一見して、そこが何の店なのかわかる人は少ないだろう。煉瓦造りとも少し違う、切り出した石を積んだような白い2階建ての店はひっそりと、人目を避けるように路地の奥に佇んでいた。
柳田倫子もこれまでその店を見つけることはできなかった一人だ。3年弱、学校帰りにはいつもこの道を通っていたというのに、その細い路地を気に留めたこともなかった。何故かその日は、吸い込まれるように通りに目が行ったのだ。
「……何のお店?」
立ち止まり、視線を送れば緑色の簡素な看板が立っていて、建物はくすんだ白。少しだけ迷ってから路地へと足を踏み入れる。
この辺りは雑居ビルやアンティーク雑貨等、中学生の自分が気軽に立ち寄るには財布の中が少し厳しい場所で、通称“セレブ通り”。アクセサリー一つとってみても『アンティークビーズとやらを使っていてウン万円』という代物が並ぶ場所だ。カフェだから、と迂闊に足を踏み入れたが最後、紅茶とケーキで月のお小遣いのほぼ全額が飛んでいく。
店の前にある看板を確認してみるも、敢えてのデザインなのか、モスグリーンの上に乗った白いペンキは所々剥がれ落ちているし、英語とも違い読めない。
「G……I……?」
しゃがみこんでじっくりと読んでみる。掠れたデザインではあるが読めなくはなさそうだ。一文字ずつ拾ってみる。
「G、I、O、R、I、E、U、X……?」
倫子は途方に暮れる。せっかく読み取ってみたものの自分の知っている単語ではないし、そもそも英語かどうかすら怪しい。後ろに『EUX』と並ぶところからみてフランス語かな?と独り言ちて、通学カバンから電子辞書を取り出そうとしたところで、正面に誰か人がいることに気が付いた。
「残念ながら、2番目の文字はIではなくLなんです。惜しかったですね。」
男の人らしい低い、けれど優しい声色だった。店の前でしゃがみこんでいては迷惑だ!と今更ながら気が付いて飛び上がるようにして立ち上がり、何度も頭を下げる倫子に、目の前に立っていた店のスタッフらしい男はくすくすと小さく笑う。
「今は他にお客様もいらっしゃいませんから、よろしかったら中も覗いていかれますか?」
頭を下げ続けていた倫子へ声をかけると、男は店の扉を開ける。看板と同じ、モスグリーンのルーズネックカットソーとアンティークゴールドの鍵のネックレス、黒いギャルソンエプロンの男の格好からして、高級なアクセサリーと言う訳ではないだろうと踏んで、倫子はうなずいた。
学校帰りの薄汚れたスニーカーでこの界隈のお店に立ち入るのは勇気が要ったが、ここまで来ればもう一緒だ。と、思い切って足を踏み入れた店の中はキラキラと輝いていた。
青、ピンク、白、赤、紫…輝きを放つガラス瓶が木製の棚に並べられている。モザイクタイルやステンドグラスのように様々な形のガラスをはめ込んだようなデザインのもの、氷の彫刻のように精巧な花の形のもの、映画で見たことのあるスプレータイプのもの、見渡す限り香水瓶だ。
「お客様、こちらへどうぞ。」
腰高のテーブルの向こう側にカウンターがあって、そのカウンターの向こうから先程の男が呼んでいた。うっかり体をぶつけて瓶を壊してしまわないように、小さくなりながら倫子は進む。
「おかけください。申し遅れました、僕がこの店の店主です。」
倫子は勧められた椅子に腰かけるも、どうにも落ち着かない。というのも、彼女なりにいくつかの理由がある。
一つは、自分が場違いなこと。貴金属じゃなくても、こういったガラス製品の店は高級品だらけ、という事が十分に考えられて、間抜けな自分の事だから店内のものをいつ壊してしまうか、とヒヤヒヤしている。
次に、勧められた椅子の座り心地が良過ぎること。お尻から腰のあたりまですっぽりとクッションに埋もれてしまったような柔らかさで、絶対にコレも高いんだろう、とびくびくしている。
そして何より、店主と名乗った男が、倫子の理想の男性と言えるほどに好みのタイプだったからだ。少し前髪長めの黒髪、眼鏡、細身の体躯も指先に至るまでまさに理想。
