ある朝の毒虫 – 4

ある朝の毒虫(第4話)

斧田小夜

小説

9,771文字

ひとまずシーシの面倒を見ることにしたタォヤマはガイに協力を頼むが…

店のトイレで苦労して脱いだ上着を肩に引っ掛け、すっかり寝入ってしまったシーシを背腕と中腕ですっぽりとつつみこんで、彼はこそこそとホテルの部屋に戻った。背を丸め、上着の前をかきあわせているタォヤマを怪しむ者は幸いにもいなかった。

明日はどうしたものか、とソファでニンゲン用女児服を眺めながら思案しているうちにガイの顔が思い浮かんだのは、必然といえば必然だろう。

彼はニンゲンではないし、スィアツで働いているとはいえ、いつでも出国できる外国人だ。ホバーカーも持っているし、なによりこの国の情勢にも通じているだろう。シーシの服だってきっと選べる――悪くない。

と、いうわけでガイを呼び出したのだが。

「こりゃ……」

もう何度目かになるため息をついて、彼は唸り声を上げた。「さすがにこれはまずい。まずいぞ、タォヤマ」

「どうして」

「俺の滞留許可が取り消しになったらどうするんだ。VOAに関わったりなんかしたら――」

「それは俺も同じだよ。ひとまず見た目を綺麗にしてやれば時間稼ぎできるだろ。それにVOAかどうかはわからないぞ。この子がリュボヤだっていう確証はないし」

「そりゃあいつらはニンゲンを盾に活動してるからなぁ、多分この子はニンゲンなんだろうけど」

「ニンゲン相手ならシュルニュクとして彼らに接触するのは業務のうちだ。お前はコーディネータだから、俺の要望をかなえる義務がある。VOAと接触するのはまずいけど、ニンゲンなら国際的にも問題ないだろ」

「おいおい……」

すうすうと穏やかな寝息を立ててシーシは眠りこけている。眠りこけているのをいいことに整髪サービスを見つけて頭をつっこんでみたが、それでも全く起きる気配がない。明日、目を覚ましたらシャワーを浴びさせて、もう一度シャンプーをしてやらねばとタォヤマは思った。そして服を着替えさせて――

「それにパトリシアだって反対派に会う時はお前と一緒に行けって言ってた」

「いや、過激派はまずいぞ。パトリシアだってそっちは想定外だと思う……」もそもそとガイは大人の事情を口にした。言い訳というやつだ。「一応明日博物館に行くついでに注意しとこうと思ったのに遅かったな……」

「穏健派に接触するより、過激派を転向させたほうが話は早いんだよ。そいつらが踊らされてることに気づいて対立をやめれば、VOAだって活動できなくなる。どこだってその方針でやってるはずだ」

「いやぁ、今まで来たやつらもそう言ってたけど……」と、ガイの顔が奇妙にゆがんだ。顔にしまったと書いてある。

「今まで来た?」タォヤマは唸った。ガイは味方だと思っていた自分の浅はかさに腹がたったのである。「おまえ、ユフは初めてだって……!」

「そう怒るなよ。ユフと会ったのは初めてってのはほんとだよ。まいったな、パトリシアに口止めされてたのに」情けなさそうに口角をぐっとさげてガイはぼやいた。立派な角の隣の小さな耳もこういう時は完全にペッタリと寝て、ますます可哀想な子犬のようだ。

「今来たっていっただろうが。どういうことだ」

「だから怒るなって! 言わなかったのは悪かったよ! 俺がここに移住してきたのが二年くらい前だろ。その頃は移住の書類書きとかに精一杯だったし、まだ正式に雇われてたわけでもなかったから、とりあえず連絡係をしたんだよ。そんだけ。直接は会ってない」

「以前ってのはいつだよ」

ああ、と目だけで天井を仰ぎ、ガイはその大きな手で頭をかいた。「だから言っただろ、だいたい二年前だよ……でも依頼の段階で断られたらしい。あれだよ、あの書類、完了の条件が書いてあるやつ。他のところのメリヴォは責任取れないからって」

