名前

わに

小説

6,228文字

ものすごい昔に書きました。うさぎが死ぬ話

 別れてからずっと音信不通だった元彼から突然メールが届いたのはきょうの明け方で、それは、眠れない、眠れない、を繰り返すうちにどんどん夜型人間になっていた私が、やっと眠気をつかみはじめたのと同じころだった。

「まくが死んだよ」

 その瞬間、私の中の感情という感情がぐちゃぐちゃと巻きあいながら目の前に現れて、その衝撃に携帯を取り落としそうになった。現実が引き波のように急速に失われていき、「まく」という言葉をとりまいて次々と現れる記憶が私の頬をはたく。どうしてあんなに大切だったまくのことを忘れていたんだろう、と、ちかちかした視界のなかで懺悔のようにつぶやいた。

 連絡をくれた元彼とは、もう別れて二年以上が経っていた。別れたときにはお互いに友達に戻れるなんて思っていなかったから、もう知らない者同士としてやっていこうという暗黙の了解があった。だけど「まく」に関してだけは別物で、なにかあったら絶対に連絡して、と念を押してから別れたのだ。

 だからまくに関しての重大な知らせをきちんと伝えてくれた元彼に対して感謝の気持ちもあったけれど、そんなことを味わう余裕もないくらいに、重たく煙たい感情が私の身体中を満たしていた。胸をえぐるような罪悪感がゆっくりと露出して私を睨みつけるように覗き込んでくる。

 

 まく、というのは、飼っていたうさぎの名前だ。彼と私が同棲を始めた頃に、彼が飼いたいというからとりあえずペットショップへ行ったのがはじまりだった。

 まくは、ペットショップのうさぎの中で、いちばんふくふくと太っていた。白くてつやつやした毛並みのいいうさぎだった。まだ生後三ヶ月も経っていないのに、すでに貫禄みたいなものがあった。そして、さみしくて死んでしまうなんてこの個体においては嘘に違いない、と思わせる落ち着きがあった。一目見て私も彼も気に入った。当時の私たちは、お互いにお互いの関係に満足しながらも、どこか危うさがあることを察知していたから、きっと本能的に、この揺るぎない安定感を欲していたのだろう。

 このうさぎは、ケージの中でも外でもよく眠った。眠る、やわらかな白の塊がどうしても枕に見えて仕方なく、もともとは別の名前をつけていたのだけれど、だんだんと「まくらちゃん」と呼ぶようになった。そうして結局、このうさぎは「まく」になった。

 まくらのようにやわらかで綺麗で、暗い夜から私を守ってくれる、大きなうさぎ。

 あれから三年くらい経って私たちは別れた。まくは、もともと飼いたがっていた彼のほうに渡った。私はまくと離れ離れになってしまうことが、悲しいをとっくに通り越して、身体中が痛み出して震えがくるくらい、本能的につらかった。だけど、もうそれ以上にもう彼とやっていく自信も気力もなくて、頭の中からすべてを捨て去るようにしてあの家を出た。だから、彼に対してはさておき、私はまくに対して、なにひとつ整理がついていなかった。

 もうあの痛みから二年が経つのか。それ自体が自分にとって信じがたいことだった。けれど、あれからもう新しく彼氏ができたし、髪型も変わったし、住む家だって変わったし、職場も変わっていた。あのときの気持ちごとそっくり置いてきてしまったから、まくのことを思うと、自分がいかに今とは別人のように、根無し草のような気持ちで世を漂っていたのかということを考えさせられる。あのとき私の心は一度死んだのかもしれない。リセットボタンを押すように。

 

 メールを受け取ったとき、私は明け方の薄明かりをカーテンで締めきって、いよいよ眠ろうとしていた。ただなんとなく眠る直前まで携帯を触る癖が抜けていなくて、こんな時間帯に珍しい新着メールに少しだけ目が冴えてしまったのだった。

