ハムレット・リターンズ

南沢修哉

小説

6,244文字

彼は悪魔じみた罵声を浴びていた。今日まで何度となく怒鳴られてきたし、人を怒鳴りつけて言うことを聞かそうとする種類の暴力的なやり方について彼はそれなりに理解しているつもりだった。あるいは自分の頭の悪さを隠すために怒鳴っているようにも見えたが、その男の目には彼が自分を見下しているように映ったのかもしれない。現実に彼は相手の言うことに従っているふうを装いつつ、隙を見て逃げようとしていた。いままで彼を怒鳴りつけゴミ扱いしてきたゴミどもの中でも群を抜いて頭が弱そうに見えるその男は、同時に何かの違法薬物の効能でおかしな目つきをしているようでもあった。いままで狂った酔っぱらいを何人も見てきたが、その男はアルコールのせいでそういうふうになっているわけでもなさそうだった。現実に男からは酒の臭いがそれほどしなかった。シンプルに口が臭かった。目が異常に血走っていた。血の海に眼球がぷかぷかと浮かんでいると言ってもよいだろう。彼が怖れていたのは、得体の知れぬこの口臭王がいつ暴発するのかというただ一点にあった。殴られたり蹴られたりしても大して痛くないだろう。見るからに弱そうな、みじめな小男だった。危険ドラッグを摂取してイキっている雑魚にありがちな虚勢の張り方だと一目でわかった。彼はそのようにして心の中で相手を見下し、そうした内的冷笑が相手に伝わり、結果として挑発行為になっていた。さきほどからバカ呼ばわりされているのは彼のほうなのに、人にバカと言えば言うほどあきらかに自分のほうがバカになってゆく皮肉な構図を男は理解していなかった。自分で自分をバカにしておきながら、そのからくりに気づかず、ひたすらキレつづけていた。自分の愚かさに苛立ち、どうにかそれを彼のせいにしようとしてエラー音を浴びつづけていた。男が拳銃を持っていたらと思うと、それなりの恐怖を与え得るものだなと彼は思った。いくら弱そうな男でも、銃を使えば戦闘力は文学的表現に値するだろう。撃たれれば終わりだ。男はうねうねして反吐のカスみたいなものがこびりついたマンバ色のズボンからフリントロック式の銃を取り出し、震えた声で弱々しい脅し文句を叫んでいた。彼は相変わらず男の望む態度をとらず冷笑的にふるまっていた。男は撃った。彼の腹に銃弾があたった。呻いてうずくまった。うずくまってなお呻き、のたうちまった。すぐ目の前に交番があった。銃声を聞いた警官が二人のほうを見ていた。あたりをキョロキョロ見まわしていた。持ち場を離れるべきかどうか迷った末、ようやく邪念なく彼らのほうへ歩いてやってきた。男は銃を持ったままその場に立ち尽くしていた。足がすくんで動けないようだった。血を流し、うずくまっている彼に気づいた警官は、純粋にハードボイルド的瞬間の到来に酔いつつ、男に銃を向けた。大声を発し、相手を気迫でやりこめようとしていた。男は臆し、警官を銃で撃った。銃弾は眉間にあたった。弾は頭の中で炸裂し、頭の上半分が吹き飛んだ。男は鎖の模様の派手なハンカチで額の脂汗をぬぐった。警官は男を取り押さえようとした。男は銃の引き金を引いたが、弾が出なかった。何度か同じ動作をくり返したが、カチッ、カチッ、という下肢矯正具の軋むような音を虚しく発するだけだった。男はすでに警官によって羽交い締めにされていた。醜い獣のような咆哮を轟かせ、大量の泡を吹いた。ヤクで目がいっていた。ものすごい臭気を発した。瞳孔が開き、眼球が飛び出しかけていた。警官は指で男の左の眼球をえぐりとり、空っぽになった眼窩にくちびるを押しあて、脳髄をじゅるるるると吸い出した。吸いとった脳髄をごくごくと飲んだ。次第に警官は巨大な蟹の姿に変わっていった。硬く尖った殻が制服の生地を内側から引き裂いた。警官は刃渡り二尺のハサミで男の首を切断した。