モード―ある様式について―

長崎 朝

小説

16,878文字

これは、ある関数のひとつの演算のようなものです。
――おれは、誰もが孤独に抱えるあの秘密から、ただ一人解き放たれているのだ!

1 傘

 

その町に着いて通りに出てみると、誰もが傘を差して歩いていた。しかし、雨は降っていなかった。日除けのためだろうかと考えたが、空は曇っていて、とくべつ日射しが強いわけでもない。彼は、自分だけ傘を差していないことに、不安をいだきはじめた。空を見上げると、二羽の黒い鳥が建物の向こうに飛び去っていくのが見えた。傘は色とりどりで、どれも骨組みのしっかりした、丈夫そうなものに見えた。彼は、自分もともかくどこかで傘を手に入れなければならないと考えた。傘のない人間は、ここでは目立ちすぎるのだ。

鮮やかな赤色の傘を差した女が、通りの角にひとり突っ立っていた。車待ちでもしているものと思われる。さりげなく彼は女の横に近づいていった。

素敵な傘ですね。と彼は言った。

自分の声が思ったほど優しそうでなかった気がして、彼は自分の声に影響され、少し顔をこわばらせてしまった。そもそも愛想のよい性格ではないのだ。女は何も答えずに、ちょこっと傘を傾け、彼の顔を横目で見ると、また視線を前方へ戻した。女は思ったほど若くもなく、かといって歳をとっているわけでもない。顔に刻まれた皺は、年齢とともに深くなってきたわけではなく、生まれつきそこに刻まれていたもののようだった。その顔も、いまや傘によって隠されてしまった。

ホテルに行くには、バスかタクシーに乗らなければならなかった。彼はバスに乗ったのだが、当然ながら、車内で傘を差している者はひとりもおらず、彼もいくらかは馴染んでいるようだったが、誰もが手に傘を持ったままだったから、そのことが彼を窮屈にさせていた。

ホテルに着いてチェックインを済ませたとき、彼はフロントでたずねてみた。

「この辺で、傘を売っているところって、どこかありませんかね」

すると、フロント係はあからさまに眉を顰め、無言のまま首を振り、彼を非難するような目で追いやった。彼は、そんな対応をされるとは夢にも思っていなかったので心底驚き、しかし周りの誰もが彼に変な目を向けるので、苦情を言うわけにもいかず、そのまま部屋に引っ込んだ。

とにかく、傘を買わなければならない。この思いはいま、一段と切迫して彼の胸を締めつけるのだった。窓から見下ろすと、通りを行き交う深緑色や紺、そして黒や水色などの傘が目に入った。しばらく彼はその傘たちを観察していたが、いつまで見ていても面白いことなど何もなく、何の情報もそこから得られなかったため、彼は通りを見下ろすのをやめた。

ふと思いついて、彼は自分のキャリーバッグを開けた。どこかに折りたたみ傘をしまってあったような気がしたのだ。ところが、こんどに限って折りたたみ傘はどこにも見当たらなかった。何をおれは焦っているのだろう、と彼は思った。ここへ来るまでも、おれが傘を差していないからといって、誰にも文句を言われたわけではないし、警察が寄ってくるわけでもなかったじゃないか。なければないで、べつに人に迷惑をかけるものでもない。それに、どうしてあなたは傘を差していないんですかと質問されることもなさそうだった。もっと堂々としていればいいんだ。彼は、そう自分に言い聞かせた。

 

午後の商談は無事にまとまった。部屋に戻ると、彼はEメールで本社に簡単な報告と資料をいくつか送信した。この町の奇妙な風習について、それとなく話してみようかと考えたが、また帰ってから話せばいいことだと思いなおしてやめた。

彼は重荷が降りたように、だいぶ気分が良くなっていたので、外へ出て夕飯を食べようと思い、ホテルから出た。外はもう暗くなっていて、気温も下がり、少し肌寒さを感じた。さすがに、夜には誰も傘を差してはいないのではないかという思いは、すぐに裏切られた。昼間と何も変わらず、人々は傘を差して歩いていた。だんだんと、彼らが傘を差している光景も見慣れてきたせいか、この町に来たばかりのときみたいな不安にとらわれることはなかった。

彼は、大通りから外れたあと川岸の通りをずいぶん歩き、オープンテラスのある雰囲気の良さそうな店を見つけると、そこに入った。給仕は彼を見ると、微笑みの奥で一瞬戸惑ったような表情をしたが、すぐに席へ案内した。

何かワインを持ってきてくれるよう頼むと、彼はため息をついて周りを見回した。まばらに客が入っているようだった。店も、人々も、何ひとつ変わったようなところは見当たらなかった。彼にしても、少し飲んだことで気分がやわらぎ、今日の商談のことや、明日帰ってからのことを検討する余裕ができてきた。それから当たり前のように、彼の意識は、また傘のことに舞い戻ってくるのだった。それにしても、連中の傘のことだけは不可解だ、と彼は思った。何か、それについて話したりすることも禁忌になっている感じがある。まったくなんのことだかわからん。わからん、こればっかりは、お手上げだ。

