海辺のざんげ部屋

谷田七重

小説

6,516文字

だいいち「ざんげ部屋」に行って、何を話せばいいのかわからない。何かしらざんげすべきことはあるにしても、そんなことをまっさらな少年に話していいものだろうか? いくら耳が聞こえないとはいっても?――八年前のオフライン破滅派に載せて頂いたものにすこし修正を加えました

 八月末。凪いだ海。水平線すれすれに滲む落陽。琥珀に砂金を散らしたような波の色。もうすぐ夏が終わる。
 容子は草介と並んで海岸沿いの道を歩く。ふたりとも何も喋らない。ふたりはただ黙々と、ゆっくりと歩く。容子は時たま草介の顔を見る。草介はいつもどおりあどけなくやわらかな表情を浮かべている。ムリーリョの描く無垢な少年のように。
 草介がいきなり浜辺に駆けていった。靴の中に砂が入り込んでくるのにも構わず、どんどん歩を進める。夕映えの逆光で、草介の姿は影のように見える。きらきらと夕陽を反射する波の輝きの只中に、草介の影だけがある。容子は眩しさに目を細めながら、その影をめざしてゆっくりと、砂に足を取られないように歩く。
 草介の影が突然視界から消えた。かと思うと、草介は砂浜に突っ伏していた。容子はおどろいて足早に近づく。聞こえないことはわかっていても、その名を呼ばずにはいられない。
「草介?」
 容子の指先が触れて、草介は顔を上げる。その表情はさっきよりも笑っていた。おかしくてたまらないといった風に。容子が呆れるより早く、草介は容子の手を強く引っ張って砂浜に倒れこませた。容子も笑いだした。ふたりで砂まみれになったあと、草介は子犬のように容子の腹に鼻先を押し当て、体を丸めた。
 太陽は海に沈んだ。残照の空に夜の気配。波の音だけが聞こえる。草介は丸くなったきり動かない。眠ってしまったのだろうか。安らかな呼吸に合わせてかすかに上下する草介の肩の動きを肌に感じながら、容子は目を瞑る。波の音だけが聞こえる。
 
 去年の夏、同じく八月末。容子はノートにこう記した。
  太陽に驕れる緑も色なくし風にあそばれ地に落つるのみ
 
 容子が「ざんげ部屋」の話を初めて聞いたのは、この小さな港町に来てから一ヵ月が経とうとしている頃だった。
「ありがと、じゃ俺、これからざんげ部屋にでも行こかな」
「あ、草ちゃんとこか? じゃあこれも持ってってあげてや」
 五十代半ばの気丈な女主人が営む小さな商店で買い物をしているときに、容子は偶然この会話を耳に挟んだ。
 真っ黒に日焼けした初老の小男が店を出るのを見届けて、容子は女主人に「ざんげ部屋」とやらのことをそれとなく訊いてみた。
「なんや、あんた『ざんげ部屋』ゆう言葉にビクついたりして。なんか悪いことしたんか?」
 容子がぶんぶんと首を振って否定するのを面白げに眺めてから、女主人は次の話を始めた。
「ざんげ部屋」ゆうのは、何のことない、ふつうの小さな家よ。そこに草介ゆう男の子が住んどるんや。そう、ひとりでや。あの子は可哀そうに、耳が聞こえん。やから、喋れん。でもな、何てゆうかな、めちゃくちゃ人好きのする顔をしとる。いつもにこにこしとって、ほんとにかわいいんや。歳? 歳はな、ちゃんと知っとる人はおらんけど、まあたぶん十三、四くらいやね。まだ子どもよ。
 いや、最初からひとりやったわけないやないか。あの子はな、母親がここに連れてきたんや。そんで、ふたりで小さな生活をしとった。でもな、あの子が小学校入るか入らんかくらいのときに、母親が姿を消してしまったんや。そうや。ほんとに、ふっと消えてしもた。
 でもな、やっぱりあの子かわいいんや。あの子の顔を見たら、誰やってにっこりせずにはおらんよ。やからかな、周りに住む人間らが代わりばんこにあの子の世話を見るようになった。
 あの子は耳が聞こえん。喋れん。それでもいつもにこにこしとる。……なんでやろね。偉いな。いや、そりゃあ母親がおらんなったときには泣いとったよ。泣いとったなんてもんやない。まあ、あんまり思い出したくないけどな。
 あ、そいで「ざんげ部屋」のことやったね。何度も言うけど、あの子は耳が聞こえん。でもな、あの子の顔見よったら、何か話しかけずにはおれんのよ。ひとり語りみたいなもんやけどな、でもあの子はにこにこしてその話を聞いてくれてるように思えてくる。そしたらな、そのうち、問わず語りに自分の悩みや苦しみをあの子にそっと打ち明ける人間が出てきた。あの子は誰にも口外せんけんね。そしたら胸のつかえがおりた言うんや。その話が静かに広まって、あの子んとこに打ち明け話をしてお金を置いてく者まで出てきた。何やら救われたような、ゆるされたような気分になるみたいなんよ。それが、あの子の家が「ざんげ部屋」て呼ばれる所以なんよ。
 女主人の話を聞き終えると、容子は好奇心に駆られて先に店を出た初老の小男の後をついていくことにした。
 容子が店を出ようとするときに、女主人は声を落として言った。
「あんたもあの子に何か話してみたらええかもしれんよ。そんな若い身空でいきなりこんな辺鄙なとこに住みついて。何があったんかは知らんが、……まあ私があんまり訊かん方がええんかもしれんけど」
 容子はにっこり笑って応えた。
「私、昭和歌謡が好きなんです。だから港町に憧れてたんです」
 呆気にとられている女主人を残して、容子はひらりと店の外に出た。
 
