寝室の出窓を開けた。眺めがいいわけでもないし滅多と開けない窓はサッシに埃が溜まっていた。黒レースのカーテンは取り外し、洗濯機に放り込んで漂白剤につけ置きする。
「正直信じらんねーわ。そんなに掃除めんどい?」
私はというと、リビングでボンヤリと煙草をくゆらせている。
手際良く空気の入れ替えと掃除をしているのは、他ならぬ同居人の諒。寝室の雑多なゴミをリビングとキッチンの間にある大きなゴミ箱まで運びながらぼやく。コンビニで買ったおにぎりとサラダも、幾ら肌寒い季節とはいえ何日も経っているが為にそのままゴミ袋に飲み込まれた。
「やる気起きないんだもん。別にちょっと散らかってたって死にはしないよ。」
声を掛けたけれど、彼はまた隣の寝室へひっこんでガサガサと何か作業している。しぶしぶ立ち上がり、脱衣所から掃除機を持って掃除の手伝いをしに向かった。
有給消化二日目の朝、彼は私の部屋から起き出すと強引に部屋の主を起こし、掃除を始めたのだ。
「この家で暮らすなら、私の言う事には従ってもらうけどいいの?」
掃除を済ませて綺麗になった部屋の中でまた煙草をふかす。半分は無茶振り、半分は本気の話だ。
轟々と音を立ててフルパワーで働いている空気清浄機も、長らく掃除なんかしていなかったのにピカピカに磨かれフィルターの丸洗いまでしてある。家事能力の高さで言えばほぼ100%諒に軍配が上がる。ともすれば、家事を丸投げすればなかなかに美味しい思いができるのではないかと考えた。
仕事が本当に忙しくて、泊まり込みこそ無かったものの昼休憩もろくに取らずに始発から終電まで仕事をした時などは、家が散らかり、コンビニに寄るのも億劫だった。嫁が欲しいとさえ思っていた。その経験を踏まえての台詞。
「別にいいけど、飯作るのとか無理だよ。掃除は好きだけど、それ以外の家事は期待しないで。」
「…役立たずが。」
「えっ、ひど!」
最寄りのスーパーまで買い出しに出る。仕事着のジーパンとシャツ、クリーム色のロングカーディガンの軽装で寝室から出て、脱衣所の洗面台で髪を梳く。左側に纏めた雑なサイドテールをシュシュで縛る。
玄関先に置いた黒い小さなバッグを斜めがけする。バッグの中身はエコバック、煙草とライター、長財布。
「え。メイクポーチとかハンカチとか!最低でもリップクリームやスマホは?」
ぎょっとした顔をする諒をスルーして玄関へ。愛用のエンジニアブーツをスポンと履いてそのまま出ようとしたら諒が慌てて着いてきて、私のブーツの先端を踏んづけた。
「ごめ――っ!いってぇぇ!ナニコレ!」
「ん?エンジニアブーツ知らないの?」
「いや、ブーツはわかるし革かなーとは思ったけどなんで硬いの!?」
「…意味分かんない。エンジニアブーツってワークブーツの仲間なんだから、スチールキャップ入ってるに決まってるじゃん。本来、作業靴だよ?強化プラの作業靴も最近は多いけど、そもそもキャップ入ってない癖にエンジニアブーツって言うのが変。」
さも当たり前の事をなぜ聞く。そう思ったが、彼の言わんとすることはわからなくもない。
レディースファッションの世界での靴はメンズに比べて顕著に、利便性や機能性を無視して流行や軽さを採っている。生物学上は女の私の靴に、そんなものが入っているとは思わなかったと言いたいのだろう。
私に言わせれば、外反母趾や転倒の可能性を孕んでまで歩き難いくせに踵の高い疲れる靴なんか御免だし、合皮の薄い生地と薄い靴底で長時間歩行にも作業にも耐えられないレディースエンジニアブーツは、エンジニアブーツとして認めたくない。そして何より…
「レディースシューズの規格にあんまりサイズ無いんだよね。私、足のサイズデカいから。」