会計を済ませ、彼は通りへ出た。さっきよりもさらに冷えてきたようだった。どうしてかはわからないが、彼はやはり傘をどうしても手に入れなければならないのではないかという思いに取り憑かれていた。つまり、自分も傘を差してみないかぎりは、傘の秘密が解明できないのではないか、実際にみんなと同じことをしてみることで、その理由が理解できるのではないかという考えもあったのだ。

彼はいまや傘を欲望していた。なんとしてでも、それを手に入れないとならない。ホテルへの道を迂回し、手当たり次第に通りをうろついてみたが、多くの店はすでに閉まり、やっているところでも傘を置いてそうな店はなかなか見つからなかった。

傘というものが、どんなところに売っているのか、それをこれほど真剣に考えたことは、いままでの彼の人生になかった。

ずいぶん歩いたが、傘を売っている店はどこにもなかった。彼は再び、勇気を出して誰かに聞いてみるべきだと思った。今朝のように、通行人にいきなり話しかけるのはうまいやり方ではない気がする。それは、警戒されてしまう可能性が高いと思った。彼は浮浪者のような人種がいないかと探して歩いたが、それも無駄に終わった。

交番を探してみようか? だが、なんとなくそれは避けたいと思った。傘を探しているなんてことを告白するのが、なぜだか後ろめたかった。

いきなり後ろから肩を叩かれて、彼は血液が蒸発するくらいびっくりした。彼が振り向くと、傘を差したひとりの男が立っていた。
「驚かせて失礼。旅行の方ですか?」と低い声で男が言った。

彼は不意打ちをくらい、言葉がうまく出てこなかった。

「あっちのほうは、いかがですかね。気に入ってもらえると思いますが」と男は続けて話した。男はコートのポケットから何かを取り出すと、傘を肩で支えて、取り出したものを周囲から隠すようにして彼に見えるように広げた。何枚かの女の写真だった。

彼はまったくそんな気はなかったが、値段の交渉をしたいと言って、男のあとについていった。男はすぐそばの建物の入り口から入り、狭くて暗い階段を昇った。そこからひとつの部屋に入ると、中にもうひとり男が座っていて、彼に丁寧に説明をした。はっきり言って値段は高かったが、彼はそれでかまわないと言い、別の待合室のようなところに連れて行かれた。部屋は狭くて、煙草の臭いが染みつき、薄汚かった。中にいた彼以外の客が一瞬目を上げ、彼のほうを見たが、興味なさそうに目をそらすと、手元の雑誌をぱらぱらとめくった。

しばらくすると、もうひとりの客はどこかへ案内されていき、彼はひとり残された。机の上に、誰かの忘れ物か、客用に置いてあるのか知らないが、煙草がひと箱あった。普段煙草を吸うわけではないが、彼はなんとなく一本抜き取り、傍らに置かれていたマッチでそれに火をつけた。ゆっくりと吸い込み、ゆっくりと吐いた。

彼は部屋に呼ばれ、女の前で服を脱いだ。だが思いなおし、脱ぐ必要はなかったと言ってもう一度着た。女は不思議そうな顔をして彼を見ていた。ただ、話し相手がほしかっただけだと彼は女に言った。頼むから、このままここにいて、こちらに干渉するなと言い聞かせた。

彼は、戸惑う女をその場に置いたまま、部屋を出て廊下を歩き、あらかじめそうすると決められていたかのように、隣にあったもうひとつの客の扉を開けた。部屋の奥のベッドで裸の男女が抱き合っているのが見えた。彼は部屋を見回すと、部屋の右手の壁際に、靴や鞄と揃えて置かれていた傘を確認し、真っ直ぐそちらのほうへ向かった。男が、何をするんだ、何だおまえは、と彼に向かって声を放ったが、裸のためか間抜けな感じがした。彼は行動を止めることなく進行させ、片手で男の傘を掴むと出口のほうへつかつかと引き返した。背後で「やめろ」という声が聞こえたが、無視した。

彼はそのままもと来た通路を歩いて、受付の男の前を通り過ぎた。男は彼のほうを見ていたが、何も言わなかった。そのあと立ち上がり、おそらく彼についた女がいるはずの部屋へ向かったらしかった。建物の通路に出ると、傘を手にした彼は、下りの階段をほとんど飛ぶようにして一気に駆け下り、表の通りへ出た。その間も、そしてそこから走り出した瞬間も、彼は自分の右手の中の傘の感触を強く意識していた。

彼は、ホテルと逆方向に走った。通行人の差す傘たちを避けながら、後ろを振り向くことなく必死で走った。途中、何度も傘にぶつかりそうになった。この町じゃ、人間が傘を差しているんじゃない、傘が人間をぶら下げて歩いているんだ、と彼は思った。

いつの間にか、彼は川沿いの道に来ていた。しかし、先ほど食事をした店がある場所とは違うエリアだということが分かった。彼は走る速度を落とし、速歩きくらいに切り替えて、息を整えようとした。そこではじめて後ろを振り返ってみたが、誰も彼を追ってくる者はいないみたいだった。彼は、自分の右手に握られた傘に目をやり、その感触をまた確かめていると、自分の内側から歓喜が湧き起こり、全身が輝かしい達成感に包まれるような気がした。

