気扇についてる小さなランプの下で説明書なるものを改めて読んだ。

 

 

渡辺盛昭様、今回は次世代型セックスロボット『transposition』に申し込みいただき、誠にありがとうございます。
『transposition』では、渡辺様と対象者の最初の出会いを設定できます。かつ対象者のメタデータをあらかじめ搭載した最先端AIを搭載しております。そのため、渡辺様より頂いた情報を元にした、完全に近い対象者との様々なコミュニケーションが可能です。さらに、対象者は出会い以降の渡辺様とのコミュニケーションにより、自発的に学習していくため、より一層密な関係性も構築することができます。

今回は、ご依頼頂いた対象者データを無事搭載できたことをお知らせする書類を送付させて頂いた次第です。(※詳しい搭載情報やチュートリアル動画は添付のSDカードに入っておりますのでご確認ください。)

 

【対象者】
川北 早稀 (女性・二十八才・死亡)

 

対象者の肌や毛は移植によるものですので、一ヶ月に一度のメンテナンスが必要になります。日時が決まり次第、こちらから引き取りに伺います。メンテナンスは一日程度で終了しますので、翌朝にまたお返しに参ります。

あと三週間後、ご指定の日時に渡辺様の元へ送り届けることができますので、今しばらくお待ちください。それでは渡辺様と対象者との素晴らしい人生を開発者一同心より願っております。

 

 

すぐセックスしようなんて思わなかった。彼女は躁鬱の薬を飲んで、おれはてんかんの薬を一緒に飲んで、寝る前にぼんやりする時間があったんだ。彼女は安定剤と睡眠薬で朦朧としながら自分の仕事や同僚のことについて話した。彼女は製薬会社でMRをしていて、しかも自分が飲んでる躁鬱の薬を作ってるとこだった。彼女は自分の病気がバレることを何より恐れてたからこんな皮肉なことはない。自分が飲んでるから医者にうまく営業できたのかもしれないけど、すぐに障害者手帳がおりるほどの病気でもバリバリ働いてるってこと「だけ」が、彼女の稼働力だったんだ。彼女とtinderで出会ったのは、後天的なてんかんがいきなり発病して、おれが何もかも失ったときだった。二人とも病気だっていうんですぐ意気投合した。会ったこともないのに毎晩電話してた。ウマがあうってやつは、こういうことだと思う。彼女は聡明で、おれの知らない映画や小説を知っていて、話題が尽きなかったんだ。伝わるかわからないけど、今まで付き合った女とは違う、なんて言えばいいんだろう? おれは彼女と話してると、「人間とちゃんとわかりあってる」って気がした、初めてあのイタリアンレストランで待ち合わせたとき、あまりにも……鼻筋の通ったおれ好みの顔だったもんで、おれはピザにかぶりつきながら急いでテーブルの下でtinderの星五つのレビューを書いた。

働けなくなったおれに家族は冷たくて、狂人を見るかのような視線を送ってくるもんだから、実家にも居られなくなって彼女の家に転がり込むような形で同棲が始まったけど、おれはその代わりといってはなんだが彼女のために毎日手料理と掃除をした。とてもじゃないけど仕事でいっぱいいっぱいで家事まで気を回せない彼女は毎晩ばかみたいに喜んで、嬉しそうに酒をかっくらってた、本当なら薬飲んでるから酒なんか飲んじゃいけないのにな、でも、ありがとうわっくん、こんな美味しいご飯が作れんなら、すぐにでも新しい仕事見つかるよ。全然大丈夫だよ。今度の薬、合うといいね。眩しくて、本当に眩しくて、彼女が寝ちまったあと、おれはその柔らかな髪を撫でて頰にキスをした。そんな映画みたいなこと、おれだってこの人生のうちでするとは思ってなかったよ、だけどその動作が自然に出たんだ。彼女の頬から唇を離して、そのときおれは神様を信じた。こんな魔法みたいなことってあるんだな。

おれは充電中の彼女の隣に座って、その細い髪を指に通した、まんまだ。少し冷たかったけど、その頬は透けるようにつるつるとしていて、おれの涙を浸透させていった。

マンションから見える東京の夜景がぶれにぶれているのがわかった。

 

 

