ある朝の毒虫-9

ある朝の毒虫(第9話)

斧田小夜

小説

17,358文字

我慢ならない事実がある。許容できない結果がある。チトとタォヤマの結論は一致したが、さて、これからどうする?

ひねたタォヤマを飼い慣らすのは決して楽な事業ではなかった。これは投資なのだとでもいいきかせねば我慢ならないことも何度もあった。今でも時々そんな思いにとらわれることはある。

引き取ってしばらくのタォヤマはとにかく反応のないこどもだった。気に入らないことがあれば頑として動かず、口も聞かない。我慢くらべになることは少なくなく、その日々がどうやって過ぎ去ったのかも思い出せないほどだ。

その日々が過ぎてもまだ、苦難の道は続いた。失敗すればすぐになげやりになり、セブジの出方をためすようなうんざりとする嫌がらせを毎日考え、都合の悪いことは必死で隠すタォヤマはただひたすらにつらそうだったし、もちろんセブジも相手をするのは一苦労だ。

特に困ったのは急にベタベタとつきまといはじめるかと思うと、一転してわざとセブジを怒らせる不愉快な行動をとるところだった。セブジの出方を探っているのだというのが知り合いの見立てだったが、やられるセブジにはたまったものではない。とにかくそんなふうにタォヤマは不安定で育てにくい子供だった。あまりタォヤマに構いたがらなかったラウセが酒を呑むたびにふらりと訪ねてきては、タォヤマを感情的に怒鳴りつけるのもセブジを疲弊させた。

それでもあの頃は悪くなかったとセブジは思うのだった。機嫌のいいタォヤマと文句をつけつつ映画を眺めているのも、はじめてタォヤマが小さなもののスプシュトに成功してお祝いしたことも、疲れきったタォヤマがいつの間にかソファを占拠して寝入ってしまったのを困って見下ろしていた時も、どれも悪くなかった。

「ねぇ、シーシはどうなるの?」低い声でチトは言葉を吐いた。精一杯感情を抑制していることがわかる声音だった。「……食べられちゃうの?」

「わからない」

「食べられちゃったら、どうなるの?」

「オガにしかそれはわかんないんだよ。でもメリヴォだっていうことは真っ二つにわれてヴェシュミ・ビセが終わったあとは跡形もなく消える」

「うそだよ、だってシーシはシーシじゃん! どうなるの? 食べられちゃったらどうなるの?」

びりびりと耳の中にまで声がひびいて、セブジは首をすくめた。

どうにか起き上がれるようになったタォヤマは先ほどからダイニングの机に突っ伏して頑として動かないし、セブジの向かいに座っているチトは、涙こそ止まったもののいつ爆発するかわからない状況だ。

可哀想なのはガイだ。二人がすっかり混乱しているのでなにかと彼を頼らずにいられないが、よほどショックをうけたらしく、しょっちゅう涙ぐんではシーシに慰められている。そのたびに無理やり明るい声をとりつくろっているからきっと精神的に参っているだろう。後で労ってやらねばなるまい。

「シーシは……シーシだけど、なかは空っぽなんだよ……」

「空っぽなんかじゃないよ! シーシはシーシだもん!」

いきり立って怒鳴ったチトはどしんと音をたてて机の表面を叩いた。さすがにこれにはタォヤマも顔をあげたがまたすぐに突っ伏してしまう。

口をつぐんでセブジを見返したチトはぱちぱちと二度まばたきをした。そういう仕草はやはりシーシとよく似ている。昔のチトはシーシよりも小さな女の子で、いつもシーシの真似をしていたものだ。

「あたし、わかってんだから」きゅっと眉根を寄せてチトはますます口をとがらせた。「子供扱いしないでよね。ちゃんとわかるんだからね。セブジ、シーシのこと嫌いなんでしょ。知ってるんだから」

それにしてもまったくニンゲンらしく育ったものだと感心する。いつのまにかシーシが彼女の小さいころの仕草をそっくり移してしまったが、小さいころのチトはよくこんなふうに主張していた。もしオガがそんなチトをみたら、きっと泣くまでいじめただろう。オガは子供相手でも手加減を知らなかった。彼自身が子供だったからだ。

オガに連れられて初めてイェナに来た時のチトは今のシーシよりも小さく、言葉もはっきりとはしなかった。たしかセブジを見つけるなりにっこりと笑って、無遠慮に膝を叩きながら「ロモラチ」とかなんとか呪文を唱えたと記憶している。あれはシーシの真似をして、なにかの約束を結ぼうとしていたらしい。そしてシーシに自慢しようとよちよちと去っていった。肝心のシーシはセブジを見るなり泣き叫んで逃げ出してしまうし、それが気に入らなかったのか、泣き方までシーシの真似をしたのかチトも同じように泣き叫び、セブジは仕方なく小一時間ばかり彼女をあやす羽目になったのだ。オガは意外にサマになるじゃないかと笑っていた。

ずいぶん大きくなったと思う。当たり前だ。あれから五十年近くが経っているのだから、チトは大きくなるに決まっている。それにリュボヤはユフより成長が早いのだから、それこそあっという間に成熟し、老いて死ぬのである。