「なんで他のところに頼んだんだ? うちの会社は一度も倒産したことなんてないぞ」

「知らないけど……いくつかあたったみたいだぞ、お前んとこ高いし。それに――」

タォヤマの所属するダヮウェーユ Ltd.は、比較的大規模なヴェシュミ・ビセを専門で行う会社――というよりはフリーランスの登録事務所である。大規模な案件は件数が稼げないので、専任で働いているのはセブジとタォヤマだけ、あとは状況に応じてセブジがツテを頼るのがいつものことだ。

今回のイェナもかなり規模が大きい方ではあるが、それよりもさらに大きな、惑星の作り替えの際は数人チームのプロジェクトになる。いずれもかなり経験のあるシュルニュクばかり集められ、最年少のタォヤマのことを子供扱いする、そんな会社だ。

セブジの事務所に登録するくらいの規模のヴェシュミ・ビセができる力をもったシュルニュクは、いくらユフとはいってもさすがにそうたくさんいるわけではない。それに大きな案件になればなるほど実地作業が煩雑かつ長期間となるから、その期間をつなぎとめるだけの報酬が必要、すなわち人件費の単価が高いのである。結果費用は高額になり、小さな国の国家予算以上の仕事をすることも少なくない。

今回のイェナだって相当額の費用になるだろう。予算の増額の審議をしていると言っていたが、五年もかかったのはイェナの市だけでは賄えないからに違いない。おそらく国庫――イェナはスィアツの首都だし、地球系社会では僻地の文明維持のために補助金は惜しまないから、それも申請しているのだろう――から予算を引っ張ることできなかったときのために、パトリシアが例えば外装だけを直してくれとか、食い込んでいる木の根だけを除去してくれと他の小規模な事務所に頼んでいたとしても全くおかしなことはない。

そしてその小規模な会社が実地調査に来る前に断りを入れてきたとするなら、その原因は――メリヴォだ。だからパトリシアはあれだけメリヴォについて固執していたのだ。

タォヤマは目を細めた。嫌な予感がする。こういう予感がするときはたいていセブジが絡んでいるのも経験的に彼は知っている。「十年毎くらいで再開を依頼してたらしいけど、今まではずっと断られてたんだってさ。なんで今回はOKだったのかなぁってパトリシアが」

「あのクソジジイ……」

やはり、だ。

やはり、セブジが仕組んでいた。

確かにタォヤマは駆け出しだ。いくらセブジがタォヤマのことを高く買っているといっても、一人でいきなりこの規模の街のヴェシュミ・ビセに送り込むようなことはしないだろう。

だが、タォヤマがセブジの会社で働き始めたのは三十九年前、その時からずっと中断しているプロジェクトをふくめ、おおよそ全てのプロジェクトに目を通して勉強をしてきたのも事実だ。これほど大きな案件を目にしなかったのは奇妙だとは思っていたが、先ほどのメッセージからしてもセブジはなにかを隠そうとしている。隠そうとしているくせに今回タォヤマをイェナに送ったのはなにか理由があるとしか思えない。

そしてその理由として一番に考えつくのは、力試しだ。

強すぎる。

セブジの声が蘇る。彼は喜々として強すぎるといった。

「……タォヤマ? 大丈夫か?」

タォヤマは答えなかった。答えられなかった。

セブジがタォヤマの「強すぎる」部分にしか興味がないのはわかっていたことだ。そしてそれが必ずしもいい意味だけではないことも、もちろん彼は知っている。

「あの、タォヤマ? そう落ち込むなよ、な。お前いいやつだし、なんていうか、よくわかんないけど、大丈夫だよ! なんとかなるって!」

「…………」

「元気出していこうぜ! ほら、俺ができることだったらなんでも協力するしさ! ま、いざとなったら国外退去でもしょうがないかな、俺は外国人だし、別に故郷に帰ったっていいし――」

「じゃぁこの子のこともOKだな」

クソジジイとタォヤマはもう一度腹の中でセブジを罵った。たぶん、目を丸くして口を閉じてしまったガイもタォヤマに対して多かれ少なかれそんな思いを抱いただろう。

「えーと……」

「言ったよな、なんでもするって」

「んー、えっと、まぁ……それは口をすべらせたっていうか……」

「嘘なのか?」

「嘘じゃない! 嘘じゃない……けど、でもあるだろ、大人の事情ってのが」しどろもどろに言い訳をしたガイは、ちょいちょいと指先の長い爪で耳の後ろをひっかいた。「それになんでもって言ったって一応、ほら……」

