事の発端

甘い毒。(第1話)

黒田 薔子

小説

13,896文字

著者の代表作『甘い毒。』の第一話です。

女性向けR18サイトへ投稿、完結と共に瞬く間に10万PVを突破したデビュー長編です。
※性描写を含みますが官能が主目的のものではございません。苦手な方は予めご注意ください。

 私は何も持っていない。
 この歳になれば大多数が手にしている、素敵な恋人だとか結婚の話みたいな甘ったるいものも、カッコよく仕事をこなして颯爽とヒールで歩き回ることだとかそんなものも、もっと言えば一緒にお酒を飲んで騒いだり、可愛い雑貨や話題のコスメを求めてショッピングに出かける友達だとかそんなものも、持っていない。
 いつかは自分の店を!とか起業するほどの才能も貯金もないし、夢や希望も持ってはいない。
 高卒でどうにかもぐりこんだ今の会社で、周囲との壁をチクチク感じながら生きていくに必要なお金を稼いで、コンビニやスーパーの半額惣菜を食べて暮らしていく。ただ惰性で生きている、それだけだった。
 状況が変わったのはつい昨日のこと。金曜日の夕方、私はいつものとおり、デスク脇に積み上げられた廃棄書類の山をシュレッダーにかけていた。
 私が勤めている会社は所謂、通販会社でインターネット上に店を構える輸入品の子供服を取り扱っていた。取り扱っているアイテムの内容が内容だからか、とにかく若い女の子や再就職のおばちゃんが多い。いつか自分も誰かと結婚して赤ちゃんを産んで、こんな服を着せたい。孫が出来たらこんなおもちゃを与えたい。そんな夢物語と幸せのかけらがゴロゴロしている場所だった。
 配属されていたのは商品管理部門。商品の検品だとか商品発送のチェックだとか、雑用が多かったけど、それなりにやりがいはあったし自分なりに楽しんで仕事には取り組んでいた…と思う。同期の女の子達のように自分の子供に~とは思わなかったけど、手のひらに乗ってしまうような小さなベビーシューズやカラフルなソックス、動物モチーフの帽子は単純に可愛らしくて意識せずとも口元が綻ぶ。
 お客様から商品の注文が入ると、私達の元にピッキングデータが降りてくる。注文のあった商品を指定の個数集めて発送準備をするための書類で、別部署の小難しい受注処理の後に印刷するようファイルが送られてくる。私はこれを印刷しては、アルバイトのスタッフに適当な枚数に分けて配る。
 天井の高い倉庫内に所狭しと並べられた棚には、それぞれアルファベットと数字で商品を仕分けして並べてあって、指定された箇所から商品を取ってくる。アルバイトスタッフに配布したピッキングデータには最低限のお客様情報と商品名、商品の場所を示す番号が割り振られているので、それらを集めて検品し、発送の準備を進めるのがこの部門の主な仕事。
 夢のようなフリルやリボン満載のベビードレス、砂糖菓子のような淡い色使いのスタイやソックスはそれぞれが個包装されて、見上げるほどある棚の中で出荷を待っている。それとは対照的に倉庫の壁は無骨なコンクリートで、「ザ・蛍光灯」と呼べるどこにでもある蛍光灯だけが煌々と室内を照らしている。私ともう一人――今は産休に入っていて不在の、私の同期――が使っているパソコンが計二台とプリンタとしての役割が主な大型のコピー機、そして電話、タイムカード、スタッフの荷物置き場になっている古びたワイヤーシェルフ。最低限の掃除道具が詰め込まれた、ところどころにガタの来たロッカーが一つ。これが私の職場のすべて。
 自分に与えられたパソコンデスクの椅子に腰掛けて、エプロンのポケットからボールペンと付箋を取り出し、私はキーボードを叩いた。検品中に予期せぬ商品の不良が見つかって、次の入荷予定を確認してお客様へ商品の欠品を詫び、最短でいつ届けられるのかを調べる必要があった。
 調べた内容は付箋に走り書きし、パソコンのモニタの縁に貼り付けておく。毎日見るパソコン画面の側なら嫌でも目に入るし、忘れる事はまず無い。入荷したときに漸くそこから消える。
 シュレッダーにかける予定の、異様な圧迫感を与える乱雑に積まれた古いピッキングリストの山に手を伸ばした途端、首から下げていたPHSが声を上げた。
「はい、商品管理、杉下です。」
 この倉庫は、運送会社が持っている物流倉庫の一角をレンタルしている為、オフィスがあるビルとは結構な距離があった。更には、倉庫街ということもあってとにかく携帯電話の電波の入りが悪く会社からPHSを支給されていた。出社するとパソコンを立ち上げながら私物を片付けてエプロンをつけて、自分の携帯電話はポケット、首からは物流倉庫の入館証とこのPHSを下げておくのが常だった。
