きぼうについて

わに

小説

8,706文字

2015年度織田作之助青春賞 四次選考にて落選(タイトル:『触れる』)
文字数制限の関係で何度か書き直したので、投稿したものとは微妙に違うかもしれません

 透明なガラスのコップに入れられたジンジャーエールは乾杯のときに口を付けたきりで、まだなみなみと残ったままだった。騒がしい店内の熱気できっと外よりも高い室温が、コップの中の氷をゆっくりと溶かしていた。外側についた水滴を、少しだけ指先でなぞると、拭いきれなかった水滴がゆらゆらと頼りなげに落下する。俺は指先にまだ残る、ちいさな冷気のことを考える。

俺はうまれたときからひとりだったから当然俺がこの国のシステムに掬ってもらえるように俺の生まれをお知らせしてくれる人なんていなくて、だから幽霊も同然にそこで息もなく生きていたけど、その世界ではだいたい一通りのことはやりつくしてしまって飽き飽きしていたので、なんとなく大学生になることにした。学生なんて適当なつてを頼ればなんの問題もなくなれるものだし、気がついたら俺はここに居たけど、だからこそ心も体も追いついていないような感覚がまだ全身を覆っている。その気持ち悪い感覚を振り切るようにして俺はいつもより饒舌に話す。大学一年生、サークルの飲み会でアルバイトの話になったから、俺はひとつ面白い話をしてやった。夜の日本海に死体をぽいぽい棄てていく仕事の話だ。

「けっこう重いんだぜ死体って」

「えー、ドラマとかでよくあるやつでしょ、こわいなあ」

「なんか人生経験豊富そうだと思ったらそういうことかー」

「ぼっとんぼっとん音がしてさあ、結構うるせーんだけどなんで気づかないんだろね、ちょっと先には家とかばんばん建ってんのにさ」

「力持ちなんだねー、意外ー」

「力、っつーか、体重の掛け方じゃねーかな。コツみたいなもん」

「…で、ほんとは何のバイトしてたの」

「は?嘘だと思ってんの」

「いやいやいや…」

 こういう展開は予想通り、別に意外でも何でもない。俺だってこの仕事が特殊、というか人道に外れてることくらい分かってやってるつもりだしむしろ本気で信じてほしくない。だからそのあとは「けっこうリアルっぽい話だったっしょ?」っておどけてみせておわり。話に信憑性を持たせる必要なんてほんとはこれっぽっちもないのにほんとうのはなし、が俺たちは大好きなのはどうしてなんだろうか。ただ、俺のはなしはほんとうのはなし、として認められることはないわけで、やっぱりそこには明確でなくとも線引きがある。俺だってこのはなしは嘘のまま終わらせたい。この、求めながらも自分から離れていくような、大声で呼びながら逃げ惑うような、妙な欲求はなんだ。脳裏に数ヶ月前までの景色が蘇る。この明るい場所に身を置くと、急に型に合わせたみたいに自分が内側から別人になって、自分ですらあの話は嘘なんじゃないかって疑い始めてしまうから怖い。一瞬、目をつぶって夜空と海を思い出そうとする。ただただ暗い。

 ひととおり話が盛り上がり終えて、俺はまたコップの様子を眺めたが、コップの中の氷は半分以上とけ出して、ジンジャーエールを薄め始めていた。もう飲む気はない。逃げてばっかりいたら、大声で呼んだって相手に聴こえない距離になっているかもしれないのだ。そのもどかしい欲求の交錯はたいてい墜落に終わる。薄まったジンジャーエールの中で氷が揺れている。

 

「私があなたに捨てられた死体の一人だったらどう思うの」

 あの飲み会の翌日からひとりの女がずっと後ろをつけてくるようになった。最初はオカルト好きの変人女だと思ってわりと本気でうざがっていたけど、どうやら本気で遺棄された死体(にみえた生体)だと主張している。俺の金髪とへんな笑い方をよく覚えていて、見つけたら殺してやろうと思っていたみたいだった。

「だけど実際会ってみたらあなたがどんな人だかとても気になったの。だって一度は私を投げた人でしょう。殺すよりやることがあるような気がしてね」

 本当に殺されかけた人間の台詞じゃないことは、きっと俺じゃなくても分かる。女の目的はよく分からないけど、これ以上無視し続けたってしつこく関わってくることは目に見えていた。

