ある朝の毒虫 – 2

ある朝の毒虫(第2話)

斧田小夜

小説

21,566文字

無事にイェナに到着したタォヤマ。無事に仕事を始められると思いきや――?

「シャトルは巡回してるんだから迷うことなんて全然ないだろ。もし間違っちゃっても逆方向に乗ればいいだけさ。ヴェシュミ・ビセに比べたらすっごく簡単なことじゃないか、なにが難しいんだよ」

「俺はどこに行くか知らないし、バツヴァク語の読み書きもできないんだけど」

「あれ?」

「あれ? じゃないだろうが、来たばっかりだぞ」

「んや、それはわかってるけどさ……どこで降りればいいんだっけなぁと思って……」

「ガイ」

「いや、いつもホバーカーで移動するからたまに乗るとわかんなくなっちゃうんだよ。えっと、次だっけなぁ」

ガイのこの脳天気さには正直げんなりとする。

イェナ市街地にたどり着いてもタォヤマは衝撃から立ち直れていなかった。空を仰げば遥か彼方にまでビル群は連なり、空がいつもよりさらに遠くにあるように錯覚をする。ビルの合間にはシャトルやスカイエレベータだけでなく無数の通路があり、ホバーカーの通り道があり、縦横の移動は自由自在のようだ。居住地区の建物にはいくつもホバーカーが横付けされており、活気の満ち溢れている地球系らしい都市だった。

しかも遠目で見るよりもずっとこの街には緑が多い。人の歩く通路以外はすべて植物が覆っていると言ってもいいくらいだ。

すっかりぽかんと口をあけて放心しているタォヤマを哀れんだのか、ガイは彼をカフェへ連れて行って休憩させてくれた。そこで喧々諤々としたあげく水を呑んで一息ついたのがつい先ほど、それからせっかくだしということでシャトルを乗り継いでいるのが今である。

残念ながらスカイエレベータはタォヤマには合わなかったが、シャトルは螺旋状に街を周回しているので、乗っていればいつかどこかにたどり着くというのがガイの説だ。

「ちょっとは落ち着いたか?」

「落ち着くわけがないだろう、こんな――」

「んー、でも」首を傾げ窓の外に向かって顎をしゃくったガイはわざとらしく下牙をつきだした。「地球系の旧タイプ高機能都市はもっとすごいぞ。規模も桁違いだし……植物は生えてないけどさ」

「あっちは同じパターンの繰り返しだからそうでもない。ここは全然パターンがみえてこない……多分すごく複雑な構造に……」

「そりゃそうさ。だって」

「ねぇ、どうしてお手々隠してるの?」

その声はあまりにも唐突だった。唐突過ぎて脳の処理が追いつかず、ガツンと頭蓋骨の内側にぶつかって止まった。

甲高いニンゲンの――子供の声。

「ねぇ――」

言葉を理解できない。翻訳機が言葉を解釈しようと耳の中で唸っている。

タォヤマはそろそろと首を巡らせた。

「ねーえ、――? ――!」

小さな地球系ニンゲンだった。

座っているタォヤマの膝より背丈は少し高いくらい、しょうが色の柔らかそうな髪の毛がくしゃくしゃとカールして肩幅と同じくらいに広がっている。青い小花柄のワンピースも、三つ折の靴下も朝だというのにすでに黒く汚れており、それだけでなにか事情があって大人の世話を受けていないらしいことが伺われた。

だというのにこどもは微塵にも不幸さを感じさせる表情は見せず、タォヤマを見つめている。白い肌の、脂肪に包まれた子供。日にすかされた若葉色をした大きな目をくるりとひらいて、口元は弧をえがいている、パターン、笑顔。

子供は小首を傾げ、また口を開いた。甲高い声でなにかを叫んだ彼女だが今度はぱくん、と口を閉じ、じっとタォヤマを見つめている。返答を待っている。

翻訳が――聞こえない。

なぜ翻訳されないのか? 発音がはっきりしていなかったのか? それとも意味のない発話だったのか? はたまた翻訳機が壊れたのか?

子供はまだ笑顔を維持している。丸っこい小さな指をもちあげ、なにかを指差しているようだ。おそらくその先はタォヤマの顔のあたり、なにかがおかしいのか。違和感があるのか。それとも単なる子供の気まぐれか?

「ガイ」彼は弱って救いを求めた。「この子、なんて言ったんだ? 翻訳されない」

「翻訳機は? 壊れたのか?」

「わからん。訳してくれないんだ。子供の発音じゃ訳せないのかも」

「ああ……顔が割れてるって言ってる。一つ目が珍しいんだろう」

「そりゃ俺はお前みたいなぬいぐるみじゃないからな」

小首をかしげた子供の顔から笑顔のパターンが消えた。下唇を噛んだ子供はまだタォヤマを見ているが、その中に恐怖の色はない。とにかく物珍しいといったてい、つまり子供の好奇心だ。泣き出す気配はない。

ワンピースをみにつけ、髪の毛を垂らしているので、多分この子供は女の子だろう、とタォヤマは見当をつけた。地球系ニンゲンの女の子を呼ぶ時は――一般的な呼び名は――思い出せない。

「あ、と――」

「歯もだ!」

ワンピースのお腹のあたりを左手でぎゅっと掴み、右手でタォヤマの顔をさして少女は叫んだ。そして心底満足したようにえくぼを浮かべて顎を突き出す。これはタォヤマでもわかる、子供が満足している時のしぐさだ。

「ねぇ、どこからきたの? ――はどこ? ――なの?」

翻訳はやはり流暢ではない。タォヤマは横目でガイに救いを求めた。もとより彼は子供と接触したことがほとんどないし、ニンゲンの子供ともなればなおさらだ。どうやって接して良いのかわからないし、うっかり触ったら爆発したり壊れるかもしれない。

「指、三――しかないねぇ!」

ずい、と少女が一歩前に出る。タォヤマはたじろいで背もたれに背中を押し付けた。固い、圧縮プラスチックの感触がある。

「手ぇおっきいね! すごい!」

「あの……」

「――あげる。――友達の――取引だよ」

もう一歩少女は前に足を踏み出した。そして断りもなく、小さな掌でタォヤマの膝頭を撫で始める。

くすぐったい。

タォヤマはくすぐったいのが苦手である。呑気にシャトルに乗っているのもスカイエレベータの気流が靴越しに足裏をくすぐるのに耐えられなかったからだ。そんなありさまだというのに膝頭を撫でられるなど言語道断である。

危うく叫びかけたタォヤマだが、少女を突き飛ばすことだけはどうにかこらえた。しかし体中に力が入り、心臓がどくどくと音を立てて鳴るのはとめられなかった。少女の手はまだ膝をくるくると撫でている。やわらかく、少し熱いくらいの汗ばんだ手のひらの感触は布越しにもわかる。