 電話の主は私の先輩で、新人として入社した時から丁寧に指導してくれた神山さんだ。現在は受注管理やWEBページのデザインを行う部署にいる人。
「お疲れ様、神山です。杉下さん、今日は出荷は順調?」
「そうですね、概ね順調なんですけど、一点だけ刺繍のほつれがあるスタイがあって。メーカーに確認したら代替品が次の月曜日に届くそうです。検品段階で見つけたんで、後でデータ転送します。」
 キャスターがキィキィ鳴る古いオフィスチェアに腰掛けたジーンズの腿にどさりと書類束を乗せて、肩にPHSをはさんだまま古びたシュレッダーの電源を入れる。四、五枚のリストを飲み込ませるとガーガーとモーター音を響かせながら食いちぎられて書類から紙片に変わる。
「あぁ、そっか。助かるよ。それでね、今日は仕事のあと、予定ってどうなってる?」
「今日ですか?特に予定はありませんし、その一点以外は無事に発送まで行きそうなんで定時上がりのつもりですけど。」
「そっか…じゃあ、悪いんだけどさ、帰りに本社の辺りまで来てくれないかな。久しぶりにコーヒーでも飲みにいこう。」
 首をかしげながら私は了承し、電話を切った。神山さんは既に結婚もして子供がいるデキる男性で、私は勿論、特定の誰かをプライベートで誘うことはない。振り返ってみても新人の頃に大きなミスをやらかして慰められた時と、現在の部署への配属を打診された時に駅前のコーヒーショップに入った時の二回だけ。その例からいけば、今回も何か大きなミスをやらかしたか部署移動の打診…いずれも思いつかない。
 ひとまず頭を切り替えて、検品作業の仕上げとアルバイトスタッフへの指示に戻る。すべての書類をシュレッダーにかけて倉庫内を掃除し、タイムカードを切った。
 神山さんと待ち合わせたのは、やはり駅前のコーヒーショップだった。お客様へ届く商品であることは勿論、ベビー用品とくれば、コーヒーや煙草等のニオイの強いものはどうしても避けがちで、昼食ですらちょっと気を使ってしまうからようやく開放された、と私はついつい喫煙席を選び隔離された奥の席でひっそりと煙を吐いた。
 普段、こういう店に立ち寄ることは無い。仕事の帰りは、自宅の最寄り駅についたらコンビニに立ち寄って煙草と弁当、飲み物を買い型遅れのコーヒーメーカーでコーヒーを淹れる生活で、どこかに立ち寄るなんてことは無い。
 灰皿の吸殻が三つに増えた頃、神山さんがストンと向かいの席に腰を下ろした。頬杖をついてぼんやりと立ち上る煙と、スリットのように縦に長くくりぬかれた窓から冬へ向かう外の風景を見ていた私は慌てて四本目を揉み消して「お疲れ様です!」と姿勢を正し、目線を上げた。
 結果として私は、リストラされた。通販事業以外に実店舗を構えようと出店したもののうまくいかず、大きな赤字が出たために、独身者やアルバイトから首を切っていったとかで、私はその「独身者」に引っかかってしまった。
「杉下さんがよく頑張ってたのは知ってるし、上の人間にもそれは何度も掛け合った。けど、来月には産休が明けて戻ってくる松原さんを切る訳にいかない。子供にはお金がかかるし、産休や育休をとったのが理由でクビを切られた、ととられちゃまずいんだよ。」
 呆然とする私に、神山さんは言いづらそうに、続けた。
「…それにね。杉下さんの下についてる派遣の子やバイトの子から、苦情とまではいかないけど…色々とね。聞いてるんだ。『杉下さんは壁を感じて話しかけづらい』とか『子供が嫌いみたいだ』とかね。商材がベビーグッズである以上、子持ちの主婦や今後その可能性が濃厚な人の意見は採用したい。逆にもし子供が嫌いだとか、こういった商材に興味を持てないなら、ウチじゃなくてもいいんじゃないかな?杉下さんは優秀だから、もっと他の会社でも――」
 私は、ベビーグッズを見て将来を夢見たことなんて無かった。周りの女の子達のコイバナとかガールズトークにはついていけなくて、超えられない壁を感じてはいたけど、嫌いだなんて思ったことは無い。しっかりとしたイメージは出来なくても、小さい子供や赤ちゃんに嫌悪感をもつほど嫌いなわけでもなくて、人並みに可愛いと感じることはできる。
 気がついたら神山さんはいなかった。いつの間にか少しだけ泣いていて、五本目の煙草に火をつけた。

