2977680 - bats flying out at sunset in austin, texas.

女はすぐに終電を忘れる

高橋文樹

小説

13,209文字

女たらしの柿崎は美しい女と食事をする。映画の話をし、夜遅くなり、いままでそうしてきたように、彼女と寝ようとする。しかし、彼女は実のところ……映画のように人生は激的に変わる。アーバン・ホラー掌編。

色々と吟味した末、柿崎は自分のことをカッキーと呼んでもらうようにしていた。同級生から会社の先輩、これまで抱いてきた女達に至るまで、柿崎をカッキーと呼んだ。カッキーという響きには、どこかおどけた、お調子者の運命を思わせる気安さがあって、それが彼の気に入っていた。

銀座の数寄屋橋交差点にある宝くじ売り場の夕暮れに柿崎は佇んでいた。もうだいぶ陽が高くなった。六時でも駅前の敷石は赤みがかった陽に照らされ、ルビーグレープフルーツの果肉色だ。地下鉄の入り口から人いきれが匂い立って、そのまま空へ抜けていった。柿崎は人が匂いを放つ初夏が好きだった。カッキーは夏っていうか秋っぽいよね——と、そんな評価を七番目か八番目に抱いたジュリという女が下していたが、柿崎はいまでも彼女が間違っていると思っていた。誘惑の予感で狂いそうになる初夏の夜が柿崎の性に合っていた。

不器用にサンダルのヒールをぐらつかせながら、すとんと落ちた長い髪の女が近づいてきた。雑踏と人いきれにあてられて酔ったような足取り。数日前、日本橋COREDOの靴下屋で話しかけた女だった。

出会いの印象はそれほど強くなかった。冷え性の母が夏でも快適に過ごせる靴下を探していた柿崎は、店員と勘違いして近くにいた女に話しかけた。さして靴下に詳しいわけでもない彼女は、柿崎のリクエストに応えるべく、養鶏場の鶏さながら棚に敷き詰められた靴下を次々と手に取り、彼女なりのおすすめを差し出した。オレンジとグレーのボーダーで、薄いメリノウールの靴下だった。もうすぐ夏を迎える季節にそんな靴下が置いてあるというのは、さすが靴下専門店だ。柿崎はそれを受け取ると、同じ棚に差さっていた色違い、ピンクと白のボーダーを手に取った。

「ありがとうございます。でも、うちの母親、歳の割にピンク好きなんで、こっちにします」

「お幾つなんですか?」

「五十二です」

「いえ、そうじゃなくてお兄さんが」

お兄さんという年齢に合わない蓮っ葉な響きとは裏腹に、彼女の笑顔は徹底して上品だった。

「俺ですか? 二十五歳です」

「えー、私と同じぐらいですね。じゃあ、私もこれ買いますー」

「あれ、店員さんじゃなかったんですか。なんで言わないの、それ」

それで、二人でレジに行き、柿崎がお礼にと二人分を支払った。連絡先を交換して、名前がミナエだということがわかった。「今度飲みませんかー?」というメッセージに答えたのがつい三日前のことだ。ミナエと会うことはとても楽しみだった。長い髪、切れ長で大きい猫のような目、滅多に見ない長身というモデルのような外見を持った彼女が、少し間の抜けたような会話をするのはとてもチャーミングだった。柿崎は女性のみならず、すべての物事に対してシンプルな価値判断を下した。良いものはすぐにわかるし、すぐに良いものとわからなければそれは良いものでない可能性がある。その基準に従えば、ミナエはいい女のはずだった。

待ち合わせに来たミナエは、お腹があまり空いていないということだった。ガッツリ食べるのは無理だから、お酒が豊富に揃っている店の方がいい。バーだと予算がかかりすぎる。いまから行く店の候補は幾つか用意してあったが、柿崎のこれまでの経験から言えば、そんなことはどうでもいい話だった。レンジでチンしたチキン南蛮が出てくるような店や、最初のドリンクまで四十分ぐらいかかるような店に行かなければ、大して問題にはならないし、それが問題になるのだとしたら、その程度の縁だったということだ。柿崎は一度取引先に連れて行かれた個室の居酒屋を選んだ。焼酎の種類がわりと豊富な、海鮮系の和食を出す店だった。

