私はいつだってどこかへ行きたかった。行けると信じていた。自分が今どこに在るのか、そしてどこへ行きたいのかもわからないままで。
***
学生時代の友人と久しぶりに会うと、必ずといっていいほど卒論の苦労話で盛り上がる。「追われすぎでマジ死ぬかと思った」とか、「一生分の文章を書いたような気がする」とか。
金曜の夜、新宿。一年ぶりに会った香苗と私は、辛うじて個室があるということだけが売り、という感じの居酒屋でまた卒論の思い出話に花を咲かせていた。もう三十二になった私たちには、それくらいしか対等に共有できる話題などなくなってしまったのかもしれない、と思いながら、私は用意していたネタを話し始めた。
「そういえばさ、こないだ久しぶりに自分の卒論を読み返してみたんだ」
お、どうだったよ久しぶりに読んでみて、と返してくれる香苗に、私は目を伏せて苦笑いをしながら灰皿にタバコを入念に押し付けた。
「いやー、妄想まっしぐらなのは昔から変わんないなあ、てね。とにかく自分の解釈をいかに正当化するかに必死! みたいな」
私たちは大学で西洋美術史学を専攻していた。好きな画家、絵画、それに関する論文を書いたのだった。私は当時傾倒していた世紀末美術、後期ラファエル前派の画家として有名なエドワード・バーン=ジョーンズの作品について書いた。象徴主義にも影響を与えた後期ラファエル前派のこの画家を、唯美主義的側面から切り込んでいった。
「『眠り』、だっけ」
「そう」
象徴主義の画家たちは眠りによって厭世から逃れ、彼岸へと向かおうとする女性像を数多く描いた。時に眠りは死とも混同され、例えば後期のルドンが描いた《オフィーリア》の作品群もこれを如実に示している。
私は続けた。
「在学のいちばん最後にさ、『卒論を書いて感じたこと』ていうレポートも書いたじゃん。私さ、学生の頃バイト先で専攻を訊かれて『美術史学です』て答えたら『そんなの何の役にも立たないじゃん』、て笑われたことがあったのね。それをレポートにしたためて『悔しかった』てキレ気味に書いたら、返却されたレポートに先生が直筆で『何の役にも立たないものこそ、心を豊かにしてくれるはずです』とかコメントくれたの、嬉しかったなあ」
何の役にも立たないものこそ、心を豊かにしてくれるはずです。――先生、何の役にも立たないものばかり持て余して、自分までも持て余すようになってしまいました。
「それにしてもさ、あんたほんとに丸くなったよねえ。学生の頃は触ったら怪我しそう、て感じのナイフみたいな尖った性格だったのに」
私は大仰におどけた表情を作ってみせる。
「そりゃああれからもう十年経つもん、少しは大人になったのかもね。ま、いまだに独身フリーターなわけですが」
自分の言葉を笑い飛ばして、ジョッキに残っていたビールを飲み干し、おかわりを頼んだ。またタバコに火を点け、煙を深々と吸い込む。
バーン=ジョーンズには有名な戯画がある。何かに煩悶し、頭を掻きむしり、自分が描いている途中の作品に目を止める。《眠り姫》だ。自棄になった画家はその中に入り込もうとするも、カンヴァスを突き破っただけで、へたり込んでしまう。これらは五コマで描かれている。
***
私はいつだってどこかへ行きたかった。行けると信じていた。自分が今どこに在るのか、そしてどこへ行きたいのかもわからないままで。それがいつの間にか、自分が自分である限り、どこへも行けないということに気づいたのかもしれない。それでこうして、「丸くなった」表情でヘラヘラと喋りたてているのかもしれない。
***
「それにしてもさ、ここ最近、象徴主義とか唯美主義の展覧会増えたよね。同時代の印象派は変わらず人気あるけどさ。何なんだろうねこの現象」
そうだねえ、と香苗もタバコに火を点けた。
「なんか、もう皆イヤになってんじゃないの?」
なんだそれ、と私は笑った。同時に、二年前に結婚した香苗――それでも現役のバリキャリだ――があまり結婚生活について話さないことに思い当たった。私に遠慮しているのかな、とも思った。かといって、聞き出そうとも思わないのだけど。
「まあさ、夜寝るわけじゃん」
香苗は続けた。
「でもさ、夢をみたところで朝になったら目を覚ますわけじゃん」
「うん」
「いや、それだけなんだけど」
「何もう酔っぱらってんの?」
茶化したものの、私自身も幾度となく思ってきたことだった。それでもまともな対話を避けるのは、大人になってしまったからだろうか。大人になんかなりたくないのに。大人にも子どもにもなれないのに。
バーン=ジョーンズは、当時再評価が高まったルネサンスの巨匠ミケランジェロに多大な影響を受けている。ミケランジェロが自作の彫刻《ノッテ》に寄せて書いた詩も、十九世紀末のイギリスで流行した。
快きかな、この眠り。
なお楽しきは、恥、災いの多き世に、石なるわが身。
……起こし給うな、わが友よ、低声に語れ。
「ねえ、今でも先生は映写機使って講義してんのかな」
「ああ、それ気になる」
日本美術史学にはパワーポイントを駆使して講義をする教授もいたが、西洋美術史学では教授も講師も年季の入った旧式のスライド映写機を使っていた。アシスタントがガシャンとボタンを押すごとに、代わるがわるスクリーンに大きく映し出された絵画たち。広く薄暗い教室の中、マイクで拡声された教授の講義と、映写機のボタンの音だけがこだまする。私たちは睡魔と戦いながらノートをとり、目をしばたたいてスクリーンを見つめていた。
