ある朝の毒虫 – 6

ある朝の毒虫(第6話)

斧田小夜

小説

39,392文字

このままでは埒が明かないとシーシを連れ出して逃げ出すことにしたタォヤマ。しかしすぐにチトが追ってきて――

息が切れる。

腕に抱えているシーシはすっかり眠りこけて、まるで砂袋を抱いているようだ。だがうっかり大きな声をあげられるくらいならぐっすり眠っていてくれたほうがありがたい。目の前に地下の地図を表示させたまま、タォヤマは走っていた。息を吐くたびに肺がぎゅっとしぼんで痛みにくらくらとするが、絶好のチャンスを逃すわけにはいかないのだった。

「今どこまできた?」

「11-Aってところを通り過ぎた。もう少しで10Bのゲートにつくと思う」

オッケーと耳元で声がする。

ガイが到着したとメッセージをよこしてきたのは夜になってからだった。おそらく抗議デモが沈静化するのを待っていたのだろうが、ひと目につかないという意味でも好都合だ。地下施設はぽつぽつと補助ライトが灯っており、タォヤマが歩く数メートル先を先導するようにライトが順につく。後ろは闇だが足音も気配もないので、おそらく追ってくるものはいないのだろう。

「ついたらどうすんだ?」

「どうもしなくていいよ。通り道作るからまっててくれ。引きずり込まれないように気をつけろよ」

「引きずり込まれるってどこに?」

「しらん」

知らんって、とガイは妙な声をだしたが、タォヤマは答えなかった。ただ前へ前へと足をすすめる。

トルシュはもう気づいただろうか、とタォヤマは再び背後を振り返って思った。タォヤマが出てきた時はパーテーションの向こうでまだ仕事をしていたが、ガイの近くまで行かないとつながらないからと断ってシーシをこっそり連れて逃げてきた。どうかシーシがいなくなったことに気づかないでくれ、と彼は祈りながら走っっている。

息が切れる。

ピタン、ピタンと靴底が床にぶつかるたびに音をたて、その音が廊下に反響する。廊下の突き当りで曲がる前に一旦足を止め、タォヤマは背後を振り返った。背後のライトはすでに消え、仄暗い闇が控えているだけだ。音は――聞こえない。

短い廊下をまた左にまがり、階段を駆け上る。こうやって何段も階段を駆け上がるとエレベータを使っていればよかったという気持ちがぞろわきあがってくるが、足裏をくすぐられてうっかりスプシュトしてしまっては元も子もない。とにかく確実な道を選ぶしかないとタォヤマは自分に言い聞かせて、ガタつく膝を叱咤した。

階段を登ると10-Bと10-Aのプレートがかかっている。地図と照らしあわせて10-Bの方角に足を踏み出し、タォヤマはガイを呼んだ。

「10-Bフロアまで来たからすぐに出られるようにしといてくれ。そこは誰もいないか?」

「お、やっとだな。いまんとこ人はいないよ。上のフロアではまだガタガタやってるけど」

「ホバーカーはすぐ出せるか?」

「全力疾走で50メートル走ればな」タォヤマは顔をしかめた。ガイの朗らかな口調からしておそらく冗談だが、たちが悪い。「ま、無理だったら俺が担いで走ってやるさ」

タォヤマは答えずに足を早めた。左に曲がり、また右に曲がって、さらに右に曲がる。長い廊下に出くわすたびに気力まで吐き出してしまいそうになるが、どうにかこらえて彼は懸命に足を動かした。地図の中では到着地のゲートが赤く浮かび上がっている。後二回角を曲がれば到達するはずだ。胸の中でもにょもにょとシーシが寝言をつぶやいている。

「そろそろ――」

と、その時だ。頭のなかにガツン! と衝撃を受けてタォヤマは思わずたたらを踏んだ。ぎょっとしつつ壁に手をつき、周囲を見渡す。

「……?」

振動も温度の変化も感じられない、とタォヤマは呼吸を整えながら自分に言い聞かせた。肌が湿っているようなきがするのは汗をかいたからだ。耳にノイズが聞こえるのは自分の呼吸音だろう。ということは先程の衝撃波は外からか?

「ガイ……?」

しっと耳元で息を漏らす音が聞こえたが、タォヤマはひくひくと鼻の穴を開閉させた。匂いも特に変化はなく、異常は感じられない。やはり、外だ。ガイは無事なのか?

「なんかニンゲンがきた。いなくなるまでまとう」

「無事か?」

「無事? 向こうは気づいてないと思う。俺、足音しないし――」

「違う。さっき大きな音がしたから襲われたのかと」

「ああ、通信機を床に落としたからだな。すまん」

ああ、と安堵の息を漏らしてタォヤマは壁にもたれかかった。あと一つ、角を曲がれば10-Bゲートだ。地上階との接続に使われているらしい。他には00-Cゲートや00-ETゲートもあるが、これはどちらも博物館の出入り口ゲートになるのでセキュリティがかかっている可能性があると諦めたのだ。それに体の大きなガイが隠れるのは人通りの少ないところの方がいい。

角からそっと首だけを突き出し、タォヤマはゲートを伺った。

薄暗い通路の向こうから青白い光が漏れている。廊下の突き当りには壁があり、細いスリットが一本、天井から床まで通っている。材質はよくわからないが、薄っすらと透けて月明かりを通しているようだ。それで廊下に青白い光が溢れているらしい。

冷たい壁に背を預け、タォヤマは深呼吸をした。

「ガイ、こっちからはなにも見えないんだけどまだいるか?」

ズダン! と再び激しい音が耳を貫いて、タォヤマは首をすくめた。腕の中のシーシをしっかりと抱き、耳を澄ませる。

「ガイ……?」

「待て待て、そう焦るなよ。聞こえてるから」小声でガイは応答した。「結構人数がいてさ、話し声聞かれたらまずいからちょっとまってくれ」

「了解」

ほっと息をついてタォヤマは深呼吸をした。立ち止まると心臓の鼓動を感じる。頬と首筋を濡らす汗を拭って、タォヤマは目を閉じ、そしてまた開いた。じっとしていると膝ががくがくと震えているのがわかる。

先ほどと同じ激しい音が二度、廊下に響いた。耳を澄ますとがやがやと話すニンゲンの声らしきものが聞こえる。タォヤマは再びそっと首を伸ばして、そちらを見やった。

青白い光を人影が遮っている。

タォヤマは目を細め、人影をじっと見つめた。わざわざこのゲートに来たということは侵入を目論んでいるのだろう。トルシュも言っていたが、ガイも上階ではニンゲンがまだ騒いでいると言っていたし、酔っ払ったりいきがったりしている若者が無茶を働いているのかもしれない。

廊下に足の影が伸びている。タォヤマは目を細めてその本数を数えた。少なくとも八本は棒状に影が伸びている。つまり最低でも四人、それ以上いる可能性もあるというわけだ。

「――タォヤマ、聞こえるか?」

「聞こえる。こっちからも見えた。結構人数いるな……どんなやつらだ? なに言ってるかわかるか?」

「酔っ払ってるっぽい」ひそひそとガイはささやいた。「あとなんだか第三公用語を喋ってるみたいだぞ。俺の翻訳機が反応してる」

「第三公用語?」

思わずシーシを抱き寄せてタォヤマは鼻をならした。

第一公用語はユフ由来の言語だが、第三公用語はリュボヤ由来の言語だ。

嫌な予感がする。

「やっぱり00-ETゲートで落ち合うか?」

「でも博物館内を移動したらセキュリティに引っかかるかも……」

「ああ、そうか。まいったな……」

「10-DLゲートは? ちょうど反対側だ。外を出たら崖っぷちだと困るけど」

ガチャン! と再び大きな音が聞こえ、タォヤマは廊下を伺った。人影はまだたむろしている。先程よりも影の濃さが増したような錯覚をして、タォヤマはぶるりと震えた。

「それよりええと、10-CCFエリアの小部屋から脱出するのはどうだ? 俺が今ちょうどその辺りにいる。あいつらのところからは見えないと思う」

「10-CCF……」タォヤマの声に反応し、表示されたマップがぐるりと回転した。すぐにピッと小さな音が聞こえ、該当エリアが表示される。いま来た道を戻って左に曲がり、次の角を直進、それからまた左。「……小部屋?」

「明かりはついてないから人はいないと思うぞ。二面が窓になってるところはだめだけど、それより奥側なら」

「窓があるのか?」

「ある」

「中に入れるか?」

「おいおい、公務員に不法侵入しろってか?」

はん、と息を吐いてガイはすこし声を高くした。廊下の向こうからはまだ扉を蹴りつけているような音がしている。あれだけ暴れていればそろそろ誰かが来るだろう。早々にここは退却すべきだ。

「わかった……そこは目立たない場所なんだな?」

「木が茂ってて視覚になってるよ。俺が隠れられるんだからタォヤマだってだいじょうぶだろ。とにかく合流しよう。なんだかあいつら嫌な感じがするし……」

「了解。陽動じゃなきゃいいんだけど」

嫌なこと言うなよ、とガイはぼやいたが、タォヤマは腹に力を入れて中腕でシーシを抱え直した。彼女はまだすやすやと眠っている。腕の中はあたたかいのかひたいにすこし汗をかいて、小さな手でぎゅっとタォヤマの胸元あたりを握りしめている。まるで赤ん坊だ。

耳を澄ませ、音を確認する。近づいてくる熱量はないが、曲がり角で様子を見に来た監視役と鉢合わせにならないように先ほどよりも注意深くすすまねばならない。

10-CCFエリアの小部屋は全部で18、そのうち二つは二面が窓になっている。10-Bゲートの位置とその二部屋の位置関係から考えるに、地図の指し示している場所に到達したら、一旦右に曲がってうなぎの寝床のように小部屋が連なる通路に入ってしまったほうが良さそうだとタォヤマは推測した。部屋の中に入る危険をおかすくらいなら通路のつきあたりから脱出したほうがいいかもしれない。ちょうど10-Bゲートから死角になる位置になっている。

足音に気をつけながら、タォヤマは足早に角を曲がった。彼のすこし前を天井のライトが走っている。チチチとかすかな音をたててライトが点灯するたびに、後ろから誰かが追いかけてきているような錯覚をしてタォヤマは振り返った。背後にはまだ闇があり、気配は感じられない。

トルシュは見ているのだろうか、と思う。彼のことだからもしかしたらタォヤマの行動を把握したうえで泳がせているのかもしれない。タォヤマが物理的に窓や扉を開ければ即座に取り押さえるのかもしれないが、そうでなければ――つまり空間を捻じ曲げて壁一枚を抜ける程度なら見逃すつもりなのかも――

壁に10-CCのプレートがある。右矢印がT、左矢印がFだ。タォヤマは地図に視線を落とし、向かう方向が正しいことを確認した。シーシを支える上腕と中腕にはしびれたような痛みがある。ガイと合流したら、シーシは抱いてもらったほうが良さそうだ、このままではなにかあった時に逃げられない。

立ち止まるとぜいぜいと喉から息が漏れる。背左腕で汗を拭ってタォヤマは目をつぶった。喉がからからに干上がって痛いほどだ。

水を飲むか、それともガイのところに行ってからにするか――

「タォヤマさん、どこにいくんですか?」

ぎゅっと内臓が縮み上がった錯覚をしてタォヤマは思わず全身に力を入れた。背中でおとなしくしていた右背腕がビクリ、と跳ね上がる。

「…………」

「戻りが遅いので道に迷ったのかと思ったんですが、シーシもいないし――どこに行くつもりですか?」

じりじりと背中の肌の上を汗が這っている。タォヤマは息を吸い込み、そして背後を振り返った。

 

 

腕を組み、トルシュは目を細めている。それにしても小さな男だとタォヤマは改めて思った。しかしどういうわけか突き飛ばして逃げられるようには思えなかった。妙な威圧感がある。嫌な相手だ。

「まぁ、タォヤマさんはユフですし、10-Bゲートを強行突破しなかったので見逃しても構わないんですが、シーシのことはそういうわけにもいきませんからね」

「…………」

「そのまま連れ去るようでしたら、連れ去りということで警察に連絡しますよ。そうなるとチトはああですからふたりとも保護施設SPAF預かりになりますし、チトのこともいろいろと報告をしなければならなくなりますから私達としても避けたいんですが」