また少し速度を落とし、もう一度振り返ってみたが、どうやら何の問題もなさそうだった。彼は傘を開き、頭上にかざした。腕の角度や柄を握る強さなどをいろいろ試し、傘を肩に凭せ掛けたり、ちょっと前傾に差してみたり、左手に持ち替えたりした。右手で傘を持つと、傘の位置は自分の体の中心より少し右にずれ、体の左側が傘の下からはみ出すような感じがした。左手に持ち替えたとき、こんどは傘は、自分の体の中心より左にずれるため、体の右側が心許なかった。左手で傘を持ったまま、傘を右方向に傾け、自分の右肩のほうへ凭せ掛けた。なんとなく安定するような気がしたが、傘の角度が斜めになり、体の左側が少し露出している感覚があった。

彼は方向にかまわず歩き続けながら、傘のうまい差し方を研究した。右手で持ち、傘が中央にくるよう、手の位置を心臓のあたりに固定した。前傾させすぎず、肩に凭せ掛けもせず、なるべく傘が垂直になるように意識して差した。ところが、この差し方は、まず顔の前に傘の中軸がくるために邪魔で、なんとなく背中が傘の外にはみ出しているようで落ち着かなかった。

彼はいまやひとつの理解に達していた。

つまり、こいつは、そういうことなんだな。傘ってやつは、どう差したって、体のどこかがいつもはみ出すようにできてるんだ。傘の軸が傘の中心にある限り、人間はいつまでたっても傘の中心にいけないってことさ。もちろん、頭の上に乗っけるように差すなら中心に入る。だが、それでは体がまるごとはみ出ているようなものだ。構造上、傘は決して上手に差せないようにできているんだ。なんだってみんなあんなふうに、自由に屈託なく傘を差していられるんだろう。

そんなことを考えながらも、彼は傘を差して、ときどき持ち替えたりしながら歩き回った。そして、もうひとつの厳然たる事実に行き当たった。傘を差し続けていると、手が疲れるということだった。これは意外なことだった。なぜなら、みんな当たり前のように傘を差し続けているし、彼にしてみても、雨の日には傘を差して歩くのが普通で、これまで傘を差しすぎて疲れたなんて経験はなかったからだ。

もしかすると、この町では、住民一人ひとりに一個ずつ傘が割り当てられ、誰かの傘はその人の固有の、何か個人的なものを証明するものなのかもしれない。たとえば、パスポートや免許証のように。でもそれは馬鹿げた考えだった。あるいは、この町にあるべき傘の総数が決まっているなんてことがあるかもしれない。そう、やはり一人一本ずつ所有するという決まりがあって、それ以上でもそれ以下でもない。誰かの傘が壊れたら、その人のためだけに、ただ一箇所しかない専門店か修繕所のようなところで直してもらうか、新しいのをひとつ配給してもらう。傘を管理する役場みたいなものだろう。だから、ここではどこにも傘を売っていないのだ。そうであるなら、と彼は考えた。いま、この小さな町では傘がひとつ足りないことになる……。

あの男はどうしただろうか。警察に届けたのだろうか。彼と同じように、違う誰かの傘を奪ったかもしれない。傘の奪い合いや窃盗が連鎖して、町中が傘の争奪戦になるところを彼は思い浮かべた。いずれにせよ、彼がいま傘を所持していることは、不当なことであり、危険なことでもあるという気がした。

彼は、傘を持っていることが急に怖くなった。だが、いまさら捨てるわけにもいかない。傘のおかげで顔を隠せるのも都合がいい。早いところ、ホテルに帰りついてしまいたかった。しかし、フロント係は、彼が傘を持っていることを不審に思うに違いない。彼は次第に、自分が馬鹿な真似をしたものだと思いはじめていた。傘を、安全に捨てることができるだろうか。川は? しかし捨てるところを誰かに見られる危険性がある。さりげなく、その辺の物陰に立て掛けて立ち去るというのはどうだろうか。

思案したあげく、彼には自分が傘を捨てられないだろうということが分かった。傘は、もうすっかり彼の一部になっていると言えなくはないが、何より傘を差していると気分が安らいだ。もっと上手に傘を差したいと思ったし、不思議なことだが、だんだん傘を差す手の疲労も緩和されてきて、本当に傘にぶら下がって彼の代わりに傘が歩いてくれているような感じがあった。そしてその感覚は、雲が彼を運んでくれているような、心地よいものだった。彼は、傘を持って幸福だった。だから、これは捨てないことに決めた。

夢見心地のまま歩いていると、街灯の下で、急に彼は誰かに呼び止められた。なんとなく、少し前から、話しかけるタイミングをうかがっていたような気配があった。傘を傾け、横目でちらっと見ると、見知らぬ男の狼狽えたような顔があった。その男は傘を差しておらず、手にも持っていなかった。彼が傘を盗んだ相手でもなかった。

素敵な傘ですね、と男は言った。

男は緊張のせいか、自分の声が思ったより震えていたのだろう、ますます顔をこわばらせ、オレンジ色の街灯の明かりに照らされた顔は青ざめているように見えた。

彼はもう一度男を見てから、視線を前方に戻すと、傘の位置を整えて再び歩きはじめた。

 