「協力してくれなきゃ絶交する」

「ぜっこうっ?」

目を剥いたガイは両腕を広げ、もう一度絶交? と繰り返した。そして信じられないというように目だけを左右に動かす。意外すぎるほど覿面な効果だった。

「絶交だ!」絶好のチャンスだと、タォヤマは声を荒げてもう一度宣言した。「二度と話さないし、どうしても話さなきゃいけないならパトリシアを通す!」

「まてよ! なんだよ、それ! 俺を殺す気かっ?」ソファから身を乗り出し、ガイは悲鳴のような声を出した。耳はまだ、ぺたりと寝ている。「だいたい毎回パトリシアを通すって、正気か? パトリシアを通したらなにもかもイエスかノーになるぞ! 会話にならないじゃないか!」

「協力してくれなきゃ絶交だ!」

ああ、とガイは頭を抱えた。彼の大声に触発されたのか、シーシがもにょもにょと口を動かして寝返りをしたが、幸い目をさますほどではなかったらしい。タォヤマは眦に力を込め、ガイを睨んだ。

「ああもう……わかった、わかったよ! 協力するよ! 絶交だなんて、そんなのやめてくれ!」ほとんど泣き声である。ここまでガイに「絶交」がきくとはおもっていなかったタォヤマは口をまげた。単純で扱いやすいのはいいが、本当に精神的に子供なのかもしれない。落ち着いたら確認しておいたほうが良さそうだ。「パトリシアを通すなんて――なんて悪夢だ……!」

「……お前の忠告はできるだけ聞くようにするよ。どうしても譲れないところは一人で行くし、最悪の事態になったらお前の名前は出さないから」

「ほんとか……?」

「ユフは嘘をつかないんだ。とりあえずこの子の服を選ぶのと、問題ない髪型を見つけるのと、それから――明日お前んちに移る件だけどベッドを用意してやらないと。俺はソファで構わないけど子供には子供部屋がいる……」

「おまえ……」まだ頭を抱えたままガイは唸った。「ああ、もう……わかった。でも部屋はあるけどベッドがないぞ」

「スプシュトする」

「大丈夫かなぁ……」

もごもごと口の中でつぶやいて、ガイは上目遣いでタォヤマを見つめた。完全に子犬だ。「まぁでもすぐにアパートに移れば……ばれないか……」

「なにか問題でもあるのか?」

「お前だけだったら大歓迎なんだけどさ。小さな子供の声は響くだろ。飛んだりはねたりもするし、ニンゲンを誘拐したとか因縁つけられたら俺の立場がなくなる……」

ああ、とタォヤマは納得した。

できるだけリスクを避けたいガイの気持ちは理解できる。彼は訪問客ではなく、すでにこの土地に職を得て日常を営んでいる居住者だ。犯罪に加担したとなれば二度と滞在許可が下りない可能性もあるし、慎重にもなるだろう。協力をしてくれるだけありがたいと思わねばならない。

「オーケイ、声が響かないような方策は考えとく。とりあえず今はシーシの着るものだ。髪型はひっつめでいいのか?」

「きれいにブラッシングしておけばいいかな。小さな子だし」ふうとガイは息を吐き、ソファに深く身を沈めた。下牙をつきだして、目をぱちぱちとさせている。「でも服なんてわからんぞ」

「並べてみるから印象を言ってくれ。イメージができたらスプシュトする」

タォヤマは息を吸った。夜は長くない。大忙しだ。

 

 

声を出したりしないようにとよくよく言い聞かせ、昨日と同じように腹にシーシを抱えてホテルをあとにする。チェックアウトはガイにまかせて早々にホバーカーに乗り込んだものの、動き出してようやくタォヤマはほっと安堵の息をついた。

風にシーシは歓声をあげている。

起き抜けは服を着替えさせられたと機嫌が悪かったシーシだが、レディらしいとか、かわいいとか、大人に見えるなどと褒めそやしてやっているうちにその気になったようだ。

がたいのいいガイのこともはじめは警戒していたふうだったが、しっぽであやされているうちにおもちゃにしてやってもいいくらいには思ったらしい。すっかりなついて小さな手で一生懸命に毛をなでつけてやっている。

