作用 3

甘い毒。(第8話)

黒田 薔子

小説

8,934文字

著者の代表作『甘い毒。』の第八話です。

女性向けR18サイトへ投稿、完結と共に瞬く間に10万PVを突破したデビュー長編です。
※性描写を含みますが官能が主目的のものではございません。苦手な方は予めご注意ください。

 合鍵を渡してからというもの、諒はご機嫌だ。新しいおもちゃを手に入れた子供のように何度も眺めてみたり、ポケットの中で弄繰り回していたり、さらに言えば(自販機でコーヒー買ってきて、レベルの)くだらないお遣いでも直ぐに出かけ、わざわざ鍵を開け閉めする。
 一度、縁に刻んである文字について聞かれたものの、『そういうデザインじゃない?』とごまかしておいた。英語はからきしだ、と言う彼を見ながら、アホの子で助かった…と胸をなでおろした。
 だって、我ながらクサすぎるでしょ。あの時の私はきっと宇宙人か何かに操られていたに違いない。99.9%私の意志じゃなかったはず。
シルバーアクセは嫌いじゃないけど、特段好きなわけでもないし、所謂PBだからって激安なわけでもなかった。否、それ以前に合鍵を渡す必要があったのか?と問われればそれも首をかしげるポイントでやっぱり取り返そうかとどれだけ思ったことか…
 諒は、あれ以降私の事を好きだ嫌いだ、とは言わなくなった。ただ、眠るときには必ず私の方を向くようになって同衾しようとする。寒い日が続き、冷えに負けた時はベッドに招き入れたりもしたがそれ以上の事はしなかった。キスも、セックスもしなかった。
 100%の愛情を向けられるのは嬉しくて、少しくすぐったいけど心地良い。だからといって、それを受け入れるわけにはいかなかった。前途ある若者をこんなところで燻ぶらせるわけにいかない、というのは宣言した通り。でも、それ以上に不安なのは男に頼ったら私の方がぽっきりと折れてしまいそうだから。
 高校を出てから今まで、実家には戻っていない。何せあんな田舎では仕事はないし、この歳になって未婚というのは親を泣かせ、近所から小ばかにされること間違いなしで単純に帰るメリットがない。だから私は、この街で生きていくつもりだった。自分で稼いで、人に頼らないで、体が動くうちはガンガン働いて他人の迷惑にならないうちにポックリ死ねたらそれでよかった。
 家を飛び出してから、何人かの男と付き合いもしたけれど、その範疇で言えば男はお荷物だった。最初は甲斐甲斐しく世話を焼き、愚痴を聞いてくれるものの、自分の仕事が切羽詰まってくると逆に私に対してそれを求めてくる。求めるだけなら勝手だけど、私が世間一般の女と同じように彼らを慰めることができないでいると『裏切られた!』とばかりに私を詰る。それに腹が立って部屋から蹴り出したりするから、長続きはしない。
 中学・高校時代の苦い思い出もあってぶっちゃけると私は女が嫌い。というより、怖い。私が化粧や流行りもの、茶髪を好きになれない理由の一つとして、当時の彼女たちが連想されることが挙げられる。酷い時には虐げられた場面が、フラッシュバックして吐き気を催すことさえある。同世代の女性が怖い。制服姿の女の子が怖い。だから、ぶっちゃけると女友達は片手で足りたし、男友達含め現在の人間関係は都市部に出てきてからのもので浅く狭く、仕事の関連を消してしまえばスマホの電話帳だって必要なくなると思う。
 女性の輪に混ざって噂をすること、コスメやブランド物の話をすること、オシャレなカフェでSNS用の写真を撮ること、複数人で広がって歩くこと、何もかもが恐怖の対象なのだ。世間でいうところの女性らしさからは遠ざかるのを承知で、ほぼすっぴん、流行りものに無頓着でいる。
 こんな私は必ず、諒を押しつぶしてしまう。独りの時ですら女性が多く集まる場に行く事が出来ず、着飾るべき場所を警戒する以上、私と一緒にいれば彼の行動を制限することになる。そんなことも想像できない程子供じゃあない。だから、抱きしめられた時の幸福感や一緒に食事を採れる喜び、遂にはもっと触れてほしいと思い始めたこの感情には、蓋をしておくべきなのだ。

