長崎 朝

小説

4,355文字

変形の習作。靴べらの貸し出しはございません。

暗い通路の向こうから、おまえの足音が聞こえてきて、おれは身震いをする。

踵が笑っている。

ゴム手袋をはめた手で、背骨を愛撫されたみたいに、寒気が鈍い痛みになってのぼってくる。

 

おまえが近づいたぶんだけ、部屋は、細長く延びていく。

おまえは部屋の前を通り過ぎ、反対側に遠ざかる。

おまえが遠ざかったぶんだけ、部屋は、ぺちゃんこに潰れていく。

おれはじっと待っているのだ。

なのにおまえはちっとも立ち止まりやしない。

おまえはただの足音だ。

だけど世界を踏み潰せるくらいの足音だ。

もっとも、おれの知ってる世界なんて、壁に囲まれたこの部屋より広くはないんだが。その外にもまだ知らない世界があるってことを知ってるってことが重要じゃないか。

 

おれは靴を履いたことがない。生まれてこのかた、ずっと裸足でやってきたんだ。おれが生まれたとき、もう暗くて覚えていやしないが、どこかの冷たいコンクリートの床に、しょんべんを垂れるみたいにして産み落とされたってわけさ。それ以来、今の今まで、靴なんてものにこだわったことはなかった。そんなものが存在することすら知らなかったんだから自分でも笑えてくるよ、まったく、おれってやつはとんだ世間知らずなんだからな。だけどそれはそれで、居心地の悪くない身分ってわけだ。

 

いつかあいつに向かって、つまりおまえのことだけど、聞いてやったっけ、おまえのその笑い方はいったいなんなんだってね。まるで踵が笑っているみたいじゃないか。そしたらおまえはこう言ったんだ、これかい、これは靴っていうんだ、靴を履いてるから、踵が笑ってるみたいに聞こえんのさ、あんたは履いたことがないんだろう、あんたみたいな貧乏には似合わんものな。

そう、それは成功者の足音みたいなしゃべり方だった、人を馬鹿にしたような、嘲っているような、とにかく不愉快な声をしていたものだ、それでおれはこう聞いたんだ、そいつは金持ちのものなのかって。「ああ、まあだいたいそんなところだ、金持ちのものさ」とおまえは言ったよ。

そしておまえはまた歩きはじめた。

おまえが遠ざかり、部屋はぺちゃんこにしぼんだ。またおまえが近づいてきて、部屋はだらんと延長していく……。おれはそんなに歩くのが好きなやつは知らない。

 

それからおれは毎晩靴の夢を見た。見たといってもちゃんと見えるわけじゃないのは、もちろん実物を見たことがないからだ。

第一にそいつは、靴っていうやつは嘲笑う。何度も歯をかちかち鳴らすみたいに、敵意をむき出しにして。そいつの黄色くてところどころ欠けた歯並びをおれは思い浮かべる。靴は偉い職人が、動物の皮を剥いだのをなめして縫い合わせて作ったんだとおまえは言っていたな。

おれは靴の夢を見てうなされて目が覚める。毛に覆われて、血で汚れたおまえだけの履き物。おまえは地表を踏む前に、生命の痕跡を踏んづけてるってことだ、おれはごめんだな、いくら金持ちのものだとしたって、生理的に無理なことだってあるものさ、まあ、金持ちの慣習なんてたいがい目もそむけたくなるような下品なものだけど。もしおれに目があるってのならな。いや、あることにはあるんだ、もちろん見えてもいる、でもおまえが見るように見ているわけではない、おれの目は時間を見ているのさ、空間ではなくね、おまえはおれの描いた靴の絵を見てまた笑ったものだ、「なんだいそりゃ、その化け物は」、立ち止まりもせず、おまえの足音は、足音のおまえは踵を擦って鳴らして過ぎていってしまった、歯ぎしりでもしているみたいに床をこすって。

 

暗い通路のどこかから、食べ物の匂いがする。獣のうめき声のような音が聞こえる。もうずっと昔からそうだったのかもしれないが。きっとそうに決まってる、この暗いトンネルにはどこかに出口があって、その先には明かりのついた食堂と、獣たちの収容所があるのだ、そうだろう?

 

ある日おまえの足音は途絶えた。

部屋はもとの部屋の大きさのまま、膨らみもせず、縮みもせず、つまらないただの部屋で、なんのためか知らないが壁に囲われている、壁に頬ずりしろとでも言わんばかりに、だがおれは壁を叩く、昔父ちゃんが母ちゃんのケツを叩いていたみたいに、それはいつのことだったか思い出せないし、おれに父ちゃんだとか母ちゃんだとかが存在したのかも思い出せない、ただのおじさんとおばさんのことだったかもしれない、なんでもいい、とにかく今はこの、ここに置かれたままになっているこの物体について話さねばならないだろう、誰が置いていったのか、もちろんあいつ、いやおまえに決まっている。

ははん、これが靴ってやつだな、とおれは思わずそいつを手にとってみたが、どこにも歯なんか生えちゃいやしない、妙に平べったくってつるつるしていて獣じみた臭気が漂うわけでもなく、それはおれの想像してたのと違ったよ、多少はがっかりもしたさ、でもなんだか変に安心もしたね、そのときばっかりは。

そうしていると、おまえではないべつの誰かの足音が、暗い通路の向こうから近づいてきて、おれは身震いをした。猫じゃらしで骨盤をくすぐられているような気がしたよ。

こんどのやつも、やっぱり踵が笑っているみたいだ、だけどおまえのじゃない、おまえではない笑い方、おまえではない時間経過、気がつけば通路の方が赤茶けて光っている、ピアノの鍵穴みたいな顔のおまえじゃないおまえはおれを連れていくと言った。

どこへだ?