「お嬢ちゃんはどこからきたの?」ガイが横から口を挟んだ。「お母さんとお父さんはどこ? 一人じゃ危ないよ」

少女はカールしたまつげを持ち上げて顔をめぐらせた。これは驚愕のパターンだ。口をすこしすぼめて、頬に緊張がある。ついでに手もとめて、彼女はガイをその目にうつしている。なぜこんなところにぬいぐるみがいるのか、なぜぬいぐるみが言葉を話しているのかを思案しているふうだ。小さな拳はなぜか、タォヤマのスラックスを握りしめている。

「ガ――……ガイ、ちょっと剥がして……」

「とって食いやしないよ。小さな女の子じゃないか」

「でも子供はなにをするか――」

「ちょっと待てよ、怖いのか? こんなちっちゃな子だぞ」

「笑いごとじゃない……!」

と、その時だ。少女の眉根がきゅっとより、表情が変わった。パターン――これはなんだ? 機嫌を損ねた? 怒っている? それとも怖がって叫ぶのか? あるいはどこか痛いのかも――もしかすると爆発が起こる?

とっさにタォヤマは足をふんばり、椅子のヘリをしっかりと掴んだ。冷たくも暖かくもない圧縮プラスチックの感触は頼りなく、少女の手が膝の上で燃えているような錯覚をする。色彩は減退し、光が強さを増して眼球を刺している。

横目に映るガイの口が動いている。し、まっ、た――

が。

「シーシ! なにしてんの、離れて!」

くわり、と大きく開いた少女の口が二人を押しつぶしかけたその時、声は響いた。第一の救いだった。

 

 

「シーシ! こっち来な、なにしてんの!」

アルトソプラノの音階、つまり女、しかも比較的若い。パターンは怒り? 激高? 恐怖? 興奮? 混乱の中、タォヤマはまだしっかりと椅子のヘリを掴んでいた。

口を開きかけた少女は先ほどの激昂はどこへやら、口を閉じて乱入者の方角へ首をねじまげている。眉根はまだきゅっとよっているが、しかし今すぐにでも叫びだしそうな雰囲気ではない。危機は去ろうとしている。

「早く! いい子だからこっちおいで! エイリアンに捕まったら――食べられちゃうよ!」

おそらくその一言がなければ、タォヤマはその日いっぱい混乱の中で過ごすはめになっただろう。耳にかじりついた「エイリアン」の音に彼は正気へと返り、彼らを第一の危機から救った第二の危機を睨みつけた。カッと目の裏が白くなり、彼は自分が腹を立てていることを知った。

「エイリアン」はニンゲンが好んで使うニンゲン以外の宇宙生命体への蔑称で、特にニンゲンからみて不愉快な外見をしている宇宙生命体に対して使われることが多いことばだ。

エイリアンは地球系をなぶり殺すものであり、「平和に暮らしている」ニンゲンに略奪をはたらき、奴隷にするか食料にする、とニンゲンは思っている。

セブジいわく、そのものいいは主に彼らの無意識な願望を転化したものなのだそうだ。とにかく好戦的な――この形容詞はセブジにしてはやや手厳しい――種であるが故に、同種の間でも争いの種がつきないし、その姿勢が高度知的生命体の認定を遅れさせた。しかも彼らは自分たちのグロテスクな願望はつねに創作物の「エイリアン」で実現をしてきた。彼らのいいところは、そのグロテスクさ自体は認めていることだ。悪いところは、自らの立場に置き換えるととたんに美談にしてしまうところ――

「シーシ!」

女だ。ニンゲンの女は髪の毛を長く伸ばすらしいので、きっと女だろうとタォヤマは推測した。タォヤマの膝をなでた子供に比べればずっと大人に近いが、ニンゲンらしいあどけなさが顔に残っている。くせ毛の栗毛を乱雑にまとめたその女は大きすぎるTシャツを着こみ、その上に赤と青の混じった古ぼけた長袖のシャツを羽織っている。ぴったりとしたジーンズを穿いているせいで、細い足のラインもあらわだ。ニンゲンにしては痩せている。しかしユフとしては脂肪がつきすぎだ。

「ああ、もう、シーシ! 冗談じゃないよ……!」

「いや」両手でタォヤマの脛を抱き、しょうが色の髪の毛をした少女は首を横に振った。「これ、シーシの――友達だもん」

「なにいってんの! ――食べられちゃうよ、友達になんかなれっこないんだから!」

「――友達だもん!」

タォヤマはふたたび、ガイに横目で救いを求めた。エイリアンと呼ばれるのは腹が立つが、脛にひっついている少女がタォヤマに執着する理由もわからなかった。しかもこの少女はガイに対してあまり好意をもっておらず、かつ叫んでいるバカな女はガイでさえエイリアンだと思っているかもしれない。

「……タォヤマ」

「なんだよ……!」

「俺は力になれないかもしれない」

「冗談だろ、助けてくれよ!」

「残念ながら一つ、悪いニュースがある――」もったいぶったこの言い回しは絶対にこの状況を楽しんでいる、とタォヤマは悟った。

無遠慮で不気味でなにを考えているかわからない生物が足にしがみつき、一方では差別的な罵倒を並べ立てる女がいて、それらすべてに彼の知らない言葉が使われている。彼は知らない土地にいて、今どこにいるかさえ定かではなく、そして隣の男は頼りになるのかどうかもわからない。どうやってこの状況を切り抜けられるのかまるでわからない。だというのに唯一の頼みの綱はこの状況を楽しんでいる! 絶望的だった。

ニヤニヤとしながらガイは続けた。「ミスター・タォヤマ――」

「早く言えよ!」

「今、降りる駅を過ぎた。次の駅で逃げよう」

「いや! シーシも一緒に行くの!」

ぎょっとしてタォヤマはますますのけぞった。いつのまにか幼女の腕はしっかりと彼の足に巻きつき、指が茨のように服に食い込んでいる。潤んだ目を輝かせ、彼女はタォヤマを仰いでもう一度いや、と叫んだ。タォヤマは悟った。これを引き剥がすのは不可能だ。骨が折れるかもしれない。

楽園へは――

「シーシ!」

「スリーカウントでゴーだ、いいか、いくぞ――」

「だめぇ! あたしのだもん!」

ああ、と彼は天を仰いだ。

楽園へは――どうすれば帰れるのだろう。

 

 

「すみません、私が空港にお迎えにあがればこんなことには……」

恐縮しきりといったていで眉尻を均等に下げ、さっぱりとした容姿の女は詫びの言葉を口にした。名前はパトリシア・ホシ、当人はパトリシアと呼んでくれと言っていたが、ミス・ホシと呼んだほうがいいとガイは耳打ちされた。