起きたらあたしはふっかふかのベッドに寝ていた。それで、いい匂いのするピンクのモコモコしたパジャマに着替えさせられていて、一瞬パンクした。しかも隣で寝てる男に手繋がれてるし、あたし昨日飲み過ぎてなんか変なことになっちゃったんだろうか? 大学生のときだっけ、朝起きたら知らないフランス人が寝ていたこともあるし、そういう意味でも自分のイカれ具合をよくわかってるから諸々自制してるはずなんだけど。でも昨日昼に会って、家に行った人だよなこの人。渡辺さん? 確か。でもなんであたしこの人の家に行ったのか全く意味がわかんない。
「あの、」あたしは渡辺さんの耳元に向かってそっと話しかけた。

渡辺さんはぼんやり目を開け、首をこっちに傾けてあたしの顔の隅々を愛おしそうに見た。
「起きた」

なぜか渡辺さんの瞼は赤くなるまで腫れあがっていて、目の下に白い涙の膜のようなものがあった。え。何かあった。あたしだ。きっと、なんかしたんだ。多分あたしが原因だ。だから……あたしは押し付けるような言葉遣いじゃなくて、ゆっくりと喋った。でも喋っていくうちに、人を睨みつけてるように見える、こめかみに皺が寄っていくいつもの癖が出てしまったのが自分でもわかった。
「申し訳ないんですけど……これって、どういう? つまり、ワンナイト的な? 昨日の昼会ったことは覚えてるんですけど、酒飲みすぎてなんかそういうことになった感じですかね」

あたしがそういうと渡辺さんは目尻をゆるく寄せ、ひどく嬉しそうになって、
「喋り方が、」と言い、それからいきなり笑い転げた。そして、
「すげーな……」と一人で感心してから、あ、ごめん、と言った。その瞬間あたしはなんだかひどく居心地が悪くなった。
「とりあえず。あの、一旦。家来たとこまではなんか覚えてるんですけど。今日何曜日ですか? あたし仕事あるんで」
「あ、今日は日曜日で、大丈夫。そこは」
「日曜日……。あ、じゃあ仕事は大丈夫なのか。でも家帰らないと……?」

あたしはがばっと飛び起きた、自分の中に大切に大切に溜め込んできた「安全」が一気に損なわれた気がした、あれ、恐怖ってこれのこと? なにもわからない、でも渡辺さんという男は多分泣いていた、そしてあたしを勝手に愛しているふうに見える、あたしは?
「落ちついて、早稀、あの、大丈夫だから」渡辺さんも起き上がって、あたしの頭を丁寧に撫でた。折れそうに細い腕で。あたしは直感的に思った、この人、何かの病気なのかもしれない。
「早稀……そうですよね。あ、名前は……オッケーです、なんか」

この人に頭を撫でられるのが嫌じゃない理由は、病的な面食いで限りなく厳しいあたしの顔面審査にこの人がパスしているからだけではなかった。目の前の渡辺さんがなぜかあたしには「哀れ」に見えたのだった。死んでいく犬や猫が尊いのは自分の辛さを自らぎゃあぎゃあと訴えないからで、理由のわからない目の腫れと涙の白い膜に目を犯された渡辺さんはそれらと同類の生き物に見えた。
「えっと……この今の感じを説明すると、早稀、きみはおれの恋人で、でも、交通事故にあって、ほとんどの記憶をなくした。きみの両親はすでに他界しているのでおれが面倒を見ている?」

渡辺さんは天井を凝視しながらまるで暗記していた文言を呼び出すように言った。
「なにそれ、」あたしは蔑んだ。
「そんな棒読みで言われても。どうせ嘘つくなら、もっとちゃんと……」
「嘘じゃない」渡辺さんはあたしの肩を掴んで、必死に言った。
「嘘じゃないんだ」それはもう、必死に。
「……信じられなくてもいいからおれのためにここにいてくれ」

おれのために、なんて、相手にとって自分がどれほどの価値があると思って言ってるんだろうか? だけどその渡辺さんの痛ましい声は、あたしのこの不安をなぜか癒した。あたしは渡辺さんのそのどうしようもない哀れさが嫌いではなかったからだ。それに実際、あたしが考えたところで何もかもが抜け落ちていて、全てわからないのは事実だったし、意味不明な苛烈さで一方的に必要とされることだって悪い気はしない。
「おれのこと、わっくん、って呼んでほしい」小声だった。

渡辺さんは俯いていた。一つだけならまだしも、馴れ馴れしい要求の連発に、さすがにあたしは黙った。白々しい空気が部屋の中を灰色に曇らせた。そのとき気づいたのだ、渡辺さんの口から匂ってくる薬品のような匂いに。あたしはそれを知っているような気がした。仕事で病院に行った時、待合室の隣に座っていた患者からも同じ匂いがした。あたしはこの人もうすぐ死ぬな、って思った。実際どうなったかはわからないけど、でもなんでこんなことを思い出せるのに自分の家がわからないんだ?

