効果 1

甘い毒。(第9話)

黒田 薔子

小説

8,751文字

著者の代表作『甘い毒。』の第九話です。

女性向けR18サイトへ投稿、完結と共に瞬く間に10万PVを突破したデビュー長編です。
※性描写を含みますが官能が主目的のものではございません。苦手な方は予めご注意ください。

 髪は纏めてクリップでアップに、白いボウタイのブラウスと黒いシャドーストライプのパンツスーツを着て化粧もした。化粧をした時点で吐き気がしたけど半日だけの辛抱、と自分に言い聞かせる。バッグの中にはなけなしの化粧品を詰めたポーチとスマホ、財布、少し前まで使ってたパスケース、シガレットケース、それから筆記用具。
 寝起きからすぐシャワーを浴びてニコチンとブラックコーヒー、栄養補給ゼリーを流し込む私を見てハラハラしていた諒は、着替えてリビングに戻った私を見てちょっと驚いていた。
「いつもそうやってればすっごい綺麗なのに。ちょっと惚れちゃいそう。」
「お世辞はいいから。」
 財布から千円札を取り出してテーブルに置き、昼ごはん代だと伝えた。
「夕飯は一緒に食べよう。昼過ぎには戻ってくるから。」
 有給?十八日目、私は出社の支度をしていた。
 神山さんと話した翌日、私は買い出しの後電話してみた。もう一度戻ることを承諾した旨を伝えると、すぐにでも来て欲しいと言われて今、朝からスーツを着込む羽目になっている。
 今日は上の人間と話だけして、そのまま昼過ぎには戻って来るつもりだった。明日から働くことも問題はないけれど、この格好で一日倉庫に籠るのは難しい。動きづらいしスーツも汚れてしまう。
 出発前最後の煙草を吸いきってから、滅多と使わないGUIPURE SILKブルームーンを取り出し、空中に向けて一吹きした真下を潜る。黒いレースのボトルデザインに一目ぼれして買った香水は、自分から進んで買った唯一と言える女性らしいものかもしれない。
 コートを羽織り、マフラーを巻いて、一度だけ振り返る。廊下まで見送りに来てくれた彼に少しだけ微笑んで、心配ないよ、と目で伝える。
「いってきます。」
 玄関のドアを開けた瞬間、冷え切った外気が頬に刺さった。でも、それが何故か心身を引き締めてくれて、後ろ手にドアを閉めるとそのまま駅まで歩きだす。
 久方ぶりのハイヒールは脚が痛かったけれど、電車に乗ってしまえば大して歩かずに済む。改札を潜り抜けさえすればエレベーターもあるし、通勤・通学のラッシュとは反対方向へ向かうのだから、空席がないというのは滅多とない。
 さほど待つこともなく、滑り込んできた電車に乗り込んで、七人掛けの長椅子の端を陣取り、バッグを膝に載せた。
 電車に揺られながら、時折に気になるのは他者の視線。自意識過剰と言われればそれまでなのはわかっていても、同世代と制服世代の女が怖くてたまらない。何か自分では気が付かないミスをしていて常に笑われている気がしている。
 少しでも意識を逸らそうとスマホを取り出し、ニュースを斜め読みしてみたりパズルゲームをしてみたりと工夫はする。ただ、特別そのゲームが好きというわけでもなく退屈で、うつむき加減のまま私は眠ってしまった。
 タタン、タタンタタン…
一定の揺れの中、夢とはっきりわかる暖かい空間で、私は諒と手を繋いでいた。私は左手に煙草を持っていて時折それを口に運ぶ。諒は嬉しそうに笑いながら何かを一生懸命に話しかけてきて、それに応えると大笑いしたり、拗ねてみたりコロコロと表情が変わる。何故か音だけが遠くて、二人が何を話しているのかはわからない第三者視点でそれを眺めていた。
 タタン、タタンタタン…