 現在、土曜の朝。仕事用のジーンズを履いた時にようやく、昨日の事を思い出して立ち尽くした。着替えの真っ最中に我に返ったせいで、下半身はソックスとジーンズを身に着けているのに上半身はタンクトップでぼさぼさの髪、という我ながら救いようの無いいでたちで静止してしまった。
 ベッドサイドの携帯電話を確認する。昨日はよほど酷い顔をしていたのか、神山さんの前で泣いてしまったのか、今日は有給ということで休みを与えられた旨のメールが一通入っていて、無意識にため息をついた。
 休日、何をすればいいのか分からない。細々とした『やったほうがいいこと』はたくさんあるけれど、不意の休日には対処できない。仕事をしている方が気が紛れるのに、有給消化とは。しかも、突発的にやってきた連休は洗濯や掃除、買出しなんかの家事労働をこなしても十分に時間を余らせてしまうこと請け合いだ。
 携帯電話をベッドに投げ捨てて、自分もその横に身を投げる。1LDKの大して広くない部屋で、唯一気に入っている出窓にぴったりと沿うようにシングルのベッドを置いている。出窓はカーブしたカーテンレールが取り付けられていて、お金が無かった引越し当初に無理やり取り付けた黒いレースカーテンがぶら下がっている。しかも、実家で使っていた丈のもので長さが余りまくるものだから、裾をゆるく結んでそのまま乱雑にでん、と結び目を座らせている。
 まだ、朝の空がカーテンの向こうに見えている。
「…おなか、すいたな。」
 人間、どれだけ落ち込んでいても悲しんでいても、空腹にはなるしトイレにだっていくし眠くなる。不思議。
 適当なパーカーを羽織って、徒歩圏内のコンビニへ行く。その最中にすれ違う、制服を着崩して道をふさぐように集団で歩く女子高生やピシッとしたスーツを着て駅へ向かうサラリーマンの姿が、各々の活動開始時間帯であることを主張している気がして、なんとなく顔を伏せた。自分が仕事もしていない、恥ずかしい、と思ったから。勝ったも負けたも無いけれど、酷く自分が劣っている存在の気がして、爽やかな初夏の風景画に誤って落とした真っ黒なインクのシミのような、綺麗な水の中にぽたりと落ち込んだ油のような、そこにあるはず無いものの気がして顔を上げられなかった。
 下を見れば目に付いたのは自分の脚。仕事とオフをしっかりと分けているわけじゃないから、いつも薄汚れた靴とデニム、商品を汚してしまわないように、とすっぴんで髪もただ束ねただけ。履きこんでカッコいい、と言えなくも無いけど女性らしさのかけらも無いメンズのエンジニアブーツはスチールキャップが見え始めていた。手入れはしているけれど、今の会社に入ってからこの靴以外を履いた覚えなんて無かった。
 女を捨ててる、とかそういう次元じゃなくて気がついたらこうなっていて、いまさら修正が利かないから放っておいただけ。
 仕事を頑張っている、という支えが無いだけでこんなにも目が回るのだろうか。逃げ出したい衝動に駆られて私はコンビニまでの足を速めた。

