Strawberry

長崎 朝

小説

5,913文字

そこにある何かの周りを、僕らはただ、ぐるぐると回っている。どこにもたどり着かず、だけど自力で止まることももはやできない。そんな話です。

「やっぱりあれがいいわ」と言って、柏野みつきはわざわざ引き返し、苺入りシャンパンを売っている露店のほうへ僕を引っぱっていった。

目の前で店の男が、細長いグラスに苺をひと粒入れ、そこに桜色をしたロゼのシャンパンが注がれた。この、いかにも都会的で「それっぽい」飲み物は、細かい花柄のロングスカートにレザーのジャケットを合わせ、長い栗色の髪をまとめて首の左側から肩の前へ流している彼女によく似合っていた。僕は彼女の横顔を見ながら、こんな大ぶりな輪っかのぶら下がったイヤリングをつけるような人と付き合うのは、これがはじめてだなと思った。輪っかは金色に輝き、挑発的に揺れていた。サーカスのライオンがジャンプして通り抜けるのを誘う、火のついた輪っかみたいに。その、あらわになった耳もとから首筋には、年齢のわりにいまだ不確かで誘うような匂いと、危うい温度が立ち昇っていた。

 みつきは36歳で、少なくとも現時点では人妻だった。しかし、とても中学生の子どもがいるようには見えない。僕には子どもがいないから、自分に子どもがいるということがどういうことなのか、どんな感じなのか、精一杯想像してみても、いつもうまく掴むことができない。きっと、100のうち10も理解できていないだろう。それどころか、僕は彼女のことをちょっとでも理解していたのかと言われると、答えに窮してしまう。でも、人類の歴史において、男が女を本当に理解するなんてことが、いつかあるのだろうか。そんな日はついぞやってきませんでした。僕には神さまの声が聞こえる気がする。
「ね、これ入れてさ、写真撮ってよ。桜をバックに」川にかかる小さな橋の欄干にもたれて、みつきが言った。
 通りも橋の上も、あたりはどこも人が埋め尽くしていた。3月から4月にかけての限られた期間、人々はこの河辺の地に足を運び、古くからの慣習に従って、圧倒するように咲き誇る桜の花を眺めて楽しむ。眺めるというよりは、その景色の中に自分が取り込まれ、その一部になるということを。僕たちは人が離れた一瞬に、うまく景色の見える位置に入り込むことができたのだった。

いんすたばえ﹅﹅﹅﹅﹅﹅ってやつね」と僕は笑いながら携帯を取り出した。

彼女は会うたびに爪の装飾を変えているので、忘れないように褒めてやらないとならない。携帯のカメラを向け、彼女の指に気づく機会を与えてくれた、あらゆるめぐり合わせに僕は感謝する。片手を、彼女の腰にさりげなく回した。

「へえ、なんか爪キラキラしていていい感じじゃん」

「テーマはなんでしょう?」

「そうだな、ちょっと、和っぽい感じ?」

「ん、ちがう。たぶん……〈宇宙〉、かな」そう言って、彼女は吹き出すように大きな声をあげて笑った。

 シャッターを押した瞬間につられて笑ったせいで、ブレた写真が撮れた。黒と、薄いピンクのまぜこぜになった抽象的な一枚で、たとえ「宇宙」というタイトルをつけたとしても、作品としては間違いなく却下だった。そこに写っていたのは、桜やシャンパングラスというよりは、いい加減に刷毛で擦りつけた、汚れた漆喰の塊みたいだった。

 証拠となるような写真は携帯に残したくないし、あなたにもそうしてほしい、LINEの履歴も一日のうちのどこかの時点では削除してほしい、そういうふうにみつきは言っていたから、僕はそれを守っていた。LINEの履歴を消すことをときどき忘れてしまうこともあった。でもそれは、消すのがなんとなく寂しくて、わざと忘れていたのかもしれないとも思った。

「訳あり」の二人には、だから二人で写った写真がなかった。いつも、同じ景色を見て、それを同じ場所からそれぞれのカメラで写すだけだった。そこにはお互いの姿も写っていなかった。そうして撮れば撮るほど、思い出が増えれば増えるほど、僕とみつきの間には、新しく線が一本引かれ、それは陸上競技のレーンを表す白線のように交わることなく、どこまでも真っ直ぐ延びていくような感じがした。いつまで経っても、二人は同じ景色の中に一緒にいることはないのだった。

橋の欄干にこんどは背をもたせかけ、半分くらい減ったシャンパンにときどき口を寄せながら、みつきは少し真面目な口調になって話しはじめた。

「話すって言ってた話だけど……。旦那がね、わたしね、見ちゃったのよ。普通ロックとかかけるよね、自分の携帯。ましてや見られたらまずいものが入ってたらなおさら……。いまこんなところで話すことじゃないね……」

