exp

南沢修哉

小説

3,811文字

金銭をめぐるトラブルで人を刺し殺し先週まで服役していた永門という28歳無職の男と行きつけの喫茶店のカウンターで邂逅した小学校の同級生の今村はエスプレッソとサッポロ一番の匂いでくたびれて騒々しい空間から一刻も早く抜け出したかった。まともな喫茶店には存在していなくてしかるべきスペシャル・メニューすなわち塩ラーメンを、永門は恫喝に近いかたちで注文し、人のよさそうな理性とヒゲ面の主人はすべては金のためだと喚きつつ店の奥に行って即席ラーメンを即興的につくって戻ってきて頭上に置いた。お待たせしました。今村はムショ上がりの男のしみったれた庶民のための昼食を横目で覗き見た。もやし、刻みネギ、コーン、鶏卵、メンマ、ナルトが乗っていた。チャーシュー以外のすべてのサブスタンスがそこに揃っていたと言っても過言ではない。本能の偶然性に満ちたその匂いは、ここが西新井の喫茶店であるからこそ他の客の迷惑にすらなっていた。とりわけ壁際の席で文庫本を読んでいる頬の痩けた原価会計士の苛立ちは相当に募りかけていた。彼は本を開いたまま机に伏せ、席を立ちかけて座り、また本を手にするという期末テスト前の知的障害児のような反復動作をしていた。純喫茶で原価57円の塩ラーメンに信じられない量の胡椒をふりかけずるずると音を立ててすする足立区在住のチンピラ風情に文句を言おうか言うまいかでトマス・ジェファーソンのように逡巡しているのはあきらかだったが、結局その貧相で覇気のない垂れ目の原価会計士が自分から文句を言いにゆくことはなく、カプチーノを盛大にあおり、メガトン級の舌打ちをしたり独り言を言ったり鰐革ベルトの腕時計を見たりしてやりすごしていた。

今村は、永門の持ちかけてくる低予算な話題の話題性に何も考えずだらだらと徒らに返事をしていた。同級生の結婚という茶番にも似たその茶番は永門の心に小学生のころの彼らの派手な記憶を連鎖的に甦らせていた。

「関口花子を覚えているか?」と永門は訊ねた。「いいや」今村は鼻に引っかけるようなn寄りの気どった発音で否定した。「同じクラスにいただろ」「いたかもしれないな」「結婚するんだとよ」「なんだと」「うちに結婚式の招待状の葉書が届いていた」「おいおいおいおいマジかよ、あのメスブタがか?」「覚えてんじゃねえか」「いま思い出した。それでおまえどうしたんだ」「どうしたって?」「メスブタの結婚式に出たのか、出なかったのか」「出るわけねえだろ。なんでおれがメスブタの結婚式に出席しなくちゃいけねえんだよ。冗談も休み休み言え」「だいたいなんでおまえが呼ばれるんだ? 同級生という以外に何の接点もないだろ、あのメスブタとは」「おれが知りたいよ。人殺しを招待するなんてどうかしてるぜ、あのメスブタは」「相手はどんなやつだ?」「さあな。どーせ中村暢夫みたいなやつだろ」「中村暢夫……あー、小4のとき理科の授業中にクソを漏らした、あの脱糞王こと中村暢夫か」「それは中島義雄だろ。中村暢夫は小5のとき音楽の授業中にクソを漏らしたほうだ」「どうやったら音楽の授業中にクソを漏らす気になるのかね」「それは当時クラスの中でさんざん議論になったが結局答えは出ず仕舞いだったの忘れたのか?」「おれが覚えているのは、おまえが中島義雄のランドセルに犬のクソを入れてからあのクソッタレが不登校になったということだけだ」「だからそれは中村暢夫だって言ってんだろ」

今村は、かくも下劣で思いやりのない口のきき方をする永門の仲間であると他の客から思われ白い目で見られることに厭気がさしていた。なぜ永門が人を刺し殺すに至ったのかという殺害の動機にこそ多少の興味はあれ、そんなことを穿鑿するために怒りと憎しみで充満しているこの不衛生で貧民のために設けられた暗澹たる聖域に長居をしたくなかった。とにかく今村はできることならなるべく一刻も早く家に帰ってdramacoolでトレンディ・ドラマのつづきを見たいと希うばかりだった。永門はビールを注文した。彼はガラスの棺桶に注がれた緑色のアルコール国際空港を一気に飲みほした。

今村はそこでようやく殺人の動機について訊ねることができた。余計なことを訊ねてしまったと後悔するより早く、永門はものすごいスピードで今村の懐から黒い革財布を奪い、中の札をすべて抜き取った。その動作は幼いころから掏摸の訓練を積んだ掏摸一族の秘蔵っ子やボクサーに扮するコメディアンに特有の俊敏な動きだった。どこかモノクロ映画に出てくるチョビ髭のユダヤ人のちょこまかとすばしっこい動きにさえ似ていた。