「……落ち着いたら、連絡入れますから……」

「それならシーシをおいて行ってください。あとから引き取りに来るのならチトと合意の上でお引き渡しできます。そのほうが我々にとっても良いでしょう。たしかに――」ふう、とため息をついてトルシュは腰に手をあてた。暗闇からはガシャン、ガシャンといやに派手な音が聞こえているが、まったく頓着していないふうだ。タォヤマは音の方へ視線を送り、そしてまたトルシュに戻した。「シーシが後追いをするのは相当珍しいですけど」

「後追い?」

「あなたがたが落ちてきて慌てて移動したあと、汚れていたのでチトがシャワーをあびせたんですけど、そのあいだずっとあなたのことを心配してましてね。この子がなにかに執着することって今まで見たことがないんで驚いたんです。チトの後追いもしたことがないくらいなのに」

わっと遠くから男の悲鳴があがった。しかしすぐにそれは笑い声になり、また激しくなにかを叩きつける音が始まる。タォヤマは首を巡らせそちらを見やった。

「あなた方はリュボヤを利己主義で感情がないと思っているかもしれませんけど、シーシにとってプラスになるなら――」

「あの音、だいじょうぶなんですか?」

「表のことは気にしなくて大丈夫です。あれは作戦の一つですから、もう少し引きつけて対処しますよ。ご心配なく」

「…………」

「あなたは大人でしょう。チトに説明して納得させるのはあなたの義務ですし、大人としての責任です。こんなふうにさらっていくのはよくないです」

「違いますよ、さらっていくんじゃない。保護するだけです。チトがシーシの面倒を見れていると思うんですか?」

トルシュはますます目を細め、鼻から息を吐いた。しっかりとはった顎のせいで真四角の顔をしているように見える彼だが、こんなふうに暗闇の中に立っていると白い紙がぽつねんと浮かんでいるようだ。苦々しいという表情をみせ、彼は口を真一文字に結んでいる。

「それにここはこんな小さな子供の養育をするのに適した場所じゃないでしょう。シャワールームは狭いし、水しか出ないし、毛布だって足りないし、ベッドもないし、子供用の食事もろくに用意できないし、着替えの服も買えないし……」

なぜか泣きだしたい気持ちがぞろわきあがってきてタォヤマは思わず声をつまらせた。かびくさく、垢で汚れた毛布の匂いを思い出してしまったせいかもしれなかった。

「部屋についたらすぐに連絡しますから、チトに場所を伝えて下さい。話し合いをする容易はいつでもあるけど、今はシーシをちゃんとしたベッドに寝かせて栄養のあるものを食べさせなきゃいけないから家に戻っただけだって。それでいいでしょう」

「チトが行ってもいいんですか」

「構いませんよ。なにか問題があるんですか?」

まだ苦々しい表情をしているトルシュはようやく鳴り続ける音の方へ視線を送った。暗闇の中でも厚ぼったいまぶたの下に鋭い光がひらめいたのが見えた。

「あの子は――おそらくVOAとのコネクションを持っていると思われます。その部屋というのはあなたの家ではないんですよね。中にいれるのは危険ですよ、特に持ち主がニンゲンだったら……」

「証拠はあるんですか?」

タォヤマは鼻の穴をとじてトルシュを睨んだ。証拠もなにもタォヤマだってハンド反重力装置のことを忘れたわけではない。バックのVOAがついていることも想定済みだ。だからこそ、彼はシーシを連れてきたのだ。チトの元にはおいておけない。物心がついてもう少し自由に動けるようになれば、シーシもVOAに取り込まれていくのは明らかだし、最悪の場合VOAに食料とみなされるかもしれない。

「それは……今固めているところです」

「だったら余計にシーシを置いていくわけにはいかない」

「……確かにそうですが――」

と、またやかましい音が廊下に響いた。さすがにトルシュもそちらに首をめぐらせ、じっとなにかを睨みつけている。わいわいと騒ぐ男たちはなにか新しい遊びを見つけた子供のように無邪気だ。時々甲高い引きつったような笑い声も聞こえる。

「あれはいいんですか? 侵入されますよ」

「…………」

口元に力を入れ、トルシュはまだ音の方を睨みつけている。タォヤマはちらりと地図に視線を送り、それからシーシの顔を覗き込んだ。彼女はまだ安らいだ顔で眠っている。かなり深い眠りに落ちているらしい。

「……わかりました。チトに住所を伝えておきますからよく話し合いをしてください。それと彼女と衝突したらすぐに私に連絡してください。シーシのことは保護だと証言しますから」

タォヤマはまばたきをした。想定外の親切なトルシュの申し出に虚をつかれた思いがしたが、そうと言ってくれるのならこれ以上の味方はない。

「ありがとうございます。着いたらすぐに連絡します」

「外に出るときは穴の処理はぬかりがないようにおねがいしますね、万が一侵入されたら困りますから。それから表にいる若者は危ないんで、見つからないように素早く立ち去ってください。では」

早口に言い捨てたトルシュはタォヤマの返事をまたずにくるりと踵を返した。そしてなにごともなかったように気の抜けた靴音を引き連れて闇の中に消えていく。タォヤマは二度まばたきをした。

「……タォヤマ? どうした、大丈夫か?」

「…………」

「おい、タォヤマ、返事してくれ。大丈夫か?」

目を細め、闇を睨む。なにかひっかかるものがあるとタォヤマは思った。腕のしびれが思考を邪魔しているせいで考えがまとまらない。

「大丈夫――だと思う……」

「動けるか?」

「動ける。今10-CCにいるからもうすぐ……」暗闇に向かって足を踏み出しタォヤマは頭を振った。頭のなかにもやもやとわだかまる不快感は気になるが、なにかあれば連絡をくれといったのはトルシュのほうだ。ほんとうに困ったことがあれば連絡をいれればいいのである。

「俺は二面窓の部屋の隣のとこの茂みの中にいるから――」

窓。

モヤモヤとわだかまっていた思考の中からピキリと音を立ててその単語だけ輪郭がはっきりとした。

「ガイ、その窓ってどんな形状してる?」

「え? 形状? 四角くて、ええと、なんていうか、窓だよ、普通の」

「外から簡単に壊せそうな形状をしてるか?」

「ちょっとやめろよ、俺はそんなこと……」流石にむっとした声でガイは反駁した。だが、タォヤマはガイに侵入しろと命じたいわけではなかった。

「違うよ。やってくれって言ってるんじゃない。できるかどうかだ」

「できるかどうかならできるよ。ちょっと石でも投げれば割れそうだな。強化ガラスかもしれないからなんとも言えないけど」

「10-Bゲートを壊すのと窓を壊すのとどっちが簡単そうに見える?」

通信機にノイズが走る。廊下の向こうからはまだ激しい音が聞こえているが、それを静止する声はなかった。トルシュはたしか尻尾をつかむと言っていたが、あの騒ぎを静観しているのだとすれば他に目論見があるからだ。

「んー……どっちかな? でもこっちに人がいたら困るしなあ……盗みをするわけじゃないし入るならあっちじゃないか?」

もしかして、とタォヤマは足を止めた。目の前には細い廊下があり、その両側にピッチリとしまった扉が並んでいる。突き当りは壁だ。窓があれば月明かりが差し込んで青白い光にみちているはずだが彼に見えるのは暗闇だけだ。

どくん、どくん、と心臓が鳴っている。なぜトルシュはあっさりとタォヤマを解放したのか。なぜガイが車を止めたところでチトが降りてきたのか、なぜガイが到着するのとほぼ同時に第三言語を話す若者たちがやってきてゲートを壊し始めたのか? そしていま、最も侵入しやすい位置にいるのは誰なのか? ガイは明らかにニンゲンではないが、だからといってVOAに感化されていないとは限らない。ガイは肉食だし、その昔にニンゲンを捕食していた種の可能性もあるからだ。

「あ、警察だ。やっとかぁ」

のんきな声だ。だが、疑い始めるとなにもかも疑わしく聞こえる。タォヤマはシーシを抱いたまま逡巡した。このままガイと合流すべきか、それともトルシュのもとに戻るべきか。どちらが最善なのか?

ひとまずユフ以外では出入りできない地点から外に出て様子をうかがい、もしガイが怪しいようならすぐに地下に避難する。これがプランAだ。ガイにひとまず怪しさが見られなかったら――

「もっと早く来てくれりゃいいのにさ……あ、やばいな、見つかったら因縁つけられるかも……」

ぶつぶつとぼやくガイの声はいつものとおりのんきだ。これも演技だとしたら、一体なにを信じればいいのかとタォヤマは思った。だが、だからといって彼を全面的に信頼できるほど、二人の間に積み重ねた年月はない。

足音を殺して壁ににじり寄る。

耳元でぼやいているガイの声に変化はないが、壁の向こう側から彼の声は聞こえなかった。鼻を開閉させて匂いを嗅いでみても、気配すら感じられない。ガイの言っていた二面窓からは通路ふたつ分はなれているし、壁の向こうに木が茂っているのなら、ガイを押し隠しているのかもしれない。

「……タォヤマ?」

タォヤマは目をつぶった。ガイの訝しげな声のむこうに喧騒が聞こえる。耳に障るサイレン音が少しずつ近づいてきているが、はしゃいでいる男たちはそれにきづいていないようだ。

「あれ、切れちゃったのかな……タォヤマ?」

息を吐く。

一か八か、とにかくやってみなければ答えは出ないのだと自分にいいきかせて、タォヤマはそろそろと壁を背に座り込んだ。

 

 

ポすん、と音は虚に響いた。メッセージが到着したのである。

ガイはまだシーシにシャワーを浴びさせている。散々ぐずっていたシーシだが、今はごきげんでガイに歌を教えようとしており、素っ頓狂な歌声がバスルームから聞こえている。時々はさまるガイの調子っぱずれな唸り声を子守唄に寝るのはかなり至難の業だ。

届いたのは食料か栄養剤か、それとも寄生種に関する問い合わせの結果かと思いながら、タォヤマは棚の中に腕を突っ込んだ。もしセブジだったら衝動的にコールして怒鳴りつけてしまう自信がある。きっと彼の顔を見た途端に、途方もない怒りと、ふがいなさと、理不尽にたいする憤りと、それから自分にたいする苛立ちが体に揺さぶりをかけるに違いないからだ。セブジがいるといつもそうだ。なにもできなかった子供時代が思い出され、自分の矮小さになきだしたくなる。

力まかせに腕を突っ込んだものの熱源が指に触れ、タォヤマはあわてて腕を引き抜いた。と、同時にピンッと甲高い音をたててメッセージが飛び出してくる。

緊急メッセージだ。

だがタォヤマの予想とはちがい、差出人はラウセ、叔母だった。

「タォヤマ」ため息をついて彼女は言葉をはじめた。白い空間に浮かび上がった像は右から左へ動いている。「何度も連絡してるからもう用件はわかってると思いますけど――」

タォヤマはあわてて中腕をのばし、映像を消そうとした。だが、映像オフのスイッチは指で何度叩いてもびくともしない。

「タォヤマぁ? 誰か来たのかぁ?」

「いや、叔母から連絡が……」

「ああ、なんだ! すまん!」

いや、といいかけたタォヤマよ声が届く前にばたんとバスルームの扉が閉まった。ちくしょうとクッションに頭を預けた姿勢のままタォヤマは悪態をついた。せっかく救いの手がさしのべられたと思ったのにむざむざとのがしてしまった――

「自分のことなんだから少しは自覚を持ちなさい」映像の中でラウセはまだぶつぶつと小言を垂れている。くるりときびすを返した彼女はかつかつと音をたててカメラの前に戻ってきて左から右へと歩いていった。「セブジから聞いたけど、また事務所のガラスを破ったそうじゃないの」

「ガイ! 悪いんだけど――」耐えきれずにタォヤマは叫んだ。叔母の声を聞いているだけで頭がおかしくなりそうだ。どうにかこの映像から逃げなければならない。彼は焦って棚に手を突っ込み、手当たり次第にメッセージを引っ張りだした。

