切り裂かれた世界で

瀧上ルーシー

小説

38,645文字

自傷癖のある援交少女直子の恋。

高校からの帰り。池袋のゲームセンターで時間を潰したり、渋谷で服を見て、コンビニで夕食を買ってから家に帰ってくるともう夜になっていて、隣の母さんの部屋から今日も嬌声が聞こえてきた。また会社の男を家に連れ込んでいるようだが父さんはとっくに亡くなっているので浮気ではないのがせめてもの救いだった。キッチンの電子レンジで弁当を温めると部屋で硝子のローテーブルの上に載せて、スマホで遊びながらそれを食べていった。食べ終わると風呂に入ってその後でテレビを眺めたのだが、まだ母さんの男に媚びた女としての声が聞こえてきて気持ち悪いので、私はスマホと充電ケーブルと財布だけ持って家を出た。少しの間地下鉄に揺られた。

池袋の東口から出て二十四時間営業のマクドナルドでコーラだけ頼んでスマホを眺めて時間を潰す。コンセントもあるのでバッテリー切れを心配することはない。匿名掲示板やニュースのまとめサイトをずっと見ていた。ツイッターやフェイスブックをやるほど私は人様に自慢するような生活をしていない。二十四時を回って、ネットを見るのも飽きてきたので、私はいつも使っているサイトに『JKホ別苺ゴ有@三也』と書き込んだ。すぐにサイトを経由してメールが入ってくる。どこで待ち合わせか客は聞いてくるのでこのマクドナルドを指定した。いつものことだ。私の特徴はメールで、セミロングの金パに白のハイウエストのパンツにボーダー柄のトップスを着ていて左耳にゼロゼロのボディピアスをしていると言った。どうせ相手はいつも通りのおじさんなのだろうから、そんなことを言ってもよくわからないと思うけど、金パと言ってあるのでなんとなくでも私の頭が金髪なのだとはわかるはずだ。客のおじさんは普通にYシャツにネクタイを締めたサラリーマンらしい。そうして二十分ほど待つとメールが入った。『東口のマクドナルドに着いたけど、どの辺にいるの?』『三階です』と私はメールに返信した。ほんの少しして頭が禿げて腹が出ているおじさんが私に声をかけてきた。料金前払いと言うと、おじさんは無言で財布から福沢諭吉と樋口一葉の不倫カップルを取り出して手渡してきた。それを財布にしまうと、マクドナルドを出てサービスの一環として、手を繋ぎながら近くのラブホまで歩いた。あれこれ話したがる客も多い中、このおじさんは女子高生を買うような大人としては珍しく、幾分緊張しているようだった。

順番にシャワーを浴びて、大きなベッドのある薄暗い部屋で私達は身体を重ね合った。おじさんは大層疲れたようで、ご休憩の時間が終わるぎりぎりまで、ベッドに横になっていた。

「借金があるとかホストクラブに通ってるとか何か事情があるの?」

パンツ一枚で布団に包まっているおじさんが私に聞いてきた。緊張はもう解けたらしい。

「そういうのは別にないですよー」

「なら寂しいとか、日々の生活が虚しいとか、退屈とかそういうこと?」

「それもないですねえ。貯金は趣味ですけど、それを学費にしたいとか何か高い物を買いたいとかはないです」

「ふうん、君って変わってるんだね。毎日は無理だけどまた誘ってもいい?」

「いいですよー」

客の前では無駄に語尾を伸ばし、媚び媚びな私だった。

そうして二人でラブホから出てくる。おじさんは午前二時を回っても人が多い池袋の雑踏の中に消えていった。何故かそれが虚しかった。もう電車など走っていないから始発までマクドナルドで時間を潰すことにしてナゲットもフィレオフィッシュも慣れ親しんだ味だが美味しかった。

ネットの中も段々と人が閑散としていく。皆眠る時間なのだ。私は何をしているのだろう。欲しい物などないのに、援交なんかして。少しお酒が欲しくなってきたが一人で居酒屋に入るのは嫌なので我慢した。カラオケボックスで飲むという手もあったが、それはとても寂しそうなので却下する。結局始発までずっとそのマクドナルドに居た。

始発で家に帰ってくると、私は部屋でチキチキと刃を出して愛用のピンクのボディのカッターナイフを使って手首を切った。痛みを感じない人もいるらしいが、私の場合普通に痛い。少なくとも涙目になるくらいには痛い。切る瞬間、いつも背筋がひんやりとする。手首から流れる赤く温かい鮮血をしばらくの間眺めていた。別に自分に罰を与えているとか死にたいとかそういうのはない。単なる癖であって趣味だ。もしかしたら快楽なのかもしれない。しばらく血を眺めたらバンドエイドをしてテープを巻いて、リストバンドを巻いて、時間までテレビを眺めて、高校へと登校していった。リストバンドは様々な柄の物を二十個以上持っていて、今日は無難に無地の黒のリストバンドを手首に巻いた。

 

授業中に机に突っ伏して足りない睡眠を補給していた。教室の中はいつでも生徒達が騒ぐ声や物音でうるさい。要するに私立のバカ高なのだ。この学校には高校受験でちゃんと勉強した人間なんてとても少ないだろうし、もしかしたら一人もいないのかもしれない。

私には友達が一人しかいなくて漫画に出てきそうな銀縁の大きなレンズの眼鏡に重たそうな長い黒髪を一本に縛っているこのクラスの委員長様が友達だった。真面目に見えるが家に帰ると漫画やアニメに夢中で勉強は全然しないらしい。いろいろと口やかましいので彼女も彼女であぶれ者の私くらいしか友達がいないようだった。あぶれ者。おじさんっぽい言葉なのが恥ずかしく、私は頭の中でアウトローだと言い換えた。

昼休み、机を二つくっつけて私達はお話をしながら昼食を食べていた。私はコンビニの菓子パンで絵里は手作りの弁当を食べていた。

「金髪も短いスカートも辞めたら? 大きなピアスも」

「やだよ。こんな格好してられるのは今だけだと思うし」

絵里は私の手首のことについては何も言わない。口やかましいのは単なる癖で、本当はとても優しい子なのだと思う。

「遊んでるように見られちゃうから、そんな格好してると損するわよ」

「でも私は好きな格好したいよ」

「好きな格好ね……わたしはあまり自分のお洒落に興味ないかな。小ぎれいにしておけば後はあまり気にしない」

「へー、変わってるね。女に生まれたのにお洒落しないなんて損してると思うよ」

「わたし、本当は男に生まれたかったの。男前より美少年がいいわ」

「おたく臭いね……」

「仕方ないでしょ。わたしは二次元ヲタクの腐女子なんだから。何か漫画でも貸してあげようか?」

「結構だよ」

学校が終わると途中まで絵里と一緒に帰って、この日は家で過ごすことにした。

部屋でスマホで遊んでいたのだけれど、箪笥貯金の金額が気になって、箪笥の一番下の段の下着類が入っている引き出しの中から大きめのポーチを取りだした。今まで援交で稼いだ金や母さんからの小遣いの余った分を私はこの中に入れていた。お札は全部で七十一万四千円あったがとくに使う予定はない。もしものときのための貯金だと思うと、自分が堅実な大人になったようで少し気分がいい。

そうしてコンビニで買ってきた五百ml入りの缶チューハイをちびちびと飲みながらネットを見たりテレビを見たり、ごろごろしているともう夜になった。早めにベッドに入って眠ろうとしていたのだが玄関が喧しくなった。酔っ払った母さんが男と二人で騒いでいるらしい。この世の楽園にでもきたかのようなとても楽しそうな声だった。少ししてまた隣の母さんの部屋から大音量のポップスに混ざって彼女の女としての声がきこえてきた。

気持ち悪かった。壁を殴ってやりたい。だが私は暴力的な衝動を自分に向けてまたカッターナイフで手首を切った。もう既に私の手首には消えなくなった傷跡もある。痛みと共に頭の中が酷くすっきりした。マキロンで消毒してからバンドエイドとテープで傷口を覆う。そして今夜は水玉模様のリストバンドをして私は眠ろうとした。母親の嬌声がうるさくてなかなか眠れなかった。私が眠るより先に隣の部屋からいやらしい声が聞こえてこなくなる方が早かった。

朝早く会社へ出勤する準備をしている母さんが立てる物音で目を覚ました。彼女のいい人は夜中に帰っていったらしい。女手一つで面倒を見てくれてその点は私は母さんに感謝をしている。母さんが家から出て行くと、適当にめざましテレビを観ながら、空き缶を灰皿にして母さんが台所の戸棚に隠しているのを以前に盗ってきて部屋に置いてある煙草を吸った。日常的に喫煙しているわけではないが、落ち着かなかったり暇だったりすると、よく母さんの煙草をパクっている。朝っぱらからお酒も欲しくなるが、それよりも家の中が静かになると再び眠気がやってきて、私はベッドの上で眠った。

夢の中で私は中年男性とやっていた。物心がつく頃には父さんは他界していたのでおやじに飢えているのかもしれない。半分以上眠っている頭で私はそんなことを考えて自虐的に笑って少しの間目を覚まして、また眠った。

学校が始まる時間までに起きられないで、もうすぐ昼休みという時間になって教室に到着する。援交のリピーターの中谷さんから連絡があった。四万円払うから今から会おうと彼はメールで言っていた。学校なんて別に好きじゃないしいつもの待ち合わせ場所の池袋駅東口近くのマクドナルドに行くと、私の通っている高校の制服を着た生徒が何人かいて男同士で彼らはポテトを食べたりバーガーを食べたりしながら雑談しているようだった。一人私のことをチラチラと見る男子もいた。そんなことは気にしないで中谷さんの姿を探すと、彼はグレーのスーツ姿でナゲットを食べながらコーヒーを飲んでいた。私の姿を視界に入れると彼は笑顔で手を振った。

「直子ちゃんも何かここで食べていく?」

「今はいいや。今日は何をするの?」

初見の客には敬語を使うが、慣れている客にはタメ語な私だった。お金も後払いでいい。

「一緒に遊園地に行きたいと思ってね」

それからマクドナルドを出ると、電車に乗り込んで遊園地まで行った。

中谷さんは言ってることが嘘でなければ独身の三十代のサラリーマンだ。見た目は中肉中背で顔は丸顔で黒縁眼鏡をかけている。誰でも知っている会社に勤めている一種のエリートらしい。初めて私と会ったのは半年ほど前だ。サイトで援助してくれる人を募集していると、中谷さんがメールを送ってきた。今も使っているいつものマクドナルドで対面すると、おどおどしながら十八歳以上だよね? と彼は確認してきたので私は当たり前じゃないですか、と返答した。本当は分かっていると思うが年齢を言ってしまったら何かあったとき中谷さんが捕まってしまうと考えてそう言ったのだ。お金で女を買う人間なんて皆そうだが、中谷さんも最初はセックスがとても下手だった。ハウツー本も読んでいるらしく最近の方が断然上手い。

電車から降りて遊園地に着くと中谷さんはゲートの前で私を待たせて、一日フリーパスのチケットを二つ買ってきてくれた。ストラップがついているそれを首から下げて私達は遊園地の中へと入っていった。そこからはずっと中谷さんと手を繋いでいた。たまに表情を確認すると照れたように彼は笑っていた。遊園地のマスコットキャラと三人で写メを取ったり、着ぐるみが可愛い女の子向けのショーを見たり、絶叫マシンに乗ったり一緒にコーヒーカップに乗って目を回したりした。お腹が空いていないかと中谷さんはしきりに気にしていたが、ダイエットになるからとその申し出を断った。報酬以外にはお金をあまり使って欲しくなかった。どうせ一瞬の関係の女に金を沢山使うのは馬鹿げていると思う。初めに提示したお金さえくれればそれ以上は要求しない。

私は制服姿なので飲めなかったが、中谷さんは安っぽい透明のプラスチックのカップに入ったビールを何杯も飲んでいた。数えていないが五、六杯は飲んでいたと思う。疲れたから休もうと言うので二人でベンチに座った。恋人でもない男にそこまではしたくないと思い膝枕はしてやらなかった。