身長と足のサイズは比例するというが、成人女性の平均身長158cmに対して私は167cm程ある。靴のサイズはデザイン次第だが25.0cmを探す必要があった。昨今『モデルサイズ』という名称で27cm程までは大手の靴専門店やネット通販などで購入できるようになってきたが、当然小ロットの製造販売で市場価格は上がるしベーシックな物しか選べない。フォーマル向けの、太めローヒールの黒スムースのアレ。
普段からパンプスを履く必要がある仕事ではなかったし興味もない、と来れば不要なパンプスに万単位のお金をかけるよりも普段履きできて手入れすれば何年も履けるエンジニアブーツの方がいい。
と、話していて気づいた。ソールがかなりすり減っている。片足を持ち上げて確認するが、そろそろ張り替えないとまずそうだ。序にリペアコーナーにも足を伸ばそう。
聞いているのか聞いていないのかわからない諒は、ふんふんと頷きながら自分の靴を履いて着いてきた。
道すがら彼に問うた。
「昨日は床で寝てたけど、ずっと床で寝るつもり?」
彼はベッドには入ってこなかった。私がベッドで本を読んでいるうちに足元に転がり、すやすやと寝息を立て始めたのだ。知らないふりをして眠ったが、風邪でも引かれたら面倒だ。しかし、我が家に客人が無い=客用寝具が無い、という事。
叩き売りの安いフリース毛布なら買ってやるぞ、という旨の言葉を付け加えたが必要ない、と突っぱねられてしまった。
「風邪でも引かれたらウザいんですけどー。」
棒読みで。う、言葉に詰まる諒には結局毛布を一枚と裏起毛のスウェットを買い与えた。
トイレットペーパー、箱ティッシュ五箱パック、二リットルペットボトルの緑茶を一本とコンディショナーの詰替え用、ポテトチップのパーティーバッグ、菓子パンを幾つかとカップ麺も。ボディ用カミソリとハンドクリーム、セブンスターを一カートン。諒の毛布とスウェット上下。
全て荷物持ちの諒に持たせようとして嫌がられ、軽い菓子類や煙草を自分で持つことにした。
「まだ昼すぎだけど、昼飯は?俺、朝もコーヒーだけで腹減りすぎて死にそうなんだけど…」
「食べて帰る。」
言いながら大型スーパーのテナントとして入っていたシューズリペアのコーナーに歩をすすめる。
諒を無視してブーツのゴム底の張替えを頼み、サンダルを借りた。このまま隣接する喫茶店に行く旨を伝えて番号札を受け取った。
この大型スーパーには、フードコートとは別口で幾つかテナントが入っている。ラーメン屋やCDショップ、保険屋に床屋。その中のレトロな喫茶店が私は大のお気に入りで休みの度通っている。
馴染みの店員さんに声を掛け、優に五人は座れる広めのソファ席へ案内して貰う。勿論、喫煙席。
最近は喫茶店と言いながらオシャレなカフェが多くて、時代の流れと共に全面禁煙の店が増えた。昔ながらの、扉を開けるとコーヒーの香りと煙草の煙に迎えられ、使い込まれたテーブルと椅子にシンプルなメニュー、こだわりの豆を挽いて淹れてくれる物静かなマスターがいて…なんて今はもう絶滅危惧種とも言える。私は敢えてそんな店を探すのが好きだ。
当然、煙草が吸えたら何でもいい!という訳じゃあない。都市部の片隅にある古ぼけた店は煙草が吸えても、肝心のコーヒーがインスタントにも劣るただの泥水で一口飲んで止めた。頼まれたってもう二度と行かない。
「夕飯どうするの?」
「さっきからご飯のことばっかりじゃない。食べて落ち着けば?ここのグラタン、美味しいよ?」
煙草に火をつけて深く吸い込んだ。店員さんがメニューを渡してくれるのを、そのまま諒に横流し。メニューの殆どは暗記するくらい、この店には通い詰めている。
しかし。諒にはああ言ったけど、食い扶持が二人に増えた以上、料理を一切しないのはあまりにも不経済である。その位は理解出来ても、あまり気は進まない。今までは仕事をしていればそれで良かったし、食べる物に然程執着していなかったが為に出前でもコンビニ飯でも、なんでも良かった。
