(第2話)

瀧上ルーシー

小説

62,189文字

 精神病院から退院して以来大輔は就労継続支援事業B型である心の里で暮らしていた。そこは精神病を抱えた人達の居場所だった。
 近所に心の里を卒業した山崎という男が住んでいて、彼らは日夜酒と麻雀に明け暮れていた。
 ある日山崎がグループホームまで大輔を迎えに来て、いいことしたくないか? と聞いてきた。山崎のアパートに行くとそこには中学生の女の子がいた。

グループホームのドアに鍵を掛けることもできる自分の部屋で俺は、安焼酎をコンビニで売っている百円の紙パックの緑茶で薄めて飲んでいた。台所を普通の家のように自由に使えればもっと節約できるが、このぱっと見だと普通の一軒家と変わらない外観の精神障害者達のグループホームで赤の他人同士一緒に住んでいるので贅沢は言えない。グループホーム内ではなるべく部屋から出ないで済むように生活をしていた。二十歳のときから二年以上入院した精神病院から退院して以来、俺はここ心の里のグループホームで、障害者年金と親からの仕送りと作業の工賃で生活をしている。もう三年以上もここの世話になっている。家に居させてもらえなかったり一人で生活できない精神障害者達が暮らすグループホームと言えばまだ聞こえはいいが、現代の姥捨て山みたいなものだ。見慣れた無機質な柄の袋からポテトチップスを手づかみで取り出し食べながら焼酎のお茶割りを飲んでいる。アルコールは身体の奥底まで深々と染み渡った。このグループホーム内で飲むのは本来禁止されているのだが第三のビールであっても俺のように休みの日は昼間から飲むような奴にとっては大きな出費だ、買えない。煙草も旧三級品とはいえ吸うし。時刻はちょうど午後七時くらい。NHKニュースを眺めながら俺は酔っ払って気持ちよくなってしまっていた。階下の他の利用者と共用の台所がそろそろ空いたのではないかと思い、簡単な夕食を作るため部屋を出ようとしたところでドアをノックする何者かがいた。誰ですか、と聞くとオレだけど家こないか、と聞き慣れた山崎さんの声が聞こえてきた。俺はまた麻雀の誘いかと思い面倒だから断ってしまおうか悩んだ。山崎さんは元心の里の利用者で、四十二歳。俺とは十個以上も歳が離れているが基本的にタメ語を使うことを許してくれている。現在では就職してこの近くのアパートを借りて一人で生活している就労継続支援事業B型である心の里の卒業生だ。ついこの間まで十年以上もここのグループホームにいたため、今でも違和感なく出入りできるのだ。部屋の中から俺は山崎さんに、何の用? と聞いた。笑いを堪えているような声で彼は、いいことしたくないか? と言った。いいことって言ったらそれはきっとそういうことなのだろう。たまにはさせてくれる女もいるため俺はそこまで飢えていなかったが、ドアを解錠して部屋の外へ出て今度は鍵を使って外側から施錠して山崎さんと一緒にグループホームを出た。山崎さんは身長百七十センチくらいで少し太っている。見た感じ俺よりは喧嘩が強そうだ。目の前には心の里が所有する作業棟や畑、一番館の他に二番館、その他に全然関係ない普通の人が所有する田んぼや畑が広がっていた。俺たちが住む灰跳市は田舎だった。車がないとどこへ出かけるにも大変なのに生活保護受給者は車を所有することを禁止されている。それは俺は生活保護ではなく障害基礎年金を貰っているだけなので金さえあれば車だろうが原付バイクだろうが所有できるが、そんな金はなかった、免許もない。無言で山崎さんと一緒に近くにはコンビニともう閉まっている個人商店、飲み物の自販機くらいしかない町中を歩いて行った。十分もしないうちに山崎さんが借りているアパートにつく。ぼろぼろのアパートの一階の一室が山崎さんが借りている部屋だった。山崎さんは外に出ていたというのに鍵を閉めていなかった。彼に少し遅れて畳敷きの1DKに上がり込む。驚くことにまだ子供の女の子がいた。近所の中学校の制服を着ている。白い半袖のブラウスと赤いリボンタイが夏の夜より涼しげだ。誰か知り合いの子供? と山崎さんに聞くのだが彼はまた笑いを堪えた声で、誘拐してきた、と言った。俺は冗談だと思った。だいたい誘拐したのだったら、見た感じ女の子は縛られているわけでも手錠をされているわけでもないのに何故逃げ出さない? そう思ってその疑問をそのまま山崎さんに聞いた。彼は4L入りの俺が愛飲しているのと同じ安焼酎のペットボトルからグラスに酒を注ぐとストレートのままごくごくと飲んだ。俺にもちょうだい、水割りで。と言うと山崎さんは無言で水割りを作ってくれた。たぶん一杯十円から三十円くらいの原価だ。煙草を吸いながら酒を飲み干していく。山崎さんは遅れてさきほどの質問に答えた。知らねえ、なにか帰りたくない事情でもあるんじゃねえの、と面倒臭そうに言う。俺は、じゃあ捕まえるときどうしたんだ? 車もないしどうやってここまで連れてきたんだ? 山崎さんは、家に来てって言ったら黙って着いてきたよ、この子、小川さくらって言うんだけど、喋れないみたいだし、喋れないって知ってたから目をつけていたんだよ、そうしたら捕まえるどころか来てって言っただけで普通にここまでついてきた。俺は驚いた。本当に誘拐だった。聞いてみた。家に帰りたくないってこと? さくらちゃんは、無言で首を縦に振って頷いた。そうして膝の上に乗っていたノートを開きボールペンで何やら字を書いた。『私、親が大嫌いなんです』読みやすくて可愛らしい字だった。本当に喋れないの? と聞くとこくりと彼女は頷く。俺は山崎さんが最初に言ってたことを思い出した。山崎さん、犯罪はちょっと……彼は俺の情けない声を聞いて大笑いした。そうは言ってもこの子、もう何人も相手してるぜ、最初はオレがやったんだけど処女じゃなかったよ、だいたい犯罪云々を言ったら、さくらがここにいることを知った時点で通報しないのは犯罪だよ、大輔は通報してオレを見捨てるのか。急激に酔いが回ってきた気がする。さくらちゃん歳は? 右手が人差し指一本左手は親指だけ握られた。十四歳。俺はさくらちゃんを眺めた。身長は十四歳にしては大きい。百六十センチくらいはあるように見える。胸にはぼっこんぼっこんとお椀型の肉がついていた。ようするにおっぱいだ。髪は肩までの茶髪。根本は黒い。リクルートスーツでも着せてがっつり化粧をすればとても十四歳に見えないのかもしれない。俺は彼女に、俺とセックスすることになってもいいの? と聞いた。さくらちゃんはノートにボールペンを走らせた。『ここから出て行けと言わないなら』俺は自分の下腹部が疼いてくるのを感じた。どうせ他人様におんぶだっこしてもらわないと暮らせない生活だ。常日頃から俺はいつ死んでもいいと思っているし毎晩寝る前には朝目を覚まさなければいいのにと考えてしまう、こんな生活守る価値もない。俺は普通以下の統合失調症で精神障害者二級の屑中の屑だ。よし覚悟を決めたよ、どうせしなくても犯罪だもんな、山崎さんちょっと外で時間潰してきてよ、そう言うと山崎さんは俺に向かって手の平を出してきた。金、友達価格で二千円、金取るのかよ、今サイフ持ってないぞ、ならツケでいいや、買うか? 買う。そこにゴムあるからちゃんとつけろよ、大切な商品に中出ししたらマジで殺すから。こうして山崎さんはアパートから出て行った。

