くたびれもうけ

牧野楠葉

小説

4,160文字

第一回阿波しらさぎ文学賞、最終候補作。(20点/422点)

ダリの描く肉体的な雲が点在していた。空が近い。ミニは目を細めた。太陽は乾いた初夏の猛威をふるい、木造の家やそびえたつ電柱をじりじりと無言で圧迫し、震えあがらせていた、道路のコンクリートは熱されて黒光りし高徳線板東駅の目の前に止まっている淡い水色の軽や、白い軽トラックの輪郭線とぬら、と混じり合っているほどだった。時々、忘れていたかのように風が生温い手でミニの肌を撫で、個人商店の青いビニールシートが頼りなくぱた、と揺れた。ミニは歩き出した。

「おまはん、どっから、な?  お遍路?」

右脇から人の好さそうな声が聞こえた。

「……東京から」ミニは涼し気な薄緑色のサンダルを履いた足を止めて言った。その初老の男は野生を捨てた柔らかな熊のような顔をしていた。

「道わかる?」

「……」

新宿ルミネで買った、刺繍の入っただぼついたジージャンの胸ポケットには、手術直後のずたぼろなミニに産婦人科の受付のおばさんが押し付けてきた「るるぶ・四国お遍路特集」のコピーがぐしゃしゃに丸まって入っていた。だがそこに書かれている地図は限りなく大雑把で元から方向音痴なミニには使いこなせそうになく、Googlemapの入ったスマホの充電もあまりなかった。歩き出したものの、という状態だったミニは、手招きに従い、男の家に入った。

 

まずミニの目についたのは、彼女にあてがわれた小さな椅子の脇に置いてある、サイズだけ巨大な、素人目に見ても下手くそな油絵だった。

「お接待ありがとう言うて送ってきたんや、わしは絵についてはようわからんけどな」男は目を輝かせながら、数年前にここへやってきたという、その画家志望の女のことを心の底から嬉しそうに話した。まるでミニの目の前にその女を完璧に再現させてみせるかのような熱量で。……その他にもその家には、はちきれんばかりにお遍路に訪れた人間の痕跡が残されてあった。壁一面にずらりと貼られた写真……金剛杖を持ってガッツポーズを取る若い男、また梵字の入った竹笠を被り満面の笑みを浮かべる健康に日焼けした女……ようやくミニは自分が、実に無自覚なまま、尻の出そうな白いミニスカートと臍の出そうなタンクトップと長時間歩く気のないサンダルという浮いた出で立ちで、まるで殴り込みのようにこの場所へ訪れてしまったことを知った。自分はお遍路の作法をきっちり守った彼らと正反対だとミニは心の中で失笑した。だから、「おまはん、ほんな靴でお遍路行くんえ?」という男の正しい問いをはぐらかすことしかできなかった。さらに男はお遍路の心得として珈琲を飲みながら大きな身振り手振りを用いて仏教において私たちは何のために生まれたのか死んだらどこへ行くのか、真の幸福とは何かについて語りまくしたてた、その怒涛の勢いを目の当たりにしてミニはなんと自分がつまらない矮小な人間であるかを思い知った。極めつけは飲みかけのヤクルトや皮の剥かれた蜜柑と共に机に置かれていた分厚く黄ばんだ一冊のノートだった。そこにはお遍路を行う人間たちが書き残した純粋な欲望、例えば「医学部合格」や「結婚成就」などの具体的な項目が実に細かい文字でびっしりと書かれておりミニはどうしていいのかわからなくなった。男はボールペンを渡し、そこに「何か」を書くようミニにすすめた。瞬間、頭が空になった。ここに他の人間が書いているような願いは自分にはない。でも……本当のことを書こうと思った。この場所で、そしてこの純真な男の前で、嘘をつく必要がないと思ったからだった、「堕ろした子どもが私を憎んでいるか知りたい。」……そんなこと知れるわけがない。極めてナンセンスな、それでも自分にとっては切迫した一行を書き終え、ミニは思わず目を閉じた。オギャー、ギャー、オギャァァ! ……無機質な、東京のアパートではない、独特な埃の匂いに満ちた徳島のこの部屋の中でも、またあの苛烈な幻聴が脳髄を打ちつけるのがわかった。それがようやく薄れた、と気づいたのは、この家のテレビから流れる朝の情報番組の呑気な食レポが耳にすんなりと入ってきたからだった。……

「ごっつい顔色悪いでぇ!  ほんにどないしたん?」

ミニは過剰に心配されながらも、男に一番目の寺に連れていってもらった。そしてお遍路に行くならせめてこれだけは、と懇願されたので寺の脇にある小さな売り場でミニは仏に出すための納札と橙色の輪袈裟を買った。そこに立てかけてある姿鏡には、虚無を覆い隠すように化粧をばっちり決めた都会の若い女が無理やりにお遍路に合わせようとした失敗作のようなものが鮮烈に写っていた。

 

