多禰

応募作品

斧田小夜

小説

12,403文字

縄文時代末期、史実のかげに超リアリズム主義画家がいた。農耕文化との接点で、画家が命を賭して描いた絵とは――?

チュチブが最初に鳥を飛ばしたのは、土神の死を四度目に感じた日であった。土から飛び上がった扁平な鳥は、よたよたとちぐはぐな羽を動かしながら火の中に墜落した。朱色の火の粉が鳥の死を伝えた。

チュチブが落胆したのは言うまでもないが、それ以上に彼は不思議だった。なぜ部族で鳥を示す線を描いたのに、奇妙な鳥がとびだしたのか? まちがった線を描いてしまったのか? 彼はもっとよい鳥を描くために、昼も夜もあかりのある場所をさがしては指で線を描いた。しかし彼のこころみは少しもうまくいかない。いくら線を慎重になぞっても、土から飛び出すものはとても鳥とはいえない姿をしているし、いつまでたっても羽の長さはちぐはぐだ。ふたたび土神が生き返る頃には、チュチブも理解した。みなが鳥だという線を描いていてもだめだ。ほんものの鳥を描かなければ。

ひとまずじっくりと鳥を観察したチュチブは一つの結論に至った。鳥は確かに二枚の羽を持っている。二本の足も持っている。頭にはくちばしと目がついていて、胸を誇らしげにそらしている。部族の鳥の線、そのものだ。しかし鳥を下から見上げれば目は見つからない。足は短く見えるし、胴体に邪魔され羽が見えなくなることもある。見えるものをそのままに映しとらなければ、鳥は鳥にはならないのではないか?。チュチブは鳥をおいかけ、あるいは地面に骨をならべ、来る日も来る日も地面に線を引いた。土神の死を八度目に感じた日、ついに彼の鳥は土から飛びあがり、長い尾をなびかせながら北へ飛び去っていった。

神と人が隣り合わせで住んでいた時代である。狩猟と採取で日々を営む部族にうまれたチュチブはまぎれもなく人の子であったが、もの産みのちからを授かって生まれ落ちたらしかった。そしてその代償に、彼は言葉を授からなかった。

 

 

土から絵を出すもの産みのちからのことを、チュチブはヤチブが産まれるまで特別であるとは思っていなかった。しかし、ヤチブが地面に引いた線は蛇にはならなかった。ヤチブが引っ掻いた柱の溝は水にはならなかった。ヤチブが指先に灰をまぶし描いた花は、ただの白い筋でしかなかった。しかしチュチブが同じように線をかき、それを叩けば、絵は土から飛び出してくる。

ヤチブもすぐにチュチブの絵は尋常ならざるなにかだと察したようだが、しかししたり顔でよく文句を言った。部族のものとは異なる線をかくとヤチブはすぐに気づいて、変だと小さな指を懸命のばし、臆面もなく指摘した。鳥は羽が二枚あるのに、これじゃ一枚しか見えない。こんなものは鳥じゃない、ただのもののけだ。しかしチュチブが絵をたたくと、それは小鳥になって宙にとびだし、ヤチブの頭の上を三周して空へ消えていった。ヤチブは感嘆の息を漏らし、首をひねって不思議がった。

部族のものたちもチュチブの絵は理解できなかった。ある者などは目の前にほんものがあるのに、なぜ同じものを描くのかと尋ねた。誰がいつ、何羽の鳥をつかまえたを記すために鳥の線はある。線を描くのに一日かけてちゃ、次の鳥を捕まえに行くまでに逃げられちまうだろう。チュチブは答えられなかった。

結局のところ、絵を熱心に眺め、喜んでくれるのはヤチブだけだ。ヤチブが喜んでいればチュチブも嬉しかった。しかし喜びで腹は膨れない。彼らは野山をかき分け狩りをせねばならなかった。山林に分け入り、木の実や草木を集めねばならなかった。山林は危険だ。熊や狼だけでなくもののけも徘徊していて、くわれれば先祖の待つ死者の国に旅立つことはできないという。両親からその話を聞かされるたびにチュチブとヤチブは震え上がり、互いの名を呼び合いながら山へ踏み入った。眠っている間はもののけに喰われてしまわぬよう、お互いにしっかりと抱きあって眠りについた。