 まだ信じたわけじゃねえから。目も合わせずに言いながら、ほんとに、どうして人間はほんとかうそかにこうも執着するんだろう、と思う。別に真実なんて分からなくてもよくて、というか、実は分からないほうが俺にとって好都合ってだけだ。それでもなんだかんだ真実、のほうを信じてみたいし真実を生きてみたい、みたいな見た目に奇麗な願望がそこにあるわけで、それはきっと希望とか呼んでみたりするともっと輝くのかもしれない。

 女はその台詞を好意的に受け取ったのか、それからずっと俺の隣を歩くようになった。そしていつも同じ話をする。それは夜の海について。俺が働き、そいつが殺されかけた、という設定の。あの日の海は風が強かった、ほとんど新月のような月が、空の切れ目のように細く夜空を漂っていた。そのほかには、何もなかった。ただ強い風によって荒れた海の飛沫と、死体の山と、俺ら死体遺棄者の息づかいがあるだけだった。と、女は滔々と語る。けれども、俺が棄てていた死体は一日につき多くても三人だし、荒れた海は死体がどう沈んだか確認できないから仕事にならない。死体だって、俺はあのときふざけてぽいぽい棄てるなんて言ったけれど、そんな簡単に何十人と棄てられるわけではない。死体同士が引っかかったり妙な突起に抱き起こされたりして沈まなかったら最後、俺らは文字通り「終わる」のだから。だから女の話は明らかなる嘘で、その時点で殺して、本当に棄ててやってもよかったのだけれど、その嘘はきっと俺のはなしとは違って求められているはなしなのだ。その証拠に、俺はどうしてだか、いつも女の話に聞き入ってしまう。

 

 中退率九十パーセント。

 入ってみてから気がついたこと、うちの大学は高卒認定をとった人だけが入学できる意味不明な大学らしかった。元々普通高校すらまともに卒業できない人たちだから大学四年間を突破する、それだけのことがびっくりするくらい難しいことらしく、入って一年せずに半分以上が辞めていく。俺の周りでもひとり、またひとりと脱落者が現れ始めていた。そんな中でもなんとか一年踏ん張った奴はほぼ順当に卒業できて、なぜかは知らないけど超有名企業にばかり入社していく。

 大学の最寄り駅に貼られたポスターをぼんやりと見上げながら思う。一年踏ん張ればすごい未来が待っている、そういう謳い文句で学生を呼び寄せるこの大学はドロップアウトした人間の希望なのかもしれない。

 希望って何なんだろうな。

 入学したってほとんどの人はすぐに大学を辞めて、ただの高卒認定取得者に戻るだけだ。入ったら幸せになれるわけじゃない。踏ん張るって言っても、きっと我慢するだけじゃ踏みとどまれないからこういう数字になるのだろう。しかもこんな経歴を経て有名企業になんか入ったとしても周りの奴となじめる訳がない、きっと三年以内の離職率を上げているのはうちの卒業生だ。知らないけど。

 俺の存在を希望だ、と言い始めたこの女も、俺という希望につきまとって、希望を希望と呼ぶことによって幸せになろうとしている。いたい奴だとは言い切れない自分にも腹が立つけど、この女は俺にいったい何を求めているのだろう。もう一度棄ててほしいのだろうか。ただ、俺にこの女を棄てる勇気も、体力も、もうありはしなかった。だるだるの、気の抜けた会話の揺らめきに体を預けるということに慣れて、全身の筋肉が弛緩し始めていた。それも悪くないと思った時点でもう、俺は死体を棄てることができなくなっていた。

「同じサークルだった人、君と私以外みんな辞めちゃったね」

「まあそんなもんだろ、大学にいたっていみねーと思ったら辞めるのが一番手っ取り早いしな」

「君がいなかったら私も辞めてたよ、大学」

「は?そんなわけねーじゃん」

「どうして?どうして君が私のことを私より知ってるようなことが言えるの?」

「お前が俺よりバカだからだよバカ」

「まあ、それはそうかもしれない」

「バーカ」

 大学の授業もサークルも文化祭も夏休み冬休み春休みも、全部が俺にとって初めての経験だったけど、たいして新鮮味はなくて、要は一日がどう切り分けられていくかが違うだけなんだってことなんだろうな、と思う。俺の僅かな記憶のなかで、家庭教師のつけられていた俺はいつも時計の針がはやく進んでおやつの時間にならないかと、思ってたはずなんだけど。その、時間にたいして抱く喜怒哀楽が根こそぎ奪われて、ただ漂っているだけのような虚しい感覚は、もしかしたら棄てられて浮かぶ死体と同じなのかもしれない。俺は死体と一緒にそういうものも棄ててきたんだろう。今は切り分けられた時間のケーキを、一切れずつ咀嚼していくだけ。甘くも辛くもなく。