 私がいつか手に入れたいと心の奥で思っていたのは、こういう生活だったのかもしれない。実家の父と母は仲睦まじく…とは言えなかったし、母に限って言えば問題行動を起こす旦那とどこかネジの外れたような舅姑と暮らし、子供が女だったからと詰られて毎日同じ服を着て…何が楽しいんだろうかと不思議でならなかった。だから、結婚というものは自由を失くし自分を殺すものだと思い込んでいた。多少の恋愛はしてきても、結婚願望というものはとてつもなく薄かった。
 タタン、タタンタタン…
 手を繋いでどこかへ二人で出かけるだとか、くだらないバラエティで笑いあったり、たまの外食で他愛ない話をして…そんな、まるでテレビドラマの中のカップルの様な暮らしに憧れていたのかもしれない。私の目の前で笑っている『私と諒』を見て、なんだか胸が痛んだ。
 ゴトッ!と自分のスマホが落ちる音で目が覚めた。意識が急浮上して、慌ててそれを拾い上げる。タイミング良く本社の最寄り駅に到着するところで、私はバッグにスマホをしまい込みパスケースを取り出し、降車準備をした。
 本社は駅から徒歩十分とかからない場所にあって、駅周辺に張り巡らされた地下道を通っていけば冷たい風に晒されることもなく、通勤ルートとしてはそこそこ快適ではある。地下はショッピングモールのようになっていて、ファッションビルやオフィスビルに直結している部分もある。大きな駅だからそのまま私鉄、JR、地下鉄につながっているというのは便利なものだ。
 平日の朝は当然通勤で込み合うものの、約束してある時間はラッシュとはずれていて人通りも知れている。鞄を肩にかけて私は黙々と歩いていく。本社の最寄りの出口から地上へとエスカレーターに運ばれていけばもう、目的地は目の前だ。
 一つだけ深呼吸をしてから、小さな雑居ビルへ足を踏み入れた。
 有給は使ってしまったのに違いはないのでそのまま日数は差し引くが、今後年度内に何かあって休みたい時には融通を効かせてくれる。お給料は微妙にアップ、明日以降は有給とみなさない、出社は年が明けてから…条件がある程度まとまって、納得できたところで私は判を捺した。心底申し訳なさそうな神山さんと、入社以来滅多と顔を合わせたことのない社長がペコペコ頭を下げるのを見てはわがままも吹っ飛んだ。本来ならこんな事態あってはならないことだけど、中小企業にありがちな限りなく黒いグレーな部分には慣れっこだ。
 帰り際、二人がかりで見送られて更には交通費を渡されそうになったので辞退した。まだ定期の期間内でもあったし、ボーナスも支給されると聞いたら別にそこまでしてもらわなくても…と思い、素直に告げた。
 雑居ビルを後にして駅までの道をほんの一、二分歩いているうちにまた雪が降り出した。バッグからマフラーを取り出してしっかりと首に巻き、地下へと歩を進める。
 電車に乗ってからふと、スマホの時計を見てみれば十四時には家に帰れそうだった。待っているはずの諒の顔を思い浮かべると自然と頬が緩んだ。早く帰って彼の顔が見たい。
 ぼんやりと窓の向こうを流れていく景色に目をやりながら、今後の事を考えていた。
 こうやって仕事に通い出すと、諒との連絡に困る。彼が私といるときに携帯やスマホをいじっているのを見た記憶がないし、ずっと一緒にいたから気にも留めていなかった。もし、このまま一緒に暮らそうというのなら携帯電話を買い与えるべきか。ぶっちゃけると、家出少年の一人や二人養える程度のお給料は貰っていたし、貯金が底をついたということもない。最新機種等に拘らなければスマホ位与えてもいいかもしれない。何せ、ECモールのセール時には早朝出社や終電帰り、今までには無かったとはいえ泊まり込みの可能性すらある。諒が夜中まで待っていて帰るなり『おなかすいた、死ぬ、もーだめ…』なんてソファで伸びているところが目に浮かぶ。
