ある朝の毒虫 – 5

ある朝の毒虫(第5話)

斧田小夜

小説

31,063文字

襲撃者とともに奈落の底へ落ちたタォヤマはどこかへ移動したらしいが…

右背腕が空を切る。指先からほとばしる冷たい感触に思わず笑みを浮かべ、彼はいっぱいに腕を振りぬいた。

スプシュトをしている。その瞬間、世界は自分のためにあるのだとさえ思える、それがスプシュトだ。スプシュトをするものはみんなその感覚を知っている。あらゆるものは自分の手中にあり、腕を振るだけでそれはすべて一斉に開く花のように目の前に鮮やかに現れるのだ。万能感に心が打ち震えるのは決しておかしなことではないだろう。

白い世界に濃い緑色の線が走る。遠近感覚のはっきりとしない世界に水平と垂直を生み出したその線は上下に分裂し、割れ目からあふれだす水がしぶきを散らした。タォヤマは思わず笑い声を上げ、右背腕を振り上げた。今度は赤、清々しくほんのりと甘い匂いが世界を連れてくる。彼の触れたところに土盛ができ、その土盛が伸び上がって石柱となる。古代の文様が描かれた石柱の上には目を閉じた四面の顔が浮かび上がり、赤い花がそれに彩りを添える。滴るような緑の匂い――

強すぎる。

不意に石柱の上の一面が声を発し、タォヤマは我に返った。振り下ろした指先はまた白い世界に色を添えたが、タォヤマの心を躍らせる力は失っている。彼は目を見開き、石柱を凝視した。

古代の文字は神について語っている。神と呼ばれたシュルニュクについて、その説話を記しているのだと聞いたことがある。

強すぎる。

強すぎるシュルニュクはその力に耐え切れず死んだ。強すぎるユフの寿命は短い。まるで命を削りながらスプシュトをしているかのように――

視界の外から伸びてきた木の枝が四面に絡みつき、その顔を覆い隠している。タォヤマの足に触れる土と草の感触、足元を這いずりまわる虫と、微生物、芽吹きの時を待つ植物が白い世界に土を撒き散らし、視界が徐々に混乱した色彩にうめつくされる。これは――

これは夢だ。夢だとわかっている。だから好きに彼は腕を振り回して原初的な喜びに身を委ねていたのではなかったのか。

強すぎる。

一歩、後ずさる。

また、やってしまったのだと彼は理解した。またあの時と同じだ。やってしまった、力を制御できなかった、感情にまかせてまた過ちを――

「タォヤマ」

静かなパニックが押し寄せてくる。彼を責める声が、恐れる目が見える。彼は慎重に息を吸い、そして吐いた。いつの間にか右背腕が震えている。ぐっしょりと脇が汗で濡れ、動かなければとどこかで命令する声があるのに動けない。

強すぎる。

「ターヤマぁ? 痛いよぉなの?」

ぶつり、と電源が落ちたように色が消え、彼は我に返った。

 

 

若緑色の目が二つ、タォヤマを覗き込んでいた。ちらちらと揺れる緑色の木漏れ日が美しく、あたたかい空気が彼を包んでいる。

楽園。

彼は思った。

また、楽園に戻ってきたのかもしれない。戻ってきたということはどこかへ行っていたのか?

「ターヤマ起きたよぉ!」

「シーシ、無理に起こしちゃだめ」

「でも目ぇ開いたんだよ。シーシ、わかるもん!」

シーシ、と頭のなかで彼は反芻した。シーシ。生姜色の髪の毛をした、擦り切れたサマードレスを着た少女。小さな手を一生懸命に広げ、タォヤマの指をつかもうとする。眼の色は――鼻は丸っこく、すこし上を向いている。ピンク色の薄い下唇を綺麗に並んだ白い小さな歯で噛む癖があって――眼の色は――

強すぎる。

はっと彼は目を開いた。そして彼を覗き込んでいるシーシと目があった。

彼女の頭の向こうには灰色の建材がむき出しになった天井があり、午後のひかりを押しとどめている。目に映る木漏れ日は先ほどと変わらず、おそらく体の右側に窓があるのだろうと察せられた。背中に柔らかい感触があるが、寝起きは全体的に触覚が鈍るのでなにがあるのかはわからない。とはいえ特に痛みは感じないので背腕が折れたというわけではなさそうだ。幾分かほっとしてタォヤマは息をはいた。足の裏がもぞもぞする。

「おきたぁ!」

「だから静かにしなって。びっくりさせたら大変なことになるんだから……」

大人に近い声が頭の方から近づいてくる。

タォヤマはまばたきをした。今、どこにいるのかわからなかった。ひゅっと体をひいたシーシは視界から消え、殺風景な天井だけが残る。右側で揺れているのは白いカーテンだろうか。そのうえで揺れている緑色の光は蔦の葉が太陽に透かされているからか。

ここは楽園ではない。タォヤマははっきりと思った。楽園ではなかったはずだ。あの楽園にシーシという少女はいなかった。

「大丈夫? 痛いとこない?」女の声が頭の上から降ってくる。視界の外側にいるせいで顔は見えない。「あたし、チトっていうんだけど、んーとぉ……――ラフでごめんね」

みじんにもすまなさの感じられない言葉をはいて、チトと名乗った少女はぬっと顔を出した。すこし首を傾げている。「動かないでよ。今スプシュトされたら困るんだから」

「……なに?」

「あんた、裁定者でしょ。待って、起こすから」

再びチトの顔が消える。

ざわざわと胸の底から不安な思いが湧き上がってくる。一体ここはどこだ、と彼は手近な問題に飛びついた。

シーシはわかる。彼が面倒を見ることに決めた少女だ。そのシーシを匿うためにガイに頼みこみ、ホバーカーで移動をしていたのだった。燃料補給にいくとガイが言い出した途端に影がおちてきて、そして――

チトはあの時の影か、と彼は目を閉じて思った。シーシが何度も名前を口にしていた少女だ。たぶんシャトルの中でタォヤマを指さして「エイリアン」と罵ったあの腹立たしい女も彼女だろう。彼女のハンド反重力装置では逆重力の出力が足りず、タォヤマは無我夢中で緩衝材をスプシュトした。それで――それからどうなったのだったか。

「ターヤマぁ、しりとりしよ」

「シーシ、遊ぶのはあとにして。今、大事なはなししてんの」

キコキコと頭の下からなにやら音がする。音と連動して徐々に視線の位置が高くなり、視界に入る物の数がぐっと増えたので、タォヤマは安堵の息をついた。頭がぼうっとしているし、手足の感覚もない。それだけで不安に押しつぶされてしまいそうだ。

「だってターヤマと約束したよ」

「いいから静かにしてな。終わったら遊んでいいから」

「約束したんだよ!」

うんざりだという顔をしたチトは天井をあおいだが、シーシは椅子の上で地団駄を踏んで主張している。特に怪我をしている様子はないが、しょうが色の髪の毛が豪勢に広がっているところを見るとシャワーでも浴びせられたのだろう。

彼女たちの背後にはダイニングテーブルがぽつねんと置いてあり、その上には紙くずや袋がぐちゃぐちゃと散らかっている。 その向こうに塗装の剥げた椅子が一脚。椅子の背もたれにはあちこちシミのついた汚らしいタオルが一枚かかっている。そんなお世辞にも綺麗とはいえない部屋だが、壁だけは綺麗に塗装されていてひび割れひとつなく、きちんと管理されていることが伺われる。調度品が粗雑なのは使用者が頓着しないタイプだということなのだろうか――

「あとにしなさい」

「やだぁ! ターヤマの隣座るぅ!」

「隣に座るのは別にいいけどさ……」

ぶつぶつと口の中でつぶやいたチトは腰に手をあててため息を一つついた。袖口が黒く汚れたパーカーの袖を捲り上げ、彼女はシーシの脇に手をさしいれてタォヤマの寝転がるカウチの上にシーシを載せた。

「静かにしてなよ。うるさくしたら下ろすからね」

「うん!」

ワンピースの裾がまくれ上がるのも気にせず、シーシはタォヤマのとなりまで這ってきた。そしてにこりと満面の笑みを浮かべる。

「シーシ、いい子だからあとでターヤマとしりとりするね!」

「そうだね、あとでね」

「うん」

大きく頷いた彼女はいそいそとタォヤマの隣に収まった。なだめすかして履かせた黒いタイツは消え、脚は裸足で靴も履いていない。やわらかな踵をちょんとそろえ、シーシは顎を突き出して笑った。

「あのね、シーシね」

「シーシ」さすがに眦を釣り上げてチトは声を低くした。「後にしなさいって言ってるでしょ。下ろすよ」

唇をつきだし、シーシはタォヤマの表情を見ている。タォヤマがいいといえば、チトのことは無視するつもりだ。彼はため息をつき、そして首を横に振った。

「危ないことするつもりはなかったんだけど、あのもじゃもじゃ相手じゃね」

「どういうつもりだ」タォヤマはチトを睨んだ。はじめから印象のよくなかったチトだが、思い出せば思い出すほど関わり合いになりたくない相手だと思えてくる。

「どうって……シーシを返してっても、はいどうぞなんてできないんでしょ? 無理矢理奪われたことにすればあいつに言い訳ができるじゃん」

アンバーの瞳をぱちりと開き、彼女は言った。表情はほとんど無、なにを考えているのかよくわからない。

「ここでどうやってシーシを育てるつもりだ」

「どうやってもなにも生まれた時から面倒見てんだよ、バカにしないで。あたしのたった一人の――をどうするつもり? 聞きたいのはこっちだよ」

「面倒を見てる?」思わずかっとなってタォヤマは彼女を睨んだ。「昨日迎えにも来なかったくせに嘘をつくんじゃない」

タォヤマのとなりで大あくびをしたシーシはもにょもにょとなにかつぶやいてタォヤマの上にもたれかかった。すこし伏せた目を長いまつげが覆っている。睫毛の先は色が抜け、の光に透けて輝いている。タォヤマはそっと上腕で彼女の肩を抱いた。

