ジルコニア

応募作品

谷田七重

小説

7,928文字

道端に落ちているものから言葉を拾ってそれを小説に仕立て上げようとする哲司。その日も地面を見つめながら歩いていると、蟻の行列に遭遇する。――このごろ「感染」で何かと騒がしいですが、こんなささやかな「感染」はいかがでしょうか。2017年「破滅派10周年記念号」に寄稿したものです。

 なるほど、蟻にとって角砂糖というものはダイアモンドよりも価値があるに違いない。
 今日も地面ばかり見つめて歩いていた哲司は、蟻の行列に遭遇した。行列の元をたどると、誰が置いたのか、ひとかけらのチョコレートが熱い陽射しに溶けかかっていて、蟻たちが群がっていた。その糖分をどうやって運んでいるのかはわからないが、彼らは実直に列を乱さず巣に持ち帰っているのだった。哲司は想像した。きっと巣の中でチョコレートの糖分は精製され、白砂糖となり、それを固めて角砂糖にし、女王蟻に恭しく献上するのだ。
 大名行列に遭遇したわけでもないのに、と思いながら、しゃがみこんで頭を垂れていた哲司は立ち上がった。くらくらと眩暈がした。それでも、今日もまだあきらめられなかった。強く陽射しの照り付けるアスファルトの地面を見つめながら、また歩き出した。別に小銭を探しているとか、そんなけちな考えじゃない。言葉を探している。
「は? なに言ってんの」
 あのとき、澄子はぽかんと口を開けていた。それはそうだろう。共に将来を誓った男がいきなり仕事をやめてしまった挙句、小説を書こうと思う、などと言い出したのだから。
「なんで相談してくれなかったの? てか仕事までやめなくたっていいじゃん。なに考えてんの?」
 小説を書きながら仕事してたらデートの時間がなくなっちゃうよ、と訴える哲司に、澄子は首を振りながら非情にもばっさり言ったのだった。
「信じらんない。ちょっと考えさせて。距離を置こう。そのあいだにあなたも自分なりに考えてみて」
 ――自分なりに考えた結果、やはり小説を早く完成させなくては、と哲司は思った。それでこうして、毎日外を歩き回っては、地面に落ちている言葉を探している。それらをiPhoneのメモに記録し、うまく組み合わせれば、小説になると思っている。そうすれば澄子を納得させられると信じている。
 何を拾うかは、哲司のその日の気分にもよるだろう。今日だったら、蟻とかチョコレートとか、頭の中で想像した角砂糖だとか、そんなものかもしれない。プロットなんてない。誰かに伝えたいメッセージもない。かといって、文章の芸術性を重んじるつもりでもない。そもそも、まともに入れ込んで何らかの作品を読んだこともない。それなのにただ、何かを書かなくては、という焦燥に駆られて、哲司は今日もまた地面を見つめながらのろのろと歩いている。
 それにしても、と哲司は思うのだった。俺だってあの蟻たちみたいなものかもしれないぞ。来る日も来る日も外を歩き回り、地面に落ちている言葉を拾っては持ち帰る。ストックはだいぶ溜まってきた。さて、それをどうやって精製して組み立てればいいんだろう。ありんこ共は――哲司はもはや自分の妄想が現実であると疑いもしなかった――どういうからくりで角砂糖を作り上げているんだ? 女王蟻に献上する、きらきらと輝く角砂糖。
 まだ自分のものにしていない技術を、ありんこ風情がすでに会得しているのだ、という考えは、自身を苛立たせるのに充分だった。
 そうだ、俺も実直に言葉を拾い、組み合わせ、なんとしてでも小説を完成させるのだ。それが澄子に捧げるダイアモンドだ。婚約指輪だ。
 自分の考えに満足した哲司は、気を取り直して地面に目を凝らしながら歩を進めた。
 