カチカチに固まったままの倫子を見かねたのか、男は困ったように少し笑いながら「お名前をお伺いしても?」と質問を投げかけ、なんとか彼女の緊張をほぐそうと試みる。
「はいっ!えーと、柳田倫子と申します。」
「倫子さん、ね。ようこそ、glorieux(グロリュー)へ。此処は見ての通り、香水にまつわるものを売っているんだ。」
「はい。その……並んでいる香水瓶がどれも素敵で、見とれてしまって……」
「ここにある香水瓶は、海外から買い付けたアンティークや硝子職人さんにお願いした一点ものもあるし、少ないけれど量産品もある。あと、香水自体もね。」
オシャレや流行に疎い倫子は、今まで香水というものに縁がなかった。クラスメイトの何人かは眉を整えて薄化粧をしたりもしているけれど、地味な優等生をやってきた倫子にはまだまだ遠い世界の事に思える。そんな自分が、何の因果か高級そうな香水の専門店に居るのだということがまた、気分を沈ませる。
「その……ごめんなさい、せっかく通して戴いたのに、あの、持ち合わせが……」
財布の中には今月のお小遣いの残りが入ってはいるがほんの2000円程度で、とてもじゃあないが化粧品や香水といったものを買える金額ではない。その位は疎い倫子にだってわかる。恥ずかしさで消え入りそうになりながら白状すると、店主はニコニコとした笑顔を崩さずに続ける。
「いえいえ。別に無理やり買わせようなんて思っていませんからご安心ください。ただ、もし興味がおありなら、とお誘いしたんですよ。香りのものは人を癒したり、気分を変える手伝い、望みを叶える後押しをしてくれますから、何かに悩んでいたり思い詰めているのなら、お手伝いができるかもしれませんしね。」
その言葉に倫子はどきり、とした。『思い詰めている』というのは当たっているかもしれない。何せ今日、進路指導の教師に渋い顔をされたところなのだ。
ぽつり、ぽつり、と気が付けば倫子は胸の内を明かし始めた。
両親が厳しく、自分の意見が言い出せないこと。
目指している高校があるものの、成績が伸び悩んでいること。
クラスで真面目な堅物だと思われて、浮いていること。
唯一ともいえる友達にすら、呆れられていること。
大人になって思い返せば、ほんの些細なことかもしれない。それでも、今現在の倫子にはいずれも大変な悩みで頭を抱えていたのだ。
「どうしても、桜月女子に行きたいんです。けど、両親は近いから、という理由で西高校を勧めるし、先生だって良い顔をしないし…でも、言い返せないんです。本当は言い返したいし、伝えたいこともあるのに……」
半ば泣きそうになりながら、倫子は思いの丈を吐き出した。見ず知らずの、しかも一銭の得にもならない、お客にもなれない中学生の愚痴を、店主は最後まで聞いてくれた。自分の中でモヤモヤとしたまま吐き出せずにいた倫子は、それだけで救われた気分になった。
「――その為なら、何も惜しくない、と?」
「……はい。」
店主の言葉に何か引っかかりを覚えたが、肯定した。すると彼はカウンターを離れ、首から下げた金色の鍵を使ってカウンターの後ろに二つ並んだ扉のうち、少しだけ小さい扉を開けた。
「少し、お待ちくださいね。」
柔らかい笑顔のままそう言い残し、彼が扉を潜り抜けると一人でに扉は閉まった。
その場に残された倫子は、今の今まで気が付かなかった二つの扉を見比べてみる。
今、店主が潜ったのは金色の装飾が施された少し小さな扉で、随分古いのか木の色も暗い。反対に、向かって右の扉は少しモダンな、明るいブラウンの扉だった。
薄暗くて気が付かなかったのだろうか、と手持無沙汰のままぐるり、視線を動かしてみる。店内はそう明るくはなく、並べられたガラス瓶の合間に間接照明があるのと、天井からは柔らかい色合いのシックなシャンデリアが随分と高い位置にあった。ただ、だからこそこの香水瓶の色合いが目を引くのかもしれない。