汗臭い布団の上で肌を擦りつけている間、さくらちゃんはときおり小さく呻いた。声ではない。鉄板に爪を立てて引くときに出る音に寸分暖かみを持たせたような呻きだ。まともな男だったら萎えてしまうような叫びだった。彼女の身体には無数の赤黒い痣があった。白い首には絞められたような痕もあった。もろい紙細工のような身体を俺は抱いた。ことが終わって服を着るとさくらちゃんはまたノートに何か書いた。『おつかれさまでした』まるで風俗嬢だと俺は思った。君ってどんな子なの? 『付き合いが長くなれば段々とわかってきますよ』さくらちゃんは十四歳だとは思えない妖艶な微笑みを浮かべていた。それから山崎さんが帰ってきて立てなくなる寸前まで焼酎を飲むと、俺はグループホームへと帰っていった。

 

八時半頃にグループホームの自室の布団の上でまだ眠いが俺は目を覚ました。昨日のさくらちゃんとのセックスを思い出し憂鬱になった。本当に大丈夫なのだろうか。大事になったりはしないのか。九時には作業棟でミーティングが始まる。取りあえずわかばとライターを持って玄関まで歩いて行った。喫煙所は各グループホームの入り口の前と作業棟の横にだけある。建物内はすべて禁煙だ。俺が住んでいるのは一番館と言い、一番古くからあるグループホームだ。他に住む所がない精神障害者達は総勢二十名近くも心の里にいて、グループホームは全部で四番館まである。素行がいい利用者ほど職員の監視の目が届かないミーティングをする作業棟から離れたグループホームに行ける。三番館や四番館はワンルームマンションのような建物でここに比べたらきっとだいぶ生活しやすいと思う。一番館の前の喫煙所では他に煙草を吸っている利用者達がいた。みんな元から短いエコーを吸っていた。安いからだ。俺は安くても長さのある煙草がいいのであまり人気がないわかばを愛飲していた。煙草を吸っている中に年が近い利用者がいた。彼は住んでいる場所も俺の部屋の隣だった。名前は光太郎と言う。歳は俺より二つだけ若い。適当にお互い挨拶を交わす。自分が吸い終わると光太郎は無言で一番館の中へと入っていった。やつはわりと喋る方だが、まだ朝だから眠いのだろう。俺は続けざまに二本わかばを吸うと部屋に戻って準備を済ませドアを施錠し一番館のすぐ隣に建っている作業棟へと入っていった。朝食をいつも抜きだ。作業棟の外観は立方体で小さなビルといった感じで三階建てで使っていない部屋が結構あり一階には利用者達が食事を取るための食堂もあり、昼休みに利用者達が運動するための寄付されたフィットネスマシーンや卓球台などもある。俺は全体的に灰色の建物の階段を上り、二階のミーティングルームまで足を運んだ。味気ない量販品の長テーブルの前のパイプ椅子に利用者達は座っている。入ってすぐに挨拶をし自分の名前が書いてあるタイムカードを押す。時給二百円以下だがタイムカードに記入されている時間を元に月の工賃が算出される。もうあまり時間がないが俺はテーブルの上に上体を乗せて腕を枕に眠ろうとした。ミーティングルーム内では会話が少ない。調子に乗ればべらべら喋るが基本的に皆一様に暗い性格だ。統合失調症の利用者はリスパダールやジプレキサなどの薬を服用している分には性格が弱気で大人しい人が多い。心の里の利用者の殆どが統合失調症だと前に職員が言っていた。そうして九時になりミーティングルームと繋がっている職員室から一人の男性職員が出てきてミーティングが始まった。職員は、今日はとくに連絡事項はありません、歌に入ります、と事務的な声で言った。毎朝童謡を三十分ほど歌うのが日課だ。蛍の光やアルプス一万尺だ。だいたい月に一度発表するためにマイクロバスで老人ホームへ出向く。指揮をする施設長とピアノを演奏する奥さんが職員室から出てきた。聞き慣れた憂鬱でメロディアスなピアノの音色が耳に入ってくる。歌いながら思った。何故二十五にもなってこんなことをしなくてはならないのか、小学生じゃあるまいし。だが親は実家に俺を置く気はさらさらない。反抗的な態度を取って追い出されたり病気が急に重くなったりしたらまた二年間入院した灰跳市の精神病院からやり直しだ。病院の中では隔離室があったり物を盗む患者がいたり喧嘩があったり、煙草を吸える時間が決まっていたり煙草が年中足りなくなったり酒を飲めなかったり外に出ることができなかったり、ここと比べてもだいぶ自由度が低い。いまさら酒すら飲めない生活なんて御免だ。