と、またメッセージ到着の音がする。

「なんかいったかあ?」

「あの、ああ――栄養剤が届いたみたいなんだけど封が切れないんだ!」

「お、届いたか、やっとだな。ちょと待ってくれ! 今シーシを着替え――こらこらこら! まだ濡れてるんだからダメだよ! はだかんぼで出かけるのか?」

「あなたは昔から失敗すると逃げる癖があるけど、とにかくまずそこから改めなさい」コツコツと靴音をたててまたラウセが戻ってくる。横顔のまま唐突に立ち止まった彼女は上右手の第二指の爪を噛み、目を少し細めて前方を睨み付けた。たぶん頭の中にいるタォヤマを睨んだのだろう。

タォヤマはこの叔母が苦手だ。

セブジに会う前の叔母はただの書類上の後見人で、タォヤマに会いに来ることは一度もなかった。タォヤマ自身彼女の存在を知らなかったし、後見人については意識の外に押し出していたくらいだ。セブジが彼を引き取ると戯言をいい始めたときに彼女はようやく話し合いの場所に出てきたが、その場が二人の初対面だった。

ラウセとセブジとは旧知の仲だそうで、先にセブジを見つけた彼女は親しげにセブジとハグを交わし、近況を軽く交換しあっていた。そこまでは大人の、良識ある対応だ。だが、セブジがタォヤマをさして紹介したとたん、彼女はすう、と青ざめて逃げ腰にタォヤマの表情を伺った。あれは怯えだった。彼女は百歳にもならないタォヤマをたしかに恐れていたのだった。

「この間ダポニニ所長にご挨拶にうかがったんだけど、あなた、全然顔出してないそうじゃないの。何度も――」

「ああもう、カーペットが濡れちゃうじゃないか……」シーシをおいかけてラウセとタォヤマの間に割って入ったガイは目を丸くしてラウセを振り返った。「ありゃ……込み入った話してるなら向こう行くけど――こら、シーシ!」

「いや、大丈夫」

優美な所作を好むラウセはユフにしては少し珍しい方だ。だが彼女の威圧的なものいいや、いいわけを許さない厳とした態度をみるとユフにおける一般的な女性像とはややずれているように思われる。実際セブジや会社のメンバーはいつラウセが男性に転換するかで賭けをしているおり、だからこそタォヤマは彼女が苦手なのだった。

「上司か?」

「いや、叔母だよ。どうせ大したことは言ってないから大丈夫」

「ああ、叔母さんか。まあな、叔母さんっていうのはどこの国でもつまんない小言いうもんだ……シーシ! レディなのにはだかんぼで走り回ってるのか? だめだぞ!」

「ガイだってはだかんぼだもん!」

「シーシはニンゲンなんだからはだかんぼじゃだめだよ」

バスタオルをぎゅっとにぎりしめ、シーシはぷくりと頬をふくらませた。下着は身に着けているが、髪の毛は濡れてぺたりと頭に張り付いているし、ランニングシャツの上半身はびしょ濡れでまったく下着の役割を果たしていない。納得いかないようにうなりごえをあげ、シーシは顎をつきだした。

「ニンゲンに生まれたのは――私の間違いだったわ」

「ああ、そう……それで栄養剤は?」

のそのそとしっぽを引きずりながらガイは方向転換した。表情には疲れが見られるが、タォヤマからすれば今手足になってくれる頼れる相棒はガイをおいて他にいないのだった。空中でくるくると回っている小包をガイの方へ押しやってタォヤマは息を吐いた。

「目が回ってて見えなくて」

「おい、けっこうな量あるなぁ! えっとぉ、一食でどれくらい……」

「この件のことも何度も話をしてるけど、いい加減に逃げないでどうするか決めなさい。あなたも二百歳になったんだから責任を持つべきよ」ガイの呆れ声を押し退ける冷たい声音をはいてラウセは体の向きを変えた。じっとタォヤマを――正確にはカメラの位置を険しい顔でにらんでいる。「腕切断後のリハビリには約五十年、合わせてあなたはヴェシュミ・ビセをしなくても生計をたてられるように専門的な知識を学ばなきゃいけないんだから、二百歳ならぎりぎりよ、あと十年たったら選択肢は一気に狭まるの。するのかしないのか――」

「なんだぁ?」さすがに背を捻り、ガイは首をすこし傾けて映像を見つめた。バスタオルを体に巻きつけてはしゃいでいたシーシもいつのまにか跳びはねるのをやめて、ぽかんと映像を仰いでいる。「いいのか? こんな話、俺が聞いて」

「いつものことだから……」

「でも腕を切るってさ、シュルニュクじゃなくなるってことだろ。どうするんだよ、すごく大事じゃ――」

「俺は腕を切る気はない」

思わず先に声が出た。ぱちりとまばたきをしたガイにわずかに申しわけなさは感じたが、タォヤマは息を吸って首を横に振った。

「叔母は切らせたがってるけど、俺は――俺は、シュルニュクは嫌いじゃないし、こんなこととか、腹立つこともたまにあるけど、でも今のところ切る気はない。叔母が聞き入れないだけだよ。それで何度もこういう話をふっかけてくる」

口をすぼめたガイが映像へ視線を送ったとき、ようやく不愉快なメッセージがブツンと途切れる。ガイは解いたげな視線をタォヤマに送った。事情のわからない彼がそんな反応をするのは仕方がない。

ラウセがこんな風にメッセージを送ってくるのは今に始まったことではない。セブジが引き取ると宣言した時も、彼女が遠慮がちに口にしたのはいつかタォヤマは腕を切るだろうと言う呪縛だった。セブジとの生活が始まったあとも年に一度はこの話を持ちかけてくるし、特にスプシュト力の強いユフ対象の胚提出時期になるたびに神経質な調子でメッセージを何通も送ってくる。以前は明らかに酔っ払ってろれつの回らないメッセージを送ってきたものだったが、セブジがうるさく抗議をしたのでここ数年はすこしまともになった。それでも神経質なのは相変わらずだ。

彼女は今でもタォヤマを恐れていて、そして腕を切ってもらいたがっている。自分がそうしたという事実を受け入れるためだ、酒に溺れていた日々を正当化したいのだと、そんなラウセを評してセブジは言う。

「……なんか大変なんだな」きゅっと眉尻をさげてガイは同情の含まれる声を吐いた。「まぁでも、もし切ることになったら、俺みたいに移住して観光局に務めるってのもありだぞ。第一公用語ができれば重宝されるし」

「……そうだな。ありがとう」

「いや、そういうんじゃなくてさ……ま、気にすんなよ。ええと、それで? この青いパウチが鎮痛作用、こっちの黄色い粉は? えっと、水に溶かして一分放置、と。胃を膨らませて内臓の動きを活発にします、だってさ。一緒に飲んでいいのかね、これ……」

「そえ、ターヤマのごはん?」

んー? と首をちょんとかしげてガイはのそのそと方向転換した。ガイと同じ方向に首を傾げ、シーシはぎゅっとバスタオルを抱きしめている。

「そうだよ。タォヤマはごはん食べる前にごはんを食べるためのごはんがいるんだ」ぱちりとウィンクをしてガイは解説をはじめた。シーシは小首をかしげてそんなガイを仰いでいる。

「シーシもごはんたべう!」

「そうだなぁ。俺たちも朝ごはんの準備をしなくちゃな。その前に――」

「ねぇ、おしょとで食べよ」

ガイは息を漏らして肩をすくめた。当のシーシは自分の思いつきに嬉しくなったのか、二本足で飛び跳ねて手を叩いている。

「お昼は外にしよう、タォヤマもきっと動けるようになってるし。その代わり朝はここでたべるよ、タォヤマだけのけものにしたら可哀想だろ」

うん、と素直にうなずいてシーシは腕の中のタオルをぎゅっと抱きしめた。白い歯をみせ、澄んだ笑い声をたてている。ご機嫌は上々、目覚めてからチトを恋しがってなくようすはかけらもない。

ああ、とため息をついてガイは一人用のアームチェアに腰を下ろした。そしてやれやれといったふうに首を回す。

「昨日から大冒険だな……食えそうか?」

「もうちょっと――」

と、シーシがくしゃみをした。ぎゅっと目をつぶった彼女はぶるりと身をふるわせたが、すぐに不思議そうな顔できょろきょろとする。

「ほらぁ、はだかんぼでうろついてるからだよ……」

「ガイはぁ?」

「俺はこんな素晴らしい毛皮を纏ってるだろ。シーシは毛なし、寒いに決まってるよ。あー、なに着せりゃいいのかな……俺のTシャツでも着せとくか……」

待ってくれ、とさすがにタォヤマはガイを制した。可愛い服を用意してやりたいのはやまやまだが、疲れきって立ち上がることもできない今はスプシュトなどできっこない。となると選択肢は一つ、新しい服を買ってやるだけだ。ガイのTシャツはいくらなんでもシーシには大きすぎるだろうし、浮浪児に逆戻りしてしまう。

「俺が買えって?」

「お金は出すよ」

「お金は……まあいいんだけどさ……ニンゲンの子供がきる服なんてわからん。カタログ見るかぁ。どうせ部屋着だしトレーナーにTシャツで下にスウェットとかでいいかな」

「シーシ、おいで。新しいお洋服を選んでいいよ」

シーシはまだバスタオルにくるまって、親指を口の中に突っ込んでいる。若緑色の目をぱちりと開いて彼女は首をかしげた。

「ターヤマが買ってくえうの?」

「うん。でもシーシが好きなやつを選んでいいよ」

「みるぅ!」文字通り飛び跳ねたシーシはバスタオルを放り出してタォヤマの元へと走り寄ってきた。そしてカタログを操作しているガイの腕の間にちょこんとおさまる。「シーシねぇ、緑と黄色がいい!」

「動きやすいのだとこれかな……」

「この赤いのかーいい!」

ああ、とガイはため息をついたが、シーシは臆することなく指差した先の赤いTシャツをきている子供モデルを指で押さえつけた。ふわりとアニメーションが始動してイメージ図が空中に展開される。値段はしめて12ペグサ。まったくもって悪くない。

「じゃぁこれにしようか」

「これにしるぅ!」ガイは肩をすくめたが、タォヤマは唯一自由な右上腕を払って彼を急かした。いろいろと考えるのは面倒だし、シーシはうきうきしたように腰を浮かしてイメージ画像をつかまえようとしている。本人が気に入っているのなら、それ以上考慮の余地はないのだった。

「オーケイ、それでシーシちゃんは一人でお着替えできるかな?」

「できるよぉ、シーシえらいもん」

チェックを切ろうと腕を空中に突っ込むとまた熱源が触れる。勢いをつけてチェックを切りながら、タォヤマはメッセージの山を空中に投げ出した。ポ、ポ、ポ、とマヌケな音をたてて次々とメッセージが開封される。

「さーて、じゃぁ着替えを――こらこら! どこ行くんだよ、新しいお洋服だよ!」

「はっぱ!」

ああ、そうと心底疲れきった声で返事をしたガイであるが、立ち上がる気力はなくなってしまったらしい。下着姿のままぴょい、とシーシがベランダに飛び出していってしまってもあとを負って顔を動かしただけだ。

「あんまり端っこいっちゃだめだぞ、危ないからぁ!」

「はっぱいっぱいあるよぉ!」

「はいはい、すいませんね……ああ、参ったなぁ……」

目をこらしてメッセージの中身を解読しようと試みていたタォヤマはガイのぼやきに視線を上げた。

昨晩、ガイの指定した場所からワンブロック奥まった場所を通り抜けたタォヤマはヤブの中で じっと息を潜めていた。ちょうど警察の車両がおしよせてきて若者たちとおいかけっこをはじめたということもあるし、その混乱に乗じてガイが行動を起こすかもしれないと危ぶんだからでもある。

ガイは茂みの中に縮こまってまったくアクションを起こさなかった。あとから聞けば仕事を失うのが怖くて震えていたのだという。騒ぎが収まってようやく一息をついた彼は、おそらく匂いを辿って同じく茂みの中で動けなくなっているタォヤマのところまで這ってきた。

