箒星の祈り

村崎羯諦

小説

13,274文字

初冬。どこか圧迫感さえ覚える、低く、しかし澄んだ青空。肌寒さを感じる気温。そんなある昼下がりに、新留芽衣は約三日ぶりに僕の1kアパートにやってきた。
玄関の扉を開けるやいなや、彼女はチャイムを鳴らしてから三十秒も待たされたことに不満を漏らし、お邪魔しますの一言も告げないままづかづかと部屋の中へあがっていく。肩にかけていたトートバックをベッドの上に放り投げ、その隣にコートを着たままドスンと腰かけた。乱暴な衝撃が加わったせいで、折り畳み式の安いベッドがきしむ音が聞こえてくる。芽衣はそのままきょろきょろと部屋の中を見渡し、ふと自分が座るベッドの上に落ちていた一本の縮れ毛に目をとめ、わざわざご丁寧にそれを拾い上げた。ちゃんと掃除しておいてよ。芽衣は不機嫌そうに眉をひそめながらそうなじり、それをぽいっと床の上に放った。そして、唐突に僕と僕が済む部屋への関心を失った芽衣は、足を組み、背中を丸めた状態で自分のネイルを観察し始めた。薄いピンク色に塗られた、右手薬指の爪先をじっと見つめるまなざしは真剣そのもので、それはまるで昆虫学者が新種の昆虫を観察している時のようだった。まあ、もちろん昆虫学者なんて実際に見たことはないけど。
「これからちょうど出かけようと思ってたんだ」
芽衣は気怠そうに顔をこちらに向け、目にかかった前髪を右手で払った。栗色の大きな瞳で不思議そうに僕をじっと見つめた後、僕の言わんとしていることを理解したのか、露骨に嫌がる表情を浮かべた。
「そういうのは玄関で言うべきじゃない?」
僕は床に落ちた縮れ毛を拾い、それをごみ箱に捨てる。そして、クローゼットにかけられていた薄手のコートを手に取った。
「何の確認もしないで、ずかずかとあがりこんできたのはそっちでしょ。とにかく外に出よう。ネイルを確認するのは、別に外でもできるだろ?」
「歩きながらでは、危ないと思う」
「じゃあ、車を出そうか」
芽衣は納得いかないような顔をしながらも、トートバックを手に取り立ち上がった。部屋に残ると言い出すかと思いきや、意外にもついてきてくれるらしい。入ってきた時と同じように、不機嫌さを足音で表現しながら芽衣は一人で玄関へと向かっていった。僕もコートを羽織りながら、その後に続く。
部屋の外に出て、戸締りをする。その間、いつもは静かな隣の部屋からわいわいと数人で騒ぎ立てる音が聞こえてきた。まだ午前中だが、何か宴会でもやっているのだろうか。その疑問をぶつけようと廊下の手すりに寄り掛かっている芽衣の方へと顔を向けたが、彼女はそんなことには全く関心を持っていないようで、ただただ熱心に、今度は左手のネイルをじっと見つめていた。そのため僕も何だか馬鹿馬鹿しい気持ちになり、「行こうか」とだけ彼女に告げ、アパートの玄関を目指して歩き始めた。すると、隅に黒いほこりが溜まった階段を下りている最中、芽衣が思い出したかのように突然、いったいどこに用事があるのかと尋ねてきた。僕は彼女の顔を見ることなく、端的に近所の大型ショッピングモールへ用事があるのだと答える。芽衣は少しだけ考え込むかのようにしばらく黙り込んだ後、最近そこにできた洋菓子店に行ってみたいと告げた。
「もちろん、そっちのおごりだから」
念を押すように芽衣はそう付け足した。なんでおごらなければならないのかと反論すると、「じゃあ、もうエッチなことはさせてあげないから」と、彼女はまるで地面を歩く一匹の蟻を押しつぶすかのような調子で返事を返した。それはアンフェアだと言おうとしたが、それを言ったらあまりに自分がみじめになってしまいそうな気がして、渋々自分がおごることを了承した。すると芽衣は呆れとあざけりが混じったような笑い声を立てた。
「昔、私の友達が言ってたんだけどさ」
階段を降り切った僕は芽衣の方へと顔を向けた。