ミナエは蒲田に住んでいて、豊洲のうどん屋でアルバイトをしているということだった。それで日本橋に来るというのがよくわからなかったが、柿崎は人がどんな風な行動を取るかについて深く考えないたちだった。

「私にもいろんな活動があるんだけどね?」

と、うどん屋でのアルバイトがフルタイムではなく、あくまで知人の店の手伝いでしかないことについてミナエがいった。

「他にどんな活動をしてるの?」

柿崎は尋ねた。単に彼女が何をしているのかが気になったからだった。ミナエは少し首をかしげ、「かつどう?」と自問してから、「悩みとか、そういうの?」と尋ね返した。柿崎は彼女の自信なさげな口ぶりから、脳内で一度「カツドウ」と変換し、「もしかして……」と切り出した。

「葛藤のこと?」

柿崎がそう言うと、ミナエは少し考えこんで、「あははー」と手を叩いてのけぞった。照れ隠しに笑ってから、「うん、そう、葛藤」とグラスを傾け、それを置いた。ミナエの組んだ足が柿崎の脛に当たっていた。彼女はサンダルで来ていたから、個室に来たときにはもう裸足になっていた。ミナエの親指と人差指が向こう脛を挟むような形になっていた。ミナエは頬杖をついて、微笑んでいた。なめるように足が動く。自分のすね毛がチリチリと音を立てて焼けていくような感覚が熱を持って太ももまで遡った。ミナエの置いたグラスの中で、氷がカタンと音を立てた。だいぶ早いペースで飲んでいるようだった。黒いノースリーブのUネックから除く胸元が赤くなって白い斑点を浮かべていた。

柿崎は映画の話題を振った。ミナエが最近見たのは吊橋が出てくる日本映画とのことだった。題名などは覚えられないらしい。ミナエはよくわからない映画が好きだった。柿崎はその反応を見て、映画の話を好きなだけすることにんした。たぶん、ミナエは目の前の男が薀蓄を垂れても怒るタイプではない。何を言ったところで、「それ、見てみたいな」と言うだろう。よほどひどくないかぎりは。女とはそういうものだ。

柿崎は『ショートカッツ』と『マグノリア』を挙げた。どちらもオムニバス形式の映画で『ショートカッツ』は有名な小説家の短編集を映画にしたはずだ。どちらも人生の些細なできごとと、そののっぴきならなさが簡潔に描かれている。どちらも有名な俳優が何人も出てくる、その有名さと裏腹にどうしようもない役柄で。そして、どちらもそれぞれのエピソードにあるかなきかのつながりがある。どちらも、全体的な統制がとれているようで、とれていない。そして、どちらも最後に天変地異が起きて終わる。

「『ショートカッツ』は最後に地震が起きるんだよ。で、『マグノリア』は最後に蛙が降ってくんの」

「蛙? 降るの?」

「そう、空から」

「え、なんで?」

「たまにあるんだって。そういう、蛙が降ってくるようなことが。なんか、異常気象で竜巻が起きてとか、そういう理由で」

「おもしろーい」

ミナエは腕を組んで感心してみせると、もう一度「カッキー、おもしろいわー」と呟いた。面白いのは映画で、俺じゃないんだけど——と答えようとしたところ、ミナエは立ち上がった。そして、すっと飛ぶような仕草でトイレに向かった。

柿崎は誰もいなくなったテーブルで煙草を吸い始めた。柿崎が映画の趣味で褒められたことはいままでもあった。素晴らしいのは映画なのだということはよくわかっている。しかし、それを知っているというだけで褒められるのは悪くない気がした。煙草の先から細く立ち上る煙がテーブル側まで垂れ下がったハロゲン光に照らされて蠢いていた。

戻ってきたミナエは向かいの席ではなく、柿崎の隣に座った。座りやすいよう席を詰めると、その分だけミナエがついてきた。ノースリーブからのぞく二の腕が柿崎の肘に触れた。ミナエがグラスを取って飲むと、水滴がぽたりとスカートに落ちた。ピンクのハイビスカスが彩りを添えるマキシスカートで水滴が暗い赤の染みとなった。