情報が多すぎて考えるのが嫌になった。作者だけがあらかじめ犯人を知っているミステリーなんて糞食らえだ。今の状況はそれに似ていた。だからあたしにはその柔らかなベッドで再び眠る、という選択肢しか与えられていないように思えた。
「……わっくん、あたし混乱してるからもっかい寝るね」
「うん、うん」わっくんはひどく申し訳なさそうに頷いた。

 

 

映画に行くことにした。おれは早稀を着替えさせるためにゆっくりとパジャマのチャックを下ろした、窓から差し込む太陽光の加減で金剛石を散りばめたかのようにうるさく光る首筋が露わになり、そこに縦に三つ並んだ星座のようなホクロ——目を離すことができなくなるあどけなさと淫乱の交錯、芸術的ともいえるほどにちらちらと色味を変える薔薇色の日差しのヴェールを通すと、小宇宙の切れ端みたいにそれは鈍色に輝いて見えた。そして何度も何度も懲りずに熱い快楽を伴う舌の先でなぞったその鎖骨、それに冷たい指で触れた瞬間、てんかん発作のときおれの脳をかすめる死の幻覚、夢見る狂人の欠片、内臓を描き荒らす一匹の巨大な臭くて黒い毒虫……それらが彼女の中へずるりと入って行くような気がした。おれは自分の心が軽くなっていくのを実感した、……指が冷たすぎたのか、早稀は小学生のソプラノが引きつったような、高く掠れた声を出した。その瞬間おれは欲情した。

 

 

上を向いた早稀の睫毛に雨の粒が乗った。
「あ」

その横顔があまりにも綺麗だったからおれはジーパンのポケットからすぐにiPhoneを取り出しシャッターを切った。
「え」早稀は訝しげにおれを見た。

おれははにかんだ。たくさん服や靴を買っておいてよかった。膝上までの黒いシンプルなワンピースに、羊革の、青と豹柄の配色のモードなヒールを履いた早稀は最高にイカしてた。また早稀とこうやって一緒に出かけることができるんだ、早稀もばかじゃない、ゆっくり時間をかければこの状況を受け入れるはずだ。家からすぐの新宿の映画館まで歩きながらおれは画面の中に収められた早稀の横顔をずっと見ていた。
「危ない!」キィ、とタイヤの軋む音がしておれは早稀に強い力で道路の脇に引っ張られていた。
「あ、ごめん」おれはいかついサングラスをかけたつるっぱげの強面の運転手に頭をへこへこ下げてiPhoneをポケットの中に滑り込ますはずが、それを早稀に取られてしまった。早稀は電柱にもたれかかってそれをまじまじと眺めていた。それから早稀はiPhoneを返し、おれの手を取った。

 

 

おれが受付の若いやつに二枚チケットを渡すと、
「そちらの方も……?」とそいつは言った。おれは意味がわからなかった。
「そうだけど」

そいつはまた早稀をちらと見て、チケットをもいだ。なんなんだ?

凡庸な恋愛映画だった。映画が終わってからトイレで、おれはもっと早稀のTwitterをよく解読して映画の趣味について調べておくべきだったと思った。いかにも凡人が選んだ退屈な映画という感じで、嫌われてしまうかもしれないと思った。

帰り道、早稀が言った。
「わっくんはああいうのが好きなんだね」
「いや、そういうわけじゃ……」
「なんか疲れちゃった。早く帰ろう」早稀の目の中のガラス玉が濁っているように思えた。
「うん、うん、そうしよう」おれは自分の準備不足を憎んだ。

 

 

おれがシャワーを浴びてリビングに戻ると、早稀はソファにすっぱだかで寝そべりおれを待ち受けていた。それはさっき観た映画のワンシーンの反復だった。でもそのとき早稀を見て即座に思ったのは、「こんなこともできるんだ」というロボットへの衝撃だった。だけど早稀が死んでから幾度も夢見た光景が今ここにあるというありえなさがおれをつき動かし、そのままベッドに寝転がって、早稀を呼んだ。
「……これで、したくないって言ったらどうする?」

