鳥と惣菜と私

応募作品

谷田七重

小説

4,105文字

合評会応募作です。誰が「酒と不倫」なんてテーマ考えたんでしょうか。作風が崩壊しちゃったじゃないですか。

 今朝も、その一角に足を踏み入れる。上は見ない。通勤中の人たちは皆ここで頭上を確認しながら歩いていくが、私は見ない。これは毎朝の儀式のようなものなのだ。
 颯爽と風を切り、取り澄まして歩きながらも、いつ落下してくるか知れない「それ」の気配にはいつもヒヤヒヤさせられる。この町に越してきた当初は、駅へ向かうのにどうしても避けられないこの道に、こんな呪わしいスポットがあるという事実を受け入れることができなかった。二階のやたら広いベランダで彼らを餌付けしているらしい文具店の主に殺意さえ覚えた。しかし物は考えようだ。ちょっとした発想の転換で物事は劇的に変わったりもする。たぶん。
 ということで、私は決めた。何なら頭上を確認することもやめてやる。もし一発かまされたらその時こそ文具店に火をつけてやる。そうして私は毎朝の苦行を少しでも胸躍る楽しいものにするべく、その新しい習慣に名前をつけた。鳥の糞占い。
 そのスポットを通り過ぎると、私は足を止めないまま後方上空をちらりと振り返る。文具店の前を走る電線は無数の鳩やら雀やらの重みで撓みきっていて、鳥たちはちゅんとも言わずに真顔で朝ご飯が出されるのを待っている。なんて可愛げのない、なんて甘ったれた奴ら。
 ともあれ今日もなんとか無事に鳥の糞占いを終えることができた。きっと良い一日になるに違いない。と思ったら大間違いだった。
 お尻にごりっとしたものが当たっている。
 満員の通勤電車で、私は見知らぬ男に勃起したモノを押し付けられている!……私の脳みそは瞬時にくるくると回転を始めた。
 最後に痴漢に遭ったのはいつだっけ。高校生の頃だ。しかしどうして大学に入ってからは全く痴漢に遭わなくなったんだろう。それはただ単に制服のためだったのかもしれない。制服を着なくなった私は用済みということだったのかもしれない。アラーキーか誰かが言っていた。「制服は聖衣=性衣」……
 私は、痴漢に遭った女性が反射的に催すはずの不快感よりも、このようなくだらない内省が先立ったことに腹を立てた。
 腹いせに、私のお尻に固いモノを押し当てている男の顔を見てやろうと思い切り首をよじった。すると、なんだかもう朝から疲れきってくたびれきっているような、何度も洗濯してよれよれになったユニクロのトランクスみたいな顔をした背後の男は、眼球をそろりと動かして視線を外した。その両手は降伏のポーズ。「私は触っていません」という噴飯モノの自己主張。それにも関らず周囲からの重圧でますます固くなったモノは私のお尻にぐいぐいと密着して離れない。
「違うんです」と、その男の泳いだ目は語る。「こうなりたくてなったんじゃありません、押しつけたくて押しつけているんじゃないんです」
 ……不可抗力。私は怒りの方向性を見失った。それでも電車は走り続けていた。
 