首が地面を転がった。小さいほうのハサミでそれを拾いあげると、頑丈な顎で噛み砕いた。通りすがりの読モ風の女が悲鳴をあげた。警官は尖った金属の触覚のようなものを自在に動かし、女の眼球を串刺しにして殺した。口からストロー状の管を伸ばし、死んだ女の脳髄を吸いとった。干からびて死んだ蜥蜴のような肉体がスパンコールの衣類をすり抜けて地面に落ちていった。警官の肉体は脳髄液でぱんぱんに膨らんでいった。心臓が膨らんでいった。心臓と同時に交番の建物が爆発した。桜のエンブレムが婦人警官に突き刺さって死んだ。事前に犯行予告はなかった。シェルのタンクローリーが交番に突っ込んだ。爆風で似非文化人のアデランスが吹き飛んだ。近くの家屋や街路樹が燃えはじめた。パニックを起こした都民が次々と爆死していった。逃げろ! 爆発するぞ! と、ツー・ポイントの眼鏡をかけた小学生が叫んだ。激昂した全身黒タイツの文明評論家が小学生を捕らえ、首を締めあげた。ゴキッという嫌な音がした。首の骨が折れたのだ。小学生は蟹のように泡を吹いて死んだ。臭気を発した。五分後に甦った。その肉体に魂はなかった。ランドセルにダイナマイトを詰め込んだ同級生の子供たちが、報復として交番に突入し爆死していった。ゾンビが街を徘徊しはじめた。街がゾンビを徘徊しはじめた。ゾンビ・ウイルスは性行為で感染し、アナル・セックスでは感染率が十倍になるとの研究レポートが発表された。暴徒化した愛国主義者たちがゲイ狩り(捕ゲイ)をはじめた。捕獲されたゲイは生殖器を切断され、押上スカイツリーに磔にされ火刑に処された。殺されたゲイの亡霊は都営浅草線本所吾妻橋駅前から徒歩五分のおんぼろアパートに住みついていた。大家のハムレットが亡霊から家賃をとるために幽霊屋敷の出演契約を交わした矢先の出来事だった。下町ではゾンビと亡霊の最終戦争がはじまっていた。企業ヤクザがアパートに怒鳴り込んできた。黄色のランボルギーニから降りてきた資本主義の豚はベンジャミン・フランクリンが何人も描かれたみっともない総柄のパンツを履いていた。彼はゲイ容疑で任侠団体に狙われていた。任侠団体はゲイのペニスにかけられた懸賞金が目当てだった。というのも肛門法が施行されていたからである。排便と放屁以外の目的で肛門を用いた者を死刑にする法律だ。三ツ目通りは亡霊たちのどろどろしたピンク色の体液で脱水症状を起こしていた。トースターの電線が絡みついて感電死した通行人が蟹のように泡を吹いて倒れており、どれもゾンビになるまで秒読みだった。ゲイの脂で燃えさかる押上スカイツリーは超高周波帯の電磁波を発していた。日本中のTVがいっせいにピカッと輝き、直後に爆発した。多くの人が爆発の衝撃に巻き込まれて生命を落とし、ゾンビとなって交尾と繁殖をくり返した。かろうじて死を免れた人も、しばらくするとすべての髪が抜け落ち、血を吐き、青ざめて死んでいった。しばらくするとゾンビとなって甦った。電磁波の芳香に誘われた巨大な爬虫類の祟り神が東京湾から芝浦に上陸した。その鳴き声はまるで松脂を塗った革の手袋でウッドベースの弦をつかみ、ゆっくりとグリッサンドしたようなものだった。最初の祟り神はB-29による東京大空襲と同じルートで意気揚々と街を蹂躙していった。二柱目は品川から五反田方面へ向かい、鉄道や電線を喰いながら山手線を一周した。やがて何百柱という数の祟り神がやってきて代々木公園、明治神宮、新宿御苑、皇居、赤坂御用地などに住みつき、禍々しい斑色の卵を大量に産みつけた。孵化してまもなく共喰いをはじめた。生き残った祟り神はゾンビを餌にし、ある者は腐れ神に姿を変えていった。ゾンビとなった天皇一家は祟り神に喰われ、黒松林と広大な緑の芝生の肥やしとなった。そこに足を踏み入れて生きて帰った者は一人もいないと言う。