park

南沢修哉

小説

4,149文字

12月25日ラブ半すぎ、長針と短針が文字盤の面積をぴったり二等分にしていた。立体駐車場はすでに礒賀裕人のハイブリッド・カーを除き、両手で数えるくらいの車しか残っていなかった。おそらくはテナントに入っているブティックやお高くとまったレストランのギャルソン、スポーツジムのインストラクター、シネコンの最終上映を見ている地元のアベックらの車だろう。彼は傷だらけのベゼルの腕時計を見てため息をついた。

ショッピング・モールのスーツ売り場の店員として半年ほど働いていたが、彼の売り上げが毎月ひどい数字であることに業を煮やした売り場責任者は「なぜきみだけ一着も売れないのか」と批判的な質問を投げかけた。「ここにはダサくてみっともないクズしか置いていないからですよ」と彼は目をそらして吐き棄て、そのまま俯向いて黙った。そして昨日、店の在庫品を盗んでメルカリで売っていたのがバレて解雇された。彼は冤罪を主張し、真犯人は別にいると主張したが聞き入れてもらえなかった。警察に行くかスーツの代金を弁償するか迫られた。自分は盗んでいないので罪になることは絶対にないという自信があったが、痛くもない腹を探られるのは嫌だという理由で警察に行くのを拒んだ。売り場責任者はなおも金を払えとしつこく迫った。「スーツの代金を払うのはかまわないが、いまはお金がないのでもう少し待ってください」礒賀はそう言って職場をあとにした、それが聖誕祭前夜の出来事だった。

ショッピング・モールの長い柱廊を歩く人は日中に比べてすでにかなり減っており、そのことがクリスマス・イヴに仕事を失った者にとってせめてもの救いと言えなくもなかった。朝から何も食べておらず、また、慢性的な運動不足と将来に対する漠然とした不安と焦りのために彼は廊下をまっすぐ歩くのも覚束なかった。明るくて幸福な色合いの床は全面カーペット張りでどこか小洒落た幼稚園のようなデザインだった。自制心のない子供が傍若無人に走りまわっても足音が響かないように工夫しているつもりなのだろう。そんな小手先の防音設計では何の意味もないと彼は心の中で一人ごちた。カシミヤのチェスター・コートの襟を立て、すり足ぎみに歩いた。そうすることでかぎりなく無音に近い状態で歩くことができたが、それでも彼の耳の近くでは何か得体の知れない水瓶のようなものが嫌な音を汪溢させつづけているように思えた。彼は自分でもそれをバカげたものと考え、ストレスか何かに由来する幻聴だろうと勝手に思っていた。雑念をかき消すために、あるいは純粋に大声を発したい知的障害児のごとき衝動に駆られ、わーっ!と大声を出したら、近くのポリエチレン製のベンチに座っていたエコ・フェミニスト風の若い女がびっくりして短い悲鳴をあげた。「失礼しました。電話を落としてしまって……」と咄嗟に嘘をつき、吹き抜けになった二階の翼廊の手すりから身を乗り出して下を見、あたかもそこから本当に電話を落としたかのような演技をしてみせた。女は死んだように何も答えなかった。彼はそのまましばらく下を見ていた。一階の、子供のための遊戯スペースには温水プールが設けられ、21時をすぎると誰も泳いでおらず、雪花石膏のライオンの口からプールの水槽へ流れ落ちる水の音だけが二階まで聞こえていた。ここから飛び降りた場合、自分はどのような姿になって死ぬのか(あるいは死なないのか)ぼんやりと想像した。水中で目を開けているかのように、すべての景色がぼやけ、光の輝きだけが際立って見えた。水のせせらぎに耳を傾けながら、果たしてこれは現実の音や景色なのか、はたまた己のメランコリーな情緒を映す鏡か何かなのか、彼はそうしたことを考えるともなく考え、ふたたび意識を失いかけていた。「大丈夫ですか」と誰かが横から声をかけてきた気がしたが、誰が言ったのかわからなかった。彼は青銅の手すりに沿ってふらつきながら歩き、子供向けのスペース・シャトルの搭乗ゲートを再現したようなシネコンへと向かった。大型船舶の汽笛やダンプのクラクションといった現代産業のサウンドスケープで埋め尽くされた映画を見終わった彼は、キャラメルの焼ける甘ったるい匂いで胸がムッとするシアターを出て、ふたたび長い廊下を歩いた。シャッターが降りた和食屋の前を曲がり、エレベーター・ロビーに着くと同時にエレベーターの上矢印ボタンを押した。すぐそばに設置された金属の回転式の蓋がついたゴミ箱に映画の半券を棄てた。エレベーターを待っているのは礒賀と五十代前後のアベックだけだった。手を絡めるようにつないで寄り添う二人の会話が礒賀の耳にも入ってきた。察するに同じ映画を見ていたらしいが、どこにいたのかぜんぜん思い出せなかった。礒賀は6番シアターのいちばん後ろの席に座っていたので、すべての客を背後から見ていた筈だった。あるいは自分と同じ最後列の離れたところに座っていたのかもしれない。エレベーターの戸が開き、礒賀はアベックにつづいて素早く乗った。男が一階ボタンを押したので、「上行きですよ」と礒賀は言った。アベックが二人同時に礒賀の顔を見たので、彼は形式的な笑みを浮かべた。アベックは二人とも申し訳なさそうに礼を言ってすぐに降りた。戸が締まるのを待たず、礒賀の笑顔は消え去った。四階ボタンを押した。ゴンドラが上昇する僅か数秒のあいだに、空気をかきわける音と気圧の変化が彼に紛うかたなき敗残者としての自覚を甦らせた。エレベーターを降りると透明なガラスの壁で仕切られたロビーに出た。缶ジュースの自動販売機の前を通ると商品見本を照らす蛍光灯がパッと光った。自販機の中でまわっているファンの音がやけにうるさく聞こえた。彼は少しだけ眉根を寄せ、そのまま歩きつづけた。ガラスの扉を開けると、一寸強い風に吹かれたような気がした。換気ダクトを通り抜ける風の音がやかましく聞こえたような気がした。実際には自分の革靴が地面を蹴る音しか聞こえていなかったのかもしれない。あるいはこの建物のどこかでまわっている室外機か何かの、知的障害児の唸り声のような連続性のある中低音が僅かに聞こえているように思えた。ありとあらゆる音が打ちっ放しのコンクリートの壁に反響しているような気がした。末期的な疲れと絶望が、立体駐車場に停めた自分の車を探し出すのに莫大な労力を求めていた。運転席のドアに手をかけると、ピーという電子音が鳴って自然にドアが開いた。彼はコートを脱いで助手席に投げた。左肩をルーフ・ピラーに預けるようにして乗り込み、シートがいちばん後ろまで下がっていることを確認した。彼はドアを閉めなおした。エンジンをかけようとして思いとどまった。己がいまだかつてない静寂に包まれていることに気がついたのだ。深夜のショッピング・モールの立体駐車場という特殊な空間がある種の音の聖域になっていたのである。金属とコンクリートでつくられたおよそ15ヘクタールの広大な地層空間は、まるで樅の木の森の中にいるような静寂に包まれていた。ちょうどピンクの作業着を着た掃除婦がコーボルトの掃除機を肩に担いで通路を歩いていた。無論それはごくふつうの掃除機にすぎなかったが、礒賀の目にはそれがジェイコブ・ジャヴィッツの小説に出てくるsonovacに見えた。そんなバカげたことを真剣に考えてしまうほど彼は完全無欠なサウンドスケープに囲まれていた。「なんだこれは……なんなんだこれは!」と芝居じみた独り言を吐くや否や、バチッという音とともに強い静電気が首筋を走り、彼は一瞬怯んだ。それが単なる静電気であることに気づいて笑った。彼は頭の悪い女学生のように大声で笑いつづけ、いったいなぜ自分はこんなにバカみたいに笑っているのか、何がそんなに可笑しいのかまったく理解できず、そうした不条理の連続が彼の果てしない哄笑に拍車をかけ、大粒の涙を誘い、窒息寸前にまで追い込んだ。と、そのとき、何者かが運転席の窓を外からノックした。礒賀は我に返った。中腰で何か言っているその人物は俳優の高橋一生だった。礒賀はパワー・ウィンドウを少し下げた。

