波にピストル

篠崎フクシ

小説

3,542文字

逃げる女とタクシードライバーの、小さな物語。
※この作品は「小説家になろう」にも投稿しています。

 まだ暗い窓の外では雪が降り始めていた。
 白く小さな粒がガラス窓に打ちつける。ーー、雪あられだ。
 ホテルのカフェラウンジでセルフの朝食を摂り、食後のコーヒーを飲みながら、ミカゲは薄っすらと映る自分の顔の向こう側を眺める。ガラスのスクリーンには、今にも彼の世に消えゆきそうな女の蒼白い頰が浮かび、丸く白い粒が暗闇から現れては、ぶつかってきた。

 ーー、痛い。
 ぱちりぱちり、とあられが頰を打つような気がして、ミカゲは思わず自分の頰を掌でおさえる。

 ーー、痛い。
 痛みはやがて全身に伝播し、海馬の奥底にしまい込んだはずの黒い記憶と結びつく。
 誰もいないラウンジに中年の客が一人、よろよろと入ってきた。寝起きでボサボサの頭をした男は、先客であるミカゲを見つけると、色目を使ってきた。あの、よくある淫猥な眼差しで。

「クソが」と小さく呟く。
 想像したくもない男の性器を無理に想像させられたみたいで、吐き気がした。すべての男がそうではないが、ある種の男は、もう若くはないが影のある女を、強烈に求めることがある。逆もまた然り、か、とミカゲは思い直す。

 ーー、〈奴〉も性欲だけの、つまらない男だった。
 部屋に戻り、化粧も髪のセットも簡単に済ませ、一晩中つけっ放しだったテレビを消してからカードキーを抜いた。
 
 チェックアウトしてからホテルを出ると、びゅうっと、冷たい風と雪に煽られた。ダウンジャケットのファー付きフードが外れて前髪が流れ、ひたいが急激に冷やされる。傘を忘れたことを少しだけ後悔したが、ミカゲは臆することなく、強く、歩を進めた。
 
 駅ビル一階の庇の下では、トゥオマリ・ヌルミオみたいな老人が、エレアコを弾きながらブルースを唄っている。北欧の映画みたいだと思う。歌詞はよく聴き取れなかったが、嗄れた声が、神に謝罪するような言葉を断片的に放っていた。

 ーー、あんたを裏切っちまった。裏切っちまった。どうか、赦しておくれ、赦しておくれ……。それは本当は、ミカゲ自身の心の中で発せられた言葉たちだった。本当は、分かっていた。本当は、そのブルースは、恋の歌だったからだ。老人の舌の先に転がる言葉に、神への謝罪などこれっぽっちも見当たらなかった。

 気がへんになりそうだった。
 ミカゲは耳を塞ぎ、狂気の世界から逃げるようにして、タクシーに乗り込む。
「どちらまで?」
 ミカゲと同じくらいの、つまり三十路を過ぎたくらいのタクシードライバーは、客に対して関心なさそうに、行き先を尋ねた。

「内灘砂丘まで」
「それなら、北陸鉄道に乗った方が安上がりだ」
「お金のことなら、いいんです。かまわず行ってください」
 金沢駅から西の日本海の空は、奇妙にも青空を見せていた。グレーの空が、ある点を境に反転する。
 タクシードライバーは無口な男だった。
 運転者証には男の名と写真が貼り付けられている。口元は微笑んでいるのに、眼は笑っていなかった。ほっそりとして、どこか影のある表情だった。こういう男は苦手だ。

 ミカゲは年末に離婚したばかりだった。
 相手は軽薄な男だったが、明るくて周囲の誰をも幸せにしてくれた。少々醜男でも、明るくひょうきんな男が好きだった。けれども、あの男が振りまく愛嬌は、私だけに向けられたものではなかった。そのことに気づいた時、愛情は完全に冷め、お腹の中の子どもを産む気には、どうしてもなれなかった。今でもまだ、迷い続けている。

「今朝も冷えそうだ。あんた、東京の人だろ? もう少し、自分を大切にした方がいい。あんただけの体じゃないだろうに……」
 確かに防寒着にしては、身につけているものは貧相だったが、ミカゲはなんだか見透かされたような気がして、反抗的な態度を見せた。
「なんで、私だけの体じゃないなんて、知ったようなことを言うの? 」
「……、すまない。そんなつもりじゃないんだ。ただ、お客さんが妙に思いつめているようだから、心配になって……、他意はない」
 タクシードライバーはそのまま黙り込んだ。
 ミカゲも何も言わず、外の景色を眺めていた。灰色の民家と幾重にも連なる畑の畝が、ゆっくりと通り過ぎて行く。街に人影はほとんどない。