 はやく夏休みにならないかな、と女が言う。その台詞はいつかの俺が口にしたものと同じだった。けれど、というよりも、だからこそ、胃のあたりがぐるぐるとうねって、名状しがたく強いイライラが俺を襲うのだろう。夏休みなんてあってもなくてもいい。その台詞は相手の女を、そしてやっぱり自分を傷つけるのだろう。強い太陽光のせいで目がチカチカしておさまらない。

「ねえ」と女が振り返る。「そういえばさ、」

「君はどんな高校生だったの」

 俺が高校行ってるわけねーじゃん。返事が分かっていて訊いてくるこの女の性格の悪さはなんとかならないのかと思うけど、もしくは、自分の嘘に飽きたのかもしれなかった。そろそろ死体役をやめるのか。だから俺はその「ほんとうごっこ」に付き合うことにした。

「別に普通。ただ学校に通うのがめんどくさくて辞めただけだし」

 本当は高校生を見るたび、宇宙人のようなレベルの別世界で生きる彼らに俺は複雑な心情を抱いていた。こいつは高校に通ったことがあるのだろうか、と俺は思う。この大学にいる時点で、卒業できていないことは明白なんだけど。

「ふーん。でも大学は皆勤だね」

 歩いていると木陰に入った。急に視界が落ち着いて、女の顔が神妙に映る。何か重要なことを話すとき、人はあらかじめ台詞を頭の中で書き上げてから口を開く。開きかけた女の口を塞ぐように俺は早口で喋りだす。

「就職するとき有利だろ、この大学の制度的に」

 口をつぐんだ女は無意味に青空を仰いで、浅い深呼吸をする。何かがまた隠された、俺は隠されたままであってほしいと願う。

「んーまあね、私は皆勤とか苦手だなあ、つかれちゃう」

 明らかに気の抜けて適当なことを喋ったこいつは、言わなくてよかった、とでも言うように小さく笑った。俺はその目を見ることができない。

 昼休みの構内は人ごみで溢れていた。特に購買部はいつも床が見えないほどに人で溢れかえっていて、ちょっと離れたところから見るとパニック状態のようにも見えてくる。が、もう既に慣れてしまったその渦にまぎれる、と、女は「ちょっと外いるね」と言って離れていった。いつもこいつは昼時の購買部を避けるので、俺は一人で人込みをかき分けて昼食の弁当を探す。

 レジに並びながらふと、何の前触れもなく、電車がトンネルを抜けた瞬間のように、どこか視界が晴れ渡る感覚がした。耳に入ってくる音量がとてつもなく煩雑に高く響いて、見えるもの全てがはっきりとした形を持って眼前に迫るように距離を近づけてきた。ああだめだ、と俺は思う。これはだめだ。逃げられないのに迫ってくるさまざまなかたちが、けれど正面衝突を寸前で避けて、また迫ってを繰り返す。磁力のような目に見えない力が顔の側をなぶるように回って、またやってくる。俺はこの感覚を覚えている。世界と自分の距離がなくなる瞬間。早く夏休み来ないかなあ、隣のレジに並ぶ見知らぬ学生が騒いでいる。俺は目を堅く閉じて耐えようとする。きっとあいつは常にこの感覚と戦っているのだ、と、なぜだか俺は確信として思う。そして、だいたい負け続けているのだろう。あの女は常にへらへらしているけれど、その「へらへら」の皮一枚下にはとてつもない叫びが眠っているように思えて仕方がない。強く強く抵抗するのに、俺はより速度を増してあの女に共感を抱き始めていた。

 

