インカーネーション

応募作品

谷田七重

小説

3,885文字

合評会・テーマ「エロとホラー」応募作。こんなキモいものが書けるんだ、と自分で思いました。

 唾液と混ざって、まるで薄赤い水薬が口腔に染み込んでいくように感じました。ミキちゃんを起こさないよう、先生にも見つからぬよう、小さかった僕はタオルケットにかくれながらミキちゃんの左手小指を口に含み、赤い水性インクが塗られた小さな爪を舌先でなぞり続けました。ごくん、と喉を鳴らして唾液とインクの混じったものを飲み込むと、ミキちゃんの指をそっと口から離し、眺めました。僕の口腔でふやけた小指の先に、もう色はありませんでした。僕だけのもの。そう、ミキちゃんの秘密は僕だけのものになったのです。顔を上げ、ミキちゃんの寝顔を見ました。自然に閉じていても少し口角の上がった小さな唇は微笑んでいるようで、五歳の女の子にしては密度の濃い睫毛に縁どられた目蓋にも苦悶の片鱗さえありません。ただ何も知らないままあどけなく無心に眠っている。僕はそんなミキちゃんを見ながら、自分の口腔を舌で舐めまわしました。水薬の余韻を惜しむように。――今になって思えば、あれは水薬というよりも媚薬だったのかもしれません。だって、そのお昼寝の時間以来、ミキちゃんが何をするにも左手をやわらかく握っていたり、先生に話しかけられたら口をきゅっと結んで両腕を後ろに回したりする仕草を決して見落とすことがなかったからです。そんな日はなおさら、お昼寝の時間が待ち遠しかったものです。
 ミキちゃんのお母さんは、幼心にもきれいな人でした。とりわけ印象的だったのは、いつも真赤なマニキュアを塗っていたことです。幼稚園へミキちゃんを迎えにきたお母さんは、子どもに目線を合わせるようにしゃがんで、決まって両掌でミキちゃんの頬をそっと挟むのでした。白魚のような、とまではいかないものの、小さな子どものそれよりははるかにしなやかな手指に、赤いマニキュアがきれいに映えていたのをよく覚えています。ミキちゃんはお母さんに頬をやわらかく包まれると、その両手からはみ出さんばかりの笑顔を見せていました。その頃は僕も小さかったのでまだわからなかったんですが、もう明白ですよね。ミキちゃんはお母さんのマニキュアにあこがれてたんですよね。それで、自分なりの精いっぱいのおしゃれとして、こっそり左手の小指をペンで赤く塗っていた、というわけです。おしゃれとはいっても、決して見せびらかすためのおしゃれじゃない。まあ僕らが小さかったあの時代は、そんなことが先生にばれたら程度はあれお咎めをくらいますからね。今思うと、僕は秘密のひそかな共謀者であり、同時に証拠隠滅の役割も担っていたわけです。て、まあそんな大げさなものでもなく、単に薄赤い媚薬の味、その舌ざわりが僕をとらえて離してくれなかったんです。
 あ、さっき「見せびらかすためのおしゃれじゃない」て言いましたよね。見せびらかすためのおしゃれをし出したら、それはすれっからしですよ。もううちの嫁みたいなもんです。まあそれはいいとして。――ああ、こんなこともありました。どうしてかはさすがに思い出せないんですけど、ある時ミキちゃんが派手に転んで膝を擦りむいたんです。そのまま座り込んで、脚を投げだして、ミキちゃんはしくしく泣きだしました。いかにも脆そうな膝小僧の薄い皮膚が真赤に擦れていて、幾筋も血が滲んでいました。周りに園児たちがたくさんいたので、少し離れたところから眺めることしかできませんでしたが、でももし目撃者が他にいなければ、その場に僕しかいなかったら。我を忘れてミキちゃんの膝頭にむしゃぶりついていたと思います。赤い傷にめり込んだ砂粒もろとも舌ですくい、味わい、唾液と一緒にごくりと飲み込む。そんな想像をしながら、泣いているミキちゃんを遠目に見ていた僕の口腔には唾液か、あるいはよだれが次々に溜まっていくのでした。それをせわしなく喉の奥に流し込みながら目をしばたたいていると、ほどなくして先生が駆けつけてきて、ぐったりと力の抜けたミキちゃんの小さな身体を抱き起し、なにか言葉を掛けながら、屋外に据えられている水道まで連れて行きました。ミキちゃんはすすり上げながら先生に支えられ、それでも露わな片脚を踏ん張って、傷のできたもう片方の脚を水にさらし、流れていく自分の血を眉根を寄せて見つめていました。その悩ましげな表情よりも何よりも、僕は薄赤い水がそのまま排水溝へ流されていくのを見送ることしかできない自分に歯噛みしていました。あれこそ水薬でも媚薬でもなく、当時のミキちゃんだけが作りうる秘薬だったかもしれないと、そうですね、今でも思いますね。
 それからも、僕はうまくやりましたよ。ミキちゃんを失わないよう、親密な幼なじみという態度をとるわけでもなく、かといって好意ゆえに女の子をいじめるようなガキ大将にもならなかった。つまり、まあミキちゃんと一緒に同じ小学校に入って、普通にお互いなんとなく知ってる、程度の距離感をキープしてたわけです。小学生になると、さすがにミキちゃんは小指にインクを塗るなんていうことはしなくなりました。それを惜しむ一方で、美しさにあこがれる幼い、ほんとうに幼い頃のミキちゃんの秘密は自分の中だけに脈打っている、という自負だけはありました。何なんでしょうね、唾液と混じった薄赤いインク、あの媚薬をかつて日常的に飲み込んでいた、それが自分の血の中に生きている、という感覚だったんです。小学校で同じクラスになろうが、年度が変わって違うクラスになろうが、僕は必要以上にミキちゃんと話したりしませんでした。なんだかその頃の記憶は曖昧ですね。ただ、ひとつだけ変わらず思っていたことはあります。僕だけのもの。そう、ミキちゃんは僕だけのもの。
 幼稚園の時からなんとなくわかっていましたが、ミキちゃんはお母さんに似て目鼻立ちが整っていました。それがもう隠しきれないほどに際立つようになった小学六年生の頃。保健体育の時間に女子は教室に残って座学、男子は校庭でドッジボール、という奇妙なシステムにも慣れた僕は、ある日の休み時間にミキちゃんが小さなポーチを隠しながら女子トイレへ入っていくのを見てしまいました。いくら呑気にドッジボールをしていたとはいえ、僕にだってそのポーチの意味くらいはわかります。すでにミキちゃんは初潮を迎えていたのでした。僕は壁の影に張り付くようにしてかくれながらミキちゃんがトイレから出てくるのを待ちました。待っているうち、久しぶりに口腔から唾液があふれそうになりました。ごくん、と飲み込むと同時にミキちゃんがトイレから出てきました。ポーチを脇に挟んでかくしながら、上半身をかがめて念入りに手を洗っている。――それまで自分でも気づかなかったのは不可解ですが、ミキちゃんの胸はゆたかにふくらみはじめていて、身体をかがめる姿勢、手元を見つめる目の下にかぶさる深い睫毛の影、そして手を洗い終えて水気を払う手指のしなやかさ、顔を上げた瞳の端に一瞬ひらめいた光、……そうしたものすべてが、私は女だ、という自覚に裏打ちされているように感じました。僕の中で何かが壊れました。何か、じゃない。ミキちゃんはもういない。僕だけのもの、と思っていたミキちゃんはいなくなってしまったのです。思えば、これが人生で初めての挫折だったかもしれません。だって、自分が女だとめざめた時点で、あとはもう男に媚びるだけですよ。純粋に美しさにあこがれて粧うのと、男の気を惹くために粧うのとは、雲泥の差ですよ。え? まあそうです、僕の言っているのは極論です。わかってはいるんです。ただ、僕はあの、やわらかな舌ざわりで染み込んでいく薄赤い媚薬の味が忘れられなくて、……
 