そうして毎朝の地獄のような歌が終わり、利用者達は我先にとミーティングルームを出て行き、自分の持ち場を目指して歩いて行く。歌が終わったら本当にそんなことをしていて病気が回復するのかは知らないがB型作業所心の里のメインである雇用主、この場合施設長が精神障害者達と雇用契約を結ばない仕事〝作業〟の時間である。作業の種類は弁当と利用者達の昼食の調理、古本のインターネット販売、メール便配達、畑仕事、食料品販売である。俺はここに入ったときから古本販売部に配属され特に不満もないので別の作業に移ろうとしたことがない。作業棟を歩いて、一階の食堂の隣にある書庫までやってきた。結構な広さがある古本を置く場所で、埃塗れだが木で出来た大きな本棚が所狭しといくつも並んでいる。床にはところどころ本が詰まった段ボール箱が置いてある。壁際の一角には長テーブルが置いてあり、パソコンが十台ほど一直線に並んでいる。机の上には本のISBNを読み取るためのコンビニやスーパーのレジにあるのにそっくりなバーコードリーダーも乗っている。俺はネットに登録する未入力の古本が入っている段ボール箱を持ってくるといつも座っている端の席に腰を下ろした。Amazonのユーザー出品に古本を出すのだ。既に心の里古書販売部は何千冊もAmazonに古本を出品している。メールアドレスとログインパスワードを入力して管理画面に映りまだ入力していない本をサイトに登録していく。売れた本の発送は別の人が担当している。売れたときに探しやすいように本には番号が書かれた綺麗に剥がせるシールを貼る。棚に並んでいるすべての本にもこのシールは貼ってある。今貼ったシールは05671と書かれていた。二冊ほど古本をサイトに登録したところで、光太郎と藍がやってきた。他の利用者もぞくぞくと書庫に入ってくる。彼と彼女は俺の右隣に並んで座った。二人とも二十代で歳が近いのでよく話をする。坊主頭で大きな目をした光太郎と女性らしくほどよくふっくらしていて金髪のショートカットでここの女性利用者にしては珍しく毎朝一時間近くかかりそうなくらい化粧をしている藍だ。一応職員が見ているものの仕事を覚えてしまえば、とくに何も言ってこない、利用者同士お喋りをしていてもだ。昨日酔って帰ってきたけどどこ行ってたの? 光太郎が俺に聞いてきた。山崎さんのとこ。そう言うと光太郎はチッと舌打ちをした。あんな麻雀キチガイのところに通ってると病気が酷くなるよ、パソコン画面を見詰めたまま光太郎は言った。別に麻雀をしに行ったわけじゃない、酒飲みに行ったんだ、俺はそう言った。さくらちゃんのことは言えなかった。彼の顔を見ると苦々しい表情をしていた。なんとなくだけどぼくはあの人嫌いだなあ、こんなことまで光太郎は言った。藍がぼそりと呟くように言う。お酒ばかり飲んでるとインポになるよ、アル中ってほどは飲んでねえよ、俺はそう言い返した。古本をAmazonに登録してシールを貼って本棚へと運んでいく。建物内での仕事のため畑作業よりは数段楽な作業のように思える。畑作業をしている利用者はだいたい毎日五人足らずだ。好きな人だけといった感じだ。今書庫には十人弱ほどの利用者がきている。パソコンを使えない利用者は本の整理をしている。すぐに本の順番がズレてしまうのだ。そうなると売れたとき本が探しにくい。一日の日程としては九時から九時半がミーティングと歌。九時半から正午までが午前の作業。正午から一時までが昼休み。一時から三時までが午後の作業。三時半から十分くらいが帰りのミーティング、ミーティングと言っても連絡事項があるときに職員が利用者達にそれを伝達するだけだ。昨日彼女がメールでさあ、なんて光太郎が言い出した。光太郎の彼女は田中優子さんと言って通所の利用者で午前中は調理、午後はここで古本をサイトに登録している。光太郎はいつも田中さんがいない隙に俺や藍にのろけ話をする。田中さんの態度はわりとクールだが、光太郎の話ではいつも二人は熱々だった。光太郎は、彼女メールでいつも一日に一回は大好きって言ってくれるんだ、などと言った。なぜか少しむかついたので俺は、空気が吸えるとか瞬きが出来るとか、当たり前のことは言わないだろ? つまり田中さんにとって光太郎のことが好きなのは当たり前じゃないってことだよ、なんて言って奴をからかった。すると今まで黙っていた藍が言う、当たり前のことでもそれを言葉にしないと相手に伝わっているかわからないじゃん? 愛情表現はするべきだよ。藍の応援を受けて光太郎は調子に乗った。そうそう恋人いない大輔にはわからないんだよ、藍だって彼氏いないだろ、俺はそう言う。藍の場合あくまで特定の彼氏がいないというだけなのだが。光太郎は、藍は女の子だから恋人いなくてもわかるの、なんて言って唇を尖らせた。

