問題教師

南沢修哉

小説

10,088文字

昼休み、現代文の教員は些細なことから感情のコントロールを失う。それはドミノ倒しの最初の一枚にすぎなかった。怒りと憎しみに満ちた職員室で、レクリエーションと化した暴力の祭典が幕を開く。

森友高校の教員たちの多くは一流大学を卒業したエリート中のエリートだった。その気になれば国家試験をパスして文科省に入ることもできる頭脳を持ちながら、現場の教育に携わりたいという青春ドラマのような青臭い動機、独りよがりなエリートにありがちな頑迷さのために、高校教諭として働いていたわけであるが、想像のはるか上をゆく教育現場の実態、その労働環境の劣悪さを思い知らされ、彼らの多くは自分の考えの甘さを悔いた。朝の7時から夜の10時まで休みなく働かされた。休日は部活動の顧問として遠くの山奥や最終流刑地のような僻地まで駆り出され、タダ同然の金でこき使われた。過労で病気になっても労災扱いにはならず、貯蓄はおろか、女房子供を満足に養うことさえできなかった。ある教員の女房は家計を支えるためにディスカウント・ストアでアルバイトをしていたが、そのことが生徒に知れてこっぴどく揶揄われ、顔に生卵をぶつけられた。その教員は悔しさのあまり酒浸りになり、アルコール中毒のために退職を余儀なくされた。労災は下りなかった。悲惨な目に遭っているのは所帯持ちの教員だけではなかった。独り身の教員は精神に異常をきたして休職し、復職して間もなく退職した。治療のために精神科にかかっても、ジェリービーンズのように色とりどりの向精神薬を処方されてはいさよならだった。それによって一時的に回復の兆しが見られても、しばらくすると薬に耐性ができ、決められた量の何倍もの抗鬱剤や抗不安薬を飲むようになってしまう。そうなったが最後、二度と教壇に立つことはできなかった。労災も下りなかった。次から次へと問題ばかり起こす生徒、無茶で身勝手な言いがかりをつけてくる保護者、容赦なく仕事を増やす教育委員会、自分たちの正義をふりかざすマスコミ……。時代に虐げられた高校教諭たちは、彼ら自身の、内なる泥沼へと足を踏み入れるのだった。

 

「子供たちが見たらどう思いますかね……」

現代社会の教員=和田夏子(49)は昼休みになると職員室の机の使い方が乱雑だという理由で他の教員を注意していた。書類を整理しろだとか、出したものはしまえだとか、茶道部の顧問である和田夏子はそのようなことを口やかましく言ってまわっていた。その演じられた性格の明るさのようなものに他の教員たちは若干の苛立ちを覚えつつ、いったん注意されると、苦笑いを浮かべて仕方なく従うようにしていた。ただ一人、現代文の教員=吉野頼也(25)だけは、現代社会の教員=和田夏子の幸福さに対してというより、その日に味わわされた数々の屈辱への苛立ちから、キレて机を蹴飛ばし、何も言わずに職員室を出て行ったのだ。昼休みが終わっても彼は戻ってこなかった。副担任が電話をかけたが通じなかった。緊急職員会議が開かれ、現代文の教員=吉野頼也の処遇について話し合われたが何も決まらなかった。体調不良で早退したということを学年主任の杉原竹男(39)が一年五組の生徒たちに伝え、午後の現国の授業は自習となった。後日、現代文の教員=吉野頼也は、勝手に帰ってしまった件で物理の教員=礒賀裕一(28)からしつこく詰められた。
「なぜ机を蹴ったのか、なぜ何も言わずに帰ったのか、なぜ電話をかけたのに通じなかったのか、電話が故障したのか、それとも電話の電源を切るなどして意図的に連絡を絶ったのか、後者であるならそれはなぜか、こちらが把握している事実に誤りはあるか、なければ昨日のあなたの行動は森友高校の教員としてどのようなものであったと言えるか、口頭でかまわないので説明してください」