 特別なイベントもないまま、私は日常を消費する。諒との関係も何も変わらないまま、有給消化も半分を過ぎた。
 諒はこの頃、時折外出するようになった。どこへ行くとも言わないし、私も何をしているのかも聞かない。帰宅したときに寒そうにしていればコーヒー位は淹れてやるけど、それだけ。
 ただ、この日がいつもと違ったのはクリスマスまであと1週間で世間はいよいよ本格的にクリスマスフェアを告知していたこと、酷く寒くて今年最初の雪のひとひらを見かけたこと、それから、全く鳴ることのなかったスマホの呼び出し音が鳴ったこと。
「葉月さん、ケータイ鳴ってる。」
 ブランチも済ませた昼過ぎ、私はクイズ番組の再放送を眺めていた。寝室の掃除をしに行った諒から渡されたスマホに表示されていたのは『神山さん 携帯』の文字だった。慌ててそれをひったくり、長らく使うことのなかった仕事のトーンで電話に出た。
「はい、杉下です。」
「お疲れ様です、神山です。…今、ちょっといいかな?」
「はい、構いません。何かありましたか?」
「えーと…ちょっと、会って話したいんだけど。時間取れるかな、僕がそっちへ行くから。」
 私は驚きを隠せずに目を見開き、ちらりと諒を見る。諒は黙っていた。気配を殺して、まるで透明人間のように、上手く透過している。
「それは、今日ですか?」
「出来れば早い方がいいね。詳しいことは会って話すつもりだけど――簡潔に言うなら杉下さんに戻ってきてほしいんだ。」
 なんだそれ。なんだそれ。なんだそれ。
 私の顔色が変わったのだろう、諒がさっと動いて私をソファへ座るよう無言で促したあと、離れた場所で火をつけてから煙草を手渡してくれた。深く、煙を吸い込んでちょっと気持ちを落ち着かせる。
「解りました。私も詳しく伺いたいので、お手間をとらせ申し訳ありませんがこちらまでいらして戴けるということでしたらすぐに支度します。」
 駅前のコーヒーチェーンの喫煙席で一時間後に会う約束をし、電話を切った。手元のタバコを吸い終わると諒にかいつまんだ内容を説明し、身支度を整える。白いコットンシャツ、黒いVネックニット、ストレートのデニムにエンジニアブーツ、ひっつめ髪にメンズのボストンバッグ。久しぶりの仕事用の格好は気持ちをシャキッとさせてくれた。
「じゃあ、行ってくるね。留守番お願い。すぐ戻るから。」
 薄手のコートを羽織って待ち合わせ時間の十五分前に家を出た。歩いて五分も掛からない目的地までの間、様々なことが頭を掠めていく。
 戻ってきてほしいとはどういうことなのか。松原さんはどうしたんだ、それとも別部署へ入れということなのか。何かの間違いじゃないのか…
 考えをまとめる暇もなく着いた待ち合わせ場所では、神山さんが既にコーヒーをすすっていた。近くにいた店員に席を伝えてオーダーし、一度深呼吸した後、『お待たせしました』と声をかけ、一礼してから向かい側に座った。神山さんはどこか憔悴したように見える。
「突然呼び出してすまない…要件としてはまぁ、電話で話した通りなんだけどね。杉下さんにもう一度戻ってきてもらえないかと思ってる。」
「どういうことなんですか?実店舗の展開に失敗した、というような話は伺ってますし、松原さんが戻ってらしたんで人手が足りないということもないですよね?」
「その松原さんが問題なんだよ。」
 神山さんは苛立ったような盛大な溜息をつき、頭を抱えた。続きを待っていると『ごめん、一本くれない?』と煙草を要求された。どうぞ、とライターと箱ごと差し出すと迷いなく一連の動作で火を灯した。返された箱から私も一本。
「松原さんがね、辞めるっていうんだよ。」
「は?」
「えーと、娘さんが産まれて産休明けにそのまま復帰するはずだったんだけどね、どうもその…大きい声では言えないんだけど。まぁ、家庭内で色々あったみたいでね、実家のある九州へ帰るってことになったんだよ。」
「ご主人の都合ということではなく?」
「あー…まぁ、言ってしまうと。産まれた子が、旦那さんの子じゃなかった、ってことで離婚するらしい。」
 届いたばかりのコーヒーカップを取り落としそうになった。そんな昼ドラみたいな泥沼愛憎劇が身近でおきるとは思ってもみなかった。まぁ、『事実は小説より奇なり』って言葉もあるし、第一私だって得体の知れない男と暮らしてる辺り大きな口はきけないけども。
「で、慰謝料だとか子育ての都合とかで実家へ帰るがために年内で出社できなくなる、と。」