 

利用者の食事は昼は食堂での給食があるが朝晩は各自で調達しなければならない。三十人くらいは入れそうな食堂で、そこでしかまともな食事を取れるチャンスがないからハンバーグとポテトサラダと味噌汁とご飯とヨーグルトの昼食を取り、いつもは光太郎と運動室で卓球をやるのだが俺は山崎さんのアパートのさくらちゃんのことが気になったので作業棟から外へ出た。外は暑かった。Tシャツがすぐに汗で身体に張り付いてくる。殆ど何もない田舎の道路を黙って歩きすぐに山崎さんのアパートに着いた。汚れたドアの前でチャイムを押すと酒臭い山崎さんが出てきた。昼間から飲んでいるらしい。またさくらのことを抱きたくなったのか? いやらしい顔で彼はそう言った。違う、取りあえず中に入れてよ。いいよ、極小の玄関で靴を脱ぎ汚い畳部屋に上がる。さくらちゃんは俺が来たのに気づくと、小さく会釈をした。そして視線をテレビに戻した。切れ長の目にしゅっとした眉、厚くも薄くもない小さな唇。昨日は酔っ払っていたし混乱していたのであまり思わなかったが、さくらちゃんのフェイスは軽く美形なようだった。大輔も飲むか? 午後の作業にも出るから飲まない、俺はそう山崎さんに答えた。畳の上であぐらを掻き俺は本題を切り出した。さくらちゃんは十八歳未満だし、俺も山崎さんもセックスまでしちまった。表沙汰になると俺たち捕まるんじゃないか? 言うと山崎さんはさぞおかしそうにげらげらと笑った。さあな、それはわからないよ、神様にでも聞いてくれ。俺の他には誰がさくらちゃんを買ったんだよ? 山崎さんは依然へらへらと笑っている。それは秘密だな、個人情報だからな。俺は捕まっても仕方がないと思って諦めた。きっとさくらちゃんをここに置いているだけだって彼女は未成年だから警察から見たら誘拐なのかもしれない。別に捕まったっていい、こんな生活守る価値もない。俺は再び覚悟を決めた。しばらくの間、さくらちゃんの隣に座ってテレビを眺めていた。昼休みが終わりそうな時間になってさくらちゃんに聞いた。本当に喋れないの? 彼女は大きく頷いた。俺は二人に軽く挨拶をすると山崎さんのアパートを出て心の里に戻った。

そうして午後も古本をサイトに登録する作業をして、ミーティングルームで三時半になると職員が出てきて、今日は連絡事項がありません、と言うのでお疲れ様でしたと挨拶をして俺はタイムカードを押して作業棟を出た。建物を出たところで藍が俺を呼び止めた。小走りできたのか彼女は大きく息を吐く。今日これから暇? 暇だったら大輔の部屋で一緒にお酒飲まない? 本当ならすぐにでも山崎さんのアパートに行きたかったのだが藍にさくらちゃんのことを感づかれると面倒だと思い俺は了承した。二人でそのままコンビニまで行って藍は自分の分の酒を買った。チューハイやウィスキーの水割りの缶だった。俺は部屋にある焼酎を割るためのオレンジジュースと肴にさきイカとポテトチップスだけを買った。暑い中歩きで一番館の自分の部屋まで戻ってくる。まずはクーラーをオンにする。外に声が漏れると嫌なのでテレビの音量を大きくして二人で酒を飲んだ。とりとめのない話をした。藍は入所ではなく通所の利用者なので現在も家族と一緒に住んでいる。だからか家族の話が多かった。父親の仕事の愚痴を聞いてやったとか、弟が最近部屋に彼女を連れ込んでいる、やってるのかな、なんてどこにでもある他愛のないお喋りをした。酒の力も借りて、このときばかりは自分が障害者だということを忘れそうになる。わりと酔っ払った俺は酒臭く生暖かい息で藍に聞いた。なあ、なんで俺たちって生きてるのかね? 藍はおかしそうに笑う。死なないから生きてるんじゃない? きっと誰だって生きている理由の一つにそれはあるよ。その通りだ。死なないから生きている、積極的に生きる理由ではないが、消極的に生きている理由ではあった。いつしか俺と藍は、互いの手や頬や腹や脚を触りあった。そして服を脱がしお互いの身体を愛撫していった。入れるとき一応ゴムを付けるか聞いたのだが彼女はいらないと言う。藍とするときはいつだってナマだ。それが藍の病んでいるところのように感じた。いつもそうだ。暖かい中に自身を何度も往復させると俺は藍のほんの少しだけ可愛く出ている腹に出した。終わった後でティッシュで藍の腹を拭く。彼女は満足そうに微笑んでいた。自分で自分の精子の後始末をしてなんだか少しオナニーのようだった。ゆっくりと乱れた服装を直していく藍。俺はそれを眺めながらしばらく萎えたペニスを出したままぼうっとしていた。帰るね、藍は自転車で心の里まで通っている。酒を飲んで運転したら自転車でも飲酒運転だが、たぶん捕まることはないだろう。じゃあまた明日な、そう言うと藍はうんと頷いて部屋を出て行った。俺はそのままフローリングの床で寝て酔いを覚ますと、また昼みたいに山崎さんのアパートを目指して一番館を出た。酔いは完全には冷めていない。蝉の声がうるさくて不快だ。汗だくになりながら所々に潰れた個人商店の跡が並ぶ灰跳市の田舎町を歩いた。山崎さんの部屋の前までくると、例の呻き声と男の荒い息づかいが聞こえてきた。それを聞いて俺の心臓は暴れた。鼓動が早くなっているのが自分でもわかる。走って俺はアパートの前から逃げた。自分もさくらちゃんを買った客だが、彼女が他の男にやられているというのが実感できると気分はよくなかった。