中谷さんは独り言のように「ああ、楽しいなあ」と言った。

「楽しい。本当に」

「直子ちゃんもそう思う? なら俺も男としてまだまだセーフなのかもな。彼女でも探すか」

「がんばって」

「私が立候補しちゃう、って言って欲しかったなあ」

「そんなこと言うはずないでしょ」

それから夜になって二人で遊園地のパレードを観た。大きな象を模した車の上でファンタジーな格好をした女性達が踊っていて、象の周りでは外国人に見える男の子と女の子達がかわいらしく踊りながら進んでいった。他にも蝶々の格好をした女の人や、ドワーフの着ぐるみを着た人がパレードに参列していた。私はぼんやりとそれを眺めていた。またビールを飲んでいる中谷さんは私の肩に手をやった。暑苦しい。

「綺麗だね、直子ちゃん」

「そうだね」

「直子ちゃんはさ。こんな世の中が嫌いかもしれないけど、捨てたもんじゃないから」

笑いながらそう言って、中谷さんは酒臭い息を吐いた。誰だって見ればわかる私のリスカットを指してそんなことを言ったのだと思う。

「別に私は世の中に不満があるわけじゃないよ」

「それでもさ。ここは、上手く行かないかもしれなくて、思い通りにならないことの方が多い、すばらしい世界だから」

説教臭くなっている。いよいよ中谷さんは酔ってきたみたいだ。

パレードを眺めた後は観覧車に乗って隣同士に座った。観覧車の中から地上で夜になっても客に媚びを売っているマスコットキャラが見えて、哀れに思えた。中谷さんは私の胸を揉んで舌を入れるキスをした。

「大好きだよ」

「私も中谷さんが好き」

当たり前のリップサービスだが、このくらいのことは言ってやらないと金を払わせているのだから申し訳ない。

そうして私達は遊園地を出て、タクシーでラブホにやってきた。中谷さんは酔ってる割には体力があって、三回も射精してからベッドの中で眠った。私も結果的に浅い眠りだったが眠った。朝になって起きて歯を磨くと、中谷さんは私にお札が入るくらいのサイズの封筒を渡してきた。私は躊躇することなく彼の前で封筒を開き、約束の四万円が入っているのを確認した。着替えてホテルから出ると中谷さんは家までタクシー代も別に出してくれた。またね、と手を振って私は有り難くタクシーで家へと帰宅した。車の窓から都会の風景が横に流れて見えた。誰からも消費される街に思えた。朝帰り。家の中に入ると母さんは洗面所で化粧をしていたが、私に何も言わなかった。両親は大学を卒業すると同時に結婚していて在籍中にはもう私を生んでいた。母さんが言うには出来ちゃった結婚とは違うらしい。だが父さんは私が三歳の時に、自動車事故で亡くなっている。以来母さんが保育園に預けたり小学校が終わりそれからの時間は学童クラブに預けたりしながら私を育てた。まだ三十代で若々しく、毎日のように男を連れ込んで寝ているのも仕方がないように思えた。眠くて仕方がなかったので、学校に行くのは諦めて私はむさぼるように眠った。

 

二日ほど家でスマホのソシャゲで遊んでいるだけの日々を過ごし、学校には行かなかった。久しぶりに登校すると絵里はとても怒っていた。

「進級できなかったらどうするの?」

「ある程度計算して休んでるから」

「毎日来るべきだわ」

「私が来ないと寂しい?」

「そうかもね」

そんな会話を交わしながら、また私は出来合いの物、絵里は手作りの弁当を食べていった。そのとき、教室のドアを思いきり横に引く男子生徒がいた。肩を怒らせるように大きく揺らしながらその男子生徒は私達が食べている所に来た。百八十センチはないだろうが比較的に身長が高く筋肉質で赤茶色いの短髪の男子だった。

「加島、ちょっと来て」

彼は私に用があるようだった。

「なんで」

「いいから」

そう言って見知らぬ男子生徒は私の腕を掴んだ。向かいに座った絵里の表情が強ばる。

「行くから離して」

そう答えて、私とその男子生徒は無言で校舎内を歩いてところどころで雑草が育っている人気の少ない校舎裏までやってきた。九月の外はまだ暑くすぐに汗をかいた。男子生徒は私に向き直った。

「加島って援交してるんだな」

よく覚えていないが、昨日池袋のマクドナルドにいたこの学校の生徒の中に、彼はいたらしい。だとしても別におじさんと一緒にいるところを見られただけで、ホテルに入るところを見られたわけではないので、しらばっくれても良かったが、私は正直に「そうだよ」と答えた。

「そういうの良くないぜ。やめろよ」

「私の勝手でしょ」

「じゃあオレが教師に告げ口するのも勝手だな」

「一回やらせてあげるからそれだけは止めて」

私が援交してると学校から連絡がいって、家に頻繁に男を家に連れ込む母親でも悲しませたくなかった。男子生徒の表情が険しくなった。

「オレはそんなつもりで言ったんじゃない」

「いいからいいから」

そう言って私は一人で校舎裏から去っていった。

午後の授業が終わり掃除とホームルームも終わると、先ほどの茶色い短髪の生徒が私を迎えにきた。私の方から彼が待つ廊下に出て行った。

「そんなつもりじゃなかったんじゃないの?」

「うるせえ」

「あんた、名前は」

「内藤悟」

「ふうん。ホテル代勿体ないからここのトイレでいいね」

「はあ?」

「じゃあ、内藤がホテル代払ってくれるの。制服でも入れてくれるラブホは知ってるけど」

「トイレで我慢する」

そうして校舎内を歩いて部室棟のどの部屋も使われていない階に行って、そこの男子トイレに私と内藤は入っていった。立ったまま身体をまさぐり合う。彼はブラウスの中に手を入れてブラの上から胸を執拗に触った。トイレでやるのは初めてなようで彼は普通に下手だった。いつも持ち歩いているコンドームを被せてやって下着を足首まで落として立ったまま彼にお尻を向けて挿入するように仕向けるのだが、中に入ってきても私も全然気持ちが良くなかったし、彼もいけないようで時間を食うのも嫌だったので私は彼を便座に座らせてさっさと口と手で抜いてやった。服装を整えて二人でトイレから出るとそこで別れた。

「もうこれっきりだからね。約束は守ってね」

「これっきりにしたくない」

「なら今度はお金ちょうだい。ホテル代は内藤持ちで一万五千円からだよ」

「それでもいい」

いって時間が立っていない男の顔はいつも弱いところが三割増しのように見える。ぼうっと突っ立ったままの内藤を放って、私は鞄を取りに教室まで戻った。

 

教室には上半身裸の男子生徒が独りでいた。私と同じようなことでもしていたのかなと思っていると、彼はカッターナイフで自分で自分の背中を切って、赤い血を飛び散らせていた。突然のことだったので驚きながらも私は心臓をどきどきさせて教室の引き戸の硝子越しに彼を見つめていた。先ほどまでやってた茶髪の男の子より小さくひ弱に見える黒い髪の男子は、右手や左手に頻繁にカッターを持ち替えて背中や自分の腕を切り刻んでいた。目は眼窩からこぼれ落ちそうなほど大きく、黒目がコールタールのように濁っていた。自分の高鳴る心臓がわかる。私は彼が演じるショーに夢中になってしまった。時折彼は、ああ、と喘ぎ声のような音を口から漏らした。表情は恍惚的に見えた。そうして自虐の時間は終わり、彼はタオルで傷だらけの身体を拭くと床や机に飛び散った血も拭き取って、黒いTシャツの上から元通りに制服のカッターシャツを着て、私が覗いているのとは反対の引き戸から教室を出て行った。見つかるかもしれないと冷や冷やしていたのだが、彼が後ろを振り返ることがなかったので、覗いているとばれなかった。彼がいなくなった後、教室に入って、彼が立っていた場所で私はその場を動けなくなっていた。私は緊張と鼓動で熱くなった息を吐き出した。

 

絵里に彼のことを聞いた。現在、当の彼は窓際の前から三番目の自分の席で弁当を食べている。シャツと黒のTシャツに隠された彼の背中は今日も傷だらけなのだと思うと、妙に精神が高ぶった。

「彼の名前は鈴木修一くん。それ以外のことは知らないわ」絵里はぽりぽりとおじさんおばさんみたいに漬け物を咀嚼した。「どうしたの好きになった? 割と線の細いイケメンだし、それはそれでわかるけど」

「そうじゃないよ」

それは嘘なのかもしれなかった。

普通の〝好き〟ではないが、私は彼にされたいことがあった。断然鈴木くんのことが気になっているし、それを指して〝好き〟だと呼ぶこともできないことはなさそうだった。

学校が終わり援交もしないで家に直帰してスマホで遊ぶのだがぜんぜん落ち着かなかった。また前にパクった母さんの煙草を吸った。男の子のことを考えてこんなふうになるのは初めての経験だった。彼がいけないのだ。教室で背中なんか切るから。

その次の日、彼がひとりで学校から帰るのを私はスマホを片手に、たまにそちらに目をやってカモフラージュしながら尾行した。学校から徒歩五分もかからないで行ける駅の中に鈴木くんは入っていった。私も入る。Suicaを通して改札口を抜けて、駅のホームで彼から離れて電車を待った。電車が来て、一つ離れた乗車口から乗り込む。少しの間、電車に揺られると、彼は上野駅で降りた。私もそこで降りようとして正気に戻った。何故私がストーキングなんかしなくてはならないの? 天下御免の女子高生だぞ、私は。そう思って馬鹿くさくなったので、独りで浅草まで行ってもんじゃ焼きを食べて、家に帰った。

母さんはまだ家に帰ってきていなかったので、冷蔵庫に沢山入っているビールを一缶盗み飲んで、少し気持ちよくなると、私は鈴木くんへの手紙を何時間もかけて作成した。

本当なら下駄箱に入れたかったのだが彼の下駄箱がわからなかったので翌朝のホームルーム前の時間に彼に手渡した。彼は目を白黒させた。

その日の学校が終わり、狙い通り鈴木くんが私の前に立ちはだかった。絵里はひゅーと吹くと今日も独りで帰って行った。

「話があんだけど」

可愛い童顔を若干強ばらせ鈴木くんは私に言った。内藤のように腕を掴んだりはしない。私と鈴木くんは体育館裏に移動した。空からの日差しがまだ熱かった。

「この間見たことは誰にも言わないでくれ」

鈴木くんは両手を合わせて頭を下げて私に懇願した。そんな大げさな頼み方しなくてもいいのに。

「言わないよ、でもなんであんなことしたの?」

「きみのリストカットと一緒だよ」

鈴木くんは一瞬だけ私の手首のリストバンドに視線をやった。今日はモスグリーンのリストバンドを左手首にしていた。今度は私がお願いする番だった。

「あのさ。手紙にも書いたけど私の背中も切ってくれない?」

鈴木くんは一転してとても楽しそうな歪んだ笑みをこぼす。

「別にいいよ」

「なら私の家に来て」

「でもなんでそんなこと頼むんだ?」

「だってとても気持ち良さそうなんだもん」

学校から出て電車に乗って私の家へ向かった。電車の中で吊革を握りながらちらちらと彼の横顔を盗み見たのだが、彼はごく自然な表情をしていてこれから起こることへの不安はないようだった。

家に帰ってきて、風呂を沸かして私達は一緒に入った。名目は身体を綺麗にしておかないとばい菌とかが入って熱が出たら嫌だから、というものだった。なんでわざわざ一緒に入るのかと言うと、彼の傷だらけの身体が見たかったのと、性的な意味で私は彼に期待していたからだ。彼が身体を洗っている間、私は舐め回すように身体を眺めた。背中には幾重にも真っ直ぐの筋のような傷跡が走っていて、左の二の腕にも傷が沢山走っていて、両方の太股には、烏賊焼きの切れ目みたいに中が見えそうな程深い傷が走っていた。

「背中流すよ」

そう言って私は力を入れすぎないようにしてボディソープを垂らしたスポンジで彼の背中を洗ってあげた。するとお返しだと言って彼も私の背中を洗ってくれた。人にやってもらうと自分でやるより気持ちが良かった。

完全に性的に高ぶってしまっていた。浴槽の中のお湯には私の膣分泌液が混ざってしまっているかもしれない。そして彼の傷から流れ出る血も混ざってしまっている。二人して風呂から上がると、下着だけ身につけて制服を腕に抱えて階段を上り、二階の私の部屋まで行った。二人で隣同士にベッドの上に腰をかけた。私はカッターナイフに消毒液をかけると、鈴木くんに渡した。