 

2 イカ

 

その町に到着して、通りを歩きはじめてすぐに、彼は異変に気づいた。そこら中の人たちがみな、何か重大な秘密を抱えているような顔をして歩いていた。もしかすると、こんどの選挙の投票先に関して、お互いを牽制しあっているのかもしれなかった。

駅で切符を買うときに、いくつかある券売機がすべて埋まっていたため、彼はそのうちのひとつに並び、自分の番が来るのを待っていた。彼の前で、一人の婦人が切符を買うためか、ICカードに金額をチャージするためか、とにかく鞄を開けて財布を取り出そうとしたときに、何かが鞄から飛び出して地面に落ちた。鞄から飛び出すにしては意外と大きな物だったので、一瞬彼は怯んだ。それは地面に落ちたあと、少し弾んだように見えたが、錯覚だったかもしれない。落ちた瞬間、何の音もしなくて、あるいはハンカチか、それともポーチのような何かかと思った。

婦人は、落とし物を拾おうと腰をかがめ、手を伸ばした。その手の先に落っこちていたのは一杯のイカだった。彼女はそれを掴むと、素早く自分の鞄にしまいこんだ。そのまま、何ごともなかったかのように支払いを済ませ、その場からどいた。

彼は半ば無意識のまま切符を買い、改札を通って自分の乗るべき電車を調べた。先ほどの婦人はもうどこかへ消えてしまい、彼は自分の見たものについて、それが何を意味しているのか考えてみようとしたけれど、それもうまくいかなかった。

乗る電車が不安で、彼は駅員を捕まえて、自分が乗るべき電車がどれなのか、プラットフォームはこちらで間違っていないか訊ねて確認しようと思った。

向こうに、背の低い男の駅員が一人、こちらに背中を向けて立っていた。別の客の相手をしているらしく、背中越しに、老人が駅員に向かってしきりに何かを言っているのが見えていた。彼はそちらに近づくと、駅員が解放されて自分が話しかけられるタイミングが来るのをうかがっていた。なかなか老人の話は終わらず、彼が少しうんざりして二人のほうを見たとき、彼らは互いの手元を見ながら、何かそこにあるものについて話をしているのだった。

しばらくして、老人が立ち去ると、駅員がなにげなくこちらに振り返った。彼が話しかけたそうにしているのを見てとると、眼鏡の奥で厳格そうな瞳を輝かせながら、こちらに近寄ってきた。そのとき、駅員が制服のポケットにイカをしまうのが見えた。

「第四流通センターに行くには、こちらで合ってますか」と彼は訊ねた。

駅員は黙ったまま手帳を繰り、何やら難しそうな顔をして調べはじめた。駅員のくせに、そんなことも記憶していないのだろうか。それとも、この町の鉄道路線があまりにも複雑なため、乗り換えも含めた適切なルートを示すのに、いちいち手帳が必要なのかもしれない。

「Bの9からご乗車ください」そう簡潔に駅員は言い、軽く手を上げて方向を示した。そして、その場からすぐに立ち去っていった。

彼は言われたとおりの場所から電車に乗った。空いている席を見つけると、その場所に腰を下ろしたが、周囲の人のポケットや、鞄の中が気になって仕方がなかった。

しばらく何も起こらなかったので、彼はうとうとしかけていたのだが、どこかの駅で停車したとき、ある騒がしさを持った一集団が、彼のいる車両に乗り込んできた。そちらに目を向けると、それは制服を着た男子学生たちの一団で、部活の帰りなのか知らないが、みなスポーツバッグのようなものを持ち、蜜蜂が集団の体温で害敵を焼き殺すときのように、彼らは自分らの体温の高さによってあたりの空気を圧迫し、汗の臭いを撒き散らして威圧的だった。

「そういやさ、きー子のやつ、なんで今日あんなこと言ったの」と、学生の一人が言った。

「なに、あんなって、何?」

「え、おまえ知らないの」

「知らなくてもいいことも、ある」

「知らないほうがいいこと、知りたい?」

彼がふと顔を上げると、こちらに背を向けて立ったままの一人の学生の鞄が目に入った。鞄のファスナーが少し開いていて、イカの足のような白いものが一本、はみ出て垂れ下がっていた。彼ははじめ、それを見まいとしたが、どうしたって視線がそちらに吸い寄せられてしまう。直視するまでもなく、絶対的に、まぎれもなくイカだ、と彼は思った。

それは、彼が見ようと見まいと、学生のスポーツバッグから垂れ下がっていて、視線をそらしたところで、その存在が否定されるわけではなかった。

「だって、あれ悪いの寺山だろ?」

「きー子もね。いや俺は悪くないと思うんだよ。きー子で、あれはあれで満たされてるとこあるし」

「きのこ的に」

「やめろ」

「きのこ、きのこ、きのこ、きのこ、きのこ、きのこ、きのこ、きのこ、きのこ、きのこ、きのこ、きのこ、きのこ、きのこ、きのこ、きのこ、きのこ、きのこ」

「どうした。きのこ出ちゃいそうな感じ?」

「てか、寺山のグローブ、きのこ生えてる」

「ゆうと、神宮行くの?」

「交流戦ね」

きのこか、と彼は思ったが、それはとくに内容のある思いではなかった。彼の視線の先に、イカの片鱗は現前し、その足先から、彼はおのずとイカ全体の姿を、学生の鞄の内部に思い描いていた。暗がりの中で、そのイカは薄っすらと桃色が滲んでいて健康的であり、しかし筆記具に挟まって折れ曲がるか、汚れた運動用の靴下と並列して、ほとんど靴下と同化、または靴下に擬態しているのかもしれなかった。