「湯冷めしないといいんだけど……」

「俺もそう思うんだけどさぁ、疲れちゃって動けない」

「シーシ、おいで! 風邪引くよ!」

んー、とベランダからごきげんな声がする。燦々と朝日が差し込むベランダは平和そのもの、昨晩暗闇の中で息を潜めていたのが嘘のようだ。今こうしてタォヤマがまったく身動きできない状況に陥っていなければ、地下に行ったことも全て現実だったとはおもえなかったことだろう。

ぴょいと窓枠を飛び越え、満面の笑みをうかべたシーシが戻ってくる。

「これ、ガイのごはんね――トテキタよぉ!」

「ん?」

ぴょい、とふたたび部屋の中に飛び込んできたシーシはてとてとと頼りない足取りでガイのところまで走って戻ってきた。そして両手に握りしめた蔦の葉を満面の笑みでガイに向かって差し出す。

ガイには申し訳ないが、思わずタォヤマは笑った。

「俺、葉っぱは食べないよ」

「お野菜食べないとおっきくなれないんだよぉ」

「俺はもう大きいからいいの。大きくなんなきゃいけないのはシーシだろ」

「シーシはぁ、おやさいたべなくてもおっきくなれるもん」

「だめだよ。シーシはいっぱいお野菜を食べて、お洋服をきて、それから、うーんと遊んで眠らなくちゃ」

「赤だぁ!」

ようやくガイが腕に引っ掛けている新しい服に気づいたシーシはうしろに葉っぱを放り出した。そしてガイの膝をたたいて早く着せろと要求をはじめる。ガイは呆れ顔をしているが、シーシのために器用に爪をひっかけて頭が通るようにサポートしている。ぶつぶつと文句はいうがかなり面倒見がいいらしい。

「はいはい、かわいいよ、かわいいです。シーシちゃんはひとりでズボンをはけるかな?」

「はけるぅ!」

濡れた髪の毛を気にするそぶりもみせず、シーシはガイの手から服を奪い取った。なにかするたびにバツヴァク語をわめいているが、拙い発音のせいか翻訳機は全てを解釈してくれないのが困ったものだ。まだ笑っていたタォヤマはガイに睨まれて咳払いをした。

「シーシはぁ、――子だからぁ、――もできるのよ」

「はいはい。それでタォヤマは動けるようになったか? もう少し? しょうがないなぁ、じゃぁ俺が朝ごはんを準備してやろう。シーシはお手伝いできるよな、いい子だもんな」

「できるぅ!」

にかりとガイは白い上牙を見せて笑った。そろそろシーシの操縦方法を覚えてきたらしい。

「ようし! それじゃ、朝飯はなにがいいかな? シーシはミルクと黄身ゆでと、それから……」

「ターヤマぁ、もう痛いよぉじゃないの?」

ズボンのウエストを胸元辺りまで懸命に引っ張りあげながら、シーシはガイの声を無視した。彼女の後ろには青いツタの葉が転々と散らばっている。

「うん。痛いところはないかな」

「痛くないの――呪術したげる」

ウエストからようやく手をはなし、シーシは両手を突き出した。ぱつん、とお腹の上ででゴムが音を立てる。

「ねぇ、一番長いおててはどこ? なくなっちゃったの?」

「シーシ、朝ごはん食べるんだろぉ、手伝ってくれよぉ、ガイおじさんは働き過ぎて死んじゃうよ」

「やだ」

「どうして。かっこいいおじさんと一緒にトーストを作ろうよ」

「やだ。――友達じゃないもん」

んー、とガイは唸り声をあげた。キッチンの作業台から顔だけをのぞかせて顔をしかめている。少しくらいキッチンのライトの下、ぴかぴかと光る彼の目は野生動物のようだ。

「俺のほうが面倒見てんのに冷たいなぁ……」

「おてては?」

毛布に潜り込もうとシーシがソファに手をついたので、あわてて口の中に突っ込んでいたパウチを右上腕で引き抜いてタォヤマは彼女の肩を押し返した。どういう風のふきまわしでタォヤマの腕が気になり始めたのかはわからないが、力が制御しきれない寝起きに体にべたべたとふれられてはたまったものではない。

「おててぇ!」

「そういえばまだケーキたべてないんじゃなかったかな、ガイとあったらケーキにするって……」

「おててぇ!」

「手よりケーキのほうが……」

「んー!」

腕をつっぱってシーシは癇癪をおこした。肩をおしかえすタォヤマの右上腕をつかんで、二本足でとびはねている。タォヤマはぎょっとして身を縮めた。

「シーシ、ちょっとおちついて……!」

「おててぇ! おててが――……ケーキ?」

「うん、ケーキだよ。昨日約束したよね」

「ケーキ」

その場で地団駄を踏んだシーシは口をぴったりと結んでタォヤマの腕をふりまわしている。肝をつぶしてタォヤマはソファに体を押し付けた。

「こら、シーシ! タォヤマにわがままいっちゃだめだぞ、病人なんだから」

「だってぇ」

「だってじゃありません。おいで」

「だってぇ!」

おててはあとでね、とタォヤマはようやく喉の奥から言葉をひっぱりだした。息を吐くだけでも体の中でがさがさと音がして、うっかりスプシュトしてしまうのではと不安になる。気をしっかり持て、と彼は自分に言い聞かせた。

「うわぁ、ガイおじさんも疲れて腕がうごかないぞ、どうしよう!」

「大変だよ、ガイも痛いようって言ってるよ」

ケーキ、と名残惜しそうにつぶやいたシーシはタォヤマの指を掴んだまま台所を振り返った。ちょうどキッチンの作業台にはガイの腕だけが残っている。わざとらしい悲鳴をあげてガイはどうしようともう一度叫んだ。猿芝居だが、目を丸く見開いたシーシはかたずをのんでそんなガイを凝視している。

「ちょっと様子見てきてあげてくれるかな」

んー、と唇をつきだしたシーシである。だが、さすがに悲鳴を上げているガイのことは放っておけなかったのか、彼女はタォヤマの指を放り出して頼りない足取りでキッチンの方へかけていった。

「いたたたた、いたい、いたいよぉ」

まったくひどい小芝居だ。

タォヤマは呆れた。呆れつつもしっかりと右背腕をソファと体ではさみ、一息をつく。少し体は動くようになってきたが、足の裏のもぞもぞは残っており安心できる状況ではないのだった。

「だいじょぶぅ?」

「だいじょうぶじゃないよ、たすけてくれぇ」

「どして痛いの?」

「え? どうして? どうしてってどうしてかな、わかんないな」

「痛いときは、――散髪にいったらなおるのよ、シーシしってる」

「――散髪? それをいうなら病院じゃないかな?」

少しずつ化けの皮がはがれつつあるガイだが、まだぜいぜいと息をきらせているふりはやめていない。とぼけた二人の会話に思わず吹き出して、タォヤマはクッションに顔をおしつけた。

「でもね、シーシ、ガイの――友達じゃないから一緒に病院いけないの。ごめんね」

「えっ、そうなのか、それは困ったなぁ、どうしよう! タォヤマは俺の友達だからいっしょに行ってくれるかなぁ」

「ターヤマはシーシのだよ」

「いや――友達じゃなくて友達だからさ、シーシが頼んだらついてきてくれるかも」

「ターヤマはシーシの――友達だよ!」

ややヒステリックな声でもう一度主張したシーシは、右足を床にうちつけて「ほんとだよ!」とさらに念をおした。わかったわかった、とすっかり小芝居をわすれてガイが弁解をしている。

「そうだったそうだった、すっかり忘れてた。タォヤマはシーシの――友達だったよな。けど友達なら何人いたっていいだろ」

ソファから身をおこそうともがいていたタォヤマはソファの背もたれに右中腕をかけた姿勢でキッチンをみやった。ガイの顔はみえないが、彼の声が翻訳づまりをおこしたのははじめてだ。

「だめだもん。ターヤマはシーシのだもん」

「ずるいなぁ、タォヤマばっかり……あー、シーシが意地悪言うからもっと痛くなってきちゃったなぁ、ごはん食べれなくて死んじゃうかもなぁ」

「死んじゃうってなに?」

「死んじゃうは死んじゃうだよ」やや尖った声で言い返したガイは両手を台の上にのせた。まだしゃがみこんでいるようだが角だけは台の上に見えている。「動かなくなって消えちゃうだけさ、どうってことない」

いささか投げやりな言葉をはいたガイを心配してタォヤマは目を細めた。

出会って間もないタォヤマに絶交するといわれただけであれほど動揺したガイのことだ。いくら子供相手とはいっても友達ではないと頑固に主張されて頭にきたのかもしれない。存外にこどもっぽいところもあるし、やっぱり俺は降りるなどといわれてはタォヤマだってこまるのだった。

「……消えたらどうなるの?」

「どう? さぁ、死んだことないからわかんないよ」

ああ、とタォヤマはため息をついた。後ろ姿でもシーシがびくりと首をすくめたのがわかったほどだから、ガイはきっとひどい形相をしているのだろう。確かにタォヤマだったらもっと早くに堪忍袋の緒が切れていたに違いないのだから、ガイの我慢強さには感謝しかないのだが。

「わかんないの?」

「知らない。でもシーシはそんなことどうだっていいだろ、俺とは友達じゃないんだし」

「んー」

もじもじと足先をあわせてシーシは唸った。困っている。

「ほら、あっち行ってな。台所は危ないから。一人ではっぱ摘みするか髪の毛乾かしてなさい」

「でもぉ、ガイ消えちゃうんでしょ」

「そうだな」

「消えちゃったらどうなるの?」

「だから……」

「どうなるの?」

シーシはまだもじもじと足先をあわせている。声は小さくなり、今にも消えてしまいそうだ。多分泣きたい気持ちになったのだろう。堂々めぐりになったのは彼女の語彙の少なさのせいだろうか。それとも、死ぬということに対してシーシなりになにかおもうところがあるのか。

「シーシは俺が消えちゃってもいいんだろ、だったら知らなくてもいいじゃないか」

「んー」

これはそろそろ仲介に入らなければならないかもしれないとタォヤマは思った。思ったがまだ彼はようやくソファの背もたれに頭を載せたところだ。ここから立ち上がるには後数分かかるし、数歩歩いたら倒れるかもしれない。

その場で足踏みをしたシーシはまた唸り声をあげた。

「だってぇ」

ひくりと喉をふるわせてシーシは急に声を高くした。タォヤマは右背腕をのばし、空中を掴んだ。歩かずに移動する方法はそれしか思いつかなかった。空間がぐにゃりと歪み、床に並べてあったガラス瓶がぶつかり合って激しい音を立てるが知ったことではない。

「だってぇ!」

「だってなんだよ」

「ターヤマはシーシの――友達なんだもん! ――友達はあげられないんだもん! とっちゃだめなの!」

「だからそれはわかったって……」

ひょいと顔を出したガイはぱちりと目をひらいてタォヤマを仰いだ。パトリシアに叱られてふてくされている時とまったく同じ表情だが、ちらりと心配するような表情もみえる。シーシ相手にムキになっていても、シーシのように一つのことだけに夢中にならない分、彼は大人だ。タォヤマはほっと息を吐いて壁に手をついた。少し移動しただけで体中がばらばらになってしまいそうだ。

ぽりぽりとガイは耳の後ろをかいて、所在なさ気な顔をしている。シーシはまだバツヴァク語でなにかをわめいているが、タォヤマの耳に理解できる言葉はなにひとつない。完全にパニックになっている。

「シーシ」

地団駄を踏み始めたシーシの肩に触れ、タォヤマは出来る限り優しい声を取り繕おうとした。声をだすだけでまたぜいぜいと息が切れる。昨日のスパイごっこは思いのほか体に致命的なダメージを与えたらしい。

「ガイにごめんなさいしなさい」

「だってぇ!」

「友達じゃないって言われるのはすごく悲しい気持ちになるんだよ。だからガイだって怒ってるんだよ」

「だってぇ――友達だっていうんだよ!」

「友達が違うなら、仲良くするとか、うーんと、仲間になるとか、いろいろあるんだよ。ガイのことが嫌いなの?」

んー、と口を尖らせて顔をくしゃくしゃにしたシーシだが、地団駄を踏むのはやめた。Tシャツのお腹のあたりをぎゅっと両手で掴んで、難しい顔をしている。泣き出しそう? 怒っている? どちらともつかない表情だ。