キョロキョロと忙しなく辺りを見回していると、店主が片手に何かを持って戻ってきた。
「お待たせしました、倫子さん。もし、よろしければこれをお持ちください。」
優しい緑色の小瓶が、カウンターに置かれる。倫子の手の中にでも納まってしまいそうな小さなもので、下から上へグラデーションのように擦りガラス加工されていた。
「きっと、倫子さんの助けになりますよ。お代は気になさらず、お持ちください。」
突然の展開に頭が追い付かず「あ」とか「う」とか、単語にもならない声を発しながら倫子はそれを受け取れない!とジェスチャーで伝えるが、店主は引かなかった。
「これは倫子さんの為の香水です。ですから、どうかお気になさらずに。」
「そ、そんなことを言われましても……本当にあの、お金が……」
倫子は膝の上に置いてあった通学カバンの中から財布を取り出し、カウンターの上へ中身を広げて見せた。何枚かの小銭がチャラチャラと散らばる。お札はその横に並べた。
「ああ、お代の事を気にしてらしたんですね。でしたら……」
つい、と長い指先で店主が100円玉を一枚手繰り寄せ、自分の前へ残した。その他の小銭はかき集めた後、彼女の財布の中に戻し、倫子の両手を寄せると小瓶を乗せてやり、その手を自身の手で包んだ。
「これでお代は結構ですよ。」
そんな馬鹿な。100円で香水が買える訳がない。そう思いつつも店主に見送られ、そのまま帰ってきてしまった。
その後、倫子は家に帰り着いて食事を採り、自室で教科書とノートを開いてみても全然身が入らなかった。制服のポケットに入れたままの香水瓶が気になって仕方がないのだ。
本当は明日にでも返しに行こうと思っていた。100円を支払ったとはいえ、とても適正価格だとは思えず、簡易とはいえ箱にまで入れてくれたのだが開けることはしていなかった。
『香りを、確かめるだけなら。』
部屋の壁に据え付けられたフックに吊るしたブレザーのポケットから、包みを取り出して机の上に置く。包装をとくと、店で見た時以上の香水瓶の輝きに胸が高鳴る。
小瓶はマーガレットか何か花を模した蓋が付いていてサテンリボンで見えにくくなっていたが差し込む部分も加工されているようだった。理科室で見かける薬瓶のようにも見える。
倫子がそっと蓋を引き抜くと、ふわり、香りが広がった。甘ったるい、化粧臭いにおいではなくて、ハーブティーや草原を連想させる優しい匂いは、初めての香水としては抵抗は少なく蓋の方を鼻先に近付けてみても、香りが強すぎるとは感じなかった。
クラスの女子の見様見真似で手首の内側にちょん、と濡れている蓋をつける。零さないように気を付けて瓶に蓋をしてから、手首をこすり合わせてみる。
正直に言えば、たかが香水くらいで何かが変わるわけもない、と倫子は思っていた。けれど、その考えはたった今覆される。今なら、素直になれそうな気分だ。きっと、私を小ばかにしているクラスの女子にだって言い返せる。何故かそう感じた。
「倫子。」
ドアが開くのと同時に声が聞こえた。母だ。倫子は椅子に座ったまま母に向き直る。
「進路調査、明日提出でしょう。西高校にしなさいって言ったけど、ちゃんと修正したの?」
「……お母さん。私、やっぱり桜月女子に行きたい。」
いつもなら、これ以上言葉を続けることはできなかった。言い返される言葉に押し負けて二の句が継げず、言い損ねた言葉が自分の中に留まり続けていた。
「私、どうしても桜月女子に行きたいの。あの学校には、教育コースがあるし幼稚園が実際に併設されてるから実習だって受けられる。私立だし、お金がかかるけど、どうしてもあの学校へ行きたいの。卒業して、大学を出ればそのまま幼稚園へ勤めることもできるコースだから、今頑張りたい。お願いします。」
倫子は今まで両親に反論してこなかった。その倫子が今、母に自分の意見をきちんと伝えられた。倫子自身も驚くほど、きちんと言葉が出てきたことで母は目を丸くしていた。
