摂取 3

甘い毒。(第4話)

黒田 薔子

小説

10,992文字

著者の代表作『甘い毒。』の第四話です。

女性向けR18サイトへ投稿、完結と共に瞬く間に10万PVを突破したデビュー長編です。
※性描写を含みますが官能が主目的のものではございません。苦手な方は予めご注意ください。

 町の空気が、まだ眠っている時間にも拘わらず私は目を覚ます。割とよくあるパターンだ。
 出窓のカーテンから見える空は、明け方というよりもまだ夜に近い深い藍色をしていた。二度寝するにはしっかりと覚醒してしまったし、コーヒーでも淹れよう。そう思って布団から抜けだした時。
 ――ぐにゅ。
 冷えた足先が、転がっていた同居人を踏んづけた。
「あ。ごめん…」
 幸いにも体重を掛けて立ち上がろうとする前に気がついたし、多分問題はないだろう。と、自分に言い聞かせてから彼を跨ぐようにしてどうにかベッドから下りる。
 廊下は酷く寒かった。スリッパを冬物に変えたほうがいいかもしれない。実際、だいぶ草臥れているし、次に買い物に出た時には買い換えよう。
 そんな事を考えながらキッチンカウンターの前に立ち、慣れた手順でコーヒーメーカーをセットして寝起きの煙草に火をつけた。
 水切りカゴからマグカップを取り出す時に、ピカピカのシンクに目が行った。食後に食器洗いを任せたけど生ゴミの類も綺麗に片付けてくれたようで、三角コーナーには新しいネットが設置されていたし嫌な臭いもしなかった。
 奴め、完璧な仕事をしやがって。やっぱり家事できるじゃんか。と、また独り言。咥え煙草のままで喋り気が付く。積もった灰が落ちそうだ。テーブルの方へ戻ってそれを落とし、序にカーテンを開けた。
 部屋の照明はつけていないから、室内はリビングに面する掃き出し窓からの光で薄っすらと青い。空が青白く滲んでいて、漸く日が昇るんだろうかとボンヤリ眺めた。
 淹れたてのコーヒーをマグカップに並々と注いで、残りはそのまま保温する。指定席に座ってカップを傾けながら考えるのは、夢に見た仕事のことだった。
 地元の低レベルな高校をどうにか卒業した後、逃げるように家から離れた今の会社に就職した。
 家から、地元から、逃げ出したい一心で就職したが為に勤務内容にこだわりも希望もなかったし、配属された先がどこであろうと文句など無かった。本社で内勤を二年やって、今の倉庫に移動になってから初めて、自分の目で大量の取り扱い商品を見た。自分でピッキングして商品を発送した翌日、本当にたまたま、自社のオリジナルブランドのベビー服を着た親子連れを見た時、やり甲斐と言うものを感じた。
 自分にとってはありふれた、毎日の何も変わらない業務であっても、直接的にお客様と接していなくても、私達が関わったものが誰かの役に立ったり、喜びになるなんて事を意識したのは初めての事で、神山さんに報告したら笑われた。
 それ以降、もっと、もっと…と仕事にのめり込んでいった気がする。
 スタイ一つの注文であっても、セール品のまとめ買いであっても、遠く離れた場所で誰かがこの商品を必要としているのだと思えば、出来る限りのことをしたいと強く思うようになった。
 ベビー服を注文するということは、赤ちゃんがいるか、近々産まれるか、ということ。きっと私には想像もできないくらい素晴らしい事でそのワンシーンに自分達が陰ながら関われるということが誇らしかった。
 だから、私は無意識に、ダラダラとやる気の無い一部のバイトの子が苦手だったんだろう。
 誰かに昔言われた気がして思い出す。『のめり込むのは悪くないけど、周りが見えなくなるのはいけない』という話。
 私は多分、その『周りが見えない』クチになっていたんだろう。世間話をする暇があれば、商品の補充がしたかったし、仕事上がりの一杯よりもお客様の要望に目を通す時間が欲しかった。その結果、『仕事命』に見えていたんだとは思う。