「嫌いなの?」

「ううん」

「そうだよね。歌を教えてあげたしごはんもとってきてあげたし、仲良くしたいよね。ガイと仲直りする?」

「んー」下唇をひっぱったシーシは少し顎をひいて、潤んだ目でタォヤマを見つめた。下まつげにひとつぶ、涙がくっついている。「……するぅ」

「じゃぁ悲しませてごめんなさいって謝ろうね」

「でもぉ」ぎゅっと胸元を小さな指で掴んで、シーシは上半身を揺らした。「とられちゃう!」

タォヤマはため息をついた。なぜシーシがこれほど頑固に主張するのかはわからないが、浮浪児然として育った彼女のことだ、誰かと別れるたびにたくさん悲しい思いをしたのかもしれなかった。

「シーシ、あのね、ガイは、ええと、僕の――うーん、ええと、相棒――」そこでちらりとタォヤマはガイの顔色をうかがった。眉毛をもちあげたガイは肩をすくめて少し首を傾げただけだ。言葉としては間違っていないらしい。「そう、相棒なんだよ。パートナー。友達とはちょっとちがうから心配しなくて大丈夫だよ」

「ほんと?」

「ほんとだよ。シーシと僕は友達……」

「ちがうよ!」

若緑色の目をきらきらとひからせてシーシは今までで一番大きな声をあげた。キン、とつきささる甲高い声に頭のなかがくらくらとする。タォヤマは中腕も壁について、それからあわてて笑みを取り繕った。

「ああ、ごめんね、えっと……」

「ターヤマはシーシの――友達なの!」

「ああ、そっか。そうだね。とにかく――」

「シーシはターヤマのじゃないの!」

困惑してタォヤマはシーシを見下ろした。きゅっと唇を噛んで、真剣な眼差しでタォヤマを睨みつける彼女にどんな反応をすればよいのかわからない。とはいえ問題は言葉が通じていないことだけなので、あとで調べるのがいいだろうと彼は思った。

「困った駄々っ子だなぁ、シーシは……オーケイ、ちゃんと俺にごめんなさいが言えたら俺がタォヤマによぉく説明してやろうじゃないか。それでどうだ? タォヤマ、イェナに来たばっかりでよくわかってないんだよ」

すまん、とタォヤマは口だけを動かしてガイにあやまった。なんだかんだといいつつも仲裁役としてして間にはいってくれるガイの存在はありがたい。

「ほんとう?」

「シーシが謝りたくないってんだったら俺は知らないよ」

「んー」

シーシはまたタォヤマを仰いだ。青白い皮膚にはりついたしょうが色の眉毛はしっぽがたれさがり、下唇の下にたての線が浮き上がっている。ぱちぱちと二度まばたきをして、彼女は再びガイをみて、それからもう一度タォヤマを振り仰いだ。

「ガイに言うんだよ」

「うん。んーとね、あのね」

「ん?」

「んっとね、ガイはぁすごぅく手が大きくてすごぅいよ」

「そりゃね。それで?」

えっとぉと人差し指を引っ張りながらシーシはまたタォヤマを仰いだ。ますます目はうるみ、眉間の皺は深くなっている。

「ガイに言いなさい」

「……んーと、そんでね、声がぁおっきくてすごぅいと思う」

「ん、そりゃありがとう。はじめて言われたな」

「えっとね、でね、シーシね、んーと」

ごめんなさいって言えばいいんだよとタォヤマは声を低くして囁いた。指をこねくり回しているシーシは真剣そのものだが、また堂々巡りのループにはまってしまったように見えたからだ。

「うん……あのね、シーシ……ガイのおうた好きなの。遊んでくれる?」

ガイは片目をほそめて仕方がなさそうな顔をしている。たしかにそんな気持ちにもなるだろう。なぜ頑固にごめんなさいを言わないのかと訝って、タォヤマは昨日のチトの態度を思い出した。

あの態度をまねしているのだとすれば、ごめんなさいはそう簡単には出てこないだろう。

「んー、まぁいいよ」

「ほんとう? あのね、シーシね、ガイのことすきだよ。友達になってあげられないけど、すきだよ」

「わかったよ、友達のことはわかったから仲良くしよう。それでいい?」

「シーシ、ガイのことすきだよ、きらいじゃないの」

ああ、とタォヤマは得心した。シーシは自分が悪いことをしたつもりはまったくないのだ。だから謝りたくないのである。たしかに彼女の理屈では間違ったことをいったのはガイとタォヤマのほうだし、友達じゃないを連呼してガイが怒らせた理由もシーシは納得していないのだろう。

「えっとぉ、それでぇ」

「ん? まだあるのか?」

「うん。あのね」ぺろりと上唇を舐めてシーシは顎をひいた。上目遣いでまっすぐにガイをみている。そんな顔をされたらさすがのガイだって許さずにはいられないとわかっているかのようだ。「えっとね、痛いよぉにしちゃってごめんね」

ガイは両手をあげて降参といった。たしかに降参するしかないのだった。

 

 

「おう、ご苦労ご苦労。パンケーキ焼けたけど食うか?」

鏡越しにみるガイの顔は少し歪んでいるが、白く鋭い牙だけはしっかりと輝いている。タォヤマは憮然としてその像を睨んだ。

「わるいねぇ、掃除してもらっちゃって。体はもうだいじょうぶなのか? 無理すんなよ」

「肺の中が毛だらけになったら今度こそ死ぬかもしれないからな」

スポンジをよく絞って、タォヤマはシャワーノズルに手をかけた。シーシが泣きつかれて眠っている間にシャワーでも、と思ったのだがバスタブは垢で赤黒く汚れ、その上あちこちに長い毛がちらばっており、しかも水垢の耐え難い匂いがする。こんなバスルームではとてもくつろげない。そのうえ洗面台にはハサミと毛が絡まったブラシが何本も突っ込まれ、バスタブの縁にはからになったシャンプーが綺麗に整列しているのである。しばらくバスルームの入り口で呆然とつったっていたタォヤマはついに掃除を決意した。カーペットの上に散らばっている青緑色の毛も無視をするつもりでいたが、ここで何日も過ごすなどぞっとしない。

掃除は気になるやつがやればいいというのがセブジの教育方針だったが、タォヤマはこの意見に特に異論はなかった。とかくいいかげんなセブジに掃除をさせたところで、どこがどうきれいになったのかわからないし、あれこれ壊したり余計なものを引っ張りだすのでますます部屋は混沌とすると身にしみて理解しているからだ。

この部屋を見る限り、ガイは大変に不精もののようだし、ゴミをすてる才能がない。洗面台に突っ込まれているハサミは錆びてぼろぼろになり、刃もかけているからすてるしかないし、空のシャンプーボトルは当然のこと、シャワーカーテンだって古いものはトイレの横にぐしゃぐしゃと適当にまるめておいてあるだけだ。びっしりとカビが生えていても気にならないのなら、ガイにはすてる才能がないのである。

「おわぁ、ぴっかぴかになってるぞ。すごいな」

「ボトルは空になったら捨てろよ」

「いやぁ、そうなんだけどすぐなくなっちゃうからさ。なんたって俺ってこんな美しい毛並みしてるだろ。毎日死ぬほど毛が抜けるし、シャンプーだってケチるわけにはいかないしな」

「いつも汗臭いのに?」

「そうかぁ? いい匂いだろ」

タォヤマはため息をついた。どう考えてもガイとは衛生観念が違いすぎる。議論をしても無駄だ。

ダストボックスにからのボトルを投げ込み、カビだらけのシャワーカーテンは右背腕で小さくしておなじくダストボックスに投げ入れる。換気扇は重い音を立ててフル回転しているが、水垢の匂いはまだ消えていない。排水口に丸まる一本薬剤を流しこんだのだが、もう一本くらい追加しておくべきだったかもしれない。

「シャワー浴びてからにするか?」

「あとにする。こんな匂いの中でシャワー浴びたら倒れるかも……」

「そんなに気になるかなぁ、換気扇はずっと回してるんだけど」

そういう問題ではないとタォヤマは呆れた。体を冷やさないために温水で掃除をしていたので、バスルームはすっかり湯気でくもっている。顔に張り付く水蒸気を拭い、タォヤマは背を丸めた。

「あとは廊下とリビングとソファのホコリを吸って、キッチンの床も拭いて、瓶はすてて――」

「なんか悪いなぁ。お客さんなのに掃除してもらっちゃって」

「お前には色々迷惑かけてるから別にいいよ」

「ん? そうか? タォヤマってほんといいやつだな」

自分のお人好しっぷりは棚に上げて、ガイはそんなことを言った。そしてノソノソとしっぽを引きずりながらリビングへと消えていってしまう。タォヤマはまたため息をついてそっとバスルームの扉を閉めた。

「アイスクリームものせちゃうか……シーシは起きたら食べるかな」うきうきと腕をふり、壁に四角く切り取られたリビングをガイはよぎっていった。床も壁も油でベトベト、シンクには白い水垢がつき、乱雑に汚れた皿が突っ込まれている台所で一体どうやってパンケーキを作ったのかまったく想像がつかないが、そういえば生ゴミの臭いはしなかったと思い直してタォヤマは光の方へと足を進めた。ダイニングテーブルの上には所狭しと同じ形の瓶がならべられてまったくテーブルの役目を果たしていない。テーブルの下には雑誌かなにか――とにかく紙の山ができあがっており、そういう点ではガイは実に上手にニンゲン社会に溶け込んでいるものだと感心させられる。しかしいくら貴重な紙だといっても後で全て捨ててしまわねばならない。

「えーと、タォヤマはこっちだな。砂糖控えめ、バターは無塩のやつをたっぷりだからたぶん食えると思う」

「すまん」

「謝ることじゃないさ。それに掃除とひきかえだな。ええとぉ、寄生種の検査は出しただろ、あとぉ、あ、そうだ、領事館から連絡きたぞ。寄生種について」

「ユフの?」

「いや、フォグアから」

「おまえ、トルースだろ、なんでフォグアから?」

「イェナにトルースの領事館はないから。俺しかいないし」

ああ、とタォヤマは納得してソファに腰を下ろした。ローテーブルの上に皿とナプキンをならべたガイは意外に細やかな手つきでフォークを磨いている。なぜそこはこだわるのか、とタォヤマはいぶかしんだが、口には出さなかった。

「フォグアとトルースは公用語が同じだし、同じ星系にあるから、ちょっと僻地にいくと一緒くたにされてるなんてザラだよ。あいつら、悪い奴らじゃないから俺は気にしないけどね」

「そいつらも腕が二本で二足歩行するのか? 目も二個?」

「目は八個あるけど二足歩行はおんなじかな。しっぽがないし、毛もないからなんか貧相に見えるけど」

そりゃお前からしたらな、とタォヤマは口の中でつぶやいてガイからフォークを受け取った。

「ええとぉ、フォグアは詳しいことはよくわかんないからリュボヤにきいたんだってさ。寄生種がいるってことも俺が連絡するまで知らなかったって。それで、なんだっけな、えらく怒ってたから参るよ、俺に言われてもなぁ」

「八つ当たりされる筋合いはないだろう、クレーム入れてやれ」

「いやいや、俺に怒ってたわけじゃないよ。情報を知ってたくせに他に展開しなかったリュボヤと、あとはちゃんと教えなかったニンゲンの外務省に猛抗議中なんだってさ。別に俺はなんかまずいことがあれば教えてくれって言っただけなのにカッカしちゃってさ、のんきなこと言ってると寄生されますよ、だってさ。参っちゃうよ」

職員の言動はごく自然だろうとタォヤマは思った。というよりガイがのんきすぎるだけだ。鷹揚にかまえている彼に思わず苦言をていしてしまったのだとすれば、非がないとはいえないが同情する余地はある。

パンケーキの上にアイスを山盛りにのせ、シロップをたっぷりとかけたガイはうきうきと腰を振りながらフォークをもちあげた。

「えっとぉ、それでなんだっけな。ニンゲンとの間では話し合いができてるし、そもそも生育環境がニンゲンとは著しく異なってて酸素濃度が濃いところじゃないと生存できないんだってさ。あと生体を構成してる成分がニンゲンに近い場合は栄養が取れないから寄生しないんだと」