 ふと、握ったままの自分のスマホを見てみれば、型遅れはさておき、隅の塗装はところどころハゲているし画面にも微細な傷は多い。大したアプリは入れてないし、写真や音楽をたくさん保存しているわけでもないけれど動きが鈍いこともあるし、電池の持ちも悪くなってきた。そろそろ買い替え時なのかもしれない。
 家に戻ったら諒に打診してみようか、と考えがまとまったところで丁度、電車は最寄り駅に到着した。足早に改札を潜り抜けマンションのドアを潜ると、諒が玄関で待っていた。
「おかえりなさい、葉月さん。お疲れ様。」
「た、だいま。」
 思わず言葉に詰まった。まさか玄関にいるとは思っていなかったし。犬かなんか?
 私の鞄を持ってくれて、そのままリビングへ連れていかれるとテーブルの上には綺麗にされた灰皿と、買った覚えのないメイク落としシートがあった。
「多分、葉月さんのことだからすぐに化粧落としたいっていうだろうと思って。これで粗方落としてから一服して、着替えと洗顔すればいいじゃん。」
 すぐコーヒー淹れるね、とキッチンへ消えていく諒を目線だけで見送りつつ、本当にこれは助かった。考え事をして気を紛らわせていたとはいえ、この顔に何か張り付いたような感覚はなれないし、やっぱり気分はよくなかった。
 ジャケットを脱いでソファに投げ捨て指定席に腰を下ろすと、言われた通りメイク落としシートでゴシゴシ顔を拭きまくった。白いシートがベージュに染まらなくなるまで拭いて、漸くセブンスターに火をつけた。
「昼ごはんちゃんと食べた?」
「んー、コンビニ行ったんだけどこれと言って思い浮かばなくてさぁ。メイク落としシートだけ買って帰ってきちゃった。すんげー顔してたよレジの人。」
 苦笑いしながらたっぷりとコーヒーを注いだマグを私の前に置いてくれる。そういえば私もお昼は食べてない。けれど、今更何か買ってくるという気分でもない。
 マグにコーヒーを半分ほど残したところで立ち上がり、手早く着替えを澄ませてカットソーとデニムのラフなスタイルになると、私はそのままキッチンへ向かう。諒が入れ替わりにダイニングに戻ってきたところで、不思議そうにしている。
 冷蔵庫を開けると卵とベーコンの買い置き、クリームシチューのルゥの残りとカニカマがあった。足元に適当に置いた段ボールの中には玉ねぎが少々、冷凍室にはほうれん草とコーン、それから揚げるだけのコロッケとフレンチカットのポテトフライ。
 一番大きな鍋にたっぷりと水を入れて火にかけ、塩を適当に放り込む。大き目のフライパンを出して少な目の水を張りシチュールゥを入れる。玉ねぎを薄切りにして、一口大に切ったベーコンとコーンと一緒にフライパンに入れて火にかければ、かなり濃いめのクリームシチューが出来上がる。沸いた大鍋でパスタを茹でて芯が残った固めの状態で引き揚げてフライパンのシチューと混ぜれば即席クリームパスタだ。
「食べる?」
 取り敢えず一つの器にだけ盛り付けて諒の前に置いた。諒は『もちろん!』と笑顔になる。
 いつもだったらこんな気疲れして帰ってきたのに食事なんか作りたくなかった。何か出前を取るか、もしくは諒に買いに行かせるだろうと思う。今日、帰ってきてからでも作ったのは単純にその方が彼が喜ぶと思ったからだ。どれだけ私は彼に惚れ込んでるんだろう。喜ぶ顔が見たい、だなんて今までの恋愛でもそんな風に思うことはなかった。
 スプーンとフォーク、それから彼用のコップと冷蔵庫のお茶を取り出して自分の分もよそい、同じテーブルに着いた。彼はこんな即席のメニューでも嬉しそうに食べてくれるから作り甲斐があるというのも大きいかもしれない。して当たり前、されて当たり前、じゃお互い擦り切れていくばっかりだ。
「ねぇ、諒。」
「ん?どしたの?」
「いつも、ありがとね。」
 養ってるから、置いてやってるから、じゃなくて彼に感謝しよう。ここにいてくれること、私の事を見ててくれること、ちゃんと伝えたい。