 もう一つの他の女性陣から浮いてしまう原因――こればっかりは、どうやって治せばいいのか、未だにわからない。
 灰皿に置きっぱなしのフィルターが焦げる匂いで我に返る。思っていたより深く考え込んでいたことに気がついた。コーヒーは、カップに半分を残して冷めてしまっていた。
 煙草は念の為に灰皿に押し付けて、冷めたコーヒーは一息に飲み干した。
 諒を起こそう。せっかく飼っているのに、一人で考えこんで鬱々とするのはうんざりだ。ここ数日忘れていた『もうどーにでもなーれ』『死んでしまえ』が首をもたげてくる。
 私は新しい煙草に火をつけ、ワザと足音をさせながら寝室へ向かう。
 乱暴に寝室の扉を開ける。さっき踏んづけてしまったにも拘わらず、目的の人物はくーかー小さないびきをかいて、ペラペラの毛布ごと丸まっていた。戸の開閉にもばたついた足音にもまんじりともしないで眠っていられるのはなかなか羨ましい。
 ベリッ!と音がしそうな勢いで毛布を取り上げる。剥がした毛布はクルクル丸めて部屋の隅に投げ捨てた。
 真新しいスウェットの上下を着た諒は一言『寒い』とだけ呟いて、身震いする。それから、目を開けてこちらを見上げてきた。
「起きて。」
 今日は私の方が早く起きれたもんね、という気持ちも少しだけ含めて。所謂ドヤ顔になっていたかも知れないけど、そこはご愛嬌。薄く目を開けてもそもそと、諒は動き出した。
 リビングへ戻りながら、折角朝早くに起きたのに無為に過ごす理由もないという事をつらつらと、耳障りのいい言葉を適当に並べて語り、二人してダイニングテーブルについた。
「という訳で、デートしよっか。」
 無為に過ごすというのも悪くはないのだが、予定の無い休日が続けばそれに飽きてしまうというのも、実際よくあるパターンだと思う。耳障りのいい言葉でいくら飾ろうとも、どうしても今、今日、出かける理由なんてものは無い。言い訳がましい事この上ないのだけど、こうして冗談めかして言うことで少しだけ罪悪感が薄れる気がしたのだ。
 思っていたよりも寝起きの悪い諒はといえば、私の提案の真意が掴めず寝ぼけ眼のまま、ゆらり、と立ち上がるとキッチンへ向かい、冷蔵庫から取り出した緑茶を飲んでいる。唐突な提案に対して抗議もツッコミも無い、というのはなんだか物悲しかった。
「じ、冗談はさておき。ちょっと遠出しない?美味しいパスタのお店があって、久し振りに行きたいんだけど。」
 ごっ、ごっ、ごっ。喉を鳴らして二杯目の緑茶を飲んでいた諒は漸く口を開いた。
「いいよ。いこ。」
「よし来た。開店と同時に行こう。朝昼兼用ってやつ?」
「…せめてブランチとか言えない?」
「ババァで悪かったな。」
 ショートコント終了。私は着替えることにする。細く開けた掃き出し窓から首を出して、外気温を確認した。
「結構冷えるよ。ジャケットとかコートの類あるの?」
「……ない。」
「なら、序に見繕おうか。」
 私は窓を閉めて寝室に着替えに戻る。その間に諒はコップとコーヒーサーバーを片付ける。
 ブラジャーを着けてタンクトップを被る。ここまでは良い。問題は服だ。何を着るか。オシャレぶったところで素材が駄目なんだから余計に浮いてしまう。
 少しだけ考えてから眉だけ書いて、着慣れた黒いニットチュニックとダメージスキニーを選ぶ。タイツを履いて、服を着て、いつもの私が出来上がる。クローゼットから白い合皮のボストンバッグを出して、財布、スマホ、ハンカチ等中身を放り込む。このバッグはデザインがひと目で気に入ったメンズの安物。それでも兎に角長らく愛用している。フロントのポケットが煙草とライターを入れるのに適したサイズだということと、羽織モノを丸めて押し込んでも余裕がある収納力はレディースバッグでは得られない。
 あらかたの支度を終えてリビングに戻ると諒が困った顔をしていた。
「あのさ…腹減りすぎて気持ち悪い…」
 カゴにあった菓子パンを投げつけて、煙草に火をつけた。温かいコーヒーを入れてやる気にはならなかった。