まるで小説家のようなねちねちした口のきき方に現代文の教員=吉野頼也はふたたび怒りの血を煮えたぎらせた。物理の教員と彼に加担している他の教員たちを、吉野は殺意に満ちた目でにらみつけた。「勝手に帰ったことは謝る」とした上で、「自分の机をどう使おうが自分の勝手だ」ということを現代文の教員=吉野頼也はあらためて強く主張した。「あなたの机は散らかりすぎて見るに耐えないのだ」「生徒に示しがつかんでしょうが」「そもそも机は学校の備品でしょうが。あなたの所有物のように扱ってもらっては困るんだ」などと、何人かの教員が発言の許可を得ることなく叫んだ。勝手に帰ったりして! クビだぞ! 彼らの、ほとんど罵声に近い怒鳴り声は、職員室の外まで聞こえ、生徒たちの噂になっていた。後日、噂を聞きつけた保護者=香山律子(48)から職員室の治安悪化に関する問い合わせがあったが、「いやー、治安悪化というほど大げさなものではございませんよ。いささか議論が白熱しすぎただけのことでございます。わが校には教育熱心な先生が大勢あつまっておりますので、先生同士で議論するのも珍しいことではないのですよ。先生同士の議論がヒートアップしても、お子さんに直接影響する話ではございませんので、どうかご安心ください。とはいえ香山様にご心配をおかけするような事態になるとはこちらも考えておりませんでした。その点は先生方に気をつけるよう注意しておきます」と松本教頭(52)が丁寧に応じると、それ以上の追及はなされなかった。香山律子は多くの身勝手な保護者同様、自分の子供に関することにしか興味がなかった。そのため教員同士の争いは野放しとなり、激化の一途をたどった。

現代文の教員=吉野頼也の机の使い方に端を発する一連の抗争以来、彼は僅かながら身のまわりのものを整理するように努めていた。他の教員たちも自分以外の教員にはなるべく干渉しないようにしていた。それは職員室の永遠平和を意味するものではなく、一時的な膠着状態にすぎなかった。その期間が長ければ長いほど、彼らの、争いへの欲求は昂ぶっていった。隣でラップトップのキーを叩くカタカタカタカタという音、答案用紙に丸やバツをつけてゆく、しゃっ、しゃっ、という虫けらじみた摩擦音に、多くの教員たちが殺意をにじませていた。
「あなたが時間通りに授業を終わらせないから、次の授業で生徒たちがちっとも静かにならない。どうしてくれるんですか」
数学の教員=今村修平(32)は、身勝手な保護者のパロディとでも言うべき論理で、現代文の教員=吉野頼也に突っかかっていった。生徒が静かにならないことは内心どうでもよく、このところ職員会議で度々問題になっている現代文の教員を相手に、日ごろのストレスを発散してやろうというのが彼の真の狙いだった。彼は、先日の昼休みに現代文の教員がキレて帰ってしまった件を、数学の授業中に生徒たちに話していた——吉野先生は短気なんだからあまり揶揄ったりしてキレさすんじゃないよ、などと冗談混じりに注意して、生徒たちが吉野頼也を揶揄うようにけしかけていた。たしかに現代文の教員=吉野頼也はまだ若くて血気盛んなところもあったが、生徒の挑発ごときに本気でキレるほど短気ではなかった。しかし相手が自分と同じ高校教諭となると話は別であった。
「それは私のせいではありませんよ。ご自分の無能さを人のせいにしないでいただきたい」
「なんだと」

数学教師=今村修平は机を叩き、現国教師=吉野頼也は生徒に配るための印刷物を投げつけるなどして激しく怒鳴り合った。他の教員は静まり返った。「ちょっと表に出ろ」という不穏な展開となり、彼らは職員室を出て資料室に移動した。資料室は教員たちの聖域だった。何をやっても許される場所だった。数分後、職員室に戻ってきた二人の顔は傷だらけで、シャツが破けたりボタンがとれたりしていた。職員室にいたすべての教員は、彼らの姿を見て何も言わず、何事もなかったかのようにただひたすらデスクワークをつづけた。現国教師=吉野頼也はその姿のまま授業に出た。生徒から顔の傷について訊ねられたが、階段から落ちたと頑なに言い張った。

それ以降も現国教師=吉野頼也と数学教師=今村修平の異常とも言える争いはつづいた。髪型であるとか、着ている服の色であるとか、ネクタイの柄であるとか、およそ学校教育に関わりのないことで互いに言いがかりをつけ、そのたびに資料室に赴いては暴力行為に及んだ。他の教員たちもそれを黙認しつづけた。連日連夜の時間外労働、保護者からのクレーム、教育委員会に提出する書類の作成、それらの激務に追われる日々の中で、彼らは、大人としての正常な判断ができなくなっていた。果てしなく溜まりつづけるストレスを正しく発散することができなくなっていたのだ。学園ドラマの教師に憧れ、夢にまで見た高校の教壇は、いまや悪夢と化していた。怒りと憎しみをぶつける相手は、自分と同じく、教育者になりそびれた職員室の敗残者だけだった。