現人神を喰い殺した祟り神は神を超える神となり、全宇宙を支配した。悪に寝返ったランプの魔神がアグラバーの宮殿を切り立った崖の上に移すかのように、神々は日本中の原発を東京にかきあつめ、バカンス気分で放射線浴をはじめた。プルトニウムは祟り神の栄養源だった。自衛隊によるミサイル攻撃に逆上した祟り神は放射能汚染されたヘドロを口から吐き、行く先々で有毒なピンク色の糞尿を撒き散らした。すさまじい臭気が東京を襲った。ハロウィンの仮装行列でにぎわう渋谷や六本木はゴミとゾンビと亡霊たちですっかり埋もれてしまった。地面からわずかに突出しているオレンジ色の物体が東京タワーの頂であることに気づく者は一人もいなかった。荒廃した街の表面を警官たちが機敏な横歩きで移動し、全身を痙攣させ、シェービング・クリームのようにぬらぬらした白い泡を五百ガロン以上吹きこぼしながら爆死した。ゾンビと人間の共生、共存共栄、同和政策を唱える政治家は、暴徒化した愛国主義者に捕まり、ゾンビの巣窟に放り込まれて喰い殺された。生き残った人間たちは将門のカタコンベを魔改造した巨大なジオフロントに暮らしていた。食料を調達するために数名が地上に出ると、班員の中から必ず犠牲者が出た。実際にゾンビに襲われて死んだのは最初の数名だけだった。あとは地上に出た際に仲間から襲われて喰い殺されていた。飢えた人間は自ら食料調達班に志願し、地上に出て仲間の肉を貪った。同胞殺しと食人の現状を知るのは食料調達班だけなので、地下から出ない女子供は自分たちの食べている肉が食人行為のおこぼれである事実に気づいていなかった。やがてこの哀れな蟄居人たちはクロイツフェルト・ヤコブ病にかかって死んでいった。ゾンビたちは深い穴を掘って餌場をつくり、一度に喰いきれない人間をそこに監禁、貯蔵した。餌となる人間が逃げないようにするため、見張り役を設けた。彼らは互いに意思疎通を図るため、言語を獲得した。文字を発明した。ゾンビたちは文明を築きつつあった。彼らの圧倒的なコミュニケーション・サベイランスに人類はなす術がなかった。亡霊たちはゾンビを葬らない限り永遠にこの世を彷徨いつづける運命にあることを知っていた。現代のウォーデンクリフ塔とも言うべき押上スカイツリーが高い周波数帯の電磁波を発しているおかげで亡霊たちのアストラル体は皮肉にも安定して現世に留まっていた。たとえアストラル体が消滅したとしてもゾンビとして肉体が残っている限り、亡霊はどこかの周波数帯に存在を隠し、現世に影響を及ぼしつづけるのだ。亡霊たちの残留思念が自然界を狂わせ、地球上のありとあらゆる異常気象を引き起こしていた。地震、雷、火事、ハムレット……。祟り神は亡霊たちのアストラル体の集合が具現化された存在でもあった。彼らが安らかに霊界へ行くために残された道は祟り神を通じてゾンビを殲滅することだけだった。祟り神はゾンビを喰いつづけた。一日におよそ二百匹のペースでゾンビを捕食した。死体の繁殖力はそれを凌駕していた。人間の死体をゾンビ化させるだけでは飽き足りず、彼らは死を通して肉体をオーギュメントしていたのだ。そのため亡霊たちの宿っていた肉体はすでに消滅しているにもかかわらず、彼らの御霊は依然としてこの世を彷徨っていた。ゾンビ化したハムレットは悩んでいた。