大事なともだち

玉虫

小説

9,908文字

やさぐれフリーター女子・ナトリが、亀と熱帯魚の世話をしていると、学生時代の同級生から飲みの誘いが来る。気が進まぬまま承諾すると、重ねて乱暴な知り合いのタケシからも同様の誘いが来る。タケシを断り、同級生との飲みに出掛けるナトリだが……。コミュ障で辛いねというお話。

亀の世話をしていると電話が鳴った。ナトリは決してあわてたりせず、薬用石鹸で手を
洗い始めた。彼女は彼を愛していたが、亀が清潔とは言い難い動物だということをよく知
っていたからだ。
 電話は既に十回以上鳴り続けていた。この辛抱強さのせいで、ナトリは受話器をとる前
から、相手が誰だか分かるような気がした。
「はい?」
「久しぶり! 俺だけど」
 やはり、学生時代の友人のミノルだった。ところでナトリは、いくら分かっているとは
いえ、「俺だけど」なんて言われるのは嫌いだった。自分が全く、相手の所有物であるか、
少なくともそう思われているように感じるからだった。
「あれー、ナトリちゃんひょっとして寝てた? 悪かったねぇ」
ミノルはナトリのノリの悪さを別のものと解釈していた。ナトリは善意を振り絞って相手と
調子を合わせることにした。
「全然。ほんと久しぶりだよねえ。元気だった?」
「元気元気! でも仕事が忙しくてさあ」
ナトリは彼が羨ましかった。自分の仕事を気に入っている彼が。仕事だけではなく、彼は何
でも気に入っていた。そしていつも機嫌が良かった。ナトリにだって好きなものはいっぱい
あった。けれど彼女は、自分と彼の間には、決定的な断絶があるように感じるのだった。ナ
トリは電話に耳を押し当てながら、私と彼とでは何が違っているのだろうと考えていた。
「ところでナトリちゃん今週末暇?」
彼女は正直にうんと答えた。
「だったら一緒に夕飯食べない? 俺の彼女を紹介したいんだけど」
「付き合ってひと月だっけ、いい子なんだってね」
ミノルは照れたように笑って、うんと言った。
「ナトリちゃんとも仲良くなれるといいな、そうだ、もしよかったらイオリちゃんも誘って
みてよ。ああ、俺の前からの友達と、彼女とが仲良くなったら、いいなあ、楽しいだろうなあ」
で、最近イオリと連絡はとっているのか訊いてみると、とんとご無沙汰だとミノルは言う。
「それなら私、今、忘れないうちに電話しておくよ」
「いいの? 有難う。よろしく。それじゃあ八時に船橋駅で待ち合わせってことで。
 楽しみだなあ」
「はい了解」
ナトリはさっさと電話を切った。
 振り向いて掃除途中の水槽を覗くと、換えたばかりの水がばかみたいに透き通っていた。
カミツキガメのブルータスは、清潔な水の中で怒り狂っていた。ガラス越しに手をかざすと、
バコンと音を立ててかみつく仕草をする。ナトリは彼のこういう凶暴さがたまらなく好きだった。
エネルギーだけがそこにあるような、頭の空っぽな凶暴さが。彼女はバラバラと餌を放り込んでから、
再び手を洗い、イオリに電話をかけた。
「イオリー、お元気ぃ?」
「何だナトリか。どうしたの?」
「わりーね取り込み中。いやー、今ミノルちゃんから電話があってさ」
ナトリは週末のことをイオリに伝えた。
「ゲゲ、やめてよミノルちゃんカップルなんて。私どういう顔して挑めばいい訳?」
「もしかしてイオリン、まーだミノルちゃんをこっぴどく振ったこと気にしてんの? いーじゃねーの
愛想良く笑ってれば。でも、自分から指名してくるくらいだから、ミノルちゃんにしてみれば、こう、
イオリンにデモンストレーションするようなつもりもあるんだろうね」
「まさか。彼みたいに善良な人がそれはないでしょ」
ナトリは笑いながら待ち合わせの時間と場所をイオリに告げた。
「それでは、週末に」
「了解」
二人は電話を切った。
 と、間髪置かずに再び電話が鳴り出した。ナトリは慌てて電話に出た。
「はい?」
「おおーナトリィー! 我が同志よ!」
不愉快なキンキン声が鼓膜を震わせた。
「タケシか。気味の悪い呼び方するなよ」
 タケシはナトリが学生の時、キャバクラでバイトをしていた頃の知り合いだった。彼はナトリでは
なく、美人の早妃さんの客だったのだが、何故かナトリに変に親しみを持っていて、よく連絡してくる
のだった。タケシは少し頭がイカレていた。凶暴で、興奮しやすく、趣味は強姦だった。
「で、最近どうよ調子は」
「どうもこうも、相変わらずだよ」
「お前まーだパチンコ屋で働いてんのか? やめとけよいい歳して女のくせに」
「余計なお世話だ。で?」
タケシは答えずに、ひゃははは、ひゃはははと笑った。また泥酔しているような雰囲気だ。
「しゃんとしてからかけ直せよ。ってか、もう電話すんな。じゃあ」
「待て待て、切るな切るな」
タケシは早口で遮ってから、
「ナトリィー、俺は今猛烈にさみしい」
「布団かぶって寝ろ、それじゃあ」
「いいから聞けって。俺、ちょっとまとまった金が入ったんだよ」
「どうせろくな金じゃないだろう」
「それはともかく、週末、お前に飯奢ってやるよ。何がいい?」
「結構です。予定あるし」
「いーじゃねーかそのあとでも。そっち何時に終わんだよ?」
「あー無理無理。八時スタートだもん。何時に終わるか分かんない」
「でも柏だろー? だったら夜中になってもお前帰れるからいいじゃんか」
「ところが、柏じゃないんです。船橋なんだなー」
「船橋かよ、クソ」
タケシはやけに情けない声を出した。
「あーあー何だよ、お前にまで見捨てられたら、俺一人ぼっちになっちまうじゃねえか」
「そもそもこっちは、友達だとも何とも思ってないんだよ」
ところがタケシは、やけに自信たっぷりに言い放つのだった。
「そうは言うけどお前、俺のこと好きだろう」
「ほんと頭おかしい。昔っから関わるのも嫌なんだよ。頼むからもう電話しないで」
「またまた。ほんとは好きなくせに。何故だか言ってやろうか」
タケシは得意げに続けた。
「俺とお前は、同じ種類の人間だからだよ。世の中の大抵の人間が嫌いで、出来ることなら一人一人を
踏みにじってやりたいと思ってるんだよ。憎い訳でもないくせに。憎い程でもないくせに。ただ、お前は
思ってて、俺はやるだけの話だろ」
ナトリは弱々しく反論した。
「でも、やると思うではレベルが違う……」
「へえええ?」
タケシは大げさに驚いて見せた。
「レベルが違うだあ? よし分かった、違うってことにしとく。でも、考えてみぃ。お前は、自分が
気違いだと言ってるこの俺と同じことを考えてるだぜ? どう言い訳出来んだ? お前の頭ん中は、
気違いとおんなじなんだよ」
ナトリは返す言葉もなかった。タケシは気持ちよさそうにからからと笑った。
「俺はお前が好きだぜ。お前は俺と同じ匂いがするんだよ。早妃は違ったな。あいつは、俺に喰われる
側の人間だったよ。また電話する」
タケシは一方的に電話を切った。