彼はそのイカの足を見つめながら、あるひとつの理解に到達した。今日、おれはこの町に来てからすでに三杯のイカに出くわした。そのことが意味するのは、以下の通りだ。すなわち、

 

一杯のイカがそこにあるということは、そこら中に無数のイカが存在するということにほかならない。

 

まだこれは仮説に過ぎないが、この町のすべての人が、何らかの方法でイカを所持しているのだ。車両の端のほうに座る老人も、うつむき加減に眠っているあの若い女も、つり革に捕まり、携帯電話を夢中でいじっている会社員風の男もだ。だいたいは、みんな、鞄に入れて隠し持っているはずだった。

となると、イカを持っていないのは、この町で彼ひとりということになる。このことは、彼を不安にさせた。

どこか海の見える駅に着いたとき、学生の集団は下車していった。相変わらず、ふざけ合うような声を響かせながら、また、その殺戮的体温をさらに上昇させて。

 

彼の参加することになっていたセミナーは、第四流通センター駅からすぐの、近代的なオフィスビルで行われる予定だった。

そのビルには受付がなく、何の案内も出ていなそうだったため、彼は仕方なく自分の鞄からもう一度書類を取り出して、フロアを確認しなければならなかった。鞄を開けた瞬間、自分の鞄の中にイカがしまってあったら、どんなに素敵だろうかと思ったが、当然ながらそこにはイカが不在だった。イカの欠如状態は、はじめ彼を焦らせるだけだったが、次第に彼は自分の置かれている立場について、的確な判断ができないところまで追い詰められていった。

――おれは、誰もが孤独に抱えるあの秘密から、ただ一人解き放たれているのだ! 生きるということは、要するに、こそこそ隠れてイカを持ち歩くということに他ならない。重力に逆らえないのと同じくらいの確実さで、人は鞄の中にイカをしまい込み、なおかつ他人にそれを知られまいとして、どれだけさりげなく隠し通せるか競い合っている。ところが、誰だって人がイカを抱え込んでいるってことは暗黙のうちに分かっていることなんだ。バカバカしい。互いに見てみぬふりをして、はじめからそんなものなど存在しないかのように振る舞い、相手の顔色をうかがいながら縮こまって暮らしているなんて。だけどおれは違う。もともとおれにはイカなんていない。おれは脱イカ宣言をする。もしイカを持ちたいのなら、こそこそせずに堂々と、胸ポケットにチーフのように挿し入れたり、ブローチのように取り付けたり、ワッペンのように、バッジのように、勲章のように左胸に見せびらかせて歩けばいいのだ。本来、イカは左胸に飾られるべきものじゃないか!

右隣の男が、セミナー前に配られたアンケート用紙に、毛筆で記入している。机の上にはイカが据えられ、イカの足元には血のように墨が流れ出て溜まりを作っている。その墨に筆を浸して、書をしたためるがのごとく、アンケートに○をしたり、空白を押し潰したりしているのだった。

やればできるじゃないか、と彼は思った。こうやって、イカは見せつけるようにして使ってやるべきなんだ。彼はその男の行為を見て、満足感を得た。

左隣の女が、おそらく目が疲れたのだろうが、頭を後ろに傾け、イカをアイピローのように目の上に載せて休んでいる。彼は感動した。これこそが、これこそイカの使い道としての最上位のものではないか。ヒンヤリとしたあの感触、少し動いたくらいではズレないあの粘着力、まるで、最初から人間の顔の大きさに合わせて神が創造したかのようなサイズ感。ミネラル、ビタミン、タウリンを兼ね備えた、肌の調子にも疲労回復にも効果を発揮するスペシャリスト。何も言うことがなかった。

他にも、位牌のように故人の戒名が記されたイカを持つ者、消しゴムの代わりにイカを用いる者、イカで通話をする者、靴の中敷きとしてイカを敷く者、イカに切手を貼って住所と宛名を記入する者、イカをズボンのファスナーから露出させている者など、このセミナー参加者のすべてが、イカを有効活用しているのだった。そして、驚くべきことに、そのどれもが、イカの隠された能力や可能性を引き出し、見事に当てはまった、そして自然な役割を与えていた。

なるほど、このセミナーは、こうしてイカの存在を再確認する意味でも価値があるのかもしれない。問題はひとつ。彼がイカを持っていないことだった。このことを、どう説明したらいいのか。もちろん、彼は脱イカ宣言をすればよいのではないか?