「服を着ても見える所は切らないでね」

「ああ」

ゆっくりとひんやりとした刃を鈴木くんは私の背中に滑らせた。痛くて、少し怖くて、少し涙が出て、それでいて気持ちが良かった。四回も五回も彼は私の背中にカッターナイフを滑らせる。私の口からは喘ぎ声が漏れだしていた。ベッドの上の布団がぽつぽつと血で赤くなる頃に鈴木くんは口を開いた。

「俺にもやってくれ」

またカッターナイフに消毒液をかけると今度は私が彼の背中を切り刻んだ。鈴木くんもしきりに喘いだ。その殆どが、んん、とか、ああ、などの短い声にならないような小さな叫びだった。後ろから覗くと彼のペニスは硬く勃起しているようだった。

「エッチもする?」

「いいね、するか」

私達はコンドームも使わないでやった。達すると彼は私のお腹に温かい精液をかけた。二人とも自分やお互いの血で身体中が血みどろになっていた。

 

背中の傷は鈴木くんが薄く切ってくれたおかげか、消毒だけしてブラの上からすっぽりとTシャツを着ると自然と血が止まったようだった。昨日、背中を切り合ったのを思い出すと痛みや恐怖より先に気持ちよかったのが思い出された。その後のセックスもとても感じた。また彼と身体を切り合いたい。帰りのホームルームが終わると、私は鈴木くんの席まで行った。

「一緒にどこか行かない?」

私がそう言うと、絵里が、ひゅう! などと私まで聞こえる声の大きさで言って教室を出て行こうとした。気をつかってくれたのだと思う。絵里と入れ違えに見覚えのある男子が教室に入ってきた。

「加島はそんなヒョろい奴が好きなのか?」

一度やらせてやったことがある内藤だった。

「お前に関係ない」

睨みを利かせてそういってやった。

「好きなんだよ」

「は?」

意味がわからない。

「しばらく考えてたんだけど、オレはお前のことが好きみたいなんだ。他の奴に取られたくない」

一度やっただけで好きになられるとは。内藤はピュアピュアなようだった。鈴木くんはそんなやりとりをしている私達を見てげらげらと笑った。涙が出てきた目を指で擦っている。

「俺は別に加島のことをそこまで好きじゃないから。それじゃあな」

鈴木くんはまたげらげらと笑いながら教室から出て行ってしまった。また身体を切り合おうと思っていたのに残念だ。

「内藤のせいで鈴木くんに逃げられちゃったじゃん」

鞄を持ってきて教室から出ようとすると、内藤はこの間みたいにまた私の二の腕を掴んだ。

「加島は鈴木のことが好きなのか?」

それは自分でもよくわからなかったが内藤がウザくなってきたので「そうだよ」と私は答えた。

「あんな奴よりオレの方が絶対にいい。今日放課後デートしよう」

「えーやだ」

「使う金はオレが全部払うから。頼むから行こう。オレにチャンスをくれ」

そう言って内藤は私の前で深々と頭を下げた。そこまでやられると内藤に興味はないが、断れなかった。

「わかった。いいよ」

電車に乗って適当な駅で降りて、マクドナルドでハンバーガーを食べて、カラオケに行った。お酒を飲みたかったが制服姿なので自重した。

部屋の中で内藤と二人きりになる。がっちりとした体格で身長が大きめの彼と二人きりになるのは少し怖かった。内藤はサザンからSEKAI NO OWARIまで熱唱した。私は歌わないで内藤に頼ませた大盛りポテトとドリンクバーで取ってきたコーラを食べたり飲んだりしていた。お金を払わせているわけだから。内藤が歌い終わる度に、私は笑顔を作ってぱちぱちと手を叩いた。

「どう? オレの歌」

「上手いと思うよ」

音程も取れているし声の大きさもちょうどいいし、ビブラートを利かせすぎるのが少しウザかったが、本当に上手いと思った。

「ありがとう。じゃあオレのこと好きになったか?」

「別に」

内藤とは二人きりになっても全く緊張しなかった。これが鈴木くんだったらこうはいくまい。緊張するはあそこは濡れるはできっと大変で生きた心地がしないと思う。

「加島も歌えよ」

「やだ。私音痴なの」

「へえ、意外だな」

「意外でしょ。だって嘘だもん。でも歌うのが苦手なのは本当だよ」

「へえ」

内藤だけが歌う三時間のカラオケが終わり、私と内藤は駅のホームに立っていた。電車が入ってくる時になって緊張した面持ちで彼は言った。

「一万五千円払うから今晩一緒にいてください」

内藤が頭を下げる。私は「いいよ」と答える。十五分ほど電車に揺られて内藤の家がある駅で降りて、五分ほど歩いて内藤が足を止めたのは新築には見えない二階建ての小さな一軒家で家の中におじゃましますと言って入るとき、玄関で内藤のお母さんと行き会ったのだけれど結構綺麗な人だった。二階の内藤の部屋に入るそうそう彼は私の身体を背中から抱きしめた。「お金が先」と言うと、彼は子供の頃から使っているような学習机の引き出しから一万円札と五千円札を取り出して私に渡した。それを財布にしまう。私達はベッドに倒れ込んだ。服をだめにされたら嫌なので、私は自分から制服と下着をするすると擬音が鳴るほど手際よく脱いだ。内藤は傷だらけの私の身体を見て、絶句しているようだった。

「自分でやったのか?」

「そうだよ」

私は嘘を吐いた。嘘は言わなければ鈴木くんが後で何をされるかわかったものじゃない。

「あまりよくないぜ」

「そうだね」

しばらくして内藤も服を全部脱いだ。コンドームをつけようとしているのだが、上手くつけられないようだった。私は裏表を間違えることなくペニスにそれを装着してあげた。

「もしかしてこの間ので童貞脱出だった?」

「そうだよ、悪いか」

それを聞いて少しだけ私は内藤が可愛いと思った。彼はすぐにコンドームの中に精子を出した。膣内射精障害ではなくこの間は場所がトイレだったからいけなかっただけらしい。

「風呂貸そうか?」

「内藤の家族に会うと気まずいからいい」

そうして下着みたいな格好で二人してベッドに寝そべり、たまに身体に触れ合いながら、私達はさまざまな話をした。好きなミュージシャン、好きな作家、好きな漫画家、好きな食べ物、異性のタイプ、学校の嫌いな教師、家族のことをどう思っているか、教えなかったけど今まで何人とセックスしたのか、旅行に行くとしたらどこへ行きたいとか、本当にいろいろな話をした。そうして途中食事にお呼ばれして、朝になって、私達は二人で通っている高校へと登校していった。

校門の柵に寄りかかるようにして痩せっぽちの鈴木くんが佇んでいて私達の姿を見つけると彼はどろっとした目を細めてとても大げさに笑った。

「加島にはそいつみたいな健康的な奴が合ってるよ。俺のことはもうかまわなくていい」

鈴木くんがとてもおかしそうにそう言った瞬間、内藤は彼の頬を撲った。内藤の表情は顔色が少し赤くなっていて、目つきも鋭くなっていた。

「加島はお前のことが好きなんだよ。オレは金を払って一緒にいてもらっただけだ」

鈴木くんは一瞬凄く冷たい目をして、内藤にやり返した。拳と拳の応酬が始まる。私は「やめて、そんなことしても意味ないよ」と止めに入ったのだが、二人は次々と殴り合っていて鈴木くんの鼻からは血がぼとぼとと零れだしていた。校舎の方から教師が四人ほどきて、二人を羽交い締めにして止めた。離せクソと言って内藤は地面に唾を吐いた。内藤と鈴木くんの身体を引きずるように歩く教師達に着いていくと、そこは生徒指導室だった。長テーブルの前のパイプ椅子に私達は座った。当然、内藤と鈴木くんの間には私が入った。

「なんで殴り合いの喧嘩なんてしてたんだ?」

生徒指導の教師は、軽い調子でそう言った。内藤が口を開いた。

「鈴木が加島に酷いこと言うから殴ったんです」

「そうなのか、鈴木?」

「そうかもしれないっす」

鈴木くんはにやにやしながらそう言った。

「じゃあお互いに謝って仲直りしろ」

教師に言われて、一瞬だけ睨み合うと二人はポーズなのだろうが謝り合って握手をした。それから鈴木くんは私にも謝った。そうして教室に戻された。二人ともむすっとして黙っていた。私はポケットティッシュを取り出すと、もう血は止まっているようだったが鈴木くんの鼻にそれをねじ込んであげた。

 

放課後に内藤が別のクラスからうちの教室にやってくると、鈴木くんが近寄ってきて、私達に言った。

「仲直りってことで家に来ない? 美味しい食べ物と美味しいお酒を振る舞うよ」

「加島が行くならオレも行く。どうする?」

「行くよ」

私がお誘いに頷くと私達三人は学校から出て電車に乗った。前に少しだけストーキングしたので予想はしていたが、鈴木くんにここだと言われて上野駅で電車を降りた。それから上野公園の蓮池の横を歩いた。太陽の光が降り注ぎ熱い中、蓮池の水は気持ち良さそうに風に水面を揺らせていた。

「歩くのが好きなんだ。加島さえ良ければそのうちもっと遠くの山か公園にでも行かないか?」

「機会があったらね」

誘われて嬉しかったが、私は照れ隠しにそう答えた。私と鈴木くんが話しているのを聞いて内藤が言った。

「鈴木は加島のことが好きだってわけじゃないんだろ? なら二人っきりでハイキングに行くのなんかオレは認めないからな」

鈴木くんはきょとんとした。

「内藤の気持ちの大きさには負けるかもしれないけど、俺も加島のことは少しだけ好きだよ」

鈴木くんが男の癖に甲高い声でそう言うと、内藤は少し黙った。上野公園を抜けてオフィスが立ち並ぶ街の中で鈴木くんは足を止めた。ビルに囲まれた場所にある年季が入った二階建ての壁が汚れている家だった。玄関の引き戸を解錠すると、「あがって」と言って鈴木くんは私達を中に上げた。入ってすぐの畳部屋に通されたのだが、そこでは頭が綺麗に白髪になっている細いおじいさんがテレビのゴルフ中継を観ていた。おじゃましますと言ったのだけれど無視された。

「そこにいるのは家のじいちゃん。気にしないでくつろいでくれよ」

私と内藤は黙って畳の上に座った。少しして私服の青いカラーシャツ姿になった鈴木くんがやってきた。お盆の上には缶チューハイが三つ載っている。「おかわりも沢山あるからじゃんじゃん飲んでくれ」そう言って彼はローテーブルに缶を置くと畳の部屋の横の板の間の小さな台所に戻っていった。チューハイを飲んで、内藤とどうでもいいようなことを話していると、どろっとした物が入っているボールを持って鈴木くんが畳部屋に戻ってきた。それからまた台所に戻ってホットプレートも持ってくる。

「お好み焼き、嫌いじゃないだろ」

「うん」

そうして三人でお酒を飲みながらお好み焼きを焼いてつつくようにしてゆっくりと食べていった。ふんわりとした生地で魚介類がふんだんに使われていて美味しい。チューハイを二本飲んで、私は結構酔っ払ってしまった。内藤なんかは五本も飲んでべろべろになって、おじいさんがいるのにも関わらず、カッターシャツを脱いで上半身裸になっていた。

「加島あ、オレはお前が好きなんだよお」

そんなことを言って酒臭い息を吐きながら私の肩に腕を回して内藤は絡んでくる。ちょっとウザいので手の甲をつねってやった。内藤のアタックを受け入れないあたり、私はきっと鈴木くんに惚れているのだろう。

「鈴木くんの両親は何してるの?」

彼は酒を飲み慣れているようで、顔にも出ていないし水のように何杯も飲んでいたのに、喋り方も態度もまるで酔っ払っていない感じだ。

「二人とも他界してるよ。だからじいちゃんに面倒見てもらってる」

「へんなこと聞いてごめんね、でも家も父さんが亡くなっていて母子家庭だよ」

内藤は酔いつぶれてかくんかくんと船を漕いでいた。

「苦労することはあるのか?」

「ないよ、あったとしてもわからない。もうずっと前に亡くなっているから」

「そんなもんだよな。俺のところもそうだよ」

夜の八時を超えると、まだテレビを観ていたおじいさんが言った。

「そろそろ帰らないとお家の人が心配してるよ」

「はい、今帰ります。内藤、立って」

「じゃあな。またこいよ」

内藤を引っ張りながら、街の中を歩いて上野駅へと入っていった。内藤とは家の方向が違うので改札口で私達は別れた。

独りになると急にまた鈴木くんの顔が見たくなってきた。きっと私は恋をしている。人波に逆らって歩いて行く。駅員に言って改札口を逆にくぐると夜の街を独りで歩いて鈴木くんの家まで戻っていた。玄関でチャイムを押すと彼が出た。