「それ本気で言ってんの?」
 澄子は明らかに怒っていた。呆れるよりも怒っていた。
 ここ数日いくら電話をかけても出てくれなかったのだが、いざ話せるとなると哲司は嬉しくなって、今日考えたことを得々と話したのだった。
「まあ蟻を見て、そういう想像したってのはいいんだけどさ。蟻は頑張って愚直に働いてるんだよ。まあ角砂糖がどうたらとかはよくわかんないけど、なんなの。出来上がった小説がダイアモンドってなんなの。バカにしてんの?」
 バカになんかしてないよ、澄子が女王蟻ってことなんだよ、と哲司が言うと、電話の向こうから大きな溜息が聞こえた。
「ちょっと暑さで頭おかしくなってんじゃないの? 聞いてるこっちまでおかしくなりそうだよ。ちゃんと食事とか水分摂ってんの?」
 心配ありがとう、でも頑張るから、と哲司が言った途端、一方的に電話が切られてしまった。
 哲司はベッドに突っ伏した。しばらくそのままでじっとしていたが、ごろりと仰向けに寝転び、ぼんやり天井を見つめた。熱帯夜が続いているので窓は閉め切っていて、エアコンの音しか聞こえない。そのままぼけっとしているうちに、天井には何も落ちてないぞ、と哲司はなんとなく思った。考えてみたら、外を歩き回り、地面に落ちている言葉を探すというのは、実は天才的な発想なんじゃないか、とも思うのだった。今日見たありんこ共や黒焦げになったミミズなどの生き物は別として、地面に落ちているのは、誰かが落としたもの、取りこぼしたままになって、忘れ去られようとしているものばかりなはずだ。それらをうまく組み合わせ、物語に仕立て上げれば、普遍性ってやつを獲得することができるんじゃないか?
 ――とはいえ、哲司が今日蟻たちを眺めたあとに見つけたものといったら、子供用の靴下(片っぽだけ)、タバコの空き箱、「鬼ころし」の空パック、極めつけは陽射しでカピカピになった吐瀉物、そんなものしかなかった。靴下はまあ落とし物だが、あとはゴミか、もうゴミ以下じゃねーか。そうだなあ、と哲司は思う。地面に落ちてるからって、何でもいいわけじゃない。言葉のストックはいくらあっても困らないが、それを活かすとなると取捨選択も必要だ。それらを精製し、自分の言葉に置き換え、積み重ね、文章にする。さらに文章を積み重ね、作品にする。
 ――哲司はまた知らぬ間に自分を蟻たちに重ねていた。精製した言葉は砂糖粒だ。砂糖粒ひとつひとつ、微妙に違うそれぞれの形や重さ、輝き、ニュアンス。重ねられることによって生まれる光の屈折、その微調整。近くから遠くから、色んな角度から目を凝らし、配置を考える。気の遠くなる作業だ。
 蟻たちは頑張って愚直に働いてるんだよ、と澄子は言った。俺も負けるわけにはいかないのだ。角砂糖を、いやダイアモンドを作り上げてみせる。想像上のライバルに向かって息巻く哲司は、澄子の言葉が「とりあえずお前もちゃんと働け」という意味だとは思いもしない。
 哲司は起き上がり、iPhoneを手に取った。メモアプリを開く。「アイスの棒(あたり)」うん、これは使えるかもしれない。「ボロボロのミサンガ」これもちょっとストーリー性があるな。「開いたまま逆さまに捨てられたビニール傘」これは雨の日だった、白鳥みたいに見えたっけな。「散らばっている何かの薬」、「リボンのついたヘアゴム」、「手書きのメッセージが添えられた風俗店の名刺」、…………
 
 ***
 
 気が付くと、部屋の壁一面に、誰が書いたのか俺がこれまで拾った言葉たちがひとつずつ書かれた付箋が貼り付いていた。唖然としていると、その付箋たちはどろどろ溶けだし、溶け合って、壁をすべり落ちてきた。部屋の真ん中、水たまりのようにどろどろした液体は溜まっていった。匂いがする。とても甘い匂いがする。女物のシャンプーとも違う、香水とも違う。作り物の匂いじゃない。何か生命の根源にある秘められた本能をめざめさせるような、そんな匂いだった。俺はふらふらとベッドから降りて、ゆっくりしゃがみ込むと、何のためらいもなくその液体に顔を埋めた。途端、身体ごと引きずり込まれ、無重力状態になった。水たまりではなく、どうやら沼だったらしい。底なし沼。それでも俺は恐怖をおぼえることなく、嬉々としてのたくった。不思議に息はできるのだ。身体中の穴という穴から、細胞のひとつひとつに至るまでこの匂いを染み込ませたい。一滴残らず自分のものにしたい。そう強く思いながら目を覚ました。
 