 うなだれたまま、また何かしら考えているらしい男を残して、私はそっと部屋から出た。待合室へ行くと、夫人が立ち上がった。
「先生、主人はどうでしょう?」
 心配そうに軽く顔に手を当てている夫人の爪には、赤いマニキュアが塗られていた。
「この爪は……」と私が思わず訊くと、「爪を塗るなら赤がいいよ、と主人がやたら言うので」と夫人は応え、恥じらって爪を隠すようにやわらかく手を握った。
 その仕草に、私はさらに質問を重ねてしまった。
「あなたのお母さまも赤いマニキュアを塗っていましたか?」
「え……、はい……」
 なぜ? といった表情でこちらを見上げる夫人に、「失礼ですがお名前は?」と畳み掛けてしまった。
「美紀です、谷中美紀」
 雑居ビルの中にあるこの名ばかりのクリニックには、今のところ他のクライアントはいなかった。とはいえ、私はあの男の話を夫人に赤裸々に話すわけにはいかなかった。
 遠回しに話していくうち、この夫婦は子どもができて以降セックスレスということがわかった。夫人が妊娠すると、あの男は女の子の名前しか考えてくれなかったという。念願かなって胎内の子どもが女の子だとわかった途端、男は折に触れて言うようになった。
「爪を塗るなら赤がいいよ」
 夫人は従った。その頃から、男は性交の代わりかのように彼女の左手小指をベッドの中でしゃぶるようになったらしい。最初は大して気にも留めていなかったが、子どもが生まれて、長じていくにつれ男が娘の小さな小指を手でもてあそんだりするようになって夫人は違和感を覚えた。そしてついこの間、彼女は見てしまった。夜、家族三人で寝ていると、何かうめき声が聞こえる。そっと目を開けると、男が泣きながら娘の左手小指を舐めまわしているのだ。夫人は言う。
「娘は、そうですね、あと二ヶ月で五歳になりますね」