「どうした」

「もう少し一緒にいたいと思って」

「夜はじいちゃんがうるさいから、俺の部屋で話そう」

そうして狭い階段を上り、鈴木くんの部屋に私は入った。大きなパソコンが載っている机と箪笥とベッドとテレビとゲーム機が狭い空間に詰め込まれていた。

「加島はもっと飲める口か? だったら焼酎持ってくるけど」

「ううん、そんなに強くないし、これ以上酔っ払いたくないよ」

「そう? じゃあ俺も飲むの止めておくかな」

それだけ話すと、お互いに沈黙が舞い降りてきた。ベッドに隣同士に座ってすぐ近くに居るのに、その距離は絶望的なまでに遠かった。私は鈴木くんのことを驚くほど知らない。鈴木くんは両手で包み込むように私の肩に触れると、ブラウスのリボンタイを脱がそうとしてきた。

「溜まってるの?」

「ちがうよ。気持ちいいことがしたいだけ」

「別にいいけど女の身体にがっつく男ってかっこ悪いよ」

「うるせえ、黙れ」

私の目のすぐ前で鈴木くんはカッターナイフからチキチキと刃を出した。その程度には信用しているので大して怖くはないが、一瞬私は黙ってしまう。

「普通のセックスなら別にどうでもいいよ、とくにゴムなんか付けるくらいならオナニーの方が気持ちいいし。身体を刻み合うパートナーが出来て俺は喜んでるんだ」

「ふうん、私から切らせて」

「いいよ」

上を脱いだ鈴木くんの背中に私は噛みついた。思い切り噛むと痛いと思って軽く噛んだのに、彼は、「もっと強く噛め」と私に命令した。だから肉がちぎれるほど私は噛んだ。その後で死んでしまうほど切らないように注意しながら既に傷だらけの彼の背中を大きなX字ができるように切った。血がぽつぽつと背中に浮き出てくる。前を覗き込むと鈴木くんのペニスは勃起しているようだった。

「もう終わりか。もっと切れよ。なんなら殺してくれてもいい」

「そんなこと言ったって私殺人犯にはなりたくないよ。ていうかこれってSM?」

「それは違うな。俺もお前も、本質的には自傷行為をしているだけだ。交差する自傷行為だ」

「理屈はどうでもいいよ。もう我慢できない。そろそろ私の背中も切って」

「わかった」

遠慮なく鈴木くんは私の背中を切り裂いた、まるで身体から魂を裂くみたいに。もう前回の傷があるため、最初に切ってもらったときより遙かに痛かった。だが涙が出てきて、下のおじいさんまで聞こえないように押し殺した声で悲鳴を上げて、それでも気持ちが良かった。これがこの世で一番気持ちがいいことなのかもしれないと私は思った。そうして気づくと私達は真っ裸になってセックスをした。快楽に痛みまで加わって普通のより深味があるセックスに思えた。それが終わると、もう格好も構わないでお風呂に一緒に入って二人の背中から痛みと一緒に滴る血が湯船を少し赤く染めた。その後で自販機でジュースを買ってきてお互いの背中を消毒しながら、それで焼酎を割って沢山飲んだ。鈴木くんの腕の中で目覚めた翌朝、頭ががんがんするので学校はサボった。鈴木くんはこれ以上私と一緒に居たくないらしく、早く家に帰れよ、と言った。

 

背中に傷が出来たのでしばらくは援助交際できなかった。鈴木くんに切ってもらっているとも知らないで、内藤は一万五千円で傷だらけの私の身体を何度も抱いていった。だがお互いに背中を切り合う仲で心が通じ合っているように思える鈴木くんを家に上げるのは抵抗がなかったが、健康的な内藤にはどこか遠さを感じて外や、一方的に彼の家で抱かれるだけだった。

たまに鈴木くんの家や私の家で、身体を切って切られて、毎週のように一万五千円貰って内藤にやらせてあげて、傷だらけの身体で前と同じように援交するようになった。こんな身体じゃ二度と買ってくれないだろうと思うが、箪笥貯金の金額はいつの間にか八十万円を超えていた。

ホテルでゴムの中に精子を出すと内藤が言った。

「オレ、高校辞めて働くから十八になったら結婚しないか?」

「内藤となんか嫌だよ」

かといって鈴木くんならいいのかと言えばそれもよくわからなかった。

「そう言うと思ってた。なら毎月給料のほとんどをお前にやるから、オレ以外とやるのは止めてくれないか」

内藤の一方通行の愛情に私は段々と腹が立ってきた。

「私の身体も心も自分の物だよ。束縛なんかされたくない」

「そうか、わかった」

その日、家に帰ってくると元は母さんの物だった煙草をまた吸った。煙を吸って落ち着くように人間の脳は出来ているのだから、神様は意地悪なのか、またはエキセントリックな馬鹿だ。

教壇の前に立って担任教師が連絡事項を教室の中の生徒達に伝えている。それが終わると教室の中が閑散としていく。ホームルームが終わる前からドアの前に立っていた内藤が中に入ってきて鈴木くんのところまで歩いて行くと、彼の胸ぐらを掴んだ。内藤は怒りといろいろな鬱憤が混じり合ったような顔をしていた。

「ボコってやるからちょっと来いよ」

「は? 内藤何やってるの?」

「加島はこいつのことが好きだからオレと一緒になれないんだろ。オレと加島の仲を邪魔する奴だからボコボコにして学校来れないようにする」

鈴木くんはとてもおかしそうに笑った。その目はすべてを呪うような屈折した目だった。化学物質を煮詰めたようなねばっとした目だった。

「今度こそ俺を殺してくれるのか? 一思いにやってくれよ」

「てめえ舐めてるだろ。本当に殺すぞ」

絵里が教室を出て行ったばかりの教師を呼んできてくれたらしく、内藤は言い訳もしないで床に唾を吐いて教室を出て行った。担任教師に事情を聞かれて鈴木くんは、「あいつは俺のこと気に入らないらしいっす。それだけですよ、よくあることでしょう」と言って教室を出て行った。残された私は絵里と一緒に帰っていった。

家に着いて私は内藤にメールした。

『今度鈴木くんに暴力振おうとしたら一生口きかないから』

『悪い……もうあんなことしないよ』

 

私は一応料理はできるので、キッチンの上の戸棚から重箱を取り出して、それの中いっぱいに弁当を作った。正直冷凍食品も入れたが、そんなことはご愛敬だ。土曜日。鈴木くんを誘って二人で電車を乗り継いで千葉県の大型公園までピクニックに出かけた。

緑が目に優しい森の中を二人で歩いた。手を繋げないで残念だけれど、鈴木くんは重箱を包んだ風呂敷を持ってくれた。おかげで私の荷物はお尻まで下がっているフェイクレザーのリュックだけだった。まだ外は暑いのに、木々が光を遮って森の中は薄暗くなんだかひんやりしているように感じられた。とても神秘的だ。そうして私の隣には神秘的というほど人間離れはしていないが、謎が多い男の子がいた。メールでピクニックに行きたいと言うと、二つ返事でいいよと言ってくれた鈴木くんだったが、何を考えているのかは私にはわからない。少しは私のことが好きだとこの間言っていたが、嘘かもしれない。鈴木くんは時折とても怖い目をするし、私にも冷たくなるときがある。本当は飽きたらポイのセックスフレンドくらいにしか思っていないのかもしれない。背中を切ったり切られたりするセックスフレンドはきっと日本にはあまりいないだろう。そんなことを許す女はさすがに少ないと思うので私と鈴木くんの関係は安泰なのかもしれない。公園の森の中のような道をそれなりの時間歩くと、芝生が敷き詰められている広場に出た。急激に空からの日差しが熱くなる。キャッチボールをしている親子や、フリスビーで遊んでいる私達よりは歳上のカップルを尻目に、木で日陰になっている場所に、レジャーシートを敷いて、重箱の包みを解いた。一段目はおむすび軍団、二段目は筑前煮やかまぼこやカボチャの煮付けの和食軍団、三段目は揚げ物などの冷凍食品軍団だ。リュックの中から割り箸を取りだして彼に渡すと、いただきますとだけ言ってすごい勢いで食べ始めた。私もちょぼちょぼと食べるのだが、鈴木くんの食べるペースはとても早い。

「そんなに食べて大丈夫なの? 元から残すことを視野に入れて作ってきたんだけど」

「残すなんてバチが当たる。俺、わりと痩せの大食いだし、これくらいは食べれるよ」

「そうなんだ」

魔法瓶を取り出して、冷たい麦茶を蓋に注いで渡した。彼は一気に飲み干して蓋を私に突き返した。私もその蓋で麦茶を飲んだのだが氷も入れてきたからまだ温くなってなくてとても冷たかった。鈴木くんは二十分くらいで全部で十個以上作ってきておむすびと大量のおかずを殆ど一人でお腹の中に収めてそうしてばたっと倒れるようにレジャーシートに横になった。

「膝枕して」

「いいよ」

彼の頭を膝の上に乗せ、子供のように細い髪を私は撫でた。

「腹がいっぱいなせいか、今この瞬間だけは幸せだ」

「ずっとこんな柔らかな気持ちでいられたら私だって幸せだよ」

鈴木くんは目を閉じている。

「俺はお前のこと幸せにできるのかな」

「さあ、わからないよ」

「そうだよな、わからないよな」

それから食休みをして、公園の中の美術館に二人で入っていった。空になった重箱も鈴木くんが持ってくれた。その街の歴史的資料が展示されている美術館だった。クーラーが効いていて涼しいのはいいが展示物に興味はなかった。公園に最寄りの駅の歴史が写真と文章で展示してある。今の時代が最高だとは思わないが、昭和の古い車やファッションセンスは私の好みとはかけ離れていた。鈴木くんは違うようで、無言で展示物を見つめている。

「今より昔の方が生きやすいと思わないか?」

「昭和とかその辺の時代?」

「ああ、戦時中は最高だ。国民全体が一丸となって同じ目標に邁進してた時代だからな。今は一丸どころか誰もが孤立している」

「でも今の方が豊かだし、食事にも困らないよ」

「そんなのは些事だ。神様のことだけじゃない、生きるのには何らかの宗教が必要なんだ。俺にもお前にも宗教なんてないだろ」

鈴木くんが宗教と呼んでいるのは、生きていくための目標のことだろうか。

「私はあるよ。ずっとあなたと一緒にいたい」

「俺もそう思うときもあるよ」

「思わないときもあるの?」

「ああ」

「ふうん、この正直者」

それから私達は美術館で充分に涼んでから、電車に乗って宗教を持たない人が多い東京へと帰っていった。

 

次の週、学校が始まって、帰りのホームルームも含め、その日の授業が終わると、鈴木くんに誘われて私達は電車に乗って飯田橋までやってきた。何かプレゼントでも買ってくれるのかと思っていると、少し歩いて、ショーウインドウにロボット? や、美少女フィギュア? が飾ってあるお店の前で鈴木くんは足を止めた。「ここ」と言って中に入ろうとするのだが、私が動かないので、鈴木くんは手を握ると引っ張るようにお店の中に私を入れた。

「ここ、なに?」

「模型屋、またはプラモデル屋」

よく知らないが、模型とは小さなレプリカの飛行機や戦車を作る趣味のことだろうか。

「女の子のフィギュアとか好きなの? アキバ系ってこと?」

「違うよ、ガンプラだよ。アキバ系の趣味だというのは否定しないよ」

「ガンプラ?」

「ガンダムのプラモデル。ガンダムというのは人が乗って宇宙や地上で戦争するロボット」

「なんで模型屋なんかに私と来たの?」

「俺のそういうあまりかっこよくない所も知って欲しかったからだよ」

「別におたくでもいいよ。チャラ男よりはいい」

三十分ほど箱の山を眺めてから、鈴木くんは一つのガンプラを購入した。私は帰ろうとするのだが鈴木くんが来いと言うので上野の家まで行って、彼が机の前に座ってガンプラを作るのを眺めていた。なんとなくお母さんになったかのような温かな気持ちがした。さすがに身体を切り刻むのとは違うカッターナイフとごつい鋏のような物を使って、鈴木くんは静かにガンプラを組み立てている。パチンパチンと音が鳴る。爪切りの音に似ていた。一時間もしないうちに決して自分からは動かないロボットが完成した。それを二人でしばらく眺めると、鈴木くんは箱の中にしまって、それを押し入れの中に入れた。ちらっと見えたがぎっしりと隙間がないくらいガンプラの箱が押し入れには詰まっているようだった。