「まくが死んだよ」

 件名もなく、ただそれだけ打たれたメール。SNSもすべてブロックしていたから、メールでしか連絡手段がなかったのだ。あまりにもあっさりとした内容に、それでも私は呼吸を乱すくらい心が揺れ動いてめちゃめちゃになった。まく、という名前を見ることでさえ私にとっては衝撃的な出来事なのに、そのまくが死んでしまったのだ。まくは、もうまくらのように、ふわりと眠ることはないのだ。それだけで、私の何かが千切れ落ちていく。

 眠ることに失敗したせいで、現実味のない視界をたよりなく捉えながらふらふらと電車に乗り込んだ。始発からすこししか経っていない時間帯の車内はがらがらに空いていて、ふと気をぬくと座席に倒れこんで眠ってしまいそうだったけれど、無理やり大音量で音楽を聴いてまぶたを開ける。彼の家まではあと二時間もかかる。

 私以外に三人しか乗っていない車両を見渡して、ふと手のひらに視線を落とすと、どうしてだか手のひらにまくの存在を感じた。私は「まく」という呼び名がとても気に入っていて頻繁に呼びかけていた。撫でたり、餌をあげたりするよりも高い頻度で、私はまくを呼んだ。

 まくは孤高のうさぎだった。こちらがどんなに下手に出てもだっこをさせてくれなかったし、無理やり持ち上げるとぎーぎーと鳴いて抵抗した。私もだっこをするために飼ったわけではなかったし、心地よく眠っているまくをみるだけで心がほどけていくような癒しを貰っていたから、まくのストレスになるようなことはできるだけ避けようと心がけていた。太ももの上に乗って静かにしていたのは、私が中学生のときに動物園でだっこしたうさぎが最後だ。まくはいつもくたくたの座布団の上で眠った。まだまくがあの座布団で寝ているのではないかと、ぼんやり思い浮かべてみる。座布団の柄すら思い出せなくて、すべてが嘘のようなまくの寝姿が、自分の視界の真ん中でぽわと浮かんだ。

 

 実を言うと、まくにさわれなかったことを、何度か後悔していた。

 私はペットという存在に慣れていなかったから、抵抗されるとすぐにひるんで、「慣れよう」とはしなかった。対して彼は、昔うさぎを飼っていたこともあって時々まくを膝に乗せて撫でたりしていた。まくは彼には慣れたのか、観念したのか、数分程度ならされるがままになっていた。

 彼が羨ましかった、ということもあるけれど、それよりも私は、まくと最後まで親密になれなかったことを後悔している、ような気がする。

 甲斐甲斐しくお世話もしたし、ストレスを与えないように気を遣いもしたけれど、結局それでは、まくにとって私は空気のような存在でしかなくて、なんとなくそれが寂しかった。そしてそのまままくはこの世から去ってしまったから、きっとあの世で私のことを思い出すこともぜんぜんないのだろう。私がびびりだったせいで、そして、びびりなことを都合よく解釈し続けたせいで、心残りが塵のように積もって息が苦しくなる。たかだか一匹の小動物にここまで入れ込んで後悔する自分にも嫌気がさす。動物に対しても自信を持って触れ合えない人間なんて。

 

 二時間も経つと日は完全に煌々と照りはじめ、サラリーマンの群れが大移動をはじめる。ラッシュにかかる前に改札を出ると、コンビニの前に彼がいた。

「急にごめん」

 私の憔悴具合に驚いたのか、彼は私を見るや否やそう言った。喧嘩が起きてもよほどのことがない限り謝るようなことはない人だったのに。ただ今日はいつもの日ではないのだ。まくが死んだ日なのだから。

「歩いてすぐだから」

 うつむいて首を振るだけの私にそう言って彼は歩き始めた。こういうところは全然なおってないな、なんて他人事みたいに思う。いや、もう他人か。どうなんだろう、私はまくとの思い出を掘り返しまくっているうちに、彼も一緒に身近なものに戻してしまったかもしれない。