諒が作ると言ってくれるなら、喜んで台所を明け渡し、食費として幾らか渡せばそれで済んだのに。
「久々にするしかないのか…」
自分勝手な事はわかっているが、ため息を一つ。
再度訪れた店員さんに、グラタンセットを頼んだ。諒はホットサンドのセットを注文した。
店員さんにメニューを返して少しだけ寛ぐ姿勢になる。ソファ席のいい所で、少し位ならだらしない姿勢であっても疲れない。灰を落としてテーブルを汚してしまわないようにだけ気を付ければいい。
「…タバコってそんなに旨い?」
黙々と煙草を吸う私に、諒が問いかける。改めて旨いかと訊かれると少々返答に困る。長年吸い続けたセブンスターは、今となっては気心知れた相棒のようなもので旨いとか不味いとかそういう感覚を第一に吸っているわけではなく、安心感や習慣の部分が大きい。
「吸ってみれば?」
未成年じゃないらしいし問題はないはず。ジッポライターを載せたまま、箱を滑らせて諒の目の前に置いてやる。
「………」
もたつきながらも見様見真似で咥え、ライターに火が灯る。が、煙草にうまく火がつかない。
ジッポライター自体は、ホイールを回すことでフリントと呼ばれる石が火花を散らし、気化したライターオイルに火がつくシンプルな仕組みだから子供でもつけられる。だが、煙草に火をつけようと思うと話は変わってくる。
「吸いながらじゃないと火はつかないの。ストロー吸うみたいにしてみなよ。」
助け舟を出して、自分の手元の煙草は灰皿へ放り込む。諒に視線をやれば再挑戦するところだった。
加減がわからなかったのか、思い切り吸い込んだらしい。一気に火が回った煙草の濃密で熱い煙を思い切り吸い込んで大きく噎せた。涙目になりながら必死で酸素を取り込もうと口をパクパク、金魚みたいだ。何事か?と周囲の客まで視線を投げてくる。
「結構マヌケだね。いきなりセブンスターを肺に入れる奴はそうそういないでしょ。」
「わ、わかってて…わたひた、ね?」
鼻も喉も痛い、とお冷をガブガブ飲む諒の指先から火がついたばかりの煙草を取り上げて、口に運ぶ。面白いものが見れて満足だ。
諒の抗議はスルーを決め込んで、スマホでレシピサイトを開き、夕飯の献立を考える。
無性に水菜が食べたい。チンゲンサイも。チンゲンサイなら、中華にしようか?チンゲンサイと卵のスープに、麻婆豆腐なんて無難じゃないか。
車があるわけでもないし、嵩張るものを買い込んだだけに一度帰って荷物を置き、駅向こうの激安スーパーまで行くのがいい。野菜を買うなら尚の事、この荷物を持ったままでは帰りがしんどい。
「…夕飯は作るよ。ココ出たらお金下ろしに行って、一度荷物置いて別のスーパー行くから。」
腹を括る。全く自炊できないわけでなし、節約できる部分は節約するに越したことはない。再就職のアテが出来るまでは、貯金を切り崩したり失業保険に頼る事になるのだから。
死ぬ事を考えていた癖に自分でもおかしいとは思いつつも、凡その通帳の中身を思い出していた。
死ぬのが怖いとかそういった思いよりも、思いの外、誰か話し相手がいる生活というのは悪くないのだと感じる部分が大きくなっていることに気付く。よく耳にする『愚痴ってストレス発散』というのが理解できなかったが、今はなんとなく、わからないでもない。些細な呟きにレスポンスがあるいうのは、思っていた以上に心地良いのだ。
「おまたせいたしました。グラタンセットです。続けてホットサンドセットもお持ちしますね。」
タイミング良く料理が運ばれてきて、軽く会釈をしながら煙草を揉み消した。
諒に勧めたグラタンだが、何を隠そう自分自身の好物。何度食べても飽きないこの店オリジナルの一品で、一時期は再現できないか四苦八苦したこともあったほど。