「でもさ、それってやっぱ失礼だと思わない?」
 夕食後、缶ビールを呷りながら私は夫に言った。
「好きこのんでやってるわけじゃないにせよ、どうせ結果として痴漢行為をしてるなら、何ていうの、もっとハアハアしてたっていいじゃない」
 夫は柿の種を小動物のようにぽりぽりと齧りながら言った。
「まったく女ってのは勝手なもんだね」
「そうよ、勝手よ」
 私はビールの残りをぐいっと飲み干し、ふうーと大きく息をついた。スーパーで買って帰った惣菜の空容器にはべっとりと油がこびりついていて、情緒もへったくれもない蛍光灯の光をてらてらと照り返している。惣菜が入っていたプラスチックの空容器を眺めているといつも悲しくなる。せめてお皿に移し替えれば良かった。出来合いの、そこら辺にある適当なもので空腹を満たそうとする自分。それは人生でも同じかもしれない。
 そんな自分のとりとめもない考えに傷つきながら、私は夫が沈黙を埋めてくれるのを待った。しかし夫は柿の種の中からピーナッツをほじくり出しては嬉しそうに前歯で砕いているだけだった。
「せっかくいつも鳥の糞占いに成功したって、毎日毎日ろくでもないことばかりなんだから」
 仕方なく私がため息混じりに言うと、夫は一瞬ぴたっと動きを止め、私の顔を上目遣いでちらりと見た。
「どうしたの?」と私が聞くと、「なんでもないよ」とまたピーナッツをほじくりにかかる。私は蔑むように平たい目で鼻から息を出した。
 その夜、久しぶりに夫が求めてきた。
「今日は大丈夫なの?」と私が聞くと、「たぶん」
 私のパジャマを脱がしながら、「本当は久しぶりに痴漢に遭って嬉しかったんじゃないの?」と夫は言った。
「あれ、妬いてるの?」
 痴漢、それも意思なき情けない痴漢に妬くなんて。可愛い人。私も久しぶりにその気になって、夫の頭を抱きしめた。
 しかし、やはり「いざ」という段になって、夫の情けないため息が聞こえた。私はがばっと身を起こし、申し訳なさそうに頭を垂れている夫のモノをつくづくと眺めた。こういう時は励ましたりしてもしょうがない。私は笑った。夫も笑った。
 翌朝も夫は会社に向かうのだが、私はサービス業なので平日でも休みだった。
 朝ご飯もそこそこに慌ただしく支度を終えた夫に生ゴミを持たせ、玄関口で「いってらっしゃい」と送り出そうとすると、それまでばたばたしていた夫はいきなりこちらに向き直った。
「何?」と聞くと、夫はもごもごした声で「昨日まで着てた背広、そろそろクリーニングに出しておいて」とだけ言って、逃げるように速足で出て行ってしまった。
 寝室に行くと、壁に背広が掛けてあった。背中側を見てみると、思った通り白い鳥の糞がこびりついていた。
 私は猛烈に洗った。排水管がひっきりなしに苦しげな音を立てるのにも構わず、水道の水圧をフルにしたまま石鹸を丸ごと布地にすり込む勢いで擦りまくった。あのままクリーニングに出せっていうの? バカ! クリーニング屋のおばさんに笑われるのは私なのよ!
 青空の下、ベランダで風にそよぐ背広をぼんやり眺めていると、なんだかどうしようもなく全てがやるせなくなった。
 
 暗いリビングのソファに凭れ掛かった私は、いつもは大事に飲んでいるウイスキーをストレートで鯨飲していた。夫は私がベッドから抜け出したのにも気づかないまま、口を開けて寝てるんだろう。
 夫とは学生の時に知り合った。初めてできた彼氏、のような男に散々もてあそばれて数か月で捨てられた私を慰めてくれて、今の姿からは想像もつかないような男気で私を救い上げてくれた。それからもう十年以上経った。その間に私たちは結婚し、夫はお酒が飲めなくなり、EDになり、私はどんどん可愛げがなくなり、いつの間にかトランタンを越えた。そして今夜、鳥の糞をめぐって喧嘩した。いや、喧嘩というよりは私が一方的に怒った。言い返すでもなくしょげていじけた夫の態度が、私をさらにいら立たせた。
 私自身も、そして周りを取り囲むものもすべてが変わってしまった。そんな中で、唯一信じられるものといったらお酒だけだ、と酔いの中で思う。確かにウイスキーは信用できる。確実に酔わせてくれるから。あんなしょうもないことで怒りを爆発させた私をもやさしく慰撫してくれるから。
 せめて夫が今でもお酒を飲めたらな、と思う。同じウイスキーを飲んで、一緒に酔うことができれば、私もちょっとは素直になれるかもしれない。少しは可愛げを取り戻すことができるかもしれない、でも。でも、もうそんなことは起こりそうにない。ずっとこのまま、今よりさらに可愛げがなくなって、女ですらなくなってしまうんだろうか。いやだなあ、いやだなあとウイスキーを呷っているうちに、ソファの上で眠ってしまった。夢をみた。
 私はどこかの居酒屋のカウンターで、自分の顔ほどの大きさの鶏もも肉ローストにかぶりついていた。ラピュタの女空賊ドーラみたいな食べっぷりだ。日ごろの鳥たちへの恨みを晴らすかのように、かぶりついては食いちぎって、ろくに咀嚼もしないままビールで流し込む、それを繰り返している。傍から見たらおぞましい光景だ。でもそんなことに構わず、がむしゃらに鶏肉を喰らっている。
 いつの間にか左隣に誰かが座っている。口の周りをべとべとにした私の顔を無遠慮に覗き込んできたその男は、あの男だ。夫と付き合う前、私を捨てたあの男だ。微笑んでいる。憎いはずの男なのに、私は羞恥を感じて慌てておしぼりを掴み、口を拭った。
 男性に対して羞恥を感じる、ということそのものがずいぶん久しぶりな気がして、私はそのまま目を伏せた。
「恥ずかしいの? かわいいね」
 そう言って男は私の左手を握り、小指で結婚指輪をなぞった。
 うわあ、と声には出さなかったものの、私は強烈な嫌悪感をもよおした。男のてのひらは何故だかヌチャァと湿っていて、もう変態的な気持ち悪さだった。たぶんあれだ、また一度でも身体をゆるしたら、阿部和重の小説に出てくる奴みたいにコカコーラの瓶を倒さないようにオナニーしろとか言い出すレベルの変態になってる多分この人。
 実行力のある性欲を露わにしたこの変態が怖くなって、私は大声で久しぶりに夫の名を呼びながら目を覚ました。まだ暗かった。
 寝室に行くと、夫は身体を起こしていた。
「どうしたの?」
 私は応えないまま、酔いにもつれた足をベッドにかけようとしてよろめいた。
「大丈夫?」
「うん」
 なんとかベッドに上がった私は、ふたたび寝ころんだ夫の股間に頭を埋め、丸くなった。
「キンタマクラ?」
「うん」
「どうしたの、おとなしい猫みたいになっちゃって」
 夫の声を最後まで聞かず、私は今度こそ安心してすやすやと眠った。
 