十二度目に土神が息を吹き返したことを悟った日、チュチブはふと思いついて矢を射掛けられたうさぎを描いた。叩くと血を流すうさぎが現れ、ひくひくと腹を震わせるや白い足をぴんと伸ばして死んでしまった。以来、彼は主に獣を描いた。チュチブは弓矢が苦手だったが、はじめから手負いの獣が出てくれば仕留めるのも手間ではない。しかも獲物がやせ衰える冬であっても、まるまると太った獣を手に入れることができるのだから、これを使わない手はないのだった。部族の者たちもはじめてチュチブの絵に喜び、そして彼を尊ぶためにその絵を多禰たねと呼んだ。

 

 

チュチブには言葉がなかったが、必要なときはヤチブがかわりになった。大人になってもその関係は変わらなかったが、ヤチブとしっかり抱き合って眠る相手はチュチブではなくなった。クマリという名の女がチュチブを押し出し、代わりにヤチブをしっかりと抱いたのである。

夜になるたびにヤチブとクマリは枯れ草の上でねむった。いくばくもしないうちにクマリの腹が膨れ、子どもが生まれた。しかしクマリはチュチブとは抱き合わなかった。彼女はいつもこげちゃ色の瞳の中にかすかな怯えをたたえ、体をこわばらせて彼と彼の絵を見た。奇妙な多禰――たとえそれが多禰であるとわかっていても、部族のものはチュチブの絵を理解できなかったし、好むこともなかった――を描くチュチブを気味悪がるものは少なくない。クマリもそんな一人だったということだ。しかも子どもは家の中をはしりまわり、チュチブのかきかけの絵を踏み散らしてしまう。木に絵をほり込んでみたり、木の汁や炭で絵を描いてみたりとチュチブも工夫をしたが、とにかく絵に没頭できない環境はよくない。

こうしてチュチブは住み慣れた家を出た。部族に新鮮な肉をもたらすチュチブのことは部族も認めていたから、すぐに新しい家を作ってくれた。ヤチブの家のすぐとなり、小さなこぢんまりとした家である。中心に地炉があり、奥はチュチブが好きなだけ多禰を描けるように平らに均されている。

チュチブはすぐに地炉に火を入れ、煙が柱をいぶすのを待つ間、試しに腹の膨れた女の絵を描いた。絵は満足な出来ではなかったが、叩いてみると小さな女が生まれ、悲鳴を上げながら米粒のような赤子を産み落とし、赤子ともども死んでしまった。彼は泡を食って小さな女と米粒の子どもの足をしっかりと縛り、こっそり家の外に埋葬した。のちに穴からはどんぐりの木が生えた。

時は経ち、十九回目の土神殺しをひかえ、チュチブは土を捏ねていた。これはチュチブだけの仕事ではない。隣ではヤチブがチュチブのこねた土から土偶を作り、ヤチブの隣ではクマリが焼き上げる前の土偶の腹を割いてどんぐりを埋め込んでいる。

どんぐりを埋め込み焼き上げた土偶は土神の形代となる。砕いて土に埋めると、土神の抱いた命が土地に移るのだ。移った命は草木や花になり、成長して実をつける、人はそれを収穫する。しかし土神はしばらくすると生き返る。すると草木は枯れ、寒くなり、大地に白い毛が生えてしまう。これは土神が恵みを根こそぎ奪って体に蓄えてしまうせいだ、と部族では言い伝えられていた。命を取り戻すためには土神を殺さねばならない。神のちからが弱まるのを待ち、形代を用意して機を待つのだ。

クマリはぶつぶつと、どんぐりが足りないと言っている。いつもはほがらかなヤチブは赤くただれた首元をぼりぼりとかきむしるだけで、それに答えなかった。チュチブはただ黙って懸命に土を捏ねていた。赤色の土が指にからみつき、彼の仕事を邪魔している。多分、土神が壊されないように妨害をしているに違いない。

