もう事件はいらない

中塚大順

小説

3,347文字

男が入院する。病院にはさまざまな人がいる。そんな話です。

 

 

車に轢かれて撥ね飛ばされた。その後のながく入院していた。医者には半年かかると言われていた。

最初の一週間はひたすらにぼんやりとしてすごした。身体をうまく動かすこともできず、なにかを考えようとしてもはっきりとしたイメージを持つことができなかった。

見舞い客がおおく訪れ、その顔ぶれも予想だにしないものだった。口を動かせなかったために、会話ができなかったので、誰かにノートとペンを買ってきてもらいそれを使った会話を試みた。しかし書くスピードは遅く相手とのリズムが合わず、また書くことは黙っていることに近く、話す相手とのあいだにつながりを持てずに終わることが多かった。

しだいにペンで会話することはやめて、おとなしく相手をながめるだけになった。

大部屋であったため、同室している人々がいる。カーテンを閉めきっているので、誰の姿も見たことはない。

ひとりの老人はイヤホンをつけずにテレビを見て、ひとりでずっと掠れた声でしゃべっていた。痰がよくからまり、喉をならしてすぐにどこかにそれを吐き出す。妻が毎日となりに座っている。

そのとなりの老いた男には妻や兄弟たちが毎日交代制で見舞いにやってくる。そのひとたちもみんな老いている。

 「がんばってね」

 「いいよ、どうせおれは死ぬんだから」

 「そんなこと言わないでよ。また来るからね」

そう言って6時になると妻は帰る。

 「また誰か来たぞ」

右隣の男が言う。なめらかな、うすみどりのカーテン越しに、やわらかな光を通しながら、一瞬、微かにゆれ、それから微動だにしない。そのとおりだ、とわたしはノートに書こうとする。

足のほうにあるカーテンが開き、なつかしい友人が入ってくるので、ノートとペンを置く。

「また見舞い客だ。いつどんなときでもやってくる。俺の事情なんて気にしちゃいない。俺にだってやることはあるというのに、なんでったって静かな時間をすごさしちゃくれないんだ」

隣では男がぶつぶつと文句を言っている。

友人はわたしに向かって古い思い出話をしている。わたしは覚えていない。それに彼は勘違いをしていて、わたしが自殺を試みたのではないかと疑っているため、感情を込めて、輝かしい生の方へわたしを引っ張っていこうと努めているのだ。わたしは自殺しようとして車に轢かれたわけではないのだから、そのようにする必要はないのだが。

死に近づくことによって、以前と変わってしまった部分もない。わたしはただ、夜の道を歩いていたら車に轢かれた、というだけである。じっさいわたしは自分で救急車を呼び、何を思ったか反対方向へ曲がった右足をむりやりまっすぐに治したのだ。

友人が帰っていく。

 「ばかばかしい。帰るのならなんのためにここに来たんだ。くだらない話をして、それで満足か。ここにいる誰もがいま死ぬかも知れないんだぞ」

隣の男はいくぶん大きな声でそう言った。だがいま死ぬかもしれないのは向かい側の二人であって、わたしは順調に回復し、いま死ぬことはないだろうし、隣の男も死に至る病であるようには見えない。

手元にはそのとおりだと書こうとして「そのと」と途中で中断したノートがある。それを精一杯手を伸ばしてベッドの右側に落とす。

すると隣の男はカーテンの下から手を伸ばしその紙を取る。それから見えないところでごそごそと動き、「そのと」と書かれた紙にじょぼじょぼと小便をかける。隣の男は病、あるいは怪我とは関係なく、すこし気が狂っているのだ。

それにしても、とわたしは思う。この行為には生と死とは対極のところへと引っ張る力がある。

一日に三回、ベッドの右側に文字が書かれた紙を落とす。それが彼の小便のペースにあった回数なのだ。

彼は毎回小便をかけるわけではない。彼なりのルールがあり、それで文字に小便をかけるかどうかが決められる。たとえば「コーラ」はかけても「アイス」はかけないし、「だが」はかけても「は」はかけない。