「本当は色塗ったりつなぎ目消したりしたいんだけど、そこまでやると大がかりで学校とか行きたくなくなっちゃうから」

「ふうん、そうなんだ」

また別の日、鈴木くんが誘うので、二人で二十三区内にある温水プールまで出かけた。人が他にあまりいないそこで鈴木くんは二十五メートルのプールを何度も往復していた。入れ墨ほど派手なものではないがほんのり見える背中の傷も気にしないで折角黒のビキニなんて着てきたのにぜんぜん構ってくれないので私はふてくされてしまった。予想していたことだが知らないおじさんやおばさんが私や鈴木くんの背中や手首の傷をじろじろと見るのも気分が悪かった。プールの休憩時間にサウナのような暖かい部屋に二人で行ったのだが、私は無言を貫いた。

「怒ってる?」

「別に」

「なんで怒ってるの?」

「怒ってないって」

鈴木くんは横から顔を覗き込むようにして私にキスをした。部屋には私達以外の人もいるのに。恥ずかしくて照れてしまって、私は無言で鈴木くんの身体をポカポカと叩いた。

「カラオケでも行くか。酒も飲めるし」

私にとってホームグラウンドの池袋に行ってカラオケボックスに入った。私は普通に西野カナやAKBやらを歌っていたのだが、鈴木くんは、昔のアニメの曲やインターネット上のニコニコ動画というサイトで流行ったボカロ曲なんかも歌った。正直、キモいと思う曲や歌詞もあったけど、普通とは違ったカラオケでとても楽しかった。

お酒を飲みながら二人きりのカラオケボックスで私達はまた何度もキスをした。

 

家で寒気を感じて体温を測ると熱が三十八度五分もあって、ここのところ私にしては全然休んでなかったのに即座に学校を欠席することにした。たぶん背中に傷があるのにプールになんて入ったからばい菌が身体の中に入って熱が出たのだと思う。適当な市販の風邪薬を飲んで暖かくして眠っていたのだけれど、お昼前に鈴木くんからメールが入った。『学校来てないけどどうかしたか?』とメールには書かれていた。私は『鈴木くんがプールになんて誘うから、背中からばい菌が入って熱が出た』とメールを返した。『今から行く』と彼はメールで私に宣言して、それから一時間もしない内に、私以外誰もいない家のチャイムが鳴った。重い身体を引きずって私は玄関のドアを開けた。制服姿の彼が鞄とレジ袋を持って立っていた。

「お土産と前に風邪引いたときに貰った抗生物質も家から持ってきた。三回分あるから、飲んでくれ」

「え、大丈夫なの」

「それくらい信用してくれよ。俺は加島をころすために派遣されたヒットマンじゃないんだからさ」

「わかった」

鈴木くんを二階の部屋で待たすと、私は薬局の名前入りの白い紙袋から錠剤を取り出して、書かれている通り一錠水で嚥下した。そうして部屋に戻ると、彼は缶詰の白桃をプラスチックのフォークで刺して、缶ごと私に渡してきた。

「お土産。食べろ」

缶の中には半分に切られた白桃が五個くらいは入っていそうで、全部は食べられなさそうだった。

「全部は食べられないから器とフォークもう一つ持ってくるよ」

そう言って私はまた下に降りて戻ってきた。一つだけ白桃を食べると、ベッドで眠ろうとしている私の横で鈴木くんは、缶の中の白桃を全部平らげ、シロップまで缶に口をつけてごくごくと飲んでいた。

「持ってきてくれた薬はちゃんとなくなるまで飲むから、もう帰ったら? 来てくれたのは嬉しいけどうつしちゃったら悪いし」

「気にするな。今、家から持ってきた絵本を読んでやる。いろいろなメタファーが隠されていて大人が読んでも面白いよ。加島が眠ったら俺は帰る」

甲高い声で鈴木くんは絵本を読んだ。何かを暗喩しているような思わせぶりな台詞や情景描写で構成された物語だった。主人公の男の子が消えた女の子を捜して山の中に入ったところくらいで私は眠ってしまったようだった。疲れでも溜まっていたのか、起きると次の日の早朝になっていた。カーテンに隠された窓の周辺が紺色になっている。鈴木くんの姿はもうそこにはなかった。軽く寂しさを感じる。体温を計るともう平熱近くまで熱は下がっていたが、水道がある階下まで降りて念のために貰った薬をまた飲んだ。部屋に戻ると、私が眠るまで彼が読んでくれていた絵本がテーブルの上に置かれていた。少しの時間で私は続きを読んだ。男の子は無事女の子と二人で山から下りることができたらしくハッピーエンドなようだった。

その日は貰った薬の最後の一錠を持って学校に行った。鈴木くんに絵本を返して、お礼の品ということでもうデータをスマホにコピーしてある古いCDを彼にあげた。

 

ある夜、彼はメールで私に交換日記をやらないかと誘ってきた。交換日記と言ってもノートや紙に書く物ではなく、ネット上のブログサービスにパスワードをかけて、私と鈴木くんしか見られない場所でお互いに日記にコメントし合うというものだった。何故ミクシーやツイッターを使わないのかよくわからなかったが、私と鈴木くんの交換日記は始まった。

『キミは俺の宝箱さ、綺麗で楽しい物をどんどん箱から出してくれる。

キミのことをもっと知りたい。俺のことをもっと知って欲しい。だけれどキミはもてるからきっと俺には束縛しきれない。

キミと一緒なら俺は空も飛べるはず。

暗い闇を切り裂いて、天国にも行けるよね。

北極からオーストラリアまで俺達は二人で海に沈み込む。

墜ちたり飛んだり俺たち二人は忙しい。

二人は永遠、少なくとも永遠に一緒にいたいとは思う。

その気持ちは永遠だ。

キミが去ってしまってもその永遠は否定できない。

愛してるよ』

自分で日記と言った癖して、交換日記の第一号で、鈴木くんはポエムを綴っていた。それらしいことを並べているが何を言いたいのかよくわからなかった。でも私への好意を綴ったような詩なので、嬉しくないと言ったら嘘になる。

『なにそれw 意味わからないんですけどw』

なんて照れ隠しにコメントして、私もスマホで自分の日記を書いていった。

 

残暑が終わり紅葉も終わりもう暦の上では冬になっていた。ある夜、鈴木くんのブログは更新されていた。いつものような痛々しい詩ではなかった。中学の頃の彼女が自殺して、それ以来鈴木くんは自傷行為を止められなくなったと書いてあった。日記には今夜、そっちに行っていい? と書かれていたので、私はいいよ、と了承した。雨の降る夜、ジャンパーを着た鈴木くんが身体を濡らして家にやってきた。母さんはまだ帰ってきていない。また前のように一緒に風呂に入って、それから部屋で背中を切り合った。鈴木くんの背中は無数の傷跡がある以外は綺麗なものでとてもすべすべとしていた。すぐに血が止まるように薄く背中を切るのだが、一瞬だけカッターで首を切ったり心臓を刺したりしたくなってくる。鈴木くんを永遠に私の物にするにはそうするしかなかった、そんな妄想をしてやばいやばいと思い、今度は鈴木くんに私の背中を切ってもらった。スーっと刃が背中を通るとき息が止まる。この瞬間が堪らないのだ。一通りお互いを傷つけるとお互いの背中を消毒してセックスして私達は服を着た。鈴木くんのセックスはとても心がこもっていて毎日でもしたいセックスだった。自分の本にプラトニックセックスというタイトルをつけた芸能人を何故か思い出した。

「加島はなんで手首を切るんだ? なんであの日、俺に背中を切ってくれって頼んだんだ?」

ベッドで肩を触れあわせて座っている鈴木くんがそう言った。

理由なんてなかった。ただなんとなく気持ちがよさそうだから頼んだのだ。そしてそれは本当に痛くて本当に気持ちが良かった。だから私は思った通りにそう答えた。

「お前は俺じゃなくちゃ嫌なのか?」

「うん」

わからなかったが、私は彼を悲しませたくなくてそう言った。

「いいや、違うね。俺とお前がこうやって話しているのはただの偶然で何者の意志も籠もっていない」

「だとしたらなんなの」

「虚しい」

「は? 意味わかんないし。そんなこと言ったってすべて偶然で運命なんてただの自意識過剰じゃん」

「それでも俺は、絶対とか永遠とか愛に憧れる。お前は俺を愛してくれないのか?」

彼は今にも泣き出しそうな顔で言う。私もきっともらい泣きしそうな顔をしている。

「好きだよ。その延長線上の感情を愛だと呼ぶのなら、たぶん私は鈴木くんのこと愛してるよ」

「帰るわ」

「家にある傘持っていっていいよ」

「いいや、遠慮しておく」

鈴木くんは冷たい雨が降る中、傘も差さずに帰って行った。

 

鈴木くんが消えた。交換日記も更新されないし、携帯電話はいつでも誰も出なかった。上野の彼の家まで訪ねたのだけれど、彼はそこにもいないらしく、おじいさんは何も話せないと言うだけだった。学校の教師にも聞いたのだがやはり何も教えてくれなかった。

 

内藤の猛攻が始まった。鈴木くんがいなくなって以来、家ではお酒しか飲んでいなくて、ごはんは食べていなかった。私の身体は前より痩せ細っていた。見かねた内藤はぜんぜん美味しくもない手作り弁当を作って学校まで持ってきて、毎日残さず食べるように私に命令した。残そうとすると、加島がメシも食べないで毎日酒ばかり飲んでますって担任に言っちゃうぞー、なんて嬉しそうに私を脅した。

内藤と二人きりで弁当を食べるのは嫌なので、いつも絵里と三人で近くの机と椅子を借りてお昼を食べていた。

「妬けるわね。もう付き合っちゃえば?」

「だろ、だろ、加島、オレと付き合おうぜ」

「絶対にやだよ」

絵里も内藤も私を気づかってか、いなくなった鈴木くんのことを話題に出すことはしなかった。

「直子は大学に進学する予定?」

「私としては嫌だけど、母さんはそうするように言うと思う」

亡くなった父さんも、現に会社で働いている母さんも、私の親だとは思えないほど高学歴だった。

「オレは行かない。加島がオレと結婚してくれるって言うなら、この高校だって辞めて働く覚悟がある」

ひゅう! と絵里が楽しそうに口から息を吐き出した。

「絶対に内藤とは結婚しないから、そんな覚悟いらないよ」

こうやって私が楽しく話している時、鈴木くんは何をしているのだろうか。もしかしたら背中を深く切りすぎて死んでしまったのかもしれない。彼が心配だった。そしてまた彼と身体を切りっこしたかった。

私は昼休みが終わるぎりぎりの時間まで内藤が作ってきた弁当を食べていた。

空は寒々とした空だった。鈴木くんがいないままクリスマスイヴになった。内藤が私と一緒に過ごしたいと言うので、絵里も一緒でいいのならということで私達三人は少し前に予約をして池袋のカラオケにやってきた。三人とも家から私服を持ってきていて、高校生に見られないように注意した。内藤や私がビールやカクテルを飲む横で、お堅い絵里はドリンクバーばかり飲んで、アルコールは一滴も飲まなかった。プレゼント交換もした。内藤が私に私が絵里に絵里が内藤にプレゼントを渡した。私が用意したプレゼントは安物のハンカチだった。内藤からのプレゼントをその場で開けると、スーパーで買えるような普通のチョコやクッキーが入っていた。いつも内藤からは搾り取っているのでプレゼントが若干しょぼいくらい別に怒りも湧いてこない。