パシュッ! と音をたて、ホバーカーの側面が樹の枝をかすった。

ビルのすぐそばをかすめて走るたびに青く霞んだ影が彼らの元へと迫ってくる。朝早いおかげか辺りに人影はなく、シーシが歓声をあげても、タォヤマが帽子を脱いでいてもひと目は全く気にならない。

「これってどういうルールになってるんだ? 秩序が見えないんだけど」

「走っていい場所は決まってるよ。航行機だってなんだってそうだろ、ルールがなくっちゃひどいことになる。基本的には右旋回なんだけど、分岐はあんなふうにビルの正面に印がついてて――」

ガイは正面を指差した。

大きなイェナ市街地はいくつかの行政区分にわかれているが、その区分をもっともわかりやすく示しているのはビル群の高さの違いだろう。中心のイェナタワーを頂点として、螺旋状に建物が低くなっているのだ。

昨日のパトリシアの説明では、建物を建築する際に基礎となる低層ビルを第一層として建設したのだそうだ。第一層は低い代わりにフロアあたりの面積が広く、上に建物が建設できるように強度もかなりあるのだという。そしてその第一層の上に幾つかの第二層を、さらにその上に第三層を、すこしずつフロア面積を縮小しながら重ねていった結果が今のイェナの市街地であるらしい。

こうすることによって高層ビル群のどの階層にあっても、互いのビルを徒歩で行き来できるような広場ができ、シャトルの乗り場や悲惨な落下事故を防ぐ緩衝地帯として利用することができるのである。

ガイが指差したのは第一行政区から第三行政区に抜ける方角で、第一行政区のもっとも外側にあたる建物だった。確かに指を組んだような模様のある建物の壁面に赤いランプが灯っている。

にやりと白い牙を見せたガイは体を右側に傾けた。そして速度を落とさずに建物の壁面へと突っ込んでいく――

「! ! !」

ウオォン! と車体はうなり、ビルの壁面すれすれをかすめた。思わず体を縮めたタォヤマとは対照的に彼の中腕をしっかりとつかんでシーシは腰を浮かしている。

「すごぅい!」

タォヤマは息を呑んだ。

浮かび上がる街並みはまだ霧と雲を頭にかぶっている。どうにか頭を出している第三行政区や第四行政区のビルのてっぺんではそれぞれに誘導灯が点滅し、さらにそこを抜けた第七行政区のあたりは雲の下にぼんやりと明かりが広がっているのが見えるだけだ。視認できる人工物の隙間からはもさもさと木々の枝が生え、まるで緑の海の上に建物が生えているようだった。

雲が切れた先には地平線まで延々と乾いた色の草原が広がっている。昨日ガイと二人で走った道のあとは見えず、視界の右端に黒い森がまだらに染みを作っているのがかろうじてみえるだけだ。ふきつける風の冷たさが心地良いのは興奮のためだろう。

「俺の家はあっち側、第八区の居住区域だよ」

ぐうと視界が傾き、大きく右にそれる。顎をしゃくったガイの向こう、地平線からおずおずと顔をだした太陽の光が目を刺し、タォヤマは限界まで目を細めた。シーシは車から身を乗り出そうとしている。

「あのあたりは外国人がおおいから、タォヤマの部屋もあの辺か、あとは第四にも目星つけてるところがあるんだ。どっちに決まるかはわからないけど、利便だと第四のほうかなぁ……ま、いいところになると思うよ」

「ねー、シーシのベッドあるぅ?」

「ん? そりゃもちろん。特製のベッドをあげる」ぱちりとガイはウィンクをした。「それからふっかふかの枕とあったかい毛布と――ああ、そうそう! ぬいぐるみも忘れちゃいけないな。一緒に寝るぬいぐるみもあるよ」

やったぁ! と無邪気にシーシは歓声をあげた。

車体を右側に振り、ホバーカーは急降下をしている。先程までははるか下にあった第四行政区のビルもあっという間に目の前に迫り、時折車体が雲をかすめるたびに細かい飛沫が散った。雲の層を突き抜け、さらに降下する。