たっぷりのチーズの下には小さく刻まれた人参、玉ねぎ、ジャガイモとマッシュルーム、それからツナ。これをアツアツのうちにトーストに載せて齧り付くのが幸せ。猫舌気味だがこれだけは、熱いうちにチーズのトロトロ感を楽しみながら食べるべきだと思う。
諒のホットサンドもすぐに運ばれてきた。二人分が揃ったところで、スプーンを手にとった。
食事を終えて満足気な諒を引き連れ、シューズリペアで靴を引き取り、銀行へ立ち寄る。財布の中に紙幣を仕舞いこんで一度帰宅。
道すがら、買ったものを片付けるのは諒の役目に(勝手に)任命した。文句は耳に入らない。
真新しいソールのお陰で僅かに目線が高い。すぐに慣れてしまうけれど、いつもこの期間はちょっぴり口元が緩む。新しい靴を下ろした時のようなワクワク感がある。不思議と、見慣れた風景が、いつもの道が、新鮮に感じられる。
「随分機嫌良さそうだね。…トイレットペーパーはどこにしまうの?」
家についてすぐ、買った物を仕分ける。ダイニングテーブルの上にどっさりと買い物袋の山が出来、私は自分の煙草を仕舞いこんでから定位置に腰を下ろす。基本的には動きたくない。座ったままポテチと菓子パンをテーブル上のカゴに放り込む。
「まぁねぇ…トイペはトイレの上の棚、しましまの箱の中にバラして入れて。」
「並んでる箱の2/3がしましまなんだけど。」
「…どっちかだよ、空いてる方。」
空いたビニール袋を折り畳み、バッグの中に入れる。この後エコバッグの代わりに使う予定。
戻ってきた諒にコンディショナーやカミソリの類を片付けさせて、私はまた煙草を咥える。ふと、先程の喫茶店での諒の言葉がリフレインした。
『タバコってそんなに旨い?』
美味しいと感じながらゆっくりと楽しむ。それが嗜好品。最近はそんな時間を持っていなかった、と今更気付く。煙草の味を覚えた頃は、一本吸うにも時間をかけて香りや味を愉しみ、仕事の事や、その他の煩わしい事とはキッチリと時間を分けていた。
「こういうとこが、ダメだったのかな。」
ぽつり、自嘲気味に呟いた台詞は誰かに届く事なく消えた。
あっという間に日が暮れる。冬が近いこの時期の空は見る間に色を変えていく。さっきまで雲が明々と燃えていたかと思えば、次に見上げた時には夜の色と混ざり合って紫紺に滲む。
激安スーパーで買い漁った野菜をカウンターに並べて、ヘアゴムでキツ目に髪を束ねる。タンスの肥やしになっていたエプロンを身に付け、袖めくり。
「…ほんとに作れるの?」
「うるさい。テレビでも観てれば。」
私は久しぶりに立つキッチンで一人、勝手に戦闘モードになっていた。普段は自分のコーヒーの後始末しかしてないのに。
心臓がバクバクする。誰かに手料理を食べさせるなんて初めての事かもしれない緊張が七割、手際が悪い事を笑われないかと不安な気持ち三割。仕事の時の用に、頭の中にToDoリストを作り上げていざ、戦闘開始。
先ずは米。ストッカーの中に無洗米は残っていたし、一緒に入れておいた唐辛子のおかげか別に虫も湧いていなかった。念の為に丁寧に洗い、ほんのちょっぴりゴマ油を入れて。早炊き、二合セット。
諒の分の食器を探す。少々手間取ったものの、結婚式の引出物やスーパーやコンビニで貰う販促品をかき集め、一度水洗いして綺麗に拭く。序に長らく使ってなかった調理器具も洗っておこうと、木べらや菜箸、お玉や杓文字も纏めて洗った。
次に小鍋に水と中華だしを入れて火にかける。買ってきた野菜群からニラを取り出し洗ってから、先端を摘み落として3cm幅に。チンゲンサイにしようと思ったけど高かったから仕方ない。卵も二つ溶いておく。
続いてもやし。さっと茹でて流水で冷やし、その間にカニカマとキュウリを細長く切って水気を切ったもやしと一緒に深皿に。これは最後に仕上げるから、冷蔵庫で冷やしておく。
メインは買い置きのレトルトがあった麻婆豆腐。豆腐の水を切って賽の目にカット。箱から出した合わせ調味料と水、豆腐をフライパンにあけて火にかける。