人混みをかき分けて突然彼らの前にあらわれた彼女は、まずタォヤマの足にしがみついていた幼女を引き剥がし、女のところへ連れて行った。そして「エイリアン」と呼ばないように厳しく一言注意して、靴音を立てて二人のところへと戻ってきたのだ。口を開くとまずはタォヤマへの謝罪、自分が何者であるかの説明、もう一度謝罪、そしてガイにちくりと嫌味、どこまでも完璧な対応をする女性である。

「あなたねぇ、騒ぎになるのはわかってたことでしょう。どうしてホバーカーでここまで来なかったのよ」

「タォヤマが見たいって……」

「あなたに任せた私が馬鹿だったわ」ぴしゃりと彼女はガイの言い訳をはねのけた。「あなたは最低の間抜けだけど」

轟音をたてて背後からシャトルが迫ってくる。摩天楼の隙間をのろのろと歩く彼らの横をすり抜け、長い車体は空へと向かって走って行ってしまった。ガラス張りの建物にその姿が小さく、何千にもうつって、そして消える。

遠くから見た時にも意外に緑があると思ったものだが、こうして歩いてみるとますますその思いが強くなると思いながらタォヤマは黙って歩いていた。まるで隙間恐怖症のシュルニュクが街を形成したかのように、ほんの少しのスペースにさえ、植物が生えている。

もっとも見る限りほとんどは地球産の植物なようなので、持ち前の繁殖力でいつの間にか勝手に根付いたのだろうが、それにしてもこれだけ生えそろっていれば圧巻の光景だ。

ちょっとしたバルコニーは草原になり、壁のひび割れには黄色い花が揺れ、ビルとビルをつなぐ通路には木の根と蔦が絡み合ってトンネルを作り、斜めに生えた木がさわさわと音をたてて彼らを迎え入れている。鼻をつく青い匂いも、どこからともなく漂ってくる清々しくも甘い花の香りも、地球系の植物に侵食されつくしたタォヤマの本拠地、ゴオリバのようだ。

「そこを登ればつきますよ」

「ここを全部作りかえるんですか? せっかく育ってるのになんだかもったいないですね」

「老朽化がひどくって。木の根がどこにでも食い込むから建物がぼろぼろなんですよ。今じゃ都市修復だけで予算の半分以上食っちゃってお手上げ状態、作りかえるしかないですね」

足元に気をつけるようにと促され、タォヤマは慎重に木の根をまたいだ。古木色の木の根が地面を這いずりまわって、気をつけていないと足を引っ掛けて転んでしまいそうだ。一度転べば最後、うっかり高所から転落する危険もあるのでタォヤマはびくびくとしていたが、パトリシアからはそんな怖気はまるで感じられない。

甘い匂いを漂わせる枝をかき分け、彼女は右に曲がった。

彼女の背中を追って角をまがると階段だった。欄干に蔦が絡みつき、無機質な黒いドアのすぐそばまで迫っている。圧縮プラスチックと同じ光沢を放つ階段は端がかけてヒビが入り、そのわずかな隙間から雑草が元気に芽を出していた。

地球。

ニンゲンの母星はそう呼ばれているそうだ。地球に生まれたニンゲンは宇宙に散らばった時に異なる進化をしたが、それをすべてまとめて地球系ニンゲン――当人たちは地球系人類とかヒトと称するが正式呼称はニンゲンだ――とするのが一般的だ。

彼らが宇宙へ進出したのは多くの宇宙生命体からするとごく最近のことだが、その年月からは考えられないほど、地球系はあまねく広がり、さまざまな土地に根付いている。彼らの旺盛な繁殖力と、桁違いの適応進化のスピードがあるからだ。ニンゲンに限らず、地球系は非知的生命体も慣用的生物も、つまり植物、昆虫、微生物、ニンゲンを含めた動物も全てがあっという間に変化する。短命種かつ種として若いうえに、短命種の利点として環境適応性が高いからである。

パトリシアがさっと指で扉を撫でると、障壁は消滅した。蔦の間から見える室内は明るく、太陽の光がさんさんと差し込んでいる。入り口からは見えないが、大きな窓がついているらしい。

「どうぞ。窮屈でしたら上着は脱いでいただいて結構ですよ。腕を動かせないと不便でしょう――ガイはだめ、ちゃんと着てなさい」

指に冷たい感触が触れ、タォヤマはぎょっとした。幸い触れたのは青い蔦の葉だったが、その感触にさきほどの不思議な幼女を思い出させられたのである。

彼はそろそろと手をひっこめ、できるかぎり身をかがめて室内へと足を踏み入れた。

ぎしり、と床板が鳴る。

「そこのソファにどうぞ。楽にして下さいね、疲れたでしょう、ガイは本当にひとの言うことを聞かないから」

すたすたと奥へ歩いて行ってしまった彼女は、背を向けたまま矢継ぎ早に質問を繰り出している。カフェインは問題ないか、果実は、酸はどの成分なら摂取できるのか。「レモンはたしか大丈夫でしたよね、砂糖は? ――タォヤマさん? どうかしました?」

壁一面を覆う巨大なくもりガラスから日が差し込んでいる。壁の外に絡みつく蔦と忍耐強く自分の生きていける足場を見つけようともがく雑草の緑がそのガラスに写り込み、さながらステンドグラスのように模様を作っているのだ。

どの緑も同じ緑ではない。黄色に近い緑、青に近い緑、明るい緑に暗い緑、乾いて変色した、あるいは死を間近にして色を変えた葉とその影がちらちらとゆれる。床も淡い灰色の影と太陽に透かされる緑がうつっている。きらめくという言葉がなによりもしっくりとくる空気だった。

そして、板張りの床である。

床を一面板張りにできるのも地球系産の植物の旺盛な繁殖力のおかげだろう。成長スピードはもちろんだが、自分たちの使用量以上の生死を紡ぐことができる地球系植物がなければ、ニンゲンだってこんな贅沢なことはできない。その繁殖力におされ、消える生命体が少なくないとはいえ、力強さに惹かれて地球産を好むものは少なくないのもうなずけるというものだ。

今、この部屋の床板に使われているのは一体どれだけ巨大な木々だったのか。土壌が悪いのか、はたまたコンクリートの中から顔を出した木々だからなのか、表面は灰色がかった乾いた茶色をしており、所々に節目が転々と散らばっている。タォヤマはそっと足をひき、ため息をついた。

「どうしました? なにか――」振り返った彼女は眉をもちあげ、さっとあたりを見回した。「あ、すみません、もしかしてアレルギー源になるものがあります?」

「いえ、ちょっと驚いただけです。木の床だったので」

「ああ、そういえばみなさん驚かれますね」

ぎしりとまた足の下で床が軋んだ。音がするたびにこれがトリガーとなってスプシュトしてしまうのではないかという不安にさいなまれるが、タォヤマは深く息を吸って背腕は上着の中だと自分に言い聞かせた。