セブジは背を丸めた。もう少し彼女が成長するまで待つべきだったという後悔がまた襲ってきたのである。

「俺がシーシを嫌いなんじゃなくて、シーシが俺を嫌いなんだよ……」

「シーシがセブジのこと嫌いって言うのは、セブジがシーシを嫌いだと思ってるからだよ」

「まぁどっちでもいいけどさ……」早々に争いは放棄してセブジは隣のタォヤマをつついた。辛いなら寝ていろと言っておいたのに頑固に座っているということは、いつつついても文句は言わないという意味だ。彼はすぐに文句をたれるのだが、聞いてやる必要はない。甘やかしは良くないというのがセブジの方針だ。

「おい、タォヤマ。俺も色々と謝らなきゃいけないことはあるけど、その態度は良くない」

「…………」

「頭がいたいなら寝てなさいって言っただろ。それとも背中に力が入らないのか? 首がおれそうなのか? ん?」

中腕でセブジを押し返してタォヤマは耳の穴を閉じた。

反抗的な態度である。

「おい、タォヤマ。話したくないならベッドに行きなさい」

「シーシみたい」

「そうそう、そうなんだよ。ほんとしょうがないだろ。こんなにでっかくなっても……」

「うるせぇ」

しん、と唐突に沈黙が降りてきた。

それはなにもタォヤマがうるさいといったからだけではないだろう。目元にタオルをあてがっているチトも口をつぐんで、しげしげとタォヤマの頭頂部を眺めている。

沈黙がやってくると、フロアが静かに上下していることがはっきりとわかる。建物は生き物と同じように振動を刻み、振動は微小な音を発生させている。あらゆる刺激に対して感応性の高いタォヤマにとってはちっとも休まらない場所だ。体を休めることのできない彼のいらだちが、もしかすれば声に力を宿したのかもしれなかった。

オガが生きていれば、とまたセブジは思った。彼が死んでから何度も同じことを思い、そのたびにどうしようもないことだと自分を納得させてきた。だがここにくるとやはり考えてしまう。

オガがいれば、この嫌な役目も全て引き受けてくれたのに、と。

「……どうして……」

タォヤマは鼻をならした。動けなくなってもシニカルなところはいつも通りだ。でもそんなタォヤマでも声だけはどうにもできない。弱気になったり、泣きだしたり、怒りを隠せなかったり、呆れていたり、声を聞けば彼がなにを考えているかはだいたいわかる。引き取った頃からずっとそうだった。

今のタォヤマは多分泣いている。打ちのめされ、絶望の淵に立っている。そんな声だ。

セブジは横目でチトへ視線を送った。

「……なに?」

「いや……どうしようかなと思って……」

「なにが? どっか行けっていいたいわけ?」

口をつぐんで、セブジは彼女から視線を逸らした。この十年ほど、彼女の気性はどんどん荒くなっていく一方だ。そしてセブジはそれを咎められずにいる。あの時、オガを含めた関係者をとめられなかった自分の怠惰さのツケが彼女に蓄積しているのだと思うだけで胸が苦しくなる。仕事の失敗をたくさんしても社長を続けているのに、何度離婚調停をしても平気なのに、若者を育むということになるととたんにセブジは弱くなる。自覚はある。

「んや、タォヤマは言いにくいことがあるかも……」

「なにが? なんで? それでどうしてあたしがどっか行かなきゃいけないの?」

「いやぁ、いいにくいことっていったらさぁ、シーシのことだろ」

「大丈夫だもん」語気も荒く、チトは宣言した。目をしっかりと開き、下向き加減のまつげをきりりと上にあげ、先程まで泣きじゃくっていたのはまるでうそのようにしっかりとした表情だ。「今はあたしがシーシのお姉さんなんだから、大丈夫だもん。あたしがシーシのこと全部考えてあげなきゃいけないの、他に誰もいないんだもん」

「…………」

「大人は信用できないって、あたし知ってんだから。みんなどっか行っちゃって、かえってこないでしょ。オガだって――」きゅっと口を結んで彼女は目の焦点をぼやけさせた。「ひとりで、どっか行っちゃって、もう帰ってこない……」

「あれは事故だよ。寝ぼけてやらかしたんだ」

「でももう帰ってこないんだよ。なんで行っちゃったかなんてどうだっていいんだよ、行っちゃったんだから」

すばやく彼女はまつげで涙をはらった。下唇を歯で押さえ、セブジを睨みつけている。多分、そうしていないとまた泣きだしてしまうのだろう。

先にオガになついたのはチトだった。いや、チトがなついたから、オガは彼女のためにシーシを作ってやったのだ。チトより少しだけ大きく、手のかからないいい子なら、きっとチトのいい友だちになるだろうと――そんな殊勝なことを果たしてオガが考えるだろうかとも思うが、シーシがニンゲンの子供のような見た目になったのは事実だ。そのかわり、オガはチトが何十年もシーシに執着するとは思っていなかったから、彼女が成長するふうには作らなかった。そもそもオガは変化する、生命体を模したタイプの物体をスプシュトすることは苦手としていたから、シーシが限界だったのかもしれない。

とにかく、そんなふうにしてシーシはできた。

チトはよく、シーシがオガにまとわりつくと嫉妬して癇癪をおこしていた。そのくせシーシに無視されているセブジのことはかわいそうだといって相手をしてくれる。不満顔でふてくされて、気持ちは隠し通せないくせに、悲しい顔をしているものをみると慰めずにはいられないのだ。それがチトだった。小さい頃から、チトはシーシと違っていたし、リュボヤ的でもなかった。

「俺は年に一度は来るだろ。それに言ってくれたらなんでも送るって言ってるのに、頼ってこないのはおまえ。まあな、俺じゃ嫌なのはわかってるけどさ」

「それで? だからタォヤマに押しつけたの?」

「押しつけたわけじゃないよ」首の後ろを背腕でかいて、セブジは顔をしかめた。「俺じゃシーシに近づけないんだからしょうがないだろ。それにこっちだって商売なんだから、いつまでもこのままじゃ……」