「ちょっと八重歯が出てんだね」

柿崎はミナエの口元を指差して言った。ミナエは両手の人差し指をそれぞれ口の両端に当てると、イーっと歯をむき出しにした。エナメルの表面に光が反射するほど白い口元に、大きな八重歯が突出していた。

「かわいいでしょ?」

「うん、かわいいよね。八重歯」

柿崎がそう言うと、ミナエは笑顔のまま柿崎に頭突きをした。ゴチンと音が鳴るほどではない。猫が撫でてくれとせがむような優しい頭突きだった。女の肉の押し寄せる感じは、柿崎にとって確信めいた柔らかさを残した。

「あれっ、ちょっと待って」

ミナエはそう言うと、柿崎の手を取った。腕時計を見ると、一時二十分だった。

「もう電車ないじゃん。えーっ、どうしようかな」

ミナエは携帯電話を取り出すと、連絡先を探っているようだった。近くに住む友人など、なんらかのあてを探しているように見えたが、真剣さは猫の毛づくろいほどもなかった。一応、何も言わないでおいた。ほんとうは、映画の話をしているときに、十一時半だったことは知っていた。あと一時間半、なにか話していれば、ミナエにも都合のいい言い訳ができるだろうと思っていた。

「俺、タクシーで帰るけど、うち来る?」

「なんにもしない?」

「できるかぎりは」

ミナエは柿崎と一緒にタクシープールに並んだ。一緒に乗り込むと、三日月に腰でも掛けるような姿勢で柿崎にもたれかかってくる。柿崎はタクシーの運転手も仕事中にそんなことをされたら嫌だろうからと遠慮したが、抱きかかえる方が楽な姿勢だったので、そうした。女の細い腰の肉が、布越しに手の平へと吸いついた。勝鬨橋のゆるい傾斜を乗り越え、晴海通りが暗く静かになるあたりで道を左に折れた。道の両脇に並ぶ街頭の数が少しずつ減ってくると、夜に吸い込まれるような気がして、狂おしいような気持ちになる。柿崎はミナエの頭に鼻をあて、息を吸い込んだ。シャンプーと汗の匂いが混じって、腐りかけた紫陽花のような匂いがした。この匂いは映画にはない。

柿崎の住むマンションは潮見にある1LDKで、投資用に売りだされていたものだった。柿崎の収入は目に見えて多くなかったが、どうせ何年も家賃を払い続けるなら、一時的に苦しくてもマンションを買ってしまった方がいいという不動産屋の甘言に乗る形で十五年ローンを組んだ。家賃とさして変わらない額で、四十を少し過ぎれば払い終わる。そんな話をしながら、柿崎は部屋の中を少し片付けた。洗面台にあったビオレの洗顔フォームは同期の中村かなうが置いていったものだから、捨てておいた。ミナエはリビングのソファに座って、両手をぴんと座面につき、柿崎を値踏みするように部屋の中を見回していた。

「ミナエちゃんもシャワー浴びなよ。服貸してあげるから」

柿崎はTシャツと短パンをぽんと投げた。ミナエはそのまま浴室に向かった。新品のバスタオルと使い捨ての歯ブラシを一揃いバスマットの上に置いておいた。脱衣所とシャワールームを隔てるすりガラスの向こうで、ミナエの肌色がぼんやりと透けていた。

ベッドの上に座り、柿崎はCSの映画チャンネルをつけた。韓国映画の『息もできない』が放送されていた。一度見た映画だ。ちょうど終盤の、主人公が自分の子分に金槌で殴り殺されるシーンだった。柿崎はテレビを消した。なぜだかわからないが、このあと映しだされるはずのヨニ——運命に抗う女子高生——の画面にカットバックしたら、泣いてしまう気がした。リモコンのボタンを押す。金槌が頭を打つ鈍い響きが耳に残っているうちに、テレビは暗い微光を放ち、消えていった。

シャワーを浴びたミナエは柿崎の部屋着を身にまとって、バスタオルで髪を叩きながら出てきた。柿崎は冷蔵庫に入っていたオランジーナを渡すと、ほとんど事務的に浴室へ向かった。シャワーを浴びている最中、すでに勃起しそうになっている予感があった。いい夜になりそうだった。