「昨日は色々あったの。忙しいんだからしょうがないじゃん」

「忙しい」

なに、と剣呑な声でチトは言い返した。「なんか文句あるわけ?」

タォヤマは目を細めて答えなかった。

もし彼女がVOAとつながりを持っているか、あるいはVOAのメンバーなら、できるだけ関わりあいたくなかった。それにまだ幼いシーシならこれから情操教育をして更正させられるかもしれないが、チトは十分な大人に見える。更生させるにしてもそれはタォヤマのしごとではないだろう。

タォヤマはニンゲンのことがあまり好きではないが、それ以上にリュボヤのことは嫌いである。それこそ蛇蝎のごとく忌み嫌っているといってもいい。とはいえ、これはユフでは珍しいことではなく、適当にいきる主義のセブジですらリュボヤのこととなると顔をしかめて舌打ちをする。政府からしてリュボヤとは敵対することが多く、二つの種が友好的でないがゆえに問題が起こると他の生命体から非難される場合もあるほどだ。だが、あらゆる原因はリュボヤの播いた種のせいだとユフは思っている。

ニンゲンがユフを怖がり、「食べられる」などとすぐに口走るのは、リュボヤがユフを隠れ蓑に捕食をしていたからである。ニンゲンが宇宙進出をするずっと前、まだ知恵のある猿だったころから、ユフはいつだってニンゲンにたいして協力を惜しまなかった。二つの種の間には外見の違いによるおそれと遠慮があるが、長い時間をかけてそれを乗り越えるものは少なくない。だというのに、リュボヤはいともたやすくそれを破壊しては、ニンゲンを捕食し、そしてユフのせいにする。

「ねぇ、もしかしてあたしのこと、VOAじゃないかって思ってる?」

「上から急に襲ってきたやつに友好的な態度がとれると思うのか?」

「言っとくけどあたし、VOAでもリュボヤでもないからね。たしかにリュボヤの知り合いはいるけど、とにかく――魔界側じゃない」

「魔界?」

「はあ? ふざけてんの?」顎をすこし引いてチトは怪訝な顔をした。「悪いやつら側じゃないって言ってんの」

「自分から悪人だっていうバカがどこにいる」

「それはそうだけどぉ」

「ねえ、ターヤマぁ。シーシねぇ、しゅわしゅわしたのがいいな」左中腕の指をシーシが引っ張っている。「あとねぇ、ケーキまだだよ」

シーシ、とチトはたしなめたが、シーシは構わずケーキの話を続けた。確かに昨日は途中で彼女がうつらうつらとし始めたので甘いものは注文せずに帰ったが、おねだりは今日も有効だったらしい。

「静かにしてよ、なんで邪魔するの!」

「大きな声出したらいけないんだぁ」

「シーシが悪いんでしょ!」

タォヤマはげんなりとした。シーシが分別をわきまえていないのはともかく、チトも同程度とは思わなかった。やはりニンゲンの成熟度はよくわからない。

「元はといえばシーシが悪いんでしょ。勝手にいなくなって、よりによってこいつなんて。エイリアンに――近づいたら――食べられちゃうよって!」

「――いけない悪い口なんだぁ」

顎を突き出してシーシは鼻の頭にしわをよせた。そんな表情になったとたん、無邪気な酷薄さが浮き彫りになる。タォヤマはため息をついた。

「んもう! シーシのばか!」

「チト、いいかげんにしなさい」

思わず飛び上がりかけたタォヤマはつい、ぎゅっと指を握りしめた。

まったく気配に気が付かなかった。声は背後から聞こえたような気がするが、低く、威圧感にみちていて、存在が見えないせいでますます強大な存在に思われてしまう。口を尖らせたチトは横を向いて、声の主を睨んでいるらしい。

「だって!」

「最初にごめんなさいをして、そのあとは喧嘩しないんじゃなかったの?」

「ごめんは言ったよ」

声の主はため息をついた。タォヤマも同じ気持だった。

どうきいても大人の男の声をしている声の主だが、ニンゲンかリュボヤかはわからない。姿形を見たところでわからないかもしれないが、どちらだったとしても昨日のカフェの店員のように上半身が風船のようにふくらんだ男だったらどうしようか、とタォヤマは焦った。今のタォヤマは自由に動けない。まだ八肢の感覚は鈍いし、立ち上がるのもおそらく無理だ。暴力をふるわれたらひとたまりもない。

「口出ししないようにしようと思ってたけど……」

「だってしょうがないじゃん」

背中の下からそっと右背腕を引っ張りだして、タォヤマは息を止めた。石を叩く靴音が背後から近づいている。ふてくされているチトの顔の上に木漏れ日が揺れ、あたたかくも冷たくもない風が吹いている穏やかな昼下がりだ。だが、体の奥底からひんやりとした恐怖がわきあがってきて、彼はおもわず腹に力を入れた。

「タォヤマさん、すみません」カツカツと靴音を響かせ、その男は視界の端からせまってくる。チトが一歩足をひいてあけた場所に、なにも言わずに彼は収まった。背中を丸めている。思ったほど背は高くない。「チトとシーシがいろいろとご迷惑をおかけして――お加減はどうですか? 痛いところがあれば遠慮なさらないでおっしゃってくださいね」

男だ。丸い輪郭の顔をしているくせに頬骨がかなりでており、しかも頬がやけに赤く染まっている彼は、タォヤマの目から見ても素朴な風貌をしているように思われた。大きなものをギュッとにぎりしめてかたく押し固めたような体型で、身長はチトより少し大きい程度、ニンゲンでもあまり大柄ではないだろう。

「トルシュです」

「はぁ」

「安心してください。僕はリュボヤですけど――」

ぎくりとしてタォヤマは身をすくめた。しかしトルシュは薄い笑みを浮かべたまま片腕を少し開いてタォヤマの顔の少し後ろあたりを見ている。

「VOAではありません。困ったことがあるとチトがよく――走るインで時々面倒を見てるんです。仕事はイェナの地下発電所等々の施設管理をしているんですけど、地下はちょっと――地下な人たちの巣窟なんでそちらとも――ができてしまって……」

「なにダジャレ言ってんの?」目をほそめ、不機嫌そうなパターンの表情を顔にうかべてチトは文句を言った。しかしトルシュはまだ不気味な笑みを浮かべている。

タォヤマはそろそろと身をひいた。この自己紹介の仕方は確かにリュボヤだ。相手の反応をまたずにべらべらと必要なことを話す。くちもとに浮かべているアルカイック・スマイルも典型的だ。

「残念ながらうるさい人達が上で――トゥギャザーしてますんで、しばらくはここがあなたのおうちになりますね。ああ、ご心配なく。僕のオフィスですし、――も自由に使えるのでプライベートは――保持できますよ。シャワーは外ですけど、このフロアは許可が――人に付与必須ので、危険はないと思います。そこから中庭に出られますけど、イェナタワー――オーバーはてっぺんにつながっていて、各階に侵入防止システムが入ってますので、多分問題ないと思います。アラームが鳴りますしね」

「ちょっと、ねぇ、トルシュ……」

「街の改修費用の決議――抗議活動――で一週間のびたんで、少なくとも一週間は入り口を――リリースできそうにはないですね。なにしろここはイェナの――心の真ん中なので、過激派によく狙われるんですよ。街の機能を停止させればVOAが行動しやすくなるからでしょうけれど、烏合の衆――を燃やすのは――ゴンゴドーダン、許しがたいものです。タォヤマさんはユフですし――」

「ねぇ、トルシュってば!」

「ケーキはぁ?」

べらべらと口を動かしていたトルシュは突然ぴたりと口をとじ、肩をいからせているチトをみやった。彼と同じくらい周りの見えないシーシがもう一度ケーキと叫んでもまだチトを見ている。タォヤマはできる限り目を細め、それから鼻の穴を閉じた。

「ええと、ケーキはないけどクッキーなら……でも今はおやつの時間じゃないよね」

「ケーキがいい!」タォヤマの指をぎゅっとひっぱってシーシは主張した。だがタォヤマはそれどころではなかった。下手な事態になる前にガイを呼んでおかねば、自分の身の安全が確保できない。彼はなおもケーキの話を続けるシーシを遮って口を開いた。

「急いでコーディネータを呼びたいんです。心配してると思いますし、それに――」

「シーシがしゃべる番だよ!」タォヤマの指をひっぱってシーシは叫んだ。トルシュもやれやれという顔をしている。「シーシの番なの!」

「シーシはあとでね」

「シーシがおしゃべりするのぉ!」ばたばたと足でタォヤマの腿のあたりを蹴り飛ばしてシーシは頑固に主張した。チトは鼻の頭にシワを寄せ、眉根もぐっとよせている。タォヤマは頭を掻いた。