「ねえ、ふたりってつきあってるの?」

 確かにサークルの仲間がどんどん大学を辞めたせいで何かと二人で行動してしまう場面は多かったけど、俺はつきあってるつもりなんてこれっぽっちもなかったから、こういう質問が最近増えたことに少しストレスを感じていた。どうして男女だってだけでそういう予測を安易に立てるわけ。と、思いながら、そりゃそうだよな、と諦めている自分もいる。たぶん、大学も二年目に入って俺はもう、それなりに大学生になっていたということだろうと思う。自分を知りたかったら周りの人間五人のことを考えろとか言うけど、確かにそのときどきの人間関係によって考え方の癖はころころ変えられるし、言い方を変えるなら、強制的に変えさせられてしまう。こいつだって俺と一緒にいれば俺の癖がうつる。多少世間をバカにしたような口の聞き方が増えたような気もする、けれどそれは台詞を新たに覚えただけで、もとからそういう感情はあったんじゃないかって、責任逃れみたいだけど思っている。パンが高い高いと愚痴を言いながら、昼時の購買部でレジに並ぶこいつを見ながら妙な感慨にふける。

「私たちってつきあってるのかな」さっき買ってきたパンを食べながら女が、目を合わせずにつぶやく。

「どうだろね」誰にでもこう言うことにしている。自分に対しても。

「うーん、どうだろうね」ふざけたように女が首を傾げる。

 正直お互い怖いだけなんだと感じてはいる。「世界と自分の距離がなくなる」ことが、俺たちは世界で一番怖い。どうやったら距離をとったままでいられるかと、四六時中考えている。

「どうでもいいよね、つきあってるとか、そうじゃないとか」

 頷くべきか、五秒考える。

 

 この前こいつと寝たとき俺は初めてこいつの向こうにあの海を見た。死体を棄てる前につける印、手首に爪で引っ掻いた跡があったからだ。コンクリートの上を引きずったときの摩擦の傷が背中にまだら模様のように残っていて、触るとまるでコンクリートの地面をそのまま写し取ったかのような感触がした。そのときどうしようもない郷愁のようなものが俺の頭や体やそのまわりをススと駆け巡って静かに音を立てながらその気配を濃厚にして俺に何かを訴えかけたようだけれど、それでも俺はなんとなく現実味のない頭でこの感触を布一枚隔てたようなところに立って繰り返し撫で続けていた。この手で、この体でもう数えきれないくらいの死体を棄ててきたっていうのに、この目の前の女の、死体のようだった体を引きずったのはいつだっけ、なんて思い出せもしないことを思い出そうとする。そして、嘘の思い出を思い出す。ああきっとあの日だ、なんて。薄い布の向こう側で思い出される女の首の向きや腕の汚れ方を、俺はいま作り上げながらも思い出している。思い出すと同時に体中から何かが湧き上がってくるのが分かって、その馬鹿馬鹿しさとせつなさに、それでもあらがえなくて、涙があふれる。そんな俺を希望と呼ぶのなら、こいつはまだ俺を真正面から見てないんだ。真実をみてない。見ろってわけじゃないけど。コンクリートの背中に水が垂れる、光はへんな反射をして俺の頬をくすぐった。

「泣いてる」

「ちげーし」

「何が違うの?」

「泣いてねーし」

「いや、泣いてるでしょ完全に」

「泣いてないから」

「ふーん」

「…」

「…」

「…馬鹿馬鹿しいよ、なんかもう、お前も、お前以外も、ぜんぶ、馬鹿馬鹿しい」

「私バカだからさ」

「バーカ」

「仕方ないね」

「仕方なくねーよ」

 ほんとうのはなし、を皆が聞きたがり知りたがるのは、世の中が嘘ばかりついているからだ。なんて、そんなわけない。ほんとうのはなし、を知るのはたいてい世の中に出てからだって誰かが言っていた。世の中から切り離された箱庭で俺たちは嘘をつきあって過ごしている、それがほんとうのはなし、の対極で、きぼうのはなし、でもなくて、多分、それはただのはなし、だ。ただのはなしのほとんどはきっと嘘だ。そう思いたい。少なくとも、俺たちはそうやって生きている。

 

 久しぶりにかつての仕事先に行ってみたらそこにはもう仕事はなかった。死体をぽいぽい棄てていた、くらい海にもう死体は浮かんでいなかった。じゃあこれから死体はどこに棄てられるのだろう。俺は考えてみた。山に棄てるのだろうか、燃やしてごみにするのだろうか、砕いてトイレに流すのだろうか、もしかしたらロケットで宇宙に飛ばしてやるのかもしれない、お星様になったんだよってか。バカか。