彼は自分が挙手し、立ち上がる場面を思い浮かべた。

みなさん。私はこの町の住人ではありません。しかしながら、今日ここへ参加することができたのは、この町のみなさんの懐の深さといいますか、友好的なところといいますか、そういった面に助けられてのことだったと思います。もう、ご存知かとは思いますが、白状すれば、私にはイカがありません。はじめ私はこのことを恥ずべきことと考えておりました。私は今日ここで、みなさんの実に多様なるイカの使用法に触れて感無量であります。これまで、自分が、いかにイカについて無知であったのか、そのことを思い知るとともに、今日ようやくイカとの距離を縮めることがかなったということが、そうです、今日というこの日にそれが実現したということが、何か意味深いこととも感じますし、もし、ここへ来なかったらと思うと、それはそれでぞっとしてしまう次第であります。ですから、ここで目にしたみなさんのイカの使用法、無限なるその活用術、それについては、確かに、心からの敬意を表明したい所存でございます。しかし、先ほども申し上げたように、私にはイカがありません。これは不名誉なことかもしれません。この世に生きていく人間の一人として、イカを持っていないということがどれほどのハンデになるかということを考えると、自分の不甲斐なさ、また、どうしてこのような不遇に見舞われたのか、これはもう考えたって仕方のないことではありますが、とにかく、事実には変わりありません。そこで私は発想の逆転をいたしまして、イカがないこと、これが私にとっての生活の基盤とでもいいますか、そういった暮らしを受け入れてもいいんじゃないかと、こう考えている次第なのです。人はイカがなくても生きていける、なぜならイカの代わりに消しゴムや封筒、冷えピタシートや靴下、ブローチやペンダントがあるからです。イカに頼らず生きていこうと、まあ、こういうわけなんです。ですから私は、今日ここに、脱イカ宣言というものをいたしたいと思います。

 

一つ、私はイカを所持せず、製造もせず、輸入もしません。

一つ、私はイカを持ち運ばず、置き忘れもせず、積極的に無視します。

一つ、私はイカを使用せずとも解決する問題について、イカを使用しません。

一つ、万が一イカが私のもとに来た場合、私はその事実を隠すことなく、イカの存在をウヤムヤにしないようにして、もとの場所に返す努力をします。

 

以上。と彼は自分の脱イカ宣言の妄想を終えた。

気がつくと、講師がホワイトボードに書かれた何かの文字をイカで消していた。イカは、握ったらとても感触が良さそうだった。やはりそれは、人間の手の形にピッタリと収まるようにできているのだ。手の形だけじゃない。顔のサイズ、筆箱くらいのサイズ、封筒のサイズ、靴の中敷きのサイズ、おしぼりのサイズ、リモコンのサイズ、性欲処理玩具のサイズ、人間が手に取るありとあらゆる道具にピッタリの形状だ。

彼は急に思い直して、反射的に立ち上がっていた。会場の全員と講師が彼のほうを振り返って見た。彼は弱々しく、震えた声で告げた。

「すみません。イカを家に忘れてしまったんですが」

 

 

3 傘とイカ

 

その球場に着くと、誰もが傘を差していた。

東京はすでに梅雨に入り、それでも幾日も持ちこたえた曇り空がついに決壊を迎えるということも気象庁の宣告以来いつまでもなく、梅雨入り七日目にして今日も雨は降っていない。

なのに観衆は青やグリーンのビニール製の小さな傘を頭上に掲げ、ベースボールの試合に向かって懸命に声援を送っていた。

両チームの得点を表す掲示板には、たくさんの0が並んでいた。その中に、ある箇所にだけ1と、3と、4があった。右の端のほうには、5ともうひとつの3があった。

ひとつのプレーが行われるたびに、観衆はどよめき、手を打ち鳴らし、応援団が音楽を鳴らした。まるで、このスタジアム一個がまるまる巨大な宇宙船として浮遊しており、たった今、水の惑星のほとりに漂着したばかりだという錯覚にとらわれた。この三万人を超える人の群れの中から、顔も分からない人間を一人見つけ出さなければならないなんて、とても不可能なことに思えた。それに、たとえ見つかったとしても、うまく彼の人生を継投リリーフできるかはまた別問題であり、それに関しては正直なところ、自信があると言い切ることが難しかった。

その男は必ずしも一人でいるとは限らなかった。家族連れとまではいかないまでも、誰かしら連れ合いがいる可能性はかなりあるだろう。むろん、カムフラージュのためもあるが、早い段階で誰かに視認される必要性があるからだった。それには比較的親しい人物がそばにいるのが好都合だ。そして、私が近づきつつあることに気がついたタイミングで彼は立ち上がり、静かに席から離れるはずだった。

私はまず、一塁側5番入口から入場し、視線をまっすぐ向けるとネクストバッターズサークル内でバットにスプレーを吹きかける打撃選手と、そのやや左側奥に、違う色のユニホームを着てしゃがみこむ捕手選手、それから主審を確認した。彼らは、当たり前のことだが、試合に集中しているのだという感じがあり、どういうわけか「あえて私のことを無視している」というような雰囲気を漂わせているように思えた。