「ドライヤー、借りていい?」

浴室の磨りガラス越しにミナエが呼び掛けた。

「いいよ、洗面台にコンセントついてるから」

すぐにドライヤーの熱風が猛々しく唸る音が聞こえてきた。ミナエは脱衣所に座りこんでドライヤーをかけている。鼻歌も混じっているようだ。鼻歌にしてはずいぶん変わった響きで、ヨーロッパの辺境地域の民族音楽みたいだった。

シャワーを済ませ、脱衣所に出ようと思ったがミナエはまだドライヤーをかけていた。どうせこのあと脱ぐのだし、という思いから、ドアを開けてひょいっとバスタオルを取ると、ミナエはきゃっと声を上げて逃げていった。

タオルを腰に巻いただけの姿でベッドに座り、一通りキスをしたあと、柿崎はミナエの服を脱がせた。そこで柿崎は、ミナエがこれまで抱いた誰よりも美人なのだという確信を得た。何もまとわない姿で、他人の家のシャワーで堂々と化粧を落とすだけのことはある。薄茶色の大きな瞳はたぶん異国の血が混じっているからだろうし、穏やかに垂れた目は男の嗜虐心をくすぐるのに十分だった。唇は厚めだが、そのあまりのバランスの良さについ親指でなぞってみたくなる。最近の女達はこぞって唇を厚くしたがり、柿崎の知る三十代ぐらいの女も注射を打っていたが、こういう自然な唇にはなかなかならない。将来、人間の科学技術が発達して、好きな造形の異性を作ることができるとしたら、ミナエはそのスタンダード・ナンバーになるだろう。

柿崎は服を脱がせると、ミナエの脇腹や肩を丁寧に舐め、ときおりキスをした。そのたびにミナエの身体はぴくんと縮こまった。舌をからめると大きな八重歯が当たる。その大きさを図ろうと舌先で探ったところ、ずいぶん大きかった。自分の八重歯でたしかめてみても、倍ぐらい尖っている感じだ。柿崎はようやく見つけたミナエの身体の異常な部分を嬉しく思った。それまでどこかで感じていた気後れの棘が喜びの熱で溶けていった。ミナエを仰向けに倒し、下腹部に顔を埋めて丁寧に舐めた。ここの形はどの女も違っていて一概にどうこう言える知見は持たなかったが、悪くなかった。濡れ方はほどよく普通だ。緊張のあまり濡れない女や、濡れすぎて小便臭い女よりずっといい。

一通りの愛撫を終え、覆いかぶさるような姿勢のままベッドのサイドボックスに入っているコンドームに手を伸ばしすと、ミナエが「待って、私にもやらせて」と制した。

ミナエは仰向けのまま、すりすりと下にさがった。柿崎のペニスを口に含み、フェラチオを始めた。それからすぐ、体勢が悪かったのか、仰向けになるよう柿崎にいった。そう頼む表情は照れ笑いというのではなく、恍惚とした笑みを浮かべていた。声も漏れている。たぶん、フェラチオが好きなのだ。舐めながら濡れるタイプだ。挿入したらもっと乱暴にした方が喜ぶかもしれない。乳首を強くかんだり、耳元で卑猥な言葉を言うよう命令したり。

仰向けになり、膝を立てて足を開いた姿勢で柿崎は少し上体を起こした。はちきれそうに勃起したペニスの向こうで、ミナエが口に入った髪の毛を耳にかけ直していた。ミナエが大きく口を開けると、柿崎のペニスをくわえたまま舌を激しく動かした。あまり激しくされるのは好きではなかったが、自分のテクニックを披露するミナエは可愛かった。たぶん、前の男にそういうテクニックを教えこまれ、それがよいフェラチオだと思っているのだろう。ときおり歯が当たった。

「ミナエちゃん、八重歯当たってるよ」

ミナエは顔を起こすと、口元を脱ぐってから「もうダメかも、ごめんね」と笑った。その言葉の意味を図りかねているうちに、ミナエの八重歯が妙に目についてきた。両方とも下唇に引っかかっている。八重歯というより、ほとんど牙だった。その疑念を解消するより先にもう一度ミナエがペニスをくわえると、バツンという凄まじい音がして、瞬間的にペニスが折れたと思った。