靴の向こうに感触がある。むず痒いような、あたたかいような、そんな感触だ。日光が肌に当たる感じに似ているかもしれない。

「なんだか拾われてきたばっかりの猫みたいだな」

「ガイ、裸足にならないで。床が傷つくでしょう」

「んなこといったってさぁ……爪が押されて痛いんだよ。まったく君らはよくこんなのに耐えてるよなぁ」

「体毛カバー率が六十パーセント以下の恒温生物はみんなそんなものよ。タォヤマさん、崩れたりしないので大丈夫ですよ。そちらに」

楽園、とタォヤマは腹の中でつぶやいた。

気をつけていないとスプシュトしてしまうかもしれない。たとえ大した規模のスプシュトでなかったとしてもこんなふうにやわな――骨組みに植物がめり込んでいる摩天楼を致命的に破壊するには十分すぎる力をタォヤマは抱えている。慎重に慎重を期さねば、と彼は肝に銘じ、背腕の指を組んだ。

タォヤマが淡い緑色のソファに腰を下ろすと同時に目の前のローテーブルの上にカップがあらわれる。淵に金色のメッキが施されている瀟洒な茶器で、中には薄茶色の液体が静かに波を立てている。

「ほんとうにすみません。せっかく来ていただいたのにこんな目に遭わせてしまってなんとお詫びしたらいいか――」

「いえ、僕が頼んだことですから」

「だよなぁ」ぽんとガイはその巨大な体でソファの上に飛び込んだ。固めのソファが大きく揺れたのでタォヤマはガイを睨んだが、彼はすっとぼけた顔をして頭の後ろで手を組んだ。「あの子たちが急に来たのだって……」

「あなた、少しは反省するのを覚えたら?」

振動にぎゅっとタォヤマは両手を固く握りしめた。上着の中に同じ姿勢で腕を隠しているせいで、肩のあたりに痛みを感じる。彼女の勧め通り上着は脱いだほうがいい、と彼は決心した。

「ガイ、引っ張ってくれ。脱げない」

「ん? なんだよ、一人で脱げないのか? 不便だなぁ、腕がたくさんあるっていうのに……」

あなたみたいに粗雑な作りじゃないのよとパトリシアはやはり冷たい口調で切り返した。ガイに対しては妙にあたりがきついらしい。

パトリシアは暗い茶色の髪の毛をひとまとめにした、あまり洒落っ気のない女性である。白く秀でた額から続く鼻は長いが低く、横顔はほとんど平らになっているようにも見える。先ほどシャトルのなかでエイリアン、エイリアンと叫んでいた女に比べれば全体的に脂肪がついているものの、背中はきちんと伸びており、すくなくともタォヤマには若々しく感じられた。

上着をひっぱる――というよりも固定しているガイのちからに負けないように苦労して腕を引っ張り出しながら、タォヤマは一足先に飛び出してきた中左手で襟元をつかんだ。左背腕を肘がひっかからないように慎重に引き抜けば、あとはそれほど大変でもない。左の二本の腕と右上腕さえあればガイの役目も自分でだいたいどうにかできるからだ。

まだ右背腕にひっかかる上着をバタバタと振り払いながら、彼は上右手でテーブルの上のカップを持ち上げた。念のためレモンの香りのする飲み物の匂いをよく嗅いでから、カップの中身をすする。ほのかな酸味と甘ったるい蜜の味がする。

「あら、ごめんなさい。お口に合わなかったかしら」

「タォヤマは濃い味が苦手なんだよ。すっごい薄めてやんないとだめなんだとさ。さっきも大変だったんだから」

「あぁ……ユフはそうでしたね。ごめんなさい。すっかり忘れてて」

むせないように胸元を押さえ、彼は無言で頭を振った。熱い感触が喉の奥を削り取りながらみぞおちの方へと消えていったが、それだけだ。舌に甘ったるさは残ったが、甘みは生命を傷つけない。

「それじゃぁ早速ですけど用件にはいりましょうか。私どももできれば早くこの件を解決したいんです――」パトリシアはにっこりと笑って「崩れるかもしれないので」と付け加えた。パターン、笑顔。完璧な笑顔だ。完璧な笑顔を見せるニンゲンには気をつけろ、とセブジは言っていた。

「依頼書にも書きましたけど、以前――だいたい五十四年前にダヮウェーユ・リミテッドにイェナ市街地の再開発を行うヴェシュミ・ビセの依頼をしました。こちらが当時の提案依頼書RFP、提案依頼回答書、見積書、正式依頼書――」一枚ずつ紙をめくりながら早口でパトリシアは言った。「請負契約書、契約書の改訂版、請求書、それと……支払い伝票のコピーです。西暦一七三七八年――これはニンゲンの暦単位なのでわかりにくいと思いますけど、今年は西暦一七四三二年です」

「一年は何日ですか?」

「標準暦の一年を三六五に分割して一日としていますね。ここは一日の周期が少し長いのでだいたい三百日くらいになりますけど」

「ああ、なるほど……」

「もちろん簡単に標準暦にも換算できるんですけど、スィアツみたいなところではあまり国際的な文書を書く機会がないので一般的ではなくて……言っていただければ書類は標準暦でご用意します」

この手の話はセブジに聞いたほうがいいだろうとタォヤマは頷くだけにとどめておいた。仮にもセブジは社長だし、書類仕事に関してはタォヤマよりもずっと詳しい。

「ええと、この時の依頼責任者はスック・ヴァン・シーですが、十二年前に亡くなりました。私は後任ですが、当時は子供だったので書類上のことしかわからなくて……」

脱ぎ捨てた上着を拾ってソファの背もたれにひっかけ、タォヤマは差し出された書類に目を通した。どれも第一公用語で書かれているが、長い文章になると意味不明な文言が増える。おそらく第一公用語があまり得意でない人物が無理に翻訳したのだろう。

「こちらは当時の――ええと、第一公用語でなんて言うんだったかしら、ガイ、――って知ってる?」

「高い買い物したい時に書く書類のことか? 決済がおりた伺い、うーん、予算書かな」

「あぁ、予算書ね。ありがとう。国際公文書じゃないのでバツヴァク語になってますけど、前回のお支払金額の三倍くらい保留分があります。ただ、こちらで話し合っているうちにいろいろと要望が出てきまして、そうなると、その、御社へのお支払いも高額になりますでしょう?」

実に物分りがいい、とタォヤマは少々感服して首を引いた。確かに手間が増えるならそれだけ請求額も多くなる。もっとも先に見積もりをしてお互いに合意をとってからヴェシュミ・ビセはおこなうので、予算が足りなければそれまで、妥協点に至るまで話し合いが重ねられるだけなのだが。