そこに、男は来た。

男はヌチと名乗り、三人になにをしているのかと尋ねた。

「チュチブは土を捏ねてる」ヤチブは端的に事実を言った。「俺が土神の形代をつくって、クマリが種を入れるんだ」

クマリはひゅっと首をすくめ、やおら頬をあからめた。彼女はどんぐりを放り出し、家の中に走りこんでしまった。戸口からは子どもたちが顔を突き出し、興味津々にヌチを伺っている。

チュチブは弱って手をぎゅっとにぎりしめた。ほんとうのところ彼も逃げ出したかったのだが、子どもたちを残していくわけにはいかない。

相手はすらりとした大きな男である。毛羽立ちのすくない白い布を身にまとい、腰のあたりは紐でしばっている。三白眼の目は細く、尖った顎と長い鼻という顔立ちは見慣れない。見慣れないものは危険だ。とはいえ、口や顎に毛がはえておらず、顔を突き出して土偶を眺めているあたり、背は高いが子供なのかもしれなかった。もちろんいくら子どもであっても体格の良さはすなわち力の強さを意味している。侮るわけにはいかない。

男はむ、と口を曲げ、種を入れたらどうなるのかと聞いた。子供のような口調だった。ヤチブは笑い声をたて、彼に座るようにと勧めた。

「種を入れて焼いたらこいつは土神になる。そしたら砕いて埋めるんだ」

「埋めたらどうなる」

「木が生える。生えないこともあるが、まぁ、生える」

腰をおろしながら、ヌチは木が、と繰り返した。眉根を少し寄せ、信じていない顔をしている。チュチブはじっとその顔を観察した。とがったおとがいは下から見上げた時の印象よりは丸い。丸く平らな額、高めの頬骨、長い首と華奢な肩。彼ら部族とは骨格からして異なっているように見える。特に印象が異なるのは目だろう。三白眼の腫れぼったいまぶたの下、光る黒い虹彩はぬらぬらと光って夜の沼のようだ。下まつげがぽそぽそとたよりなく張り付いているせいかますます目が細く、小さく見える。

蛇の目だ、とチュチブは思った。蛇は危険な獣だ。気配を知らせる音を立てる熊や狼より、生活にひっそりと忍び寄り、噛んで命を吸い取る蛇のほうがほんとうはずっと危険だと部族のものは誰もが知っている。蛇はしずかに家の中に入ってきて、子供を丸呑みにする。踏みつけられると噛むし、蔦のように木から垂れ下がっていることもあるから、気づかず引っ張るうっかり者にも噛みつく。その蛇がもし人の形をとることがあるのだとすれば――チュチブはそっと膝を引き寄せ、男から距離をおいた。

「土神は女なのか?」

「種を宿すのは女だろ。男は――」そこでちらりとヤチブはチュチブに一瞥をよこした。チュチブは黙って首を横に振った。「男は種を出すだけさ」

「でもオオゲツヒメなら死んだよ」

「オオゲツヒメってのはなんだね」

「食べ物を独り占めにしてたやつさ。俺が殺した」不意に瞳をひからせて、ヌチはヤチブを見た。「だからそいつを埋めたってなんにも生えないよ」

「俺達だっていつも殺してるさ。俺なんて十二と三回死んだところを見た。チュチブは十二と――」そこでヤチブが振り返ったので、チュチブは指を六本立てた。「六回だ」小さな子供をあやすようにゆっくりと言い、ヤチブは地面に十二を表す線と六本の線を引いた。「だけど土神はすぐ生き返るんだよ」

「殺したのは形代じゃないから、もう生き返らないよ」

唐突にヌチの顔に笑みが浮いた。薄い唇が弧を描くと、不意に彼の顔にえもいわれぬ魅力が添えられたように思われた。しかしチュチブはますます不安を覚え、膝をしっかりと抱いて傍らのヤチブを見やった。ヤチブは解せないという顔をしている。