 ***
 
 会社をやめてから、哲司は夢日記をつけるようになっていた。何かしら小説に使えるようなものがあるかもしれない、と思ったからだった。それにしても今日もわけのわからない夢だった。が、日々の言葉集めに関する夢をみたのは初めてだ。どう解釈すればいいのかはわからないが、ふむ――と哲司は思う。壁中に付箋を貼る、か。なかなかいい方法かもしれないぞ。なんせ言葉を精製しなくちゃならないんだからな。いたずらに集めてばかりじゃなく、ストックをどう処理するかも大事な問題だ。もしかしたら、あの「鬼ころし」の空パックにだって意味を見出せるかもしれない。
 その朝、哲司はiPhoneのメモアプリに記録した言葉のひとつひとつを小さなメモ帳一枚一枚に書き写した。わくわくして楽しい時間だった。手書きの言葉たちが動き出し、それぞれのストーリーがひとりでに立ち上ってくるように感じた。一通り写し終えて、はて、と哲司は思った。メモ紙だと付箋のように壁に貼ることはできない。が、一秒後にはそれでいいじゃないか、と思った。言葉を記した紙たちをメモ帳からちぎり、這いつくばって床に並べてみた。フローリングの床を半分くらい覆ったに過ぎなかった。まだだ、まだ足りない。哲司は妙な焦りを覚えた。この部屋の余白をすべて埋め尽くし、さらに重ねていかなくては。拾ったものでこの空間が埋め尽くされるようにしなくては。物理的にも精神的にも、余白が残されていることが何かおそろしいことのように思えた。
 哲司は立ち上がり、高温注意情報など意にも介さず今日もふらふらと外へ出た。
 まず出くわしたのは、モンスターエナジーの空き缶だった。この毒々しいデザインのエナジードリンクを飲んで、不死身の怪物みたいに出勤していった奴が落としていったんだろうか。気が付くと哲司は道路に腹ばいになり、iPhoneで写真を撮っていた。何してるんだ俺、と思いながら立ち上がって写真をチェックすると、「これだよ、この視点」とつぶやいた。
 あとはもう夢中だった。不審者と間違えられてもいけないので――いやじゅうぶんに不審者なのだが――めったに人の通らない道を歩いては、落ちているものを見つけるたび腹ばいになり、写真を撮った。不思議なもので、写真を撮るごとに何かしらの栄養が腹に溜まっていくような感覚になった。朝飯もろくに食べないまま家を出た哲司だったが、夕方になってドラッグストアに寄り、さっそく写真をセルフプリントする頃には、もう満腹といってもよかった。
 プリント機のタッチパネルには、前に澄子と旅行した時の写真も表示されたが哲司は目もくれず、今日撮った写真だけを選択して印刷した。
 なんだか変な高揚だった。帰り道、哲司は歩きながらそわそわして何度も写真をちらちらぱらぱら見ずにはいられなかった。早く部屋に戻って、床の上に並べなければ。余白を埋めなければ。
 部屋のドアを開け、また施錠するやいなや、哲司はメモ紙が並んだ床に這いつくばり、プリントしてきた写真を一枚一枚眺めながら床に置いていった。それでもまだフローリングの床をすべて覆うには至らなかった。哲司は部屋を見回した。――床も、そして壁も余白だらけだ。まだだ、まだ足りない。もっと、もっともっと拾ってこなくては。
 途端に腹が減ってきた。それも耐え難いほどの空腹だ。哲司はしょんぼり立ち上がり、またドアを開け、近くの定食屋へ向かった。
 