 仕事に復帰すると決めたのは自分なのに、形容しがたい不安があった。人間関係の苦手な私がまたあの場所へ戻って、元通りに仕事ができるのかどうか。今後も、諒と暮らしていけるのか。考えなくちゃいけないことはたくさんあるし、うじうじと悩んでいた。諒は私の事を『カッコイイ』と言ってくれるけど、いつまでもぐるぐる同じところで悩み続けるちっぽけなタイプの人間で、ちっともカッコよくなんてない。
 そんな私の為に、灰皿の掃除をしてあったり、入浴剤が置いてあったりと小さな気遣いが嬉しかった。例えそこに良からぬ企みがあっても、してくれたことが嬉しかった。
「諒が来てから、少しだけ…モヤモヤしたものが楽になってる。仕事も上手い方向に行ったしさ、感謝してる。」
 うまく言葉にできないのが悔しい。私の感謝は伝わっているだろうか。
 パスタをフォークで巻き取る合間、チラリ、と彼に視線を向けてみれば呆けた顔をしている。気恥ずかしくて見なかったことにしてパスタを口に入れ、次の話を振ってみることにした。
「それでさ、私、年明けから出社になったんだけど…遅い時は深夜帰りとかあるしさ。諒と連絡取れないの不便で。携帯持ってる?持ってないなら買いに行こうよ、私が払うから。」
 『家出少年』というのが本当なら、携帯は持っていても使わない可能性もある。私が実家にいた時もそうだったけど、GPSで見張られたり、何をしていても電話がかかってくるのが鬱陶しくて『電池切れ』と称してなるべく使わなかった。尤も、当時当たり前だったインターネット通信の使い放題やメールサービスを制限されていたし、友人も殆どおらず使うことはなかったのだけれど。
「いいの?」
「いいよ。ウチの会社、酷い時は泊まり込みとかあるしさ。その時は連絡するから、悪いけど先ご飯食べて寝ててーとか言えるしさ。」
「結構厳しい会社だよね…」
「でも、今の倉庫は配送会社の倉庫を間借りしててシャワールームも借りられるからさほど気にならないよ。下着とカットソーの替えだけはデスクの私物入れに置いてあるし。」
「そんなのあるの?」
「今はDASH配送の物流倉庫借りてる。コンビニとかデパートとかでも宅配便て出せるでしょ?あれ、当然だけど、一度大きなセンターに集められてそこで危険物チェックしたり、仕分けするの。で、DASHの場合は郊外に大きい倉庫建てて、そこで航空便、陸路、冷凍冷蔵…って仕分けしたり指定日時までの調整したりするんだよね。で、間借りするメリットとして、そのまま集荷してくれるの。おんなじ建物内にこっちの発送部門があると、普通は夕方四時には集荷が終わるから出さなきゃいけなくてもフロアが違うだけだから六時とかまで行けたりする。あと単純に倉庫と梱包作業場を借りると思えば賃料も安い。シャワーに関しては…玄関口まで行く仕事だから、身だしなみとか厳しいんじゃない?交代勤務で夜中も人いるし。単純に福利厚生かもしれないけど。」
 もちろん、白犬急便とかコウノトリ便とか配送業者はたくさんあるから他のところは知らない。ただ、神山さんから聞いた『賃料が安い』というのは少し意外だったことは記憶がある。
「で。どう?私との連絡ツール、持っててもらえない?」
「まぁ…それなら、買ってもらおうかな。受信専用の激安機でいいよ。」
「ん、わかった。じゃあ、食べ終わったら着替えるから、食器洗いお願いね。」
 皿が空になったところで私は煙草を片手に寝室へ移動する。契約しているスマホも機種変更するつもりでバックアップを取り、着替えを出してシャワーを浴びた。化粧を落とすのに念入りに洗って浴室から出た時にはテーブルの上に食後のコーヒーがあって、やっぱりちょっと『男女逆だよなぁ』と自分の女子力の無さを嘆いた。