「わかった。じゃぁ先にシーシが話をして、その次は僕。それでいい?」

いいよ! と叫んだシーシである。彼女はくるりと目をおおきくして、タォヤマの上着の袖を引っ張った。「えっとねぇ、シーシねぇ、あのね、白いケーキがいい!」

「じゃぁ後で食べようね」

「ほんと? あとっていつ?」

「ガイともう一回会ったら」

「ガイ、消えちゃったんじゃないの?」

虚をつかれたような気持ちになって、タォヤマは彼女を見下ろした。きょとんとした顔をしてシーシはタォヤマの指をまだしっかりと握りしめている。

「……ガイは消えてないよ」

「でもいないよ」

「今はちょっと別のところにいるだけで、消えたわけじゃないんだよ。だから、ガイともう一回会ったらケーキもたべれるよ」

ぱっと顔を明るくしたシーシは元気よくわかったぁ! と答えたが、トルシュは苦笑いをしている。タォヤマは彼に向き直り、息を吸った。

「とにかく彼を呼びます」

「いえ、もう入り口は――凝結してますし、〈通路ティア〉も全部塞いでしまったので外部からは誰も入れません。連絡をとって――頭にのせるのはかまいませんが、入退出の――ベリファイも必要ですので少しお時間を――食べないと……その方はニンゲンですか?」

「いえ――」

「ガイはねぇ! しっぽがあるんだよ! しっぽ!」叫んだシーシは自分の声に触発されてカウチの上に立ち上がった。そして小さな指をこめかみに添え、角もあった! と誇らしげに説明する。なるほどと頷いたトルシュだが、つと斜め上をみあげた。

「と、なると、上の抗議隊の中を――貫通するのは無理でしょう。彼らは外見のちがう異星種は見境なく襲うかもしれません」

「襲うってあんた……」

「非常事態ですから。連絡が取れれば十分でしょう。なにか不足することあります?」

シーシがうっかりカウチから落ちないようにそっと腕で抱き寄せ、タォヤマはトルシュを睨みつけた。

なにがなにか不足はあるかだ、と彼は腹の中で毒づいた。

あの高さから落下したタォヤマをガイが心配していないわけはない。あの状態からどうやってここに移動したのかわからないが、今一緒にいないのだからきっと彼は今頃真っ青になっているはずだ。それに――

それに今、タォヤマは自由に動けない。なにかあった時に頼れるガイがいないのは不安だった。

「トルシュさぁ、こいつはリュボヤじゃないんだよ。ダメに決まってんじゃん」

「どうして?」

「どうしてじゃないよ。上からおっこちたんだよ」

「そういうふうに仕向けたのはチトだろう」

「そうだけどさ……」むすりとしてチトはトルシュを睨みつけた。「なんでそう『リュボヤ的』なのかなぁ、とにかくそういうやり方はリュボヤ以外じゃだめなの。ユズハはそういうとこ、ちゃんとニンゲンだったのに」

「僕はわからないから」

「わからないから、じゃないよ」

こればかりはチトに同意をしつつ、タォヤマはシーシに座るようにと合図をした。胸元でぎゅっと手を組み合わせてシーシは目をぱちぱちとさせている。

「どうしてもダメだっていうなら、僕が〈経門パスゲート〉を作り――」

「やめてください。イェナが崩れます」

素早くタォヤマに顔をむけてきっぱりと彼は言い放った。たしかにそのとおりだが、どれだけ阻止されても必要ならやってやるとタォヤマは思った。

「トルシュが――たまに〈通路〉に穴あければいいだけじゃん、なんなの? ま、あのもじゃもじゃが来たって来なくたってシーシは渡さないけど」

「〈通路〉に穴は開けられません。VOAに利用されるようなことがあればイェナどころかスィアツは終わりです」

タォヤマは歯ぎしりをした。そして二人を平等に睨みつけた。

 

 

ちくしょうとタォヤマは外聞を気にせず罵り声をあげた。どうがんばっても〈糸〉にリーチできないのだ。

「逼迫してますからもう少し待ったほうがいいですよ」

「待てないから今やってるんです」

「でも回線使用率が九十%を超えていますから、新規コールセッションを張れる確率は――」

「コールできる可能性が低いのはわかってます。わかってますけど早くガイに連絡を取らないと警察に連絡をしてるかもしれないし、捜索隊だって出てるかも。それにもしユフ領事館あたりにも連絡がいったらとにかく大事になるから、無事なら無事だって早めに伝えないと収拾がつかなくなるんですよ」

「そうなんですか?」ふむ、とトルシュは顎に手をあて、口を横に結んだ。言われたことは理解したが、納得はしていないらしい。

「トルシュに言ったって――骨折だよ、――人生の陰影なんてわかんないんだからさぁ。だいたいあのモップ呼んでどうするわけ? あたしを脅すの?」

「黙れ」

「いやですぅ」

「いますぐ黙れ。さもないと指を虫にするぞ」

「なにそれ! サイアク!」息を吸い込んで彼女はますます声を高くした。そんな彼女の隣でシーシはニッと白い歯を見せて笑っている。

「チトが悪い子だからだよぉ」

「ああもう、うるさいな」

「いけないんだぁ」

「しょうがないですね。じゃぁ緊急回線を使いましょう。僕の――パーミッションで使えますから」

「ねぇ、あたしの話聞いてた?」

「聞いてたけど、彼のコーディネータにコールして――面倒があるなんて言ってなかっただろう。緊急回線は――」

言ってたよ! とチトは声を高くして叫んだ。興奮するとすぐに白い頬が赤らんで、眉根がきゅっとよる。実に表情のわかりやすい女だ。

トルシュは一旦口をむすんでこめかみのあたりを掻いたが、すぐに緊急回線の話に戻った。たぶんチトのことを顧みる必要はないと頭のなかではじき出したのだろう。実利主義的なリュボヤらしい振る舞いが今はありがたいのだった。

「んもう! 子供扱いする!」

「チトは子供だろう。こちらに来てください。緊急回線は途中まで有線なんです。コーディネータの方の――居留地帯はわかります? ここからある程度離れていればピンポイントでなくてもなんとかつかまるとは思うんですが」

「第八地区です。ただパトリシアのところにいるなら第一地区かも……」

「とりあえずまずは第八地区で――攻撃してみましょうか。第一だと緊急回線でも使えない可能性がありますからね」

事務的な口調でトルシュは言った。チトをあしらうことに関してだけはこれほど頼りになる人物はいないのだが、心情を汲むとか共感を示すということになるとさっぱりなのだから付き合いづらいものだ。ガイのアドレスを手元に表示させて指でなぞり、トルシュに言われるまま銅色の平板に取ってつけたように開いている表示窓に指を押し付ける。

「もしだめだったらパトリシアのほうにコールしてみてもいいですか? 彼女ならオフィスにいるかも……」

「その方の役職は?」

「ええと……イェナ再開発の責任者なんですけど……」

「ああ、じゃぁミズ・パトリシアですね。僕も何度かお会いしたことがあるので連絡先はわかりますよ」

トルシュの言葉が終わるのを待ち構えていたように、りん、と水が毀れるような細い音が飛んだ。目の前の銅色の機械がブツブツとなにかつぶやいている。タォヤマは首を突き出し、耳をそばだてた。

「つながった――?」

「タォヤマ! タォヤマか? 今どこだよ、無事か? 怪我は?」

「ああ、ガイ……やっと――」

チトにちょっかいをかけていたシーシがソファの上でひょこりと頭をもたげる。目をいっぱいに開き、口まで丸くあけた彼女はガイだぁ! と叫んだ。そしてソファから滑り降り、ぱたぱたとタォヤマの方へ走ってきた。

「無事だよ。怪我もしてない。なかなか回線に到達できなくて……」

「ガイ、どこぉ? かくれんぼしてるの?」銅色の機械を背伸びして覗き込みながら、シーシは声をはりあげた。が、今は彼女に説明していられる状況ではない。

「それで今どこにいるんだよ、すぐ行く」

「それが――ええと……地下の……」

「地下ぁ?」素っ頓狂な声を機械は吐き出した。「なんでまた地下なんかに。あの後さぁ、すぐに追いかけて、タォヤマがスプシュトしたところまでは降りれたんだけど、お前の世界線が見つかんなかったんだ。〈通路ティア〉があるにはあったんだけど閉じてるし、もしかして〈経門〉でどっかに飛んだんじゃないかとは思ってたけど、よくイェナをぶっ壊さないで地下まで飛べたな。あそこは安定してるけど、でも地下っていったらイェナタワーの地下だろ、ええと、資源開発局の――」

「資源部の発電課です」機械から問答無用にシーシを引き剥がしたトルシュが口を挟んだ。流暢な第一公用語だ。「抗議デモの影響で〈通路〉は全て封鎖したので、こちらにお越しいただくことはできません――」

「ガイ、そこにいるの? シーシがたすけてあげるからぁ! ちょっとまってて!」

ええと、と回線の向こう側でガイは困惑した声をあげた。突然のトルシュのことばと切って捨てるような拒絶に困惑していることが伺えるが、タォヤマもそれどころではないのだった。

確かに地面にぶつかりそうになってから後の記憶はない。無我夢中で安全と思われる場所を掴んだのか、それともチトがなにかをしたのか、タォヤマにはわからなかった。それとも〈通路〉が開いていたのか? だからチトはあのポイントを落下地点に選んだのか?