「男の脳みそって、結局は大部分が下半身についてるんだって。たとえそれが巧妙に隠されていたり、何か他のものに変換されていたとしてもね」
僕の目をじっと見つめ、芽衣は無邪気に目を細める。その目はまるで、白々しい嘘をついている猫のような目だった。
僕たちはそのままアパート裏手の駐車場へと歩いて行った。ぽつぽつと間を開けて停められている車のうち、自分の車である、黒のミニバンへとまっすぐに近づいて行く。購入したのは今から五年以上も前だろうか。今みたいに、価格が馬鹿みたいに高騰する以前に購入したもので、買った当時はまたすぐにでも違う車に乗り換えようと思っていたが、そのタイミングを逃したまま今日まで乗り続け、今では愛着すら感じてしまっている。芽衣が助手席側、俺が運転席側へと回り込み、ドアに手をかけ扉の開錠をした。しかし、その時、俺は駐車場の片隅に誰かが倒れこんでいる姿が目に入る。車の陰に隠れ、ここからでは爪先が天の方へ向いた、まっすぐに伸びた両足しか見ることができない。好奇心に駆られた俺は、芽衣に一言告げ、倒れている人物のもとへと歩いて行く。
駐車場の片隅に倒れていたのは、自分より一回りは年上であろう、汚らしい身なりをしたホームレスの中年男性だった。彼は仰向けで、目を閉ざした状態のまま倒れていた。鼠色のくすんだニット帽からはほこりとふけで所々に白く汚れたぼさぼさの長髪がはみ出し、顔の下半分は長さもばらばらの無精ひげで覆われていた。肌の色は、汚れかで茶色くくすみ、顔と首の皮膚は所々はがれ、また赤い斑点のようなものがぽつぽつと浮き出ている。寒さをしのぐためなのか、ネイビー色のジャケットの下にはサイズの異なるTシャツを重ね着していたが、下には何か月も履きっぱなしであろう、膝の部分が破けているジーンズを履いているだけだった。そして何より目を引いたのは、男が仰向けのまま、がっしりと胸の前で、両手の指を交互に、固く組んでいたことだった。その様子は敬虔なクリスチャンを思い起こさせるほどに、力強く、そして不思議な魅力があった。だからこそ、自分はすえた腐敗臭と、男の上空を飛ぶ何匹もの蠅に眉をひそめることもなく、その男をじっと眺め続けられたのだろう。
「どうせ死ぬなら、もっと他のところで死ねばいいのに」
いつの間にか後ろに立っていた芽衣の言葉で、ハッと現実へと引き戻される。芽衣の方へと顔を向けると、彼女は僕と同じように死んだ男を見つめていた。芽衣は僕が自分の横顔を見ていることに気が付くと、おどけるかのように顔を歪め、さらに自分の鼻をつかんでみせた。
「せっかくいい気分だったのに、台無し。それに何かくさいし」
芽衣の言う通り、男から発せられる臭いは強烈だった。しかし、それが死によって発せられた臭いなのか、それとも、彼が死ぬ以前から発せられていた臭いなのかはわからない。芽衣は僕の服の袖をつかみ、早く車に戻ろうと無言で訴えかけてくる。何かやるべきことがあるというわけでもないため、芽衣が機嫌を本格的に損ねる前に僕は芽衣の手をつかんで車へと戻った。車の運転席に座り、エンジンを駆け、シートベルトを締める。その動作の途中、一瞬だけちらりと男のいる方へと視線を投げかけた。しかし、車からでは先ほどと同じように男の両足しか見ることができない。
「景保所に連絡しとかなくていいかな?」
助手席でネイルの最終確認をしていた芽衣に向かってつぶやく。
「誰か他の人がとっくに連絡してるでしょ。真夏じゃないし、しばらく放っておいても大丈夫だと思う」
そして、芽衣はフロントミラーをおもむろに自分の方へ向け、今度は自分の顔の化粧ノリをチェックする。しかし、化粧ノリはネイルほど大事なものではないらしく、十秒もしないうちにフロントミラーをもとの位置へと戻した。
「それに……死んだからどうのこうのっていう時代でもないしね」
確かにそれもそうだ。僕は芽衣が戻したフロントミラーを少しだけ調整しながらうなづくと、そのままアクセルを踏み、車を発進させた。