 ナトリは一人取り残されて、タケシの言葉を反芻する羽目になった。彼女は彼が嫌いだった。彼が常に
身に纏っている暴力の気配に吐き気を催すからだった。タケシは、男なら容赦なく殴ったし、女でも遠慮
なく殴った。しかも、そういう自分の行いを、見せびらかすのが大好きだった。彼は何でも見せびらかす
のが好きだった。そのうち殺人すらしでかすかもしれなかった。悪い奴ではないんだがな、と考えかけて
ナトリは苦笑した。暴力をひけらかし、女を犯すようなやつが、悪い奴ではないだって? 確かに彼は
ナトリには好意的だし、彼女は彼から実害を被ったことはない。一方で、決して嫌いではないミノルに苛
立ちを覚えるのは何故だろう。友達思いで、仕事を愛し、まっとうに生きる男ミノルちゃん。勿論非の打
ち所のないジェントルマンだ。それなのに、彼の言動は妙にナトリの気に障るのだった。タケシの図々し
さに辟易しているにも関わらず、ミノルの遠慮がちな態度を目にすると、意地悪い気持ちがにゅっと頭を
もたげるのは何故なのか。イオリはどうだろう。ナトリとイオリは、同じものを好ましく思い、恥ずかし
く思った。つまり感情のツボが似ていた。それが親しい付き合いが続いている一番の理由だった。が、
考えてみれば、イオリは割と意地悪かもしれなかったが、ナトリ程ではなかった。こうしてみると、ナト
リは改めて自分のジャッジの曖昧さに、愕然とするのだった。いっそひとまとめに嫌いになってしまったら
楽かなとも考えた。しかし未来ははっきりしている。嫌いになったところで、私は、皆と連絡を断ったりは
しないだろう、皆の方で連絡をしてくる限りは。主体性までないようだ。私はあんまりいい奴じゃないな、
とナトリは思った。

