日本人の肖像

Juan.B

エセー

4,876文字

※Juan.Bオリジナル作品。

※2018年8月15日東京都における記録。

 

1.「日本人にその様なことをする力は無い」

 

東京のど真ん中に位置するこの施設は、人間を最前線に送り出して死者に変換し、最後方でふんぞり返る人間の意志に還元する装置である。今はここに来ていないとは言え、天皇皇后はこの装置の始発点にある。現在も、保守派は「~申し訳ないと思わないのか」「戦死者はこんな世界にするために~」とこの装置を利用して喚き、我々の貴重な自由を奪おうとしている。だが、“ふつーの日本人”の殆どは、むしろそこに快感を感じているようだ。

 

ここは俺の思い出の場所である。と言っても、俺の親類に戦死者が居る居ないの話ではない。俺が混血として「政治化」を果して以来、様々な場所を見て回った。そして4年前の8月15日、ここに行き着いた。「戦死者の方々は~」と、誰かの政治的な死を負っているか、と言うなら、俺も知人の混血の自殺者を自分なりに「負っている」。他にも色々大きなきっかけはあるが、まず彼が死ななければ、もしかすれば俺は今でも二等や三等であれ“ふつーの日本人”の枠に収まっていたかも知れない。日本人の方々はここに来るなり天皇を拝むなりして益々「ふつー」となる。俺は、その逆である。

 

俺が保守派や差別について語る時、ある人々は「現代の日本人にその様なことをする力は無い」「今の天皇にそんな(悪事を行う)力学はない」と笑っていた。あるいは俺のブログを通じての知り合いは「天皇や政府が悪く見えるのは『君側の奸』のせいである」と言っていた。果たしてどうだろうか。歴史を記憶し、前途を警告する人々がいなくなった時、彼らは「誇り」「文化」「象徴」と言う言葉を操りながら容易に復活するだろう。そして、本人は澄ました顔をしながら「君側の奸」とされてきた連中に仕事を割り振るだろう。その時俺は生きていられるか。俺の隣人たちは俺に石を投げて自分がいかに“国体”に密接であるかを確かめることになるのか。

 

人々の目は来年の改元、再来年のオリンピックに向いている。良いだろう、予言しよう。何人か何百人か犠牲になるかもしれないが、イベントは成功する。そう言い張るのだ。人々はこの間のワールドカップの様に熱狂する。「りべらる」でさえそうである。そして犠牲になった人々、浄化政策により消え去っていく物には誰も目をくれず、最悪自分がそうなってすら気付かない。そしてイベントが終わった後に騒いでも遅い。「平成最後の××」とか言う言葉に辟易している人も多いだろう。だが俺は敢えて平成最後の夏に、装置の周りではしゃいでいる日本人たちを記録しておこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2.忠臣達

 

 

我々は“ふつー”である。我々は何物にも染まらない。我々は……。そういう人々も、実際は保守派に靡いている。むしろ保守派が直接意図的に動員できる数よりも、自分が“ふつーの日本人”であると考えて世俗的であると思い込みながら保守派の行動に従っていく人々の力の方が今は多いだろう。だがその中でも徐々に浸透が始まる。

 

三島由紀夫は、自衛隊をクーデターに駆り立てると言う理由の為に腹を切った。だが多くの人はそれに何故か崇高な意志だとか使命だとかを見出そうとする。他の、一水会だとかそう言った“良心的保守”とでも言うようなものでも良い。ある篤志家が、俺に“日本的価値観も悪いものではない”と言いたげに色々な日本人論を示してくれたことがある。だが、彼らの“日本人論”に、まず俺の居場所はない。どんな閉塞した単一的民族主義がどう美化されたところで、混血の居場所はない。彼らは、股間から常に黄色人種のガキが生まれ、政府や天皇に疑問を持たず生きて死んでいく世界しか想定していない。それだけでも従わないに十分な理由だが……一つ考えた。なぜ彼らは自分が「天皇に受け入れられる」と思っているのだろう? 天皇も、金持とか財閥とかに支援された方が良いに決まっている。2.26事件の時のヒロヒトの反応を見ればいい。結局、庶民など誰も相手にしないのだ。それでも彼らは忠臣であり続けるのか。

 

4年前に来た時、俺は在特会の中に潜り込み、ろくでもない演説を聞きながら生きた心地がしないまま写真を撮った。今年は日本第一党と言う名になっている。だが、明確的な敵ではあるがはっきり言ってここで何かを特筆しようとは思わない。在特会の思考はもはや社会中にあるのだから。

 

いずれにせよ、“ふつーの日本人”たる老若男女は違わず俺の前で壁となった。宗教家や日本共産党、フェミだのジェンダー男女論者、エコロジー活動家ですら、“日本”にしがみ付かないと自分を確かめられないのだ。いつも俺は混血に関して二つの考え方をせざるを得ない。「すべての人間は混血である」が、「なぜか一部の人間だけが混血であるということになっている」。並立したり一方を押し出したり、一貫性を保つことも出来ない。だが仕方がない。あまりここで込み入って書くことは無い。ただ混血の俺に出来る生き方は犬かピエロか狂人かのいずれかでしかないようだ。そうだ、全部やろう。狂犬病をまき散らす気狂いピエロだ。お前ら全員オマンコしてろ。その間に我々は新しい社会を作り上げる準備を始めるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3.権力の肖像

 

 