 

街灯に虫が集る夜になってインスタント麺だけの夕食を食べると、玄関の灰皿の前で俺はわかばを吸った。ハイライトに似た味だと思うがそれを吸っている奴に言うとだいたい顔を真っ赤にさせて反論する。別に俺は安ければなんだっていい。立て続けに中毒症状が出る臭い煙を吸っていると、サンダルを鳴らせて山崎さんがやってきた。額に汗を浮かべて麻雀やろうぜ、なんて彼は俺に言う。麻雀はやらないけど話がある。言うと山崎さんはへらへらと笑って、じゃあ麻雀は止めて飲みにするか、なんて言った。二人でアパートまで歩いて行った。作業が終わった後藍と飲んだ酒はもうとっくに酔いが冷めている。中に入ると今日もさくらちゃんは静かにテレビを眺めていた。したばかりの彼女の気持ちが心配だった。軽く挨拶をする。麻雀卓にもなる座卓の前で俺と山崎さんは焼酎の水割りとストレートを飲んだ。すぐに一杯飲み終わりもう一杯作ってもらう。山崎さんはこの間の二千円まだ貰ってないぞ、と俺に言った。サイフの中には幸い千円札が五枚入っていた。俺は二千円を彼に渡した。酒が入った俺は山崎さんに真面目な声で言う。さくらちゃんを家に帰してやらないか。まだ中学生なのにかわいそうだよ。そうすると俺も山崎さんも昼間彼女を抱いていた誰かも捕まることになるかもしれないが、さくらちゃんをここから逃がすのが正しいことのように思えた。俺も山崎さんも精神障害者だからもしかしたら軽い罰で済むかもしれない。山崎さんはおかしそうに笑う。説教か。正義感が強いことだな、違うよ、山崎さんは病んだ笑顔を崩さない。あいつはここに居たいからここに居るんだ。出歩かれると事が露見するかもしれないから外に出るなって言ってあるんだけど、さくらは命令を守って本当にここから一歩も外に出ない。さくらは居たくてここに居るんだ。そうだよな! 叫ぶように山崎さんが言うと、無表情な彼女は大きく首を縦に振った。それでも家に帰すべきだ、山崎さんは一気にグラスの中の焼酎を飲み干した。オレもお前も世間的に信じられないくらい屑だよな。ネットなんかだと健常者のニートごときで屑だと罵倒される。心の里の世話になっている人間の殆どが生活保護を受けたり月に何万円も障害者年金を支給されている。その金は健常者どもが働いて貯めた税金だ。そんな生きているだけで他人の迷惑になるオレたちが今更女児誘拐したくらいで大して変わらないんじゃないか? どうしたってオレらは屑だよ。屑は屑らしく他人に迷惑かければいい。そう言って立ち上がると山崎さんは大きなペットボトルからまた焼酎をグラスに注いだ。でも山崎さん社会復帰したじゃん。彼は煙草に火を点ける。俺も煙草をくわえて火を点けた。仕事はクビになった。だからまた生活保護貰っている。年金だけのお前よりレベルの高い屑だよ、オレは。そんなこと言ったってやっぱりかわいそうだよ。テレビの前のさくらちゃんがノートにボールペンを走らせる。ノートを俺の前まで歩いて持ってきた。『私、帰りたくないです』彼女の表情はまた無表情だった。だが心なしか怒っているようにも見える。俺は山崎さんにさくらちゃんは脅されているのじゃないかと疑った。本当に帰りたくないの? と聞く。『殺したいくらい家族が嫌いなんです。だから帰りたくない』俺や山崎さんを恨んでない? 『ぜんぜん。ご飯も食べさせてくれるしコンドームもつけてくれるし優しいと思っているくらいです』ぱたんとノートを閉じるとさくらちゃんはにこにこと笑った。俺は頭がおかしくなりそうだと思った。その場から外へ飛び出すとコンビニで酒や肴を買ってアパートに戻ってきた。酒盛りが始まる。最初くらいは夏だし第三のビールを飲んでいく。泡の出る琥珀色の液体はのどごしがさわやかだった。山崎さんが、さくら、お前って料理できるの? と彼女に聞いた。ノートに字が書かれる。『はい。一通り』じゃあ何か肴作ってくれよ、彼がそう言うとさくらちゃんは微笑んで台所の前に立った。毎日自炊しているせいか意外に台所周りは片づいている。焼酎やウィスキーをがぶがぶ飲んでいると座卓の前に皿は置かれた。黄色いオムレツと銀杏切のたぶん大根の漬け物か塩揉みだった。山崎さんはさくらちゃんにご苦労、などと言うとオムレツや大根を口に運んでいく。おお、うまい、なんて言って口の中で咀嚼する。俺も遅ればせながらそれらを口に入れていった。ふんわりとした半熟のオムレツとあっさりした大根の塩揉みだった。とても美味い。余計に酒が進んだ。山崎さんが、さくら、お前も酒飲むか? と聞く。彼女はこくりと頷く。俺が作ってやる。彼女は焼酎の麦茶割をゆっくりと飲んでいった。酔っ払ってきた俺と山崎さんはべらべらとくだらないことを話した。ぜったい、オレたちって前世で極悪人だったんだって。現世では悪いことしないように神様が障害者にしたんだよ、俺は酒を飲む手を休めないで反論する。というよりは両親の血筋的に多少なりにも狂ってる血が混じってたんじゃないか。俺や山崎さんが発病しなくても兄弟や俺や山崎さんの子供なんかがどうしたって病気になってたんじゃないか。そうかなあ、オレの両親真面目だぞ。真面目でも病んでたんだよ、見た目じゃ頭の中までは分からないからな。煙草に火をつける。酒の最大の肴と言ったら煙草だった。落ち着いて気持ちがよくて少し眠くて死にたくなってくる。酒を飲むといつもこうだ。この反社会的な酩酊感を求めて俺は毎日のように酒を飲んでいる。大輔はもし病気にかからなかったらどうしてたかった? 山崎さんに聞かれた。俺は笑う。自信を持って自分を普通の人間だって思いたかったな。それだけで今とはだいぶ違う。山崎さんは、オレは結婚して子供作って普通の家庭を築きたかったな。それは今からでもできんじゃん、努力しろよ。顔が赤い山崎さんは言う。今さらだりいよ。