「え、今夜は手作りのご飯が食べられるの?」
「そう。何がいい?」
「カレーライス!」
 今朝も無事に鳥の糞占いを終えた私は、歩きながら考える。玉ねぎは冷蔵庫にある。仕事が終わったらジャガイモとニンジンとお肉、カレールーを買って帰ろう。いつになく晴れやかな気持ちで、駅へと向かっていった。

2017年4月19日公開

© 2017 谷田七重

これはの応募作品です。
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"鳥と惣菜と私"へのコメント 4

  • 投稿者 | 2017-04-23 16:33

    どこにでもありそうな、そしてリアルな心理描写の作品で気づくと読み終えていました。
    不可抗力とはいえ痴漢をしてしまった男に悲鳴を上げない女性の優しさが印象的でした。不倫の捉え方もありだと思います。この話の主役のような優しい女性ならEDになっても怖くないなんてつい思ってしまいました。
    彼女の周りには日常的で些細な幸せに溢れていると思います。

  • 投稿者 | 2017-04-25 07:20

    この物語の主人公は、フロイト心理学における精神構造の三要素の一つ「超自我」に相当するのだと思われる。超自我は理性によって欲望を抑えつけ、自我をコントロールする。意図せずして勃起した電車内の男性のペニスに対して主人公が冷静な内省で反応する場面は、彼女の理性を強調している。

    夫が酒を飲めなくなり、EDになったのは、もちろん超自我である主人公が彼を抑圧しているためだ。性と夫が結びつくことを無意識の中で許していない彼女は、夫のスーツについた鳥の糞に対して異常なまでに激昂する。それは鳥の糞の色や形状が精液を連想させるからに他ならない。しかし主人公は自分が夫を抑圧していることを意識の上では否認しているので、スーツをめぐる夫婦の口論の場面が一行空きによってばっさり省略される。

    夢の場面に登場する昔の男は「実行力のある性欲」を体現し、主人公にとっての脅威である。フロイトの言葉を借りるなら、彼は「イド」だ。彼の脅威に対する主人公の反応は、夫の股間(=リビドー)の上に彼女の頭(=理性)が載るという抑圧のイメージによって象徴的に描かれる。

    つい深読みをしたくなる面白い作品だ。すばらしい! さらに夫がEDを発症するきっかけとなった事件を間接的にでも盛り込むことができれば、夫婦の関係をもっと強烈に読者に印象づけることができると思う。

  • 投稿者 | 2017-04-25 23:10

    さすが言いだしっぺである。不倫、酒、全部が綺麗に組み込まれている。不倫と言うと「破滅」的雰囲気を感じることもあり、事実俺含めてそう言う作品もあるが、この作品はそのように終わらず再び平穏な日々が始まる。見習いたい。それにしても本当に俺だけハンデが大きすぎる。俺ももっと酒を飲まなければ。

  • 編集長 | 2017-04-27 18:32

    前半は自然な導入から、家庭環境の説明パートもこなれた表現だった。筆者の実力の工場を感じる。夢オチだったが、それほど気にならなかった。が、「酒と不倫」というテーマなのだから、変な表現だが、ちゃんと不倫してほしかった。

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