「返せ」と言って今村は立ちあがり永門の腕をつかんだ。永門は人を怒らせて楽しむ将来不安な女学生のようにはしゃぎ、騒ぎ、傍迷惑な大声で笑いながらフィアットを腹のあたりにがっちりと抱え込んでいた。今村は苛立ちと明日への不安を大いに募らせながら、永門の背後から首にのしかかるようにして両腕をつかんで開かせようとした。永門は抵抗しつづけ、相変わらずへらへらと夜の密漁者のような仰々しい笑い声を店の中で発しつづけていた。貧弱な今村にはどうすることもできなかったが、いきなり自分の財布の中の金を一方的に奪われたことに対する驚きと怒りがあって、そのことが自分本来の力を発揮させてくれるに違いないと彼はいつまでも信じていたかった。信じる力が彼に未知の力を与えた。対する永門は漁船の甲板に放り出されたカジキマグロのように激しく抵抗しはじめた。

「ちょ、返せよ」「やめろ」「おまえがやめろ」「おまえのほうがやめろ」「おい、ふざけんなよ、マジで、早く返せ」「やめろ、放せ、腕をつかむな」「返したら放すよ」「返さねえよ」「返さねえじゃねえだろ、何言ってんだおまえマジで、おまえに金を貸すなんて一言も言ってねえだろ」「言ってなきゃ貸さねえのかよ」「たりめえだろ。早く返せ」「やめろ」「だからおまえがやめろって」「触んな」「いや、マジでおまえなんなの。マジ返せよ」「ちょ、押すなって。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」「痛いわけねえだろ。でけえ声出してんじゃねえよ」「ちょ、誰かケーサツ呼んでくれ」「なんでおまえがケーサツ呼ぶんだよ。ケーサツ呼びたいのはこっちだっつうの。早く返せ」「やめろやめろやめろああああああ!」

永門の肘に押されてテーブルから落ちたコーヒーカップが玉虫色の床の上で粉々になった。「あー!」すかさず発せられたその低い声は、一瞬にして他人に全責任をなすりつける糾弾の声だった。「おまえ、弁償しろよ」「おまえのせいだろ」「人のせいにするな!」「は?」「おまえがおれのことをレイプしなけりゃコーヒーカップが割れるなんていう事態には発展しなかったんだよ」「はあ?」「おい、おっさん見たよな。こいつがおれをレイプするところ見たよな、おい、おっさん」「見ておりません」とアップルのサービス・ステーションの副支配人が答えた。服装倒錯者の彼はマントルピースの上に直立したケツァルコアトルのような恰好で休日の街へ繰り出し、午後は西新井の喫茶店でスクラブルの戦略を練ってすごしていた。精悍で荒っぽい性格の双子の兄と幼いころから比べられ、母子家庭でのびのびと育った副支配人は「やりゃあできるじゃん」が口癖の継母に対する苛立ちから、荒川で泳ぐのが癖になっていた。千住新橋と堀切橋のちょうどあいだのあたりで全裸で泳いでいるところを、その付近をパトロールしている河川警察に見つかり補導されたことが何度もあった。そのため近所では要注意人物として自治体や婦人団体からマークされていたが、人に危害を加えるわけでもなかったので次第に誰も気にしなくなっていった。いずれにせよ副支配人は喫茶店内におけるレイプ問題の専門家ではなかった。

永門は副支配人の怠惰と無関心に満ちた都会風の返答を無視してしゃべりつづけた。

「悲しいよなあ今村、小学生のころはクラスの人気者だったのに、いまじゃムショ上がりの同級生をレイプするようなホモ野郎に成り下がっちまった。なあ今村、おまえがどこで何をしようとおまえの勝手だ。だが真っ昼間の喫茶店でおれをレイプするのはやめろ。店主や客が見ている前でおれをレイプするのは頼むからやめてくれ。おまえのことは好きだがそういう趣味はおれにはないんだよ」「マジで掘ってやろうか」「聞いたかおっさん、マジで掘ってやろうかだとよ。おれがムショに入っているあいだに朝鮮人みたいな口のきき方をするようになっちまった。おまえがシャバで飲まされた朝鮮人の精液が血管を通って脳にまわっておまえ自身朝鮮人みたいな口のきき方をするようにさせちまうんだ。こんなところでおれをレイプしようなんて考えるのも、おまえが朝鮮人の精液なんて飲むからだ、わかるか? なあ今村、いくら金がほしいからって朝鮮人の精液を飲むのはやめろ。そんなつまらないことでおまえ自身の尊厳を傷つけるな。もっと自分を大切にしろ」

水玉模様の床にはコーヒーカップの崩壊を合図にエスプレッソの湖が新しく形成されていた。その沼沢地帯はみるみるうちに大きなものになってゆき、満月の下で大口を開ける泥沼のような潟湖に、今村は左足の自由を奪われ動けずにいた。彼は目を開けたまま首をだらりと上に向けた。天井の羽目板には星座の絵が画鋲で貼りつけられていた。

2018年1月19日公開

© 2018 南沢修哉

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