「それはつまり生身でここに来れるやつは心配ないってことか?」

「うん。一応な。けどまぁ、ほぼ完璧にニンゲンと同じはずのリュボヤですらかなり警戒してるらしいから、ひとまずは寄生されてないかどうか検査にだして、あとは寄生種がついてるものとか酸素濃度の高いスポットとかには近づかないようにってさ」

「接触はできてないのか……」

「ニンゲン経由じゃないと無理みたいだな。寄生されたかどうかは検査しなきゃわかんないし、してもわかんないこともあるし」

なるほどと納得してタォヤマはパンケーキを口の中に放り込んだ。ほのかに穀物とミルクの甘みがしたあとは濃厚なバターの味が口いっぱいに広がる。朝ごはんの炒り玉子といい、ガイの食事に対する意識だけは感嘆あまりある。

「だいたい寄生生命体連盟に登録すらしてないらしいんだからさ、おおかた宇宙の歴史に燦然と輝く寄生生命体への迫害史の哀れな被害者なんだろ。近づかないほうがお互いのためだよ」

あっという間にアイスクリームとパンケーキ四枚を口の中に放り込んで、ガイは口元をナプキンで乱暴に拭った。そして鉤爪で器用にシロップをすくってなめはじめる。タォヤマは顔をしかめた。

地球系ニンゲンが宇宙に進出してから高度知的生命体として認められるまでの間に起こした軋轢の数も大したものだが、そのニンゲンを遥かに凌ぐ寄生種にたいする迫害の歴史ときたら筆舌に尽くしがたい――その性質から宿主に致命的なダメージを与えることも少なくない寄生種は、よほどのことがなければ他種と共存共栄はのぞめないからコミュニケーション手段が確立されるまでは一方的に駆除されたせいである。知的生命体とよべないような寄生種は、かなりの数が絶滅を余儀なくされたし、多くの知的生命体、特に高度知的生命体は率先してその絶滅を主導してきたところがある。

知的生命体として認められる寄生種がぽつぽつと現れ始めれたのはこの千年くらいのこと、彼らに協力する生命体が草の根的に活動を行った成果だ。うまく高度知的生命体を宿主としつつ共存する方策を見つけ出した寄生生命体が国際社会の中で迫害の悲惨さを訴えることもできるようになったことが一番だろう。ある一定の条件を課しつつも生命体である以上生存権は守られるべきだと彼らは主張した。寄生種の中で寄生種を取りまとめる組織を作り、情報を開示するようにすれば無知からくる偏見で迫害を受けずに済むのではないか?

はじめは小さな声だったが、寄生生命体連盟が発足して生息地マップと寄生種の詳細な情報――たとえば生体を宿主にするか否か、寄生した場合に摂取する栄養素、寄生できる条件、寄生しなかった場合のふるまいなどだ――が開示されるようになれば、宿主になりうる側も彼らを避けることができるようになる。また宿主となりうる生命体が思っていたほど寄生種は生命体に寄生するわけではないとわかったことも、双方にとって朗報だった。寄生種は決して恐ろしいものではなく、また命を吸い取る恐ろしいものでもない。体力のある生命体であれば少し宿主になるくらいなら体に異変はおこらないし、逆に宿主となってすぐに死に至る生命体がわかれば、寄生種もわざわざその種にとりついたりしないですむ。迫害を恐れる寄生種はなかなか姿を表さないので登録は遅々として進まないが、しかし以前よりも気軽に星間旅行ができるようになったのは、この地道な活動のおかげである。

「ユフの領事館からは連絡来たのか?」

「まだだ。ボスにやらせてるけど一報も入れてこない。あのクソジジイめ」

「まぁそうカリカリすんなよ」

ガイはまだシロップを舐めている。タォヤマは息をはいてソファに背をあずけた。

一人用アームチェアの上では、シーシが丸くなってすうすうと健やかな寝息を立てている。ソファにはられているメドウグリーンの生地は表面が毛羽立ちヘタリが無視できないが、シーシの金色の髪の毛を乗せている今はビロードの控えめな輝きが復活したかのようにも見える。

「……疲れた……」

「そりゃそうだろ。横になるか? 別に無理して掃除してくれなくてもいいんだぞ、まぁ俺は勝手に綺麗になったら嬉しいけど」

「意味を調べないと……」

「意味?」

「シーシが友達友達って連呼してただろ、あれの意味」

ああ、とようやく手をとめてガイは下牙をつきだした。しかしその表情はすぐに引っ込め、がちゃがちゃと忙しない音をたてて皿を重ね始める。

「キッチンの床は拭いとけよ」

「ん? ああ、確かにちょっと気になってたんだけどやるかぁ、しょうがないなぁ」

「ちょっと、ねぇ……」

やはりガイの衛生観念は許容できないものがあるとタォヤマは目を閉じた。

「ま、でもその前に……タォヤマ、コーヒー飲めるか?」

「コーヒーってなんだよ」

「オーケイ。飲めるものは?」

「いや、いいよ。自分で注文するから」

ああ、それがいいな、と背中でガイは答えた。しっぽを左右にふってキッチンの薄暗がりに消えていく彼を見送り、空中を指で撫でる。

イェナにはユフのコミュニティがないが、イェナのあるラブセドル星の隣、メオビ連星にはユフ街が点在している。領事館も実体はそちらにあり、イェナの業務を兼任しているのだそうだ。したがって取り寄せたメニューにもユフの口にできそうなものがちらほらとある。

ざっと目を通してホットミルクを注文し、辞書モジュールを広げる。こめかみをこすって翻訳機の音声データを取り出すと同時に辞書モジュールが点滅をして、音声を認識したことを知らせた。あとは翻訳づまりの起こったところを探していくだけだ。

最新の履歴まで進み、音声を再生する。シーシが抱っこをせがむ声だ。数分巻き戻し、再生する。シーシがガイの手の大きさを褒めている。さらにもう少し巻き戻す。ガイが助けを求める声。少し戻しすぎたがガイの猿芝居に思わず吹き出したタォヤマは目を手で覆った。

「おい、タォヤマ、なに笑ってんだよ、なんかあったのかぁ?」

「いや、なんでもない」

「ほんとかぁ? あ、やっぱり笑ってるじゃないか、なにかおもしろいものでもあったのか?」

「お前の名演技を再生しちゃったんだよ」

俺の名演技、とケトルを片手にガイは繰り返した。そして口をぐいと引き結び、斜め上を見上げて肩をすくめる。

「素晴らしい演技だっただろ。シーシが本気で心配したんだから」

「そうだっけ?」

「そうだろうよ! お前の目は飾りか? まったくぅ、あんな涙をさそう名演技は二度と、世界中のどこを探したって見れないぞ!」

タォヤマは笑いながら右上腕を払った。白い牙を見せてガイは笑っている。

音声は「散髪」の翻訳づまりのところで一旦停止した。すぐに辞書モジュールが反応して読み込みモードになる。

結果はまたず、タォヤマは音声の再生を再開した。すぐにシーシの拙い声が再生され、いつも翻訳づまりを起こしている「友達」がヒットする。同時に同じ単語を使用している音声が自動的に文字に書き起こされ、仮想モニタに表示された。赤く強調されているのがシーシの言う「友達」、太字で強調されているのは類義語だ。ちょうど音声の辺りはガイとシーシが言い合いをしているところにあたるので、類義語も頻出している。

てっとりばやく、タォヤマは一番近くにあった類義語を指で弾いた。指に振動が伝わり、新しく展開された仮想パネルの中に語義が表示される。

 

 

 

 

これはごく普通の意味だ、とタォヤマは思った。

たしかにガイも「友達」にはなれなくてもこちらの意味での友達になれると言っていたが、複数の対象に用いるというのならば納得がいく。逆に言うとシーシのいう「友達」は複数の対象には用いられないということだ。しかもあくまでもタォヤマはシーシの「友達」であってシーシと「友達」ではないということも注意せねばならない。

タォヤマはため息をついて、白く光る単語に繋がる糸を指で引っ掛けた。

ピンッと澄んだ音が弾け、一番手前にあった仮想パネルが上方へ移動した。代わりに浮かび上がった別の仮想パネル上にぼんやりと文字が浮かび上がってくる。

 

 

 

「宿主――……」
タォヤマは目を細めた。

 

 

「――イェナタワー前に集まる抗議隊は増え続けており、当局は警戒を強めています。今回なぜ、このように抗議活動が大きく広がったのでしょうか。専門家の意見では、近年スィアツ全体を覆う――不興がこのような運動の動機となっているのではないかということです」

立体映像は場面が変わり、イェナタワー前広場を映している。まだ見たこともないのでイェナタワー前広場の大きさは正直なところよくわからないが、すし詰めになっているニンゲンの頭は数百をくだらないと思われる。映像では抗議活動の参加者へインタビューをしているらしい。

映しだされた二人組の男は、ガイのようにだぶだぶの服を着こみ、顎の下に毛をはやしている。マイクを向けられている一人は興奮しているのか甲高い声で早口に話しているが、そのとなりに立ち尽くすもう一人の男は鋭い眼光でカメラを睨みつけて口をギュッと結んでいる。話している男の口から出てくるのは貧困層の拡大について、この数年で物価が五%も上昇したが、これはインフレーションが発生しているとみていい、基本通貨のレートは変えられないのだから、補助通貨の発行を抑制して、物価上昇率のコントロールをすべきだ――

ふたたびスタジオにきりかわり、今度は白い体毛を生やした男とふくよかな女が向き合ってやり取りをする場面に変わった。女の声は翻訳づまりが起こりにくく聞き取りやすい。おそらく彼女は人前で話す訓練を受けているのだろうとタォヤマは思った。もう一人の男はもごもごと口の中で喋ることがあるが、すぐに女がその言葉をかいつまんで念を押すので、話の筋ははっきりと見える。

男の話を総合すると、スィアツには問題が山積みで、街の生まれ変わりに手間暇をかけている余裕はない、ということのようだ。メンテナンスの行き届かない辺縁地区とそれにより逼迫する住宅事情、不足する福祉、教育、老朽化したインフラ設備――しかしこれといった産業のないスィアツは赤字を垂れ流す国際空港の問題もあり、徐々に貧困化している。貧困層が増大し、治安は悪化、数十年後にはセキュリティセーフ区域は少なくとも第三地区まで縮小するだろう。インフラや住宅事情は再開発で解決する問題だが、すべての根源となる財源、シュリンクするスィアツの経済問題を解決しなければ、いくら再開発をしても五十年後、百年後にはまた同じ問題が繰り返される。根本的な問題を解決せず、再開発にのみ注力するのはいかがなものか。要約すればそういうことだ。

意外にためになる、とタォヤマは感心した。このあたりのことを押さえたうえで反対派との面談をすれば、意見の食い違いも起こりにくくなる。パトリシアもよくわからないコンセプト案をプレゼンするくらいなら、こういう概要をかいつまんで話してくれればいいのに、と彼は思った。

「……パトリシアはだいたいまとまってきたって言ってなかったか?」

憮然としてタォヤマは漏らした。

窓の外はすでに薄暮となり、摩天楼は光渦巻く幻想的な光景をつくりだしている。流石に第八地区まで抗議活動の声は響いてこないので、部屋にいる分には静かなものだ。モニタの中ではぎっしりとイェナタワー前広場にあつまる群衆が映しだされている。みな、棒の先が光っているものをかかげ、誰かの合図で左右にふっているらしく、光の海が現れたのかとおもうような美しい光景だ。

「ん?」

「この話」

「続行は既定路線だよ。お前んとこの見積もりがいくらになるかはわかんないけど、この予算が通ったら人を増やせるはずだからコンペ案をもっとマシにできるし、いろいろとヴェシュミ・ビセに必要な調査もできるようになるし、通らないってことはないんじゃない――」

「ねぇ、これとってぇ」

はいはい、と返事をしたガイはシーシから原色のブロックをうけとった。昼寝から起きたシーシが退屈しているようだったので幾つかおもちゃを買い与えたのだが、先程からシーシはレゴブロックに夢中で、ブロックをくっつけてはガイにとってくれと頼む遊びをしている。その間にタォヤマはカーペットとソファに掃除機をかけ、ダイニングテーブル周りのゴミを全て捨てて、シャワーを浴び、仕上げに炭酸水を飲みながらニュースを眺めているのである。数日ぶりにゆっくりと寛げる夕方だ。