右翼、左翼、だけではない。ここには権力もいる。実際、今の俺に一番身近で恐ろしいものは警官である。俺が“政治化”したもう一つのきっかけは、混血の友人が酷い差別職質を受けたことである。だがこれについては“ふつーの日本人”たちは猶更理解出来ないらしい。俺の“政治化”が加速したのは、職質に抵抗する・疑問を感じる思考が丸っきり社会にないことにもある。警察はいつでも横暴を振るえる存在となっている。警察にとってこれほど楽なことはないだろう。

 

デモが起きれば、公安が大勢現れる。彼らが何の情報を得ているのか、それを何に活用しているのか、どう考えても「ふつー」の用途とは考えられないが、誰もそれに口を挟まない。そして発生したのが、2010年の在日イスラム教徒に関する監視情報の流出であった。それも「国際テロ捜査情報」とのタイトルであるから、イスラム教徒をテロ関連者扱いしていたのだ。俺にはこれを自分から縁遠い事件とすることなどできない。そしてここにも、薄気味悪い公安がいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

4.「ふつー」ではない人々

 

 

“ふつー”でない人々、反天連が九段下交差点に現れる。4年前と比べ、はっきり言って残念ながら勢いはない。だが、沿道には俺がいる。

 

明確な右翼と左翼がぶつかっている、ではない。先ほども書いた通り、傍観者面した多くの“ふつーの日本人”もここにいる。俺の耳に入る限り、彼らはデモを冷笑し、見世物の様に見ている。確かに“見せるデモ”もあるが……。しかし、彼らも結局は社会の一部、日本の一部である。なぜ同じ口で天皇を冷笑できないのか。

 

ある人は俺に「ハーフとして色々あるだろうが頑張れ」と言う。おお頑張るとも。頑張りすぎて天皇を殴っても応援してくれ。だが、もう一つの考えがある。なぜ混血は頑張らなければいけないのか。これは肉体・物理的なハンデとも、あるいは「うつ病の人に頑張れと言うな」と言う話でもない。混血が混血であるということで頑張らなければいけない理由を作っているのは社会である。「男が男らしく」汗水流して働くとか、「女が女らしく」しているということには、(男女論の反応はともかく)一応は対価がある。俺も別に頑張ってもいいが、いつになったら対価が支払われるのか。そして俺に意味のない頑張りを強いている連中の元請けを辿った時、そこには済ました顔をした、東京都千代田区1-1-1の御夫妻がいる。

「身分差別・性差別の象徴天皇制いらない」

 

 

 

 

 

 

5.我々の肖像

 

そこらを見まわして、敵か味方か、害か益か、などと言う思考はしたくない。それは我々を苦しめて来た物差しである。ベンチに座っていただけのイラン人、バスにいざって乗ろうとした障害者、泣いている子供、風俗に出入りする爺さん、みな何も測られる存在ではない。だが、こうも考える。頭上の物差しをひったくって相手を測ってみた時、どんな結果が出るのだろう?

 

 

以前、「女性は差別しない」と言い張る自称フェミニストと(今は故人となったある活動家のネットラジオで)語らったことがある。ルッキズムとやらを批判している彼女に、「ハーフ顔」になれるという化粧品の広告を見せた時、急に取り乱し、それは男性が用意した価値観であるとかどうとか、つまり「女性の責任ではない」と言い始めた。別に俺はその場で責任を問おうとは思っていなかったが、考えても意味不明な事である。俺は別にルッキズムとか美醜の価値観があって(も)良いと思う。それはむしろ少数者・弱者に利することもあるだろうし、様々なものは価値観は譲り合いであるから。美醜を否定するより、様々な美醜を並立させ、譲り合わせた方が良い。別にブラジルの黒人がポーランドのユダヤ人とセックスし、中国のミャオ族がカナダのエスキモーの体でオナニーしたってどうでも良い事だ。俺は明らかにステレオタイプからすれば「醜い」が、それは「美しいばかりでない、これも多様性である」と言う武器でもある

 

しかしこのような物差しを逆に当てはめたことなどない彼女には理解がし辛かった様だ。混血などと言うのはは明らかに男性のみならず、明らかに女性も加担した……日本の老若男女により築かれた価値観である。また「ハーフ」などと限定して定めるなら、本来用法を決めるのは我々ステレオタイプ混血の側である。個人的には「極東黄色人種日本人自覚者によるハーフ顔の厳密な用法」を、「混血の精液か経血か小便を顔に塗りたくった人」と定めようと思う。変な化粧品より安いし、混血も色々利益があるだろう。かけて欲しい人がいたらいつでも教えてください。

 

他にも「混血は国際強姦」「国際交際者は本国でデキなかった負け犬」などと言う言動を見たこともある(前者もあろうことか自称フェミニストの発言で、後者は十数年前までテレビ等で普通に言われていたことだ)。色々ひっくるめて俺はこれらを「単一・分別・清潔的社会観」と呼ぶ、が、別にここでそれらに深入りはしない。我々の肖像は、比喩や例えでなく、直接的にそう扱われてきた。だが、俺はそれに激しく怒る気はない。お前らが美味そうなものを食っていて、俺達が食えない時、言うべきことは「お前らメシ食うな」ではなく「俺達にもメシ食わせろ」である。それが全てを混ぜていくのだ。他の作品でも書いてきたことを繰り返そう。

 

このアジアの端の列島に、社会により“醜い”とされた少数者・弱者、諸表現が混じり行く、開放・多様・猥雑な「混血社会」を作るために。絵具を混ぜろ。彼方の言葉で歌え。青少年に“不健全”な我々のエログロ存在を見せろ。交わって、アイノコを殖やせ。簡単だ。気付けば、全ての人間は混血なのだから。

――「単一・分別・清潔

 

 

2018年8月17日公開

© 2018 Juan.B

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