「あたしはそれでいいもん。だからセブジでよかったのに!」

「チトはよくても、そうじゃない人もいるんだよ。シーシだって――」

「シーシはスプシュトされたがってる」

拳をにぎって身を乗り出したチトも、タォヤマの突然の声には動きを止めた。首を真正面から少し左側へ向け、二つの目の中にあるアンバーの虹彩をぎゅっと左に押しやって、彼女はタォヤマを睨んだ。

「だから急にあらわれたし、何度も接触しに来たんだ。それに『友達』って何度も――」両上腕で顔をおおって、タォヤマはうめいた。声をだすたびに不気味なほどに腹をへこませ、背中をぐっと丸める。その一言を吐き出すためだけに彼は命を削っているのだった。首筋に骨が浮かび上がり、バラバラに砕け散るのではないかとセブジは心配した。しかしどれだけ心配しても、こんな時のタォヤマに触れてやることはできない。感覚が尖すぎるタォヤマを心が平常でないときに刺激するのは、彼の心をかき乱すどころか、暴走を誘発する可能性すらある。彼が暴走すれば、イェナはひとたまりもなく塵と消えるだろう。

「そんなのあるわけないじゃん! 最近急に悪い子になったんだよ、ほんとのほんとなんだよ。いつもはあたしのそばを全然離れないし、セブジにも近寄らないし、だから、たぶん、シーシは、壊されたくなんか……!」

「シーシは大きくなるって、自分で言ったんだよ。シーシがメリヴォなら、大きくなるっていうのはシュルニュクにスプシュトされてイェナの街になるってことで、彼女はそれを望んでるんだ……だから、来たんだ!」

左中腕の三本の指をおりたたみ、タォヤマは勢い良くそれを机の天板に打ち付けた。腕に力が入り、ぶるぶると震えている。

「だから、来たんだよ……! でも――できない」

長い指で目をおおい、タォヤマは息をはいた。弱っているときのタォヤマはさすがに素直だ。弱音もはくし、ひねくれた甘えかたもしない。その代わりよく泣くのだった。

「なんで、できるんだよ、そんなことが……なにを考えてたんだよ、あいつ! できるわけないだろ! どっからどうみたって生き物じゃないか!」

「タォヤマ……」

「セブジだってなんで止めなかったんだよ! 誰かがやるからか? お前は社長だから、嫌な仕事は誰かに降ればいいもんな、だからなにも言わなかったのか? どう考えたっておかしいだろ、こんな残酷なことをさせてまともでいられると思ってるのかよ! 俺は、できない――……!」

セブジはため息をついた。

オガの卵子からうまれたユフは八人いるが、その中でタォヤマは上から三番目に強力な力を持たされてうまれた。一番強かった子供は生後数日で死亡、二番目は十歳になる前に暴走して腕を切ったから、オガの直系で一番強いのはタォヤマだ。彼の存在はユフとして生存できるギリギリのところにあり、そしていつもそれを辛そうにしている。セブジにはわからないことだが、スプシュトをするたびに世界が終わってしまうような絶望感に教われるのだとも言っていた。

ただスプシュトをするだけでそれほどまでに消耗するタォヤマに、生き物にしか見えないメリヴォをスプシュトしろなど、これほど酷薄なことはない。でもこの規模の、かつこれほど複雑な街を、植物を保存したままでスプシュトできるのはタォヤマしかいないのだ。いや、タォヤマですらできるかどうかはわからないから、オガは保険を残したのだった。もしかすると彼自身、なにか不安になるところがあったから、シーシを作ったのかもしれなかった。オガがいくら変人でユフの気持ちがわからないユフであったとしても、だからといって生命体をいきたままスプシュトできるほど不徳義ではなかったはずだ。

「俺はできない、やりたくないし、やらない。セブジがやればいいだろ! 大人なんだから責任持って全部最後までやれよ……!」

ゆっくり椅子におさまったチトは先程までの剣幕はどこへやら、胸の前で腕をぎゅっと組んでいる。眉尻をきゅっとさげ、セブジを見ている。その瞳の中に浮かぶ光をセブジは解読できなかった。

ざまあみろと思っている? しかしそれなら眉尻をさげているのはなぜか。あれは負の感情を表すパターンだが、怒りや嘲笑は含んでいなかったはずだ。悲しいとか、苦しいとか、納得がいかないとか、あるいは幾つもの感情がせめぎあってパターンを抽出できなかった時に選び取られる表情だ。だから子供はよくそんな表情になる。自分の感情をきちんと言語化できないからである。

「タォヤマ」

短く息を吸い込んで、タォヤマは口を結んでしまった。曲がった首筋に点々と浮き上がるとがった骨は、今にも彼の痩せた体を突き破り、肉を引き裂いてしまいそうだ。体が彼のもつ力を支えきれないとあらわしているようだ。

セブジはもう一度タォヤマ、と彼の名を呼んだ。

「俺はできないんだよ。力が足りないんだ」

「…………」

「いいか。もしあの子をスプシュトしなきゃいけないこととなっても、うちの会社にいるやつはだれもできない、お前以外は。なぜならば」チトは目を細めたが、セブジは息を吸い込んで続けた。「第一に彼女はお前を選んだ。俺の時は寄っても来なかったのに、お前んとこには自分から来たんだろ。あの子は力量を読んでるんだ。俺は十分じゃないけど、お前なら大丈夫だって、判断したんだろうよ。最後にオガが来た時は近寄りもしなかった。今まであんなにつきまとってたのに」

