五反田の魔女

村崎羯諦

小説

4,169文字

資本主義経済と科学技術が発展した現代においても、なお、幼子を腕に抱く母親を震え上がらせる恐ろしい魔女は存在する。そして、その内の一人は、東京都品川区五反田の場末でうらびれたスナックを経営していた。

資本主義経済と科学技術が発展した現代においても、なお、幼子を腕に抱く母親を震え上がらせる恐ろしい魔女は存在する。そして、その内の一人は、東京都品川区五反田の場末でうらびれたスナックを経営していた。

 

彼女は腰にまで届く、縮れた栗色の長髪を有し、いつも仮面のように厚い化粧で逆らい難き老いによる皺を巧みに覆っていた。何百年という残酷な時間の流れで、その体力と容姿はめっきり衰え、椅子から立ち上がるたびに、膝が断末魔のような悲鳴を上げていた。彼女は空気の代わりに煙草を吸い、飲み水としてお酒を飲み、客の出入りが少ない平日の夜に、定年間際の常連客と下卑た話題で盛り上がることを唯一の楽しみとしていた。
それでも、彼女の魔力と残酷な性格自体は何世紀を経たとしても変わることはなかった。そして、その魔女の鋭く尖った毒牙に食いつかれた、憐れむべき姉弟がいた。成人する前に両親を亡くした彼らは、ふとしたきっかけでこの魔女と出会い、その立場の弱さにつけこまれることとなった。魔女は姉にとって大事な大事な弟に恐ろしい魔法をかけ、彼を小石ほどのシジミへと変えてしまった。魔女はたった一人の肉親を失い、泣き崩れる少女に対し、自分の言うことを聞けば、この弟を元の姿に戻してやるし、そうでなければみそ汁の具材として食べてやると脅迫した。弟を自分の半身よりも愛していた少女に選択権はなかった。そういうわけで、それ以降、弟を人質に取られた少女は、魔女が経営する小さなスナックで、ただ働き同然で働かされるようになったのだ。

少女は弟の救済という一縷の望みを胸に、休むことなく必死に働いた。魔女からのパワハラや、酔客からのセクハラにも耐え、何一つ文句を言わずに働き続けた。どうしても泣きたい夜は、寝る場所として魔女からあてがわれた、二階の小さな物置部屋に引きこもり、シジミとなった弟を入れた水槽を抱きしめ、声を押し殺して泣いたのだった。彼女は若く、純真だった。だからこそ、彼女は言いつけを守っていればきっと、魔女が自分とシジミになった弟を解放してくれると信じていた。しかし、魔女は残酷だった。そして、それは魔女が魔女たるゆえんでもあった。魔女は少女との約束などさらさら守るつもりもなく、時には、なぜこの幸薄い少女がこの場末のスナックで働いているのかさえ度忘れしてしまうほどだった。魔女は毎日打楽器のように響く笑い声をあげ、管楽器のような甲高い声で少女を怒鳴り散らす。少女はその屈辱にも耐え、歯向かうことすらしない。その態度がますます魔女の加虐癖をくすぐり、より一層激しい罵倒を少女に浴びせるのだった。

 

不幸を置き去りにしたまま、三年という月日が流れた。少女の瞳からは輝きが消え、栗色の艶やかな長髪も、過労が雪のようにうずたかく積もったことで、真っ白になっていた。少女を支えていた希望もまた、時の流れという風雨によってすっかり元の形を失っており、代わりに彼女の心の深奥には烏のように黒い憎悪と復讐の悪魔が巣くっていた。幾たびも、彼女は空になった空き瓶を抱きながらカウンターに突っ伏す魔女を氷のように冷たい目で見おろし、魔女に右手に持ったアイスピックを振り下ろそうと試みたことがあった。しかし、それでも彼女の寝床にいるシジミとなった弟の存在がその悪魔が勝手気ままに彼女を操ることを許さなかった。彼女はそのたびごとに途中で意識を取り戻し、自分がつい今しがた考えていた考えにおののき震えた。そして、すぐに二階の物置小屋へと駆け上がり、シジミとなった弟を前で泣きながら赦しを乞うのだった。
しかし、それでも彼女の精神は臨界点に来ており、ちょうどその時分に、彼女は酔っぱらった常連客からある一つの伝承を聞くことになる。

 

「魔女はな、嬢ちゃん。火で殺さなくちゃ、そいつが今までかけた魔法が解けずに残っちまうらしい。だから、中世のヨーロッパじゃあ、魔女はみんな火炙りになったわけよ」

 

カウンターから離れたテーブル席で、常連客はそう言い放った。その客は呆れるほどのほら吹きで有名で、だからこそ、彼女を含めた他の客らもいつものふざけた出鱈目だと笑い飛ばした。少女もまた、両手で度数の高いお酒を大事そうに抱えながら、愛想よく笑う。しかし、他の客の誰も、彼女の瞳の奥に瞬いた鋭い光に気が付かなかった。そして、彼女は平長年にわたる労働で習得した愛想笑いを浮かべながら、煙草の箱をポケットから取り出した客の横に座る。そして、ぞっとするような冷たい笑みを表情に張り付けたまま、ライターを男が加えた煙草の先に持っていき、いつものようにこなれた動作で火をともすのだった。

 

 