三人は会話も少なく、好き勝手に歌を歌った。内藤はエグザイルなどのラブソングをたくさん歌った。歌っている途中で私と視線を合わせようとするので、その内藤光線を私は何度も避けた。酔いが回ってきて、私は歌も歌わないでぼんやりとしていた。鈴木くんはどこで何をしているのだろうか。もしかしたら私じゃない誰か女と一緒に過ごしているのかもしれない。架空の女には私は嫉妬した。あのとき嘘でも愛していると言えば、鈴木くんは私の目の前から消えなかったのだろうか。後悔がざくざくと私の胸を囓っていった。

内藤は痩せてしまった私を気づかってか、ピザやポテトやポップコーンやポッキーの詰め合わせを注文した。今日は絵里の分も含めて内藤がお金は払うことになっている。

誰も知らないアニメソングばかり歌っていた絵里が両手を頬に当てて言った。

「わたし、二人がキスするところ見たいなあ」

「は?」

「雰囲気に酔っちゃたみたいだわ」

「よし、するか」

隣に座った内藤が私に顔を寄せて目をつむった。酔っ払いながらもいらっとする顔だった。

「内藤と無料でキスするくらいなら絵里とする」

そう言って私は向かいに座った彼女の席まで移動すると、顔を寄せて舌で絵里の口の中を犯した。彼女は藻掻いて、ことが終わった後で涙目になった。

「初めてだったのに……」

「練習になってよかったね」

午後六時頃になると絵里は門限があるからと言って一人で帰っていった。べろべろに酔った私も帰りたかったが、内藤が離してくれなかった。

「この日だけは朝まで好きな人と一緒にいたい」

私の方を見ないで少し恥ずかしそうな声で内藤は言った。

「ここでオールする?」

「またオレの家に来て欲しい」

「一万五千円くれるの?」

「そんなに金ない」

「いいよ。サービスだからね。これが毎回だと思わないでね」

カラオケから出て混んでいる電車に乗って内藤の家まで行った。

鈴木くんもいないし近頃手首以外どこも切っていないので私の身体はわりと綺麗だった。痕になっているところは少しはあるのだろうが、血がにじんでいるところはどこにもなかった。

内藤はきつく私の身体を抱いて、ゴムの中に白い独占欲を放った。

 

高校が冬休みの中、絵里が家にきたので私は部屋に彼女を上げてインスタントコーヒーを淹れてきた。彼女の格好はパーカーにジーンズに黒のダウンジャケットというあまり構わないものだった。

「わたしは鈴木くんを待つより、内藤くんと恋人になった方がいいと思う」

「そんなことを言いにきたの?」

心配してくれているのはわかるが、私はまだ鈴木くんのことが忘れられそうになかった。彼に背中を切ってもらいたくて依然うずうずしていた。あの過激で苦痛が伴うとろけるような甘美な誘惑にまだ私は囚われていた。

「うん」

絵里は子供のようにふーふーとコーヒーに息を吹きかけながら飲んでいた。

「帰れとは言わないけどもっと面白い話がしたいなあ」

私は絵里がいるのにもかまわないで煙草を吸った。気をつかっているのか彼女はそんなに嫌そうな顔をしなかった。煙を吸って吐くだけで頭の中に快楽物質が生まれるのだから簡単なものだ。軽い煙草だし常喫ではないので、吸った直後さえ我慢できればその後吸わなくてもそんなにいらいらすることはない。

「真面目な話なの。わたし、内藤くんのことが好きになっちゃった」

絵里は両手を頬にやった。真面目な話をしている人間がそんなふざけた仕草をするか。

「嘘でしょ。絵里があんな脳みそが筋肉で出来てる奴好きになるわけないじゃん」

「うん、嘘だけど。失踪する前から鈴木くんの危険な雰囲気がわたしはちょっとだけ怖かったの。だから内藤くんと直子が一緒になってくれた方が安心するわ」

危険な雰囲気……こういってはなんだが、鈴木くんは私にもあるのかもしれない母性本能らしきものを結構刺激される男の子だった。最初こそとてもどきどきしたが、慣れてくれば怖くないしかわいいくらいだ。

「鈴木くんはふつうの男子だよ。ちょっと普通より魅力的なだけ」

「セックスも上手いし?」

「そうだね……内藤の千倍は上手いよ」

言ってやると絵里は少しだけ笑った。

その後、二人で近所のラーメン屋に行った。ラーメンを食べ終わると絵里はそのまま帰って行った。

家に帰ってくると母さんが帰ってきていてリビングで缶ビールを飲みながらテレビを観ていた。まだ三十代なのでそこまで老けていない私の母だ。ミネラルウォーターを飲もうとキッチンに入ると母さんは楽しそうに言った。

「お母さん、彼氏と喧嘩してしまいました。今日はセックスはなしでーす」

「は? 馬鹿じゃないの。親の言うことなの」

リビングから伸びるキッチンまでは少し距離があるので、大声で私は言った。

「だって本当のことだもん。今日は直子に言いたいことがあるの」

「何?」

「リストカットは止めなさい。言わないけどお母さん結構心配してるんだよ」

背中も細かい傷だらけだと知ったら母さんはどう思うのだろうか。

「できるだけ早く辞めるようにするよ」

「お母さん今日はたくさんお酒を買ってきました。一緒に飲も?」

「親と一緒に飲むのなんて嫌だよ」

私はそう言って部屋へと引っ込んでいった。

 

年が明けて今日は元旦だ。家のおせちを作るのは中学校の頃から私の役目だった。仕事が休みで家にいる母さんのために前にピクニックにも持って行った重箱にそれを作ると、内藤と待ち合わせて都内のこじんまりとした神社まで初詣に出かけた。振袖なんか着ないでいつものギャル系の服を私は着ていた。本当は絵里もくるはずだったのだが、昨日キャンセルのメールが入ってきた。困る。私は今でも鈴木くんが好きなのだから、内藤から金は取るが期待はさせたくない。

赤く威厳に満ちた鳥居をくぐり賽銭箱の前に列を作って少しの時間並ぶ。鈴木くんが早く見つかるようにと願い事をするために五円玉もちゃんと持ってきた。私達の番がくると、内藤は私に譲ることなく、先に十円玉を投げると上の鈴から伸びる太い紐を振った。そして手をパンパンと二度叩き、彼は怒鳴った。

「今年こそは加島がオレの女になりますように!」

周りの他人達が私の名字を知っている筈はないが私は恥ずかしくて顔を上げられなかった。その後で悲しみが襲ってきた。私が待っていてあげなかったら誰が消えてしまった鈴木くんを待つのだろう。私は五円玉を投げると鈴も鳴らさないで賽銭箱の前から外れた。

帰り道で私は内藤に言った。

「ごめん、私やっぱり鈴木くんのことが好きみたい。もう会えない」

そう言って私は内藤の前から走り去った。そうして携帯電話も内藤の番号は着信拒否にした。

 

冬休みが終わっても私は学校へも行かず、毎日お酒ばかり飲んで、暇になれば援交して、たまに手首や太股をカッターナイフで切っていた。鈴木くんがいなくなった以外は別に悲しいことなんてないし死にたいなんて思わないけど、身体を切り刻むとどういうわけか精神が安定して、いろいろと安心することができた。鈴木くんと二人で切り合えば待っているのは快楽だが、独りで切ると感じるのは安心だった。

私はなんで今まで生きてきたのだろう。生まれてから今まで生きる意味なんて感じたことがない。鈴木くんと身体を切り合うときだけ、世界が悪意に満ちたそれでもすばらしいものに思えた。そんなに長い付き合いではないが自分の半身を失ったような感触がした。彼がいなくなると以前にも増してどこへも行けないような閉塞感を覚えるようになった。だから私は酒に逃避するのだ。鈴木くんがいなくなったネット上の交換日記に私は彼みたいに、そして彼よりは常識的な詩を書いた。

『会いたい

あなたはどこへ行ったの

私に見つけることはできない

一緒に行ったプールや公園、プラモデル屋だって忘れられない

あなたの匂い、あなたの声、あなたの感触

沢山身体に染みついているよ

傷つけ合った身体をもっと傷つけてもいいよ

そんなことを思うのはあなただけ

どうして消えたの? 私のこと嫌いになったの?

私は好きだよ、まだ大好きだよ

愛じゃないかもしれないけど、それは嘘じゃないよ

早く帰ってきて』

お互いにもう長い間、更新していないブログに私はそんな文章を打ち込んで更新した。いわゆる痛い詩なのに、驚くほど恥ずかしくなく、言いたいことが言えてなんだか頭の中がクリアになった気がした。

ある日の朝、内藤が家まで迎えに来た。私が玄関から出てくると彼は片腕を上げて、よう、などと言った。

「なんで家知ってるの?」

玄関で制服姿の内藤にそう言ってやると彼はばつが悪そうな顔をした。

「絵里ちゃんに頼んで教えてもらったんだよ」

私には絵里しか友達がいない。心配した彼女が内藤に住所を教えたのだろう。別にそれを責めようとは思わなかった。

「これから学校がある日は毎日迎えに行くから。このままじゃお前高校卒業できないぞ」

「別にいい。中退しようか悩んでたところだし」

「絶対にダメだ。取りあえず迎えに来るから気が向いたときだけでも一緒に学校に行こう」

「やだよ気持ち悪い……内藤はまた私とやりたいだけでしょ」

一瞬だけ怖い顔をして内藤は腕を振りかぶった。そしてぱちっと優しく私の頬を叩いた。

「そう思ってくれてもいいから。オレはお前と一緒にいたいんだ」

「制服に着替えてくる」

高校まで行って下駄箱で別れて、昼休みになると私の教室まで内藤はきた。また内藤は手作り弁当を二つ持ってきて絵里と三人で昼食を食べた。この間の母さんもそうだが、私のことを心配してくれている人間がまだこんなにいるのかと思うと涙が出てくるほど嬉しかった。

内藤は眠そうな顔をしているときもあったが毎日私を朝迎えにきてくれた。最近は援交もしていないしリピーター客から連絡がきても断っていたし、依然鈴木くんはいないしで寂しかった。母さんは相変わらずとなりの部屋で会社の恋人とやっているし、世界中でセックスしていないのは私だけなのではないかと思うくらいだ。内藤の気持ちを裏切りたくなくて、背中どころか手首の一つも私は切らなくなった。手首の傷は仕方ないが、手鏡を持って姿見に背中を向けると、私の背中は殆ど綺麗に元通りになっていた。

背中の傷が消えたことも彼以外の男を部屋に入れることも裏切り行為のように思えたが、どうしようもなく寂しかったので内藤を部屋に招いて、薄暗い中、二人で身体を触りあって弱いところ擦り合わせた。内藤は二度ミルクに似たものを出した。それが終わって二人でベッドの上に裸で寝ていると「もう加島はオレの女なのか?」と内藤が聞いてきた。私は答えなかったが、まだ鈴木くんのことを忘れられそうになかった。

 

またしばらくの時が経った。豆で鬼を退治する日もとっくに過ぎ去って、もう寒かった二月も終わりそうになっていた。授業中に公衆電話からスマホに着信があった。うちの学校では授業中携帯をマナーモードにしない生徒も多いので、私も普通に電話を取りながら授業中だけれど、教室から廊下に出た。

「もしもし?」

そう言うと息を飲むときの音が聞えてきた。相手はまだ沈黙している。

「イタズラ電話なら切りますよー」

私が言い終わる前に電話口の誰かは喉を振わせた。

「俺のこと覚えているか?」

その声を、聞いた瞬間思わず鳥肌が立った。確信を持って彼だとわかる。次の瞬間、私はスマホに向かって叫んでいた。

「どこで何してるの!」

電話口の誰かの甲高い声は明らかに三ヶ月ぶりに私に接触してきた鈴木くんの声だった。私の目からは我慢していたものが溢れたかのように涙がぼろぼろと出てきた。鈴木くんはまた少しの間沈黙した。

「そのことで話がしたいから、俺が今から言う住所にきてくれないか」

「行くよ、どこにだって行くに決まってるよ」

私はスマホを耳に当てたまま教室に戻って、どうせ使わない数学のノートとボールペンを取ってまた廊下に戻ってきた。

鈴木くんが言った住所は千葉県のもので最後に彼は「北村精神医療センター」と言った。それを聞いた瞬間、へんな汗を額に掻いた気がした。電話が終わる。教室に戻って鞄を取ってくると私は一人で学校を出た。千葉県への下り方向の電車に乗って、鈴木くんが指定した駅に着くまでの間に様々なことを考えた。