「…………」

「第二に、お前のいったとおり彼女はスプシュトされたがってる。チトに追いぬかれた頃からあの子の口癖は『早く大きくなりたい』だよ。あの子はスプシュトしてやらなきゃ大きくなれないんだ。ずっとあのまま、俺が死んでもチトが死んでも、イェナからニンゲンがいなくなって誰もめんどうを見てくれる人がいなくなっても、彼女はずっと大きくなる夢をみてここでさまようしかないんだ。スプシュトされるのとどっちが残酷なんだ? 俺は、わかんないよ」

鼻の穴を閉じてタォヤマは歯を軋ませた。目の前にすわっているチトはじっとセブジを見つめている。

「第三に、お前は完璧なメリヴォを作れない。俺は完璧なメリヴォがあれば、スプシュトできるよ。でも、俺ができるのは俺が作れる範囲での完璧なメリヴォだ。そして俺より強い奴らは、完璧なメリヴォはつくれない。お前もそうだよ、必要ないから作れないんだ」

「ちが、う……」

「タォヤマ。いい加減に認めてくれよ、俺はお前じゃない。お前みたいに自由自在にスプシュトはできないんだ。初めてあった時からお前のほうがずっと力は強かったし、イメージは鮮明だし、あの頃から――俺はお前が羨ましかった」

カチリと歯をならしたタォヤマは、両上腕を机の天板におろしてセブジを睨んだ。上の虹彩が左右にせわしなく動かしている。セブジがなにを言っているのかわからない、そんな顔をしている。

いつもセブジの力の話になるとタォヤマは動揺する。動揺してやらかして、そしてしばらく塞ぎこんだかと思うとセブジの話を忘れてしまったようにまた振る舞い始める。その繰り返しだ。今回もまた同じことになるのか、それともなにかかわることがあるのか、セブジにはわからない。こうしてタォヤマに切々と語ってきかせることが彼のためになるのかどうかすら、わからない。

「第四に、ニンゲンは寿命が短い。彼らの五十年は一生とほとんど同じだ。これは、彼らからすれば一生をかけてやる仕事なんだ。それくらいの情熱をかたむけてる客を相手に、俺たちは仕事をしてる。わかるか」

「…………」

「これ以上年月が経てば当時の関係者はほとんど死ぬ。俺はスック・ヴァン・シーに新しいイェナを見せてやれなかったことを、本当に悔やんでるんだよ」

「そんなの」ひゅっと音を立てて息を吸い込んでタォヤマは歯をむき出した。いつもならぴったりと背中に貼り付けている背腕をゆらゆらと動かしているのは無意識だろうか。あまり良くない兆候だ。「……俺に関係ない……」

「タォヤマ。これは仕事だぞ」

「関係ない!」

タォヤマ、とセブジは努めて声を荒らげないように彼を諌めた。目をほとんど線になるほどまで細めて、タォヤマは耳の穴を塞いでいる。子供の頃、そうやって彼は何度もセブジを睨んだものだ。敵意を剥き出しにして、頭から全て否定して、なにもかも拒否してやるという顔をしてじっと動かなかった。そんな子供だった。

「お前の仕事だよ」

「…………」

「俺が割り振っただけだって思ってるのかもしれないけど、これはお前の仕事なんだよ。オガがそのつもりで残していったんだから」

「…………」

「関係ないなんて言ってどうするつもりなんだ。おまえがなにを言ったってここの改修はしなくちゃいけないし――」

「新しいメリヴォを作る……」

「十年やそこらでできる規模だと思うのか? おまえだってこの規模ともなったらメリヴォがなくちゃスプシュトできないだろ。だけど五十年あったってメリヴォはできない。俺がそう思ってるだけじゃなくてオガがそう言ったんだ。それでシーシを作ったんだぞ」

「……できない……」

「じゃぁ――シュルニクをやめるか? やめてどうするんだ? 他の職業に就く? それとも腕を切って新しい生活を始める?」

ピタリと鼻の穴をとじてタォヤマは頑固に口を結んでいる。いつのまにかタォヤマの隣にすわっているチトがきゅっと眉根をよせてセブジを睨みつけていたが、タォヤマは外界のほとんどを拒否してうちにこもってしまっているようだった。しかし子供の頃と違って彼の目の縁はてらてらと光っている。水が染み出して、目元の皺に染み込んでいる。まるでチトと同じように目から涙を出そうとしている。上腕と中腕の十二本の指を絡み合わせ、彼は泣き出すのをこらえているのだった。こんなタォヤマは見たことがない。

セブジはため息をついた。

今はこれ以上話をしていても拒絶が返ってくるだけだ。彼が冷静になるのを待つ間、セブジにもやらなければならないことがある。

「……いつも言ってるだろ、お前は強すぎるんだ。でもだから、お前を必要とする人がたくさんいる」

「…………」

「ちょっとパトリシアと話をしてくるから、頭を冷やしてよく考えなさい。変な気を起こすんじゃないぞ」

タォヤマは答えなかった。ただ糸のように細い目からぽろぽろと涙をこぼしただけだった。

 

 