 そんな生活を繰り返しているうちに、いつしか外には涼風が立つようになっていた。それでも哲司は窓を開け放ったりしなかった。床に並べたメモ紙が風に煽られ、せっかく覆った床が露出するのを見たくなかった。――あとは壁だ。
 夜、ベッドに横たわり、ぼんやりと壁の余白を見つめていた哲司は、電話の着信音に顔をしかめた。澄子からだった。
「どう? ダイアモンドは出来上がった?」
 努めて茶目っ気を出そうとしているような声音だった。
「一ヶ月近く連絡もないから心配してたんだけど、邪魔しても悪いしなって思って。体は大丈夫?」
 実のところまったく大丈夫ではなかったのだが、早く電話を切り上げたかったので、大丈夫だよ、と哲司は応えた。
「声に元気がないね、ちゃんと食べてるの? やっと涼しくなってきたし、気分転換に今度どっか遊びに行こうよ」
 ごめん、それどころじゃないんだ、と哲司はとっさに言った。澄子は一瞬黙った。
 あと少し、あと少しで出来上がるから、それまでは会えない、と哲司はまた壁の余白に目をやりながら言った。
「そっか。応援してるけど、あんまり無理しないで、自分を追い詰めないようにね。ダイアモンド、楽しみにしてる。じゃあね」
 笑みを含んだ言い方が、なぜか毒も孕んでいるように感じた。
 そうだ、あと少しなのだ。……しかし何があと少しなのか。哲司は自問した。余白のない部屋を作り上げることだ。物語はどこへ行った。いや、拾ってきたもので部屋を埋め尽くして、初めて物語が動き出すんじゃないか。
 ――俺は自分自身を欺いているんだろうか。そんなことはない。そんなはずはない。それとも澄子を欺いているんだろうか。それも違う。そんなつもりはない。
 ただ疲れているだけだ、そうだ。今日はもうぐっすり眠って、明日にはまた元気に外へ繰り出そう。哲司はまた無意識に壁の余白に目をやった。あれを埋めれば、世界が開ける。そう思いながら、静かに目を閉じた。
 翌日の夕方、またドラッグストアで写真をセルフプリントした哲司は、帰路を急いだ。これを貼れば、壁もぜんぶ埋まるはずだ。そうなればとりあえず何かが一段落するような気がした。少しは楽になれるような気がした。
 もどかしいようにドアの鍵を回し、また施錠すると、哲司は壁にわずかに残されている余白の前に立った。百均で買った画びょうをつまむ指がかすかに震えた。写真の一枚一枚を入念に留めていった。なにか部屋の修繕でもしているような、心に防風堤を築いているような、そんな感覚だった。
 そろそろと足を動かして部屋の中央に立った哲司は、床も、壁もメモ紙と写真で埋め尽くされた空間をぐるりと眺めた。ちょっとした感慨にとらわれたものの、すぐにその場にへたり込んだ。
 この配置には何も脈絡がない。ただ無造作に並べただけにすぎない。再構築しなければならない。
 途端にまた猛烈な空腹が襲ってきた。しかしここのところ、どんなに腹が減っていてもいざ目の前に定食が出てくると箸が進まないのだった。好物だったはずの茄子味噌炒めすら喉を通らない。
 ――外へ出るのはよそう。哲司はそっと床に突っ伏した。くしゃ、とメモ紙たちが枯葉のような音を立てた。
 
 ***
 
 身体がはちきれてしまいそうな満足感だった。甘い痺れに指一本動かすのも億劫だ。そう、甘い痺れ。あの匂いだ。細胞のひとつひとつを染めかえるような匂いの沼。俺はどうやって抜け出したんだろう。ところで、ここはどこだ。
 うっすらと目を開ける。俺は土の上に横たわっていたようだ。途端に固い土の感触がひんやりと皮膚に沁みた。続いて耳が聴覚を取り戻す。秋虫の鳴き声が聞こえる。徐々に大きくなる。虫の合唱が身体に降りしきってくるように感じる。
 ぼんやりと目を開けたまま、眼球を動かすのも億劫だったが、何か小さく動くものが視界に入った。それがふたつ、みっつ、……いや五匹、十匹。秋虫じゃない。蟻だ。
 そう気づいた瞬間、意識が切り刻まれた。俺は何匹もの小さな蟻の視点から、だらしなく寝ころんでいる大きな俺を見ていた。それはただの無防備な肉塊に過ぎなかった。いくつにも分裂した小さな意識たちは話し始める。
「なんかすげえいい匂いがするな」
「ああ、うまそうだな」
「なんか動けないみたいだし、大丈夫だろ」
「小分けにして持って帰ろう」
「応援も呼んでくる」
 小さな俺たちは大きな俺に群がり、齧り、せっせと列をなして運んでいく。
 