 あれは十九の冬。容子は当時の男に宛ててメールを送った。
 
 よく思うんです。誰かが私をぎゅうっと抱きしめて、大丈夫だよ、って言ってくれたら、ここから抜け出せるんじゃないかって。四方からじりじりと追いつめてきて、私をこんな狭いところに押し込んだ、無数の目を持つ強固な壁が崩れ落ちるんじゃないかって。その壁が取り払われたなら、どんな風景が見えるんだろう? 
 言葉すらいらないかもしれない。誰かが私の傷口をちゃんと見つけ出して(その傷口がどこにあるのかは私にもわかりません)、そこに涙を注いでくれたら、その傷が嘘みたいに癒えるかもしれない。
 なんだか陳腐なお話ですね。あなたの口癖が聞こえてくるようです。「誰だってそういうことはある。お前だけが辛いんじゃない」。正論です。でも私は、特に今日は、そんなこと認めたくない。これは「私」の痛みです。
 
 もちろん、男からの返信はなかった。
 その冬が終わろうとした頃、その男との関係も終わった。次の男ができた。次の男に重複して次の次の男もできた。容子はノートにこう記した。
  太陽の侵すがままに身をゆだね、いびつにたたずむ路傍の残雪
 
 容子が女主人に言ったことは、嘘ではなかった。放送があれば夕食どきには必ず歌謡ショウにチャンネルを合わせる懐古趣味たっぷりの母親の影響を受けて、容子は物心ついた頃から抒情性たっぷりの昭和歌謡的世界に慣れ親しんでいた。同時に、同世代に人気の軽薄でうるさいだけの音楽は耳が受け付けなかった。あちこちで訳のわからないヒットソングが大音量で無神経に垂れ流されているから、という理由だけで、渋谷という街を忌み嫌っていた。
 しかし、だからといってずっと「いつか港町に住もう」と思っていたわけではない。ここに来る一ヶ月前、特に大きなきっかけがあったわけでもなく、容子の中で突然ふっつりと糸が切れるように何かが静かに破綻した。そしてJR西日本のCМさながらに思った。そうだ、港町に行こう。
 港町。そこには人生の、人間の、男と女のすべてがある。港町を歌った歌謡曲の多さ、その内容から、容子はそう思った。
 そしてここに越してきて一ヶ月半。そのような啓示を目の当たりにするでもなく、昭和歌謡的情念ドラマがあるわけもなく、容子はただただ静かに生活していた。しかし不満はなかった。たまに物寂しく眠れないまま夜を明かしたときなどは、明け方の薄明の中そっと家を出て、さえぎるもののない広い空と海、そして海鳥たちの姿を眺めた。そうして、ちあきなおみの『かもめの街』などを口ずさんだ。
 