「ところでそこに畑があるけど、作ったのは誰だい。珍しいから見に来たんだ」

「畑?」

「あれだよ。土を掘り返してある」

ああ、と声をもらしてヤチブはまばたきをした。

ヤチブとチュチブの家の間は土をほりかえしてあった。今も周りの土とは異なる黒い土が露出して太陽の光を受け止めている。土神を殺す前の儀式として、昨日二人で掘り返したのである。

土神はいつも簡単に死ぬわけではない。いつだったかどんぐりがすっかりつきても土神が死ぬ気配を見せなかったから、ヤチブが地面を掘り返してはどうだろうかと言った。土が固いせいで土神が弱らないのかもしれない。森の奥の地面はやわらかくあたたかいが、白い毛が生えているのを見たことがない。それに木は死ぬまで倒れないし、いつでも草木の芽が生えている。家のまわりの土とは違うみたいだ。もしかすると森の奥では土神は生き返らないんじゃないのか。チュチブにはよくわからなかったが、土神が死ななければ困ったことになるのはわかっていた。チュチブはそれほどたくさん多禰を作れるわけではなく、彼一人で部族全員を養うことはできない。

二人は土を掘り返し、森からやわらかい土を運んで上にかぶせ、そのなかに砕いた土偶を埋めた。しばらくして土神は死んだ。柔らかい土の上には見たことのない草がたくさん生えた。煮ると少量でも腹にたまる実で、チュチブとヤチブ一家だけでなく、部族のものたち全員がその恩恵にあずかったのだった。以来、二人は土神を殺す前に土を掘り返し、森の奥から運んできたやわらかい土でそれを覆うことにしている。

「ふたりでだよ」

「ヤチブが――」不意に腹の底から言葉が湧き上がって、チュチブは喉を鳴らした。ヤチブがきょとんと目をまるくしてチュチブを見やったが、彼はそれに気づかなかった。「ふかふかの、土……が、いいって、言った」

言葉を発するのは久しぶりだ。しかし悪い気分ではなかった。隣のヤチブがにこりと目の端にしわを寄せて笑ったせいかもしれなかった。チュチブは安堵して、下唇を噛んだ。

「このあたりじゃあんな畑は見かけないけど、あんたが長なのかい」

「長?」

「一番偉いやつかってことだよ」

「えらい? えらいってなんだね」

ぱちぱちとヌチはまばたきをした。目の中から蛇が消え、彼は男になった。チュチブはいくぶんかほっとして力を抜き、戸口から顔を出す子供らを見やった。ヤチブに似た子らはみんな目を丸くしてヌチを見つめている。大きな子どもも小さな子供もクマリもだ。

「えらいっていうのは」額の際に手をやってヌチは黙りこんでしまった。しばらく黙っていた彼はううん、と唸り声をあげ、救いを求めるようにチュチブに視線をよこしたが、チュチブだってわからないものはわからない。彼はもうひとつ唸って、それから食べ物を一番たくさん持ってるやつだ、と言った。

チュチブとヤチブは顔を見合わせた。

彼ら部族はおのおの狩猟や採取にいくが、食べ物は部族の中でだいたい均等に分配される決まりになっていた。食べ物を取りに行けない年寄りや子どももいるからだ。食べ物は足りないことも多すぎることもあるが、食べきれないものは他の家に譲られる。敢えていうなら、絵をかいて食料が手に入れるチュチブが一番たくさん食べ物を持っているともいえるが、彼が一匹うさぎを描く間に五匹のうさぎを仕留めるものもいるし、大きな魚を何匹もモリで突くものもいる。だれが一番とはいえない。

チュチブとヤチブは困惑して頭を横に振った。ヌチはますます眉間にしわを寄せた。

「じゃあ一番大きな家はどこにある?」

「チュチブのところは小さいけど、ほかはみんなおんなじくらいだよ」

落胆した様子でヌチはため息をついた。

「それなら、なにかを決めるときに誰が決めるんだよ」

「みんなで集まる。そして決める」

「じゃぁみんなで集まって誰が一番偉いか決めてくれ。一番偉いやつに話がある」

二人は顔を見合わせた。わけがわからなかった。

 