 ***
 
 ここまで書いて、哲司は思わず目を閉じ、大きく息を吐いた。ふたたび目を開けて、部屋を見回す。いつか完成するであろう物語の断片が床と壁をびっしりと覆っている。なんとなく息苦しい。そうだ、これらをまた並び替えなきゃならないんだ。再構築しなきゃならないんだ。再構築。何を? 
 一瞬、自分でもわからなくなった。が、我に返った哲司はそろそろと床にしゃがみ込み、這いつくばり、メモ紙と写真たちをひとつひとつじっくりと眺め、頭の中で咀嚼することに努めた。そして初めてルービックキューブを触るみたいに、少しずつ入れ替え、また並べなおし、全体を見渡し、自分なりの秩序を作り上げようとした。窓なんて開けなかったし、外にも出なかった。
 夕方、へとへとになってベッドに寝転んだ哲司は、何もない天井を見つめた。不思議と心が安らいだ。あんなにも余白を恐れていたはずなのに、仰向けに寝ることすら避けていたはずなのに。久しぶりに見るまっさらな白い天井に、呼吸まで楽になっていくような気がした。
 ――そうだ、この数か月、俺は外に出ても地面ばかりを見つめ、さらには地べたに這いつくばっていた。まさにありんこじゃねーか。そしてこの部屋は、まるで蟻の巣だ。
 ふふっ、と自分で笑いそうになったものの、哲司はすぐにおそろしくなった。また夢をみるのが怖かった。無意識に天井と壁とをきょろきょろ見比べながら、どちらに身を置こうかと、迷っているようでもあった。床にはほんの少しの、哲司なりの秩序があった。そんなことも忘れたように、哲司は惑い、怯え、そのうちに疲れ果て、とうとう眠ってしまった。
 ずいぶん長いこと寝ていたらしかった。哲司は鼻腔をくすぐるいい匂いにぼんやり目を開けた。天井が見えた。いつの間にか窓が開いていて、涼しい夜風が部屋に流れ込んでいた。おどろいて身体を起こし、部屋を見渡すと、床にも壁にも、何もなかった。キッチンに灯りが点いていた。
「あ、起きた?」
 澄子は鍋の中をお玉でゆるくかき混ぜながら哲司に微笑みかけた。が、すぐにばつの悪そうな顔をして、
「ごめん、あまりに埃が溜まってたし、なんか……精神衛生上やばそうだったから片付けちゃった」
 哲司はふらふらとしゃがみ込み、駆け寄ってきた澄子の腕に頭を凭せた。顔は歪まないまま、なぜか涙だけが次々とこぼれた。
「どうしたの、ごめんね。でもおいしいもの作るからね。もう少しゆっくりしてて」
 澄子は哲司を抱きかかえるようにしてベッドに座らせた。整然と片付けられた部屋を呆けたように見回しているうち、哲司は久しぶりに健康な食欲が戻ってくるように感じた。
 クリームシチューのおかわりを何度も繰り返すたびにほぐれていく哲司の表情に安心したのか、澄子は「どう、小説は出来上がりそう?」と言った。ダイアモンド、とは言わなかった。そうだね、と哲司は曖昧に答えた。なんとなく察してか、澄子はそれ以上小説の話をしなかった。
「とりあえずちゃんと食べてくれたし、お部屋もきれいにしたから、またゆっくり休むといいよ」と言ってくれる澄子を、哲司は駅まで送っていった。改札に入ってからも、澄子は何度も振り返り、小さく手を振った。
 明るい駅の構内から出て、ほとんどシャッターの降りた商店街を抜け、街灯の乏しい道に差し掛かると、不意に哲司は夜空を見上げた。目を見張った。いつか、天井には何も落ちてない、とぼんやり思ったっけ。でも、天上にはこんなにたくさんの星がある。そうだ、俺も新しい星座を編むようにまずは言葉を紡いでいこう。新しい神話を書こう。そして何より、星は――きらきらと輝いている。
 哲司はほとんどスキップしていた。そんな自分に気づいて、ちゃんとスキップしてみた。心と脚を弾ませながら、空の星めがけてうんと腕を伸ばし、手を握った。繰り返した。繰り返すたびに何を得ているのか、それとも振り払っているのか、わからないままで。

2020年3月9日公開

© 2020 谷田七重

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"ジルコニア"へのコメント 2

  • 投稿者 | 2020-03-16 10:06

    ‪脳内で(若かりし)田中哲司で再生しつつ読みました。『ワンルーム・ミラージュ』の「シャボン」が好きなので、谷田さんのこういう夢現混濁系どんどん読みたいです。

  • 投稿者 | 2020-03-16 10:50

    駿瀬さんありがとうございます☺️
    私も『シャボン』は地味にだいぶ気に入っていて、
    『ジルコニア』を公開するにあたり
    「またよくわかんない幻想彷徨系のやつ書きたいな」
    とか思ってました!!こっち方面もまた掘り下げていきたいです✏️

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