「おたのしみのところ申し訳ありません」と高橋一生が言った。しかしその声と口の動きは著しくズレており、おおかた自分を殺すために未来から送りこまれたターミネーターが電気屋の店頭展示用TVに映る高橋一生を見てその姿に化けたのだろう、などと彼は考えていた。すると自分はここで殺されるのだろうか? それならそれでべつにかまわないけれど、と彼は思いはじめた。

「それは性交中の人間に言うセリフと相場が決まっているのでは?」と礒賀は答えた。

「いや失礼、実は……」と言って高橋一生は(よく見るとそれは完全なる別人だった)財布を落としてしまって駐車料金が払えず駐車場から出るに出られなくなってしまった、家まで金を取りに歩いて戻ったのでは駐車料金がとんでもないことになってしまう、ついてはいまここで金を貸してくれると非常に助かる、数日中に必ず返す、といった主旨のことを話していた。

「駐車料金はいくらなんですか?」

「二千円です」

礒賀は財布から二千円を出し、半開きの窓から高橋一生似の男にわたした。彼は二本の指で金を挟むように受け取り、自分の連絡先を告げようとしたが、礒賀は遮った。

「それは返さないで結構です」

「そういうわけにはいきません」

「いやいや、実は恥ずかしながら以前ぼくも同じ目に遭いましてね。やはり人に駐車料金を借りようとしたんですよ。その人が親切な人でね、お金は返さないでいいと言ってくれたんですよ。だからその金は、いつかあなたと同じマヌケな人に会ったらわたしてあげてください」

「ありがとうございます」と大きな声で礼を言って高橋一生似の男はその場から走り去っていった。くひひひひ。ちょろいちょろい、財布を落としたなんて嘘に決まってんだろ。あのバカの顔を見たか? 笑っちまうぜ。お金は返さないで結構ですだとよ。バカのくせにかっこつけやがって。くひひひひ……。

12月25日ラブ半すぎ、彼は轢き殺してしまった高橋一生の死体を前に、石柱の脚のでっぱりに座り込んで頭を抱えていた。

2018年1月22日公開

© 2018 南沢修哉

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