 

 

 

 

あの日以来、世界は一段と不可解なものになったと思う。いや、少なくとも僕がそう思っているだけで、他の人も同じようにそう考えているかはわからない。しかし、少なくとも自分はそう思っている。そして、その不可解さの理由の一つは、あれだけの出来事が起こりながら、僕の周りの世界が以前と同じように動いているようにしか見えないと言うことなんだろう。
今から七年前。今世紀を代表するある天才科学者によって、死後の世界の存在が科学的に証明された。その科学者は難しい数式や記号をずらりと並べ、論理的、そして説得的にその存在を証明して見せた。いくら内容が突飛だからと言って、すでに権威を有していた科学者の発表である手前、すぐに世界中で確認が行われた。そして、地球上にいる科学者はその証明の誤りを指摘することができず、むしろその真実性を認めざるを得ないという事態が起きてしまったのだ。もちろんそんな高度な科学的知識を持たない一般人も、そして、その証明の完全性を認めた科学者たちも、そのような事実を簡単に認めることなどできなやしない。特に後者の人間たちは、その証明は科学的ではあるが、非科学的であると言って、自らが今まで母親のように信奉していた論理を捻じ曲げてまでもその天才科学者を痛烈に批判してみせた。もちろん、天才科学者の頭が狂ったとして、、そのままこの論争が終わる可能性も十分にあったのだろう。しかし、残念ながらそうはならなかった。天才科学者は再びメディアの前に姿を見せ、もう一度、今度はもっとゆっくりと、なおかつ理路整然と証明を繰り返して見せたのだ。なんでも彼の説明によると、死後の世界は今僕たちが生きている世界と環境的に大きく異なるところはないらしく、きちんと人間のままそちらの世界に行くことができるらしい。もう一度別世界で生まれ変わる、そう考えて差し支えない。テレビの画面に映しだされたその天才科学者は、革で作られた北欧産の黒いソファにふんぞり返って答えた。そして、その放送から三週間後、天才科学者は自ら命を絶った。この自殺は科学者や社会学者の想定を超えた衝撃を世界に与え、あれよあれよという間に、世界中で自殺が大ブームとなる。そうなれば、今さらあれは間違いだなんて言えるわけがない。誰もそんな責任を背負いたくもないし、何よりも天才科学者が死んでしまった以上、彼の証明を覆すことができる人間がいなかった。そして、まさになし崩し的に、世界中で死後の世界の存在が認められることになり、最終的に権威ある学会によって彼の証明が受け入れられた。これは天才科学者による証明から一年後、つまりは六年ほど前の出来事だ。
それからというのも、世界中のあちこちで嫌なことがたくさん起き、世界はちょっとした「混乱」状態になった。集団自殺が頻発し、自爆テロが多発し、国は赤字国債を乱発した。ネットやテレビは連日その話題でもちきりだったし、知り合いにも、その流行に乗って自殺した人間がいる。しかし、人間と言うのは不思議なもので、その「混乱」もいつの間にか収束していくことになる。いや、僕がこういうのは、単にメディアやネットで取り上げられなくなったというだけで、「混乱」が恒常化しただけに過ぎないのかもしれない。だけどもまあ、恒常化したならもはや「混乱」とは言えないこともないだろう。とりあえず、そんなこんなで世界は以前と同じような落ち着きを取り戻した。もちろん、七年前と今ではまるっきり変わってしまったこともある。小学校教育において、生に対する倫理を解くことが以前よりもずっと難しくなったし、人口やらなにやらが減って、近所のスーパーの品ぞろえが悪くなった。だけどその一方で、以前と同じようにネットはつながりるし、蛇口をひねれば水が出てくる。電気がなくなる予定もなく、そのおかげで、真夏には空調の聞いた部屋で、昼間っからセックスができる。つまり、世界は、少なくとも僕の世界は、以前と同じようなスピードで、以前と同じような調子で動き続けている。気味が悪いほどの安定。いや、もしかしたらもっとたちの悪い、根本的な問題なのかもしれない。