そんなに時間が残されているわけではない。私は、差した傘を東京音頭に合わせて左右に揺さぶり、調子をとっている人々の間を歩いてライトスタンド方向を目指した。自分の歩く通路より、左側で観戦している人たちは、私に気づく余地がないだろうし、二階席の場所によっては見えない位置があるという懸念もある。そして、席を立つ相手に私自身が気がつかないというリスクは、私がどんなルートを辿ろうと一定して存在するのだった。それに、すでに席を離れ、たとえば用を足しにトイレに行くだとか、食べ物を買いに行くだとか、そういうタイミングでその男のいるはずだった空席の前を通過してしまうことも考えなければならなかった。

私はとにかく人の不自然な動き出しや、いびつな空席がないか、気を配って歩くことにした。歩きながら、ゲームの進行と、そのゲームにおけるエントロピーの増減の関係について、どのように解釈するべきかという問題を考えていた。

私ははじめ、ゲームが進行すればするほど、エントロピーが増大するのだと仮定した。ところが、どちらかのチームが何点かの差をつけて相手チームに勝利するという結果の「起こりにくさ」は、考えてみたら常に変わらないのではないだろうか。それに、得点が動き、点差が決定的になってくると、逆にエントロピーが減少し、どちらか片方のチームの勝利が濃厚になっていくという過程が頭に浮かんできた。それでも逆転のチャンスがあるうちは、まだ、選手や観衆の熱量も大きく保たれているものだ。

ならば、試合開始時点こそがエントロピーの最大値が観測されるポイントなのではないかという仮定に私は立ってみた。打撃が不発で、守備防御に重心が傾く試合進行になるとすると、どうだろうか? たしかにそれはエントロピーが大きく保たれているような感じがする。混戦か、0の並ぶ試合か、要するにそのどちらかだ。

結局は、0が並べば並ぶほど、それは退屈きわまりない試合ということになり、われわれは熱を失うのだけれど。もちろんファンは熱を失わず、声援を送り続けるに違いない。われわれ、というのは、われわれ控え選手サブ・メンバー補欠ベンチスタートの話だ。継投リリーフは、点差がつくゲーム中ほど、そして、どちらかの勝利が決定的になるほどある意味では成功しやすいのだ(ある意味でというのは、本物のベースボールの試合における継投についても、その起用が判断ミスでないかどうかは、勝敗がすでに決定的になった後――すなわち、この先いくら選手を交代したって形勢は変わらないだろうと予測される場合の判断であれば責任を問われることが少ない、という意味だ)。

私は、一度17番入口から観戦席を離れ裏の通路に引っ込むと、センター裏を回って15番入口から再び入場した。すでに球場を半周近く歩いており、その間、少なくとも私の知る限り何の動きもなかった。いくつか空席があり、不意に立って歩きだす人間がいたにはいたけれど、どれも不自然な立ち上がりだとか、いびつな空席だとかではなかった。そこには適切な間があり、理由があり、疑われるべき匂いがなかった。

匂い?

たった今上ってきた通路のもう少し手前、たしかにその香ばしい匂いが鼻をつき、何か自分を引っぱる力のようなものを感じた気がする。私はもと来た道を引き返し、裏通路に戻った。

左方向に店が連なっていて、列をつくる人たちが見えた。ゆっくりと私はそちらへ近づいていって、できるだけ冷静に、視界の中の現象を観察しようとした。〈鉄板酒場 鐵一〉という看板の店の前にその男はいた。これから姿を消そうとする人間が、最後に何を食べるかということをもっと考えておくべきだった。この高タンパク低脂質の優等生な食材が含む一般的栄養素、ミネラル、ビタミン、タウリンの摂取は、何か大きなストレスにさらされた人間に、最後の決断を下す勇気を与える。彼は身長も体型も私とそっくりだった。顔はよく見えなかったが、右と左をひっくり返したら、自分もきっとあんな顔になるだろうという気がする。紺のジャケットにグレーのパンツ、いかにも中間管理職風の、私と同い年の男。彼が私の先発だ。

彼はその店でイカ焼きとハイボールと思われるものをふたつ購入すると、15番入口を上がって座席へと戻っていった。距離を保って後を追った。入口を入り右側へ数メートル歩き、交差する通路をまた右に曲がって段を上がった。私は入口付近にまだ待機し、彼の様子をうかがうことにした。彼は自分の席に戻り、隣にいる女にイカとハイボールを手渡した。見た感じからすれば、恋人であると断定してもよさそうだった。

そのとき、空間がめくれるような大歓声がスタジアムを包んだ。グラウンドを挟んで向こう側のスタンドで、無数の傘が開き、イソギンチャクの触手が海水に揺られるみたいに下品に乱雑にウェーブしていた。このあたりの観戦者は、傘を持っておらず(梅雨を考慮して持ってはいても、まだ差すまでにはいたっていない)、気象に関して常識的な判断力を持つ人種のようだった。ゲームは最終局面を迎えている。片方のチームの勝利は決定的になっているらしい。さまざまな過程を経たある物事の終着点が、0に収束するのではなく、ある差を持った2つの数字であり、物事の停止状態がおとずれたあと、永遠にその差は変化しないということは、考えてみると不思議だ。