 電車で三十分。私の定期圏内の駅で降りる。本社がある街は割と都会で、テレビの中の東京程ではないけれど平日休日問わず人でごった返している。
 駅から連結橋で繋がっているファッションビルで、先に諒の服を見繕った。ご飯が先のつもりだったのに、寒い寒いと五月蝿い彼の我儘だった。
 よくあるチープなカジュアルファッションの店でアウターだけを買うつもりだったのに自分で払うから、と言って次々と手に取るのを私は眺めていた。
 白黒の太めのボーダーのニットと白いシンプルなタートルネックニットソー、少し薄手のキャメルのピーコート。グラデーションのストールと緋色のカラーパンツ、ストライプのシャツにネイビーのセーター。まだ、他にも見て回ってる。
 私は半ば飽きてきて、喫煙所へでも引っ込もうかと思いながらスマホを眺めていた。
 自分のファッションについても疎いけど、メンズに至ってはもっと疎い。服なんて、着心地が良くて毛玉や解れが無ければ問題無いと思ってる。TPOと言うものがあるだけに、スーツやドレスも僅かには持っているけれど、進んで手を出したいかと言われるとそんなことは無い。
 暇つぶしに開いたニュースサイトを流し読みしていると、会計を終えた諒が戻ってきた。
「おまたせ。」
 スマホの画面から顔を上げた私は、開いた口が塞がらなかった。
 さっきまで着ていた服から着替えている。濃灰のショールカーデと白のタートルネック、デニムは細めのシルエットで少しだけ明るい色。バッグは黒の合皮だろうトート。足元は黒のブーツだけど、これも新しい物にしたらしい。
「いくらかかったの…それ……」
「キニシナイキニシナイ」
 笑って誤魔化してはいるが、バッグにアウターに靴ともなれば最初に私からもぎ取っていった五万なんてすっかり消え去ったのではないだろうか。いくら疎くても靴やバッグの値段込でトータルコーディネートすれば、紙幣にはいとも容易く羽が生える事ぐらいは想像できた。
 今朝着ていたと思われる毛玉のついたパーカーやカットソーは安っぽいビニールのショッパーごと、私の目の前で燃えるゴミのゴミ箱に叩きこまれた。
 マナーとしてどうなのかとは思ったが、もしかしたらショップスタッフに許可をとったかもしれないし、布なんだから広義には燃えるゴミだ。この辺りはゴミの分別も緩いし、今回は目を瞑ることにした。
「よし、行こうか。」
「ハイハイ。……先に喫煙所行ってもいい?」
「じゃあ、その先の休憩所で待ち合わせで。オレ、トイレ行ってくる。」
 一つ頷きを返してから私は喫煙所へ向かった。
 昨今の嫌煙ブームであちらこちらの店が分煙となり、ショッピングモールやファッションビルでは建物の目立たない場所に隔離スペースを設ける所が増えた。このビルも同様に、バックヤードへの入り口の脇にひっそりと存在していた。
 ガラス張りの喫煙所は、まるで檻だ。ジュースと煙草の自販機、灰皿。轟々と空調が喚いているだけの、静かな檻。内装や広さは所によって違えど、未成年の喫煙防止を盾にガラス張りで誰でも中が覗けるようになっている。
 ジッポライターで火をつける。カキン、という金属音が嫌に響いた。
 このビルの隔離スペースは狭い。今は私しかいないが、あと三人もいれば窮屈に感じると思う。今時は『吸わせて戴けるだけありがたい』というものなんだろう。時折横切るスタッフや、トイレを探して入り込んできた客は大抵の場合、チラリとこちらを見て通り過ぎる。檻の中に閉じ込められた珍獣を眺めるようにその目は冷たく、無感情。
 他人が吸おうが吸うまいがどちらでもいいし、嫌いだ、止めてくれというなら自重するくらいの理性はある。子供の前では吸わないし、仕事中に煙草休憩を取るなんてこともなければ、携帯灰皿を持ち歩く。それでも嫌煙者達は声高に、喫煙者に非難の声をぶつけ、石を投げつけないと気が済まない。