 そして土曜日がやって来た。
 昼食は一人で、屋外でとることに決めた。ナトリはサンドイッチとワインを買って母校の大学に入って
いった。休みなので学生の姿は見えない。ナトリは学生が嫌いだった。数年前まで自分もそうだったくせに、
ぬくぬくと守られた学生たちが彼女は嫌いだった。だから彼らのいない、静まり返った大学構内を歩きながら
、ナトリは何とも幸福だった。靴の下では枯れかけた芝生がふかふかした。ナトリは食堂のテラスのテーブル
に座った。そしてサンドイッチをワインでぐいぐい流し込みながら、読書にふけった。
 半分ちょっと読んだところで、酔いがしたたか回ってきた。屋外で、昼の日差しの中で酔っ払うのは心地
よかった。テーブルに突っ伏しても、脳だけがやけに冴えていた。体がぽかぽかしていた。ゆっくりと息を
吐き出すと、さっき飲み込んだピクルスの味がした。私の息は今臭いだろうな、とナトリは思った。口を臭く
しながら、ものを食べる意味なんてあるのかな。うんざりだ。私はもう、何も食べたくない。でも食べないと
死ぬな。死なないように、食べる。私は、ただ死にたくないから生きているだけなんだな。こんなことに何の
意味があるっていうんだ? せめて何か意味がなければ、辛すぎるじゃないか。
 夜。船橋駅には約束の十分前に着いた。
 ナトリは雑踏の中で皆を待った。量のおおい、長い髪の毛はふさふさしていたし、ミニスカートから突き出た
足には、ひざまであるいかついブーツをはいていた。つまりなかなか猛々しい様子をしていた。緊張していると、
いつも彼女は怒っているように見えてしまうのだった。数分後、まずイオリが現れた。彼女は、光沢があって体に
張り付くような、ロングスカートとニットを着ていた。そして黒髪はしっとりつやつやしていた。つまりなかなか
色っぽい様子をしていた。二人は顔を合わせるとにっこりと笑みを交わした。
 五分遅れで、ミノルと彼女がやって来た。
「ごめんね遅れちゃって。乗り換えの時、目の前で電車に行かれちゃってさ。あ、紹介するよ。これ、俺の、
えっと彼女のミホ子。ミポリン、この二人は、俺の大学の時からの友達で、ナトリちゃんとイオリちゃん。
なかなか強烈なキャラクターだよ」
ナトリとイオリは、顔を動かさずに、一瞬視線だけを合わせた。二人は同じことを考えていた。ミ・ポ・リ・ン・
だあ? 視線を同時にミホ子に向ける。彼女は色白で髪型はショート。そしてお年寄りや子供に優しそうな雰囲気
だった。勿論、ナトリやイオリのような人間にも優しいに違いない。
「初めまして。お二人の噂は、ミーくんからいろいろ伺ってます」
「ミーくん」のところで、イオリは唇を噛んで笑いをこらえた。ナトリは彼女の足をぎゅっと踏んづけながら、
満面の笑みをたたえた。
「私たちの噂ぁ? ろくなこと言ってなさそうだね?」
四人は和やかに笑った。その隙に、イオリは踏まれた足を引き抜いて、ナトリのふくらはぎを蹴った。ナトリは
笑うミノルとミホ子を見ていた。彼らは両方とも、小柄で愛らしい様子をしていた。ミノルちゃんのチェックの
シャツも、ミホ子のロングのフレアスカートも、いかにも善良そうな感じが漂っていた。二人とも善き市民だし、
幸福なんだな、と思ったら、ナトリは突然さみしい気持ちに襲われた。二人は、明らかにナトリが属さない何かに
属していた。やだな、何で急にこんな気持ちになっちゃったのかな。
 四人は、手近な居酒屋へ入っていった。すぐに店員が飛んできて、席へと導いてくれた。座敷に上がりながら、
ナトリは自分の靴をビニール袋に詰め込んだ。居酒屋の座敷に上がる時、いつもそうなのだが、この袋に靴を入れる
作業が、何とも馬鹿々々しく感じられた。