私はゆっくりと通路を歩いた。ほんの数歩歩いただけだった。視界の右側で、彼が席を立つのが見えた。私はそのまま歩き、彼の席があるはずの通路の位置から十メートルくらい三塁側に進んだ。そして、右側に曲がり、段をいくつか上がりながら、上のほうまで行った。そこでグラウンド側に振り向くと、彼がすでにいなくなった席が左下に見えた。私は左側にまっすぐ進み、彼の席が右側真横方向に見える位置まで来ると、少しだけ前にある通路を右に折れ、下っていった。

何個かの段を下りてついに彼の空席が右側にある位置まで来た。四席またいだその次が彼の空席で、四席目に彼の連れの女がいた。私はおもむろに狭い空間に足を踏み入れ、「すみません」と言いながら彼らの足を越えていった。空席につき、そこに腰を下ろした瞬間、私は継投リリーフを終えていた。
「もうだめ、負けるわ」と女が落胆した様子で、しかし歓声に巻けないくらいの大きさの声で話しかけてきた。

「あきらめるのは早い。最後までわからないさ」と言おうと思ったのだが、とっさに、ぜんぜん別のことを言っていた。

「勝ったら言うつもりだったんだが、負けでもかまわない。むしろ、負け試合も一緒に楽しんで生きていくくらいがちょうどいいと思ってる。結婚しよう。全試合僕といてくれ」

彼女は大きな目をさらに見開いて、私の顔をまじまじと見た。そう、私はきみの彼氏だったあの男ではない。彼は降板した。ここからは私が投げる。

 

私は、33年前に生まれて以来、ずっと補欠ベンチスタートだった。おまえには先発がいるんだと父親から聞かされたとき、私は15歳の誕生日を祝ってもらっている最中だった。

両親がいて、いとこ家族が何人かいて、祖父もいた。

「いつかおまえは傘だらけの町へ行く。そこでは誰もが、晴天にもかかわらず傘をさして歩いている。日除けのためじゃない。そういうスタイルなんだ。一種の流行と言ってもいい。そこで傘を持っていないのはただ一人、おまえだけだ」

「父さん、あのさ、そんなのって変な話じゃないか」

「だけどそれは、正確に言うならば、おまえの先発だ。おまえは実際には傘の町へ行かない。後で先発と交代するんだからな。人生とは、絶えざる選手交代の連続だ。おまえたちは、というよりわれわれは、というべきだけど、個人戦を戦っているわけではないのだ。自分の人生は誰かの人生の続きだし、誰かの人生は自分の人生の続きなんだ」

父の話によれば、私はそれから18年かけて、その私の先発を追いかけ、実にゆっくりとその差を縮めていき、最後にどこかで彼を追い抜くということだった。

「一年に、野球場七周分、近づくだろうな。特に走ったりしなければ」

「交代したら、どうするんだい?」

「どうするって、こんどはおまえが、それ﹅﹅をやるんだよ」

「それ、って?」

「大事なことだ」

 

――そしてまた、いつか私を先発に持っている誰かが、私と交代しにやってくるだろう……。

まるであの観衆が、傘を持って雨乞いをしていたとでもいうように、小雨が降り出していた。雨はグラウンドの人工芝を濡らし、土を濃い色に変色させ、食べかけのイカ焼きと飲みかけのハイボールにも降り注いだ。私は、帰りに傘をひとつ買っていこうと思った。

彼女は目を潤ませて、まだ私を見つめていた。知らない男が彼の代わりにプロポーズしている。彼は永遠に彼女の前から姿を消し、似たところはあるが、まったく別の人間がわたしの新しい彼氏であろうとしているばかりか、夫になろうとしている。新しい? いや、新しいわけではない。ずっと前から、こうなることは決まっていたし、それを頭のどこかで分かっていたのだ。この成り行きを、わたしは何事もなかったかのように受け入れるだろう。そして、この人の言うことを承諾するだろう。ここからいなくなった男のことは、二度と思い出すことはないだろう。なぜなら……。

このとき、私は気づいていたのだ。彼女自身がすでに、事後﹅﹅であることに。彼女は、私と同じく、継投を終えた人間のひとりだった……。根拠はなかったが、そうだという確信があった。

彼女は鮮やかな赤色の傘を持っており、それは私を惹きつけた。その赤色の傘は、まるで彼女のためだけに作られたかのように、彼女の雰囲気によく馴染んでいた。それにもかかわらずその傘は、もし傘が言葉を喋るとしたらの話だが、よその町から盗んできたものみたいに聞き慣れない言葉を喋りそうな感じがした。それは端正でタイトに折り畳まれ、彼女が前任者から引き継いだものとして、空気の中に美しくねじり刺さっていた。

私の座った席の足もとには、同じようにどこからか盗んできたみたいな、色のない傘が一本残されていた。

「なぜなら……、個人の球速やコントロールの良し悪しではなく、チーム全体として結果的に最後までやり切る、そこへ辿り着くことのほうにこだわりたいと思うから」

その瞬間、爆音がどこかで轟き、光の筋が炸裂して重なり夜空を破損した。相手チームの勝利を祝福する花火は、その意味を差し引いて、ただ打ち上がっているというだけでも、何かの役に立っているのだという気がした。たとえば、人生を降板した人間を食らう悪魔の目覚ましなんかに。

2018年6月11日公開

© 2018 長崎 朝

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