 「そっち」の世界ではノマドのように、住処を点々とすることは当たり前で、俺も生まれたときから十カ所以上は土地を移ってきた。人を脅したり、交渉ごとで殴り合いになったり、スパイのように後をつけたり、果てには殺したり。そして海の近くに住むと、それを棄てる仕事が回ってきた。死体はだいたい、俺らとおんなじ「そっち」の世界の人。男も女も、死体になるとびっくりするくらい重たくて、はじめは一人で引きずることさえできなかった。それでも毎日引きずっていると、コツみたいなものが掴めてくる、それは死体と俺の体が切り離せないひとつの塊になって動くような感覚だった。あの感覚を手にしたとき、俺ははじめて、この世界にはもういられない、と思った。これ以上、毎日死体を引きずっていたら、だんだん俺自体も死体になっていくような気がして怖かった。それは人を殴るときにも、殺すときにも、感じたことのない恐怖だった。きっとそれが初めて感じた、「世界と自分の距離がなくなる」感覚なのだろうと、いまさら思い返す。

 たぶん、仲間もそれを薄々感づいてはいたんだ。もうこの仕事飽きたんだけど、暇だし、別のことしようぜ、と投げかけたとき、「大学だったら四年は暇つぶせるな」と笑ったあいつも、俺をもう見切ってたんだろうな、なんて考える。俺名義の銀行口座には一生遊んでも余るくらいの金は入っていたし、元々なかった戸籍だっていつのまにかつくられていた。切り離されたんだ、あの世界から。思えば、俺の拳は当時のそれより一回り小さくなったような気さえする。

 死体は浮かんでいないにしろ、その海はまったく変わらずつめたくて、風がつよくて容赦なかった。伸びた髪が身をよじるように煽られて、ぐるぐるに巻いたマフラーは今にも飛んでいきそうだ。カイロの入った右ポケットだけがやたら熱くて、のこりはぜんぶ死んだように冷たい。地面を靴底でなぞると、コンクリートはでこぼこで、そりゃ、ひきずったらあんな跡がつくだろう。俺はあの女の話をだんだんと「ほんとうに」信じ始めていた。信じたいのかもしれない。やっぱり嘘だけで人は生きていけない。しがみつくものが欲しい。嘘ばかり纏って生かされている俺でさえたまにそう思ってしまうのはなぜだ。

 

 結局俺が卒業する頃には三百人もいた学部生は三十人にまで減っていた。ほんとに中退率九十パーセントだった。しかしそのなぜか卒業できるらしい三十人は全員見事に就職し、また大学のパンフレットを飾ることになる。俺はなぜ自分が卒業でき、しかも就職まで決めてしまったのか未だによく分からずにいる。ちょっと前まで毎日死体遺棄してた俺が? 大学へ向かう電車のなか、隣で女がくすくすと笑う。きっとちゃんと卒業式に来ている俺がおかしいんだろう。

「別にこなくても良かったのに」

「俺もそう思ってんだけどな」

「まあ三十人しか居ないから欠席すると目立つもんね」

「んーまあそういうことじゃねーと思うけど」

「分かってるよ」

「分かってねーよバカ」

「バカです」

 ただのはなし、によって人はだらだらと生き、ほんとうのはなし、によって人は自分が尊い人間だと錯覚するからきっとたまにはほんとうのはなしを聞かせてやるのがいいよ。しがみつく丸太があると穏やかな海でもまるで荒波の中を必死に生きてるみたいな気分になれるんだってさ。バカじゃねえの。しがみつかなくったって生きていける。だけどきっと飽きてくる。脳みそがあると二十年ですら長い。だからわざと苦しいを錯覚する。悪い話じゃない。つかめるなら掴んどけばいい。だけど、きっといつか馬鹿らしくなる。自分の演技の臭さに。

 そしたらまたそのときにでも考えればいいんじゃない。転ばぬ先の杖なんて持ってても邪魔だ。だからとりあえず俺はこの女のはなしにしがみついてみた。それはたまに、きぼうのはなしとも呼ばれる。きぼうはただともほんとうとも違うけどとりあえず生きていこうって時に使うテキトーな言葉だ。意味はない。でも俺は今のところ、テキトーで意味のない言葉が一番しっくりきてるしこれなら生きていけるって感じがしてる。俺はうまれたときからひとりだったから当然俺がこの国のシステムに掬ってもらえるように俺の生まれをお知らせしてくれる人なんていなくて、だから幽霊も同然にここで息もなく生きていたけど、息もなく生きていくことも可能だ。それは絶望ではなく希望だ。

 なんでかって、絶望は意味の持ち腐れだけど、希望は意味の消失だからだよ。バーカ。

2018年2月5日公開

© 2018 わに

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