「じゃぁなんでこんなことしてるんだ? 夜は結構気温がさがるんだから風邪引くじゃないか」

「風邪ひきたくてやってるんじゃないのかねぇ」シーシにレゴブロックを渡してやりながら、ガイはとぼけた表情でそんなことを言った。ガイの隣におさまっているシーシは両足の間にブロックを挟んで、真剣そのものという顔をしてブロックを重ねている。もう何時間も熱中しているが、飽きないらしい。

「ニンゲンってそういうとこあるだろ、無茶をして相手から譲歩を引き出すみたいな」

「そうなのか?」

「この二年でおれは胸に刻んだんだ。俺が言うんだから間違いない」

「おまえが言うから怪しいんだろ」

「そういうこというかぁ? なぁ、シーシ、タォヤマってひどいこと言うよなぁ」

「シーシ、今忙しいの。あとにして」

妙にこましゃくれた調子でガイを押し返したシーシは、ぱちりとブロックを嵌め合わせた。

「ん、そうか、ごめん……」

「街の声をまとめました。やはり不安要素の一位は電力なんですねぇ」

しょぼくれたガイの声にアナウンサーの間延びした声がかぶさったのでタォヤマはそちらへ視線を送った。

いつの間にかモニタの中では文字を表示したパネルが映しだされている。その前でくりくりと目の大きなアナウンサーは口を半開きにして、頭を縦にカクカクと振っている。操り人形のような奇妙な動きだが、ロボットだろうかとタォヤマは訝った。眼の焦点もあっていないしやたらまばたきをしている。調光が適切でないのだろう。アナウンサーの向かいにずい、と頭を出したニンゲンも同じように頭を縦にカクカクと振ってなにか間延びのした声を発した。翻訳機は動作しなかった。

「これ、なんて書いてるんだ?」

「んー、バツヴァク語は読みにくいんだよなぁ」

「二年も住んでてそれか? 不便じゃないのか?」

「紙に書いてるやつは音声に変えちゃえばわかるしさ、だいたい耳があればそんなにこまんないよ。俺は耳で情報を食べるタイプなんだ。こんな風にガブガブってね」両手で耳を動かしてガイは得意気に上牙をのぞかせた。

「おまえはなんでも食べるな」

「美味しいものがない人生なんて楽しくないだろう! あ、でも音にしなくてもちょっとは読めるようになったんだぞ。ええと、あれの一番上の最初の五文字は電力っていう意味だな。その下の最初の二文字はよくわかんないけど、そのとなりはええと、サービスかな?」

「ルガス・グォツゥ……?」

「ああ、ルガスなら医療だな。サービスだとゲタゥバのはずだけどなんか違うのかな」

ああ、とタォヤマはため息をついた。まったく文字が読めないようでは苦労するだろうと文字種程度は学んできたタォヤマだが、実践にはまったく歯がたたない。

「電力問題については三十年ほど前から議論されてきたことですが、いまだ解決の糸口が見えません。なにが障害になっているんでしょうか?」

「イェナが構築されたのは西暦14500年頃といわれていますが、初期の頃から電力不足は常に叫ばれていたそうです。記録に残る限り最古の電力計画は14588年、義務教育でも必ず学ぶ第一次建築物発電機関化法です」

「なんだそれ」

タォヤマは思わず声をもらし、ガイを振り返った。シーシの要求にこたえて、ブロックの塔を慎重に床におく作業をしていたガイは目を大きくしてすい、とモニタを見やった。そしてああ、と気の抜けた声をだす。

「建物からも発電するっていう決まりだよ。とにかく電力が足りないから、すべての建物は発電所――っていうか発電機関になってる」

「この建物も?」

「そうだよ。これがなかなか凝った仕組みでさぁ……シーシ、ちゃんと押さえてる?」

「押さえてるぅ」

難しい顔をしててっぺんのブロックにもう一つブロックをはめ込み、シーシは大袈裟に息を吐いた。胸に手をあててほっとした、というような表情をしているが、やったことといえばブロックをはめ込んだだけである。

「ベランダと部屋の境目を見るとわかると思うけど、上下してるだろ。イェナの建物はこれくらいずっと揺れてるんだ。なんで揺れてるかって言うと――」

「崩れそうだから?」

「待て待て、ちがうちがう」

「ガイ! ないよ!」

ああ、はいはいとガイはバケツから一掴みのブロックを拾い上げた。一旦ソファの上にそれをおいた彼だが、右手を広げカーブした爪の上に一つずつブロックをのせてタォヤマに向かって突き出す。タォヤマは面食らってガイを見返した。

「イェナの街の中心はイェナタワーで、その下に発電所がある。発電所に関しては昨日お前も見てきたよな、とにかく街の中心で、地下の深いところだ。その上にイェナの都市は放射状に形成された――」

「螺旋状だろ」

「地盤は放射状さ。建物とか行政区は螺旋状になってるけど。なんでそういいきれるかっていったら、放射状かつ、発電所に近いところほど建物を高くすることで送電ロスを最小限にしてるんだってさ。周辺辺部は物資倉庫のことが多いのは遠くてロスがあるからだな。電力をあまり使わなくて、オンオフの回数がすくなくていい貯蔵倉庫ってわけ」

「それでこんな複雑な地形なのか?」

うむ、としかめつらしくガイはうなずいた。「ついでにいうとそれでも電力が足りないから、活動による振動をつかって建物――っていうか街全体を発電機関にしてる。考えたやつは天才だと思うよ。まぁ、十分じゃないから日常生活に使う程度と、あとはホバーカーの充電するくらいにしかならないらしいけど」

「建物を?」

「人が動くと揺れるだろ。しかもイェナの高層階は地盤になる建物の上に建設されてる。たとえば俺の腕が建物だったとして、こんなふうに――」手のひらを差し出してガイは続けた。「建物の上面を断面積より少し拡張して、バランスをとりながら建設してるんだ。こうするとバランスが微妙だからよく揺れる。途中に色んな所にテラスがあっただろ、あれはフロア間の行き来とか、上層階のニンゲンにもある程度広い場所が必要ってこともあるけど、当初の理由は街全体をできるだけ揺らすためだったんだよ」

「ふつうは……安定するように考えるよな……」

「それくらい発電量が逼迫してるってことさ! しかも昔からね。あとは高い建物のなかで分布の偏りがあると筋肉みたいに一方がのびたり、逆側が縮むだろ。変位があればそれを利用していくつかの発電技術を使える。振動から発電する方法はいろいろあるけど、どれもわりと安価だし、環境要因がないし導入しやすいんだよ。あとからでも追加できるのも大きな魅力で――たぶんイェナは徐々にこんなふうに街を成長させていったから当初はともかく、人口増加と一緒に振動で発電する方向に徐々に方向転換したんじゃないかなぁ、世界的に見ても珍しいと思う。いやぁ、調べるほどビックリな構造になってるんだぞ。今日はその案内をしようと――」

「ガイ、元気になったね」

いやに饒舌になったと内心思っていたタォヤマを見透かしたようにシーシは相槌をうった。そしてガイの指先からブロックをうばう。おっと、と声をだしたガイはあわてて拳をにぎったが、彼の毛をかすめてバラバラと小さなブロックが床の上に落ちた。

タォヤマは顔をしかめた。

絶妙なバランスで成り立っているイェナの市街地の全容をつかむのは楽なことではなさそうだし、そんな都市をヴェシュミ・ビセするとはどうにもぞっとしない。メリヴォをスプシュとするだけならひとまず全部壊せばいいのだが、木の保全を頼まれたりなどしたら、一部は守りつつ、一部は改修するという非常に高度で繊細な技が必要になる。どうりで他の事務所が断ったわけだ、とここにきてようやくタォヤマは納得した。この規模を一気にスプシュトできるシュルニュクはそう簡単にみつかるものではないし、ちまちまとした補修ではうっかりすると市街地全域が崩れる可能性があるとなったらいくら大金を積まれても尻込みするというものだろう。セブジが引き受けたのはぎりぎりなんとかなるレベルのシュルニクがいたから――というよりは当時はまだオガがいたからだろう。明らかにできるとわかっているのでなければ、手を出さないのが最善だ。

そして問題はタォヤマがこの規模のヴェシュミ・ビセができる側のシュルニュクであるという点だった。

「どうした? よくわかんなかったか? 結構面白いと思うんだけどなぁ……あ、そうだ。落ち着いたらあそこに行こう。発電博物館。すごいんだぞ」

「いや、ヴェシュミ・ビセをすることを考えたら頭がいたいと思って」

「あれー、あー、まぁそっか」

「発電所の拡張はするのか? この間パトリシアはなんにも言ってなかった気がするけど」

「どうなんだろ。するんなら計画が必要だよなぁ。ヴェシュミ・ビセの時は一時的に住民を全員空港に避難させるらしいけど全部止めちゃってもだいじょうぶなのかなぁ」

「そうなのか? きいてないぞ」

「あれ? そうだっけ」

「ガイ、ここ持って! ここだよ!」

いつのまにかソファの上に膝立ちになっていたシーシが突然口を挟んだ。先ほどからガイに対しては妙に高圧的な態度であるが、ガイもガイではいはいということをきいているのだからおかしなものだ。小さな手にひとつずつブロックをにぎりしめ、彼女は奮然とたちあがった。

「まぁとりあえずパトリシアに聞くよ……色々聞いてないことあるな……」

「まぁ、まだ来たばっかしだししょうがないんじゃないの。気にすんなって」

「ガイ! ゆらさないでよ!」

「ああ、はいはい、ごめんごめん」

「もう! ちゃんとしてよ!」

「はい。すいません……」

耳をぺたりと寝かせてガイは下唇をつきだした。腰に手をあてたシーシは再び奮然と息を吸い込み、細いブロックの塔の先端に手をのばす。

と、その時だ。

雨音かとタォヤマが振り返ったほど、その音はごく自然に空気の中に滲んだ。だが、ぴくり、と片耳を立てたガイは玄関を、同じくぴんと背筋をのばしてシーシもそちらへ首を巡らせ、そして「チトだぁ」と気の抜けた声をあげた。

「チト?」

「チトだよ。遅かったねぇ」

「チトってだれのこと?」

「話しただろう、シーシの姉だって主張してて……地下はまだ封鎖されてるのかと思ってた。いやに早いな」

ああ、と首を縦に振ったガイはすぐにキュッと眉根をよせた。

昨晩、ガイと合流したあとチトについては話をしてある。そのときはしぶい顔をしたガイだが、相手がニンゲンであれば恐れるに足らないと思ったのか、最後はしょうがないなと一言だけはいてタォヤマを責めなかった。地下の封鎖が解除されるのは抗議デモ収束後だし、その頃にはタォヤマのアパートが見つかっているかもしれないという楽観的予想もあったためだろう。

「チトはね、いつも帰ってくるの遅いの。悪い子なの」

「ふうん、たしかに悪い子だなぁ」

コンッとするどい音が玄関の方角から聞こえる。我慢できなくなったのかコツコツとせわしなく扉を叩いた訪問者はまた来訪ブザーをならした。

「じゃぁガイおじさん、ちょっと見てくるから一人で頑張るんだよ」

「倒れちゃうよぉ」

「そこは一人で頑張るんだな。一人で最後までつめたらすっごいぞ」

目でタォヤマに支えているようにと合図して、ガイはソファから腰を浮かせた。その動きに合わせてゆらゆらとブロックの塔が揺れる。カラフルな塔は見ているだけで目がチカチカとする。

「倒れちゃう、ターヤマぁ、倒れちゃうよぉ」

「しっかり支えてれば大丈夫だよ」

「でもぉ」

「倒れちゃってもまた最初からやればいいし」

んー、とシーシは頬をふくらませて唸り声をあげた。細長い塔は彼女が呼吸をするだけでゆらゆらと揺れ、中段あたりからぽっきりとおれてしまいそうだ。だが、タォヤマは手を出さなかった。もし崩れたならそれだけだし、くずれなかったらガイのいうとおり「すっごい」ことだからだ。