 衝動的に家を出てきてしまったせいで眠気が嵐のように襲ってくる。払っても払っても様子を伺いながらまたやってくるうざい虫のようだ。まくが死んでしまった悲しみと、体の疲れと、思い出を掘り返すうちににじみ出てきた虚しさと、何も変わっていない元彼への怒りで気持ちがオーバーヒートしていた。この眠気はただの眠気というよりも、パソコンの「強制終了」機能と似たようなものなのかもしれないとも思う。いくつか角を曲がるとマンションのエントランスへ通された。日向から日陰への落差に目がおいつかず、視界が真っ暗になる。

 

「もう埋めちゃったんだけど」

 さも平常心であるかのように繕いながら彼は言う。「死体放置する趣味はないしね、うん」

 そっか、と気のない返事をしてしまう。

 狭い玄関でスニーカーを脱ぐと、開けっ放しの扉の向こうにまくのケージが見えた。ああまだあのケージ使ってたんだ、と、まくの短すぎる一生を思う。私なんて生まれてから四回も家を変えているし、生まれた家は建て替えでもう壊されてしまったのに、まくは(主人の家は変われども)生まれてから死ぬまで、ずっと同じ住処で生きていたんだ。

「まだこのケージ使ってたんだ」

「まあ壊れるわけでもなかったしね」

「そうだよね。まだ五年くらいしか経ってないし」

「これ捨てなきゃなのか

「またうさぎ飼うかもよ」

「いや、しばらくは飼わないよ」

 言いたいのはこんなことじゃない。会話しながら、自分の気持ちと現実世界がどんどん離れていくのがわかる。二年ぶりに会ってきまずい相手との場を保つためだけの会話。久しぶりに会って突然感情をさらけ出すこともできない、気恥ずかしさ。本当はかなしくてかなしくて、ケージの行く末なんてどうでもいいはずなのに、私はなにを喋ってるんだろう。彼に会いに来たわけじゃないのに、彼に気を遣いまくる自分を冷めた目で見るもう一人の自分がいる。

「まくはどこにいるの」

 一瞬の沈黙のあと、「ああ」と言っておもむろに後ろへ振り返り、ガラス扉を引き開ける。自分から呼び出したくせにあんまり話したくないんだな、とますます冷めていく気持ちを見ないようにして庭へ出る。雑草が生い茂るなかに一箇所だけきれいな土が露出して山になっているところがあった。そこがまくの墓だった。

 そうか、埋められたのか、と、土の下にいるまくを思うと、悲しみよりも先に惨さみたいなものを感じる。つやつやだったあの白い毛が土で汚れていくこと、長い耳が土の重さでひしゃげることや、なにより息苦しそうだな、なんて、まるで虐待をしているような気持ちになる。もうまくは死んでいて、生き物ではなくて死に物で、だから耳が折れ曲がることや、前足がへんな方向にいってしまうことや、半開きになった口から土が入ってしまうことなんかも、それは死に物としてあたりまえのことなんだと言い聞かせる。

「最後の三ヶ月くらいは病気でさ」

 彼が土の山を見つめながらぽつりと話し始めた。

「獣医が言うにはガンみたいなものがあったんだって。でもまくの体力とか、手術しても完治しないとか、そういうのをふまえて、なんか色々薬のませてて」

「うん」

「今日の夜中に」

 夜中に、と言ってから言葉が続かなくなり、彼のほうを向くと彼は泣いていた。私はどうしたらいいのかさっぱりわからなかった。彼が泣いているところなんて初めて見たのだ。絶句しながらただ彼の泣く姿を見守った。

「夜中に、まくが苦しそうにしてて、でも最近はよくあることで、ああもう最後かな、と思う日がもうここ一週間以上続いてて、俺もそういう異常事態にだんだんなれちゃってて」