 

ヌチがあまりにもしつこいので、彼を帰すためにはどうするかという話し合いが持たれた。それが彼ら部族のやりかただった。車座になり、言葉を発した人物が次に言葉を発する人物を決める。全員がなにか話したら、だいたい結末は見える。結末が見えない時はイノシシの牙を投げ、その切っ先がむいた人物の意見に従う。もっともそんなふうに話し合いが持たれるのはめんどうなことが起こった時、すなわち部族の誰かが誰かを殺したり、死者の埋葬場所に困ったときくらいだ。

チュチブはこの話し合いが苦手で、普段は首を横にふるだけだった。しかし今回は一生懸命に舌を動かし、「ヤチブ」と言った。ヤチブは彼の自慢の弟だ。困ったときにいつも助けてくれる。土神を弱らせる知恵もあるし、弓矢もうまい。それに勇気がある。山林に分け入り、木の実を山ほど背負って帰ってくる男だ。彼を推さずして誰も推すことはできない。

部族の者達はおのおの、自分の自慢の人物を上げた。あるものは女の名前をあげたし、あるものは自分の名を誇らしげに呼んだ。一番の年寄りを挙げるものもいたし、一番の力持ちの名を呼ぶものもいた。ヤチブはチュチブの名を呼び、そして自信満々に多禰があるから、と付け足した。ヤチブの名前は何度かでたが決着はつかなかった。当然のことだ。彼らは長がなにか理解していなかったし、誰かが長になったところで部族のきまりが変わるわけではない。

イノシシの牙の切っ先はチュチブを指した。チュチブは腹に力をいれ、ヤチブの名を呼んだ。こうして長はヤチブになった。ヌチは満足した様子で、ヤチブとじっくり話がしたいと彼の家に誘った。

彼の家は山裾の川のそばにあるそうだ。近くに十数の家があり、その家々を囲うように杭が立っている。杭の外側には「畑」と「田」がある、と彼は言った。

彼は土神を殺し、「畑」と「田」を手に入れたのだという。「畑」と「田」には土神が人に分け与えなかった穀物という草が生える。「畑」や「田」の手入れは楽ではなく、風や雨、日照りにやられることもあるが、しっかりと手入れをしてやればその分だけ食料が取れる。それに穀物は保存が効くから、一度収穫すればしばらくは手入れをしなくてもいい。

チュチブはどうにもこの男が信用ならなかった。蛇の目をしていることもそうだが、解しがたい話をするのがひっかかる。田畑の手入れより多禰のほうがよっぽど簡単ではないのか? それになぜ長と話す必要があるのか?

しかしヤチブはそう思わなかった。田畑の話に目を輝かせ、家を守る杭を見たいと身悶えする。杭があれば熊や狼を恐れなくてもいい。それに、とヤチブはいつものように目尻にしわを寄せて笑った。ヌチはたぶん面白いやつだ。色んな話をする。俺はもっと聞きたい。

そして彼は山を降りていった。チュチブは不安を紛らわせるために草木の絵を土偶に施し、砕いて土に埋めた。

数日がたち、土偶から生えた草木の実をチュチブが収穫していた時、またヌチが山道を登ってやって来た。背に箱を背負い、手には棒を携えている。しかし傍らにヤチブはいなかった。ぽかんとするチュチブの前に箱から取り出したヤチブの首を投げ捨て、ヌチは宣言した。今日からヌチが、この部族の王になる、と。

 

 

木の表面を削り始めてからどれくらいの時間が経ったのか。わかるのは指先で触れる木の表面が少しずつ命を取り戻しているということだけだ。彼が触れているのはかつて死にかけた老木である。その表面には鈍く光る黒い鱗が浮き出している。木の蜜と消し炭をねって、チュチブが丹念に描き出したのだ。