「それで私にお声がけくださったんですね。」
「そういうことだ。外部から新人をとって育成するような時間もないし、年明けから春先にかけては例年通り、子供関係のイベントが増える。一刻も早く年明けからの人手を確保しなければならない状況なんだ。」
 渋い顔をした神山さんは積もった灰を落とし、一拍の間を挟んで言葉をつづけた。
「既に、次の就職先を決めたとか、理由があるなら無理にとは言わない。可能なら…戻ってきてほしいのが正直なところだ。上とも意見は一致してる。使ってもらった有給に関しても、上がどうにかする心づもりだろうし適当にやってくれるだろうから、あとは杉下さんの返事次第だ。」
「……少し、考えさせていただけますか?」
「勿論。ただ、出来れば…今週中には返事をもらいたい。メールでも電話でも構わないから。それでいいかな?」
「はい。ありがとうございます。」
 私は深く頭を下げた。
 以前の私なら間違いなく、一も二もなく即座に『お願いします!』と首を縦に振ったはずだ。何を迷っているのか自分でもわからない。ただ、諒の顔が浮かんだ。早く諒と話したかった。
 コーヒーショップを出た時には雪が降っていた。神山さんを駅まで見送って家に戻る。まずは、何の話だったのかを話して、就活しなくて済んだことを話して…嗚呼、こんな日だ、今日は外食にしようか。クリスマスディナーなんて洒落たものじゃないけど、久しぶりにちゃんとしたお店に行くのもありかもしれない。寒いしちょっとお値段は張るけど、足を延ばしてお気に入りのラーメン屋へいくのも個人的にはアリだ。
「ただいまー。」
 返事はない。いつかのように眠っているのかもしれない、とさして気にも留めずリビングへ行きすっかり暗くなった部屋の明かりをつける。ダイニングチェアにコートをかけてソファに寝ころび、長らくチェックしていなかった自社サイトをスマホで検索してみた。
 嫌な言い方だが、松原さんはどうも私程には気を使ってはいなかったらしい。商品レビューのページを見ても、カスタマーサービスの評価を見てもあからさまにここ数日のものは評価が低い。自分を必要以上に高く見積もるつもりはないけど、『仮にもベビー用品の店だから』と徹底していた部分は報われた気がする。
 季節柄、コスプレロンパースがよく売れているようだ。トナカイ、サンタ、スノーマン等のキャラクターをモチーフにした洋服とぬいぐるみのセットが高評価を得ている。ただ、これらについても『不良品でした』『発送までが遅い』等のレビューが多い。
 社内からも必要とされ、お客様からも喜ばれるなら、すぐにでも仕事に入りたかった。ただ、今は諒がいる。仕事が始まればそれなりに朝は早く、場合によっては深夜まで帰れないこともある以上、勝手に返事をすることは憚られた。これまでに関係を持った男たちのように蹴り出してもいいはずなのに、それができないのは何故なんだろう。
 考えるまでもない。私は諒が好きなんだ。
 八歳も年下の男の子に本気になっていて、男になんか頼らず仕事一筋で生きていくはずだったのに今やこの体たらく。でも、もうこの感情に蓋をし続けることはできそうになかった。
 起き上がり、スマホをテーブルに置くのと入れ違いにセブンスターを咥える。また寝室で眠っているのなら煙を吹きかけて起こしてやろう、とくだらないことを企てて火をつけた。けど、寝室には誰もいなかった。出窓から差し込む赤い色だけがそこにあって、体温すら残っていなかった。
 寝室のミニテーブルにも、リビングのダイニングテーブルにも、冷蔵庫のメモ貼り場にも、書置き一つなかった。またコンビニにでも出かけてるんだろう。『つまんねー…』とだけひとりごちてまたソファにだらしなく転がって、ニュースサイトを流し読みして時間をつぶした。
 日が落ちて真っ暗になってから、諒は帰ってきた。なんだか小難しい顔をしていたけれど、話しかけるといつものように飄々と笑った。
 夕食はイタリアンの店へ出かけた。基本的には私は麺類が好きだ。ラーメンもパスタも、蕎麦も好き。インスタントのカップ麺でもコンビニのパスタでもいいけど、出来る事ならやっぱりこうやってプロのいるお店で出来立てを食べたい。仕事をしていた頃から給料日後に行く行きつけの店に彼を案内した。
 お店は例のショッピングモールの裏手にひっそりとあって、雰囲気もいいし値段もお手頃なのにいつもそれなりに空いている女性の言う隠れ家的なお店だった。別にSNSのいいね!を求めているわけじゃないからオシャレさに拘ったつもりはないけれど、この店の“生ハムとルッコラのピザ+ほうれん草と自家製ベーコンのジェノベーゼ”という組み合わせがやめられない。