「逃げよ」真剣な表情でチトは言った。「逃げるしかないよ。どっか行こ」

「どこに」

頭を上腕で両側から押さえつけ、タォヤマは唸った。体のだるさは収まってきたが、今までにない頭痛で視界がぐらぐらとしている。これは動けそうにもない。

セブジが無理やりガイを連れて出かけてから小一時間が経っている。セブジの姿が見えなくなった途端に駆け寄ってきたシーシは必死な形相でタォヤマを慰めようとしていたが、今はすっかり疲れてタォヤマの腕の中でくうくうと寝息を立てている。

「わかんないけどえっとぉ……トルシュのとことか?」

「大丈夫なのか? すぐにパトリシアかセブジのとこに連絡を入れるかも……」

タォヤマはため息をついた。呼吸をするだけで体中の骨が軋むのは、エネルギー切れでひっくり返ったせいだけではないようだ。何度もエネルギー切れで動けなくなったことのあるタォヤマにとっても体のあちこちが痛むのは初めての体験なのだった。

「大丈夫だよ」

「…………」

「ほんとだよ! だってさぁ、トルシュはVOAを捕まえたいわけじゃん? だからさ、ニンゲンがさ、ごちゃごちゃやってる方が都合いいんだよ。イェナがほんとに新しくなって平和に戻ったらVOAがいなくなっちゃうかもしんないんだもん」

やはりチトは思いのほか頭が回る、とタォヤマは頬杖をついたまま思った。シーシより少し大きくなっただけのように見えるし、喚いている時はまるきり子供だが、話すことの筋は通っている。

「……つまりトルシュはセブジの仕事を妨害したい……?」

「だとおもう。違う?」

「でもそれじゃやってることがVOAと同じだ……」

「だってトルシュはリュボヤだもん。リュボヤってのはそういうのなの」

「それをいうなら――」

「あたしはぁ、あたしだもん。とにかくとりあえずトルシュのところににげて、そんでぇ、ユズハに連絡いれたら助けてくれると思う。トルシュはさぁ、融通きかないけどユズハならきっと助けてくれるよ」

結局他人任せか、とタォヤマはため息をついた。しかしチトの年齢を考えれば仕方がないことかもしれない。彼女はリュボヤだとしてもまだ子供の年齢で、一人でいきていく術がないのだ。

「タォヤマはさぁ、なんでもできるじゃん。だってさ、だってちょっとぽんってやったらなんかできるでしょ。したらさ、お店屋さんとかさ、そういうのしてさ、生活していけるでしょ。ね。それで三人で暮らすの」

タォヤマは泣きたかった。チトの話は夢物語だ。先程のセブジの話からすれば彼女は闇の中で生まれた、公式には存在しないはずのリュボヤで、つまりイェナから出ていく手段がないということだ。しかしここにいてシーシと暮らす限り、彼女は大人の事情に巻き込まれ続けるだろう。三人で幸せに暮すなら、イェナを離れ、ゴオリバも忘れ、ずっとずっと遠くまで逃げなければならない。セブジが諦めるくらい遠くへ逃げて行方をくらまさねばならないのだ。ユズハという人物がチトの出国を手伝ってくれればよいが、捜査官であるらしいその人物が都合のいい手駒を、しかも危ない橋をわたってみすみす手放してくれるとはどうにも考えがたかった。

「それか……VOAと接触するとか……? でもシーシが怪我したらどうしよう。あいつらにとっての切り札は……シーシでしょ。あとタォヤマもかな……タォヤマじゃないとできないんだよね。人質になってみるとか……?」

「とりあえず」

「うん。なに?」

タォヤマは鼻をすすった。また涙がこぼれてしまいそうだと彼は思った。そんなふうに涙を流すのはニンゲンだけだと思っていたのが遠い昔のことのようだ。

「ここを離れよう。それでトルシュを介さないでユズハっていうやつに接触してみるか……とにかく、あいつが戻ってくる前にどっかに行かないと……」

「そっか、そうだね。えっとね、あたし〈通路〉を作るのは得意なんだ、ちょっとまって。いい場所を思い出すから――」

と、その時だ。

雨音かとタォヤマが振り返ったほど、その音はごく自然に空気の中に滲んだ。きょとんと目をまるくしたチトもきょろきょろとあたりを見回す。

「……セブジ、帰ってきた?」

「いや……違う、メッセージだ」

「なぁんだ、もぉ、びっくりさせないでよ。なんなの? 緊急? あいつからとかだったら無視してよ」

「そうする」

なぁんだともう一度上を向いて同じ言葉をはいた彼女は足を投げ出した。そして椅子のヘリに手をつき、背中を丸めて眠り込んでいるシーシを覗き込む。タォヤマは口元を拭って空中に手を突っ込んだ。

普段よりも新規メッセージが熱く感じられる。なにか嫌な予感を覚え、彼は慌てて指を払った。ほとんどタイムラグなしに仮想モニタが展開され、文字が浮かび上がる。

「……えっとぉ寄生種、――テスト結果?」

「ああ、寄生種検査の結果か。よく見えないんだけどなんてかいてあるか読めるか?」

「んー……なんか難しい……」

白い画面の中に幾つかのグラフが展開され、細かい文字の羅列がその下に数行表示される。背景はほぼ白だが、一部赤く染まっている部分がある。文字が滲んで読めないのはタォヤマの視力がまだ回復していないせいだ。

「んーと……命の危険? これってどういう意味?」

これでは埒が明かないとタォヤマは観念した。第一公用語のネイティブでないうえに、語彙力の少ないチトに公式文書は手に余るだろう。

栄養剤を口の中に突っ込み、画面を五百倍ズームにして顔を近づける。ピントの合う位置までモニタを引き寄せ、タォヤマは目を細めた。周囲はよく見えないが、かろうじて数文字程度なら見えるようだ。これで読んでいくしかないだろう。