鈴木くんは無事なのだろうか。何かが切っ掛けで発狂してしまったのか。悪いドラッグに手を出したりアルコール中毒にでもなってしまったのか。私達はまたお互いに背中を切り合う仲に戻れるのだろうが。ふと内藤の顔が浮かんだがすぐ消え去っていった。私はまだ鈴木くんのことが好きなようだった。彼の厚めの唇にまた身体をついばんで欲しかった。そうして目的の駅に着いてバスに乗って病院を目指した。十分ぐらいで着く。バスから降りると敷き詰められた草が枯れている広い庭があり、その奥に白い建物が広がっていた。入り口付近にある看板には北村精神医療センターと書かれている。予想外に大きな病院で驚いた。ここだ。中に入って受け付けの女の人に私は話しかけた。

これでいいのかよくわからなかったが「鈴木修一さんの面会に来たんですけど」と私は言った。受付の白衣を着た中年の女の人は窓口から外れるとすぐに戻ってきた。

「面会室に案内します。どうぞ」

窓口から女の人は出てきた。リノリウムの床の院内を歩いて広い中庭に出た。そこから続く建物に入ると、いくつかの扉を女の人は解錠して、私は食堂のような場所へ通された。テーブルと椅子と自販機と硝子で仕切られた喫煙室があって五、六組くらいの家族なら狭いと思うことなく面会できるような部屋だった。

「今、連れてきますからお待ちください」

そう言われて私は一つのテーブルの前に座った。現在面会している家族達は一人も見られなかった。少しして男の看護師に押されながら車椅子に乗った鈴木くんがやってきた。両脹脛に黄緑色のギプスをしている。怪我をしていることに驚くより、悲しそうな顔をしていたが久しぶりに彼の顔が見られて、嬉しさと切なさで私は涙を流した。

「よかった……もう会えないと思ってた」

口から掠れた涙声が出てきた。彼も涙目になっている。看護師は私の向かいの椅子を避けると、鈴木くんを車椅子ごとそこに連れてきた。私の顔をしばらく見てから鈴木くんは視線を逸らした。

「下半身不随になった。加島のことを幸せにできないからもう俺のことは忘れてくれ」

「どういうこと?」

「あの雨の日、適当なビルの上から飛び降り自殺したんだよ俺。もう手術もして安定はしてるけど、足が動くことはもうない。また自殺されないようにじいちゃんにここに入れられてる。毎日安定剤ばかり飲まされて眠くなって食欲ばかり湧くよ」

鈴木くんはそこで初めて笑った。自虐的な笑みだった。

「私のせいなの?」

「それは違う……少なくとも違うと思う」

私は目の前の男の子に言いたいことがあった。これまで私と一緒にいてくれた内藤の顔がまた頭の中を過ぎったが、言いたい言葉はすぐに出てきた。

「私まだ、鈴木くんのことが好きだから。足なんて動かないでもいいから」

鈴木くんの目が涙で潤んだ。それを隠すように彼はテーブルの上に顔を乗せた。それでも隠しきれない嗚咽が面会室の中に響いた。

「……本当に俺でいいのか、俺なんかでいいのか?」

私の涙もまだ止まっていない。これでは化粧が取れてしまう。だけれど良かった。感情を隠すよりは上等だ。

「あなたじゃなきゃダメなの」

それから二人とも泣き止むのを待ってから私達は様々なことを話した。久しぶりに聞く鈴木くんの声はとても自然に身体の中へ染み渡るように入ってきた。

午後五時になって名残惜しいが鈴木くんを残して病院を出た。その日のうちに母さんの携帯に電話をして、話があるからお酒を飲んでこないで一人で帰ってきてとメールで伝えた。

 

母さんは珍しく顔を赤くしないで、リビングの食事を食べるテーブルの上に丸い灰皿を置いて、煙草を吸っていた。禁煙ブームの世の中だが女の人が細い指に煙草を挟んでいるのを見て、欲情する人はいると思う。私は部屋に学校の鞄を置くと着替えもしないで母さんの元へと行った。私が座ると彼女は煙草を潰した。

「話って何?」

酔っ払っていればだらしないふうにしか見えない母さんだが、今は目の前の女性がとても有能そうなOLに見えた。

私は少し緊張しながらも深呼吸して言った。

「付き合ってる人が事故で下半身不随になったから、高校を辞めたい。不安定な時期だからずっと一緒にいてあげたいの」

母さんは無言で再び煙草を口にくわえると煙を吐き出した。ゆうに五分もかけて吸い終わると、「コーヒー飲む?」と私に言った。「あれば飲むけど」そう言うと、母さんは無言でコーヒーメーカーに粉になっているコーヒー豆をセットした。

コーヒーの香りがする湯気が天井を少しだけ白くする頃、母さんは静かに口を開いた。

「高校は辞めないでいいから、気が済むまで休学しなさい。彼が安定したら高校に復学しなさい」

冷徹なくらい真面目な顔と声で母さんは言った。職場でもこんな感じなのだろうか。

「でも私立校だし学費が……」

「お母さん、家だとだらしないけどエリートですから。そのくらいのお金はあります」

それを聞いて私の目から涙の雫が落ちた。

「……ありがとう」

「いいんだよ。あんたの人生なんだから。少なくとも成人するまでは私に迷惑かけなさい」

次の日、会社に事情を話して休みを取った母さんと一緒に高校に行って、休学の手続きを済ませた。手続きを済ませ、一度家に帰ってくると内藤にメールで事情を話した。『オレも鈴木が入っている病院まで面会に行く』彼はメールでそう言った。その日の内に、北村精神医療センターに最寄りの駅で内藤と待ち合わせをした。二月ももう終わるのに、少なくとも暖かくはない陽気で私はチェック柄のコートを着ていた。内藤はお土産にお菓子の包みを持参してきていた。私はそんな大事なことが頭からすっぽり抜けていたので、せめてもということで近くのコンビニでポテトチップスやチョコを買って持って行った。

また昨日と同じ面会室で鈴木くんと対面した。看護師さんが車椅子を押して、彼はやってきた。内藤の姿を見て、戸惑ったような表情をした彼だったが、すぐに苦く笑った。

「久しぶり。わざわざ嫌いな奴の面会にきてくれてありがとう」

「別に元から嫌いじゃねえよ。恋敵だっただけだ。饅頭食えよ」

鈴木くんは饅頭の包みを綺麗に剥がすと、箱から饅頭を一つ取り出して頬張った。加島と内藤もと言うので私達も一つずつ食べた。

「私が買ってきたのも食べて」

「部屋まで持って帰って同室の奴らと一緒に食べるよ。ただでさえ太っちまったからね。少しはダイエットを意識するよ」

そうは言っても鈴木くんは元がやせ細っているので、今でも太っているふうには見えなかった。

「学校は楽しいか?」

「楽しいわけねえだろ」

「あ、私、休学することになったから。毎日面会に来るよ」

内藤にはもう伝えてあるが、鈴木くんに言うのはこれが初めてだった。

「本当にそれでいいのか?」

彼はほんの少しだけ表情を悲しそうにした。

「いいんだよ、この世界に好きな異性以上に大切なことなんてないんだよ」

思うところがあるのか鈴木くんは黙った。内藤は隣で苦笑している。

「オレは鈴木に負けたんだな」

「勝ち負けの話じゃないでしょ」

「人生は戦争だからな。オレは一つの戦いに敗れたわけだ」

鈴木くんは黙っていた。視線は下がっている。内藤がははは、と口で言ったような感じで笑った。

「加島のことをよろしく頼む。大事にしてやってくれよ。オレは新しい彼女を見つける。二人とも幸せにな」

そう言って内藤は面会室から出て行った。私は思う。なんで男ってこうなんだろう。みんな格好つけないと死んでしまう病気か何かなのだろうか。

「何度も聞くとけど本当に俺でいいのか? もう普通に歩くこともできないんだぞ」

「いいんだよ。もうしないけど私だって援交してたような女だよ。身体より頭の中が不自由なカップルとしてお似合いだよ」

それから鈴木くんは病院の中のことを話した。常に全裸のおじさんやずっと独り言を言っている同年代の男子がいるらしい。まるで動物園だ、と言って鈴木くんは笑った。午後六時になって患者達の食事の時間になったので、私は一人で帰って行った。

午前中は家でだらだら過ごして、午後になると毎日鈴木くんの面会に行った。彼は甘い物とコーヒーに飢えているらしく、私は毎日スイーツと缶コーヒーを持って彼のお見舞いに行った。水筒にブラックのコーヒーを作ってくることもあって鈴木くんは両方好きらしいが私はどちらかと言えばブラックの方が好きだった。向精神薬の副作用で喉がすごく渇くらしく、一リットルの水筒なのに、面会室に入って十分もすると、中身は空になっていた。

「加島は俺から逃げなかったけど、これからどうなるんだろうな」

「なんとかなるよ。加島って相変わらず他人行儀だね。直子って呼んで。私も修一って呼ぶようにするから」

「な、直子……」

恥ずかしそうに彼は私の名前を呼んだ。

「修一」

「直子……」

「修一」

それから私達はお腹を抱えて笑った。彼に名前で呼ばれるのは精神的にとても気持ちよくて、同時に嬉しかった。

 

修一が入っている病院は精神科の閉鎖病棟だが、私が通うようになって一ヶ月も経つと半日の外出の許可が下りた。修一のおじいさんと二人で、病院まで迎えに行って、彼はどこにも行きたくないなんて言うので上野の家まで車椅子を押して帰ってきた。狭い玄関に畳んで車椅子を置き、おじいさんが修一を担いで部屋まで連れて行った。私も手伝いたかったが、おじいさんはお姫様のように修一を軽々と抱いてどんどん先に階段を上ってしまった。苦労すると思っていたので意外な光景だった。部屋で彼をベッドの上に下ろすとおじいさんが口を開いた。

「若い人たちだけで楽しみなさい。俺はいつも通り下でテレビでも観てるから」

そう言っておじいさんは部屋から出て行った。階段を下りる音が聞えてくる。修一がお酒を飲みたいと言うので、彼を一人にして一度コンビニまでそれを買いに出かけた。そうして帰ってくると酒盛りが始まった。前におじいさんがいる下の居間で内藤と三人で飲んだが怒られなかったのできっと大丈夫だ。

お酒が入って少し経つと修一は私の上半身に着ている服をすべて脱がせて、胸の乳首を子供のようにちゅうちゅうと吸った。私はどうしたの? と彼に聞いた。

「俺はなんてことをしてしまったんだ、大馬鹿野郎だ」

そう言われると私も悲しくなってきた。

「これからはきっと良いことしかないから。だから二人でがんばろうよ」

私達は抱擁し合った。背中も手首も切りたいとは思わなかった。修一はありがとうありがとう……と言いながら涙を流した。私も貰い泣きしてしまう。これから私達はどうなるのだろうか。どこへ行くのだろうか。幸せになれるのだろうか。わからなかった。何もわからない。ただ二人で居られればそれで良かった。

「直子お……大好きだあ」

「私だって好きだよ」

セックスではないが、何度もキスして首や耳や腕や胸やお互いの身体をたくさん舐め合った。外出終了の時刻が迫っていた。最後に舌を入れる長いキスをすると、ブレスケア用品で酒臭さを消してから修一を病院まで送り届けた。親族としてついてきたおじいさんは、何も言わなかった。そうして職員のカードキーがないと出ることも入ることもできない閉鎖病棟の入り口で、手を振って私達は別れた。

何度か半日の外出を繰り返すと、ついに外泊許可も下りた。いつもと同じように病院から車椅子を押しておじいさんと三人で上野の家へ帰ってくる。部屋で二人きりになってお酒が入ると、修一はまた泣いた。これからどうするんだ、どうするんだよ、と悔しそうに泣いた。自分の動かない脚を撲っていた。私もこれからどうなるかわからなかったが、空元気を出して言った。

「セックスしようよ。欲求不満だから悲しくなるんだよ」

「いいよ、感覚ないし、あそこに入れて射精できなかったら辛いし」

「なら二人でさわりっこしようか」

私は服をすべて脱ぎ去ると、彼も裸にした。この間太ったなんて言っていた癖して、以前と変わらないやせ細った枯れ枝のような身体だった。下半身不随なため普段から汚物が垂れ流しだ。それも剥ぎ取ると、今は出ていないようで安心した。乳首を吸って、彼のペニスを手で擦った。中々勃起しなかったし勃起してもまたすぐに萎えてしまうことを繰り返した。その間、私は私で指でされていたのだが、少しの時間で彼にいかされた。耳元で「今いっちゃったよ」と言うと、暗い顔をしていた彼が力なく頬笑んだ。彼を射精に導くことを諦めると私達は服を着て、添い寝した。