木の表面には九つの頭を持つ獣が目を爛々と光らせている。顔も頭もびっしりと鱗に覆われており、蛇に似た目をかっと開いて眼前を睨みつけている。大きくひらいた口にはびっしりと狼と同じ鋭い歯がならび、今にも獲物に襲いかかりそうだ。頭には鹿の角が生え、首と胴体はつながって蛇のようにくねっている。長い胴体に生える四肢は熊のように太く強靭で、鷲のような鉤爪を構えている。チュチブも見たことのないいきもの、古木の幹に浮かび上がったこの世に存在しないもののけは、肌をよせれば脈動と熱い吐息を返してくれる。その老木に寄りかかって眠る時、チュチブはかつて感じたことのない安心感と充足感に包まれた。

ヤチブが死んでから部族はいやおうなく変わった。嵐が訪れたようだった。彼らにとってヤチブは家族だ。家族を殺す男は敵だ。どれだけ恐ろしくても、どれだけ大きくても、勝ち目がないように見えても、捕らえ、そして屠らねばならない。

ヌチは従えといった。従わないものは殺すとも言った。最後の一人まで追い詰め、皆殺しにする。しかしもし従うのなら、虫のはいらない家の作り方を教え田畑を分け与え、飢えの心配から救ってやろう。

しかし部族のものは誰もヌチに従わなかった。部族で一番年老いた男がヤチブを死者の国へ送り出してから返答すると言ったのでヌチはなにもせず麓へ帰っていったが、口に出すまでもなく彼らの思いは同じだ。彼らはヤチブを洗い、全身を縄で縛って膝を抱えさせ、死者の国にたどり着けるよう土に埋めた。クマリがそれに取りすがって泣いた。そののち、女子供を洞窟に移動し、男たちは手に手に武器を持って山を降りた。

ふつう、彼らの敵は山の中にいる。そびえ立つ岸壁のように大きな熊や、旋風のように走るイノシシや、ずる賢い山犬や、そういう獣が彼らの敵である。しかし今度の敵は人だ。人であるから武器を使う。火をもち、石鏃よりも強く猛烈な弓矢を射る。

はじめの襲撃は失敗であった。部族の男の半分が死んだが、ヌチは死ななかった。彼らは諦めずにふたたび襲撃をした。チュチブは燃え上がる火を描き田畑を焼いた。蛇を描き、ヌチを狙わせた。熊や猪や、蜂も描いた。しかしヌチは死ななかった。最後にチュチブだけが残った。多禰を持つチュチブだけが残った。

木のうろに隠れひとしきり泣いたあと、チュチブは女達のいる洞窟へ戻った。彼には時間が必要だった。もっと強く恐ろしい獣を描かねばヌチは倒せなかった。しかし時間があればヌチはきっと女子供のいる洞窟を探り当てるだろう。チュチブだってヌチのことはおそろしかったが、しかし子どもたちをおいて逃げるわけにはいかない。彼らをどこか安全なところへ移動させなければならなかった。

一人で戻ってきたチュチブに女達はすぐに事情を察したようだ。だれともなく洞窟を出る準備を始め、こどもたちを急かして山の奥へと足を踏み入れた。行程は決して楽ではなかったが、子どもたちは元気がよく時折わけもなく泣き出すチュチブの背をなでたり、慰めたりする。背に登って首にかじりつくこともあるが、足が動かなくなれば背を押し、彼の代わりに川で魚を捕らえ、いなくなった男の分を補おうとしているようだった。女たちは道すがら木の実を摘み、食べられる草を摘み、時々喧嘩をしては笑いあって少しも不安を見せない。時にはじっと誰かが黙りこんでしまうこともあったが、かわるがわるにその役割を肩に負い合っていた。

峠をいくつか越え、彼らは山間の集落へ行き当たった。尾根から見下ろす集落は真っ黒にすすけ、その中でもひときわ大きな家が黒煙を立ち上らせている。びっしりと軒を連ねる家々の間に細い道が走り、道の端はかならず丸太の杭で遮られているようだ。男がいて、女がいて、田畑とやらは見えない。ヌチの部族ではなさそうだとチュチブは思った。ヌチの部族でないのなら、女子供を預けて行くにはちょうどいい。丸太の杭があればいくらヌチだって簡単に中に入ることはできないだろう。