僕は彼女が話してしまいたいのだろうと思い、曖昧に相槌を打ちながら、じっと待っていた。

「想像つくと思うけど。男の人には話しにくくて。ただの浮気にしてくれればいいのに……。なんだろう、そういうサイトで知り合ったのか知らないけど、女の人と、性行為……している動画がたくさん出てきて。自分で撮ったやつ。お金払ってるのかな? ……『わー』って思って、でも、ほら、私離婚したいって言ってたでしょ、理由になるものがこれで出てきたから都合いいやって。すごい気持ち悪いって思って、でもね、それだけじゃなかったの」

僕は、周囲の人たちにみつきの話が聞こえていないか気になって左右を確認してみたが、こちらに聞き耳を立てるような人間は一人もいなかった。風が、金色の輪っかの中を通り過ぎていった。

「その、とうさつ?……女の人のスカートの中、電車とかで、最初そういうビデオかと思ったんだけど、本人の顔も、しっかり映っていて……何か確認しているような。それ、自分の職場でも、女子更衣室、着替えてるとことか撮ってて……。それでね、本当に許せないのが、前ほら、息子と息子の女友達と、バレンタインのチョコ作ったって話したでしょ、信じられないんだけど、そのときの息子の女友達のスカートの中を盗撮した動画まであって……家でだよ、もうこれは無理だって思って、それで、昨日のドタバタ。まったく寝てないのに、眠いはずなのに寝れないんだよ」

僕には起こっていることがよく理解できなかった。そういうことをして捕まったり訴えられたりする人間が、毎日のようにニュースに登場する。ニュースにされたものを、僕は簡単にやり過ごすことができる。人を傷つけるような迷惑な人間は処罰されればいい。だけど、彼らのような犯罪者にも家族があったのだ。そして、いま僕は知らないうちに、その家族の側に立っており、同時に、僕の知らないみつきの夫について、どんな人物なのか想像しようとしている。なおかつ、僕とみつきは、世間には公にできないような関係にある。彼女の話を聞かされながら、僕は目眩がしてくるようだった。

数日後、またその話題になったとき、みつきは僕にこんなことを言った。

「男の人って、みんな、そんなことしたいって思うの? 簡単にできるなら、盗撮とか、したくなるもの?」

これを聞いて僕は、自分が高校生のときに女子生徒と交わした会話を思い出した。

それはやはり春先の、非常に風の強い日のことで、僕と彼女は教室の窓辺に座って外を眺めていた。

「私はべつに女の子のパンツが見えてもなんとも思わないけど、男の子はそれが楽しいんでしょ? 見えるのが」高校生の彼女は言った。

「まあね、楽しいっつうか、うん、なんだろ」

それは、誰かとカジュアルな雰囲気のもとで共有したくない種類の感情だった。もっと、あやふやで恥辱的なもので、タールのようにしつこく暗い場所にこびりついている何かだった。

僕は、いまみつきの投げかけた質問に、一瞬なんと答えたらいいのか分からなかった。

「いや、したくはならないでしょ、さすがに、それは、アウトだし」

なぜかそのとき、自分はそんなことをしたいとも思わないし、考えたこともないのだとはっきり答えられなかった。なんとなく口をついた言い草は、社会や法律が示している決まりごとを基準にしたもので、自分自身の規律や気持ちに依拠したものではないように、自分の耳には聞こえた。

おれは、盗撮や痴漢をしたいのだろうか……。僕には、その行為がもたらすスリルと快楽がありありと想像できた。それは、ほとんど麻薬と一緒だった。もしかしたら、何かの拍子に、自分がみつきの夫の立場になっていたかもしれないと思った。僕は、そのような行為でみつきを追いつめた彼女の夫を激しく憎んだが、同時に、それに手を染めるかどうかは別として、彼の欲求や衝動と同じものが、自分の内にも存在すると分かっていたのだ。そして、それは意志や覚悟によって、捨て去ることのできないものだった。僕は、誰を憎んだらいいのか、誰に怒りを向けたらいいのか分からなかった。僕はみつきの夫を憎んでいるふりをして、自分自身を憎んでいた。自分には、存在する価値がないとすら思えた。僕は人間であることを恥じた。

「花びらが散ると綺麗なんだよ、川にそれが流れて、一面花びらだらけでさ」

「いまもじゅうぶん綺麗だよ。月も出てるし。お酒、美味しいし」そう言って、みつきはまた目尻に皺を寄せた。

少し冷たい風が出てきて、体が冷えていく気がした。

「はあ。なんでこんな時期にこんなことになってんだろ……。明日もね、別のところに相談行く予約してある」

僕たちのいる場所のすぐ隣に、二十代くらいのカップルが陣取って、やはり携帯のカメラで写真を撮り合っている。桜を背景に自撮りをしたり、花弁をアップで写すために欄干から乗り出したりせわしない。

みつきがハンカチを取り出そうとして、肩にかけた鞄を引き寄せたときだった。隣の女が「あっ」と声をあげ、急にしゃがみこんだ。男が「うそ」と言って欄干から身を乗り出している。女もまた立ち上がって川の底を見つめている。