あるとき「獣医」と「トルコ」をふたつの紙に書いて落とすと、彼はながい時間沈黙し、それからごそごそと動いて「トルコ」と書かれた紙だけを取って、小便をかけはじめた。

そうしていくうちに、わたしはいくらかながい文章を書くようにもなっていった。

 「あたりには雪がひろがり、空気が乾いている。空には星がひとつも見えず、月明かりが地表を照らしていた。ここは八原市と畑山市にはさまれていて、ふたつに割るようにまん中におおきな川が流れている」

それからというもの、友人たちがだんだんと足が遠のくかわりに、隣のあらたな友人を得て愉快であった。

 「たのしげで、いつまでもゆかいだった。仲がよく、おなじ方向へ心をかよわせていたために、熱心さがいつも底には流れていた」

 「医者の診断よりもはやく回復していった。一ヶ月するとなんとか歩けるまでになった。病院内をあるくと、さまざまなひとと出会った。みな身体に不調をかかえていた」

 「最近誰も来ないみたいだな。なんだ、結局そんなものか。お前は俺と同じようにひとりになったんだ。くだらない。前にいた老人もひとり死んですこしは静かになったが、どうせ似たような老人がすぐにやってくるだろう」

彼が執拗にそのように攻撃する理由はわからない。たしかに彼に見舞い客が来たことはない。

 「嫉妬し、われわれを非難するが、臆病なために、彼はけっして顔を見せることはない」

しばらくすると、彼はおとなしくなっていくようだった。そのかわりに新しく入ってきた患者が昼間からおおきないびきをかき、看護師と長話をくりかえしていた。

あるとき「小便」と書いた紙を落とすと、彼はそれを拾うことはなかった。

 「次の日の朝、清掃人がそれを回収するまで、さまざまなひとに「小便」とだけ書かれた紙を見せつけることになった」

 「病院の一階には、額縁に入れられて壁にかけられた絵がある」

背景は画面の左上から真ん中付近まで隆起した大地がある。それを除く上半分が遠景になっている。下半分は大地。人物にはふたつのグループがある。右側に手前から奥に向かってきれいに整列し、銃をかまえいまにも引き金をひいて血で地面を満たそうとする男の兵士たち。左側にはあいまいに集まっている裸婦たち。何人かは傷つき、血を流し、地面にころがっているものもいる。
 「遠景にはふたつの要素がある。光の無い夜空と、くすんだ白色で浮かび上がるゆがんだおおきな建物。兵士のまえには裸婦に向けた照明が置かれていて、彼女を強く照らす。兵士は大地に影を落とし、裸婦は背後の隆起した大地の壁に影をうつしている。裸婦たちは光を全身に浴びてはっきりとした表情を見せているが、兵士たちは銃を構えながら背中を向けていて暗く翳っている」
 裸婦たちの髪は黒い。そのせいで夜空に溶けて一体化している。そして裸の肌は大地に溶けている。血の赤さと、陰毛の黒さが異様に浮かび上がる。裸婦たちのなかには、おびえて顔を隠しているものはいるが、肌があらわであることを恥じているものはひとりもいない。兵士たちはコートを着て、ブーツを履き、手袋をつけ、ロシア帽のようなものを被っている。それらは灰色が混じった緑や黄色で描かれている。
「隆起した大地と、兵士たちの上部をなぞる線は緩やかにおおきいМ字を描いている。それはこちら側に頭頂部を向けて倒れている裸婦のひとりの乳房の形状と一致している。裸婦たちの足元に飛び散っている血と同様に、彼女の胸の左側が撃ち抜かれ血が流れている」
 裸婦たちのほとんどは、足を肩幅より大きく広げ、重心を低くしている。それは兵士たちが銃をかまえるためにとっているポーズと同じである。足と地面を辺にして五角形を模っていて、遠景に浮かぶおおきな建物の形を反復している。おおきな建物は、ゆがんだ五角形が積み重なるようにできている。

この絵をゆっくりと眺めているひとはいない。誰もが絵を見に病院にくることはないからだ。

 「隣の男はわたしが歩けるようになって三週間後に死んだ」

それから二ヶ月たってわたしは退院した。病院よりも外のほうが、いくぶんか静かである。

 

 

2018年8月4日公開 (初出 https://note.mu/lenhu11/n/n59a0c06e9eb7

© 2018 中塚大順

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