「ええと……」

「私は資源部地下発電課課長のトルシュです。倒れていたタォヤマさんを保護したんですが、ご存知の通り、抗議デモがイェナタワーのそばで行われているので、安全のため緊急で全ての地下施設への経路を封鎖しました。ですので――」

「ああ、どうも……えっと、タォヤマは……?」

「シーシはここにいるよ!」トルシュの腕の中にいるシーシが力いっぱいに叫んだ。「シーシだいじょぶうだから、ガイをぉ、たすけにいくよ!」

「いや、俺は大丈夫だよ」ひとまずガイはシーシをだまらせることにしたらしい。正しい判断だ。「シーシも怪我はなかったか? 大丈夫?」

「だいじょぶぅ!」

「タォヤマは元気そう?」

「んー」両手で自分の下唇を引っ張って、シーシはちらりとタォヤマの顔色を伺った。「たぶんね」

「俺はなんともないよ。それよりガイはいまどこにいるんだ? 誰かに連絡をとったりした?」

「いや、まだ誰にも言ってない。お前の世界線をおえなかったからきっとどこかに飛んだんだろうって思ってさ。勝手に飛んだらまずいんだろ。シーシのこともあるし、あんまりことを大きくしたくないし……日が暮れるまでに連絡がつかなかったらお前のボスとパトリシアには報告するつもりだった」

実にありがたい、とこの時ばかりは素直にタォヤマは感謝した。子供っぽいところはあるが、要点はきっちりと押さえている相手は本当に信頼することができる。

「ああでもよかったよ……ホント生きた心地がしなかった……すぐ迎えに行く」

「先ほど言ったとおり、〈通路〉および通路、物理ゲート、全て封鎖されています」

「ん?」

やや苛立ったように五本指の第二指を打ち合わせて、トルシュはもう一度同じ文言をくりかえした。意地でもいれない、というよりは言ったことが通じていないことに苛立っているようにみえる。実に「リュボヤ的」だ。

「例外はありません。封鎖が解除されるまで待機していてください。では――」

「ちょっと待って下さいよ、まだ伝言があるんです」

「あるんですか?」

「あります。勝手に切らないでください」

「何度も言ってますけど例外は――」

「例外がないのはわかりました」カッとなってタォヤマは言い返した。トルシュの腕の中で暴れていたシーシがびくりと首を縮めたほど、固い冷たい声だったが自分を律することができなかった。「しばらくここを出られないなら各所に通達することがあるんです。私は観光目的で滞在してるわけじゃないんですから」

トルシュはすこし目を細めている。彼の腕の中にいるシーシが顎をそらして彼の表情を読もうとしているが、彼は少しも動かなかった。意地を張っているようにぐい、と口を結んでタォヤマを凝視している。

「……トルシュ、おこられちゃったね」第一公用語はまったくわからないくせに、シーシはそんなふうに言った。「だいじょぶぅよ、トルシュ悪い子じゃないってシーシしってるから!」

苦い顔をしてトルシュは息を吐いた。表情は不機嫌だが、不機嫌だからといって当たり散らすわけではないのがリュボヤである。それだけはありがたいとタォヤマはこっそりと思った。

「有線の占有時間は三分です。あと一分は保持できると思うので、ご自由にどうぞ。僕はあっちにいってますから」

「どうも」

だいじょうぶぅよ、とシーシはまだ言っているが、くるりと踵をかえしたトルシュはそれにこたえなかった。タォヤマは目を閉じ、一呼吸おいて、それからまた口を開いた。

「……誰なんだ?」

「わからん。シーシと知りあいでリュボヤだって言ってる」

「おいおい、まさか……」

「本人はVOAの動向を監視するために潜入捜査に来てるって言ってるけどどこまで本当かはわかったもんじゃないな。でもリュボヤなのはたしかみたいだし、地下の職員なのも本当っぽいけど」

「確かにリュボヤっぽかったな。地下で戦争をおっぱじめるとかやめろよぉ」

うん、とため息と一緒にうなずいてタォヤマは目を覆った。立っていると頭がくらくらとして倒れそうになる。目がさめてから栄養剤のパウチを口の中に突っ込んだだけなのでしかたがないが、すこし横になって休んだほうが良さそうだ。

「深入りはしないよ……それより今後のことなんだけど、今、俺の荷物ってどこにある?」

「荷物?」

「スーツケース。車の中に入れっぱなしか?」

「ああ、あれか。ホテルを出た時から動かしてない――から、トランクの中だな」

「オーケイ」ほっとしてタォヤマは息を一つついた。ガイの明るい声をきいていると緊張がほぐれる。「スーツケースをあけたら上蓋側の左のポケットに通信器が入ってる。糸を介さないで通信ができるから――」

「へぇ。それってユフ独特のやつだろ? すごいなぁ」

「いや、ペアになってる通信機間で波長の周波数をあわせて通信するってだけだ。問題はある程度近い距離にないと通信開始のシグナルを受信できない。つまり最初に使う時はできるだけ近くまで来ないとだめってことだ。使い方は起動して待つだけ」

オッケー、としごく軽くガイは承諾した。「地下施設部だったよな? じゃぁイェナタワーの方に行けばいいんだな」

「俺は見てないけど人が集まってるらしいから気をつけろよ。それからパトリシアには……ええと、どうしようかな。なにか言い訳を考えないと……」

「うっかり落ちたとか」

「うっかり落としたなんて言ったらお前、仕事がなくなるぞ。なにかいい言い訳を考えとくけど、思いつかなかったら長距離移動で体調を崩して面会謝絶ってことにでもしといてくれ。ボスには俺から連絡する。連絡が取れたら、だけど緊急じゃないからまぁ大丈夫だろう」

「ん。わかった。とりあえず近くまで行けばいいんだな」

「すまん。色々と」

タォヤマはため息をついた。ガイは明るい声で気にするなと言ってくれるが、事の発端はタォヤマがシーシをひろってきたことだ。妙な憐憫の情をいだかなければ、ガイはパトリシアに隠し立てをする必要はなかったし、タォヤマは落下しなかった。セブジもきっと事の顛末を聞けば呆れるだろう。

「シーシは元気か? まぁ、声は元気そうだったけど」

「うん」

「怪我もなし?」

「元気だよ」

チトのことをガイに話すかどうか迷って、タォヤマは背後に視線を送った。ソファに座らされたシーシは声高にトルシュを慰めている。その斜向かいであぐらをかいているチトは片手に紙の本を、もう片手にカラフルな飴を手にしてシーシのことを無視しているようだ。

「近くについたらどうやって連絡すればいい?」

「ん?」タォヤマはまた銅色の機械に目をやった。テカテカと光る銅板にタォヤマが歪んで写り込んでいる。真っ平らでアドレスを入れる窓以外は特にとっかかりのない機械だ。

「とりあえず使ってみてくれ」

「大丈夫かねぇ……」

「心配だったらコールしてくれ。近いほうがかかりやすいだろ」

あ、そっかぁ、とうなずいてガイは息をはいた。声の中にはあたたかみがあり、はじめの混乱からはすでに脱したことがうかがわれる。タォヤマはため息をついた。

「気をつけろよ。無理はしなくていいから」

「おいおい、俺をなんだと思ってんだ? ニンゲンなんてちょっと脅かせば逃げてくさ」

「でも大勢に囲まれたりなんかしたら――」

「そこは俺の魅力で酔いしれさせてやるさ。ま、待ってろ。すぐ行くから。じゃな」

けらけらと明るい声を立てて笑ったガイはタォヤマの答えを待たずにプツリとコールを切ってしまった。タォヤマはまたもやため息をついた。

しん、と静寂が戻ってくる。シーシはまだトルシュのことを慰めているが、聞こえる音はそれだけだ。断続的に振動を感じるが、外にいるらしい抗議デモとやらの存在は微塵にも感じられない。

とにかく情報を収集しなければとタォヤマは頭を振った。抗議デモが一体なにに対する抗議なのか、どの程度の規模なのか、そして現状はどうなっているのか。なにもかも情報がなければ判断できない。

「ねぇ、ターヤマぁ、ターヤマ怒ってないよね。ターヤマはねぇ、すごいんだよ、きのうねぇ、お肉くれたもん!」

ソファから飛び降りて、シーシが駆け寄ってくる。両上腕を広げてシーシを受け止めたタォヤマはまたもやため息をついてソファに戻った。溜息をつくたびにくたくたに疲れきっていることを思い知らされる。

「伝言はできました?」

「ええ、おかげさまで……」

「ねー、ガイがきたらケーキでしょ? ガイ、あの中にいるよ」

「あの中じゃないんだよねぇ……うーん、いつ着くかまだちょっとわかんないんだ」

「なんで?」

「混雑してるみたい」

シーシをソファの上におろし、タォヤマはそのとなりに腰を下ろした。左右のまぶたをひっぱり、ぱちぱちとまばたきをする。視界がすこし曇っているような錯覚をするのはやはり疲れのせいだろう。

「ターヤマ、元気出して!」

「うん……」

すこし休まれます? と平坦な調子でトルシュも言った。先ほどはいらついていたようだが、気分がおさまったのか、はたまたどうでも良くなったのか、あるいはリュボヤらしく不愉快な気分もすぐに霧散するのか、どうにも調子が狂うがあまり気にしないほうがいいだろうとタォヤマは自分に言い聞かせた。

「エネルギーの補給をしたいんですけど、食事できるところってありますか?」

「コール回線は逼迫してますけど、施設内注文ラインなら混雑してないので、――注文に自由を感じてください。食事はここでしてください」

「あたしチップスとホット――新鮮チーズバーガーぁ、あと――黒い森ホットチョコレート、ホイップオンね」

紙の本に視線を落としたまま、チトは図々しく注文した。お行儀よく膝小僧を揃えているシーシはぷくんと頬をふくらませているばかりだ。タォヤマは顔をしかめ、注文用メニューを引っ張りだした。

「シーシはなにか食べる?」

「んー」

「食べたいものがあったらなんでもいいよ。ケーキはまだだけどね」

「んっとねぇ」指をこねくり回しながらシーシはにこりと白い歯を見せて笑った。「わかんない!」

「これが小さい子用のメニューみたい。どれにする?」

んー、とシーシは顎を突き出して唸った。しかしすぐに白い歯をみせて真ん中のホットミルクを指差す。昨日の様子から見ても食が細いようなので、お腹は空いていないのかもしれないとタォヤマは思った。ともあれミルクが飲みたいなら注文するのはやぶさかではない。