「ですのでちょうど今、追加予算を申請しているところなんです。五年くらい前から検討していて、おそらく今週あたりに予算審議の決議がとおるはずで――反対意見もありますからまた少し時間がかかるかもしれませんけれど、増額は間違いないですね」

線がおどっているようなバツヴァク語の羅列にタォヤマはくらくらとしたが、どうせ眺めてもわかるわけはなかったので数字にだけ注目をした。第一公用語の領収書の方には彼の会社の当時の責任者と思われるサインが入っているが、判読不能だ。サインの習慣がないユフは悪筆であることが多いので、これは別段珍しくない。あとでセブジに聞いたほうが良さそうだとタォヤマは判断し、顔を上げた。

「結局前回は中断してヴェシュミ・ビセはしなかったんですよね」パトリシアの話に割り込んで、タォヤマは一番の不明点を口にした。細やかな手つきで紙束をめくっていたパトリシアは手をとめ、ええ、とおとがいを引いた。

「理由書はこちらになりますけど全部バツヴァク語なので翻訳済みのを……ちょっと待って下さいね、書類よりディスプレイ使ったほうがいいと思ってたんですけど、なんだか今日は調子が悪くて。たぶん根っこが食い込んで配電盤に変な力を――」

「俺が読もうか?」爪をリズミカルに動かしながらガイは言った。「そっちのが早いだろ、たぶん」

「いえ、大丈夫よ。ありがとう」そっけない口調にまたもや完璧な笑顔。ガイは下顎をつきだして牙を見せた。

「端的に言うと中断の理由は――」

「要求の落とし所がみつからなかった?」

「ええ、そのとおりです。よくあることだそうですね」にこやかな笑顔のまま、パトリシアは同意した。「一度はまとまりかけたようなのですが、途中で議論が幾つか噴出しまして、少なくとも百年は続く都市基盤になるのだから早まった結論を出すのは良くないという御社のご担当者様のご意見に従って一度計画を白紙に戻したそうです。ただ、こちらまでご足労いただいていましたし、実地調査や聞き取り調査もすでに開始しておりましたので、その分の費用はお支払いするという形で――再開の場合はその調査結果を再利用することになっているそうです。ただ、もちろんですけど、当時とは状況も違いますし……私としては全て白紙に戻ったものと認識しています。幸い再開発後は都市メンテナンス費用の大幅削減が見込まれるので、その分を再開発の費用に充てるということで大筋合意がとれていまして、費用のことはそれほど心配いらないかと思います。こちらからは、どうか今度こそヴェシュミ・ビセをしてくださいというのがお願いです」

よくある話だ、特にニンゲンでは、とタォヤマは腹の底で思った。金銭面のことをきちんと計画しているという点ではかなり話がしやすい部類の客である。

シュルニュクの仕事のクライマックスは派手なスプシュトなのでそればかり注目されがちだが、実作業のほとんどは、いわゆるコンサルティングである。

どこの土地でも、住み慣れた土地を離れたくないものと、新しいものを希求するものがいる。新しいものといっても未来予想図は人によって様々で、それらをひとつにまとめ上げていくのはそれなりに頭を使わねばならない。なにより住み慣れた土地を離れたくない人々――つまりヴェシュミ・ビセの反対派を説得するのは困難がつきまとうから、その説得だけでも時間がかかる。一度で滞りなくヴェシュミ・ビセが完了するプロジェクトは一割にも満たないかもしれない。

駆け出しのタォヤマがしょっちゅう新興住宅街のヴェシュミ・ビセにかりだされているのは、意見を取りまとめるコンサルティングの能力がまだ足りないからだ。まだ誰も住んでいない土地であれば取りまとめはさして難しくないし、金銭面の折衝をしてスプシュトを行えばいい。そもそも新興住宅街は住宅供給会社が発注元なので、設計図も数パターンしかないものだ。要はスプシュトできるかできないか、それだけなのである。

「再開ってことはだいたいまとまったんですか?」

「ええ。まだ少し反対意見もありますが、街の老朽化がすすんでいて時間がないのはイェナに住んでいたらわかりますから」

「反対してる方たちはなにに反対してるんですか?」

「いろいろありますね」またもや完璧な笑顔。この笑顔はパトリシアの癖だろうか?「イェナタワーは当初の使用目的では使われていないので撤去したいのですが、街のシンボルなので残してほしいという方もいますし、せっかく樹木が育ってきたのに全て刈りとってしまうのではないかと懸念している方もいます。他にもいろいろあって、それぞれの理由は理解できるんですが、でもスカイエレベータなんて時代遅れですし、メンテナンス管理も楽ではないですからね。ビルにしたって、どれもガラス張りになってますけども、老朽化して落下なんかしたら、いくら反重力装置で衝突を軽減するっていっても限度がありますから、階下はめちゃくちゃになるかも――」パトリシアはそこで下唇を軽く舐めた。黒い、艶めいた瞳にはタォヤマが映っている。「数年前ですけど木のせいで変形した外壁が崩れ落ちたことがあるんですよ。吹き抜けの場所だったので運悪く数百メートル落下したあげく走行中のシャトルに直撃して――その事故で八名が亡くなりました」

これがなにかのスクリーン上の話なら吹き出していたところだとタォヤマは思っていた。事故は確かに不幸な話だが、彼が聞きたいのはそんな話ではない。単に反対理由をリストアップして欲しいだけだ。だというのに彼女ときたらまるで映画の中の登場人物のようにさも深刻な顔をして「八名が亡くなりました」である。

とはいえ、こんなところで笑い転げようものならセブジから大目玉を食らうので、タォヤマは腹に力を入れてなんとかこらえた。ニンゲンはそういうことには感傷的なんだ、ただでなくてもうるさいのに茶化したりなんかしたらクレームがとんでもないことになるだろうが、と耳元でセブジが怒鳴ったような気がしたのである。

真面目な顔を取り繕い、タォヤマは同情を示そうと軽く首を揺すった。口の形はどうすべきだったか、思い出せない。

「それに……」

「それに?」

「ええ……わたくしどもは地球系ですから、大規模な反対運動が起こった場合は必ずVOAとの関連を疑うんです」

VOA、とタォヤマは思わずオウム返しした。

まさかこんなところでそんな不愉快な名前を耳にするとは思わなかった。

宇宙生命体の一種であるリュボヤの原理主義集団がなぜVOAと呼ばれているのかは定かではないが、一説にはリュボヤ古代文明の書の一節が由来だそうだ。その名前が悪印象とともに広まったのはここ百年ほど、彼らが僻地で地球系ニンゲンを養殖していることが白日の下にさらされたからである。