「何ぼーっとしてんの」

芽衣の言葉にハッと我に返る。僕が顔を芽衣の方へ向けると、彼女は片肘をついて顎に手をやり、空いた方の手で自分の目の前に置かれたモンブランの栗を退屈そうにフォークでつついている最中だった。期待していた店がそこまでだったからなのだろうか、先ほどから芽衣はケーキに手を付けることなく、ずっとそうして上に乗った栗で遊んでいる。きっと突然僕に声をかけたのも、特別な意味などなく、単なる退屈しのぎの一環に過ぎなかったのだろう。
店内はムード感を演出しているのかぼんやりと薄暗く、聞いたこともないスローテンポなジャズが流されている。オーナーの拘りなのか、六つあるテーブル席はそれぞれ異なる椅子と机で構成されていて、しかし、そのどれもが画一的にこげ茶色の光沢を発していた。ハンドメイドな神秘的雰囲気に呼応するかのように、お客は少なく、またその全員が互いに気を遣い合いながらひそひそと話している。
僕は改めて周りをぼんやりと見渡した後、先ほどまでずっと放心していたことをなんとなくごまかしたい気持ちになった。だから僕は何のためらいもなく、呼吸をするように嘘をつくことにした。
「ネイルを見ていたんだ」
「ネイル? 私の?」
芽衣はそう言うと顔を上げ、今まで見たこともないような驚きの表情で僕を見つめた。
「ネイルに興味があるなんて意外。綺麗だと思う?」
「綺麗だと思う。暇を見つけてはネイルを確認する気持ちがよくわかった」
「何それ」
芽衣は少しだけ不愉快そうに顔をしかめた後、八つ当たりとするかのように、再びフォークでモンブランの栗をつつき始める。三、四回ほどそうやってつつかれた後、栗はバランスを失い、てっぺんから情けなく転がり落ちていった。芽衣はそれをもとに戻すこともなく、あるいは転げ落ちた哀れな栗に追い打ちをかけることもなく、まるで一仕事を終えたかのように、ゆっくりと皿の上にフォークを置いた。そして、芽衣はおもむろに自分の懐に手を突っ込み、煙草の箱を取り出す。そのまま慣れた手つきで一本の煙草を取り出し、それを口にくわえる。僕は芽衣がライターを取り出そうともう一度懐に手を入れた隙に、身を乗り出し、ひょいと口から煙草を取り上げる。煙草を奪われた芽衣は抗議の声をあげることもなく、むしろ不思議そうに目をぱちくりさせながら僕の方を見つめた。
「ここは禁煙席じゃないはずだけど?」
その言葉に対し、僕は一瞬だけ言いよどんだ。芽衣を非難するつもりでやったわけではない。なぜ、煙草を取り上げようという気になったのか、それが自分でもわからなかったのだ。芽衣はただ黙ったまま僕を見つめ続ける。気まずい雰囲気に屈するかのように、僕は反射的に思ってもいないことを口に出す。
「煙草は身体に悪い」
芽衣はその言葉に苦笑いを浮かべる。子供がついた苦し紛れの嘘を心の底からあざ笑っている母親のような表情だった。すべてを見抜いたうえで、それでもあえて信じたふりをしている。芽衣が時々浮かべるそのような表情は僕が彼女が見せるしぐさの中で、一番苦手としているものだった。
「吸ってほしくないなら、素直にそう言えばいいのに。バカみたい」
