黄濁のマリア

応募作品

谷田七重

小説

8,368文字

「BTTB」応募作。遠藤周作の別名義による処女作『アフリカの体臭』で書きました。ただ、長らく氏の処女作とされてきた『アデンまで』も絡ませています。

薄曇りの夕暮れ、鈍い光の中、その女は挑発的な笑みでこちらを振り返り、しかし歩調を緩めることはなかった。汚穢の裏路地、さまざまな肌の色をした街娼たちの声に振り向きもせず、私は女を見失うまいと苦しくせつなくその後ろ姿に目を凝らしながら徐々に歩幅を広げた。と、女は最後にちらと振り向き、唇の端に微笑を浮かべたかと思うと、ギイイ、とボロ家のドアを開け、ひらりと中へ身をすべらせた。
違和感なくこの路地に溶け込んでいる、今にも崩れ落ちそうな家だった。少しのためらいもあったが、ここで突っ立っていたらまたわけのわからない街娼たちに腕を掴まれそうで、私はおそるおそるドアノブに手を掛けた。
ドアを開けて中に入ると、固太りの黒人女が青く薄っぺらい布切れに身を包み、テーブルの上に肉厚な脚を組んで座っていた。あの女から話を聞いているのだろう、こちらを見据えてにやにや笑っている。やられた、と思った。よくある話じゃないか。めずらしく美しい街娼に声を掛けられ、部屋に入り、ベッドで待っているととんでもない別人があらわれる。――がそもそも、私はあの女がこういうところに出入りしているとは露ほども思わず、ただ単にその美貌に憑かれたようにあとをつけてきたのだ。声をかけようだとか、そんなことも思わず、ゆたかなブロンドの後ろ姿に自分の心さえなくしたように、ラスパイユ通りからふらふらと。そうしてこの裏路地に差し掛かった瞬間、女は私があとをつけているのをあらかじめ知っていたかのように、時おり振り返っては意味ありげな微笑を見せる。その頃には、私はもうその気になっていた。それで導かれるようにしてこの家に入ったら、この黒人女だ。
そんなことを考えながら固まったまま身じろぎもしない私の顔色に、黒人女は愉快そうに「あの娘のあとをつけてきたんだって?」と言った。
何も応えずにいると、女は不躾にもさっと私の爪先から頭の先まで眺めたあと、目を細めながらタバコに火を点けた。まずしい、としか形容のしようもない、今にもぐしゃりと潰れそうなテーブルにたっぷりとした肉付きの身体をあずけている。天井の乏しい灯りが、かえってとらえどころのない煙を際立たせている。
「あの娘を世話してほしいって?」
なんだ、こいつ遣り手ばばあなのか? あの美しいブロンド女を、目の前にいる黒人女が商品にしているというのか? よくわからなかったが、混乱する頭の片隅でなぜか私はこの黒人女の年齢を推察していた。ほの暗い部屋にぽっかりと空いたブラックホールのような顔を注視していた。ただその目だけはぎらぎらと光っていて、しかも明らかに私を嘲っている。
「あの娘と寝たい?」
ブラックホールはぐにゃりと歪み、その唇らしきものの隙間から覗く乱杭歯に、私は屈辱を感じながらも頷く。
「あんたには世話できないね」
黒い女は煙と一緒に吐き出すように笑った。意外だった。とびきり上等ではないが、靴だって手入れの行き届いたいいものを履いているし、まあまあな仕立ての服を着ているにもかかわらずだ。なのにこのあしらい方はなんだ。
「もうこれで十何人目かになるのかねえ」
こちらの混乱にも頓着なく、黒い女は呟いた。
「あの娘はきれいだからね、あとをつける男もいる。それがこんな家に入ったら、当然みな世話してくれって言う。あんたみたいに、通ってくれそうな男もいる。でもね」
ふうー、と思わせぶりに煙を吐いてから続ける。
「あの娘、黄色人の客しかとらないよ。それも日本人ね」
頭上にクエスチョンマークがわだかまった。そんな私の反応を楽しむように、黒い女はこちらを見据え、腕を組んだままタバコの煙をうまそうに深々と吸い込み、にやにやしながら言った。
「だから、あんたみたいな色っ気のない奴はお断りってこと」
こいつは何を言ってるんだ? 頭に血が上りそうになった、がその瞬間、黒い腕が差し伸べられた。とはいっても、金を受け取る仕草だ。
「もうすぐ客がやって来る、あんたはあの娘を抱くことはできないけど、それを見ることはできる。どうする?」

***

――ねえ、ママン、黄色って、罪の色なのかしらね。イスカリオテのユダの色。あの人はそう言った。裏切りの色、黄色。そう、たしかにあの人は私を裏切って、帰国してしまった。私の咲きそめるつぼみを手折って、あの人は行ってしまったの。私の手の届かないところへ、黄色い肌をした人たちばかりの島国へ。
そう、あの人が笑った時にちらと見せる歯、その輝きにも黄色が混じっていた。タバコをひっきりなしに吸う、あの人の歯に黄色が混じるのも無理はなかった。私はそれでも構わなかった、構う必要もなかった。だってはじめて乳房への愛撫をしてくれたのも、もっと深いところまで探ってくれたのも、その黄色い歯のあいだから差し出される舌に他ならなかったから。その肌に包まれて、舌でなぞられて、私ははじめて我を忘れることができたの、あら、ママン、笑わないで。
またその話? そうね、前にも何度か聞かされたから、こないだ画集を開いてみたの。たしかにレオナルドの《最後の晩餐》ではユダは黒人みたいに見えるわね。でも、それがどうかして?……ふふ、そうね、黒い肌、で青い服、を着てるから中和されてるのね。それがママンなりの「黄色」なの、そうなのね。絵の具の黒と青を混ぜたら、黒にしかならないと思うけど。ママン、やさしいのね。ありがとう。私のつまらない思い出を大事にしてくれて。
でもね、やっぱりわからない。わからないの、ママン。もしかしたら、私たち白人こそが罪人かもしれないの。え? 肌の色に罪はない……そうね。ママンに言われると説得力があるわね。でもね、でもねママン、あのね、私ね……

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2018年5月4日公開

© 2018 谷田七重

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