 そういう相容れないものかもしれない。私だって化粧品の匂いが好きじゃない。うっかりトイレや電車の中で化粧直しをする場に遭遇するとくたばれ!と思うし、甘ったるいヘアスプレーの匂いがする巻き髪女を蹴飛ばしたくなる。結局どこかで、声の小さい方が譲らなくてはいけないのだ。
 ゆっくりと、フィルターギリギリまで堪能したセブンスターを灰皿に落とし、ガラスの檻を後にした。
 諒は既に休憩所で待っていた。さっきまでの大荷物が消え、手荷物はトートバッグ一つだけになっている。私の視線で気が付いたのか、手をヒラヒラさせて事もなさ気に言う。
「序にコインロッカーに放り込んできた。今日はデートなんでしょ?葉月さん。」
 『葉月』と呼ばれるのは、この奇妙な生活で二回目。胸の奥がざわざわする。名前で呼ばれるのは慣れなくて、なんだかむず痒かった。
「ランチはパスタだっけ?」
 備え付けのベンチから立ち上がると私を視線で促し、駅への連絡通路に向けて歩き出した諒を慌てて追いかけた。
 パスタは納得の行く味だった。本社で仕事をしていた頃は、給料日だけココでランチをするのがほんの少しの贅沢だった。すぐ隣のコーヒーショップのテラス席で煙草をふかして、休憩時間目一杯まで社外にいたこともある。
 今日もテラス席で煙草をふかしながら人の動きをボンヤリと眺めている。記憶に残るあの頃の行動と違うのは、向かい側に諒がいること。
「さっきのパスタすっげー美味かった!あんな店あったんだね、知らなかったよ。」
 余程気に入ったのか、ニコニコと人懐っこい顔をしてカルボナーラの味について語っている。
 でも、私の耳はカルボナーラの話より、隣のテーブルの会話を大きく拾っていた。
「ほんと、もーこの会社辞めてやりたいわ!」
「給料安いし、いい男がいるわけでもなし。やってらんないよねー…」
 オフィスカジュアルを着た二人組の女性。似たようなメイクに似たような髪型で、二人共首から社員証らしいネックストラップが掛かっていた。勿論、先端のタグ部分はジャケットのポケットに収まっていて名前や会社名までは把握できない。
「毎日毎日、コピー取ってオッサンにお茶淹れて、電話取って書類まとめるだけだよ。イキイキ仕事してるのってクニタケさんだけじゃん?あの人、何がそんなに楽しいんだかわかんないけど、無駄にキビキビしてない?」
「そうそう!昼休みにさ、給湯室から戻ってこなくて、何してんのかなーって思ったらさ、シンクの掃除までしてんの!当番でもないのに。マジウケる。」
 見知らぬ『クニタケさん』と自分を重ねてしまった。
 想像でしかないけど、お茶汲み一つであってもその人は全力なんじゃないかと思った。どうせなら、お茶を飲んだ人には喜んで欲しいし、次に給湯室を使う人には気持ちよく使って欲しいだろうから。
 他人の話を盗み聞きするような無作法なことをするつもりはなかったが、私の耳は勝手に拾い続けた。その後も、彼女達は『クニタケさん』が精一杯やる事を貶し続け、ひとしきり笑った後に帰っていった。
 散らかし放題のテーブルをスタッフが片付ける頃、手元のカップは空になった。知らず知らずに溜息がこぼれた。
「次はどこ行く?」
 空になったカップに向けられたままだった視線を上げる。諒は既にコーヒーを飲み終えていたのか、頬杖をつき、空いた手でマドラーを弄んでいた。
「え。あ、あー…特に、考えてなかったんだよね。なんとは無しにパスタは食べたかったんだけど、気が済んだし。」
 テーブルの上に時計代わりに置いていたスマホによると、まだ十四時前だ。帰るには少し早すぎる気もするが、これと言って行きたいところがあるわけでもない。
「じゃあ、オレ提案していーい?」
「いいけど。どこいくの?」
「んじゃすぐ行こ!着いてからのお楽しみって事で!」
 ガタガタ音を立てて椅子から立ち上がる諒は二人分のカップを載せたトレイを持ち、スタスタと先を歩き出した。私は素直に着いて行く。ふと、気になって振り返る。それから、ポケットティッシュを取り出して、サッとテーブルを拭った。