「トルシュさんはなにか?」

「いえ、僕はいいです」

タォヤマはうなずいてメニューに目を落とした。チトの態度はいただけないが、言われたとおりに注文をしてやる。残りのバーガーとやらは味のパラメータをすべてゼロにして五個ずつまとめてのオーダーだ。更にチップスをバケツ二杯にサラダをボウル一杯、冷たいものは味がわかりにくいのでおそらく問題なく食べられるに違いないと予想してミルクシェイクを三つ――チェックを切って注文を確定する。

注文の様子をみていたトルシュが感嘆の吐息をもらしたが、構わず彼は空中から注文の品を引っ張りだして、目の前のローテーブルに順に並べた。さすがに紙の本から視線をあげ、チトも背筋を伸ばしている。

「それ、全部食べんの? ひとりで?」

「ユフは体に栄養を蓄えておけないから、動いたらその分食べるんだよ。もっと食べる人もいる」

マジでぇ? と顔をしかめたチトだが、自分の注文した品はさっと奪い取っていった。足をゆらしているシーシにはミルクを渡してやり、まずは手近なバーガーとやらの包み紙をひっちゃぶく。がっかりするほど小さな塊だが、とにかく腹を満たさねばとタォヤマはそれをひとのみにした。

「でもさぁ、ガリッガリじゃん」

「そういう生物なんだよ。自分が常識だと思うのはやめなさい」

「なんで? なんであたしが怒られんの? しんないよ、そんなの」

タォヤマは呆れて息を吐いた。しかしトルシュはまったくなれた様子で顔色ひとつかえない。茶色い革張りのソファの肘掛けにちょんと腰を掛け、肩をすくめただけだ。

「ユフは野菜もたべるんですね、びっくりしました」

「お野菜食べないとおっきくなれないもん」顔を真赤にしてミルクに息を吹きかけていたシーシが突然口を挟んだ。背筋はピンと伸ばして、カップの中をじっと見つめている。「シーシ、知ってるんだ」

「いつも残してるくせによく言うよ」

「シーシはいいの!」

「よくない」

バーガーからはみ出したソースを第二指で拭い取り、チトはそれを口の中に押し込んでしまった。あまり食事マナーはよくないようだが、栄養のかたよりを気にしているのは悪くない。

「必要な栄養素は基本的に食事からとるので。脂肪と脂質と糖分を大量似とるのは確かですけど、野菜じゃないととれないものもありますし」

「肉食かと思ってました」

「それはリュボヤじゃ……」

「リュボヤは雑食ですよ」軽く肩をすくめてトルシュは言った。「僕はベジタリアンですけど」

どうせ少なくとも数時間は付き合わなければならない相手なのだから、ツンケンしているよりはリュボヤだということをできる限り気に留めないようにして世間話はしておこうとタォヤマは腹をくくった。もっともトルシュはそんなタォヤマの内心にはまったく気づいていないような、素晴らしく完璧な笑顔である。

「はぁ……それでVOAの摘発を?」

「いえ、それとこれとは別です。ベジタリアンのリュボヤは少なくないんですよ。どんな肉をどれだけ食べるかはほんとうに人によりますし、誰がなにを食べていても口を出さないのが――公共の約束なんです。もちろん禁止事項を破るのは――罪業にふさわしいですが」

はぁ、と相槌をうってタォヤマは次のバーガーにかぶりついた。味のパラメータはほとんどゼロにしておいたはずだが、噛みつくたびにぴりりと舌に刺激が走る。これだからいやなんだと彼は腹の中で毒づいた。ニンゲンの食物はどうにも刺激が多くて、食べれば食べるほど苦痛を感じる。しかし食べなければ動けなくなるし、動けなくなれば危険に出会う可能性も高くなるのだから、とりあえず腹の中に収めなければならない。

「結局、リュボヤとニンゲンは似てるんですよ。雑食で、悪食で、食べるのが好きで、だから生命体をみるととりあえず食べてみずにはいられないんです。原理主義はそれこそがリュボヤの本質だから、――食欲の制限は生存権の侵害にあたると主張してますね」

ルボヤってなぁに? とシーシがチトに質問をしている。あからさまにめんどくさそうな顔をしているチトはトルシュのこと、と短く答えたが、シーシは納得いかなかったらしく足を揺らして説明を続けろと要求した。タォヤマは彼女の手からカップを抜き取り、そっとローテーブルの上に置いた。

「それと、リュボヤはニンゲンほどではないにせよ、居住地が広範囲にわたるので、条約を締結したといっても地方にいくとまったくその事実が知られていなかったりするんです。VOAとは関係なくそういう――集落に条約内容を――羞恥するのも――進行中ですし、変わる時っていうのはごたつくものですね。VOAは条約締結の阻止を――見越して当時から水面下で動いてたみたいですけど――」

「地球系ニンゲンの高度知的生命体認定に反対してたのはVOAだけじゃないでしょう」

「いえ、VOAですよ」

しれっとトルシュは言い返した。

いつもこれだ、とタォヤマは憤慨した。

リュボヤはたいてい「VOAは」と前置きをして彼らの悪事を語るが、VOA以外のリュボヤがVOAを本気で壊滅させる気がないから、いまだに騒動が収まらないのだ。そもそも地球系ニンゲンの高度知的生命体認定を阻止していたのは当時のリュボヤ政府だし、都合が悪くなればすべてVOAのせいにする彼らにも問題があるのではないかというのがユフの一般的な意見だ。

「でもここは……」

「ここはなにか違います?」

「いえ。辺境は辺境ですけど、でも中央BBNYAC空港からせいぜい一時間くらいのところにあるじゃないですか。領事館もあるわけだし、未だに周知できていないなんてことはないでしょう」

「ええ、ここにいるのは本物のVOAですので。だから私達が潜入捜査をしてるんですよ」

「五十年くらい前に再開発計画がポシャった時は?」

ああ、と声をもらしてトルシュは首筋に手を当てた。特に表情は変わっていないが、リュボヤはあまり表情が変わらないことで有名な宇宙生命体だ。もしかすると首筋に手を当てるというのもなにか意味があるのかもしれない。

「VOAの存在が明らかになったのがその件の時でしたね。七十年前のルソヌアの騒動は――ゴゾンジですか?」

タォヤマは首を横に振ってみっつ目のバーガーの包みをひっちゃぶいた。かぶりつく前に水で口の中をゆすいで刺激を洗い流したのだが、それでもまだ舌の上がピリピリする。

「実際はたぶん七十年前どころではなくもっと前からVOAは活動していたと思われるんですが、――ゴゾンジストリート、明らかになったのは七十年前です。それで、二十年くらいかけて――してイェナの事件が起きた時には表立った活動が――竣工しかけていた時期に当たるんですよ。だからせいぜい抗議デモ程度で済んだんです」

「銃撃とか拉致とか物騒な話を聞きましたけど」

「ええ。でも内紛になる程ではなかったので小規模な方ですよ」

なるほど、とおもわずタォヤマは相槌をうった。ことが発覚したのが七十年前で、五十年前には対策がとれていたなら、随分迅速な捜査と摘発が行われたといえよう。ニンゲンに対して辛辣な態度をとるリュボヤにしては仕事が速いし、すなおに賞賛できることだ。

「今もまだいるんですか? あんまり遭遇したくなくて……」

「どうですかねぇ……いることはいるんじゃないかと思ってるんですが、なにしろ定住しているリュボヤ系がいるので把握しにくいんですよ。VOAからするとまだ火種になりそうな件が残っているので――引き手理由もないですし、引き続き動向は調査しておかないと」

火種になりそうな件というのは再開発計画のことだ。とはいえ、どこかで片付けなければ、いつまでも火種は残り続けることになる。鬼が出るか蛇が出るか、とにかくどこかで誰かが勇気を出して断行せねばならない。

「それに――抑止のにもなりますから、リュボヤ系に対しては捜査員がいることを明らかにしているんです。任期は五年、あんまり地元民との関係が深くなるとVOAに――沈められる場合もありますし、ニンゲンに影響されると不正に――と経営したり合理的な判断をくだせなくなったり、ひどい場合は精神が荒廃してしまいますから五年が限度でしょうね」

「つまりVOAは精神が荒廃していると?」むっとしてタォヤマは口を挟んだ。「だからニンゲンを食う?」

「タォヤマさんは自分の体をみて――美しいと思います? ニンゲンなんてほとんど筋肉で旨味もなさそうですし、臭みも強いそうなので、好んで食べるなら精神が荒廃してるんでしょうね」

タォヤマは思わず目を細めたが、トルシュは平然としている。彼としては当然のことを言ったのだろうし、多少関係性が変化したとは言ってもリュボヤがニンゲンを下等生物だと思っていることに変わりはないのだと、その表情がしらしめている。タォヤマは顔をしかめて食事に戻った。

「それに家族と離れて暮らすのはやっぱり……」

「そりゃここは危険な街ですから」チップスを口の中に放り込んでタォヤマは思わず嫌味を吐いた。だが、トルシュはまったく平然とした顔でええ、と大きくうなずいた。

「そうなんですよ。なにしろ未登録の寄生種がいるらしくて、実態もよくわからないので特に子供は連れてこないようにと――ネンヲースされてしまいまして……」

「寄生種?」

「ええ。ニンゲンとは不可侵条約があるみたいで市街地の中にはいないことになっているらしいですけど、それ以外の生命体の場合は注意したほうがいいそうですよ。入管で注意されませんでした?」

 

 

あと数ピースで完成すると思うたびに指が震える。念のため深呼吸をしたセブジは一旦工具をそっと布巾の上に乗せ、目をつぶった。指先を軽くもみ、ぎゅっと肩に力を入れ、一気に脱力する。