生きるべきか死ぬべきか、自分はこのままシェイクスピア・オブ・ザ・デッドの実演販売に加担せざるを得ないお買い物中毒な客体としてショッピング・モールを独白しつづけるのだろうか――自分は誰からも必要とされない人間になった、やはり自分は誰からも必要とされない人間になってしまったのだ、それは厳然たる事実で、この先どう転んだところで変わることはない、ハムレットという人間が完全に終わっているという事実を受け入れるにはそれなりに時間がかかりそうだ、それを受け入れたとき、自分は晴れて死ぬことをゆるされる、いまさら何をやっても無駄であり、こんなところで、こんなことをやっている時点で、読者は自分のことを若きウェルテルと並ぶ古典的なメンヘラとしか看做さないだろう、こうなってしまったのもすべて自分が人間関係を大切にしてこなかったのが原因だということもわかっている、何かショッキングな出来事が起こったとき、すべてに及んで嫌気が差し、狂人を演じ、無関係な人まで傷つけるような投げやりな言葉を吐いてしまう。読者はそんなハムレット氏の自己中心的でイカスミ・パスタに報いるような態度をいちいち考慮しないだろう。コリドー街の噴水広場で溺死したオフィーリアはハムレット大公への復讐を誓い、空手遣いの武闘派ゾンビとなって甦った。ハムレットは二頭立ての無蓋馬車に恋人オフィーリアを乗せ、駿馬の尻に茨の鞭をぶちかました。馬車がクローディアス城に向かう道すがら、オフィーリアはハムレットの後頭部に強烈な正拳突きを見舞った。イヤーッ! 拳が頭蓋骨を突き破り、そのまま眉間の先へ飛び出した。腐った脳味噌が飛び散り、エルシノア大通りを猛スピードで走りつづける馬車の座席から首なし死体が転げ落ちた。すぐさま祟り神がやってきてハムレットの死体を骨ごと平らげた。男の悪魔じみた罵声はつづいていた。彼は悩んでいた。警官の道案内にかぶさる男の高脂血症的物言いにうんざりしていた。彼は日曜日に歩行者天国となる銀座の街に立ち尽くし、自分のありふれた境遇を怨みつづける以外に何もできない自分をそこで怨んでいた。鳴りやまぬ罵声に対し憤る気力も徐々に削がれていった。男の途轍もなく不快な息の臭さに抵抗する術がないことをただただ悔やみ、それすらもあきらめようとしていた。あきらめて、一刻も早くここから立ち去ることを考えていた。ある意味で、それは最も賢い選択と言えなくもなかった。少なくとも彼の境遇において講じることができる策の中では最良なものだった。が、男はそれをゆるさないだろう。それを簡単にゆるしてくれる相手なら彼の思考がここまで泡立つこともなかっただろう。彼は男の愚かさに徹底的につけ込もうと考えた。彼は、自分の隣にぴったりとついて離れようとしない口臭王を、ビルとビルのあいだの隘路におびき寄せた。罵声に耳を貸すふりをしながら、隙を見て男の尻にナイキのつま先をぶち込んだ。男は倒れたが、ドカタ特有の無駄にハイスペックな体力ゆえにすぐに立ちあがることが可能だった。彼も足の速さには自信があった――とりわけ逃げ足には。男は暴力的な大声を発しながら追いかけてきた。彼は歩行者天国の雑踏を全速力で走り抜け、新橋方面に向かった。男を巻くのは簡単だった。身の安全を確信するや否や、彼の心は達成感の片隅にこびりつく悪性腫瘍のような虚しい気持ちに覆われはじめた。まるで他人の間抜け面を題材にするしか能がない小説家のようにみじめな気分だった。彼は呼吸を落ち着かせ、持ち場に戻った。そこに彼の居場所はなかった。彼と同じ人間が、彼のために設けられたささやかな聖地を埋め尽くしていたのだ。しばらく周縁を歩き、自分と同じ人間が消え去るのを待ってみたが、いくら待っても消え去ることはなかった。彼らのうちの誰か一人が消えても、すぐさま自分ではない別の自分がそこに入り込み、彼は、相変わらずその周縁を彷徨いつづけるしかなかった。やがて歩くのにも疲れ、照り返す白い舗装道路の上に立ち止まった。いったん歩くのをやめると、二度と歩く気がしなくなった。両脚は地面に吸着し、彼は、エボナイトの首軸を握りしめながらそこで死んでいった。

2017年6月11日公開

© 2017 南沢修哉

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