そして、その晩。いつものようにお酒を抱いたままカウンターで突っ伏した魔女の横に、少女は亡霊のように立っていた。しかし、彼女の右手にはアイスピックではなく、ライターが握られていた。彼女は息を殺したまましゃがみ込み、虱が湧き、油の臭いがする魔女の長髪の先にライターを近づける。少女は少しだけ逡巡したのち、ライターに火を灯す。揺らめく青白い炎を彼女はそっと魔女の髪の先っぽへと近づけていった。しばらくすると、炎は髪の先に燃え移り、油脂でべたついた魔女の長い髪の毛をトンビのように上へ上へとのぼっていく。少女はそこでようやく魔女から離れ、店の奥にあるテーブル席の下へと身を忍ばせた。ちょうどそこは魔女の姿を見ることができる場所であるとともに、相手からはなかなか見つかりにくい場所でもあった。少女は息を殺し、じっと燃え上がっていく炎を見守った。消灯され、すっかり暗い店の中で、炎のみが明るく輝き、離れたところにいる少女の顔を薄いオレンジ色に照らしていた。少女の目は大きく見開かれていた。まるで、これから起こるすべてをその目に焼き付けようとしているかのように。
長髪の半分まで火が来たところで、ようやく魔女が異変を察知し、眠そうな目をしばたきながら顔をあげた。魔女は何かを探すかのように周囲を見渡す。ふと、異常な熱さを感じたのか、自分の背中を視認する。そして、パチパチとはじけながら勢いを増していく炎をまとった自分の髪の毛を認識した。
その瞬間、魔女は耳をつんざくような叫び声をあげた。半分垂れ下がったままだった目は大きく見開かれ、その奥にある眼球は遠くからでもわかるほどに、恐怖と混乱で真っ赤に充血していた。魔女はすぐさま無造作に置かれた椅子を蹴散らしながら、カウンター越しにある水場へと飛んでいき、水道の蛇口へと豚のように膨れた手を伸ばした。しかし、そこでもう一度魔女は金切り声をあげた。蛇口をひねるためのハンドルが予め少女によって取り外されていたからだ。それでも魔女は汚く伸び切った爪で引っ掻き、爪が剥がれ落ち、指の腹が摩擦熱でボロボロになると、今度は煙草で黄ばんでしまった歯でなんとか水を出そうと試みた。しかし、水はいっこうに出る用はなく、そうこうしているうちに火は髪から魔女の上着へと燃え移ってしまっていた。魔女はそこでもう一度断末魔の叫びを店全体に轟かせた。熱さと恐怖で冷静さを失った魔女は狂ったように水道をこぶしで殴り始める。指先と手の甲からは膿のように黄色い血がしたたり落ちていた。それでも、魔女は自らの行動を御することができず、また痛みすら感じていないようだった。火は魔女の服全体をすっかり支配下におき、脂ののった腕や顔へと侵略を始めていた。魔女はすでに火だるまになっていた。魔女は助けを求めて叫び続ける。その中には、少女の名前もあった。しかし、少女は身体全体が炎に包まれ、イルミネーションのように明るく輝く魔女をテーブルの下からじっと観察するだけだった。震えは止まり、彼女の表情には怒りや恐怖すらうかがうことはできない。少女はただ、目の前に起きた惨劇を、歴史家のような目で冷静に見つめるだけだった。
魔女は立つ力さえ失い、冷たいコンクリートの床に倒れ込んだ。喉はすでに焼かれてしまい、叫び声をあげることすらできなかった。炎の包まれた魔女は救済を求めて、店のドアまで這っていく。そして、長い時間をかけて、ようやくその手をドアノブにかけた時にはもう、身体の下半身は炭化して真っ黒に焼け焦げていた。しかし、当然のことながら、ドアは少女によってカギがかけられていた。魔女はついぞ外へと出ることはできず、力尽きたようにその場で動かなくなった。魔女は死んだのだ。
少女は魔女が動かなくなってようやくテーブル下から這い出た。そして、魔女がもう死んでしまっていることを遠目から確認するとすぐに、二階の寝床から、シジミとなった弟が入った水槽を取ってきた。彼女は水槽をカウンターに起き、その前の椅子に座った。そのまま、彼女はじっと水槽の中にいるシジミを見続ける。弟の魔法が解ける瞬間を待つために。
彼女は今までと同じような忍耐強さをもって弟を待ち続けた。魔女の奴隷となり、過酷な労働を強いられてきた彼女にとって、ただ座って待つことなど何の苦もない。座った状態のまま、彼女は何時間も待ち続けた。しかし、目の前にいるシジミは弟へと戻ることはおろか、健気な姉の情愛に応えようと身体を動かすことすらしなかった。いつの間にか夜が明け、暗い店内が、窓から差し込む朝の陽ざしで明るくなり始めた。そこでようやく少女は魔女の魔法が解けることがないという残酷な事実に突き付けられた。少女であり、シジミとなった弟の姉である彼女は両手で顔をおおい、声をあげて泣いた。朝の雑踏音や黒炭となった魔女が放つ強烈な臭いにも構わず、彼女は一日中泣き、自分と弟の運命を嘆いた。
日が暮れ、夜が訪れ始めた時分、ひとしきり泣いた少女は自分の空腹に気が付いた。少女は真っ赤にはれた目をこすりながら、台所へ行き、鍋に水をいれた。少女はそのままカウンターへと戻り、水槽からシジミを取り出すと、それを丁寧に流水で洗い、鍋の中へ放った。そして、少女はその鍋を沸かし、頃合いを見て味噌をとかし、シジミの味噌汁を作った。少女はそのみそ汁を前にもう一度だけ枯れたはずの涙を流したのち、おいしそうにそれを食したのだった。

2017年12月1日公開

© 2017 村崎羯諦

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