彼はメリヴォを作っている。今回の依頼は重労働どころか暇つぶしくらいの規模だ。メリヴォだって別に作らなくてもスプシュトできる。

だが、彼はなんとなくメリヴォに手をつけた。日頃の鬱憤が溜まっているせいで不安症になっているのかもしれないし、気分転換になると思ったのかもしれない。セブジはしょっちゅう自分の気持ちを見失う。

目を開き、彼は再び金色のピンセットを手に取った。

こうやって手作業でメリヴォを完成させるセブジをさして、タォヤマはよく懐古趣味的だと馬鹿にする。だが、しっくり来るやり方というのはユフ毎に異なっているものだ。ほとんど計算機からのデータを流しこんだだけでたいていのヴェシュミ・ビセを成功させてしまう――それどころか大抵の仕事はメリヴォなしで完遂するタォヤマが規格外なだけで、ほとんどのシュルニュク、特に大規模案件にかかわるシュルニュクは自分の流儀を確立している。

数日かけて磨きだした金属片のパーツを慎重にピンセットで拾い上げ、セブジは深く息をすった。平たく伸ばした金属片は長方形の一片が内側に折れたようにひしゃげ、五角形となっている。それをメリヴォの中に組み立てた模型にはめこめば、あとは蓋をしてスプシュトするだけ――

なのだが。

耳元でプツプツプツと苛立たしげなコール音が鳴った。集中力を途切れさせる電子音だ。

「クソ……」

ちらりと彼は時間を確認した。タォヤマからのコールならすぐに対応してやりたいが、スィアツの標準時間をとっさに思い出せない。タォヤマといえば昔は夜中になるたびに泣きべそをかいてコールをしてくるくらいに情緒不安定なこどもだったから、なじめない環境で八つ当たりと愚痴が出てもおかしくない。

気に障るコール音はまだ続いている。彼は目を細め、それから思い切って中腕でコールを受け止めた。

「我が身を振り返ったほうが良さそうね……ああ、セブジ?」ああ、とセブジは顔をしかめた。コールを切ろうと手を伸ばす彼よりほんの少しだけ早く、相手は次の言葉を口にした。「今ちょっといい?」

「五秒後に爆発する」

憮然としてセブジは答えた。愛弟子タォヤマ以外の相手では損した気分にしかならない。

「忙しいならあとでもいいけど、そうしたら私の勝ちね」

「勝ち? 賭けなんかしてたっけ?」

「そうよ。今、私はあなたの敵でしょう。あなたが来なかったら不戦勝でも私の勝ち。離婚調停は専門外だけど、勝ちは勝ちよ。あなたがそんなに友達思いだと――」

「ああ、忘れてた、調停か!」

「一時間後よ」

笑い声をひそませて声は言った。声の主の名はラウセ、タォヤマの後見人であり、叔母である人物だが、今のセブジにとっては敵対勢力だ。なにしろセブジがいま離婚調停でもめている相手の弁護士だからである。

「ちくしょう、忘れてた。すぐ行く」

最新の注意を払いながらセブジは金属片を柔らかい布の上に置いた。あと一ピースで完成だというのに、ここで失敗したら次の気力をふるいたてるまでに数日かかるだろう。時間的には余裕のあるプロジェクトだが、セブジは無駄なことが嫌いだ。

「ああ、もしかして仕事中? ごめんなさい」

「いやぁ、不戦勝で勝利なんて不名誉のきわみだろ。ま、勝つのはこっちだけど、いくら予定調和でもやることは一個ずつ片付けなきゃな」

「理解があって嬉しいわ」ようやく立体ディスプレイの上に浮かび上がったラウセは口元をゆがめて笑っている。「言っとくけど今回だけよ。あなたが荒れるとタォヤマが大変だから……」

「んー」

なに? とラウセは穏やかに聞き返した。すこし眠そうな、はっきりしないアクセントは彼女の癖だ。以前はよく酒を飲んでいたのでもっと滑舌が悪かったのだが、さすがに仕事にも差し障りがあるので最近はすこし控えるようになったらしい。一度タォヤマと言い合いになったのも一因だろう。

もっとも彼女が酒に逃げたくなる気持ちをセブジは理解しているので、酩酊しているようなら取り上げるが、普段は咎めないようにと気をつけている。

「いやぁ、あいつだっていい大人だぞ。相変わらず子供っぽいところはあるけどさ、あんまり子供扱いするなよ」

「まだたったの二百歳よ」

「まあ……ま、そうか。相変わらず俺のことを買いかぶりすぎてやがるし」

「へえ」

「昔っからあいつは俺のほうが強いと思ってるところがあるからなぁ。たしかにそりゃさ、俺は社長だよ。シュルニュクとしての経験に関しちゃ譲らないけど、純粋な力なら最初からあいつのほうがずっと強いのに、たまらんよ」

「今もまだそうなの?」

「そうだよ!」思わず声を高くしてセブジは上腕を広げた。「こないだもさぁ、ちょっとからかったら怒っちゃって、事務所の真ん中でスプシュトしやがったの! 今こっち来たら面白いものが見れるぞ。まったくね。ああ、もう出ないと」

「またスプシュトしちゃったの? 全くあの子は……」

ラウセはため息をついた。

あまり積極的にタォヤマに関わりたがらないラウセであるが、タォヤマが情緒不安定な理由は身をもってよく理解している。それにタォヤマの後見人になる前からセブジと親交があったので、タォヤマの誤解についても熟知しているはずだ。セブジは確かに一般的なユフと比較するとかなり力があるほうだが、都市専門シュルニュクになるには力量不足、百歳時点のタォヤマとすら張り合えなかった。

「所得証明と財産証明は入れたの? 事務所の棚の中でしょ、上から三番目」

「ああ、そうだった。忘れるところだった」

「マシュトワにも事務作業をちょっとくらい任せてたら、こんなことにはならなかったのに」

「あいつに書類仕事なんてできないさ。だいたいマシュトワが事務所に来るなんてゾッとしないね。一日で地下までごっそり廃棄されて会社はおしまいだ」

言われたとおり窓の隣にある背の高い書類棚の扉を開け、セブジはのけぞった。どうにも最近老眼気味で背をのばさねばファイルの背表紙が読めないのである。幸い所得証明はついこの間取り寄せたばかりだったので一番手前に無造作につっこんであった。タォヤマからはいい加減すぎるとよく渋い顔をされるが、こんな時には手間が省けていい。

「そういうところがダメなんでしょう。あなたって学習能力ないんだから」

「そりゃないね。俺が興味あるのは強さだけだから!」

「そういえばそうね。忘れてた――かばんは机の下よ。それでタォヤマはどこに行っちゃったのよ」

机の下からかばんを引っ張りだす。念のため名刺を確認し、「棚」の中から録音用マイクを手にとって、書類と一緒に鞄の中に突っ込んでおく。さすがに十数回も離婚調停をやっていればなれたものだ。

「辺境だよ。ずっと遠く。俺は心配で心配でずっと眠れないんだけど、コールすらいれてこないでやんの。冷たいよなぁ」

「またなにか怒らせることしたんでしょ」

「んやー、そんなことないと思うけどなぁ。寂しいからメッセージはおくっといたけど、返事なし。ほんと冷たいやつだよ」

まだはめたままだった作業用のメガネを引っこ抜いて工具のとなりにそっと置き、彼はかばんを持ち上げた。

映像だけはオフにして耳の中に音声を突っ込んでおく。憂鬱な移動もラウセと会話できるなら大歓迎だ。彼女は相槌を打つのがうまいし、良識がある。それに知的で、ユーモアがあって、タォヤマのようにすぐに怒りだしたりすねたりもしないし、なによりセブジのことをよく知っているので取り繕う必要がない。

「倒れてないといいけど」

「まぁなぁ。あいつは昔っから弱っちいからなぁ……」

「あなたがすぐ怒らせるからでしょう」

「んー、怒らせたくなっちゃうんだよなぁ。それがよくない」

「わかってるんじゃないの」吹き出したラウセは喉の奥を震わせて笑い声を漏らした。多分椅子に斜めに座って、背もたれに肘をついているのだろう。リラックスしている様子は声だけでも伝わってくる。「そういうことするからいつまでたってもあの子、子どもみたいに甘えてくるのよ」

「んや、今回はオガの案件のひきつぎだからさぁ、いつもより心配なんだよ。最初から伝えたら、あいつ怖気づいてやらないだろ。かといって伝えなかったら怒るんだよな。あぁ、怒ってんだろうなぁ……」

「オガのがまだ残ってたの?」声を高くしたラウセは短い沈黙のあと、あらまぁとやや年寄りくさい嘆息を漏らした。「どうりで何度連絡入れてもうんともすんとも言わないわけだわ。すねてるのね」

「連絡取りたいのか? なんなら伝言しとくけど。俺からなら一応返事はするはずだからな」

「いえ、いいの。大したことじゃないから」

ああ、とセブジは納得した。またいつものあれだ。少し仕事が立て込んでいたり、あまり引き受けたくない仕事をしている時、ラウセは情緒不安定になる。情緒不安定になると大抵そのしわ寄せはタォヤマへと向かうのだった。とはいえタォヤマはなぜかそのあたりだけはよく心得ていて、ラウセが押そうが引こうがとにかく無視する一辺倒でやり過ごしている。

階段を駆け下りると思っていたより生ぬるい風が首筋から入り込んで袖に抜けていった。昼前の街は賑やかで、どこかの養成所の子どもたちが列をなして歩いているところだ。街路樹の手入れをしているのは地球系である。わさわさとおしげもなく枝を落とし、建物に張り付く蔦を剥がしている。つい先日タォヤマがやらかした始末にようやく来てくれたらしい。セブジは腕をふって彼らに礼を言った。