 その日も容子は散歩をしていた。越してきた当初から散歩を日課としていたが、「ざんげ部屋」のことを知ってから草介という少年の家を散策ルートに加えた。とはいっても、この頃はまだ草介と相対したことはなく、姿を見たこともなかった。女主人の話を聞いてから小男のあとをつけていったものの、それは「ざんげ部屋」の場所を知るために過ぎなかった。だいいち「ざんげ部屋」に行って、何を話せばいいのかわからない。何かしらざんげすべきことはあるにしても、そんなことをまっさらな少年に話していいものだろうか? いくら耳が聞こえないとはいっても? 
 容子は北原ミレイの『ざんげの値打ちもない』を口ずさみながら「ざんげ部屋」の前を通りかかった。かすかに女の泣いているような声が聞こえる。でも泣いているにしては嗚咽に妙なリズムがある。不思議に思った容子は辺りを見回してから、いつもどおり閉じられている窓のカーテンの隙間から内部をそっとうかがった。三十代前半くらいの女がしゃがんだままで腰を振っていた。
 
 それから約一週間。容子はいつもより遅めの時間に散歩に出た。あの日以来、「ざんげ部屋」の前を通るのをやめてしまった。とうに陽が落ちて、夕闇が辺りを夜に染め始める時刻。容子はいつもどおり海岸沿いの道を歩き、浜辺に座って一休みした。濃紺の空に一番星が瞬くのをぼんやりと眺めながら、黒い海の音を聞いた。
 昨日からまた生理が始まった。律儀に毎月めぐってくる生理。毎月更新される産みの準備。容子は生理が始まると、必ずあのことを思い出す。やっと二十歳を越えた頃。ひやりとした金属製の椅子に固定され、手術室でひとり胸の動悸を抑えることもままならない状態で医師を待っていたときのことを。医師とともに現れた看護婦の麻酔を打つときの言葉。なにもかんがえないでくださいね。
 ……私にこれから一体何を産めというの? 容子は呟いた。「バカみたい」
 ふと辺りを見回すと、夕闇の中に人影がうずくまっているのが見えた。そんなに大きくはない。子どもだろうか? 
 容子は立ち上がり、近づきながら声をかけた。動く気配がない。すぐそばまで来たときには、容子は草介に違いないと確信していた。
 隣に腰を下ろして頭をつつくと、草介はさっと顔を上げた。その頬は濡れていた。
 
 あれは二十三の秋。容子は感情を失くしてしまった。周りにはそう見えた。正確に言えば、容子は表情を失くした。何をしていても、目の焦点が定まらないことが多くなった。容子はノートにこう記した。
  ふと上げし頬に小さき雨粒が涙を模して化粧に流る
 