 オーダーしてから私は、今日あったことを諒にかいつまんで話した。
「…で、葉月さんはどうしたいの?」
 諒に改めて聞かれるが、私の中では未だに決まっていない。キラキラしたグラスの水の中に映るライトの明かりを見つめながら逡巡する。
「私の勝手だけで言えば、復帰したい気もする。就活しなくて済むし、キャリアって程でもないけど今までの経験が無駄にならないでしょ?十年近くあの会社にいたんだし、それなりにお給料は貰ってたもん。契約内容や条件によっては他当たってもいいけど…」
 嫌な思いもしたけれど遣り甲斐のある職場ではあった。お客様からの感謝、レビュー、ECモールのページが完成した時、推していた商品が完売した瞬間…振り返れば楽しいことも多かった。第一、『嫌な思い』の大半は女性社員・パートのくだらないマウンティングや噂話が九割を占める。逆に言えば人間関係で以外は大したミスをしてはいないのだ。(一度だけの大きなミスはこのマウンティングが行き過ぎた結果で、その時には神山さんが仲裁して下さった。)
「そか。なら、復帰するべきだよ。葉月さんならよそでもやっていけるかもしれないけどさ、たぶん、その仕事が好きなんだよ。天職ってやつ?そんなさ、ジャンルは違えど接客とか、毎日ストレスとの闘いだって人多いじゃん?ノルマがー!とかクレームがー!とか聞くし。仕事が好きだっていうと、社畜とかって叩かれるかもしれないけど、単純に葉月さんには向いてるんだって。」
 諒は私を馬鹿にしない。見下さない。
 彼の言う通り、仕事が好きだと言えば社畜だと煽られたり、嫁の貰い手が無くなるだの脅されたり、私が何かをすることを否定する人は多くいた。あの古臭い田舎でもそう、私の希望は基本的には通らなくて、騙し騙し道を切り開くしかなかった。
 仕事の事や将来の事に限らなければ、どこででも、いつの時代にも多かれ少なかれあることだとは思う。けど、だからと言って私は目の前に降って湧いたチャンスをみすみす逃す程諦めてはいなかったはず。クビになったら死にたくなったあの気持ちは仕事への情熱の裏返しだ。
「カッコいいじゃん、バリバリ働くキャリアウーマン。そりゃ、葉月さんは女の人だから、子供産んで育てるとか、誰かと結婚するとか、他の道も選べるかもしれないけどさー。別に今、それをしたいわけじゃないっしょ?じゃあ、仕事したっていいじゃん。」
 ありがとう。背中を押してくれて。その通りだ。
「オレはさ、はっきり言って頭良くないしぶっちゃけ働くのも嫌だ。めんどくさいし、苦労するとか嫌なの。でも男だからさ。専業主夫許してくれる人と結婚するとか親のすねかじりするとかしないと生きていけないじゃん?で、渋々バイトとかするわけ。だから、仕事したいってすげーカッコイイ事言ってる人が目の前にいるのに、尊敬して、応援しない訳ないじゃん?」
 私は別に今すぐ結婚したいだとか子供を産みたいだとか思ってない。別に子供が嫌いとも思わないけど、自分が産み育てるなんて想像もつかない。今はただ、そこそこに遊んでガツガツ働けたらそれでいい。将来の事を考えなければいけない年齢に差し掛かっているのは解っているけど、私の頭の中を占める欲求はそれに尽きる。
「ありがとう、諒。明日、神山さんに電話するよ。」
「ん、そうしなよ。邪魔しないし、なんだったらトイレかどっかにこもってるから。」
 キリのいいところで注文していた料理が運ばれてきて、話題は食べ物の話に自然とシフトする。生トマトが嫌いだとか、子供の頃ピーマンに追いつめられる夢を見ただとか、深夜のラーメンは何故あんなに美味いのか…本当に他愛ない話。
 美味しく平らげて家に帰ると、私はまずクローゼットの片隅で埃をかぶっていたスーツとブラウスを引っ張り出した。大き目の紙袋に丸ごと突っ込んで玄関脇に置く。続けてこちらは埃もかぶっていない保存箱のままのVivienneWestwoodのプレーンバッグを出して中身をチェックした。
「明日、朝イチでクリーニング出しに行くから。朝ごはんもまた、あそこのモーニング行く?」
 先日言った喫茶店の脇にはクリーニング店も入っている。朝九時までに出せば当日中に引き取りが可能だ。喫茶店は七時に開くし、そのあと買い物もできてちょうどいい。
「それでいいよ。あ、お風呂溜めるねー。」