二人の暴力行為はさらにエスカレートし、とうとう資料室に移動する手間を省くようになってしまった。いままで張り詰めていた職員室の空気は、その日の昼休み、ついに爆発した。

数学教師=今村修平が、丸めた教科書で吉野の頭を小突くと、現国教師=吉野頼也はプラスチックのコップの飲み物を今村の顔にぶちまけた。数学教師は相手の顔に唾を吐きかけ、怒り狂った現国教師は相手の髪の毛をつかんでその顔面を職員室の壁に叩きつけた。取っ組み合い、犬のように床を転がりながら殴り合った。シャツの裂けるびりりという音がして、半透明のボタンが弾け飛んで他の教員の机の上に転がった。互いに相手の腹や頬に鉄拳をめり込ませていった。今日までペンを握る以外にほとんど用いてこなかった彼らの拳は手加減というものを知らなかった。もはやそれは理性なき獣の殺し合いだった。職員室は二人の闘技場と化していた。体育教師=石井清吾(43)は暴力行為を止めるどころか、喰い入るように殴り合いを見物しつつ後ろ手に職員室の扉を閉じ、鍵をかけ、外から生徒たちが入れないよう工作した。現国教師=吉野頼也の後ろまわし蹴りが豪快に空を切り、履いていたサンダルが飛んで校訓の額にあたり、ガラスが割れてぱらぱらと落ちた。松本教頭はスーツの襟に降り注いで溜まったガラスの破片をバサっと払いのけた。ガラス混じりのキャベツ・サラダと肉の脂身をゴミ箱に棄て、黙々と昼食をつづけた。「いいかげんにしろ!」と大声で叫びながら体重百キロの日本史教師=佐藤敏郎(44)が二人の頭にのしかかってきた。それは仲裁をしているというより、自らも悦び勇んで殴り合いに参加しているようにしか見えなかった。数学教師=今村修平の肘鉄が鼻先に直撃し、日本史教師=佐藤敏郎はおびただしい量の血で職員室の床を汚し、ぐったりと顔を横に向け気絶した。気絶した人間の頭をサッカーボールのごとく思いっきり蹴飛ばした。気絶して倒れている人間の頭を蹴るという卑劣極まる行為に激怒した英語教師=若島雄三(58)は、動物園の猿のように机の上に飛び乗って、数学教師の背中に飛び膝蹴りを浴びせた。「やっていいことと悪いことがあるだろ! 教育者のくせに!」などと怒鳴りながら、彼は数学教師=今村修平の胸ぐらをつかみ、そのまま何発も頭突きを浴びせた。数学教師はすぐに血まみれになってしまった。現国教師は背後からそっと近づき、背もたれ付きの椅子を投げつけた。この世の終わりのようなものすごい音がして、英語教師=若島雄三は頭から血を流して倒れた。ぎゃあああああ! 彼は両手で頭を抱えて絶叫し、床をのたうちまわった。暴れるほど血が飛び散り、無関係な女性教師=秋元康子(35)の白いブラウスを汚した。椅子による暴力行為をえらく気に入った松本教頭は、こみあげる微笑を隠しきれず、口角をひくつかせた。数学教師=今村修平も背もたれ付きの椅子を持ちあげて威嚇し、現国教師=吉野頼也も新たな椅子を手に入れ、スパルタ軍の兵士のごとく闘った。空中で椅子と椅子とがぶつかり合って、がしゃん、がしゃん、と音がした。鬼気迫る高校教諭たちの死闘を止める者は誰一人としていなかった。激しくにらみ合い、持ち合った体勢から、現国教師=吉野頼也は相手の腹に強烈な前蹴りを入れた。数学教師=今村修平はどたどたと後退し、椅子を抱えたまま窓ガラスを突き破り、そのまま屋外に落ちそうになった。「あぶない!」女性教師=秋元康子がヒステリックに叫んだ。すんでのところで椅子を放したため、彼は内側に倒れるだけで事なきを得た。中庭で遊んでいた生徒たちは、いきなり職員室の窓から椅子が降ってきて驚いたことだろう、そんなことを考える隙も与えず、現国教師=吉野頼也は倒れた相手の腹に何発も蹴りを入れた。数学教師=今村修平は身体を丸め、防御の姿勢をとりつつ、相手の脚を捕まえ、脛に噛みついた。