「うん」

「だってかわいそうっつったって俺にできることはないし、薬飲ませるくらいしか。だからもうどうもできないし苦しそうだけど仕方ないから水とか餌とか近くに置いて寝たんだよ」

「うん」

「そしたら」

 強い風が吹いて生えっぱなしの雑草がざわざわと鳴った。私はどうして涙が出ないんだろう。

「そしたら、電気消して少したったらまくの鳴き声みたいなうめき声みたいなのがして、かけつけたら、まくがこっち見てさ、二歩くらい体引きずりながらこっちに近寄ってきてさ、そのまま、ぐったりして動かなくなった」

 最後はかすれた声でやっとのこと絞り出すように話した。彼の頭の中で何度もフラッシュバックのように繰り返されているのだろう。ただ私の頭の中には二年前の白くてふわふわの健康体だったまくしかいないから、彼の悲しみの中で寄り添うことはできないと思った。それがとてつもなく切なかった。

 隣の彼の泣き声がだんだんと慟哭に近くなる。私はどうしたらいいかわからない。私の中のまくと彼の中のまくはもうぜんぜん違ううさぎなのだ、たぶん。きっと彼は自分の悲しみを誰かと共有したいという気持ちもあって、私を呼んだのだと思うのだけれど、それが叶わないことに今なんとなく気づいていて、だからなおさら悲しいのだ。

 私はたまらなくなって、だけどなんといったらいいかわからなくて、目の前の土の山に呟いた。

「まく」

 その瞬間、自分の身体中から力が抜けていき、手のひらがぼんやりと熱くなる。自分の放った言葉は口の中でぴりぴりと反響して、急速に「あのときの私」を思い起こさせた。まくが私になついてくれなくてしょっちゅうぎーぎー鳴いたことや、私の手から餌を食べてくれないこと、だけどたまに背中を撫でさせてくれること、眠れない夜にまくの隣でこっそり横になったことを、身体のすべてではっきりと思い出した。口は覚えていた。孤独感でどうにかなってしまいそうだった私を、それをペットで埋めようとしていつもうまくいかなかったことを、口は覚えていたのだ。そのやるせなさと恥ずかしさで力が抜けた。私はまくに触れなかったことや親密になれなかったことを後悔してるんじゃない。まくに多くを求めすぎて空回りする自分にいらいらしてたんだ。だから彼と別れてまくと離れるとき、痛みの中にどこか安堵する私がいた。

 だから私は今度こそはっきりと、その名前を呼んでみる。

「まく」

 あのときいつも飽きるほど呼んだ名前。

 隣では体をガタガタに揺らしながらむせび泣く男がいて、ほんとは誰かの隣でこうしたかったくせにまるで何事もなかったかのように振舞ったりする。私だってそうだ。自分の足で立てないことは誰にだって隠していたい。ただそれをまくには隠せなかった。一匹のうさぎには隠せなかった。

「まく」

 この名前を口にするたびに私は孤独だった一匹の私に出会う。口は覚えている。この呼び慣れて使い古されたひとつの名前。三年間、一日だって呼ばない日はなかった。自分の名前よりも確かに、自分の弱さを突く言葉。

「まく」

 呼びながら涙が溢れる。これは何の涙だ。きっとまくが死んで悲しいからじゃない。まくはまくだ。生きても死んでもまくだ。私は、孤独だった一匹の私として泣いているのだ。まくという名前にすがったあのときの私に。

 また風が吹く。雑草はざわざわと横になびいて私のすねを叩く。太陽はもうてっぺんに近く昇っていて、私たちが泣いたってすぐに照らして乾かしてしまう。だけど私たちは泣きつづける。まくという名前に詰まった重すぎる愛を、ひとつずつ荷ほどきして手放していく。私たちがその名前の足元にあるかすかな自分の存在に気付き、手放したそのとき、やっとまくはただのうさぎとして、土に還っていくのだろう。

2018年2月4日公開

© 2018 わに

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