「オガみたいに吹っ切れてくれりゃいいんだけど、まだどっちつかずだからなぁ」

「オガみたいな末路を辿ってほしいわけ?」

「あいつは大丈夫さ」

足早に階段を駆け上がり、ちょうど降りてきた扉をくぐるともうそこは裁判所だ。ワイン色のじゅうたんが敷き詰められたロビーの壁際にはずらりと椅子がならべてあり、そこにぽつねんとラウセが腰を下ろしていた。両側の椅子には資料が山積みされ、その資料の上にちょこんと彼女のバッグが乗っている。まだマシュトワはついていないらしい。

軽く背腕をふったラウセだが立ち上がる様子はない。コールを切ってセブジもそれに答えた。そして自分の弁護士に会いに行くために、回れ右をした。

 

 

「あなた、だいぶハッスルしてたけど――大丈夫?」

セブジは目をあけた。

調停明けはだるさのピークを迎える。生きているのが不思議なくらい、体中のエネルギーを吸い取られていくものだ。そうとわかっているのに懲りもせず、五度目の離婚を敢行しようとする自分の記憶力に一抹の不安を覚えずにはいられないが、そうなってしまったものは仕方がない。

今、セブジはカフェで体力の回復を待っているところだった。

完全に脱力する前にいくらか食料を口に押し込んだのだが、完全なるエネルギー切れで消化する体力もない。しかたがないのでウェイターに栄養剤パウチを飲ませてもらったのだが、それでもまだ体に力が入らないのである。礼儀正しいウェイターは、よくあることなのでゆっくりしていってくださいとほほえんでいたが、一体いつになったら回復するのかと彼は少々心細く思っていたところだった。敵の一味とはいえ、ラウセの声を聞くとほっとする。

「倒れるんじゃないかと思ったけどほんとに倒れてるとは思わなかったわ。なにか飲む? ケチミン入りの水とか?」

「子供じゃないんだぞ。もっと栄養のあるやつを頼む」

「あなた、どうでもいいことに熱くなりすぎなのよ」

「でもあれはケッサクだっただろ」

「独身時代の財産は共有財産じゃないですんだ話でしょう。なのに、いちいち刺激して『よしわかった、それならきれいに半分に分けよう――』」

「ただし削り屑をだしてはならない」

けけけ、と思わずセブジは笑い声を漏らした。あの時のマシュトワときたら満面の笑みを浮かべたと思ったら真っ赤になり、それからすう、と血の気を失った。顔色が回復するよりはやく机を蹴倒した彼女がセブジに掴みかかってきたので、彼女を落ち着かせるためだけに一時間も休廷するはめになったのだ。

あれはまさに虎だった、とセブジは満足して思った。もし本当に掴みかかられていたら、頭からスプシュトされていたかもしれない。

風を従えてテーブルについたラウセは優雅に足を組んで上右手の第一指を軽く持ち上げた。どこにいてもスマートかつ上品に振る舞うのは彼女の矜持だ。こんな高級感のあるカフェではその仕草はごく自然で、いつもなら鼻につくとせせらわらうセブジもなにも言えなかった。

「ウズマカのパイと、ロクボンのクリームをこの人に。私はフクメノウタルトとバターコーヒーを、あたたかいミルクも一緒にね」

「タルトだけでいいのかぁ?」

「私は聞いてただけだもの」

「ああそう」

「私、あなたの介助はしないからね。クリームはどうやって飲むの? 顎の支えは必要?」

「クッションがほしいかなぁ」

鼻をならしたラウセは上右手の第二指で机の表面を叩いた。「言っておきますけど、ここにないものは私にはどうしようもないわよ」

「あるのは?」

「あなたの裁判の弁護記録と法律全書。養育所一番の落ちこぼれに期待しないでちょうだい」

ラウセの声は笑っている。

確かにラウセは落ちこぼれだった。発育が悪くて体が小さかったし、それにまともにスプシュトに成功したことのないユフだったのだからしかたがないことだ。しかもただ失敗するだけならともかく、時々暴走して叱られる。まるっきりセブジに会う前のタォヤマと同じだ。

一方のセブジはいつだって優等生だった。社会生活を営むには十分な力があったが、行きすぎてはいなかった。だから歳が四十も離れているラウセと中等養育施設で同期になったのだし、高等職業訓練校に入ったときは最年少記録を更新したのだ。しかし、都市専門のシュルニュクになろうとして彼は壁にぶつかった。

「じゃあそれでいいや。都市構築学科一の落ちこぼれにはちょうどいい枕だな」

ちょうどよくバターコーヒーを運んできたウェイターに礼をいい、ラウセはついでとばかりにクッションの有無を聞いている。

「それより敵と話してていいのか? マシュトワに見つかったらまたうるさいぞ」

「もう終わったからいいのよ。妥当な落とし所に収まったし、マシュトワだって私達が中等養育所にいたころから知り合いなのはよく知ってるじゃないの」

「ああ、そういえばそうだった。関係を勘違いされてたんだった」

「そうよ。私達は彼女に引き裂かれたの」

くすくすと笑いながらラウセはコーヒーをかき混ぜている。

「マシュトワも昔はあんな人じゃなかったのに……」

「時が彼女を変えたのだ――」

「あなたといるとみんなひねくれるのよ。違うのはタォヤマだけ」

「タォヤマは最初がひねくれてたからなぁ。さらにひねくれてちょうどよくなったのかもしれない」

ちょうどロクボンのクリームが運ばれてきたので、セブジはラウセを視界の隅に追いやって、ウェイターに最大限の笑顔を向けた。小脇にクッションを抱えてやってきた彼はクリームを机に置いてから、恭しくセブジの顎を持ち上げ、飲みやすいようにと顔の角度を調整してくれる。

「正直言って、悪いのはあなたよ」

「しょぉがないだろぉ、俺は強すぎるもんしか興味ないんだから」

「だったらデイハとよりを戻せばいいじゃないのよ」

「あいつ、しつこいからなあ……それに彼女、タォヤマは受け入れられないって言うし」

「彼が怒ったのはあなたが相談もなくタォヤマを引き取ってきて、しかもその後の十年以上、まったく家庭を省みなかったからよ」ストローの包みがみをひっちゃぶってラウセは肩をすくめた。「違う?」

「あいつ、いつの間に男にかわったんだ」

「二年前よ。そっちのほうが今の仕事では利が多いんですって」

ラウセが差し出したストローをくわえ、セブジはうなった。少し仕事で離れていると知人の近況ががらりとかわっている。

「あなたも女に変われば? そしたら復縁できるかも。彼、相手は女性がいいらしいわよ」

「んー、参ったなぁ。ユフ相手の仕事ならともかく、ニンゲン相手にするときは男の方がなにかと便利だし。引退してから考える」

「それって身の安全の問題?」

「んや。ニンゲンってのは男の方が優れてるっていう信仰みたいなものがあるんだよ。それで自縄自縛になってるっていうか、男も女も自己催眠かけてるっていうか。ま、胎生生物はオスとメスのからだの作りがちがうから思い込みやすいのかもな」

ラウセは気がなさそうに「ややこしいわね」と相槌をうった。嫌味である。

セブジは答えずにストローでクリームをすすった。甘いクリームが喉を通り過ぎ胸のあたりにきえてもカロリーが体の中に入ってきたという感覚は得られない。しばらくじっとしているので体のしびれは消えたが、それでも腕はまだ鉛のように重く、どうにも度し難いものだといつものことながらセブジは思うのだった。

「腹減った」

「回復おめでとう。でも私、あなたの介助だけはしたくないの」

「わかってますよ……」

と、そのとき耳の中で甲高い音が震えた。ぎくりと思わず体をこわばらせたセブジに明敏に反応したラウセがものも言わずに右中腕をとって適当に空間の中を動かしてくれる。

「いや、応答するかどうかは俺が――」

「出なさいよ。どうせやることないんでしょ、事務所に帰ったってタォヤマもいないし、家はからっぽなんだから、連絡くれた相手にくらい真摯に対応しなさい」

笑いながら応酬したラウセは浮かび上がった赤い球をセブジの指にぶつけた。まったく乱暴なやり方だ――

と。

「おまえなぁ! なに考えてんだよ!」

おわ、と思わず声をもらしたセブジとは対照的に、ラウセはぱっと背をそらしてセブジの指を投げ出した。上腕を胸の前で組み、まじまじと浮かび上がった半透明の影をみつめている。その顔に浮かぶ表情は恐怖か?