「あり得ない。ふざけないでよ、帰る。」
「ふざけてないから!ね、一回だけいいでしょ?ちょっとだけだから!!」
 諒が行きたがったのはゲームセンターだったから、すっかり油断していた。男の子らしく何かやりたいゲームがあるんだろう、位にしか思っていなかったのに。
 何故か、プリクラ機の前にいる。
 白を基調として黒とピンクの装飾文字が踊る機械の中に連れ込まれた。大きなライトが幾つもあるし、モニターも大きい。私が知ってるプリクラじゃない。
「デートと言えば定番でしょー!」
 そんなこと言われても。最後に撮ったのなんか遥か大昔だ。周りはみんな中学生か高校生。大の大人が何やってるんだ、と自己嫌悪に襲われる。
 今すぐにでも逃げ出したい私をスルーして諒はジャラジャラとコインを入れる。
「ほら、ポーズ取って、早くっ」
「え、うそやだまって」
 最後に撮ったのは、いつだったか。多分、高校生の時が最後だと思う。『プリ帳』と呼ぶ好きなノートに、交換した友達のものや彼氏とのプリクラを貼り付けていくという文化があったけれど、私はほんの数ページも埋めることができないまま、高校生活を終えてしまった。
 ポーズが決まらないだの、マンネリだから変顔してみるとか、立ち位置を変えるだとか、何故かいつもお金を入れてから慌てる。埃をかぶっていた記憶が遠くに見えた。
 録音された案内メッセージに従い、撮影ブースから落書き用のスペースへ移動する。床に置いたバッグを取ろうとすると妙に身体が重い。
「なんか……すっごい疲れた…」
 目がチカチカする。歳をとった所為なのか、この十年でプリクラ機が進化し続けた結果なのかは定かではない――恐らくは両方なんだろうけど。
 落書きは諒に任せた。昔からこの落書きというのが苦手だった。どうにも、可愛く書くセンスもなければ、面白いことも書けない。だから大抵は、一緒に写る友人にペンを握らせて自分は一歩下がっていた。
 若い女の子は苦手だ。少しばかり気分が悪い。安物のお菓子とヘアスプレー、香水の臭いがする。時間の経過と共に増えていく来客人数、しかもプリクラコーナーの女性比率はほぼ100%。
 目眩がする。自分がここに立っていることが罪であるように思えて、勝手に手足が震える。笑われているんじゃないか、また浮いてるんじゃないか。白の中の黒、箱の中の腐ったミカン。
 私は、ここにいては、いけない。
 転がるようにゲームセンターを飛び出して、全力で走った。こういうとき、スチールキャップの分だけ足が重い。けど、そんな事にも気が付かない程走って、走って、走りながら泣いていた。