リュボヤは数万年以上前からニンゲンを捕食していたので、ニンゲンもリュボヤのことはよく知っている。知っているからこそ、ニンゲンはわざわざ知的生命体として認められる道を捨て、高度知的生命体の認定を目指したのだ。高度知的生命体として認められれば自種への狩りの禁止を一方的に通告できるからである。

確かにニンゲンとリュボヤ系は外見がそっくりだし、一部のニンゲンはリュボヤと塩基の一部が一致するものさえいるので、ニンゲンはリュボヤの亜種だとする説もある。体格や寿命はリュボヤの方がずっと優れているが、脳容量はほぼ同じ、言語にも類似性が見られ、目にも止まらないスピードで進化を続けてもなお、リュボヤとほぼ外見的な区別がつかないのだから、種としてかなり近いとみるのは別段奇抜な主張ではないだろう。

二つの種の主な違いはニンゲンがほぼ百年程度の寿命しかない短命種であるのに対し、リュボヤ系は高度知的生命体として平均的な五、六百年以上の寿命があるという点と、リュボヤはユフと同じく空間作用の能力を持って生まれるという点だけである。短命種であるがゆえに知見を積み重ねるスピードに難があるニンゲンは文明的には劣る種族だとされており、これを百歩譲って知的生命体として認めたとしても、高度知的生命体に認定することはどうしてもできない。それがリュボヤの、特に原理主義VOAの主張だった。

しかもユフと同じく空間操作能力があるリュボヤは確かに宇宙開拓史において常に重要な立場にあったし、人口も多いから、その存在を無視するのはほぼ不可能だ。さらにいえばどこにでも根づいて勝手に繁殖するくせに、他生命体と共存する意識の低いニンゲンは他生命体を絶滅に追い込むことが少なくなかったので、たいていの宇宙生命体から嫌われている。リュボヤの主張が支持されやすい土壌があり、それを覆してやることができるのはリュボヤと同じくらい存在感のある種――ユフしかなかった。そうでなければニンゲンは害生命体として排除されていたかもしれなかった。

ニンゲンがはれて高度知的生命体と認められたのは約百年前、すぐさま生存権の主張を行い、数々の種と自種の捕食禁止条約を締結したニンゲンとは対照的に、ニンゲンの高度知的生命体を千年あまりにわたって阻止してきたリュボヤは静かだった。そんな静けさの中からリュボヤ原理主義VOAはうまれ、そして静かにニンゲンの中に紛れていったのだった。

彼らのやり方は簡単だ。ニンゲンの内部に潜り込んで対立を煽り、混乱状態を引き起こし、そこを狩場とする。ニンゲン内部の対立に関して他の宇宙生命体は関与を嫌がるし、ニンゲン自身も文明が『劣る』とされる地方の自治体にはあまり目をかけない。

混乱状態は長引けば長引くほど狩場は理想的な状況になる。武力衝突が起こればもはや隣人にかまっている余裕などなくなるし、ニンゲンに見える生命体が殺しあっていても誰も特別なこととは思わなくなるだろう。

そういう場を作ることをVOAは養殖と呼び、幾つものニンゲンの自治体渡り歩いては、争いの種を撒いて歩いているのである。

VOAの所業が明らかになった事件のことはタォヤマもよく覚えている。事件の衝撃というよりは、リュボヤに同調する宇宙生命体が少なくないことがユフ社会では特に驚きを持って受け止められていたものだ。

被害者であるにもかかわらずニンゲンへのバッシングは日に日に強まり、その流れを変えようとユフはVOAに対して非難声明を上げた。それが高度知的生命体としては最初の非難声明だった。

「前回の騒動の時にはVOAのメンバーの一斉摘発があったそうですが、いまもまだ警戒は続いていますから、反対派にはくれぐれもご注意ください。もちろん、ええ、反対意見に耳を傾けるのは大切ですけども、安全面の問題もありますし、ガイはどこへでもついていくと言っているので遠慮せずにおっしゃってください。彼は――大きいですから、なにかあった時は……」

たしかにそのとおりだ、とはじめて心からタォヤマは同意をした。ガイは大きい。筋肉のほとんどないタォヤマには理想的なボディガードである。

「そ。この俺をいつでも頼ってくれってこと。俺頼られるの好きだし、遠慮すんなよ」

「ガイ。調子に乗らないで」

早速たしなめられたガイは下唇をつきだしたが、タォヤマはほっとして首を縦に振った。ユフの中でも特に体力がなく、すぐに動けなくなるタォヤマにとってガイは本当に頼もしいパートナーだ。彼は素直に礼を言った。

「ひとまず……ええと、要望をリスト化していただけますか? こちらで精査して費用を見積もります」

「ああ、それでしたら人を呼んでおりますのでこの後ご説明しますよ。ご説明差し上げたら、ランチにもちょうどいい時間になってるんじゃないかしら……」

「それはどうも」とりあえず謝意を述べたが、あとに残る形としてなにか欲しいというのがタォヤマの本音だった。「見積もりは、そうですねぇ……ちょっと雰囲気をつかむためにこの辺を歩き回るので少しかかるかもしれませんが、一年はかからないで出せると思います」

「わかりました」

「ところで、いくつかお伺いしますけど」

えらそうに足を組んでそっくり返っているガイはそろそろ話に飽きてきたのか大きなあくびを一つした。顔には腹が減ったと書いてある。ガイのほうが表情はユフに近いらしい。

「なんでしょう」

「あの、依頼の手紙に書いてあった――」タォヤマは空中に手をつっこみ、紙を引っ張りだした。事務所に送られてきた依頼の手紙である。「これ、『裁定者』って――どういう意味ですか?」

ぱちりとパトリシアは目をしばたかせた。

「ええと――」なにか言いよどんだパトリシアは下唇をかみ、そろそろとガイに視線を送った。ガイは顎を引いてそれを受けとめ、にやりと口元を歪める。どうやら困ったときはガイに仲介をさせるのがここのやり方のようだ。

「裁定者は裁定者だよ。物事をいいものと悪いものに振り分ける役目のやつのこと。ただしニンゲンの場合は神の――」

「神?」

「全知全能の神、またはその依代あるいは代替のことを裁定者っていう。天地創造するシュルニュクは要するに『神』だってわけさ」

「へぇ」

「もともとはシュルニュクって言葉が入ってきた時に、当然だけどそんな概念、ほかの生命体にはなかっただろ。だから、『裁定者』って訳をあてがっちゃったんだろうな」

「ってことは、ニンゲンはシュルニュクを『裁定者』って呼んでるのか?」

うむ、とガイは重々しく頷いた。顔はふざけているが、パトリシアが怒り出さないところを見るとほんとうの話らしい。

「だけど第一公用語には『裁定者』って単語があるからさ、逆翻訳するとそのまんま訳される。よくあることだよ」

「なるほど、確かに」

「パトリシア――いや、ミス・ホシは作文が苦手でね。第一公用語なんて全然難しいことなんかないって言ってるんだけど聞き入れないんだ」ガイは肩をそびやかして両腕を広げた。「水が高い方から低い方に流れるのは簡単だけど、低い方から高い方に流れるのは大変……」