「お前、言わなかったな!」

「ん? んん? なんだよ、いきなり。なに怒って――」

「寄生種がいるなんて聞いてないぞ! この低能!」上腕も中腕もぐっと拳をにぎって、半透明の影は怒鳴った。怒りのあまり左右のまぶたがぴくぴくとふるえ、喉にくっきりと筋が浮かび上がっている。「安全かどうか確認するのはお前の仕事だろうが! なにやってんだ、この間抜け! いいかげんにしろよ!」

「うわ、ごめ、ごめん、そんな、いきなり怒鳴るなよ……」

「うるせぇ!」腹に力を入れ、タォヤマは唸った。「そもそもはお前のせいだろ!」

ピカリと画面の中でまばゆい光がまたたいた――と、同時に脳髄からつま先にまで激痛が走る。つい先程まで死んだように動かなかった筋肉がびくん、と収縮してセブジはあせった。

「ちょっと、こらっ! やめ、やめなさい、いたずらはっ!」

「お前が悪いんだろうがっ」

「とにかくライトはやめなさい! 調停明けで動けないんだよ!」

「タォヤマ、やめなさい」突然ラウセが低い声で割り込んだ。彼女は当然というようにセブジの右中腕をつかむや、タォヤマが映っている仮想パネルをすこし傾け、覗きこむようにしてその向こう側にいるタォヤマを睨みつけた。「やっていいこととだめなことくらいわからないの? 二百歳にもなって――」

「ああ、いいからいいから、大丈夫だって。ちょっとふざけただけ……」

「そんなわけないでしょう。あなた、自分がどうなったかわかってないのよ。顔も上げられないのに腕が跳ね上がったのよ! 目に直接ライトを当てるなんて……」

「だいじょうぶだって!」

つい先刻まで色をなして怒鳴っていたタォヤマは仮想パネルの中で身をひき、目を細めている。ラウセ相手には昔のように黙りこむ癖があるタォヤマだ。それにしても見事なまでに一瞬でクールダウンするものだとセブジは内心感嘆した。

「大丈夫じゃないでしょう……!」

「大丈夫だよ。まったく、世話焼きなんだから……それで、タォヤマはなんだって?」

む、と口を結んですこし頬をふくらませているタォヤマは子供の頃に戻ったような表情をしている。大きく息を吐いた彼はゆっくりとまばたきをして、それから寄生種、と一言だけ口にした。

「寄生種?」

思わず、セブジは声を高くした。苛立ったように指先で机を叩いていたラウセですら目をぱちりと見開いて動きを止めた。

当たり前だ。

「スィアツに寄生種がいるらしい。そんな話、きいてない」

「嘘だろ? ほんとに? あれぇ……? ちゃんとそういうのは調べたはずだけどなぁ……」

「それから市街地以外は酸素濃度がスポット的に高い場所があるから乗り物で移動ならともかく、歩いて移動はするなって出てる」

「どこに」

「リュボヤの領事館からだよ! ユフの方にはなんも告知がでてないけど」早口にまくし立てているタォヤマの声の中には、うっそりと冷たい怒りがまざっている。「こういうの調べんのはお前の仕事だろ。なにやってんだよ……」

「ごめん。悪かった」逆らわずに即座にセブジは謝罪した。ただでなくても虚弱体質のタォヤマは特に安全対策がかかせない。動けなくなれば危険に遭遇する可能性も高くなるし、なににもまして寄生種は最悪だ。栄養を体内に蓄えられないユフは、宿主になって栄養を吸い取られればすぐに死に至る可能性があるからだ。

「ほんとすまん……」

刺激の抜けた体からは、やっと戻ってきたエネルギーも抜けていってしまったらしい。顎の下にある柔らかいクッションの感触はありがたいが、鼻先から匂ってくるクリームの匂いすらきえた世界の中でセブジは悄然とした。たしかにタォヤマが怒るのも無理はないし、愛弟子を危険な目に遭わせてしまった自分の間抜けさが呪わしかった。

「とりあえず詳しい情報は今集めてるから。あと、宿主検査にして結果を待ってるとこだけど、検査代はお前が出せよ」

「ごめん……結果はいつ出る?」

「二日後の夕方以降。ただしラブセドル星の標準時間で」

「わかった。検査結果がでたら教えてくれ。ほんとごめん、反省してる……」パネルの向こうでタォヤマはため息をついた。先程までの激高はどこへやら、セブジが本当に悄然としていると言いたいことが言えなくなってしまう心根の優しい青年なのである。

「それで、他に不自由はないか? 大丈夫か?」

「まだついて二日目だからなんもわかんねぇよ……しかも今、地下に閉じ込められてていつ出られるかわかったもんじゃないし」

「閉じ込められてるぅ?」

「なんか大規模デモが発生してんだってさ。ヴェシュミ・ビセの予算について」

「おいおい、張本人じゃないか。大丈夫か? 気をつけろよ、襲われたりとかしたらまずいから人が集まってるところにはいかないように……まいったなぁ、航行機の出発何時だっけ……」

「うるせぇよ、来んな。うざいな」

タォヤマの声の中に雑音がまじったのでセブジは目元に力を入れてそれに耳を傾けた。誰かが笑った声のようにも聞こえたが、パネルの中に影はない。ただタォヤマがするりとセブジから視線を外して――正確にはカメラとはちがう方向を向いたので、誰かがそばにいることは確かだ。

「んー、でもなぁ……食事とか宿とかは大丈夫か? 変な奴らにおいかけられたり、エイリアンとか言われたりしてないか? そういうこと言うやつには注意しとけよ」

「下手なもん食うと舌がピリピリするからほんとサイテーだよ、だからリュボヤとニンゲンはいやなんだ」

口をとがらせてしまったタォヤマは目を細めてセブジを睨んだ。すねてはいるが、理性の戻ってきた顔だ。

意外に落ち着いているタォヤマをセブジは不思議に思った。寄生種などときいたらタォヤマのことだからすっかりパニックに陥ってしまって、たとえ瞬間的にクールダウンしてもすぐにふつふつと湧き上がる怒りを堪えられなくなるのかと思っていたが、実に落ち着いている。

「……リュボヤに会ったのか?」

「VOAがいるんだろ。VOAの捜査官とかいうのには会った。ほんとかどうかわからないけど、イェナの発電所を管理してるって言ってたし、地下に部屋も持ってて〈通路〉の封鎖とかしてるから、全部は嘘じゃなさそうだな」

ふむ、とセブジは注意深く相槌をうった。目の前の透けたタォヤマの向こうでは不機嫌そうに腕を組んでいるラウセが糸のように目をほそめている。いつの間にか運ばれてきたタルトを前にしているにもかかわらず、彼女はじっと動かず、タォヤマの後頭部を睨みつけていた。顔の半分には影が落ち、しわの増えてきた顔の陰影をさらに濃くして、セブジにしか見せない表情だ。

だが、今のセブジはそれにかまっている余裕がなかった。胸のうちに押し寄せてきた感情をつとめて腹の中に押し込め、彼はタォヤマの言葉を待った。

「クソ……閉じ込められるし、国際回線にもなかなか繋がんないし、メリヴォのことは全然手がかりないし、帰ったらぶっとばしてやる……」

「まぁそう穏やかじゃないこといいなさんな。やっぱりメリヴォは見つかんないのかぁ……まいっちゃうなぁ――」

「ターヤマぁ、もういーい?」

ふ、とタォヤマが横を向いた。マイクのずっと遠いところから響いてきた声はくぐもって語尾がはっきりしない。甲高い、舌っ足らずな声だ。セブジは頬の裏側をかみ、表情をとりつくろうために目を細めた。「タォヤマ、そこに誰かいるのか?」

「ん? うん、人はいっぱいいる。ちょっとうるさくなりそうだから切るぞ。ここを出られたらまた連絡する」

「あ、わかった。了解。検査の結果が出たら忘れずに連絡入れてくれ」

「ん」もごもごと口の中でつぶやいたタォヤマの声が聴こえる前にぶつりと映像と音声は途切れた。消え去った彼の像の代わりに輪郭がくっきりとしたラウセが、セブジの目に映っている。

セブジは目をとじ、そして開いた。

今の気持ちをどう表現すべきか、彼にはわからなかった。息を吸い、鼻の穴を閉じ、それから腹に力を入れる。

今叫んでいない自分をほめてやりたい、と彼は思った。枯渇したと思っていたエネルギーが腹から湧き上がり、今なら指も軽々と動くような気がする。

「……あなたねぇ」ラウセが唸っている。「あなた、タォヤマに甘すぎるのよ。どうして叱らないの」

「ちょっとまってくれ、それどころじゃない」

「どうしたの? 気持ちが悪くなった? それともスプシュトしちゃいそう?」

いや、と彼は短くこたえ、力を振り絞って首を横に振った。空をも飛べそうだという気持ちは錯覚にすぎないが、しかし自力でかぶりを振ることができるのはなかば奇跡だ。それだけのことが起こったのだ。

「俺、タォヤマに伝えてないことがあるんだ」

「なによ。実は父親だとか?」

「なんでだよ、そんなわけあるか」いつもと違ってセブジはラウセの茶々を受け止めきれなかった。タォヤマは正真正銘、オガの系統だ。セブジはまだ卵子を腹の中に抱えているのだから、タォヤマとつながりがあるわけがない。「ふざけないで聞けよ」

「そんなに怒らなくても……冗談言っただけじゃないのよ」

「俺、イェナにいったことがあるんだよ。でも結局敗退した」

「別にそれくらい大したことないでしょ。あなたは社長だし……オガの案件って言ったら、あなた必ず見に行くでしょう。オガ以外誰もできないからって」

「そうだよ」目をとじたまま、彼は深くうなずいた。ひたひたと足の裏からゆっくりとエネルギーがせり上がってくる。体中にちからがあふれ、いまならなんでもスプシュトをすることができる、そんな全能感に肌一枚分だけ体が膨張したような錯覚をする。

タォヤマはいつも否定するが、その感覚はなにごとにも代えがたい素晴らしいものだとセブジは信じている。スプシュトするのが好きなのは、その感覚に身を委ねることができるからだ。

彼は注意深く息を吸い、そしてまた吐いた。「あいつのバックアップはいないからな。だから必ず行くことにしてる」

「それで? 敗退したってどういうことかって聞けばいいの?」

「あいつ、ややこしいメリヴォを残しててさ」ラウセの声は無視して、セブジは続けた。「俺にもできるって言いやがった。だから行ったんだ。早く費用を回収したかったし――だけど」

「だけど?」

だけど、と口の中で繰り返してセブジは目をつぶった。「あの時は……」

「あの時は? なによ、もったいぶらないで」

「あの時は――……メリヴォが俺になつかなかったんだ」

 

2017年7月8日公開

作品集『ある朝の毒虫』第5話 (全12話)

© 2017 斧田小夜

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