そして三時くらいまで酒を飲んで山崎さんの布団が敷いてある横の畳で酔いつぶれた。山崎さんのうるさい鼾とさくらちゃんの規則正しい寝息を交互に聞きながら俺は眠った。

 

目覚し時計代わりに使っている携帯電話のアラーム機能が喧しい音を立てる。目を覚ますと俺は山崎さんの部屋の畳に転がっていた。テレビの前に座っているさくらちゃんに気づき、おはようと挨拶をする。彼女はわざわざノートにペンを走らせて『おはようございます』と返してくれた。山崎さんは横で大鼾を掻いてまだ眠っている。俺のアラームが鳴ったということは八時半だ。今日も心の里での作業が待っている。俺は忘れ物がないかチェックすると、山崎さんのアパートを出た。さくらちゃんはそんな俺に手を振ってくれた。朝っぱらから蝉の鳴き声で道路はうるさい。二日酔いではなかったが頭が痛くなってきそうだ。毎年飽きずに鳴く蝉の声を聞いて、彼らは夏という季節に監禁されているのではないかと思った。どう足掻いても夏から出ていくことができない生物だ。春夏秋冬、結構早死にでも六十年、季節を全うできる人間という生き物は蝉から見たらそれだけで恵まれているのかもしれない、たとえ精神障害者でも。作業棟についてタイムカードを押して長テーブルの前の椅子に座る。もうミーティングルームには利用者達がたくさんいた。一応三十人くらいは座れるようになっているが、今いる利用者達の数は数えてみたら二十三人だった。お喋りは少ない。藍が女性の利用者と小声で話しているくらいだ。そうして職員が出てきて忌々しいお歌の時間が始まる。口パクでもいいのだが前にそうしていたらちゃんと声を出してねと注意をされた。俺でも根は真面目なのかそれ以来口パクは使っていない。三十分間歌を歌いながら様々なことを考えた。これから俺はどうなってしまうのか、だ。基本的に酒と煙草があれば満足だが、微細に社会復帰したいという願望もある。一人前の大人として税金を受け取るのではなく本来であれば支払いたい。自立してグループホームではないアパートに住み彼女も作りいずれは結婚して子供を育てる、そんなことを考えて俺は自分の願望に驚いた。もう大人だから夢を見なければならないということはないが、俺が憧れているのはあまりにも普通の人生だった。だがその普通の人生が手に入らない人間はいつの時代も一定数いる。割と最近の言葉を使えば負け組といったところだろうか。俺は、俺たちは、自分の力で生きている普通の負け組よりさらに下層の人間だった。国から自分一人で生きられないと認定されて保護されているのが障害者だ。皆そうだと思うが俺もそれが嫌だった。親だけに迷惑をかける普通のニートの方がまだマシに思える。社会復帰して自立したいという願望もあるが、俺はきっといつまでもこのままだろう、俺はその程度には駄目人間だ。歌が終わりミーティングルームが閑散としていく。作業をするため書庫に行こうとすると職員が俺の肩を叩いた。昨晩はどこへ行ってましたか? 俺は正直に友達の家に泊っていたと答えた。職員は夜十二時を過ぎても帰ってこないときは連絡するのが規則です、守って下さい、と厳しめの表情で言う。俺はすみません、これからは守りますと謝り頭を下げる。それでも職員は強ばった表情を崩さなかった。何度も同じことをするようでしたら、強制退所も考えますから。俺はさらに謝りながらも頭の中で考えていた。これくらいのことで強制退所なんて有り得ない。職員が脅しで言っただけだとわかる。この施設は入所していたり通所していたりする利用者一人につき一日にいくらと決まった額の補助金を国から受け取っている。この職員の給料の元だって国からの補助金だ。利用者を一人切り捨てるだけで月にして十万円以上も収入が減る。俺らは弱者だが金づるとも言えるのだ。少しお酒臭いですね、たくさん飲んだでしょう。グループホームの外で飲む分には止めないですけど、あまり飲み過ぎないで下さいね、わかりました、気をつけます。もう言うことはなさそうなので俺はまた頭を下げて書庫へと歩いて行った。いつもはちゃんと一番館にいるパートの寮母に連絡を入れているが、昨日に限ってそれを忘れていたのだ。