「ガイ。いいかげんにしなさい。あなただってバツヴァク語はからっきし書けないでしょう」

笑いながらパトリシアはガイの声を遮った。ひゅっと大きな体をちぢこめてガイは神妙な表情をとりつくろったが、ふざけている雰囲気は消し去れない。

「それから聞いた話ではメリヴォを途中まで作ってあるとのことだったので現物を見たいんですがよろしいですか? 以前に調査した部分をすでにメリヴォに入れ込んであるのなら再調査しなくてもすむものもあるかもしれないので……」

「それのことなんですけど」

ふいにパトリシアは手を頬にそわせ、背を丸めた。眉根をきゅっと寄せている。笑いのパターンではなく、どちらかと言えばその逆、心配や困惑を示す表情だ。タォヤマは少し目を細め、彼女を見返した。

「たしかに理由書にも裁定者は種を残していったって書いてあるんです。でも肝心のメリヴォがどこに、ええと、保護されているのか書いてなくて――」

保管、とガイが口を挟んだ。パトリシアは表情を変えない。

「それは困りましたね」

「ええ、そうなんです。困ってるんです」

「こちらに保管してあるのは確かですか?」

ぱちりと彼女は目を大きく見開いた。その表情に朝の幼女を思い出して、タォヤマはぎくりとしたが、彼女はなにか思案しているふうにじっとタォヤマを見つめている。

「なぁ、俺が読むか?」またガイだ。でも今回は彼のほうが正しいかもしれない。「そっちのほうが確実だろ?」そのとおりだ。

左右に眼球を動かした彼女は、身をかがめ書類の紙をめくった。そして黄変した紙片を一枚つまみ上げる。三つ折に折り目がしっかりと付き、インクがかすれ青みがかっている。

「ここか?」

「ええ」

「本契約は、下記のいずれかの条件で完了とする――一、依頼者からのキャンセルがあった場合――二、双方の合意により――ヴェシュミ・ミゼの中止を決定した場合――三、作成、された――メリヴォをスプシュトし、ヴェシュミ・ビセを行った場合――注、次回以降あたらしくメリヴォを作成する場合は旧メリヴォを返還――またはシュルニュクにより破壊すること。またキャンセルや中止の場合も旧メリヴォに同様の処置を行うこと――」

ソファにふんぞりかえったまま、ガイはもごもごと口を動かした。少し前かがみになったパトリシアはまだぱちりと目を見開いてタォヤマを見ている。しっかりそろえた膝小僧までタォヤマを見据えているようだ。

「うーん、微妙なところだな。まぁでも返還って書いてあるってことはこっちにあるんだろうなぁ」

「でも、肝心のメリヴォの場所が書いてないでしょう。他に書類があるのかしら……」

 

 

楽園へ――

指先が冷たい。眼窩の底が痛み、目を開けることがかなわない。あたりは暗く静かだが、パニックはしのびよっている。むず痒いような落ち着かない心持ちを皆が持て余しているのだ。

楽園へは――

また失敗したのだと唐突にタォヤマは悟った。

強すぎる。

顔のない男が言った。強すぎる、と。また同じことが起きる。この子は――あの男はいつもそう言うのだった、ため息をつきながら――まともに育たない。強すぎるから、と。

「彼だって『強すぎる』と言われていましたよ」

静かな、しかし怒りが含まれる低い声。

これはセブジだ。いつもはふざけたことばかりいうセブジだが、こと、この件に関してだけはいつも怒りを抑えきれないというように顎の下で手を組んで相手を睨みつける。

「育たないのは罪じゃない。育てられないのが無能なんです。彼は十分な資質があるし、まともに育ちます。なぜなら彼は」

強すぎるから。

はっとしてタォヤマは目を開いた。喉の奥に残っていた「ら」の文字が鼻から抜けていったが、幸い彼は咳き込まなかった。柔らかなベッドが彼の体を包み込んでいる。多分倒れ込むようにして寝入ってしまったのだろう、上掛けは体の下にあり、シーツは少しも乱れていなかった。空調の静かな音だけが聞こえる。

窓の端が赤紫色に染まっている。

腹に力を入れ、彼は口元を拭った。

「強すぎる」を肯定的な意味で使ったのはセブジだけだ。だからタォヤマは彼を信じることに決めた。

それでどうして今ベッドに寝転がっているのか、と彼は仰向けになったまま思案した。昼食のことは覚えている。タォヤマそっちのけではしゃいでいたガイは、タォヤマが聞く前からそこがどんな素晴らしいレストランかと熱を込めて語っていた。

だが、そうはいってもニンゲンのレストランだ。舌にあうかどうかと不安を抱えたままタォヤマは地上二一〇階にあるレストランに足を踏み入れ、そして自分の懸念が無用であることを悟ったのだった。

レストランは奈落につきだしたステージの上にあったが、そのステージ端にとりつくように大きな木が茂っている。広がった枝は、綺麗に整列したテーブルの上に木陰を作り、突風から人々を守っていた。きらめく木漏れ日が目に美しい、景観の素晴らしい居心地のいい場所だった。

ウェイターは親切で、料理は素晴らしく――しかもタォヤマのためにわざわざユフ向けの味付けに変更してくれていたことにはつくづく感服した。クリーミーな牡蠣のスープは絶品だったし、スパークリングウォーターは泡が柔らかで刺激が少なく、鮮やかな野菜は素材の味がよくわかった。ガイが楽しみにしていた肉は、味はもちろんのこと、ばつぐんに柔らかくて、口の中で溶けるように消えてしまう。控えめなソースもよかった。

はじめは固い表情を見せてメリヴォがどうの、イェナをどうするのという仕事の話ばかりしていたパトリシアもメインディッシュの頃には打ち解けて、タォヤマがグラスの中にミニチュアのイェナ市街地をスプシュトしてみせると目を丸くして驚いていた。あれはパターン驚愕。目を見開き、まゆを持ち上げて「まぁ」と発音する口。

ランチはよかった。そうだった。そこからの帰り道、ホテルまではホバークラフトを手配してもらい、もしものためにとガイがついてきて、あしたは博物館にいこうと――イェナの歴史を知っておくのが大事だとあの大袈裟な口調で熱弁していたはずだ。そしてホテルのレセプションでは――