「愛してるよ」

「私も」

「愛してると言ってくれ」

「愛してるよ」

舌を入れないついばむようなキスをしながら私達は眠りについた。

 

それからも外泊を何度かして、もう大丈夫だと思っていたのに、唐突に修一が亡くなった。それを聞いたとき私は嘘だと思って泣かなかった。病院のベッドの柵にベルトを通して首を吊ったらしい。私と内藤はお葬式に呼ばれた。棺桶の窓からは確かに修一の顔が見えた。穏やかな死に顔に見えた。それでもすぐには修一の死が信じられないで涙は出なかった。棺桶の中の男の子が修一のドッペルゲンガーに見えた。葬儀にはおじいさんの他には数名しか弔問客がいなくて私達を含めて十名にも満たなかった。告別式でおじいさんが手紙を読んだのだが、本当に短く味気のないものだった。その後でタクシーで火葬場まで行って数時間待っていると、小さな骨になった彼とご対面することになった。本当に小さな骨で修一の面影はどこにもなかった。こうやって段々と人はこの世界から消滅していくのだ。そこで私は堪えていた物が涙となって溢れ出た。小さくなった骨を箸で掴めば、その場から立ち去ることができるのに、私はその場で膝をついて、修一……修一……と泣き喚いた。内藤が慌てたように、加島、しっかりしろ、と言い私を支えて火葬場から外へ出た。たまたま火葬場を出てすぐのところにあったベンチに座って涙が止まるのを待っていると、涙が止まる前に、おじいさんがやってきて、もう終わったよ、と言った。

「修一のためにありがとう。あとは家に骨を持って行くだけだから、君たちはもう帰っていいよ。修一からこれ」

そう言っておじいさんは便箋が入るくらいの何の変哲もない小さな茶封筒を私と内藤に渡した。

タクシーで最寄りの駅まで行き、帰りの電車に乗った。電車はこんな日でもいつもと同じようにがたごとと揺れていた。途中まで内藤と一緒だったのだが、私も彼も一言も話さなかった。

家に帰ってきて部屋で封筒を開くと、汚い字で短く書かれていた。

「直子のことは内藤に譲る。あいつは俺が認めた男だ。二人で幸せにな」

そんな言葉が遺書だとは思えないほど軽い調子で書かれていた。ナルシストで自分勝手で最後まで修一らしかった。その夜悲しくて気づくと涙が出てきてあまり眠れなかった。

修一、なんで死んだの。

 

学校も休学中だし、家で修一のことを思い出してたまに泣いて、たまに食べて、たまに生理がくる日々を過ごしていた。独りで手首を切って背中も切って、太股には幾重にもカッターナイフで出来た傷が走っている。

ある日、内藤が訪ねてきて、部屋に上げたくなかったので家の近所の小さな公園まで行って二人でベンチに座った。その公園では小さな男の子と女の子が遊んでいた。

もう五月だったので暖かかった。私は休学中の高校二年生で内藤は三年生になっていた。

「修一の遺書には内藤とよろしくやれって書いてあったよ」

「奇遇だな。オレの方にも加島と一緒になれって書いてあったよ。クールに別れの言葉をきめたばかりなのによ」

砂場で遊んでいる子供達の甲高い声がここまで聞えてくる。あそこまでではないが修一の声も甲高かったなあと思い出した。

「ふうん」

「オレ高校辞めるよ。将来のために働いて金貯める」

私はぼんやりと勿体ないなあと思った。

「私、内藤と結婚する気はないよ」

「いつか気が変わるかもしれないだろ」

私はハンドバッグから煙草と携帯灰皿を取り出して、一本くわえると火を点けた。母さんの軽い物ではない自分で選んだ煙草だった。

「タバコ始めたのか?」

「うん」

近頃は毎日一箱以上二箱未満吸っていた。

「辞めた方がいいぜ。いつか辞めないといけないんだし」

「なんで」

「いや、子供とか……」

「私、子供なんて産まないよ」

太陽の日差しが眩しい。こんな光が当たる世界で、修一に置き去りにされたような気がした。自惚れでなければ内藤は今でも私のことが好きだ。だが彼ではだめだった。煙草を口に挟んで吸って吐く。その瞬間だけは悲しみと退屈が和らいだが、後何年すれば修一のことを忘れられるのだろうか。

私は万年傷だらけの身体でまた援助交際するようになっていた。客の中には傷だらけの私の身体を見ると、金だけ半分置いて何もしないで帰っていく人もいた。高校を辞めてとび職になった内藤もたまに私の身体を買ってゴムの中に出した。

この日は初めての客と一緒にカラオケに行ってお酒を飲んで、ホテルでセックスをした。客は私の首を絞めた。

「お前、死にたいんだろ。俺が殺してやるよ」

ペニスを私のあそこにねじ込みながら客は私の首を絞めた。死が喉元までこみ上げてくる。私は手首をばたつかせた。しばらく藻掻くと客は笑いながら首から手を離した。

常連客だった中谷さんともまた会った。夜の街で二人でお酒を飲んでいた。

「直子ちゃん雰囲気変わったね。何かあった?」

「別に何も」

中谷さんはお客さまでしかない。自分のことを率先して話そうとは思わなかった。

「好きな人でもできた?」

それを聞いて私は大笑いした。

「好きな人は死にました」

「……冗談?」

「さあ?」

ビールとチューハイとウィスキーをちゃんぽんで飲んで、私は酔っ払っていた。気持ちがいいが煙草とお酒で寂しさを紛らわされるなんておやじみたいだった。

中谷さんは飲みながら会社の愚痴を話した。部下が陰口を叩いているのを聞いてしまったとか、女の社員にどこかへ行こうと誘うとやんわりと断られたとか、酔っ払っていることもあって平和で眠たい内容だった。

ホテルで裸になると、彼は私の身体を抱いたが、どこか顔が引きつっていた。

「これっきりにしよう。そんな傷だらけの身体をもう抱きたくない」

「そう、わかった」

「今までありがとうね」

「こちらこそありがとうございました」

朝になって自分のお金で電車に乗って家に帰ってきて、私はまた背中を切った。死にたいわけではないから深くは切らない。でもいくつかの傷はもう痕が消えないと思う。また鈴木くんに身体を切ってもらいたくて私は泣いた。下半身不随でも別に良かった。もっと二人で身体を切りっこしたかった。

慰められたくて泣きながら内藤に電話した。

「修一にまた会いたい」

「それは無理だよ。オレじゃダメか?」

「ぜんぜんダメだよ」

「あいつは死んだんだ。会えないよ」

「修一も内藤と一緒になれって言ってたけど、私、あんたとは一緒になれないよ」

「気が変わるまで待つから」

眠たい頭で切った所を消毒して私はベッドに入った。

ある日、学校が終わるくらいの時間に絵里がケーキを持って家にきた。部屋で待たせて、ケーキを皿に載せるとトレイで部屋まで持っていった。

「最近どう?」

「やることないから援交ばかりしてるよ」

「そうなんだ……直子がまだ高校通ってた頃そういうことをしてたのは知ってるけど……鈴木くん亡くなったんだってね」

「うん」

「内藤くんは学校辞めたね」

「うん」

「これからどうするの?」

「そんなのわからないよ」

絵里はすぐに帰って行った。

夜になると、めずらしく酔っ払っていない母さんに言われた。

「辛いのはわかるけど、少ししたら高校に戻りなさいよ」

母さんには散々世話になっているのにその言葉が許せなかった。

「母さんにはわからないよ」

そう言ってまだ中の入っているビールの缶を実の母親に投げつけて、私は部屋に戻った。

私はこれ以上ないくらい親不孝者だ。今更物を投げつけるくらい大したことではない。

 

翌日、内藤へ連絡を入れて家まで来てもらった。

彼をローテーブルの前に座らせて、私は傷だらけの裸になると、カッターナイフでさらに身体を切り刻んだ。もう修一もいないし、自傷行為を誰かに見てもらいたかったのだ。内藤の悲痛な表情が快感だった。刃が薄く肉に埋まる瞬間、息が止まる。そのまま動かすと痛くて涙が出てくる。模様が刻めるわけではないが自分で背中を切るのにももう慣れた。腕を背中に回して届く範囲で何度も背中を切り刻む。腕も手首も太股も私は切った。内藤は黙ってそれを見ていた。まさかと思っていたが内藤のパンツの股間が膨らんでいるように見えた。そんな内藤がかわいく感じて少し愛おしく思えた。だが私は健康的な男など嫌だった。

自傷行為を終え内藤が帰ってから大切なことに気づいた。私はどうかしていたのだろうか。以前やっていた交換日記のブログを死ぬ前の修一と再会して以来一度も確認していない。そこにスマホでアクセスしてパスワードを打ち込むと、沢山の私へ向けた愛の詩が綴られていた。すぐには読み終わらないで、何分もかけて十数編の詩を読んだ。最後になる詩の最後の行にはただ〝生きろ〟とだけ書かれていて、あなたはでも死んだじゃないと思い私は涙を流した。

さようなら。

コールタールの目をした私の初彼氏。

私はもう少し生きてみるよ。

今の今まで身体を傷つけるのに使っていたカッターや剃刀を全部、ガムテープでぐるぐる巻きにしてごみ箱に捨てた。

まだ割り切れないが、背中を切るのとは違う少しだけすっきりとしていて爽やかな感触を覚えた。

 

2017年10月6日公開

© 2017 瀧上ルーシー

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"切り裂かれた世界で"へのコメント 4

  • 投稿者 | 2017-10-06 17:37

    私は高校在籍時にリストカットや援助交際を経験しています。
    その視点から読みました。

    互いに身体を切り合ったり、結婚の話が出来たり、亡くなった時に声を絞り上げられたり、そう言った相手が居た直子はある観点でとても幸せだと思います。
    けれども、それが根本で自己のバランスを崩す可能性も孕んでしまうのも事実ですね。

    私は自分の事で精一杯だったからこそ、外面の行動は直子と似ていても、内面は孤独そのものでした。
    誰とも現実的な感覚を持って交流を出来ず、手首を切っていた時だけが自分の意識を繋ぎ止めていたものです。
    直子は周りに人が居たからこう言った外面になっただけで、内面では自分にも通じる虚しさを感じました。

    各自がそれぞれの生き方を選ぶのは、自己を保つ為のやむを得ない手段なのかな、と思います。

    • 投稿者 | 2017-10-06 17:51

      それなりの長さのあるものを読んで下さってありがとうございます。
      悲惨な話を書いたつもりはあまりないのですが、直子が幸せものだって見方もあるんですね……まあもててますしね(苦笑)
      直子の内面は、達観して乾いていて孤独な人間を目指して書いたと記憶しております。
      個人的には友達が例え1000人いても恋人や親友がいても孤独を100%はぬぐえないものだと思っています。
      手首を切った時の感じは昔の知り合いの話を思い出して書きました。その人は切ってるとき軽く混乱してるから痛くないと言っていました。

      著者
      • 投稿者 | 2017-10-06 18:01

        >友達が1000人居ても~
        その感覚は同じです!
        直子もきっと、そう言った意志を持った女の子だったのでは無いでしょうか。
        私は昔もそうですし、今でも変わらないです。
        これは個人の資質と言うよりは、人間そのものの性質だと言う気がしてなりません。

        自分で手首を切っている時は本当に痛くないのですよ。
        その知り合いの方は混乱していらっしゃったのですね・・・
        混乱と繋がりますが、私は怒りをぶつける対象が無かったので、それを自分にぶつけていました。
        だから、痛みを感じなかったのです。
        感じたとしても、自分で自分に当たっている訳ですから、嫌ではありませんでした。

        確かに、直子はもててますね・・・・
        本人にとっては少々迷惑なもて方でしょうけれどもw

        • 投稿者 | 2017-10-06 18:12

          >自分で手首を切っている時は本当に痛くないのですよ。
          痛くないのが多数派なのかな……
          何度も貴重なコメントを下さってありがとうございます。
          >本人にとっては少々迷惑なもて方でしょうけれどもw
          たぶんそうですねw

          著者
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