「ちょっと! オイ!」

ミナエの頭を思い切り押したが、びくともしなかった。凄まじい力で柿崎の下半身にしがみついている。そして、彼女が横を向いて吐き出したものを見て、柿崎の下腹部に切ないような激痛が走った。ミナエが吐き出した柿崎のペニスは、床にはねてからしぼんでいった。アメリカ製のできの悪いおもちゃのようだった。

ミナエは血だらけになった口で「ごめんねえ」と笑うと、そのまま血が溢れている柿崎の下腹部に噛み付いた。ペニスの付け根に深々とあの八重歯が突き刺さる音が聞こえた。血を吸っていた。柿崎はミナエの頭を懸命に殴ったが、指を捕まれ、その指が三本一気に折られそうになったので抵抗するのをやめた。下腹部から熱が奪われていった。助かる方法を考えたが、思考が縮こまっていた。柿崎は掴まれていない方の手を動かして、噛み切られたペニスを拾い上げ、そっと胸の前で抱き締めた。海鼠なまこのような手触りだった。ミナエは下半身に深々と噛み付いたままで瞳を赤く光らせていた。柿崎はチーターに喉を噛まれた草食動物の恍惚はまさにこれだと思いながら、意識が薄れていくのを受け入れた。

 

 

昭和大学江東豊洲病院の個室で目を覚ました柿崎が看護師に最初に尋ねたのは、自分のペニスがどうなったかについてだった。年配の女性看護師は「手術でくっつけましたよ」とこともなげに答えた。しかし、勝手なことは言えないので、詳細は担当医師に譲るとのことだった。点滴を変え、抗生物質の頻度について説明を受けている最中、頼りなさ気な髪の薄い白衣の男がパイプ椅子に座った。木田と名乗る主治医は柿崎に施された手術について説明した。切断部位の接合についてはベストを尽くした。尿道については問題なく、いまはカテーテルが入っているが、尿意のコントロールはそれほど心配する必要はない。しかし、男性機能が元通りになることは正直わからないので、希望を失わないようにしつつ、たとえなにがあったとしてもポジティブな方向に持っていくよう自助努力すること。なお、精子を製造する能力がなくなったわけではないので、状況がどう転んでも子供を作ることはできる。

「あと、事件性があったので、このあと警察の捜査に協力してください」

木田はそう付け加えた。医者らしい理路整然とした説明のあとにつづいた申し訳無さそうな調子は、下腹部の痛みがたしかに事件なのだということを思い起こさせた。下半身に顔を埋めたまま瞳を赤く輝かせたミナエ。抵抗する柿崎の太ももを信じられない勢いで掴んでいたミナエ。彼女のことを思い出すと、下腹部が切なく痛んだ。どうしてあんなことをしたのか、理由を聞きたかった。

柿崎が木田の話を聞いてから眠りについたあと、夕方頃に来客があった。深川警察署の刑事二人だった。そもそもなぜこのベッドに寝ているかという状況説明は刑事がしてくれた。瀕死の柿崎を救ってくれたのは同僚の中村かなうで、六年間皆勤だった柿崎が出社してこないことを不審に思った上司から命令されて家を訪ねたのだった。叶は柿崎と関係を持ったあともそれで付き合うのどうのとはいわず、ただ母か姉かのように世話焼きになっていた。彼女が管理人室で大騒ぎをして部屋を開けさせたこともそれほど不思議ではない。ペニスを握りしめたまま、下半身から大量出血をした状態で発見された柿崎は、すぐに豊洲病院へと運び込まれた。柿崎の手術は前例のないものだったが、成功裏に終わった。