現国教師は獣のような咆哮を轟かせて倒れた。数学教師は息を荒げながら、床を這いずり、自分の机を目指した。抽斗を開け、生徒から没収したバタフライ・ナイフをつかみとった。蝶番になったクロムメッキの柄を180度回転させ、刃をむき出しにした。血まみれの顔で、目をギラつかせ、膝をフラつかせながらゆっくりと立ちあがった。現国教師は椅子を盾代わりにして身構えた。二人は、血を流して床に転がったままの日本史教師=佐藤敏郎のセイウチじみた巨体を挟んでにらみ合っていた。数学教師=今村修平の鼻は頭突きによってへし折られ、左に曲がっており、どこか化け物じみた禍々しさが漂っていた。現国教師=吉野頼也もまた度重なる殴り合いのために血を流し、すでにへとへとになっていた。職員室のいちばん奥の席に鎮座している松本教頭は、女房につくらせたマカロニ・グラタンの弁当をむしゃむしゃと貪り喰い、それを麦茶で胃に流し込んでいた。彼はボクシングの試合でも観戦するように、教員たちの死闘を楽しそうに眺めていた。職員室の他の教員たちは固唾を飲んで見守った。昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。一つ目の鐘が鳴った瞬間、数学教師=今村修平はナイフを握りしめて突進していった。「やめてください!」と言って女性教師=秋元康子が割り込んできた。彼は反射的にそれを避けようとしたが、彼女の右腕に傷を負わせた。無関係な人間を切りつけてしまったことでたいそう狼狽し、彼はナイフを落とした。その隙だらけの鼻っ面に現国教師=吉野頼也は鉄拳をねじり込んだ。数学教師=今村修平の身体は宙に浮いて吹っ飛び、棚に背骨を強打して倒れた。現国教師は勝ち誇って踵を返した。しかし数学教師は懲りずに立ちあがり、すぐそこにあった現国教師の机のパソコンを持ちあげた。「やめろ!」と現国教師=吉野頼也は叫び、手を伸ばしたがすでに遅かった。数学教師=今村修平は悪魔じみた笑顔でパソコンを叩きつけた。電源ユニットやハードディスクがばらばらになって床にぶちまけられ、ディスプレイは蜘蛛の巣状に割れて真っ暗になった。職員室は静まり返った。うわああああああ! 逆上した現国教師=吉野頼也は仕返しに数学教師の最新型ノートPCを机から毟りとり、窓から投げ棄てた。パソコンは中庭の植え込みの角の煉瓦にあたって砕けた。その音は想像以上に小さく、あっけなかった。自分がそのような報復に遭うとはまったく予想していなかったかのように、数学教師=今村修平は怒りに打ち震え、職員室の床に散らばったパソコンの残骸を手榴弾のようにして次々と現国教師に向かって投げつけた。それらはことごとく回避され、窓ガラスを割って中庭へと落ちていった。そのとき、何を思ったのか、数学教師=今村修平は腕時計を見て「授業がある」と一言だけ告げた。それを聞いた現国教師=吉野頼也は頷いてあっさり納得し、それ以上の暴力行為を差し控えた。いままでつづいていた死闘が嘘のように終結した。数学教師=今村修平は乱れた服装と髪を整え、教科書と出席簿を持って職員室から出ようとした。体育教師=石井清吾が扉の鍵を開けてやった。他の先生たちも慌ただしく授業の準備をはじめ、職員室から出て行った。職員室に残った現国教師=吉野頼也は、脱げた右足のサンダルを探した。これかね? 松本教頭は口にものを入れたまま訊ね、彼のサンダルを掲げた。現国教師=吉野頼也は礼を言い、サンダルに足を突っ込んだ。しばらくして目を覚ました日本史教師=佐藤敏郎と英語教師=若島雄三の二人は、松本教頭のクラウン・アスリートに乗せられ近くの病院に運ばれた。
「はーい、授業はじめるぞー。席つけー」生徒たちは一様に数学教師の顔の傷について訊ねた。数学教師=今村修平は、職員室にいきなりマウンテンゴリラがあらわれて暴れたのだと頑なに言い張った。