諒は何も言わなかったし、私も自分の世界に入っていた。これは私の今日の最優先タスク。これが終わるまで煙草も休憩も無い。
「家出少年、テーブルのカゴ隅にやって拭いといて。」
カウンターの野菜を片付けて、代わりに台ふきんを置く。私が普段使うマグとグラスを取り出し、冷やしておいたペットボトルの緑茶も一緒に並べる。
沸いたスープの味見をしながら麻婆豆腐にトロミをつける。そこでタイミング良く炊飯器のアラームが鳴った。
スープに卵を落としてかき混ぜニラを入れてひと煮立ち。麻婆豆腐は火を落として仕上げにラー油を回しかける。冷蔵庫で冷やしておいたもやし達には中華ドレッシングを掛けてごまをひとひねり。
「できた。ご飯くらい自分でよそって。」
「まじで!?もうできたの?」
諒が立ち上がるのを横目に見ながら、お椀二つにスープを注ぎ、麻婆豆腐は大きい丼に並々と盛りつけた。どうにか見つけた割り箸を二膳、料理もダイニングテーブルへ運んでいく。
私の茶碗と、一回り大きな真新しい茶碗察知したようで三対七くらいの比率で綺麗によそってくれた。
調理器具を洗って後始末をしようとすると、諒に引き止められた。
「『熱いものは熱いうちに、冷たいものは冷たいうちに。』ってね。一緒に食べよ。すげー美味そうだし!なんなら食器は後でオレが洗うよ。」
食事が待ちきれない!というよりは、心底、一緒に食卓を囲むことを望んでいる。ニコニコと悪意のない顔で促され、私も着席した。
「いただきますっ!」
目の前でパン!と手を合わせて箸をとる。スープに口をつけ、炊きたてのご飯を頬張り、サラダに手を伸ばす。何かを口に運ぶ度に驚いたような顔になる。
取り敢えず私も、いただきます、と呟いてからスープに手を付けた。
「つーか、普通に作れるんじゃん!こんなに美味しく作れるなら、普段から料理すればいいのに。」
凄まじい勢いで目の前の料理が減っていく。サラダは大層気に入ったようでパリパリ、シャクシャクと音をさせながらどんどん口に放り込む。私が食べる前に無くなりそうで慌てて自分の分を茶碗の隅に確保する。
快進撃が止まったのは麻婆豆腐をご飯にかけて、掻き込んだ瞬間だった。
「――――――っ!」
言葉にならない悲鳴を上げて悶絶する諒。
「え?なに、どしたの?」
まさかレトルトで日持ちするとはいえ悪くなってたか?と私も食べてみるが何もおかしくない。取り合えずグラスに茶を入れて手渡す。
「辛い!」
「…普通だよ?」
そうか。辛いのが苦手な口か。私は口の中でひとりごちる。
私は辛いものが好きで、この麻婆豆腐も、辛口の素を買っている。更に、調味料と豆腐を炒めてる時に鷹の爪を追加したし、仕上げにラー油を追加してある。
「……無理に食べなくていいよ?」
一応言っておく。しかし諒は首を左右に振って、涙目になりながらチビチビと食べ始めた。
先に聞いておけばよかったかな、とは思うものの、その反面、先程までの小馬鹿にされていた感じにムカついてもいたので心に留めておくだけにした。
数年前にはこうやって自炊をしていた時期もあった。けれど、自分しか食べないのに、美味しく作ろうとか、見た目も綺麗にとか、一切のやり甲斐を感じなくてどんどん手を抜くようになり、たまにしかしなくなった。最近では残業や気疲れが酷く、カップ麺やコンビニの弁当が殆どでこうやって温かい食事を食べるなんてことは無かった。
誰かの為に食事を作るという事は、意外と悪い気がしない。こうやって食卓を囲むのも、思っていたよりいいものだと、苦しむ諒には悪いけど少しだけ考え方が変わった。
彼が喜ぶなら、明日も作ってみてもいいかもしれない。素直にそう思えた。
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