 一リットルの紙パックのジャスミン茶を二本、リキュールの入ったチョコレートの大袋とポテトチップ、おにぎりが二つとサラダにカップ麺を二つカゴに放り込んで、煙草を買って家に戻ると、荷物を開封するでもなく風呂場へ直行した。この家で唯一、大きな鏡のある洗面台の前に立って改めて自分の姿を見てみるとぞっとした。
 疲れた表情、ハリの無い肌、ばさばさの髪。特別太っているわけでもないけれど、綺麗なスタイルを維持できているとも言えないたるみのある上半身。いつの間にか夏が過ぎて私は二十八歳になっていたことに気づいた。
 私は何も持っていない。何も持っていないまま、何も作り上げられないまま、三十歳を迎えてしまう。それが気がつけば四十、五十と繰り返されて、ただ煙草とジャンクな食品だけを口に運んで、一人寂しく死んでいく様が目に浮かんだ。
「…もー、どーでもいい。」
 何かがぷつん、と途切れたように私は冷蔵庫を漁り、随分前にもらったビールを取り出してさっき買ってきたチョコとポテトチップを流し込んだ。考えることをとにかく放棄したかった。お酒が飲める口ではないどころか、一切を受け付けないから今日まで忘れ去られていたのに、煙草に火をつけてはまた、一口飲む。
 コンビニ袋と缶ビールを手にしたまま寝室へ引っ込んでベッドにもたれる様に座り、折りたたみのテーブルの上を散らかしていく。あ。このチョコレート、美味しい。考えたってキリが無い。先のことなんか何の保証もないし、頑張ったって今回みたいに徒労に終わることも多いんだから、希望なんて持たなくていい。週明けからは有給消化しつつハローワークに通わなくちゃいけない日々が来るんだろう。松原さんに仕事の引継ぎをして、私物を片付けて…あー、ポテチもう一袋買ってもよかったかな。
 そこまで考えて、勢いよく口に放り込み続けたビールとトリュフチョコレートのアルコールに溺れてしまった。チョコレートの甘ったるい香りと慣れ親しんだ煙草のにおいに包まれてそのまま床にぺちゃん、と崩れた。
 凄まじい吐き気に叩き起こされ、トイレで胃の中を空にした。アルコールを受け付けないタチなのは自分でわかっていたけれど、何も考えずに眠る方法が他に思いつかなかった。傾き始めた太陽が出窓から私を射抜いている。一日を無駄にした小さな罪悪感と虚無感が渦巻いて、足元から這い上がってくる。吐く物はもう何も無いのに気持ち悪い。温くなったジャスミン茶で口の中を洗い流し、またへたり込んだ。
 次に目が覚めたのは朝方で、正直に言えば何がどうなったのか判らなくなるくらいには酔っ払っていた。それでも煙草の火はちゃんと消えていたから、何か悪いことをしたわけではなさそうで一安心。
 右手に携帯電話、左手にチョコレートの包み紙。出窓から差し込む日差しは弱々しくまだ夜の気配を漂わせていて、冬の気配が近づいているのを訴えかけるようにしんと冷えた空気が手足の熱を奪う。始発が動き始めたのか、微かに電車の音がする。また寂しいような悔しいような、言い表すのが難しいキリキリと締め付けられるような感情に襲われた。
 携帯電話の電源は落ちていて、充電ケーブルを挿して放置。シャワーで頭をすっきりさせた後は、洗濯機のスイッチを入れてから、昨日買った食糧のカップ麺を取り出してすする。洗濯を干して掃除機をかける。そこまで済ませてようやく、携帯電話の電源を入れた。
 起動した液晶画面を見ても、しばらく待ってみても、なんの通知もなかった。遅れてメールが入ってくるとか、留守電が入っていることも無く静かなものだ。誰か連絡をよこすような人がいるわけでもないけれど、ちょっとだけ寂しかった。
 日曜日の朝。空はしみるように青くて高くて、これが秋晴れか、と口の中でひとりごちた。
 実質的なクビとはいえ衝撃が大きすぎてまだ受け止め切れてはいないけど、面倒見のいい神山さんのことだからきっと、ギリギリまで粘ってくれたんだろう。確かに子持ちの人を切るとなると難しいんだろうなあとは理解できたし、別に誰が悪いわけでもない。独り身の環境に感謝しつつ、いっそ自分から退職願を出せばせめて幾らかの退職金が出ないかな、と意地汚いことを考え付いてリビングのチェストからレターセットとボールペンを取り出してダイニングテーブルに腰掛けた。
 ネットにつないで文例を調べながら書いた退職願はそれなりの形にすんなり書きあがり、最後に宛名になる社長の名前を書いて判子を捺す段になって、今度は判子を取りに寝室へ行こうと立ち上がる。ボールペンが転がり落ちて、カツン、と小さく音がした。
 今のはペンが落ちた音。私は泣いてなんかいない。ただ、煙草の煙が目にしみただけだ。