興奮冷めやらぬその日の放課後、世界史教師=鳴海碩夫(31)は通勤に使っている車のタイヤを何者かにパンクさせられた件で、(尤も、それは不良生徒による犯行であると別の生徒の供述によって一週間後に明らかになるのだが)「おれの車をパンクさせたクソ野郎はどこのどいつだ!」などと、職員室で、他の教員が大勢見ている中で、いきなり大きな声を出し、物理の教員=礒賀裕一に言いがかりをつけはじめた。礒賀はいつも表情が暗く、典型的な物理顔をしており、色はKKKのように白く、痩せており、前髪は長く、地味なチタン・フレームの眼鏡をかけ、見るからに弱そうで、裏で何かこそこそやっていそうなイメージにぴったり合致した。言いがかりをつけるにはうってつけの相手だった。貴様だろ! 物理の教員=礒賀裕一が犯行を認めないので、世界史教師=鳴海碩夫は飲みかけのコーヒーを彼の顔にかけた。そのあまりに理不尽な行為に、物理の教員=礒賀裕一は怒ったり言い返したりする気さえ失ってしまった。まるでテキサスの農園主に罵られるニガーのような気分だった。何も言い返してこないと見るや、世界史教師=鳴海碩夫はさらに増長し、物理の教員を椅子から引きずり倒し、馬乗りになって顔に鉄拳を浴びせた。彼が懺悔するまでその暴力行為はつづいた。物理の教員=礒賀裕一は、自分がやっていない罪を認めさせられ、泣きながら世界史教師に謝罪した。彼は翌日から学校にこなくなってしまった。

物理の教員が不登校になってから、職員室の空気は以前に増して最悪なものになっていった。一切の会話がなく、怒りと憎しみに満ちあふれていた。血の気の多い男性教員たちは常に暴力衝動を発散させるチャンスをうかがい、一瞬の隙も見逃さぬよう虎視眈々と目を光らせていた。女性教員たちは下手に関わって争いに巻き込まれることを嫌い、自然と抑鬱的になっていった。学校というものに嫌気がさしていた。

一週間後、物理の教員=礒賀裕一は何の前触れもなく帰ってきた。真っ白なスーツを着込み、黒いドレスシャツに銀ラメのネクタイを締め、髪は車のオイルのようなものでぎとぎとに塗り固められていた。休んでいるあいだにピンチヒッターを務めた非常勤講師に礼も言わず、大股で椅子にふんぞり返り、まるで校内暴力に飢えた二十世紀の不良生徒のように、職員室の教員たちを一人ずつねめつけていった。暴力に縁のない教員たちは迷惑そうに俯向いた。彼を腕力で屈服させた世界史教師=鳴海碩夫でさえ臆してにらみ返せず、目を背けてしまった。いったいこの物理の教員にどのような心境の変化があったのか、職員室の教員たちは気になりつつ誰も口をきかなかった。ただ黙々と目の前の仕事を片付けた。さいわい、彼らは余計なことをぼんやりと考えるにはあまりにも忙しかった。日常業務に追われ、生徒指導に追われ、部活動に追われ、保護者への対応に追われていた。

期末試験の問題作成を終えた世界史教師=鳴海碩夫は、靴に履き替え、教員用の通用口から外に出た。すでに陽も暮れ、あたりは暗かった。校舎の外側から見える窓の灯りも職員室以外は消えていた。彼は歩きながら、物理の教員=礒賀裕一を完膚なきまでに叩きのめす名案はないものかと考えていたが、何も思いつかず舌打ちをした。教員用の駐車場に停めてある青灰色のコンパクト・カーに彼は乗り込んだ。前日、ロードノイズ低減タイヤに交換したばかりの愛車だった。