2018年1月25日公開

© 2018 谷田七重

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ホラー 官能

"インカーネーション"へのコメント 6

  • 投稿者 | 2018-02-16 19:53

    粘着質な語り口は江戸川乱歩あたりの小説に出てくる変態を思わせ、いい雰囲気を醸し出している。段落の長さも語り手の息遣いに合っていると思う。主人公と美紀が結婚に至るまでの経緯について、もう少し知りたくなった。なぜ主人公は成熟した女性の体を嫌悪しているにもかかわらず、妻が身ごもるまで何の問題もなく夫婦生活を営むことができたのだろうか。

    難を言えば、タイトルがオチをバラしてしまっている点が問題だと思う。抽象的な横文字よりはイメージを喚起する力のある具体物のほうがタイトルに向いているのではないか。

  • 投稿者 | 2018-02-16 20:08

    とても文学的な作品に感じました。面白かったです。
    「赤いマニュア」が指フェチ(?)の男の性癖を際立たせています。
    エロもホラーも間接的に使っているようなのに、物語全体に強く漂っていました。
    全体的な雰囲気がミステリアスで良かったです。

  • 投稿者 | 2018-02-17 01:04

    気持ち悪いっす。
    フェチにもほどがあります。気色悪い(褒めてます)
    ミキちゃんと、夫人の美紀さんが同一人物なのかと一瞬思ってしまいました。変態が昂じて同じ名前の女と結婚したのだと、他の方法で分からせてくれたらなお良かったです。美紀さんとの夫婦の営みが実は地獄だったとほのめかしてくれたらますますよかった。娘の指をしゃぶるのだけを楽しみに生きていたと。ああ、気持ち悪い。
    左の乳首だけがことさらに感じるという変人が知り合いにいるのですが、そいつのことを思い出しました。

  • 投稿者 | 2018-02-21 21:23

    白黒映画なのに赤だけが色彩を持つような、異様なまでの赤色への執着が表現されていると感じた。エロなのかどうなのかを判定するには、ぼく自身がエロチシズムの再定義を行わなければならないが、幼児の指をしゃぶるようなド変態はかなりやばい。妖怪も幽霊もゾンビも出さずにホラーを演出する手腕は憎たらしいほど素敵。

  • 編集長 | 2018-02-22 12:44

    谷崎っぽさを感じた。フェティシズムの「語りやすさ」も相まって、文学的な作風になっている。
    ホラー感がやや足りなかった。

  • 編集者 | 2018-02-22 13:53

    作中が陰鬱さで満たされており、さらに書かれていない将来すら恐らく同じなのだろうと考えると怖さが増している。小指の為に全てを築いた男と言う所がまずホラーだろうか。まーお子さんも大きくなってからが大変だと思う。頑張ってください。(都内・男性 PN天覧駅伝走者)

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