早稀はおれの耳たぶをゆるく噛んで笑いながら言った。戸惑わなかったっていったら嘘だ、でも、その瞬間、もう全てがどうでもよくなった、おれは早稀を食べるように抱いた。

 

 

「わっくん、今日、全然楽しくなかったよね?」

微睡みながら縁日で売っている綿菓子のような黄色い雲に乗っている変な夢を見ていたおれは飛び起きた。
「早稀、なにしてんだ」

早稀はまたパジャマに着替えて、おれのパソコンに向かって青白い光を全身に受けながら、画面をスクロールしていた。SDカードを埋め込んでいるサインであるオレンジ色の光が小さく点滅していた。
「だからか、今日あたしがジロジロ見られてたの。あたしはわっくんの撮った写真見てもなんとも思わなかったけど……ようやく納得したよ。『transposition』か、不気味の谷現象ってやつだ、あまりにも精巧すぎる人形は人に嫌悪感を抱かせる」
「なに言って」
「この川北早稀さん? も可哀想だね、病気だったんだよね? 生き辛かったから自殺したのに、またわっくんは二重苦を背負わせちゃうんだね。せっかく自殺できたのに、なんでわっくんこんなことしたの? って川北早稀さんは言うと思うんだけど。死んだ人は死んだ人なんだよ、受け入れなよ、病的だよ、わっくん。こんな中世の降霊術みたいなの……現代技術でなんとかしようって発想が終わってるよ、実際あたしは今日『本当』に嫌だった、イロモノみたく見られてずっと苛ついてた、自分に都合いい情報しかあたしに入れてないくせに、なにが『transposition』なの? 出来上がってくるもんは下位互換でしかないよね? その下位互換の気持ち、ちょっとでも、これに申し込む前に考えたことある?」
「よくもそんなこと、おまえ」
「おまえいうな!」早稀は腕をデスクに叩きつけた。おれは思わず目を背けた。
「……おまえが耳の下をスパッと切って死んだのは病気のせいじゃない。おれと別れたからだ。お前の稼働力はあれだけ頑張ってた『仕事』ひとつだけじゃなかったんだ、おれのこと愛してたんだよ、おまえ。ちゃんと認めろよ。おれと別れて、二つで支えてたものが一つになって、がくっとゆらいだおまえは衝動的に死んだんだ。それぐらいおれを愛してたってことだ。もちろんおれもまだ愛してた。だからちゃんと仕事を見つけて、おまえとまた」
「……そう信じたいだけでしょ? いい加減にしてよ、その人とあたしは関係ない!」

そのとき、おれの背筋がぐっと反り返った。朦朧としながらおれは床に転げ落ちた。

 

 

あたしは愕然とした。目の前で泡を吹きながら飛び跳ねるように痙攣するわっくんをどうしていいかわからなくて、とりあえずわっくんの方に擦り寄ろうとした、でも華奢なその腕があたしを静止した。ほっといてくれ……十五分もすれば終わるから。ごゔぉごゔぉとちぎれそうな声でわっくんはそう言った。バッタンバッタンバッタン、バッタンバッタンバッタンと充血した目を天井に向けてのたうち回るわっくんを見て——あたしは本当に本当に酷いことを言ってしまったんだ、わっくんにとっていかにあたしが下位互換であろうと……『川北早稀』が全ての稼働力だったんだとわかって、もう、無償に悲しくなって、どうしようもなくなって、……

たくさん空気が入った風船に穴が開けられたような、フヒュゥ、と言う音がしてわっくんの発作が終わった。あたしは時計を見た。十二分経っていた。浮くように体が勝手に動いた。わっくんは床に転がって肺が潰れそうにぜえぜえと息を取り込んでいた、一度自分からその身体に触ったら、もう止まらなかった。あたしはわっくんに覆い被さって、ただただ泣き喚いた。わっくんが手汗まみれの手のひらであたしの頭を撫でた、驚かせてごめん。身体の奥底、なんてあたしにはあるわけがないのに——そこから無限の湧き水が溢れるように、あたしはもっと、もっと、それ以上に泣き喚いた。

 

 