嘲るようにそう言い放つと、芽衣はすでに取り出していたライターと煙草の箱を僕の方へ放り投げる。僕は躊躇いながらもそれらをつかみ、乱暴にコートの中に仕舞った。僕たちの間に重たい沈黙が流れ始める。店内に流れていたBGMはいつの間にか違う曲に移り変わっていて、お客の数も先ほど確認した時よりも減っているような気がした。
「今更健康を気にして何になるの」
芽衣は視線を下に向けながらつぶやいた。そのセリフは僕に向けられたものではなく、単なる独り言だと気が付くのに数秒かかったが、その時にはすでに芽衣は再びフォークを握り、モンブランの本体部分をショベルカーのようにぼろぼろと崩し始めていた。フォークの先端で器用に生地部分をつつき、砂利ほどの大きさに分解している。芽衣はそれを口に運ぼうともせず、黙々とその作業を続けた。会話をつなげようとこちらから話題を振ってみても、芽衣は適当な返事をするだけ。機嫌を損ねてしまったのだろう。こうなっては何を言っても彼女は聞く耳を持たない。僕がそう諦めて自分の皿に目を移したとき、芽衣は唐突に自分から言葉を発した。
「明日の夜、空いてる?」
突然話しかけられたことに戸惑いつつも、何の予定もないと答える。
「でも、どうして?」
「天体観測に連れて行ってほしいの」
天体観測。予想だにしなかった返答に僕は身を強張らせた。しかし、芽衣はそんな僕の反応なんかお構いなしに、ただただ土木作業に没頭している。僕は何も言えないまま、うつむく芽衣の顔をじっと見つめ続けた。そのような僕の視線に気が付いたのか、芽衣はおもむろに顔を上げ、不思議そうに僕を見つめ返した。
「何か変なこと言ったっけ?」
気持ちが落ち着いた僕はようやくそこで言葉を発することができた。
「いや、芽衣の口から天体観測なんて言葉が出てくるなんて思いもしなかったからさ。それで驚いちゃって」
「そんなに驚くようなことでもないでしょ」
「さっき俺がネイルを見ているって言った時、驚いたでしょ? 多分それと同じくらいの驚き」
芽衣はつまんなそうに相槌を返す。それでも僕の驚きは少しばかりはわかってくれたらしい。
「単なる気まぐれで言っただけ。とりあえず、明日の十二時ごろに、病院の玄関前に車をつけといて」
「そんな夜遅くに外出して大丈夫なの?」
「今日と同じように黙って抜け出すだけだから平気」
今日も許可を得ずに外出してきたという事実を今になって初めて知ったが、それでも僕は何ともないかのように芽衣の申し込みを承諾した。きっと本来ならば、そんな夜遅く、しかも冬が迫っているこの季節に外出することは制止すべき事柄なのだろう。しかし、そうすることはできなかった。それが、生命身体の大切さを説くことが難しい時代のせいなのか、それとも違う理由のせいなのかはわからないけれど。
僕の返事を聞いた芽衣は僕から視線をそらし、小さくうなづいた。そして、僕への興味関心が跡形もなく消えてしまったのか、何も言わず、再びフォークで目の前にモンブランをつつき始めた。そのしぐさは何か胸の奥にある鬱憤を晴らすためにようでもあったし、逆に、好きな子を前に素直になれないもどかしさをなだめるためのようでもあった。まあ、そのどちらでもないのかもしれないけど。