 やがてナトリとミノルにはビールが、イオリとミホ子には甘いカクテルが運ばれてきた。四人の今後の、より一層の
健康と幸福のために、乾杯の音頭がとられた。とったのは勿論ミノルちゃんだった。それから近況報告が行われた。
「ナトリちゃん相変わらず熱帯魚に夢中なの?」
ミノルに問われて、ナトリはああ、と返事をした。
「こないだ電話くれた時、ちょうど水槽の掃除をしてたんだよ」
「そうだったの? 悪いことしたねぇ」
「えー熱帯魚。どんなの飼ってるの?」
「お、ミポリンも好きなのかい?」
「んーん、何にも知らないけど、可愛いんだろうなって思って」
ナトリは無難に、グッピーがいる、とだけ伝えた。
「グッピーって、きれいなんでしょ?」
「うん。ヒラヒラ泳ぐのを眺めてると飽きないよ。子供もどんどん産むしね」
「えー? 水草とかに、卵産むの?」
「いやその、グッピーって、子供産むのおなかから」
「えー知らなかったぁ! 私も飼ってみたいなー」
ナトリはどっと疲労を覚えた。お互いの様子を見ながら、盛り上がってる振りしてしゃべるのってまいるよな、と思った。
もっとこう、友達って、違うんじゃないかな。こんな探り合いとか、しないんじゃないかな。ちょうど気持ちが沈み始めた
その時、いいタイミングでイオリが、ミノルとミホ子の馴れ初めを尋ねた。二人は顔を赤らめながら、興奮気味に語って
聞かせた。イオリは御仏のような笑みを浮かべて、うなづきながら聞いていた。ナトリはほっとしてビールから水割りに
切り換えた。要所要所できちんと笑い声をあげながら、彼女はどんどんグラスを重ねていった。身動きするのもだるいくらい
に酔ってきた。ナトリは失礼と断ってからトイレに行った。
 気持ちが悪い訳ではなかったので、吐きはしなかった。ナトリはふたを閉めたまま、洋式便器に腰かけて休んだ。
足で拍子をとりながら歌い出した。アイム・ソー・ハッピィ、コズ・トゥディ・アイファウンド・マイフレンド。
これじゃまるで酔っ払いじゃないか、私ともあろうものが。考えながらナトリは吹き出した。善意善意、どっちを
向いても善意だらけ、世界は善意に満ちている、結構、そして、全くくだらない。みんな馬鹿だ。馬鹿でクズ、
クズだらけ、死ね死ね、クズはハラワタぶちまけて死ね!
 ナトリは意を決して個室から出た。おー、今日は全くどうかしてるな。さー、手を洗え。とにかく戻って湯豆腐
でも食べよう。腹が冷えるとろくなこと考えないからな。ナトリは蛇口を全開にすると、ほとんど覆い被さるよう
にして手を洗った。
「よう」
 突然耳元で囁かれて、ナトリは飛び上がった。鏡を覗くと、隣にタケシが立っていた。
「何やってんだお前、ここ女子トイレだぞ」
ナトリは彼を睨みつけた。タケシはにやにやしながら彼女を見ていた。
「どうしたんだよ、ナトリよう」
かすれ声で言ってから、タケシはゆっくりと唇を舐めた。ピンク色の舌は生き物のように這い回り、濡れた唇は
熱っぽくギタギタ光った。
「お前つまんなそうじゃねぇか」
「余計なお世話だ。だからお前は何やってんだよ、言えよ」
タケシは笑みを深めて、勝ち誇ったように言った。
「お前をつけてきた」
「は?」
「八時頃、船橋駅で張ってたら、きっと見つかると思った。そしてやっぱり、お前はいた」
「つけた、だぁ? 気持ち悪い!」
「つめてぇなあ、つめてぇじゃねぇか、ナトリよう。俺はお前に、飯食わせてやりたかっただけじゃねぇか、
うまいものを、好きなだけ食わせてやりたかったんだよ。それを、どっかのクソッタレが邪魔しやがってよ。
今夜、この俺の代わりに、どんな奴がお前と飯を食うのか、見てやりたかったんだよ。そしたら、何だよ