 起き上がる気力も無くベッドの上で転がり、時折上半身だけを毛布から出して紫煙を呑んだ。寝タバコの火事が怖いから衣服を含めて布の多い寝室では必ず起き上がってから煙草に手を伸ばしていたのに、今はそんなこだわりはどこかへ消し飛んでしまった。
 酷く気分は落ち込んでいて、やる気なんてものは微塵も無かった。薄暗くなってきた空の色や少しずつ冷え始める室内の温度、充満する煙草の煙の量だけが時間経過を教えてくれる。
「いっそ、自殺でもしてみる?」
 突拍子もない暇つぶし程度の発案は、口からため息と共に出てきた。流されてきた人生で、自分で強く何かを願ったことなんて無かったし、集団自殺とか、自殺サイトとか、ニュースで耳にしたことがあるものを覚えていただけだとは思うけど、何かに憑かれたように携帯電話でそのテのサイトの閲覧を開始した。
 いくつかのウェブページを流し読みして自殺の方法を検討する。手軽な首吊りやリストカット、下準備が必要な練炭自殺に薬物過剰摂取、必要以上の情報がぼんやりとした頭をすべっていく。
 めぐりめぐって私は一つのウェブページと出会った。メインコンテンツは掲示板で、そこには『毒、アリマス』と表示されている。その下に小さな文字で注意事項が多数並べられているのをざっくり読むと、何があっても管理者は責任は取らないし、どうなってもしらないよ?というもの。掲示板に死にたい旨と毒物を買いたい旨、住所や名前などの個人情報を記入して、商品代金と引き換えにその毒物を入手できるらしい。『質問です』『早く楽になりたい』『振込みは出来ませんか?』等の件名がついたスレッドが立ち並んでいるがいずれもロックされていて、私には読むことが出来ない。
 死ぬことが怖くなったら飲まなければいい話だし、好奇心がむくりと頭をもたげた。商品代金は送料含め五万円となっていたから、趣味も無く貯まっていった口座の中身で十分に支払いは可能だし、そもそも『毒』という曖昧な表現からして性質の悪い悪戯なんだろう、と踏んだ。
 私は掲示板に書き込んだ。

件名:『死にたいです』
本文:『さっさと死にたいです。いろんなことがどうでもいいので、楽に死ねたらそれでいいです。
    お金はちゃんと用意できますので、なるべく早く届けてください。』

 商品届け先は現在のマンションの住所を誤魔化すことなく書き込んだ。これで何か悪戯があればそれはそれで面白いし、さらに落ち込める。もうどうにでもなーれ!という半ば自暴自棄なのは分かっているのに、妙にソワソワ、わくわくして、嗚呼、これが噂の深夜のテンションってやつか、と出窓の黒いレースの向こうにある高い月を眺めながら思った。
 本文の記入を終え、パスワードを設定して書き込みボタンを押すと、ロック付の新しいスレッドが立った。自分が書き込んだ『死にたいです』の文字が、今更になって酷く重苦しい、禍々しいものの気がしてきて、少しだけ後悔した。でも、その半面、妙な達成感にも包まれていて、あの鬱積した仕事のモヤモヤはどこかへ消えていた。
 とっくに日付が変わっていることに気がついて、月曜は仕事があるのに、と重い腰を上げお風呂場へ向かった。コンディショナーが切れていて、ポンプはカシュカシュと湿った空気と香りだけを吐き出す。素直に買い物に行くべきだったか、と首を捻るもさっきの掲示板への書き込みが頭を掠めると、不思議とそんなことはどうでもよくなってしまった。
 いつごろ、何がやってくるのか。
 『毒』はきちんと作用するものなのか。
 ただの悪戯で、今までと何も変わらない生活が待っているだけなのか。
 考えれば考えるほど、期待は膨らんだ。仕事以外で何か楽しみや遣り甲斐をもつなんて久しくなかったことで、恋人だってご無沙汰な私には言いようの無い、おかしな幸福感に包まれていた。今までの人生を振り返ってみても、こんなに胸が高鳴る一大イベントは無かった。我ながらゆがんでいるなあとは思うけど、きっと、サンタクロースのプレゼントを今か今かと待ちわびる子供はこんな気分だったんだと思う。
 過去を振り返ると、必要の無い嫌な記憶まで噴出しそうで、シャワーの湯を止めてさっさとあがることにする。仕事モードの顔に戻さないといけないのだから。