芽衣を病院で送り届けた後、僕は寄り道のせずに自分のアパートへと帰った。車を止めようとしたとき、駐車場に景保所のワゴン車が止められていることに気が付く。ここを出るときに見たあの死体を回収しに来たのだろうか。そう思い、死体があった駐車場の隅へと目をやるが、そこにはあの中年男性の死体だけでなく景保所職員の姿もなかった。どこかの家でトイレでも借りているのだろうか。不思議に思いながら、車のカギをかけ、そのまま階段を登って自分の部屋へと向かう。すると、階段を登っている最中に、景保所の職員たちとすれ違うことになった。彼らは二人一組で一つの担架を持ち、慣れた動作で階段を降りていく最中だった。群青色のシートが全体にかぶせられてはいるが、その担架の上には誰かの死体が乗せられていることくらいは小学生にだってわかる。長期間放置された死体が放つ独特の腐臭がしてこないことから、死んでからそれほど経っていないようだ。俺は階段の狭い踊り場で身を端に寄せ、職員に道を譲ると、すれ違う職員が小さく首を傾け、道を空けてくれたことに感謝の気持ちを表した。俺は運ばれていく担架にもう一度だけ視線を送った後で、何の特別な感情も抱くこともなく階段を登り続ける。
それにしても一体誰が自殺したんだろう。そのような疑問は自分の部屋がある階にたどり着くやいなや明らかとなった。右隣の部屋。その部屋の扉が大きく開かれ、下には黒いストッパーが隙間と隙間の間に挟み込まれていたのだ。さらに部屋のインターホンの下には、黄色の背景に赤い文字で立ち入り禁止と書かれた景保所のステッカーが貼られており、中からは数人の話声が聞こえてくる。僕は何気なく階段の横で立ち止まり、家を出るときの隣室の様子を思い返してみた。珍しくどんちゃん騒ぎが行われていたから、きっと自殺は一人ではなく集団で行われたのだろう。そしてその宴会は最後の晩餐といったところか。思うことは色々あるが、ここに突っ立ったままでは、職員の邪魔になる。僕は無意識に顔を伏せ、自分の部屋へと急いだ。何かを避けるようにして、自分の部屋にたどり着き、そのまま中に入る。景保所の職員に対して、何か変な嫌悪感を抱いているわけでもないし、自殺というものに今でも心理的な抵抗があるというわけでもない。それでも僕は顔をうつむけたまま、それもその場を少しでも早く去るように足早に部屋に入った。理由は色々ある。しかし、一つずつ丁寧にピンセットで取り出し、あれこれと吟味するような気分ではなかった。
部屋に入った瞬間、肌にまとわりつくような重たい空気が僕を包み込んだ。僕は靴を乱暴に脱ぎ捨て、上着を着たままベッドの上にあおむけの状態で寝っ転がる。ベッドのきしむ音に耳を澄ませた後、頭の後ろで手を組み、じっと部屋の照明を見つめる。先月取り換えたばかりの照明は、うすぼんやりとした昼白色の光を発していた。最新技術を取り入れたもので、大変長持ちするらしい。引っ越し、あるいは長生きをするつもりがないのなら、今後一生涯電球を換えずに済みますよ。歯並びの悪い販売員が引きつったような笑みを浮かべながら言っていたことを思い出す。あまり面白くない売り文句だ。僕はそのまま目を閉じ、心の中で悪態をついた。