「……遺伝子、情報の、欠損――は、認め、られません……また、既知の寄生主に、よるいずれの、改変パターンとも、一致しま、せん。一部、遺伝子情報が、人工、的、な、塩基に、置き、換え、られて、い、ますが、被験者の、所属す、る、生命体、で、行わ、れる、遺伝子、操作、の、パターンと、ほぼ一致、し、て、おり、異常では、ない、と、判断でき、ます――」

ほっとタォヤマは息をついた。

タォヤマはオガのクローンであるが、オガの卵はかなり若い頃に採取されたので、自発的には成長しなかったはずだ。それで成長を促進させ、かつ種としての多様性を維持しつつ卵から生まれる子供の能力を適度に分散させるために、人工的な遺伝子操作が施されたのだ。これはユフとしては特に珍しいことではなく、タォヤマも知っている事実である。

チトはまだきょとんとしているが彼は右中腕を振って彼女に合図をした。

「どういうこと?」

「俺は寄生種に寄生されてないってこと」

「あ、そうなんだ。よかったね」

「シーシの分もあるはず……シーシってどこにかいてあるか?」

これ? と彼女はモニタの中央あたりを示した。そして沈黙する。

ざっとみて下半分はほとんど赤、文字が読めなくてもなにか異常が起きているらしいことはわかった。

どくん、と心臓が音を立てる。

「……ねぇ、真っ赤だよ。でもこの辺は判定できませんって書いてる」

「判定できない? 所見ってかいてるところは?」

「――主張?」

「主張じゃない。見解とか、コメントとか、概要とか、そういう感じの」

タォヤマは目を細めた。

瞼の裏にシーシの瞳の中にうつっていた光が浮かび上がる。炯々と目をひからせ、獲物が射程距離に入ってくるのを待っている生物の目を髣髴とさせる光だったようなきがするのは、タォヤマが今創りだした幻影だろうか。しかし、確かにあの時あの光はタォヤマの方へ向かってきて――

雑念を追い払い、タォヤマは目をこらした。文字の輪郭はぼやけ、頭のなかに単語が入ってこない。一度目をつぶり、また開いて彼はよくよくパネルに目を凝らした。赤文字の検査結果が彼の視線から逃げるように揺れている。

「ここは字がいっぱい書いてる」

「……所見……これだ……主と……なる核酸――」

「――拡散ってなに?」

「を確認できま、せんでし、た」チトを無視してタォヤマは読み続けた。温度が下がった錯覚をする。「検出、された……高分子は、登録済みの、いずれの生命体とも、一致しま、せん。サンプルが、不、完全で、あった、可能性もある、の、で、再、検査を、おすすめします。ただし、一部に寄生生物の、通過、定着、反応があ、り――」

「寄生生物?」

ぎょっとしてタォヤマはシーシを抱え上げた。こてんと首を傾げているシーシは目を閉じているが、ゾワゾワと腹の奥のほうが波打っている。

寄生生物。

もし寄生生物に定着されたら、タォヤマはあっという間に昏睡状態に陥りかねない。彼らにとってのほんの少しがタォヤマにとっては致命的な傷になりうるからだ。それに体内に異物が入ったことによって体が反応し、あやまってスプシュトしてしまったとしたら――

「ちょっと! シーシになにすんのさ!」

「……寄生されてる……かも……」

「だからなにさ、寄生されてたってなんだってシーシはシーシじゃん! メリヴォだかなんだかしんないけどさ、ちょっとくらい変わったからってなんなの? もう! シーシおろしてよ! おっこっちゃうじゃん!」

チトの声に反応してシーシが唸った。まぶたをぴくぴくとさせて小さなあくびをする。

寄生種が彼女に宿っているのなら、排除しなければならない。目をひからせてタォヤマの隙を狙っているかもしれないのに、むざむざと放置しておくわけにはいかない。しかし、寝ぼけて眉根を寄せているシーシは確かにシーシだった。小さくて、あたたかくて、無邪気なシーシのままだ。

わからない。

どうすればいいかわからない。どくどくと心臓が脈打っているせいで考えがまとまらない。

「タォヤマ!」

「…………」

「もう! タォヤマ!」

脇からにゅっと短い腕が伸びてくる。ぎょっとしてタォヤマはとっさにシーシを胸に押しつけた。拳で目をこすっているシーシは特に頓着なく両拳でまぶたをこすっている。

「あえ? ガイはぁ……?」

声を裏返してシーシは鼻をすすった。しょぼしょぼと目を開くが、まだ眠気が残っているようで渋い顔をしている。すべすべの眉間に皺が一本縦にはいり、唇の下にも線ができている。柔らかな脂肪に包まれた体だ。目がさめた途端急に体温が上昇した。まるでニンゲンのように――

「ガイが泣いちゃうからぁ、シーシはガイと遊んであげなくちゃ……」

なに言ってのさ、と机に両手を押し付けてチトが鋭く詰問した。しかしシーシときたらまったく頓着する様子がない。もうひとつ大あくびをしたかと思うと、今度はぐうと背中をそらしてぼりぼりと首筋をかいている。

どうする、とタォヤマは自問した。ついまた抱きかかえてしまったが、本当にこのままでよいのかわからない。先ほどタォヤマが倒れる直前、飛びかかってきたシーシのことが思い出される。まるで次の宿主を見つけたように嬉々として――

彼は頭を振った。

念のためチトにシーシを抱かせるか? そしてもう一度寄生種検査に出して安全であることを確かめるか? もしそれで寄生されているとわかったら?