そこから半日ばかりかかって山を降り、一行はついに集落の門を叩いた。見張りはほとんど女子供しかいない彼ら一行を怪しんで門を開けなかった。一人のたくましい肩をした男が、鈍く光る黒い鏃をつけた矢をつがえ、チュチブに何者かと聞いた。

「ヌチ、がヤチブを」つっかえつっかえチュチブは声を絞り出した。しかしそれ以上言葉は出てこなかった。チュチブが黙りこんでしまうと男は困惑したように眉尻をさげ、やはり黙りこんでしまった。そこにクマリが割って入った。

「麓のヌチってやつがうちの男たちを殺したんだ」頬骨のあたりをあからめて、クマリは堂々と声をはりあげた。その口調はどことなくヤチブに似ている。「この人は話すのが得意じゃないけど、多禰をいっぱい持っててうちじゃ一番強いんだ。もっぺんやればあいつをきっと殺せる」

ヌチ、と頭のてっぺんで髪の毛をたばねている男は繰り返した。隣でやはり矢をつがえていた頬のこけた男が彼の腕を引き、麓の村のあいつのことじゃないか? と囁いた。

門の向こうには集落のものが集まっている。ひとりの女が男の壁をかき分け、水の入った桶を片手に門をあけた。矢をつがえている男たちは声をあらげたが、女はちっとも頓着するようすがない。そのままつかつかとチュチブの方まで歩いてきて、彼女はやおらにこりと笑った。そしてそばの子供たちを手招きする。チュチブはたどたどしく礼を言った。

「まあ、女と子どもしかいねぇしな……」

「しかしあいつはなんか強いんだろ。それに一応男だし、入れたらあぶねぇかも……」

「麓のあいつとやりあってるってんならこっちの味方みたいなもんだろ。悪いようにはならねぇんじゃないかね」

ひそひそと男たちはまだ囁き合っていたが、それを押しのけて女たちはあとからあとから、細く開いた門からすり抜けて外へ出てくる。水桶を抱えているものもいるし、手ぶらのものもいる。なんにせよ、彼女たちは子供がいれば居ても立ってもいられないというように手を叩いたり歌ったり、女に話しかけたり、部族の女がつんできた木の実の品定めをしたり、とにかく騒がしかった。チュチブは困惑して指をひねり、それから川下の方へ視線を送った。

ヌチの姿はまだない。気配もない。谷には白い霧がかかり、空は黒い煙が覆うばかりだ。周囲の山々は木が切り倒され山肌が露出している。音を立てて流れる川は赤茶色ににごり、彼の知っている川とは様相が違う。不気味で、なにもかもを飲み込んでしまいそうだ。

「タネってのはなんだい。なんかを育ててんのかい」

不意に男の声が耳を掴んで、チュチブは首をすくめた。振り返ると仁王立ちになった男二人は弓をおろし、しげしげとチュチブのことを眺めていた。

チュチブは唇をすぼめた。部族のものにも気味悪がられていた多禰を、この集落のものたちが理解するとはとても思えなかった。それにチュチブはまだ戦いを終えていないかった。ヌチという男を殺すまで、彼の戦いは続く。

「……絵を……」

「絵を?」

「か、く……」

「絵をかく? それで? 大丈夫かねぇ、こいつは」

しゃべるのが苦手なだけだよ、とクマリが代わりに答えた。彼女の足にまとわりついていたヤチブの子も目を大きく開いて同じことを叫んだ。

「もっと強い……ヌチ、より強い絵を、描く、外……外で、外……」

「チュチブ、少し休んでっても……」

「ヤチ、ヤチ、ブの、を……ヤチブ、を……」チュチブは息をすった。言葉がつっかえ息がうまくできない。足にしがみついているヤチブの子が膝を揺らし、首にかじりついているヤチブの子はぎゅっと全身でチュチブにしがみついている。彼は息を吸った。