「演習の個人発表で作ったスライドもこないだ出てきたよ」
ああ、と香苗はまた目を細めた。
「あれは捨てらんないよね」
演習での個人発表のため、研究室にこもり、画集を開いては発表に使う絵画たちをカメラで接写した。それをリバーサル現像し、ハサミで切り離し、三十五㎜のプラスチックマウントに挟む。そうすれば、映写機でスクリーンに映すことができる。
スライドがこないだ出てきた、と言ったのは小さな嘘だ。まとめて箱に入れ、自室の机の近くに置いてある。天気のいい日など、思い立つと一枚一枚を陽にかざし、顔を近づけてゆっくりと眺める。画集を開くよりもこうしてスライドを見ることの方が多い。もちろん私の撮影は下手くそで、しょっちゅう歪んでいたりする。それでも私は窓にかざし、のぞき込む。次々と色彩を変える万華鏡に憑かれてしまったみたいに。その向こうに、いったい何があるというんだろう。
それにしても、どうして咄嗟にこんな些細な嘘をついたのか。
「スライド映写機ってさ、昔は幻灯機って呼ばれてたらしいよ」
唐突な香苗の言葉に、私は耳慣れない単語を繰り返した。
「げんとうき?」
「そう、幻の灯りの機械」
「ああ、幻灯機! なるほど、知らなかった。いいね、雰囲気でてるね」
どうしてこんなつまらない言葉しか返せないんだろう。香苗とは学生時代、何時間でも美術のことについて話していられたのに。それなのに、何かを避けるように、当たりさわりのない会話しかできない。
「私ね、自分が撮ったスライド写真たちに火をつけて、その煙で死にたいってよく思ってたな」
なんて、言えるわけない。いい歳になって、そんな甘ったるいこと言えるわけない。大人になったから? 大人にも子どもにもなれないのに?
「私さ、Facebookやってるんだけど」
香苗が灰皿に灰を落としながら言った。
「どこどこの美術展に行ってきました! みたいな投稿があると、無性に腹が立ってくるんだよね」
指に挟んだタバコの火口を見つめながら、香苗は続けた。
「気になる美術展とかあっても、まあいっか、て。行く気がなかなか起きないんだ。そのくせ他の人が行ったら行ったで、ムカついてくるんだよ。どうしてかな」
どう受け止めれば、どう返せばいいのかわからない。もう私たちは学生じゃない。
「私も行かなくなっちゃったなあ、なんでだろ」
私も私で、立ち上るタバコの煙を見るともなく見ていた。
そう、当たりさわりのないことしか言えない。でも、それでいいんだろうか。香苗がわずかな突破口を開いてくれたかもしれないのに?
香苗はタバコの火口を見つめ、私は煙に視線をさまよわせている。ふたりの煙が混ざり合おうと、もう自分たちが本音で話し合うことはないかもしれない、と思う。視線が交わろうと、お互いを心底理解することはできないだろう、と思う。
「今日のあんたさ、学生の頃から見てきた中でいちばん朗らかな顔してるね、安心したよ。新しい彼氏でもできた?」
思わず私は吹き出した。
「ないない。もう一年も男っ気なし。妙齢の婦人なのにねえ、まったく。困っちゃったな」
***
私はいつだってどこかへ行きたかった。行けると信じていた。自分が今どこに在るのか、そしてどこへ行きたいのかもわからないままで。それがいつの間にか、自分が自分である限り、どこへも行けないということに気づいたのかもしれない。それでこうして、「丸くなった」表情でヘラヘラと喋りたてているのかもしれない。
核心を幾重にもくるんで、誰も傷つけぬよう、何より自分が傷つかぬよう。乱さぬよう、何より乱されぬよう。いつしかそうして生きていくことを覚えてしまった。対話や相互理解への幻想をいつのまにか失った。あくまで、丸く柔和に軽やかに。鞠のように弾み、転がり、こうしてころころ笑っている。
***
JR新宿東口の改札前で、私たちは別れた。今日は久しぶりに楽しかったね、もっと会う頻度増やそうよ。そうだね、月イチとかでね。失われた青春を取り戻すんだよ。何それ。じゃあまた、近いうちにね。じゃあね。
――別れ際のありきたりな会話。きっとお互い、本気でそんなこと思ってるわけじゃない。私は地下鉄の改札に向かった。
電車に乗り込み、窓に映る「朗らか」らしい自分の顔を見つめた。ずいぶん遠くに来ちゃったな、となんとなく思った。
窓に映った自分の顔の向こうに、地下鉄の線路を照らす蛍光灯の光たちがおそろしい速さで流れていく。均等な間隔で設置されたその光たちを見送っているうち、もう手の届かない過去の走馬燈が私を置き去りにして次々と通り過ぎていくような、そんな感覚に見舞われた。思わず目を閉じる。すると光の残像がもやもや動き、幾何学模様になり、その鋭角が目蓋の裏を刺す。痛みはないものの、なぜか涙が出そうになる。
――イギリスの唯美主義の画家たちは、ただ女性が眠っている姿を静物として描いた。そこに物語性はない。精神性もない。感情移入をゆるさない、ゆえに対話を拒む。観者はただそれを見つめ、あこがれることしかできない。そう、あこがれることしかできない。
いくつものあこがれを未練のように引きずりながら、核心を幾重にもくるみ、あくまで柔和に軽やかに。そんな生き方しかできなくなってしまった。正しいのか、間違っているのかはわからない。その先に何があるのかもわからない。わかるのは、いつどこで何をしようが、私はひとりぼっちで此岸に立ち尽くしているだろう、という、ただそれだけだ。
"此岸より"へのコメント 0件