どうする。

「で、どうすんの? もう! 貸してよ! あたしが抱っこする」

「いや――」

「なにが! なにがいやなのさ! かしてよ! はやく!」

「違うよ、ちょっと驚いただけで……」

「うそだよ! シーシ、どっかに捨てちゃうつもりだったんでしょ! 知ってんだから!」

「そんなことしない!」

喉の奥の方で声がひっかかったが、タォヤマはかまわず息を吐き出した。カチリと歯が音を立てる。ひゅっと身をひいたチトは胸の前で拳を作ってタォヤマをにらみつけている。

「するわけないだろ……!」

「…………」

「とにかく移動する。場所のあては見つかったのか?」

「…………」

ますます顔をしかめ、チトは口をとがらせている。タォヤマは息を吐き、そしてまた吸った。混乱はまだ頭のなかに残っているが、冷静さはもどってきたようだ。彼はもう一度息を吐き、そして詫びの言葉を口にした。

「悪かったよ……俺は――宿主になったことはないけど、でももし寄生なんかされたらさっきみたいにひっくり返るか、最悪死ぬかもしんないんだよ。それでちょっと……焦って……別に乱暴しようと思ったわけじゃない」

「……じゃあなんで今はいいの?」

「もしほんとに寄生種がついてたとして、宿主をかえるつもりなら俺が倒れたときにやってるだろ。もう宿主を俺に移してるんだとしても、ひっくり返ったけど今は生きてるし問題ない。 そうじゃないんだったら、一番弱ってるときに移らなかったんだから、その気がないんだろうよ」

チトはまだ口をとがらせている。しかしぎゅっと眉毛を押し下げて泣き出しそうな顔になった。なにを意図した表情かはわからないが、喚くつもりはないようだ。

「……心当たりないわけじゃないんだけどさ、VOAに見つかってもやばいよね」

「知られてる場所なのか?」

「〈通路〉で移動したことあるから……多分把握されてると思う。タォヤマ、どれくらい動けるの? シャトルには乗れ――ちょっと待って」

背筋をのばし、チトが窓の方を振り返った。左手でタォヤマの中腕の服を掴んでいる。

「帰ってきたか?」

「……ううん、違う。もっとやばいやつが来た」

「やばいやつってまさか――」

「そのまさかのVOAだよ! 逃げるよ!」

 

 

そういえばついさっきまで燃料切れで倒れていたのだった、とタォヤマは思い出した。そんな状況で追手を振り切るために縦横無尽に街を走り回れるはずがない!

「タォヤマ! こっち、はやく!」

「ちょっと待ってくれよ……なんにも見えない……」

「はやくぅ! 追いつかれちゃうよ!」

ふっとチトの影が消える。まさかカーポートから落ちたのではないかとタォヤマはぎょっとしたが、すぐにタン! と多重音を響かせてチトの足音が聞こえた。たぶん、カーポートから続く一メートルほど低い石段のうえに飛び乗ったのだ。ゆっくりと上下する建物の振動にあわせれば、地面をけるのはさほど難しいことではないが、上腕でシーシを抱えているせいで俊敏に動けない。ひとまず栄養剤パウチを口に絞り出し、タォヤマは慎重に下を覗き込んだ。石段は見えているが、奈落の先はぼんやりと霞んではっきりしない。

「ここからどうするんだよ……! 〈通路〉を……!」

「〈通路〉なんかはったら一発で居場所がばれるじゃん! まだ姿見られてないんだから、今のうちに走って逃げるよ! 行くよ!」

「行くってどこに――」

チトに中腕を引っ張られ、タォヤマはたたらを踏んだ。しかしそんなタォヤマに一瞥もくれず、チトは奈落の底を睨みつけている。

「おい、ちょっと待てまさか……」

「気絶しないでよ!」

チトが軽く石段の上で飛び跳ねた――ところまでは確かだ。思わず目をつぶったタォヤマは上腕で抱きかかえているシーシをしっかりと胸にだいて、耳も鼻も閉じた。体の重心が前の方に移動し、足の下から感触が消える。

「チトぉ! 落ちぃてるよぉ!」

「わかってる! タォヤマ、――安全ハーネスみたいの出せない? あたしの反重力装置じゃ逆重力が足りない!」

飛び出す前に聞け、とタォヤマは歯を食いしばったまま罵った。彼はまだ混乱の中にいた。体はもみくちゃにされているし、空気抵抗を受けた服がバタバタと音を立てて背中を叩いているし、腕の中のシーシはなにか興奮して喚いている。中腕を掴んでいるチトの手はあまりにも頼りがなく、あっという間にどこかへふき飛んでいってしまいそうだ。だが彼女の場合は〈通路〉を張ってどこかへ飛ぶこともできるだろう。タォヤマはいざとなれば空間圧縮で移動するしかないが、問題はこの状況でイェナを壊さずにそれができるかどうかだった。

「なんだよ、安全ハーネスって!」

「え? なにが? 安全――ベルト? なんか紐とかなんとかでさぁ、どっかに引っ掛けるやつ! びゅんびゅんって!」

なんのことだか全く理解ができない。腹に力を入れ、タォヤマは彼女の言葉を忘れることにした。どうにかしてVOAに捕捉されないように、安全地帯へ逃げ込まねばならない。しかもできるだけ体力を消耗しない方法で、だ。