「松原さん、出産おめでとう。」
「わー、杉下さん!久しぶり!わざわざありがとうね。」
 産休が明けるには数日早かったが、近くに寄ったから、と顔を出したのだという彼女は腕の中に生まれて間もない、ふにゃふにゃした生き物を抱いている。顔立ちで言えばまだまだサルに近いけれど、こんなに小さくて頼りないくせに五本の指も時折瞬きをする瞳も、大人と何一つ変わらない。
「女の子なんでしょう?」
「そう。名前はエリナっていうの。」
「かわいー!ちっちゃいー!」
「私も早く赤ちゃんほしいなぁ…」
「あんたは結婚相手が先でしょ!!」
 一声だけかけて予め買っておいたお祝いを渡した後は、自分のデスクへ戻る。きゃあきゃあと嬌声を上げて盛り上がるスタッフの中に、自分は場違いな気がしていたから。せっかくのお祝いムードを台無しにしたくない、私なりの気遣いのつもり。
 いつもどおりに仕事をこなして、ピッキングリストを印刷しアルバイトスタッフに配っていくはずが誰一人として仕事に戻る気配はなく、示し合わせたかのようにエリナちゃんを囲んで盛り上がっていた。幸いにも、週明けにしては出荷量は少なく、私は自分で台車を押して商品をまとめて集め始めた。
 ピッキング作業の半分を終わらせる頃には台車に乗せたカゴは、商品でいっぱいだった。一度おろすか、と台車をゴロゴロ押して、棚と棚の間の隙間というほうが正しいような狭い通路を通り抜けて検品作業用のテーブル近くに集めた商品を積み上げた時、私の耳はいやな言葉を拾ってしまった。
「松原さんが戻ってきたでしょ?杉下さんは、入れ違いにクビだってー。」
「え、そうなの?」
「だってほら、あの人浮いてるしやりづらいじゃん?」
「確かにー。エリナちゃん、こんなに可愛いのにさ話にも入ってこないじゃない?」
「だって、子供嫌いって聞いたよ、私。」
「えーっ!ありえないんですけど!だってココ、ベビー服扱ってんじゃん。」
「だから、クビなんでしょ。」
 情報源がどこかとか、別に子供嫌いなわけじゃないとか、反論することでより一層彼女達の反感を買うことを私は知っている。黙々と、何も聞かなかったことにして作業を進めるほうが効率的で、生産的だと自分に言い聞かせて、検品作業用のテーブル脇にカゴを下ろした。スペアの空のカゴを台車に乗せて、口をつぐんで、作業を続けた。
 検品台の脇に置いたカゴが二つになり、ピッキングを終えたところで、意を決して私は女性の輪に声をかける。名残惜しそうな、といえば聞こえは良いけど、その実不満そうな声色で持ち場へつくスタッフを尻目に、私は再度松原さんに声をかけた。
「松原さ「ごめんね、一番忙しい時間だったよね、出荷の直前に来るなんて。仕事の感覚取り戻さなきゃなー。」
 わざと。私の声にかぶせるように少し大きめの声で、松原さんは言った。この人も私とはもう仲良くする気は無いらしい。もうすぐ去る人間にはそんな義理は無い、ってとこなのかな。
「こっちこそごめんね。久しぶりだしまだ皆と話してたかったとは思うんだけど、今日は出荷少ないからすぐ終わると思うよ。それで、産休明けからのことを少し話しておきたかったんだけど、時間いい?」
「…そういうの、いいです。感覚を取り戻すまで、ってことで1週間程度は神山さんがこちらへ出張してくださることになってますし。特段、作業の流れやシステムに変更は無いんですよね?だったら、引継ぎとかそういうの特に必要ないです。それに、この子のおっぱいの時間があるんで、検品や出荷が終わるまでなんて居られませんから、もう帰りますよ。」
 言葉にしなくてもわかるこの見下されてる感じは、きっと、出産という大仕事を終えた女の優越感だ。生物的に私が、メスとして劣っているから――被害妄想も甚だしい思考を振り払い、あくまでビジネスライクに接すればいい。彼女もそれを望んでいるんだから。
「お子さんのことまで気が回らないあたり、ダメね。本当にごめんなさい。おおよそ、産休に入る前と変更点はないから、私の退職までに変更点に気付いた箇所があればメモだけ残しておきます。神山さんとの相談次第だけど、私もあなたと入れ違い位に有給消化に入るから。」
「それで十分です。ありがとうございます。」
 話を打ち切って、松原さんは出て行く。私の背中には検品台の方から、チクチクとした嫌な視線が突き刺さって気分が悪かった。何を緊張してるんだろう、私は。
 自分のデスクについて私物のいくつかをまとめる作業をしつつ、神山さんに有給休暇の消費についてのメールを送った。返事は十分と待たずに返ってきて、残り日数によると一ヶ月丸々分くらいは残りがあったらしい。繁忙期から外れているために、明日からでも取得は可能、但し、退社についての手続きがあるから少しだけ出社してもらう可能性はあるとのこと。即座に、今日の出荷が終わり次第、本社へ向かう旨のメールを返した。
 カバンの中に私物をしまいつつ、昨日書き上げた退職願をそっと、指先でなぞる。もしかしたら私は、もうこの倉庫へは戻ってこないのかもしれない。そう思うとなんだか妙な気分だった。