ありゃあよう。お前、退屈してやんの。超〜つまんなそうでやんの。
一人で来てる女は、まあいい女じゃねぇか。そっとしといてやるよ」
「何を言って……?」
 その時ドアが開いて、知らない女の子が入ってきた。間髪を入れず、タケシはナトリを引き寄せた。
ナトリは手を掴まれ、ガッチガチになったタケシの股間を触らされ、口の奥まで舐め回されて、
何とも不快だった。女の子は二人を睨みつけると、さっさと出ていってしまった。タケシが力を緩めた隙に、
ナトリは彼を押し退けた。
「心配すんな、お前を、ほかの女みたいに、やっちまったりはしないよ」
「ふざけんなよ……」
「ナトリナトリ、お前は俺をこわがらない、だから俺はお前が好きだ、お前は女共と違ってるよ。女なんか
よりも、もっとずっと大事なともだち、ナトリ、俺は、とても、お前が好きだ」
そして突然絶叫し始めた。完全に声が裏返っていた。
「俺と同じ人間は、お前だけだ! 俺は何でもしてやるから。お前を怒らせる人間がいたら、そいつをグチャ
グチャにしてあげる。お前を振るような男がいたら、そいつもグチャグチャにしてあげる。お前の望むことは、
何でもしてあげる。だから俺と、ずっと仲良くしてくれると言ってくれ!」
 さすがのナトリも、薄気味悪くなってきた。
 その時ドアが再び開いて、さっきの女の子がトイレに戻ってきた。タケシは今度はナトリを抱き寄せたりせず、
吼えながら振り返った。
「何だこのブスぁ、邪魔しやがって!」
彼女がヒッと息をのんだ瞬間を逃さず、タケシは飛びかかっていった。こういう時、彼は全く俊敏に動いた。
タケシは女の子に体当たりをくらわせ、二人は音を立てて壁に激突した。バランスを崩した彼女を、タケシは掴み
あげて個室の中へ投げ飛ばす。便器に頭がぶつかる嫌な音がした。ナトリは大あわてで個室へ駆け寄っていった。
女の子は頭を抑えてうめいていた。中に入って助け起こそうとした時、タケシが後ろからナトリを抱きしめ、
次いで馬鹿々々しいくらい優しく彼女を押し退けた。
 そのあとはためらわなかった。タケシは先のとがった靴で女の子の顔を蹴り上げた。続いて腹。あとは足と拳骨で、
顔といわず体といわず、殴って蹴って殴りまくった。女の子は悲鳴をあげることすら出来ず、されるがままになって
いた。みるみる顔が腫れ上がり、小便を漏らした。ナトリはパニックを起こしていた。頭がうまく働かなかった。
きびすを返して、トイレから走り出た。
 誰もがまだ惨事に気付いておらず、店内はまるで別世界のように、穏やかに盛り上がっていた。
 ナトリは青い顔をして戻ると、気分が悪くなったから店を出ようと言った。
「大丈夫?」
会計を済ませた路上で、ミノルは心配そうにナトリの顔を覗き込んだ。
「ん? ああ、ごめんね。せっかく盛り上がってたのに」
ナトリはあわてて取り繕った。
「どれ、十時回ってることだし、そろそろ解散しますか」
「そうだね。それじゃまたね」
四人は二手に別れて、おのおのの電車のホームへ向かった。ナトリは胃がむかむかしていた。恐怖がどっかりと、
自分の体に居座ってしまったような気がした。とても真っ直ぐ自宅に戻る気になれなかった。
「イオリン! お願いがある」
「なーに突然」
「今晩、イオリンのとこに泊めてくれ!」
「大丈夫なの?」
「何か一人で帰る気がしないんだよ。なー、吐いたりしないから、頼む!」
「ハッハッハ、ひょっとして不完全燃焼? いいともいいとも。じゃ、イオリン邸で本日の反省会でもしますか」
ナトリはほっとして、心からイオリに感謝の意を表した。二人は笑いながら、イオリの部屋を目指した。それ
でもナトリの震えは治まらなかった。彼女は力無く笑いながら、風邪を引いたかもしれない、と言い訳した。