開けた視界の上空から建物の林立する居住地区に入ると、また雰囲気が一変するのだ、とタォヤマは感心した。細い針のような上層階は登ってきたばかりの太陽の光を受け、長く濃い格子を宙にうかびあがらせている。静かに降り落ちる埃が鋭いきらめきを放つだけの静謐とした青い空気の中で徐々にスピードを落とし、ガイは右へ、左へと旋回しながらまだ下降を続けている。

「……すごぅい……」ずっと身を乗り出していたシーシはなにを思ったかほう、とため息をついてタォヤマにもたれかかった。喉の奥で笑ったガイが下牙を片方だけのぞかせている。

「疲れちゃったか?」

「んー」

「そろそろおうちにつくから朝飯くって一休みしような。あ、けどその前にそろそろ燃料をいれないといけないから、ちょっとスタンドに寄ろう。シーシはタォヤマから離れちゃだめだぞ」

うん! とシーシは機嫌よく返事をしたが、タォヤマは思わずまばたきをしてガイを見返した。まだ人通りは少ないとはいえ、どこから誰がやってくるかはわからない状況だ。先にガイの部屋へ行ってからにしてくれないか――

口を開いたタォヤマに言いたいことを察したらしく、ガイは左手の第二指を上に向け、タォヤマを制した。また白い牙をのぞかせている。

「そう心配するなよ。スタンドはこの角を曲がったらすぐだ。今ならまだ誰も彼女の存在に気づいてないだろ、第一からここまで追っかけてきた影もないし、行くなら今だよ。いざって時に燃料切れじゃしょうがないし」

「誰か待ち構えてたりとかしないか?」

「セルフスタンドだから誰かいたらすぐわかるさ。それにチョコレートバーとかコーヒーとか、すぐ食べれるものも調達できるし。とにかく彼女を離すなよ――」

と、その時だ。

ぴん、とガイの耳が立った。視線を僅かに右側にずらし、軽く首を傾けたガイだが、すぐにはっと首を跳ね上げ、急ブレーキを踏む。

上空。

「ガイ! 発進しろ!」

ぐんぐんと黒い影が迫ってくる。わたわたとギアを操作しようとしたガイの鼻をかすめてボンネットの上に落ちてきた影は、着地と同時にガツン! と音を立ててガイの顎を蹴り上げた。

「! ! !」

激しく左右上下にホバーカーが揺れる。シーシが悲鳴をあげ、タォヤマにしがみついている。腕が空を切ってタォヤマに迫ってくる。とっさに彼はいっぱいまで背を反らしてそれを避けたが、シーシの額が体から離れた。

まずい。

目をいっぱいに見開いたシーシはきょとんとした顔をしている。小さな唇を中途半端に開いてなにかを発音しようとしている彼女は、まだしっかりとタォヤマの腕を掴んでいた。焦るタォヤマを尻目に影が乱暴にシーシの首根っこを掴み、そしてためらうことなく空中へと身を躍らせた。

「シーシ!」

シーシの唇が開いている。白い歯がみえる。ぱっくりとひらいたピンク色の口腔の中に整列する歯が、隊列を組んで行進をはじめた錯覚をしてタォヤマは身じろぎをした。中腕がシーシの体をつかまえ、腕の中に体温が戻ってくる。

彼は上腕で影の背中を掴んだ。掴んだつもりだった。シーシはタォヤマを見ている。口を半開きにして、目をぱちぱちとまばたかせている。彼は無我夢中で右中腕と左背腕を伸ばした。右中腕は宙をかいたが、左背腕の第二指が影に触れる。シーシのやわらかな指がしっかりと彼の第二指と第三指をつかんでいる。体の重心が前方に回転する。

彼に体を支える筋肉はない。

「タォヤマ――――――!」

 

 

耳元で風が泣いている。

五本の腕を伸ばし、彼は影ごとシーシを抱きかかえた。ぐるぐると体がまわり、上下の感覚がわからなくなる。頬にシーシの柔らかいくせ毛が触れていることだけが、彼を正気に引き止めていた。もしそこにシーシがいなければ、彼は失神していたかもしれなかった。