「さあ、着いた。ここが、内灘砂丘の入り口だ」
 防砂の役割をはたすコンクリートの国道の下に、ぽっかりと矩形の空間がひらけ、その奥に海岸線が見えた。トンネルを潜り抜けると、景色はさらに広がる。前輪だけ砂を踏んだタクシーは、静かに停車した。
「俺が案内できるのは、ここまでだ」
「ありがとう。悪く思わないでね、さっきのこと。 いろいろあって、どうかしてるの」
「人の絆なんて、もろく儚い」
「……?」
「知らないと思うが、この辺りは昔、アメリカ軍の砲弾の試射場だった。すぐ右手に石造りの建物があるんだが、そいつが射撃指揮所だった。朝鮮戦争のときに、建設の話がもちあがると、このへんの住民は皆、反対した」
「それが……、どうしたんですか? 今の私とどんな関係が……」
「いや……、俺は何も、知識をぶろうってんじゃないんだ。ふと、漁師だった祖父の言葉を思い出しただけだ」

 タクシードライバーはウィンドーを開けてから煙草に火をつけ、海へと視線を移した。
「これは一般論だが、目的を持った組織ってのは、盛り上がっているときはいいんだけど、必ず権力のつけいる隙ができる。あんたが権力者なら、どんな隙を見つける?」
「隙……」
「ああ、隙だ。その隙を突くのに、ものすごく簡単な方法がある。グループの一部の人間だけに、甘い汁を吸わせるんだ。すると、一枚岩に見えた集団の中に、亀裂がうまれる。欲望、疑念、嫉妬、羨望、教唆、裏切り……、負の感情を閉じ込めていた箱の蓋が一気に開く。結果、どうなるか……、子どもでも分かるだろ?」
「それで、あなたのお祖父さんは、なんて?」
「さてね。最期まで本音を語らずに、死んじまったよ。孫の俺が覚えているのは、〈人の絆なんて、もろく儚い〉だけ。いまだにその言葉の意味を探している。本当は、意味なんて無かったのかもしれないけれど」
 空は急に曇りはじめ、はらはらと、綿菓子のような雪が舞う。ミカゲがタクシーを降りると、ドライバーもいっしょに、地に足をつけた。雪と吐く息と煙草の白い煙が、スーツの黒を塗り潰そうとしている。
「ここで、待ってるよ」
「え……」
「いや、そういう意味じゃない。あんたが俺の最期のお客さんだから、帰りもちゃんと見送りたいんだ」
 初対面の男に対し、なんだか急に哀れみのような感情を抱いた。
「辞めてしまうのですか? 仕事」
「ああ。東京の大学で講師の口が見つかったんで、しばらく能書きでも垂れて暮らすことになる。気は乗らないんだけど」
「ありがとうございます」
 ミカゲは微笑みながら軽く会釈し、砂丘に向けて歩き出す。

 トンネルから数歩出ると、北西から吹く冷たい暴風が、全身を叩く。地響きのような音がする。黒い海は荒れ、その波は、轟音を立てて砂丘に迫る。

 ーー、怖い。

 いま、誰もいない海岸で高波に攫われても、誰も悲しむ者なんていない。なのに、怖い。雪はそれほどでもないが、猛風にのる砂が頰を強くうつ。ブーツの中はいつのまにか砂だらけだ。ミカゲはダウンのフードを深く被り、目を細めた。
 広がる砂の荒野に、ほとんど消えかかった車の轍が、曲線を描いて海に向かう。いたるところにトカゲの尾のような砂柱ができ、ミカゲ自身も風紋の一部に溶け込みそうな気がした。
 違法建築を警告する、廃墟バラック前の看板を通り過ぎて、塹壕のような小高い砂壁の下にもぐると、ようやく砂嵐から自由になった。
「ふぅ……」安堵のため息を一つ、つく。
 ふと、ある疑問が頭を過ぎる。あの男は……、タクシードライバーは、私のことを待っているだろうか?

 砂の塹壕の内側には、マッチ箱のような灰色の射撃指揮所が建っていた。
 恐るおそる、手摺につかまりながら、外階段を上る。上りきった二階デッキの高みから、あらためて日本海の荒波に目を凝らす。
 轟音、風雪、砂塵を全身に受け、ミカゲは海を睨みつける。それから毛糸の手袋を脱ぎ捨て、凍えた手をピストルの形に変えた。人差し指の銃口が、海をとらえる。さあ、覚悟しろよ、砂よ、海よ、波よ!
 大きく、大きく息を、肺いっぱいに吸い込む。

「バンッ!」

 ミカゲは波に向けて、偽のピストルを撃った。
 その音は、一瞬にして、世界の、あらゆる情念の、あらゆる愛すべき何者かの声に、掻き消された。海鳴りだけが、それを知っていた。【了】
 
 
 
 
 
 

2018年1月18日公開

© 2018 篠崎フクシ

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