「ヤチブってのは? 誰だい」

「チュチブの弟だよ。殺されたんだ。ヌチってやつを殺すまでこの人は戦うんだよ。たぶん多禰で強い獣を描くんだと思うけど、危ないから外でやるって言ってる」

はぁ、と男は眉をしかめてため息をついた。わけがわからないという表情は変わらなかったが、口元にわずかに親しみが増えたようだった。

「そりゃ、大変なこったなぁ。うちは木を切るから、麓とは仲良くねぇんだ。ヌチとかいうのはあの背の高いやつだろ。俺ぁあいつは嫌いだ。お前らも嫌いだってんなら仲間みてぇなもんじゃねぇか。中に入んな、そんなとこにいつまでもいたんじゃ、子供が川に落ちちまう」

こうして部族は集落へ足を踏み入れた。部族は消滅したも同然だ。チュチブはひとり、やすまず川を下った。たとえ部族がなくなっても、彼は敵を殺さねばならないのだった。

 

 

川を下ったチュチブが足を止めたのは、斐伊川中流の天が淵であったと説にある。いまでこそ穏やかな流れのみられる斐伊川であるが、当時は川上の集落が燃料のために木を切り倒したり、砂鉄採掘のために山を切り崩したりしていたせいで少しでも雨がふれば荒れ狂う恐ろしい川であったそうだ。チュチブがそこで足を止めたのも、荒れ狂う川が老木を中洲にまで押し上げていたからであった。

太い根に岩と土を抱え込んで、巨木は息をしていた。数十メートルにもなる幹は完全に横倒しになっていたが、幹から伸びる枝はしなやかに若葉を茂らせ、チュチブが触れると確かに脈動があった。チュチブはこの木を多禰と決めた。

日々はめぐり、チュチブは絵を描いた。幹のひび割れは鱗になり、磨いた目は日の光を受けて輝いている。彼は思いつく限りの強い獣を絵に注ぎ込んだ。熊に蛇、狼、猪――一頭では足りないかもしれないと頭は八つに増やし、目を怒らせ、口を大きく開き、周囲を威嚇させる。今まで土に描いていたのと同じ要領とはいかないが、そのかわりに木の蜜と土と水を捏ね、彼は線を描いた。黒い線が木の皮に入り込み、老木が命を吹き返したように思われた。

時折訪ねてくるヤチブの子らはその獣に恐れることなく足元で石を蹴飛ばしたり、幹によじ登ったり、ある時は枝を折ったり、チュチブの肩によじ登ったりなどして遊んでいたものだった。子らについてくるクマリも以前のように怯えた色を覗かせることはなく、ヤチブにそうしていたように川べりの大きな岩に腰を下ろして集落のようすをあれやこれやと話してくれる。そこに子らの声も加わって、その時ばかりは川辺も賑やかだった。チュチブは手を止めず、彼らの話を聞いた。

集落では鈍く光る黒い石を作っていること、その石は河原の石よりも固く、簡単には割れないこと、火にくべると赤く燃え上がり、たたいて鍛えるとますます強くなること、子らは口々に火の神の力を入れるのだ、と語った。火の神は強いんだ。山を作った神様も殺したんだって。火の神の力が入ってるから、きっとあの石は割れないんだよ。チュチブは獣の体が固くなるよう、鱗を黒く塗った。ますます獣は強くなったように思われた。

その後チュチブの描いた多禰がどうなったのか、記録には残っていない。ただ、それからまもなくして河岐にオロチが現れたと伝説には残っている。八つの頭を持つ巨大なオロチはヤマタノオロチと呼ばれ、数百年にわたって流域を支配した。オロチの背後にある集落は、川下に形成されつつあった小国から分断されたおかげで影響を受けず、たたらの村として多くの鉄と名刀を産出した。

時を経て神の子スサノヲがこのもののけを討伐した際、龍の足元には枯れた巨木と、太刀で胸を突いた一体の人骨が残されていたそうだ。死者の国へ旅立ってしまわぬよう、自らを戒めたものがあったのだろう。

 

 

2016年12月14日公開

© 2016 斧田小夜

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ファンタジー 縄文時代

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