「ターヤマぁ! 落ちてるよぉ!」

バタバタと服がはためき、耳元で音を立てている。ゆっくりと回転はとまったが、落下は続いている。せり出す階下の広場はまだはるか眼前だが、このままなすすべもなく衝突するだろうと彼は思った。踊り場には反重力装置がきいていて衝突を緩衝するという話はきいているが、体を叩きつけられたらタォヤマが無事でいられる保証はない。

「クソ……!」

「もう! なんでついてくんの! 怪我したらあんたのせいだから!」

腕の中でシーシではない声が喚いた。女の声――まだ若い、アルトソプラノ。タォヤマの左上腕を掴んでいる何者かの感触が消え、タォヤマは焦った。

ぐっと腹を押し込まれるような衝撃。

思わずタォヤマは息を止めたが、そんな彼を受け止めるようにやわらかく空気がへこんだ。

この感触は反重力装置だ。

足元の空気がうずを巻いている。タォヤマの腕の中にいる女は両手でなにかを下向きに構え、髪をなびかせている。タォヤマは目を細めた。

ハンド反重力装置だ。

ただの反重力装置だってユフの社会ではあまり需要がないので目にしないが、ハンド反重力装置ともなれば世界的に供給量が限られているので見つけるだけでも一苦労だ。所有するとなると煩雑な手続きが必要となるし、なによりタォヤマの半年分くらいの給料はなげうたねばならない、それくらい高価なものである。

そんなハンド反重力装置をなぜ、この女は持っているのか、とタォヤマは訝った。扱うのが容易な代物でもないし、背後に巨大なスポンサーがいるのか――巨大な資金を動かせる組織といえばVOAしか思いつかない。それにわざわざシーシを奪い返しに来る理由も定かではない。それほどまでに大事な子供なのか? この街には一体なにが隠されているのか?

落下のスピードががくんと落ち、耳元で唸っていた風の音が消滅した。だが、階下のせり出した踊り場はぐんぐんと眼前に迫っている。減速しきれていない、逆重力が足りない――!

とっさに彼は空中に右背腕をつっこみ、手近にあった固いものをつかんだ。それがなにかを確認する前に振りかぶって踊り場へと投げつける。

「チトぉ! 足りないよぉ!」

「わかってる! いいからつかまってなさい!」

クッションになれ、と彼は祈った。衝撃を和らげるクッション、弾性があり、よく伸びて力を吸収する膜があり、かつ彼らを直接地面に叩きつけることのないクッション。大きさはどれくらいだ? 色は? 形は――焦りのせいではっきりとしたイメージができない!

「でもぉ! ターヤマが死んじゃうよぉ……!」

「死なない!」

きっぱりと女が断定したその時、眼下で白い雲が弾けた。むくん、むくん、と体積が膨張し、塊全体が揺れる。

ずぶり、と反重力装置が白濁した物体の中に沈む。まだ回転している空気が激しく白濁物を巻き上げ、視界が失われる。シーシの小さな手が襟元を掴んでいる。首筋に押し付けられる丸い額が振動でがたがたとゆれ、彼女は細い悲鳴をあげた。少女はまだ棒を構えている。棒の向きをゆっくりと変え、落下の速度を殺そうとしているのだ。空気の向こうにあるやわらかな物体は彼らの体重を受け止めようとしているが、底に向かって引き込む強大な力は消えていない、まだ終わりは見えない。

「うわ――――あ!」

シュンッ! と僅かな音を残し、空気が消滅した。と、同時に重力に引き寄せられ、彼らはやわらかな物体に衝突した。

いや、それは物体ではなく、液体だった。

ずぶりと頭が沈み込む。タォヤマはしっかりと目を閉じ、腕の中のものをすべて胸に押し付けた。贅肉も筋肉もない彼の体が一体どれくらい彼女たちのクッションになるかはわからなかったが、再スプシュトをしている時間はない。

加速度が再び体に戻ってくる。重力が彼らを闇の中に引きずり込む、ぶつかる――!

 

2017年7月6日公開

作品集『ある朝の毒虫』第4話 (全8話)

© 2017 斧田小夜

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