 

 

 

約束の深夜十二時きっかりに、僕は病院の玄関前に車を止めた。空気はキンと冷え、街明かりが残るこの場所からでもいくつかの星がくっきりと見えるほどに澄んでいた。エンジンをかけたままその場で十分ほど待ち続けると、ようやく病院の玄関から芽衣が姿を現した。彼女はまっすぐに車へと駆け寄り、助手席から転がり込むように車にあがりこむ。僕はそこで、芽衣の服装が昨日の昼にあった時のものとまったく同じであることに気が付いた。
「寒いのに、そんな恰好で大丈夫?」
芽衣はシートベルトを締めながら、他人事のように大丈夫だとうなづく。そして僕の顔を見ることもなく、地元では有名な海岸沿いの展望台の名前をつぶやいた。芽衣が告げたのは、病院から車で三十分ほどの場所にある展望台だった。岬の先っぽに、長い運転の休憩地として作られ、風光明媚な眺めが話題となって以降、断続的にベンチやら小屋やらが付け足された場所だ。芽衣の反応から察するに、どうやらそこへ連れて行け、ということらしい。僕も何も言わずに自分のコートを脱ぎ、それを芽衣に渡す。そのまま車のレバーを切り替え、アクセルを踏んだ。闇夜にふさわしい静かな発信音ととともに、僕たちが乗った車はゆっくりと動き始める。
車の中では、食後の薬を飲むように、僕たちは半ば義務付けられた当たり障りのない会話を繰り返し、時々思い出したかのように二人して黙りこくった。気まずさに耐えかねて何回か音楽でもかけようかと提案しても、芽衣はなぜか頑なにそれを拒絶した。いつもなら何の興味もなさそうに了解するだけなのにと皮肉を言っても、彼女はそれに怒るでもなく、ただ不機嫌そうに押し黙るだけだった。そのような状態の中、六度目、あるいは七度目の沈黙が訪れた時、僕たちはようやく展望台に到着した。町明かりが届かないひっそりとした暗闇と静寂に包まれ、時間帯のこともあってかあたりには珍しく誰もいなかった。必要以上に大きく作られた駐車場の片隅に車を止め、僕たちは海に突き出した展望台へと向かう。展望台は絶壁の上にあり、所々さびで覆われた円形型の屋根と、屋根を支える円柱を囲むようにして作られたベンチがあるだけだった。僕たちは何も言わず、並んでベンチに腰掛ける。
目の前に広がる海は絵の具のような黒い色をしていて、月明かりがなければそれが海だということには気が付かないほどだった。海から少し上へ視線を向けると、ぽつぽつと白色色の星が瞬いている。まだ目が暗闇になれていないからなのか、あるいは展望台の近くに設置された外灯がわずかとはいえ明かりを発しているからなのか、期待していた以上に星は見えない。もっと星がきれいに見える場所に行こうかと言ってみたが、芽衣はけだるげにその提案をはねつけた。芽衣がそれでいいと言うのなら無理強いするつもりはない。僕は諦めて、遠慮がちに輝く星と申し訳なさそうに波立つ海を交互に見つめる。
どれくらいの時間が流れただろうか。退屈な五分よりは短く、ルーチン化した十五分よりは長い時間。その間、僕たちは人形のように身じろぎせず、言葉を発しなかった。退屈を感じ、ふと芽衣の方を振り向く。芽衣はいつの間にか火のついた煙草をくわえ、気だるげな目で目の前の風景を眺めていた。煙草の先に光るオレンジ色の火が薄暗い空間の中で幻想的に思えた。僕の視線に気が付いた芽衣はちらりとこちらへと振り返る。その煙草は病院から持ってきたのかと尋ねると、芽衣は何も言わないままポンポンと彼女が来ていた僕のコートのポケットを叩いた。昨日芽衣から没収した煙草とライターがそのままになっていたということを僕は思い出す。しかし、非難しようといった気持ちは全くわいてこず、僕はただ適当に相槌をうつことしかできなかった。
「私はね、かわいそうな女なの」
芽衣のそのセリフはあまりに自然で、意識していなければ聞き落としてしまいそうだった。僕がゆっくりと芽衣の方へ顔を向けたが、芽衣は何事もなかったのようにただ前を見つめている。そして少しだけ間が空いた後、横目でちらりと僕に視線を送り、冷笑的に微笑んで見せた。
「あなたもそう思う?」
僕は少しだけ考えた後、質問に答えた。
「俺もそう思うよ」
芽衣はおもむろに煙草を地面に落とし、靴で火を消した。それから芽衣は無表情のまま、すくっと立ち上がる。そのままほこりを落とすために自分の尻をやさしくはたき、僕に向き直った。
「そんなこと微塵も思っていないくせにね」
僕は芽衣の言葉を肯定も否定もせず、ただ黙って肩をすくませる。それならば一体なんと言えばよかったのか、なんてことは口にしない。芽衣に倣って僕もベンチから立ち上がり、ほこりを落とすために自分の尻をはたいた。そして僕たちは何も言わないまま展望台を後にし、車が止めてある駐車場へと歩いて行った。