「うん、ありがとー。」
 再契約となると上の人と会うかもしれない、その思いで頭がいっぱいだった。いくら倉庫勤務とはいえ、いつものジーンズで上の人と会うのは流石に憚られた。
 スーツOK、ブラウスOK、ストッキングは明日買えばいいしバッグはOK。あとは靴と化粧…と、そこまで気が付いて気が重くなった。
「化粧やだな…」
 ぽつりと本音が漏れる。でも、仕方がない。スマホのメモ画面に靴とストッキング、化粧品とだけメモをしておく。あとは明日の昼過ぎに神山さんの手が空いただろうタイミングで電話をする。本社に出向く日取りが決まったら、あとはその当日だけ気合を入れればいい。
 諒が溜めてくれたお風呂は、また入浴剤が置いてあった。私の不安を感じ取るのがうまい彼はこうやってふとした時に些細な気遣いをしてくれる。そんなところが好きだ。
 有難く入浴剤を入れた湯船に浸かって考えるのは、この気持ちの落としどころ。自分の気持ちに蓋をするのはやめよう、とまとめたはずなのに、いざ言葉にするのはとても難しかった。どのくらいの間、恋愛なんてしてこなかっただろう。指折り数えてみれば恐ろしくなった。
 それと同時に気が付いた。今もまだ、諒は私に好意を寄せてくれているんだろうか。あれだけ否定し、鼻で嗤ってしまったのに、今も好かれているとは考え辛い。同衾することも、結局否定し続けて今はまた別々に寝ているし。
 どんな顔をして今更告白とかすればいいの。無理でしょ、積んだよコレ。頭の中で声がする。その通りだ。
 体中ふやけるまで湯に浸かってフラフラしながら寝室へ向かい、諒の顔を見ないようにしてさっさと眠った。恥ずかしさ、自分への苛立ち、それから少しの仕事への不安で頭がいっぱいで少し整理したかった。
 翌朝、当日受け取りの予定でクリーニングを出し、喫茶店で朝食を採る。朝十時までのモーニングメニューのサラダセットをオーダーする。たまごとハムのオープンサンド、ブラックコーヒー、たっぷりのサラダでまずはエネルギー補給。諒がサラダのトマトをこっそり私の皿に押し付けてきたのでお返しにキュウリをくれてやる。因みに私はキュウリがあまり好きではない。
「葉月さん、オレのサラダやたらとキュウリが多いんだけどなんでかなー。」
「知らないよ。なんでか私の皿にトマトいっぱいあるけどちょっと分けてあげようか?」
 大丈夫、今日も平常運転。仕事に復帰すると決まったら急にテキパキとやる気がわいてきて、私は黙々とサラダとオープントーストを平らげ、セブンスターに火をつけた。
 ストッキングを買い、靴を探す。サイズの問題であまり選んでいられない私は、その日一日だけだし…と売れ残っていた白いハイヒールを買った。電車移動が主だし、駅から本社まではそう遠くない。
「顔色悪いけど大丈夫?」
「……多分ダイジョウブ。」
 朝一番にこの大きなスーパーにやってきたのは理由がある。化粧品コーナーに人が少ないからだ。特に苦手な同世代や制服世代の女がいないだろう時間を狙ってきたが、それでもこのコーナーは抵抗がある。
 いつもはスルーするキラキラしたコーナーで、所謂プチプラコスメを見比べる。肌の色に合わせて…というのがまた難しい。自分の顔なんて鏡を見るのすら嫌なのに色なんて解るわけがない。かといってコスメカウンターへ行くのはもっと怖い。
 若い子向けのプチプラコスメのコーナーでBBクリームとフィニッシュパウダー、マスカラ、薄付きのローズ系リップとダークローズのチークを選んで会計した。所要時間、十五分。しかし早くも私の心はへし折れそうで、店の外の喫煙コーナーまで足早に逃げ出した。
 煙草二本を消費して尚、顔色の悪い私を見かねたのか諒が手を引いてくれた。外は酷く寒いのに、諒の手はとても暖かかった。こういうことをされると、正直勘違いしてしまう。まだ、私のこと好きなの?なんて。
 家について諒は私を寝室へ押し込み、買い出しは自分がいくから、とエコバッグと財布を持って再び出かけた。家の中に一人になった私はベッドに大の字に伸びてため息をつく。高鳴る心臓の音が嫌に耳障りで落ち着かず、スマホでどうでもいいパズルゲームをして彼が戻るまでの時間をつぶした。

2018年6月28日公開 (初出 ムーンライトノベルズ

作品集『甘い毒。』第8話 (全12話)

© 2018 黒田 薔子

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