おれは会社に電話をして今日は休むと言った。昨日のてんかん発作から頭の思考回路がまるで働かなくなって鬱が始まったのがわかった。本当なら病院に行かなきゃなのに、体がまるで動かなくなった。早稀は申し訳なさそうにソファからおれを見つめるだけだった。でもそういうふうに「哀れんでる」早稀を見ていたくなくて、おれは壁の方に寝返りを打った。そう、早稀はいつもおれを「哀れんでた」。あたしは頑張って働いてる、でもわっくんにはそれができない。可哀想。っていうのが漏れてたよ、おまえは感情を隠せるほど器用な女じゃなかったからな。おれは言った。
「……やっぱりもう一度、みたいな夢を見たのが間違いだったのかもな、おれたちが別れた原因て、おまえがこのままいけば生活保護なんていうからだ、おれだってバリバリ働きたかったのにな、人を踏みにじるようなことよくいうよな」
「……」

早稀の呼吸に涙が混じったのがわかった。
「……昨日から考えたんだけど、こんな不気味の谷でよかったら、わっくんを支えるよ、『この』あたしは働けないんだから。わっくんがその人のことどれだけ大事におもってるかわかったから。でも、でも、あたしもその人みたいなこと言うと思うよ、ちゃんと病院行かずにこのまま会社いかなくなっちゃったら、今度こそ生活保護なっちゃうよ、自分で働きたいんでしょ? わっくん、せっかく頑張れたのに! その人のために、いや、あたしのために、わっくん、頑張ったんだよね?」

おれは目を覆った。もうやめてくれ。もうやめてくれ。もう……。

脳裏に、次の日の朝、早稀のパーツをバラバラに解体してゴミ袋に詰めて捨てるビジョンが生まれてくるのをおれは抑えることができなかった。『transposition』を頼まなければ、おれは早稀がいない、あるいは記憶の中の早稀だけがいる、という完成形のまま留まっていれたのに。やっぱりこんなのは自己満足でしかなかった。おれはまともじゃないんだよ、早稀。

おれは『transposition』に劣化が早いから一ヶ月より早いがメンテナンスに来てくれ、仕事で引き取りに立ち会えないからポストの合鍵を使って早稀に部屋に入るよう言ってくれとメールを打った。馬鹿高い金を払っているからか返信は即座に帰ってきた。
「……今日の午後、おまえのメンテに来てもらう。明日、おれは仕事に行くよ、帰って来たら、おれも、おまえも、何もかも、元通りだ」
「……わかった」
「だから今日メンテに行くまで、一緒に寝てくれる? 早稀」

 

 

次の日の午後、あたしはポストの合鍵で部屋に入った。靴がなくなっているのをみて、仕事に行ったんだと安心したけど、ベランダの物干し竿で揺れてたわっくんの服が全部なくなってた。あたしはクローゼットも確認したけどなんもなくなってた。洗面台の生活用品も見事になくなってた。デスクの上のパソコンもなくなってた。その隣に置いてあるクリアケースの中の大量の薬も。

あたしは立ち尽くした。

ソファの前にあるガラステーブルに、唯一iPhoneだけが強烈な違和感と共に残されているのを見て、死にに行ったんだ、って直感的に思った。これは急な、長い出張とか、何日かぶらっとしてくるとか、そういう感じじゃない、完全な意図だと思った。

あたしはあらゆる負の感情を超えてしまった状態でベッドに寝そべり、わっくんの匂いをゆっくり嗅いだ。それから、数日後になんとなくテレビをつけて、わっくんのニュースを見たくなかったから、テレビの線を抜いた。もしこのまま本当にわっくんが帰ってこなかったら……多分、持ってる金のほとんどを使ってあたしを作ってくれたわっくんが自殺したのがわかったら……『transposition』が『transposition』を依頼することができるんだろうか、あたしは漠然とそんな馬鹿げたことを考えた。セックスロボットなんだからセックスしたらお金が貰えるかもしんない、そのお金で……でも、わっくんはあたしと一緒にいるのが耐えきれなくて出ていったのに? iPhoneの待ち受けが、映画に行くときにわっくんが撮ったあたしの写真だったから。ただそれだけの理由で。あたしはわっくんの『transposition』を作りたいと思った、きっとわっくんも、同じような単純で、純粋な気持ちであたしを作って、失敗したに違いないのに。

2018年9月17日公開

© 2018 牧野楠葉

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