 それからしばらく、草介が泣いているのを見ることはなかった。噂どおり草介はいつもにこにこしていて、なるほどそれは愛らしかった。しかし容子はふと、いつもやわらかい表情を浮かべていることそのものが、この少年にとって唯一の生きる術なのではないか、と思うことがあった。そう感じるたびに、この健気な少年を抱きしめてやりたくなった。こんな感情は初めてだった。
 ある日、新しい日課となった草介との散歩のときに、容子はノートとペンを持って行った。少しでも言葉を交わせたら、と思ったが、草介は言葉を知らなかった。容子がノートに何を書いても、少し困ったような顔で首を振るだけだった。むかし学校で習った簡単な手話も試してみたが、草介は手話の存在すら知らないようだった。容子の手の動きをくるくるとした瞳で不思議そうに見ているだけだった。
 誰も、母親でさえもこの少年に言葉を与えなかった。この事実に、容子は愕然とした。しかし考えれば考えるほど、それが善なのか悪なのかわからなくなる。言葉は諸刃の剣だ。人を傷つけもするし、慰めもする。でも草介の気持ちはどこへ行くんだろう? それは草介の心のコップの底に、澱のように溜まっていくのだろうか。それに加えて、草介は人々のあらゆる感情を受け入れて生活している。あるときにはやさしさを、あるときには遣り場のない負の感情を。そんなことを繰り返していたらコップがいくらあっても足りない。草介はひとり泣くことで、コップを満たす水を流しているのかもしれなかった。しかし涙として流れるのは上澄みの部分だけで、コップの底に沈んだ澱の堆積が減ることはない。いつか澱がコップを満たしてしまったらどうなるんだろう? あのやわらかな微笑がばらばらになってしまうかもしれない。
 容子は「ざんげ部屋」では草介に会わなかった。草介に話しかけることもやめた。ただふたりで表情を交わしながらゆっくりと海岸線を歩いた。それでも容子はやさしく満ち足りた気持ちになることができた。なぜだかそれは、子どもの頃に大好きだった「花のくちづけ」というキャンディーの甘みが口腔に広がっていく時のことを思い出させた。泣き顔を見せたにも関わらずやさしい容子への気安さからか、草介も無防備な子犬のようによくなついた。
 ある夜、容子は家でひとり山口百恵の『いい日旅立ち』を聴いた。歌詞の内容にひとりではるばるこの地にやって来た自分の境遇を重ね合わせてしみじみと聴いたが、聴き終わったあとに『いい日旅立ち』の女は北へ旅立ったのだ、と思い返した。大好きな『津軽海峡・冬景色』も北だった。女の北へのひとり旅。それは自分の内面への旅だ。夜行列車に乗って果たして辿り着けるものだろうか? そうとりとめもなく考える容子は新幹線でこの西の地に来た。北ではなく西への旅。西。私はどうして西に向かったんだろう? それこそJR西日本の回しモノみたいだ。
 北への旅が内面への旅ならば、西への旅は外面への旅ということになるのだろうか。外面の世界に、私はいったい何を求めてやって来たんだろう? 
 
 そして今、八月の終わり。夜。容子は浜辺で目を瞑り、波の音を聞いている。こうしていると、自分が小さな一粒の砂になって絶え間ない波の律動に呑まれていくような、なんとも頼りない気持ちになってくる。しかし傍らには草介の温みと、その身体の確かな重みがあった。それだけが自分をここにつなぎとめる唯一の碇なのかもしれない。容子はあてもなく考えた。ここ? こことはどこだろう? 
 わからないことが多すぎる。容子は考えることをあきらめ、目をあけて草介の髪をそっと撫でた。脚をそっと動かして砂の感触をたしかめ、潮風の匂いを胸いっぱいに吸い込む。なぜだかわからないが、容子は噛みしめるように強く思った。これだけがすべてだ。これだけが今の私のすべてだ。これ以上でもこれ以下でもいけない。
 ――だからかもしれない。いつのまにか草介が容子の身体を手でなぞり始めたとき、容子はついさっき完成したばかりの「なにか」が無残に砕け散ってしまうように感じた。男に抵抗したことも拒んだこともなかったが、今日になって初めてその衝動に駆られた。でもそうすれば草介は世界中から拒まれたような気持ちになるかもしれない。容子は砕け散った「なにか」のかけらにしがみつくようにして耐えた。それが正しいことなのか、目をきつく閉じた容子にはわからなかった。
 まだぎこちない動きで、しかし確かに男として、草介が身体の中に入ってきた。行為自体は今までと変わらない。ただ、容子はこんなにも哀しい気持ちで男を受け入れたことはなかった。
 容子の目を開かせたのは、草介の言葉にならない声だった。草介の声を聞くのはそれが初めてだった。草介は容子の中から出て、その入り口を見て泣きじゃくっていた。容子はふと思い当たって指先を当てた。ぬるりとした液体、それは経血だった。草介はしゃくりあげながら容子の顔とその入り口とを何度も代わるがわる見比べて、どうにかして血を止めようと懸命になっているようだった。
 草介は私を傷つけたと思っているのかもしれない。
 そう考えたとき、容子の中で何かが弾けた。馬鹿げた喩えだとは思いながらも、頭の中で反芻せずにはいられなかった。そうか、私の傷口はここにあったんだ。
 容子は草介の身体を強く抱いた。草介もすがるようにしがみついてきた。その身体は震えていた。容子は泣いた。自分のために、そして初めて他人のために涙を流した。海はおだやかに、星空はひろく、月の光はやさしかった。

2016年10月23日公開

© 2016 谷田七重

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