「落ちた」

「落とした」

みつきも振り返って、ゆっくり川のほうを覗きこんだ。

「まじかあ。どうしよ」と男の声がする。

女のほうは言葉も出ないようで、その場にへたりこんでしまった。川のへりは深く、その底は果てしなく遠い。水流は少なく薄いけれど、あそこまで取りに降りて行くのは無理だろう。上からだと、見えているのかどうかもよく分からなかった。

「すみません、当たりました? 私」いきなりみつきが女に向かって言ったので僕は驚いた。

女は呆然としたままだったが、男のほうが代わりに答えた。

「あなたのせいで落ちたのなら、あなたに弁償してもらってもいいですか」

男は仕事帰りなのだろう、暗い色のビジネススーツを着て、髪は短く、体格は僕よりがっしりしているようだった。

みつきは男を無視し、女に向かって喋りかけた。

「あの、わざとぶつけたわけじゃないです。ごめんなさい。大切なもの」

「彼と一緒のときでよかったかなって」と女は言った。「弁償とかいいですから。ほんとにぶつかったかはっきりわからないですし。友達や親と連絡取れなくなったけど、とりあえず彼とはいま一緒にいるから。はぐれずにすむし」

「ほんとに大丈夫?」

誰にもどうしたらいいかわからず、しばらく沈黙が流れた。

「あの……その、あなたの飲んでるのと同じやつ、それ、私もほしいです。こんなことお願いしていいのかどうか……」

僕は、彼女のその声を聞いてすぐに、苺入りのシャンパンを買いに行った。みつきが追いかけてきて、私が払うと言った。

女に買ってきたグラスを渡すと、
「ねえ、これで写メ撮って。で、あとで送ってよ」と男に向かって言った。

「送るって、おまえ、どこに送るんだよ、携帯落ちちゃったのに」

「それもそっか。んー、じゃ、とりあえず持っといて」

僕とみつきは二人に軽く頭を下げて、その場を離れ、駅に向かった。とにかく寒いのと、トイレに行きたかった。僕は頭の中で、みつきの鞄が隣の女の腕に引っかかるようにしてぶつかり、女の手から携帯が離れ、まだ花びらの散っていない川へ落下していくところを繰り返し思い浮かべていた。それは、枝を離れた花弁のように風を受け、くるくると回転し、月の光を反射しながら落ちて行った。落下しながらも、まだ彼女の手の中から完全に離れてしまいたくないとでもいうように、一度画面を明るく光らせたかと思うと、次の瞬間には黒く凍りつき、水中に入ってからは死んだように凝固した。本当に、みつきが当たったのだろうか。

「写真、全部消えちゃったかな? あの子どうするんだろ」とみつきが言った。

「それより連絡先とか、困るよね」

「彼がいればいいみたいだったけど」

「みつきだったら、どう?」

「携帯なくしたら死んじゃう」と言って彼女はまた笑った。

月が、桜の中から飛び出して、いまはビルの合間に浮かんでいた。僕たちはしばらく無言で歩いた。風が、みつきの首筋や髪から漂う、不確かな匂いを伝えてくる。彼女は、自分で香料を調合してつくったフレグランスを使っていると言っていた。その香りは優しく、いつも僕を安心させてきたのに、いま彼女の存在が放つそれは、ちょうど異国からの中継に時差が生じるみたいに、僕の嗅覚に届くまでにズレがあり、このズレは永遠に修復できないのではないかという気がした。みつきを引き寄せ、彼女の髪に顔をうずめる場面を想像した。静止衛星を介して7万キロもの距離を運ばれてくるその匂いを、僕は呼吸のうちに取り入れようとして、そのズレた部分を急いで吸い込む。でも吸い込んだ空気には、もう彼女の匂いは残っていない。

「やっぱり弁償するべきだわ」とみつきが急に言った。「ごめんね、戻る」

彼女は唐突に立ち止まったかと思うと、くるっと回転して、もと来た道を引き返しはじめた。僕は彼女の少し後ろから追いかけていった。おおかたの店はすでに畳まれ、ライトアップも終わった川沿いの道から、駅に向かって引き上げていく人々をかわしながら進んでいった。コンサート会場を後にする人たちのように、誰もが少し興奮気味で、満ち足りたような顔をして仲間と声をかけ合っていた。

何度も、すれ違う人とまたぶつかりそうになりながら、僕たちが橋まで辿り着いたとき、そこにあの男女の姿はなかった。みつきは橋を渡り、また引き返し、あたりに彼らの痕跡がないかと探し回った。

「私、ひどいことした」とみつきは言った。

「でも、わざとじゃない。あの子だって少し乗り出しすぎてたんだし。一方的にみつきが悪いわけじゃない」

「でも」みつきは深刻そうな顔をして、本当に悪いと思っているようだった。

「彼女、困ってるはずだよ」

人のまばらになった橋の上から、僕はもう一度、川の奥行きと、そこに覆いかぶさる花たちを見た。自分の携帯に残っている桜とシャンパングラスの写真を、楽しい気持ちで見返す資格がないように感じた。そして、川の底で静かに壊れ、失われていく、女の思い出たちのことを考えていた。

2018年10月26日公開

© 2018 長崎 朝

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