 便宜上、本社とは呼んでいても、別に大きな自社ビルを持っているわけではなくて、政令指定都市内の雑居ビルの1フロアに事務や経理、社長室がある。それと、出荷のための受注作業やWEBページの更新等を行うWEB事業部なる小難しい事を淡々とこなすパソコンにかじりつきのデスクワーク部門もココで作業をしている。あとは神山さんを筆頭とする、商品管理部の一部スタッフ。どんな商品を仕入れるのかを話し合ったり、取り扱いブランドの新規開拓を進めるのが主な仕事。
 応接室、という名の会議室兼休憩所兼喫煙室で私は神山さんを待った。社内スタッフが使う安物のアルミ灰皿に灰を積もらせながら、どのタイミングで依願退職にしてくれなんて切り出せるのかと思案した。そもそも、リストラ云々の話となると神山さんひとりでは手に負えない事案のはずで、もしかしたら殆どあったことも無い社長とも同席することになるんだろうか、と今更思いつく。慌てて煙草を灰皿に押し付けるのとドアが開いたのは同時だった。
「お待たせ。」
「お忙しいところすみません。」
 予想に反して神山さんは一人で現れた。手には何かのファイルを抱えて、今日もノーネクタイではあるもののかっちりとしたスーツを着ていた。
「まず、これを…」
 私はカバンから退職願を取り、神山さんに差し出した。微かに眉を顰めたような気がしなくも無いけれど、彼が口を開く前に自分なりの意思は伝えてしまいたい。そうでないと、また、怖くなって伝えられないかもしれないから。
「可能であれば、依願退職という形をとらせていただきたく思います。何か大きなミスを犯して、会社側に損害を与えたとあれば別ですが…また、現在残っている有給の日数確認とその消化についても今日はお話しさせていただきたく伺いました。お手間を取らせてしまい、申し訳ありません。」
 一息で言い切った自分をたまには褒めてやりたい。
「わかった。依願退職についてはこの後社長へこれを渡して話しておくし、ひとまず僕が預かろう。まずは有給の残り日数。さっき事務に確認してきたんだけど、日数は二十四日。ちょうど一か月の通常出勤分相当ある。松原さんの復職予定日は再来週で、それまでは出社してほしいところだけど、次の仕事を探すだとか転居なんかの準備を想定してるなら、明日からでも消化に入ってもらって構わない。出荷や検品ができるスタッフが一人でも出向けば可能だからね。」
 こともなさげに言いながら手元に抱えていたファイルをテーブルの上に広げる。私の契約書類と、随分古い、まだ高校を出たばかりの私の顔写真が貼られた履歴書。そして、白紙の便箋と封筒もある。
「実は、依願退職については僕からも進めようと思って持ってきたんだけどね。」
 少し困ったような、はにかんだような表情で神山さんは言う。ああ、私は何かミスを犯したわけではないんだ、と少しほっとした。一瞬だけ考えて、私は明日からすぐに有給の消化に入ることにした。