「みつけた。すげー探したよ。」
 頭上からため息混じりの声がする。私は顔を上げられなかった。
 走っても走っても、人の目が気になって仕方なくて、忘れていられたはずの『仕事をしていない負い目』まで襲ってきて、無我夢中で逃げた。逃げた先は、人気のないあの檻だった。
 隣に諒が座り込む気配がする。走ってきたんだろうか、彼が座る左側だけ仄かに暖かくなった。
「置いて行ってごめん。」
 どうにか、口を開くことができた。彼には悪いことをしたと思ってる。
 こんな広い街で手掛かりなく誰か一人を探すなんて、無謀にも程がある。そうとう探しまわったんじゃなかろうか。
「いいよ、ほら。なんかさ…喧嘩したカップルみたいで面白くない?」
 怒りだして、蹴飛ばされても仕方ないと思ってたのに。諒は怒るどころか、場の空気を変えようと努めて明るくしてくれているようだった。――別に笑えるようなものではなかったけど。
 彼は立ち上がると、膝を抱える私の前に放り投げたバッグを取り上げる。埃を払い、外ポケットから煙草を取り出すのが見えた。
 火をつける音と、煙草の匂い。
 視界の外で起こっていることが解らない。気になってゆっくり顔を上げると、こちらを伺っていた諒が目の前にしゃがみ込む。
 手には、火のついたセブンスター。
「ちょっと落ち着こ。オレもコーヒー飲むわ。」
 おずおずと受け取ると彼は、片隅に置かれた自動販売機へ向かう。
 私は袖口で目元を拭い、深く煙を吸い込んだ。口が乾いている所為なのか、酷く苦かった。
「そんなにプリクラ撮るの嫌だった?」
 私が幾分落ち着いて、二本目の煙草に火をつける頃に彼が問うた。
 そりゃ、この歳でプリクラは恥ずかしかったけど。逃げ出した理由は、勿論違う。ただ、その『逃げ出した理由』を伝えたところで理解してもらえないと思うし、言い訳でしかない。
「プリクラは恥ずかしかったけど…逃げる程嫌じゃない。――逃げた理由、は。あんまし、言いたくない。」
「そっか。なら、いいよ、無理に訊かない。」
 失望した!という風でもなく、ニッコリと笑いながら缶コーヒーを飲み干して、私の分と一緒に捨てに行ってくれた。
 吸い殻を灰皿に落としこむのを見届けてから、そっと、私の右手と彼の左手が重なる。
「『デート』なんでしょ?役得役得。」
 さも当たり前、と言ったふうに。やんわりと手を握られた。ニッコリと笑いながら嬉しそうに。
 私は黙って、その手を握り返す。熱い手をしていた。
「帰ろっか。疲れたでしょ?」
 気遣ってくれて、ありがとう。――これだけのセリフが素直に出てこない。肯定の言葉の代わりに少しだけ、指先に力を込めた。
 二人で檻を後にして、諒のロッカーの荷物を回収してから、駅までの道を歩いた。
 黄昏時、というやつか。日が落ちて街のシルエットを長く長く引き延ばす。
 手を繋ぐ私達は周りからどう思われているんだろう。こんなに歳の離れた二人は、どんな関係に見えるんだろうか。
 仕事を失くした直後の、足元が抜けるような不安とよく似たモヤモヤした感情が渦巻く。
 自意識過剰と言われればそれまでだけど、他人に笑われるのは嫌だ。増して、私じゃなくて諒が笑われてしまうかもしれない。私なんかじゃ、彼に不釣り合いで申し訳無い。きっと不自然に見えてる。
 国道を跨ぐ連絡通路がまるで、今にもロープの切れそうな古い吊橋に思える。歩くうちにぎぃぎぃ音を立てて揺れて、私を振り落とすんじゃないかという妄想に囚われそうになる。
 無意識に右手に力が入ったのに私は気付かないまま、帰りの電車に乗り込んだ。
 スーツ姿のサラリーマンや制服の少女達がひしめく電車の中で、諒は依然として薄い笑みのままだった。だけど会話がない。
 陽が落ちて、ガラスは鏡のように反射する。外の景色はろくに見えなかった。映り込む私の顔は、いつもに増して不健康そうで、見るからに疲れ果てていた。
 自宅に戻ると諒は、近くにホームセンターはないのかと尋ねてきた。今日買った服を収納する場所が欲しいのだという。確かに今日の買い物の量を考えればそれも仕方のないことだと思う。彼がいつまで此処にいるのかはわからないけれど、当面居座るのであれば私物を収納する場所も必要になるのは明白だ。