思い出した、と彼は目を細めた。レセプションではひどい目にあった。

チェックインのためにレセプションに近づいた途端、座っていた女が悲鳴をあげてエイリアンだのなんだのとわめきはじめたせいだ。悲鳴を聞いて奥からすっ飛んできた男はなにかをかまえてタォヤマを威嚇し、フロアは騒然となった。あの場にガイがいなければ彼は怪我を負っていたかもしれないし、さらに面倒なことになったかもしれない。

ガイの強い抗議と奥から出てきた年配の男のおかげで騒ぎは収まったが、宿はかえるべきだというのがガイの意見だった。もともと長期滞在になることは見越していたので、アパートメントを用意するつもりで今手配をしているそうだが、その部屋が決まるまでの間はガイのところに滞在してもいい――が、片付けるまで一晩だけ待ってくれ。そんな最悪な体験だった。

腹が少し減っている。いや、腹の中身が足りないという感触がある。寝起きのわりに手足はちゃんと動くし、視界がぐるぐると回っていないのでまだ空腹感はないが、このままさらに眠ると腹が減りすぎて動けなくなる。そういう感じだ。それにのどが渇いている。

背腕をいっぱいに伸ばしてタォヤマは寝返りをうった。枕に顎を乗せて、あくびを一つする。

と、勢いあまって空中に突っ込んだ右背腕の第三指が熱にふれ、彼は焦って手を引っ込めた。一旦第三指をじっくりとながめ、それからもう一度仮想棚に慎重に指を突っ込む。場所からいって、メッセージがいくつか溜まっているようだ。

ユフはヴェシュミ・ビセを筆頭に空間に作用する力が強い宇宙生命体である。空間に作用するというのは空間の直交基底を自由にとって、そこから任意の空間を実際に形成することに長けている、すなわちいわゆる三次元ユークリッド空間プラス時間で表される実空間の中にn次元の任意空間を三次元空間とまったく同じように扱うことができる、という意味だ。これを応用すれば仮想的な空間をいくつも引き連れて歩くことができるし、瞬間的な移動も可能になる。

ふつう、他の種が同じことをしようと思えば、空間を計算し、最適解を三次元ユークリッド空間に射影したうえで三次元上を動く物体をトラッキングして都度計算結果をだして行動を制御せねばならない。それをするためにはなにかしらの装置が必要だし、エネルギーだって大量に消費するから高度知的生命体にでもならなければ自力で手法を開発できないだろう。だが、ユフは違う。スプシュトだってそれを応用しているだけだ。

ユフが古くから宇宙空間に進出していたのはこの性質のおかげだった。宇宙空間だろうがなんだろうがその空間を任意に捻じ曲げ遥か彼方まで一瞬で旅をすることのできる彼らにとって、距離は単なる概念上の単位だ。必要な物はいつでもそばに、そばになければ少し手を伸ばして取ればいい。

もっともみだりな空間変形は宇宙に存在する他の生命体に迷惑をかけることもあるし、少し手違いがあれば星が衝突することもあるから最新の注意を払わねばならない。なにより最近は国際的なルールがきちんと整備されつつあるので、入出星系の記録をとるために条約で宇宙空間の移動が制限されている。だが、ユフがいなければおそらくほとんどの宇宙生命体は発生した星からせいぜい星系内までしか移動ができなかったのも事実だ。

同じように空間変形に長けている宇宙生命体はもう一つ、リュボヤがあるが、彼らの場合は大掛かりな装置をつかわずに数値計算上の空間を圧縮したり拡張したりして仮想的な『仮想空間』を作っているだけだ。ニンゲンはこの技術をリュボヤから授かったらしいので、宇宙に進出した時はよくリュボヤに間違えられていたらしい。

爪の先でロックをはじき、手のひらで受け止めて〈開く〉と八件のメッセージが飛び出してくる。

青、アパートの管理会社から断水のお知らせ、次も青、賃貸契約の更新について、タォヤマは舌打ちをしてそれを赤に変えた。すっかり更新を忘れていたが、連絡をして時期の融通してもらわなければならない。次も青、セール情報、航行機の割引情報――次は黄、叔母から。開いたら飛び出してきてその辺を歩きまわりつつ支離滅裂な話をはじめるから青にしておけばいい。赤、友人から引っ越しの連絡――あとで返事をしなければならない。青、スパム。赤、セブジから。

最後のメッセージは右中腕で引き寄せ、彼は右背腕で本棚をひっかいた。

メッセージは短い。

例によって君、もしくは俺により法定保管期間を過ぎているとの理由でイェナの記録が破棄されていても、当局は一切関知しないからそのつもりで。成功を祈れ。なお、このメッセージは五秒後に自動的に消滅し、俺は資料室をひっくり返す旅に出る――

「なんだよこれは……五十年以上たってるから破棄したってことか?」特に意味のないふざけたメールだったので青。彼はため息をひとつついた。喉の渇きが強く感じられる。うまい食事だったが、肉のソースは意外と塩がきいていたのかもしれない。

窓の外は夕闇が迫っている。ホテルは地上五一階の土台から伸びるビルにあり、タォヤマの宿泊している部屋はその中腹付近である六七階、地上からはだいたい一一八階になる。見晴らしはそこそこによいが、上を仰げば雲の上にまで続く摩天楼がいくつもみえるようなところだ。今日はあまり雲が出ていないせいで、針のように細いビルの先端より更に上に紺色をていした空を仰ぐことができる。

この時間ならまだ街は活気があるだろう。ガイと連れ立って歩けばどこへ行ってもお客様気分でいいが、長期滞在になることは決まっているのだから一人で行動できるようにもならなければならない。調査のために地元の人間ともコミュニケーションをとらなければならない日が来るだろうし、翻訳機とガイに頼りっぱなしではいつまでたってもバツヴァク語を覚えられない。コミュニケーション図鑑とバツヴァク語辞典を小脇に抱えて街を少し歩いてみる訓練も必要だ。これはいい機会かもしれない。

問題は、悲鳴をあげられないかどうか――

頭をふってタォヤマはそれを追い払った。

すくなくともパトリシアやランチに行ったレストランのウェイターは彼を見て悲鳴をあげなかった。シャトルの中の事件や、レセプションでの混乱に似た騒ぎには出会うかもしれないが、それの対処だって訓練していかなければならない。セブジがわざわざタォヤマを送り出したのはそのあたりの訓練も兼ねてだろう。ヴェシュミ・ビセはニンゲンから依頼を受けることがほとんどなのだから。

恐れていては始まらないのだ。

首筋をひっかく。まだ右背腕は本棚の中にある。指をすこし動かせばコミュニケーション図鑑とバツヴァク辞書を手にとることができる。

彼は目を閉じた。そして、強すぎると声に出して言った。

 

2017年7月2日公開

作品集『ある朝の毒虫』第2話 (全12話)

© 2017 斧田小夜

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