あんた、働いたことはあるかい?

おれには働くってことが何なのか、はっきりとわかっていたわけじゃないが、ようするに貧乏人はもっと貧乏に、金持ちはもっと金持ちになるって仕組みのことだろう、おれは働いたことなんかありゃしないし、興味もない、だけどおまえじゃないおまえは言ったのさ。

働けば本物の靴を買えるぞ、ってね、それでおれはこの歩けばペッカペッカと音のする偽物の靴を履いておまえじゃないおまえについてった。ところでほんとうにこいつはおまえじゃないんだろうか、実はおまえだってこともあるが、まあどっちでもおんなじことだ。やがてニンジンみたいな色の夕景に、といってもそこにあるのはやっぱり壁ばかりだったんだけど、そこは壁の内側なのに夕暮れで滲んでいて、そう、その明かりでおまえの足もとが照らされると、歯をかちかち鳴らした黒い獣がおまえの足首に噛みついているところだったんだ、おれはそいつを見ちまった。

靴はおまえを足から食べはじめ、おまえの背はどんどん縮んでいった、靴は笑っていた、なぜだかわからんがおまえも笑っていた。金持ちというのは理解しがたい種族だよ、まったくね、おまえじゃないおまえあるいはおまえらは、「われわれの仕事は、金持ちでありつづけることだ、単純なことさ、そうすればずっと金持ちでいられるんだから」なんて言いやがる。おまえも、靴に食べられながらそんなことを言っていたな、おれにはただの馬鹿にしか見えなかった、いつでも笑っていられる連中がいるなんてね、靴はおまえの足を食べ尽くし、ケツを丸飲みにし、はらわたを吸い散らかすとおまえの馬鹿な脳味噌だけはさすがにためらったらしい、だからおまえは頭に靴を履いた変な格好になっておれを連れていく、「さあ、こっちだ、ほらさっさと歩くんだ」おまえは笑うのをやめて、とても歩きにくそうに歩いていった。

おれは靴なんか履きたいと思わない、靴に食べられてそんなふうに恥ずかしいような格好にはなりたくないのだ、とおれは思った。

そういえば、世の中には、恥ずかしいような格好にさせられるのがたまらなく好きなタイプの人間もいるって、たしかばあちゃんが、いや、おれのにいちゃんが、いつか聞かせてくれたこともあったっけ。それがどんな格好のことか、今ようやくわかったよ。

おれは自分の居場所とは違う、べつの部屋に連れていかれると、そこには足の踏み場もないほどに靴が散乱していたってわけだ、目を疑う光景だった、靴なんてものがこんなにいっぺんにあるところなんか想像もつかなかった。なんでも、おまえたちはどっかから使い古された靴をかき集めてきて、ここできれいにしてまた売りさばいてるって話だった、ここで働くことになったわけだおれは。

おまえはおれを見上げながら、さんざんこき使ったもんだ。おれの仕事、おれは靴をこすって垢を落とし、靴の歯を磨いた。死んだ靴たちに息を吹き返させるのがおれの仕事だった。靴たちはおれにすぐになついた、それでわれ先にと押しのけあったもんさ、だからおれは言ってやった。いいかい、順番だ、列を作って並ぶんだ、文句言いっこなし、おとなしく待ってりゃじきにきれいにしてやる、その死んだような皮膚をぴんぴんに蘇らせてやるってね。

おれの働きっぷりはみとめられ、ある日おまえに呼び出された。昇給だ。身なりを整えて靴を履くんだ。監督があんたを食事にお呼びなんだよ。

おれはついに、生まれてはじめて靴を自分で履くことになった。もちろん、乗り気なんかじゃない、それどころかはじめ断ったんだ。だが、おまえたちはおれの足に合うのはこれだと言って黒い靴を持ってきた。

なあ、おれはおまえみたいな格好になりたくないんだ、足を食われたりケツにかぶりつかれたりしたくないんだ、でもおまえは反論した、こっちから見ればあんたのほうがどえらい格好してるんだぜ、余剰ってもんは、ある種、べつの何かの可能性を奪ってるって可能性もあるんだよきみ、脳味噌と靴になっちまえば、案外こっちのが効率的で居心地もいいんだ、胴体なんて無駄なもの、捨てちまったほうが、この際賢明なんじゃないかな、機能がなければ、はじめっから欲望も何も起こらないのだ。靴があんたを運んでってくれる。金なんか稼がなくったっていいけれど、そいつはひとつの自律的な運動だからね、勝手に金は金の実をつくって、はじけさせるのさ。

 

靴が、おれの足を変形させ、おれは崩れはじめた。どっちの足が右足で、どっちの足が左足だったのか、思い出せなくなってしまった。着飾ったおれは、それでも少しのあいだ、まだおれだった。やがて、ポケットの小銭もろともおれは靴に飲み込まれ、おれ自身が靴になった。頭なんて、あってもしょうがないから捨ててしまった。

こうしてできあがったおれは誰でもないのだが、誰でもないなりに誰でもないやつを欺き、裏切り、愛しながら生きているつもりだ。

おまえの、いや、おれの靴音が聞こえているあいだはまだ、おれも生きているのだから。道ばたでつま先に引っ掛けた、ちょろっとした野糞みたいにな。

2018年9月22日公開

© 2018 長崎 朝

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