「使ってない引き出し、使えばいいじゃん。ちょっと待って。」
 クローゼットの中に手を突っ込む。クリアの安い引き出しを一つ発掘して、手前に引っ張り出した。中にはしまいっぱなしの古くなったタオルが少々。年末の掃除のときにでも使うつもりで古くなったものを貯めておいたものの、年に一度出すか出さないか、じゃあもったいない。中身はもともと不用品だ。容赦なくケースの外側を拭いてそのままゴミ箱へ突っ込む。
「ほんとにワイルドだよね…」
 私の行動を眺めていた諒はぼそり、と呟いた。どこかの芸人じゃあるまいし、笑いを取るためのワイルドさ演出じゃあないんだけども。
 取り敢えずはこれでしのぐように伝えて、風呂の湯を溜めにバスルームへ向かう。
 何故か、諒の顔がみれない。申し訳なさなのか、恥ずかしさなのか、妙に気まずい。バスタブにスプレー洗剤を振りまいてブラシでこするだけの簡単な作業なのに、さっきの喫煙所でのことを思い出しては手が止まる。
 あてもなく探し回っても、怒らずに寄り添ってくれたこと。わざわざ火をつけてから差し出されたセブンスター。
 そんな馬鹿な。これじゃまるで、恋する乙女だ。
 いや、そんな綺麗なものじゃなくて。頼りない年下の家出少年を飼っているつもりだったのに、逆に私が迷惑を掛け通しで子供みたいだ。
 迷いを吹き飛ばすように、勢いよくシャワーの水をぶちまけて、バスタブを洗い終え、そのまま湯を張る。静かに深呼吸を一つしてから、リビングへと戻ると、諒はすでに部屋着のスウェットに着替えていて私の分も含めてコーヒーを淹れてくれていた。
 これはナチュラルにやっているのだろうか?それとも、気に入られようと頑張ってるの?
 疑問は口に出さずに、ありがとう、とだけ呟いてから定位置に座り、煙草に火をつけた。
「ところでさー。聞きたいことがあるんだけど、怒らないで聞いてくれる?」
「いいけど。私、そんなに怒ってばっか?」
 向かいに座る諒は、どうやらラテにしたらしい。なみなみ注がれた湯気が立ち上るカップの中身は柔らかい色をしている。
 質問には答えずに次の言葉が出てきた。
「今日って、デートだったんでしょ?じゃあさ、当然…この後も期待していいの?」
 悪意のない顔でにっこりと笑顔を向けてきたが、言ってることは大概酷い。『結局ヤりたいだけじゃねーか!』と叫びそうになったが、どうにか飲み込んだ。彼がそれを本心で望んでいるのかがわからない。
 ナチュラルに優しいが故に、私を慰めようとしているだとか、さっきまでの空気をここで変えようとしているのかもしれないし、取り入ろうとしているならば私が望むだけ、そういう奉仕もしてくれるんだろう。ちっとも、嬉しくない。
「…調子乗んなよ?叩き出そうか?」
 結局、男っぽいキレた風な口調を装って、わざと煙草の煙を吹きかけるにとどまった。
 夕飯は結局、デリバリーのピザ。作る気力がわかなかった所為もあるし、何より今の私は包丁なんて握ったら自分の指を切り落とす可能性が高い。疲れたから、を理由にすると諒は納得したらしく私を気遣いつつもポストに突っ込まれていたチラシを見ながら嬉しそうに選んでいた。
 久しぶりの宅配ピザの味は、よく判らなかった。結局のところ入浴中も、食事中も、諒の些細な優しさや態度に自分が癒されていることに気が付いてしまって、何をしていてもどぎまぎしてしまうのだ。
 テレビを眺める諒に断って、私は先に布団にもぐりこんだ。
 二十八にもなって、私はどうしたというのか。
 特別な感情を持つつもりもなかったし、こんなことで気持ちがぐらつくなんてどうかしてる。
 自分自身にあきれながら私は目を閉じ、微かに聞こえるバラエティ番組のチャチな笑い声をBGMにゆっくり眠りに落ちていく。きっと一晩眠れば気の迷いだったとわかるはず。明日は一日眠っていよう。
 諒が寝室に来た時には、私はすっかり眠りこけていて、そっと頬を撫でられたのを知る由もない。

2018年6月28日公開 (初出 ムーンライトノベルズ

作品集『甘い毒。』第4話 (全12話)

© 2018 黒田 薔子

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