 翌日、ナトリは昼過ぎに目を覚ました。イオリは目をこすりながら、玄関まで見送ってくれた。ナトリは
むくんだ二日酔い顔に、ぼさぼさ頭という出で立ちで、イオリのマンションを出た。今日も仕事が休みで本当に
よかったとナトリは思った。何もする気が起きなかった。生きる気、さえも。最後の考えが、彼女を笑わせ、また
うんざりさせた。ナトリは電車に揺られていった。うちに着いたら夜まで寝ると、心を決めていた。とにかく体を
休めることだ。ナトリは自分の部屋を思って、ふと笑みをもらした。片付き過ぎてがらんどうな、明るく清潔な
部屋の中で、一人で眠れることが有り難かった。辺りが明るくなってやっと、ナトリは、うちに帰りたいと思えた
のだった。それも有り難いことだった。だって自分のうちなのに、帰りたくなくなったら、ナトリはナトリでなく
なってしまう……。

 午後七時過ぎのことである。することもないので亀の世話をしていると、電話が鳴った。タケシだった。
彼は昨日と打って変わって穏やかな声を出していた。
「ナトリ〜、昨日のことまだ怒ってんのか?」
ナトリはもう相手する気にもなれなかったので、いや別にと浮かない声で答えた。
「驚かせてすまなかったな。お前にあんなとこ見せる気はなかったんだよ。でも、あ〜よかった、俺またしばらく大丈夫だ。
たまに必要なんだよ。分かってくれよな。あ〜、完全燃焼! 三人だもんな。着火、沸騰、そして放出。これがあるから、
生きていける。生きにくい人間なんだよ、俺は。お前だったら分かるよな。分かってくれるよな、俺のナ・ト・リ」
けれどもナトリは分からなかった。何故なら彼女は放出の方法を持たなかったから。何と言われようと、思うとやるでは
訳が違った。放出出来ない苦しみは、澱のように、彼女の中に溜まりゆくばかりだった。ナトリは二言、三言タケシと言葉
を交わしてから、電話を切った。もう誰とも関わりたくない気がした。
 が、それから少しすると、またもや電話が鳴った。今度はイオリだった。
「ナトリ、聞いた?!」
彼女はめずらしく取り乱していた。
「大変だよ、昨日、あのあと、ミノルちゃんとミポリン、何者かに襲われて、大怪我したんだってよ!」
ナトリは驚かなかった。並んで夜道を行く可憐なミノルたちと、彼らを追いかける、黒い悪魔のようなタケシの姿とが、
まざまざと目に浮かんだ……。
 その日の夜、ナトリとイオリに、警察から出頭命令があった。事件があった晩、被害者と一緒に飲んでいたということで、
何か気付いた点はなかったか、また、被害者二人が、何者かに恨まれている節はなかったか、と尋ねられた。イオリは勿論
何も知らなかったし、ナトリもそうだと答えた。警察官は、悲しそうな顔をして話を聞き、そして言った。君たち、被害者
とは仲がいい友達なんだろ? どうか励ましてやってくれよな。あの二人には、今それが一番必要だから。
 ナトリとイオリは、それぞれの取調室から出た。出口へ向かうと、ドアの前のベンチに、ミノルが座っているのが目につ
いた。二人は彼に駆け寄っていった。
「ミノルちゃん! ……ひっ酷い……」
イオリはうめいた。ミノルは確かにひどいことになっていた。松葉杖をついていた。それに、両手も顔も両脚も、包帯で
ぐるぐる巻きだ。顔は口と髪の毛と片目しか出ていなかった。
「寝てなくていいの?」
優しい声で、ナトリが訊いた。ミノルはうん、とうなづいて、捜査に出来る限り協力したいからやって来た、と、ぼそぼそ
声で答えた。
 ナトリはそっと、ミノルの肩に手を置いた。その時だった。ミノルの口がぶるぶる震えて、吼えるような慟哭があがった。
「ミポリンが、ミポリンがぁぁぁぁ! あの狂った野郎が、顔もアソコも、ぐっちゃぐちゃにしちまったよぉぉぉぉ!」
 ナトリは、誰とも目を合わせることが出来なかった。ただただ、悲しみに圧倒された。静かな警察署の廊下に、悲鳴のよう
な泣き声が響き渡っていた。まるで生きているのは、ミノルだけみたいだった。ほかの全てが、死んでいるように見えた。
ナトリもイオリも、もちろん彼を励ますことなど出来なかった。ナトリは、実際に死んで、石のように、このほこりっぽい
廊下に沈んでしまいたかった。ほかに出来そうなことは、何ひとつ思いつかなかった。

2017年2月23日公開

© 2017 玉虫

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