居心地の悪い少しの間を開けて、母が口を開く。
「……もう少ししたら、お父さんが帰ってくるから。もう一度ちゃんと、お父さんにも言ってごらんなさい。」
母は何故か、少しだけ嬉しそうに口元を緩めながら、部屋から出て行った。
その背中を見送った倫子はそっと、握りしめていた手を開く。偶然かもしれない。けれど、本当に背中を押されたような気がして嬉しくなり、また机に向かうとやる気がなかった数学の教科書をめくり始めた。
春が来て真新しい制服に身を包んだ倫子は、暇を見つけては中学の時に見つけたあの店を探して歩いている。あれだけ通った道なのに、結局、中学を卒業した今も店は見つけられない。
「ほんとにそんな店あったのー?」
中学からの友人、ユキが言う。イケメン店長がいるなら!と一緒になって店を探してくれるものの、どうしても見つからずにとうとう妄想扱いされ始めた。
「絶対にあったの!白っぽい壁の、2階建てで、店の前にモスグリーンの看板が出てて…」
「店名とか、もっと他に覚えてることないの?」
オーダーしたハンバーガーのセットを食べながらユキは問う。倫子は頭を垂れ、左右に軽く振った。
「通学路の、あのセレブ通りのどっかの路地なのは確かなんだけど、ネットで探してみても、glorieuxなんてお店見つからなかった…」
「じゃーわかんないよ。私もセレブ通りはいっつもスルーしてたし。てか、話かわるけどさ。倫子って、いつから眼鏡になったんだっけ?そんなに目、悪かった?」
ポテトに手を伸ばしていたユキが問う。落ち込みポーズだった倫子は顔を上げるとうーん、と小さく唸りながら考え込んだ。
「んー……去年の秋ごろかな。受験勉強で視力が落ちたんだと思うけど、ちょっとね。まぁ、休みの日はコンタクトとかもあるし、別に平気だよ。」
「いや、心配とかじゃなくてさ。もしかして、視力も“お代”に含まれてたんじゃないの?100円+視力。」
「もうっ!ユキは漫画の読みすぎ!明日からの実力テスト、どうなっても知らないからね!」
倫子はぶすくれてみせる。が、ユキの言葉が気になって仕方がなかった。
『香りのものは人を癒したり、気分を変える手伝い、望みを叶える後押しをしてくれますから』
『これでお代は結構ですよ。』
あの時の店主の言葉がフラッシュバックする。確かに、あの頃を境に倫子は変わった。掃除をさぼる男子に強く注意することができるようになったし、女子の輪にも入れるようになった。第一志望の桜月女子にも無事に合格したし、家族間でも意見を言えるようになった。
その反面、時を同じくして視力が落ちたのは事実だ。ただ時期が重なっただけだと思うけれど、何故か100%の否定もできなかった。
今も倫子の制服のポケットには、例の香水瓶が入っている。中身は揮発もあってどんどん減っていくけれど、ここぞというときにその瓶を見るだけでもモチベーションが変わる。倫子のお守りとなっていた。
「あー、でもいいなぁ……視力だろうが寿命だろうが減ってもいいから、私もそんなイケメン店長に香水とかアクセとか選んで欲しいぃぃ!」
ハンバーガーもポテトもぺろりと平らげたユキが言う。まるで悪魔か何かと取引したみたいな言い方があんまりで、なんだかおかしくなって倫子は吹き出してしまった。
「ユキちょっと酷いよー。でも、いつか見つけられたら、店長さんにお礼が言いたいかな……」
テーブルの上を片付けながら倫子は思う。本当に、私が都合のいい所だけを覚えているのかもしれないし、脚色しているのかもしれない。ただ、あの店『glorieux』は確かにあった。ユキの言うように漫画的に言うのなら、必要な人にだけその門は開かれているのかもしれない。
二人は揃ってドリンク片手にテスト勉強を始めた。不思議な香水屋の話を時折挟みながら。
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