書庫でパソコンを使って古本をサイトに登録していると隣に座っている藍が言った。また山崎さんのとこ行ってたの、あんたホモ? 酒飲みに行ってただけだよ、バカ、と藍に返事する。藍の隣に座った光太郎が、ジェラシー、ジェラシーなんて歌うように呟く。藍がこれから悪いことでもするかのように意地の悪い笑顔になって言う。あたしと山崎さんどっちが好き? どっちも嫌いだよ、と俺は答えた。ひどおい、と彼女は両目に手を当て泣き真似をする。光太郎が、大輔は女心を分かってないな! などと言う。わからなくて結構だと俺は思う。それから光太郎が彼女との話を俺と藍にして、突っ込み所が多かったのか藍が口を挟むと最終的に光太郎は、ヤリマン死ね、なんて彼女に言った。藍はうるさい包茎と光太郎に吐き捨てた。藍が光太郎の性器を見たことがあるのかなんてわからなかったが、それを俺が聞くことはなかった。

 

俺は珍しく自転車に乗っていた。目指すのは近くの古本屋だ。心の里の書庫にある古本を利用者が買うこともできるのだが何か言われると嫌なので古本屋を目指した。殆ど制服姿で自転車に乗っている学生と車が走っているだけの国道沿いの道を十五分ほど走らせると全国展開されているチェーン店の古本屋まで到着する。自転車を停めて中に足を踏み入れると田舎なのに、いや、田舎だからこそなのか制服を着た学生たちが皆揃って立ち読みをしていた。俺は一冊百円のコーナーで本を見繕った。自分が読むわけではないのでチョイスが難しい。なるべくなら長く読んでいられるといいので漫画は除外して小説を十冊ほど購入した。そうして店を出てまた自転車を走らせる。今度は山崎さんのアパートを目指した。これだけのことをするのに田舎で土地が広いから四十分近くもかかった。アパートの前でチャイムを押して中へ入ると、山崎さんは心の里に我慢できないで辞めて実家でぷらぷらしていたり近くの病院のデイケアに通っている精神障害者達と麻雀をしていた。さくらちゃんはテレビの前の定位置に座っている。俺は彼女の隣まで行くと、目の前にさきほど購入した古本が入っているビニール袋を突き出した。これあげるよ、毎日テレビだけじゃ暇でしょ。さくらちゃんは驚きに表情を輝かせた。そしてノートにペンで字を書く。『どんな本があるか見てもいいですか?』いいよ、もうこれはさくらちゃんの物だから。どこにでもある剣と魔法の話などのライトノベル五冊と村上春樹のエッセイが一冊、綿矢りさの芥川賞を取った作品を一冊、赤川次郎が二冊、最後は大江健三郎のたぶんマイナーな作品を一冊買ってきた。毎日書庫で作業をしているから、俺自身はあまり読まなくても本の知識は少しだけあった。本を眺めるとさくらちゃんはぺこぺこと何度も頭を下げた。『ありがとうございます。大事にします』たぶんだがさくらちゃんは喜んでくれているようだった。そうして俺は煙草を一本だけ吸ってアパートを出ようとした。出る間際に麻雀牌を並べた座卓の前に座っている男達の中に心の里ベテラン利用者の山川さんの姿があるのを見つけた。彼は心の里がグループホームを始めた十五年前から既に心の里に居る。無口で暇さえあれば煙草を吸っている五十代の男だ。山川さんもさくらちゃんを二千円で買ったことがあるのかと思うと、少しだけ気持ち悪くなりそうだった。

 

いつも通りサイトに出品する古本の情報を打ち込みながら考えていた。今のところ工賃、つまり給料みたいなもの。どんなに頑張ってもそれが月に二万円を超えることはなかった。一年に二度ボーナスも出る、それぞれ一ヶ月分ほど。こんな給料で毎日決まった時間に仕事をするのはプライドがとても傷つく。だが俺は病気になる前、アルバイトで職場を十回以上も変えたのにどこにも適応できなかった落ち零れだ。こんな全然儲からない障害者がやる作業が俺にとっては分相応だった。そう思うことに少しは抵抗があるが、自分は病気じゃない、もっと普通の所でも仕事ができる、自分は自分だけはもっと高い金を本来貰えるはずだ、そんなふうに自己主張する利用者が嫌いだった。限度を超えて自分のことを客観視できない奴は嫌いだ。屑じゃなかったらこんな作業所に来るはずがない、俺は基本的にそういうふうに考えている。屑は屑らしく屑の掃き溜めで過ごせばいい。その方が普通の人にも迷惑がかかりづらい。この日は光太郎も藍も真面目に作業をしていた。無駄口を叩かない。他の数名の利用者達も集中している。俺は頭の中では違うことを考えていた。さくらちゃんのことや自分のこれからについてだった。最終的にはさくらちゃんも家に帰りたくなって山崎さんが寝ている隙にでも警察に駆け込んで主犯の山崎さんと彼女を抱いた男達は全員捕まることになるのだろうか。少しだけ怖かったがある程度はどうでもよかった。こんな生きているのか死んでいるのかわからない社会的弱者としての生活がぶっ壊れて刑務所で生活するのもそんなに悪いことには思えなかった。