「早く開けてよ! シーシはどこ?」

ヒステリックな甲高い声がシーシの肩に突き刺さったようだ。びくりと首を縮めたシーシの手のひらの下、細かく振動していた塔の中腹辺りが大きくゆがみ、白い腹に亀裂が走った。あっと声を上げるまもなく分裂した中段以下がローテーブルにぶつかって砕け散る。

「あーあ」ひゅっと手をひっこめ、シーシは口をとがらせた。「チトのせいだぁ」

「シーシだよ! なに? なにさ、迎えに来たの!」

「こらこらこらこら、ここは俺んちだぞ。行儀よくしない子は入れません」

「うるさいよ、野獣のくせに!」

「美しい野獣」

「うるさい!」

金切り声をあげてチトはわめいた。ソファの上でお腹に手をあてているシーシはまだ口をとがらせて廊下の方を睨みつけている。

「様子見てくる?」

「んー」

「寝てる間に出てきたから心配してるのかも」

「チトはそういうんじゃなぁいの」

ふん、とこましゃくれて鼻をならした。ついでに顎もそらして、なぜか髪の毛をなでつける。まるでそれが大人の女性のしぐさだと思っているかのような芝居がかったしぐさだった。

「だってシーシの面倒見るって約束なんだもん! 早くシーシ連れて来てよ! あいつに――食べられちゃう!」

「おいおい、いくらユフが肉食だって言ったってさ、食べられちゃうはないだろうよ。大きな声は出さないこと、シーシを連れて逃げないこと、あと俺の美しい顔を蹴っ飛ばしたことを謝るって約束したらいれてやる」

「いじわる!」

つい、とまたもや声のする方を見やったシーシだが、ソファの上にしゃがみこんでしまった。そしてにこりと白い歯をみせてタォヤマに笑いかける。

「ん?」

「ターヤマ、だっこぉ」

玄関ではまだガイとチトが言い合いをしている。廊下に声が響くのはあまり良くないのではないかとタォヤマはひやひやしながらシーシの顔を伺った。表情はいつもどおりだ。

「ねえ、だっこしてぇ」

仕方なくタォヤマは腕をひろげた。

ぱっと顔を輝かせたシーシはソファからずり落ちるようにして床に降り立ち、ブロックを蹴散らしながらタォヤマの方へ走ってきた。目を輝かせ、よほど嬉しいのか上の歯で下唇をかみ、彼女は遠慮がちにタォヤマの右上腕に触れた。

中腕で彼女を抱き上げ、膝の上に乗せてやる。甲高い笑い声をもらしたシーシはタォヤマの右上腕に頬ずりしてにかり、とまた白い歯を見せた。

「ねー、チトがぁ――オコテルよぉ」

チトの悲痛さすら感じる声音にまったく反応をしないと不審に思っていたタォヤマはほっと息をついた。シーシの物事の判断基準はどうにも理解しがたいが、チトの思いが一方的でないことに安堵したのかもしれなかった。

「もう! わかったよ! 謝ればいいんでしょ謝れば! 蹴っ飛ばしてごめん!」

微塵にもすまなさを感じない謝罪は相変わらずだ。タォヤマは呆れて息を吐いた。腕の中ではシーシがタォヤマの腕をたたいてなにか主張をしている。翻訳は行われない。

上腕で彼女の背をささえ、中腕で体をだきあげる。その姿勢から立ち上がれるのかどうかとタォヤマは躊躇したが、少し前かがみになって背腕で勢いをつけてやれば、どうにか立ち上がることはできた。床に散らばっているブロックを踏まないようにローテーブルを迂回しながら玄関の方へと向かう。シーシはまだなにかおしゃべりをしている。

「ようし。じゃぁ入ってもよろしい。シーシはいい子にしてるよ――おいこら、待ちなさい!」

不穏なガイの大声にぎょっとしてタォヤマは一歩後ずさった。とっさにシーシを抱き寄せ、廊下に背を向ける。足音が風を伴って迫ってくる。激しい剣幕だとわかるのは、彼女の取り巻く空気が熱いからだろうか。皮膚にふれなくても、その熱は確かにタォヤマに触れ、彼はそろそろと首をめぐらせた。

「ちょっと、シーシにさわんないんでよ! 変態!」

「あーこらこら、喧嘩はやめ……」

「返してよ! シーシはあたしのなんだから!」

ぎくりとしてタォヤマは腕に力を込めた。熱い空気がタォヤマめがけて突進してくる。ガイの声はさらにその後ろにあり、彼女を止められる距離ではなさそうだ。

「あたしの――!」

「シーシはチトのじゃないもん!」左手でタォヤマの胸元を掴み、背をそらしてシーシが叫んだ。「だってシーシはぁ――」

「シーシのばか! ずっと一緒にいるって約束したのになんで破るの? ばか!」

金切り声をあげたチトがタォヤマの右中腕を掴む。ぎょっとしてタォヤマは右背腕を天井にむけた。そんなタォヤマの動揺におかまいなく、チトは腕を激しく揺さぶって、激しい剣幕で喚いている。翻訳は行われないが、たぶん罵倒だろう。

「シーシ、ばかじゃないもん!」

「なんでよぉ! なんでみんなどっか行っちゃうの! 約束したのに……!」

「こらこらこら! タォヤマを叩いちゃだめだよ、虚弱体質なんだから!」

「シーシなんて嫌いだもん、大っ嫌い! みんなきらいなんだから!」

割り込んできたガイの腕をなぐりつけ、長い毛をひっぱりながら、チトはなにかを喚いている。わめき返すシーシの声はきんきんととがって、その声の高さに刺激されるのかますますチトは熱い空気を撒き散らしている。タォヤマは背をまるめ、シーシをかばった。

「いたい、ちょっと待て、いたい、いたいから引っ張んないでくれ、落ち着いて、頼むから落ち着いてくれ、静かにするって約束だろ」

「だってシーシがぁ!」

うぉん! とまるで肉食動物のようにチトは吠えた。

ちがう、とタォヤマは思った。彼女は子供で、だから泣いているのだ。気持ちを整理できず、ただ感情にまかせて喚き散らし、そして泣いているのだ。シーシと同じように大人の手からこぼれ落ちた彼女はシーシより大きくて知能があり、分別もあるかもしれないが、それでも子供であることには変わりがないのだった。

「返してよぉ! シーシ、返してよぉ! あたしのなんだから!」

「おねえちゃんになったらぁ、喧嘩しちゃダメェなんだよ。チト悪い子なんだぁ」

「うるさい! 静かにしててよ! ――食べられちゃったってしらないから!」

「んー!」

腕の中のシーシが癇癪を起こしてタォヤマの胸を押し返した。やわらかそうな頬をふくらませ、顔をまっかにしたシーシは短い右腕の第二指を突き出してぶんぶんと激しい勢いで振っている。

「チト、悪い子……!」

「悪い子なのはシーシでしょ! 勝手にどっか行ったりして! すぐ迷子になるし、最近うるさいし! なんなの? なんでこいつばっかり……!」

ああもう、とガイが絵に描いたようなゲンナリとした顔になった。

「こらこら、ふたりともおとなしくしないとガイおじさんがお仕置きするぞ」

「シーシはだいじょぶだもん!」

「なにが大丈夫なのさ! いままで全然近寄ってかなかったくせに、どういう風のふきまわしなわけ? どうせ誰だっておんなじじゃん、なんで今回――」

すう、とチトの声が消えた。眉を尖らせたままぱちりとまばたきをした彼女の顔の上にちらりと動揺の色が走る。

「今回?」

まだチトは怒りの表情パターンを維持している。しかし、声はでなかった。喉の奥になにか詰まったように彼女は口を開けて咳込んだが、だからといって放った言葉を消せるわけでもない。

「今回ってどういうことだ」

「なんでもないよ! あんたに関係ないの!」

「じゃぁいつもってどういうことだ。他のユフにあったことがあるのか? そのユフにシーシはなつかなかった?」

「ちがうよ! リュボヤとか……」

「リュボヤとか? トルシュとは普通に話してたよな。なついてるってほどでもないけど、近寄っていかないってほどじゃない。ガイだって同じだ――」

「他にもいっぱいいるでしょ! 保護施設とか――」右拳を激しく上下に振って、チトは声を荒げた。「あとは反対派とか! ごはんくれる人とか!」

「それと俺のなにが同じなんだよ」

「同じ……じゃんか……用が終わったら、消えちゃうんだから……!」

「ターアヤマはちがうよぉ、オガとおんなじだもん」

じっとタォヤマを睨みつけていたチトの二つの虹彩が流れるように右へ動いた。少し遅れ、ぎこちなくおとがいが動く。関節が軋む音を立てているのが聞こえてくるようだった。

「……オガ……?」

世界の色彩が乱れ、また戻る。

彼が死んだのは四十九年前だ。タォヤマが百六十歳になった年だったからはっきりと覚えている。

どう考えてもその時にシーシとチトが生きていたはずがない。ニンゲンならば、だが。

「オガって……?」

「オガは、おててがいっぱいあってぇ」まだ眉間にしわを寄せたままシーシは両腕を大きく開いた。「お顔がわれててぇ、歯がいっぱいあるの!」

受け入れられない。思考が拒否している。正しい物は見えているはずなのに、受容できない。関節が音を立てるのにも構わずタォヤマは歯を食いしばってチトに視線を送った。

チトの表情が凍りついている。目をいっぱいに開き、唇を震わせている彼女は声を発さなかった。顔は病的なまでに白く、先程まで苛立って喚いていた人物であるとはとても思えなかった。頬に栗毛が張り付いているのに、彼女はそれを払おうともしない。瞳孔は細かく左右に揺れ、答えを求めている。ごまかすべき言葉を求めている。

「チト……どういうこと……説明を……」

「ちがう!」唐突に彼女は叫んだ。青白い頬にぱっと色味が指し、瞳の中にひかりが戻った。「ちがうよ! シーシが適当なこと言ってるだけだから! いつも嘘つくの、シーシは嘘つきなの! オガなんてやつしらないよ!」

「嘘じゃないもん! オガはぁ、シーシの――友達だったんだよ!」

まただ、とタォヤマは思った。また翻訳づまりだ。スムーェジを左手にさげたシーシは拳を固め、もう一度「友達」と念を押した。これも同じだ。先ほどタォヤマに向かってムキになっていた時と――しかしだとしたら、この「友達」のほんとうの意味は一体なんだ? そしてなぜオガは彼女の「友達」だったのか?

強すぎる。

頭のなかで声がする。強すぎると声がする。その声がタォヤマをすくませる。彼はぎゅっと背腕を背におしつけ、胸の奥底を押さえつけるその声に耐えようと息を止めた。

「ほんとだもん!」

「ちがうでしょ、だってシーシはニンゲン……!」

「ほんとだもん!」ダンッとシーシは両拳でタォヤマの胸を叩いた。緑色の目がらんらんと輝いている。タォヤマは痛みをこらえ息を吸った。「シーシ、嘘ついてないもん! チトのばかぁ! いいもん、シーシもう大きくなっちゃうから!」

奮然と息を吸った彼女はすばやく首を巡らせ、そして――

そしてタォヤマを見る。

来る。

瞬間的に悟ったタォヤマはたじろいで身を引いたが、彼女はためらわなかった。今まで彼女が見せていたどんな動きとも一致しない力強い踏み込みでタォヤマの胸元を蹴り、軽タォヤマに飛びかかってくる。

彼女の瞳の中に、なにか光がまたたいている。口元にうっすらと笑みをうかべ、シーシが迫ってくる――

反射的に腕を突っ張ったタォヤマをよそに、シーシの小さな掌がぺたりとタォヤマのこめかみに吸い付いた。まさにすいついたと表現するほかないような動きだった。いつの間にか彼女の瞳孔は開ききって、虹彩のほとんど消失した瞳がタォヤマを映している。深く、濃い闇が瞳孔の中にわだかまり、その一番深いところで白い光がまたたいている。光がこちらに向かってくる――

本能的にタォヤマは察知した。

喰われる。

眼の奥でバツリと刺激が弾け、筋肉がぐうと縮んだ。叫び声をあげたかどうかはわからない。耳が音を聞く前に、すべての感覚がブツリと遮断されたせいである。

2017年7月14日公開

作品集『ある朝の毒虫』第6話 (全7話)

© 2017 斧田小夜

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