薄目をあけて状況を確認する。体の回転はすこしずつ遅くなり、下を見ようとするともろに空気抵抗を受けることになるが、彼の鋭敏な神経はまだ健在だ。目は見えなくても音の反響と反射熱でだいたいのものがどこにあるかはわかる。今、彼らは眼下で列をなすホバーカーの地帯に接近をしている。ホバーカーは渋滞気味のようだが完全に止まっているわけではなく、中に突っ込んだら間違いなくあちこちにぶつかって体がばらばらになるだろう。シーシも腕の中から飛び出してしまうかもしれない。

せめてどうにか落下の方向を変えなければ、とタォヤマは思った。落下姿勢を制御するにはとにかく自力で姿勢を変え、慣性モーメントを利用せねばならないが、上腕の中にはシーシがいるし、中腕はチトが掴んでいる。それにこの落下スピードの中で背腕を広げたら、間違いなく折れる。落下速度をおさえ、方向を変えるには揚力の力を借りるほかない。

スプシュトだ。スプシュとして折れない翼を作る。

そこまで考えてタォヤマは冷静に背腕を空中に突っ込んだ。そしてゴミ箱の中からメリヴォの破片を拾い上げ、小さな柔軟翼パラフォイルをスプシュトする。背腕が持っていかれないようにすばやく糸を両中腕にひっかけ、彼はトグルを引いた。

ぐ、と肩に上向きの力がかかる。中腕につかまっていたチトにひっぱられ、タォヤマは姿勢を崩したが、開いた柔軟翼はしぼむことなく空気を受け止めてゆれただけだ。落下のちからが弱まったが、ぐんぐんとホバーカーの列が眼前に近づいてくる。

「タォヤマ! あっち!」

風音が迫ってくる。はっとしてタォヤマは顔をあげた。

チカチカと目の奥の方で神経が発火する。近づいてくる風の塊、空気をうならせる冷たい剛体――シャトルだ。

(運悪く数百メートル落下した挙句――)

いつかのパトリシアの言葉が思い出される。あのとき、彼女はシャトルの安全対策をしたといっていただろうか? つまりなにかが運悪く落下してきてもシャトルには直撃しないようななにかを――

腕に力がこもる。

「! ! !」

バタバタと上着が音を立てている。だが、思ったような衝撃はやってこなかった。シャトルの鼻先が彼の腹を突くかと思った瞬間、空気がぐにゃりと重くなり、彼らを受け止めたのだ。

チトだ。

ぐるりと体が一回転してシャトルから離れる。その拍子に柔軟翼が腕からすっぽ抜けたが、タォヤマは慌てずに空中に背腕を突っ込んだ。心臓がどくどくと音を立てているが、頭の芯はまだしっかりしている。

どこかに命綱をひっかけねば、と彼は思った。投げ縄やフックのイメージが浮かぶが、一気に力がかかっては骨が折れるかもしれない。縄はゴムのようなよく伸びる性質のものでなければならないだろう。

絡みつく紐のイメージと共に腕を振る。

が、飛び出したのは緑色の線だった。小さな緑色の葉をひらひらと振って蝶のように奈落の底へ落ちていく。途中ビル風に煽られて細く頼りない茎はふわりと持ち上がったが、これではとても落下を止められない。イメージが拡散する。まとまらない。

「タォヤマ! あそこに降りるよ!」

「どうやって!」

「いいからあたしにまかせて! いくよ、3、2、1――!」

タォヤマは歯を食いしばり、目を閉じた。スプシュトしてしまわないように背腕を背中に折りたたみ、上腕の中にいるシーシをしっかりと抱きしめる。弧を描きながら落ちる体にふと加速度がかかったような錯覚をした、と思った時、下からすくい上げるような力が三人を浮上させる。

中腕を痛いほどにチトが掴んでいる。

「チト――――――――ぉわ! あ!」

ぐるり、と体が回転する。重心を見失ったタォヤマは思わず目を開き、そして目の前に迫った灰色の地面にあせってまた目を閉じた。全身の毛穴がきゅっと小さくなり体中の筋肉に衝撃に備えよと命令が出る。

が。

ふたたび予測は裏切られた。 柔らかい感触が彼らの体をつつみ、衝撃を和らげたのだ。ぐるりともう一回転したタォヤマは柔らかい壁に激突して止まった。

「タォヤマ! 走るよ!」

「え? 走る?」

「はやく! シーシ落とさないでよ!」

「ちょっと、足、が……」

「もう! なにやってんのさ! はやく!」

ターヤマぁ、頑張ってぇ、とシーシも無邪気な声で言った。唇を内側に巻き込んで目をぱっちり開いている彼女は多分ことの重大性がわかっていない。がくがくと震える膝を叱咤し、タォヤマ地面に手をついた。いつのまにか柔らかい感触は消え、冷たい合成石の感触に変わっている。

「そんな、無理――」

「だってあのままじゃおっこっちゃいそうだったんだもん! しょうがないじゃん、はやく! 絶対気づかれてるから!」

あー、とタォヤマの胸の中で唐突にシーシが甲高い声を発した。きらきらとした声で笑った彼女はタォヤマの胸元を引っ張り、あたりをはばからずにさらに主張した。

「ボナペティのおじちゃんだよぉ!」

 

2017年9月7日公開

作品集『ある朝の毒虫』第9話 (全12話)

© 2017 斧田小夜

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