明日からまた会社が始まる、だから今夜の夜行バスでまた帰らなければならない、だから冷静に考えて辿り着けるのは六番目の安楽寺までだ。

ミニは門の前で男と別れ、二番目の寺に向かって歩き出した。空は切実なまでにすこんと澄み渡っていた。ぼろぼろと木に実っている熟す前のすだちの香りや、うっと鼻腔を締め付ける牛糞の匂いに誘われて、ミニのささくれた心は少しずつ剥き出しになっていった。お遍路の道の、物理的な何もなさは未だ何も描かれていないキャンバスのようにミニの孤独を迎え入れたのだった。……オギャァ、ギャァ、ギャア! ギャアァア!! ……ミニは慌てて頭を振りたくる、早々に足の痛みを感じながらも……自分の勝手な都合で無理やり生を摘んだ私には子どもを供養する権利などあるわけがない、中絶がいかに「世間で」認められていようともこれは「私の中で」は殺人にすぎない、ミニはそう思った。だからひたすらに前のめりになって歩いた。歩いて身を刻むしかできない。ガッガッ・ガッガッ。ミニは足を道に叩きつけるように歩いた。ガッガッ・ガッガッ。ガッガッ・ガッガッ。手の甲に汗の粒が浮き上がっていた。

ミニはしばらくそれを見た後、ジージャンを脱ぎぺらぺらのトートバックの中にそれを押し込んだ。

 

この輪袈裟をかけているからなのか、寺に行くと地元の人間たちは必ずミニに笑顔で話しかけ、「東京から、お遍路偉いねえ」と褒めた。ミニは愛想笑いをしながらそれを受け流した。一晩の遊びで出来た子どもを堕ろした女だと知ったら彼らは私を悪魔だと思うだろう。三番目の金泉寺の境内でミニは一組の男女と出会った。腕に刺青の入った、スキンヘッドの細身の男は首から華奢な金のチェーンをぶらさげていた、その佇まいには新宿を彷徨く、雰囲気だけの汚いやくざ者にはない荘厳な上品さがあった。巻き毛の、でっぷりとした肉感的な体型の女は男を支えるかのようにその少し後ろでそっと寄り添い、「今のミニには誰とも結ぶことができないと思われる特権的な絆」を体現しながら彼女を押し潰すのだった。

「もし道に迷ったら。僕なんかはここが昔っからの遊び場なんで、道が頭ん中に入っとるんですわ」男は薄い眼鏡のレンズの奥から、新奇な眼差しと共に一枚の名刺をミニに手渡した。中古車販売業。取締役。おそらく地元でそれなりに成功し伴侶を手に入れた男なのだろう。

「おい」男は女に言った。

「はい」二人はミニに小さく会釈し、その場を立ち去った。その後ろ姿は優雅にすら思われた。……「今日は何て呼べばいい?」「ミニって呼んで」「何でミニ?」「身長が百五十二センチしかないしミニスカートが好きだから」「じゃあ、ミニ。ミニはなんでハプバーなんかに来たの? そんなに可愛いのに」「理由なんかないよ寂しさを拗らせただけ」「コンドームつけなくていい?」「いいよ……」もう相手の名前も思い出せない、あの見事に隆起した胸板と首筋から漂う、甘ったるいココナッツの人工的な香水しか……オギャアアア! ギャアアア!! オギャアアアアア!

 

金泉寺から四番目の大日寺の間で、空気が変わったとミニは思った。雑草が生い茂る薄暗い森に続く峠を上がっていこうとすると、ミニは湿度の高いぬめった土を踏みしめることになった。溜め込まれた生命がぷつぷつと発酵していく豊かな匂いがした、そこらには哀しく折れた枝が散らばり、ナイフのように鋭利な石があちこちで尖っている。すべての要素が人間の侵入をいちいち拒むかのようだった。

あっ

ミニは登りきる手前で些細な小石につまずき盛大に転倒した。地面に横たわる大木の硬い根に額をぶつけ口の中に泥が入り込み、剥き出された生足から鮮血が噴き出していた。……強烈な鈍痛の余韻が体を支配し、動く気力すらもう出なかった。ミニは横たわったまま、彼女のすぐ脇にいた巨大な、肉厚の墨色の蚯蚓が凄まじい速度で自由に峠を這い登って行くのをただただ凝視していた。しんとした薄暗い森の中に響く、ずりずりずり……ずりずりずり……という音が深く耳に染み入った。動いている。全ては動いている、ミニは思った。動いている。動いている、今、幻聴は聞こえない。全ては、動いている。

数分間、そのまま、じっとしていた。ようやくミニは立ち上がり、サンダルから足を引っこ抜き裸足になった。土を踏みしめ、震えながら色々なものに怯えながらそれでも歩いた。そして峠を降り少し歩いたところにある川で、白鷺がぶわっ、と飛び立つのを見た。

 

安楽寺についたとき、ミニはそこにいたお遍路の人々に振り返られるほどの痛ましさだった。髪の毛には土が絡まり、頬も泥まみれで足からは血を流しさらに裸足の有様だ。それでも誰も声をかけることのできない圧倒的な強度が今の彼女にはあった。ミニは安楽寺が何の寺かもはや興味がなくなっていた。重要なのはそこではなかった。

ミニはずかずかと本堂まで歩いて行き、薬師如来を睨みつけた。その瞬間、ミニは崩れそうになった。赤銅色の肌に縁取られたその目はミニの心をぐ、と試して見透かしたからだ。真面目に働いていても生活するのに精一杯で、子どもを育てる金などもちろんなく堕ろした瞬間ホッとして喜んだ自分のあさましさを。さらに堕ろした子どもに憎んでほしいとまで願っていた自分の強欲さを。

俯いた。ミニは涙を堪えた。そしてトートバックから何処に行くにも常に持ち歩いていたエコー写真を取り出し、その場でびりびりと破いた。

 

2018年8月21日公開

© 2018 牧野楠葉

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