 有給消化一日目。朝を告げる日差しやアラーム音は私の部屋にはやってこない。暗澹とした気分とまではいかないけれど、やっぱり活動する気力は湧かないし、そもそも起き上がる理由も無かった。
 だらしないことも理解はしていたけれど、起きて活動しなければ食べ物も要らないし、電気も使わない。
洗濯物も増えないから、よりエコでコンパクトな生活が出来ること請け合い。…という言い訳の元、頭まですっぽりと毛布をかぶってまたうとうとと眠りの世界へ旅立とうとしていた。
 夢現の幸せな時間から現実に引き戻したのは、ドアチャイムの音。
 ピンポーン。ピンポーン。
 煙草とコーヒーと、毛布があればいい。しばらく放っておいて欲しかった。私は惨めなんかじゃない。今は、一生懸命に働き続けた私が、溜め込んだ有給休暇を正当に消費している期間であって恥じることは無いのだと自分を納得させられるまでは。
 ピンポーン。ピンポーン。
 鳴り続けるチャイムの音。段々と意識はハッキリとし、毛布の中で目を開ける。私なんかに何の用事があるんだ。心地よい温度の空間から引き出されるのが腹立たしくて仕方ない。その一方で覚醒し、妙に冷静な頭は、神山さんを筆頭に会社関係だったらどうするんだ、と問いかける。
 ピンポーン。ピンポーン。
 否、それは無い。本当に会社関係なら電話の一本、メールの一通を先に寄越すだろうことは明白で、鳴らない携帯電話をクッションに投げつけながら起き上がり、しぶしぶパーカーを羽織って、煙草を咥えた。
 リビングにはモニタ付インターホンがある。賃貸マンションではあるものの、設備としてはなかなかに整っていて、使いもしないシステムキッチンだとかお風呂の追い炊き機能だとか充実はしている。ダイニングセットに出しっぱなしのライターを掴んで火をつけるとインターホンに近寄る。こちらが応答するまで、カメラ映像は確認できるがマイクは反応しない仕組みで、こちらが在宅かどうかは相手には分からない。映像には一人の、見知らぬ人物。手には何かを持っているが画面からははみ出していて判断できない。
 そのまま音声で対応するべきところだろうがなんだかそれもまどろっこしく、玄関へ向かうことにする。
「どちらさま?」
 くわえ煙草のままで問いかける。チェーンもかけずに無用心とか、そんなことは頭の片隅にもなかった。私は別段、生きることに執着していない。というか、死のうと思って非合法なのを承知の上で毒薬を買ったんだから、もしも相手が凶器を持った変質者や強盗で刺されたりしても構わないし、そもそもそんな非現実的なことが自分のみに降りかかってくるとは思えない。今までの人生の中でそんな話のネタになるような事件は、交通事故や宝くじの末等あたりすら起こらなかった。
「…ご注文の商品をお届けに参りました。」
 あどけなさの残る若い男の子が立っていた。宅配業者じゃなくて個人が届けに来るって言うのは予想外だったけど、その方が足がつかないとか何か理由があるんだろうと思って深くは聞かずに半開きのドアを開放し、玄関先へ招き入れた。
「財布とってくるんで待っててください。」
 落ちそうになった煙草の灰に注意を払いながらリビングへ引っ込む私の背後でなぜか、鍵のかかる音がして振り返る。男の子は黒い大きなボストンバッグを何食わぬ顔で廊下の隅へ置き、履いていたブーツを脱いでいる最中だった。何か声をかけるか一瞬迷って、灰をこぼさない事を優先してリビングへ戻った。
 吸いかけの煙草を灰皿に置いて、リビングにおいてあるチェストから封筒に入れて分けておいたお金を取り出す。中身を一応数えてきっちり五万円揃ってる事を確認してから元通り封筒へしまいこむと同時に自分の脇から手が伸びてきて、くしゃり、と握りつぶし掠め取られた。
「はい、確かにいただきました。」
 耳元で声がする。さっきの男の子の。なんだろう、これから何かひどいことをされるんだろうか。新聞の小さな三面記事のネタになるくらいの、翌日には誰も覚えていないくらいの小さな事件になって、私の人生は終わるのかな。最期くらい苦しみたくなかったのに。
「私、あなたに殺されるの?」
 淡々と言葉を紡ぐ。選んだつもりもない、単純に疑問として投げかけた言葉はあっさりと否定された。
「まさか。俺、人殺しになんかなりたくないし。」
 背後にあった気配と自分以外の熱気が消えて、私はようやく緊張が解けた。今の今まで緊張していることになんか気がつかなかったけれど、やっぱり少し、痛いのは怖い。振り返ることを許された気がして目線をあげ、一呼吸はさんでからテーブルがあるほうへ向き直った。
 男の子は何食わぬ顔をしてダイニングテーブルに鎮座し、私の煙草をもみ消してから封筒の中身を自分の財布に入れようとしているところだった。

2018年6月28日公開 (初出 ムーンライトノベルズ

作品集『甘い毒。』第1話 (全12話)

© 2018 黒田 薔子

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