一応担当職員との話し合いでは、数年心の里へ通った後、就職するということになっている。でももう三年もここに通っているが、職員の誰かに、よし、これから就職活動をしよう、なんて言われることはなかった。一番最近にやった親を交えてのこれからについての会議では近いうちに職安に行きます、と俺の方から言ったのだが、本当に真面目に就活しようだなんて気持ちはさらさらなかった。仕送りと障害者年金と工賃で暮らせる今の生活はいい生活ではないが捨て難かった。就職したってこんな精神障害者の幼稚園に通うのに比べたら百倍しんどい生活になる。それがわかっているからわざわざ就職活動をしてまっとうになろうとは思わない。女も金も素敵なマイハウスも諦めた。安煙草が吸えて安酒が飲めれば俺にとってはそれでよかった。負け組で弱者で最下層の人生をまっとうしようと思う。俺たちに比べたら自力で生きている分、ホームレスの方がまともな大人だった。

午後の作業が終わり、また山崎さんのアパートに足を運んだ。彼らは今日も麻雀をしていた。俺もできるので知っているが彼らの麻雀の賭け金は千点十円だ。ふつうの大人だったらだいたいその十倍の金を賭けてやる。さくらちゃんは畳の隅っこの方で俺があげた小説を読んでいる。俺が来たのに気づくと本を閉じ小さく会釈をしてノートにペンを走らせた。『大輔さん、お願いがあるんですけど』なに? 『しばらく困らないくらいノートとボールペンを買ってきてもらえませんか? お金は身体で払います』さくらちゃんが言葉を書いているノートはもう終わりのページの方まできていた。俺はいいよ、今行ってくる、身体で払うこともしなくていい、と言って山崎さんのアパートを出た。遠くのホームセンターまで行くのが面倒だったため、割高だがコンビニを利用した。キャンパスノート五冊とボールペンを三個購入した。千円もしなかった。そしてレジ袋を片手にまた山崎さんのアパートを目指した。蒸し暑くて、蝉がうるさくて、汗をかいて、喉が渇いて、死にたくなってきた。それと同時に誰でもいいからぶっ殺したくなってくる。実際にそんな機会に恵まれたら恐怖で足が震えてしまうのかもしれないが、俺は頭の中で架空の悪を何度も殴った。この悪がいるから俺の人生が上手くいかないんだと思い込んだ。山崎さんのアパートが近くなって頭の中が冷めていく。そんなわかりやすい悪がいる人生だったら今よりは精神的に楽なのかもしれないなと思った。俺は自分が悪いからこんな人生を送っているのだ。誰のせいにもできない。アパートに着いて畳の上に上がり込むとさくらちゃんにレジ袋を渡した。山崎さんたちはまだ麻雀に熱中していた。さくらちゃんは今まで使っていたノートに『本当にありがとうございます』と書いた。そして新品のノートの表紙に『交換日記』と書く。再び今までのノートの方へ。『交換日記をしましょう、今私の分を書きますから待っててください』畳の上にノートを置いて、さくらちゃんは日記を書いていった。後ろからそれを見ていると『見ないで』とさくらちゃんはノートの余白に書いた。しかたがないので、山崎さんの後ろに座って麻雀を観戦していた。それから十分ほど経ってさくらちゃんは俺に『交換日記』を手渡してくれる。俺は、日記を書いてさくらちゃんに渡せばいいんだよね? と聞いた。彼女はこくりと頷いた。挨拶をしてアパートを出て行く。さくらちゃんは今日も手を振って見送ってくれた。一番館に着くまでの間、やけに気分が高揚とした。童貞みたいにさくらちゃんは自分のことが好きなのではないかと思い、胸が暖かく高鳴った。帰ってきて自分の部屋で交換日記を開く。

『いつもお世話になっています。これからは交換日記でもよろしくおねがいします。

さっそくですけど、言いたいことがあります。うー、暇だあ!

クソみたいな両親が住む家に帰るよりはいいですけど、毎日、大輔さんにもらった本を読んでテレビ観て、知らない人とセックスして……それくらいしかやることがありません。勝手に外へ出て山崎さんや大輔さんに迷惑をかけるのも嫌だし……暇すぎて毎日軽い筋トレまでしています。知らない人とのセックスは……もう慣れました。心がないと気持ちよくないってよく言いますけど、そんなの嘘です。男の人が上手なら女は嫌いな相手だろうと感じます。でももしかしたら私だけかもしれません。嫌いでも好きでもない上手な男ならだいたいの女が感じると言い切ることはできますけど。大輔さんとのセックスもわりと気持ち良かったです。機会があればまたお願いします。

それとお願いばかりで申し訳ないのですけど、また買ってきて欲しい物があります。

B70のブラジャー、二、三着。一着でも構わないです。デザインはなんでもいいです。下着くらいはなるべく毎日替えたい乙女心を分かってくださると嬉しいです。

Mサイズのパンティ、やっぱりデザインはなんでもいいです。一着でも嬉しいですけどできれば二、三着買って欲しいです。

それと昼用と夜用の生理ナプキンを買ってきて欲しいです。超重要! もうすぐ始まるので、これは大至急です!

それではよろしくおねがいします。いつも世話をかけてすみません。これからもよろしくお願いします。少しだけ大輔さんが好きなさくらより』

実際のさくらちゃんとだいぶキャラクターが違っていて俺は汗が噴き出るほど驚いた。少しだけでも好きだと言われて気分が上がった。明日は土曜日で作業が休みなので、自転車で服屋とドラッグストアに行ってこようと思う。寝る前に交換日記の返事を書いた。

 

2017年4月3日公開

作品集『』最終話 (全2話)

桜

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© 2017 瀧上ルーシー

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