 スマホはショップで見てみてもあまり差異を感じられなかった。というのも、そこそこに電池が長持ちしてくれて、片手で操作ができて、ニュースやネットが見れればいいというだけの事なら後は価格とデザインの差しかなくなる。諒もこだわりは特に無いようで、『安くなっていたから』という理由で同じ機種の色違いを持つことにした。ついでにカバーや液晶保護シートもつけるとそこそこの金額になったが分割だし、問題はない。
 真新しいスマホを鞄に入れて二人でショップを後にした時には日が暮れていた。昼ごはんが遅かったせいで大してお腹は空いていないけど、そろそろ冷蔵庫の中がさみしくなってきたし、ついでに買い物もして帰ろうといつもの大型スーパーに立ち寄る。
 適当に買い込んで店の外に出た時にはすっかり日は落ちていて、空には星も見えた。
「そういやさー、オレ、昼のテレビで見たんだけど、今夜辺り流星群が見られるんだって。」
「ん?どこで?」
「全国って言ってたからこの辺でも見られるかもよ。街灯とか照明が少ないとこなら。」
「見たいの?」
 荷物を無理やり片手にまとめて、空いた手で煙草を取り出し火をつける。一息深く吸い込んで空を見上げてみても、照明が強いのが悪いのか星なんてまるで見えなかった。この辺りで見えそうなところ…一か所だけ、心当たりがないこともない。
「見てみたいけど、そんな都合よく暗いところってのがさー、オレ想像もつかない。」
「あるよ?行く?ちょっと歩くけど。」
「えっ、嘘!行きたい!」
「んじゃ、家帰って支度しよ。結構歩くし寒いからね。」
「りょーかーい!」
 二人、心持ち足早に家へ戻った。私だって星を見るのは別に嫌いじゃない。星座がどうのとか、一等星がどうのとかそんな知識はなくても、なんとなく眺めているだけでもロマンチックでいい。
 諒が早速、新しいスマホで調べている。深夜一時頃がピークだと言われ、私はこっそり支度をしておく事にした。
 軽く夕飯をとってからうたた寝して、零時前に家を出た。二人でダラダラ歩くと小一時間はかかるはず。普段は使わない合皮のリュックサックに細々とした物を入れて持ち出すと、サッと諒がそれをかすめ取り背負ってくれた。
 駅から近い我が家を離れ、次第に住宅街になるに連れて明かりは少なくなっていくが、それでも街灯やマンションの蛍光灯がある。時折足元でカラカラと木の葉が転げて音を立てるが、車も、人も通らないせいで、互いの息遣いさえ聞こえそうだ。
 皮手袋とマフラーを巻いて、ライダースの内側にはカイロも仕込んだ。その所為で三十分も歩けば十分に体はあったまってきて、吐き出す吐息は煙草も吸っていないのにかなり白く長くたなびいた。
 隣を歩く諒もそれは同じで、私のお古の手袋をした手をコートのポケットに突っ込んで、時折天を仰ぎながら小刻みに息を吐き出して遊んでいる。
 一般の住宅が減って、今度は煌々とした大通りに出る。この辺りは海が近くて、海沿いには工場や倉庫が幾つもありちょっとした工場地帯になっている。スピードを上げて行き交う大型トラックやワゴン車を避けるように一本裏手の細い道に入れば目的地は既に見えていた。
「ほら、そろそろだよ。」
 私が連れてきたのは食品工場の裏手にある遊歩道。工場だらけのあちこちの路地から入れるのに、誰もこんなところを通らない所為で寂れている、街灯さえ殆どない場所。万が一の時の防波堤の役目を果たす高い壁で覆われ中が見えないから尚更誰も来ない。古くなったベンチがぽつん、ぽつん、と距離を開けて二つ程おいてあり舗装された道と少しの芝生、それから高いフェンス。その向こう側はもう海だ。
 ベンチに腰掛けて諒からリュックを受け取るとマグボトルに入れたコーヒーを飲む。ついでに携帯灰皿を取り出して一服。隣に座る彼にもコーヒーを勧めると、今日はブラックなのに素直に受け取った。
 時折ざあぁぁあ、と波の音がする。フェンスの随分と向こう側では浅瀬の上に架かった高速道路を走る車のテールランプが瞬いていた。でも、それも上を見れば目に入らない。
 用意していた何かのおまけの小さなビニールシートを諒に渡し、芝生の上に寝転ぶことを勧める。そのあと私も煙草を消して、リュックを枕にベンチに転がってみた。
 藍色の空にはぽっかりと満月が浮かんでいて、月明りで星が見えないかと思ったがそうでもない。月から離れたところでチカチカと小さな光を確認できた。三つ並んでいるのが確かオリオン座の真ん中の部分。あとは名前も知らない。けど、綺麗だった。
 波の音と、星の瞬きと、月の光。静かな薄暗がりの中で体を横たえていると妙に落ち着いて、自然と肩の力が抜けていく。たまに海風が抜けて寒いのは寒いけれど、そんなことは気にならなかった。
「あ。今の流れ星?」
「えっ、葉月さん見えたの?どこ!?」
「北側。」
「北ってどっち?」
 他愛ない言葉の応酬の間にも何本かの光の尾を見つけた。望遠鏡や双眼鏡は無いし、そんなに目も良くないけど数分に一つは見つけられる。
 流れ星に三回願いをかけるといいんだったか、とふと思い出して…私は願ってしまった。『諒との、この関係が続きますように』と。
 自分の気持ちに気が付いて告白するべきか悩んで、短時間に考えがコロコロ変わるのはどうなのかと思うけど、多分そういう性分なんだろう。臆病で、素直じゃなくて、うじうじしてて。で、自分が一番楽な方に流れていくんだ。
 でも、これ以上傷つきたくないししんどい思いをするのも嫌だ。今、この関係でいられれば諒とは少なくとも離れないで済む。私が思い切って『好きだ』と思いを伝えてしまえば、彼は私の部屋を出ていく可能性だってある。また一人ぼっちでインスタントを食べて、仕事だけにしがみついて、くたくたになるよりも曖昧な関係でも長く続くならそれを敢えて壊しに行きたくない。
 もう一つ、一際キラキラした流れ星を見つけた時、私は欲張りにも『諒が私を好きになりますように』とも願った。三十路間近のいい大人がすることじゃない、きっとこんなことが許されるのは十代までだとは思うけど、心の中でなら、バレなければいいよね、と言い聞かせた。

2018年6月28日公開

作品集『甘い毒。』第9話 (全12話)

© 2018 黒田 薔子

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