シートベルトを閉めた瞬間、砂煙を巻きあげながら猛スピードで校庭を横切るトヨタの四輪駆動車の、常軌を逸したパッシングに彼は気がついた。強烈な光に、彼は目を細めた。凄まじい排気音が、練習を終えて帰ろうとしている野球部の生徒たちの耳目をあつめた。四駆はスピードを落とさず新校舎と旧校舎のあいだの狭い道を突き抜け、世界史教師の車にみるみる迫ってきた。いまからシートベルトを外し、車を降りて逃げたのではおそらく間に合わない。彼は慌てふためいて車のキーをフロアマットに落とした。すぐに拾いあげイグニッション・キーをまわしエンジンをかけたが、気が焦ってシフト操作を誤った。ギアをパーキングからニュートラルに入れてしまい、そのままアクセルを踏んだため、彼の車はぶおおんという無駄に大きな騒音を放つばかりで前にも後ろにも動かなかった。クソッタレが! 車格で劣るコンパクト・カーは四駆による側突をもろに喰らい、駐車場の駐車スペースを横すべりしながら、創立者のブロンズ像をなぎ倒し、踊るように一回転半して植え込みの中でようやく止まった。センター・ピラーから前後にかけてくの字にひん曲がり、エンジン・ルームから白煙が昇っていた。ふざけやがってクソ野郎が……ぶっ殺してやる! 世界史教師=鳴海碩夫は忌々しく悪態を吐き、エアバッグの海をかきわけて車から降りようとした。ドアが開かなかったので、後部座席へと這って進み、ヒビの入ったハッチバックの窓を肘で突き破って外に出た。逆さまになったラゲッジ・コンパートメントを開くと、いくつか工具が落ちてきた。その中からモンキースパナとソケットスパナを拾いあげた。工具で武装して息巻く世界史教師=鳴海碩夫は、負傷した左足を引きずりながらトヨタの四駆へと近づいていった。「おれの車を滅茶苦茶にしやがったクソ野郎はどこのどいつだ!」などとアメリカ南部の百姓じみた大声を発した。割れてむき出しになったヘッドライトの光を手で遮りながら近づき、彼は運転席を覗き見た。暗くてよく見えなかった。パワー・ウィンドウがゆっくりと下がった。スパナを振りあげ、攻撃の準備をした。八点式シートベルトで完全防備した現社教師=和田夏子が窓の内側からMP5短機関銃の銃口を彼に向けていた。暗闇の中で銃口がつづけざまにフラッシュし、世界史教師=鳴海碩夫の顔は一瞬にして蜂の巣となった。彼女は薬室から舞いあがった砲煙と火薬の匂いを手で払いのけ、シートベルトを一つずつ外していった。MP5短機関銃を持ったまま車を降り、世界史教師の死体に少なくとも二十発の弾丸を浴びせた。空になった弾倉を投げ棄て、新しいものに素早く交換した。騒ぎを聞きつけてあつまってきた野球部の生徒を見境なく撃ち殺した。運動部のトロフィーなどがショーケースに飾ってある来賓用のエントランスから出てきたのは、生徒指導部の体育教師=石井清吾と松本教頭だった。体育教師は竹刀を振りあげ無意味な威嚇を繰り返していた。松本教頭は不審者捕獲用のさすまたを現社教師=和田夏子に向け、声をふるわせながら投降を命じていた。和田は素早く正確に照準を合わせ、体育教師と松本教頭を一瞬で地獄に送った。世界史教師と同様、死体に何発もの9mm弾と罵声を浴びせた。死ねぇああ! 死げぇぇああ! 死ゔぇぇええああアアッ! 死にやがれええ! 死んにやがりぃぇええあ! 死んんんにやがりゃああクソ教師げぇゎぁあ! クソがああ! クソ教師がああ! この……クッ、ソ教師ゔぇぇええああアアッ! どぅゔゔゔぇぇぁああ! こんんんの……クソどもげぇぇえるルルワァァアアーッ!——声帯もちぎれんばかりに怒り狂った現社教師=和田夏子の絶叫と銃声が学校じゅうに響きわたった。死体は原型を留めず、糸の絡まった操り人形のごとき有り様になり果てていた。

ガラスの扉を押し開けて校舎から出てきた物理の教員=礒賀裕一は、駐車場に向かっていた。現社教師=和田夏子は新たな獲物に銃を向けたが、運悪く弾切れだった。クソが! 彼女は無駄な弾を撃ちすぎたことを悔い、短機関銃をその場に棄てて走り去った。物理の教員=礒賀裕一はそのへんにいくつも転がっている死体や仰向けになっている車には目もくれず、ゆったりした足どりで一直線に自分の車を目指した。銃殺された野球部の生徒たちの死体をまたぎ、自分のハイブリッド・カーのドアに手をかけた。彼の車は衝突事故のあった向かい側の駐車スペースに停まっていたので完全に無傷だった。車を出そうとしたとき、その通り道に世界史教師=鳴海碩夫の死体が転がっているのに気がつき、彼はため息を吐いて車を降りた。近づいて腰をかがめ、死体のスラックスのベルトを両手でつかんで持ちあげ、力いっぱい横に放り投げた。車に戻り、何事もなかったかのように下校した。

2018年2月4日公開

© 2018 南沢修哉

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

ライトノベル 学園モノ 散文 暴力

"問題教師"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る