 

芽衣と天体観測へと出かけてから一週間。彼女は一度も僕の部屋を訪ねてこなかった。それ自体はそれほど珍しくはなかったが、連絡さえ一切してこないというのは今までにないことだった。知らないうちに彼女を怒らせてしまっていたのかもしれない。僕はそう思い、仕事が休みの日に芽衣がいる病院へと行ってみることにした。
車を走らせ、病院の駐車場に駐車する。病院の正面玄関から中に入り、玄関の左手にある受付へとまっすぐに向かう。薄いピンク色のナース服を着た若い女性がにこりと微笑み、形式に沿った挨拶をしてくれた。ご用件はなんですかという彼女の質問に対し、僕は新留芽衣との面会をしたいのだと告げる。彼女はもう一度微笑を浮かべた後、少々お待ちくださいと言ってから席を立ちあがった。そのまま後ろの資料棚へと歩いて行き、そこにある僕の左腕と同じくらいの厚みがある青のファイルを取り出す。そのファイルをパラパラとめくりながら元の席へと戻ってきた。受付嬢は慣れた手つきでページをめくり、不意にあるページで手を止める。そして、少しだけ眉をひそめた後で、今度は何も言わないまま席を立ちあがり、もう一度資料棚へと歩み寄っていった。そして、今度は違う色をしたファイルを僕に背中を向けたままパラパラとめくり、何かを確認し終えてから、そのファイルを携えたままこちらへと戻ってくる。しかし、その時の彼女は全世界の不幸をしょい込んだみたいな悲痛の表情を浮かべていた。
「新留芽衣さんですが……一昨日に亡くなられています」
受付嬢はそこからポツリポツリとファイルに書かれているであろう情報を読み上げ始める。なんでも、一週間ほど前に引いた風邪をこじらせたことが芽衣の直接の死因らしい。僕は天体観測の時に着ていた芽衣の服装を思い返しながら、まるでおとぎ話を聞いているかのように受付嬢の言葉を聞き続けた。彼女は一通りの説明を終えると、深く頭を下げ、お悔やみ申し上げますとかすれるような声でつぶやく。その表情は嘘偽りなく、心の底から芽衣の死を憐れんでくれている表情で、それは命が綿ぼこりのように軽く受け取られかねない時代においてどこか新鮮に感じられた。
「新留さんとはどういった関係だったんですか?」
受付嬢の質問に、僕は「昔からの知り合いなんです」とだけ告げる。それから僕も彼女がしたのと同じくらいに深く頭を下げ、そのまま黙って病院を出ていった。玄関の自動ドアをくぐる時、一瞬だけ受付の方を振り返ったが、先ほどの受付嬢はすでに新しい訪問者との応対に追われていた。
芽衣の死を知らされる前と同じように淡々とした足取りで駐車場を横切る。しかし、駐車場にとめてあった車のところまで戻り、車のドアに手をかけようとした瞬間、僕は突然自分のしていることがどうしようもないほどにくだらないもののように感じてしまう。僕はドアから手を離し、車に背を向け、だらしなく寄り掛かる。金属の冷たい感触をコート越しに感じながら、僕は何気なく顔を上げる。今にも落っこちてきそうな曇り空の下に、ぽつぽつと高く大きな建物が立ち並んでいる。その無機質な物体をぼんやりと見つめながら、僕は鼻から長いため息を吐いた。そして、そのため息を吐き終えるのと同時に、今からあの展望台に行ってみよう、そんなくだらないことを唐突に思い立った。
病院から三十分ほどかけてあの展望台へと目指す。別に助手席に止める人がいるわけではないのだけれど、僕はなんとなくラジオも音楽もかけず、重たい沈黙を身体にまとわせながら道路を駆け抜けた。たどり着いた展望台には暇なドライバーやカップルがポツリポツリといるだけで、駐車場も空いていた。僕は一週間前と同じ場所に車を止め、一人で展望台へと向かう。
今回はベンチに座らず、代わりに展望台の海へと突き出た端っこに立ってみる。そこには、夜とは全く異なる光景が広がっていた。さらに今日は風が強く、油断していたら吹き飛ばされそうなほどだったが、僕は身を乗り出し、そこからすぐ下の絶壁と海面を覗き込む。先端だけが浮き出た岩を白波が周期的に飲み込み、そしてすぐに吐き出す。その光景は単調なようで、どこか人間を惹きつける魅力を持っていた。僕は黙ってその光景を見つめ続けた。展望台は下の海面から相当高い場所にあり、ここから飛び降りれば確実に死ねるのだろう。もちろん死ぬつもりはさらさらないが、僕はふとそんなことを考えてしまう。
僕は結局その光景を飽きるまで観察した後、ようやく身体を起こし、屋根の下のベンチに腰掛けた。それから何気なしに上着のポケットに手を突っ込む。するとそこには芽衣から取り上げた煙草とライターがいまだに入れっぱなしになっていた。しばらく考えた後、僕は煙草を一本取り出し、口にくわえてみる。そして、そのままぎこちない手つきでライターで煙草に火をつけた。煙草を片手で持ち、口から煙を吸い込む。生まれて初めての煙草だったが、むせることもなく煙を肺にため込み、口からため息のように煙を吐き出した。灰色の煙は僕の目の前を漂い、瞬きする間に消えてなくなった。きっとそういうものなのだろう。意味もなくそんなことをぼやきながら、もう一口だけ煙を吸い、ぽいっと足元に投げ捨てる。芽衣がやっていたように、足できちんと煙草の火を消し、一人で駐車場へと戻ることにした。空は先ほど見た時と同じような曇天で、たたきつけるような海風が僕の頬をたたいた。それからちなみに、芽衣が持っていた煙草は、煮込んだ革靴に傷んだはちみつをかけたような味がした。まあ、もちろんそんなもの実際に食べたことはないけど。

2017年11月17日公開

© 2017 村崎羯諦

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