「それでね、柿崎さんの、その、おちんちんが切れていた件なのですが」と、刑事はきまり悪げに尋ねた。「その、なんというか、特別な性癖などをお持ちなのでしょうか?」

一瞬、なんでこんなことを訪ねたのか不思議に思ったが、すぐに合点がいった。たぶん、この刑事は柿崎が特殊なマスターベーションをして、その結果としてペニスを切断するに至ったと思っているのではないだろうか。柿崎はあわてて説明した。たまたまナンパしたミナエという女と飲みに行ったこと。セックスの最中、ペニスを噛みちぎられたこと。瞳が赤く光っていたこと。犬歯が牙のように発達していたこと。自分よりもはるかに腕力が強かったこと。荒唐無稽だと思われるのかもしれないが、柿崎にはそうする以外なかった。絶対に人間じゃないと思う、ということも付け加えた。LINEのメッセージやクレジットカードの明細、ミナエの電話番号など、提出できるものはすべて出すということを約束した。それでも、刑事が「うーん」と漏らす息には侮蔑の音引きがあった。

柿崎の元には雑誌記者も来るようになった。コンビニでエロ本の棚に置かれているような、三流ゴシップ雑誌だ。彼らにはストーリーがあり、その中で柿崎は「行き過ぎたマスターベーションの結果、ペニスを切断するに至った世界一間抜けな男カッキー」だった。身近な人や、一度しか寝ていない女が自分のことをカッキーと呼ぶのは嬉しかったが、くたびれたバンドのTシャツを来たようなインタビュイーがへらへら笑いながら「カッキー」と発音するのは死ぬほど腹が立った。

柿崎は静かになった病室でブラックライトを二本、Amazonで購入した。その日の夕方には届いた。たぶん、ミナエはまた来る。あれだけの力を持つのだから無駄かもしれないが、吸血鬼なのだ、紫外線が有効だろう。刑事は面会謝絶になっていると言っていたが、別に病室の前で見張っているわけではない。ヤクザ映画とは随分違うものだ。といっても、刑事が不寝番ねずのばんをしてくれたところで、結果は同じことだろう。ミナエを見て、いきなり拳銃を撃つことのできる警察官は日本に存在しない。もっとも……ミナエと待ち合わせたのは夕暮れ時で、彼女は太陽光を浴びていたから、ブラックライトを当てたところで無駄かもしれない。たとえば、吸血鬼にも強いのと弱いのがいて、強いのは日光の下でも活動できるとか。どっちでもいい。いままで吸血鬼がなんたるかを知らないで生きてきたのだから、何もわからないというただ一点において、絶望的な状況だった。これまで吸血鬼の映画も何本か見てきたが、作品によって設定が違いすぎていて、参考にはならなかった。

不思議な事だが、柿崎には「もう二度とミナエが来ない」という可能性を考えることはできなかった。もし吸血鬼が柿崎のような人間に知られないまま存在してきたとするなら、一度襲った相手は確実に殺すか、洗脳するかする必要があった。その時点ではどちらかというと可能性が高かったはずの選択肢はまったく頭に登って来なかった。ミナエがまた来ることを恐れつつ、それを切望しているような、不思議な気持ちだった。

一週間ぐらい経ち、なんの捜査も進展せず、雑誌の記事にもならず、少しペニスも癒えてきた夜だった。個室の扉がすっと開いた。看護師の巡回かと思ったが、扉から滑り込んできたのは白いターバンをかぶった大柄の男だった。ナースコールに手を伸ばすべきか、ブラックライトに手を伸ばすべきか、悩んだ。そうしているうちに、大男が指を口に当ててシーッと沈黙を促した。

I’m your side君の味方だ

大男はそう言った。柿崎はカタコトの英語で会話をした。男はヴァンパイア・ハンターらしかった。ミナエをおびき寄せるために、柿崎の血が必要だという。ヴァンパイアには場所に関する記憶がほとんど残らない。人間とその血に関する記憶だけが強く残る。一度血を吸ったものは眷属となり、ヴァンパイアの止まり木となる。だから、柿崎の血が必要らしい。朴訥とした、ドバイのダイビングショップにでもいそうなこの褐色肌の青年がヴァンパイア・ハンターだという申告には、もっともらしさがあった。現実というのは、そんなものかもしれない。たとえば、江東区の夜の病院でいきなりアラブ人の青年がヴァンパイア・ハンターだと名乗るような。柿崎は親しみやすい者アナスの求めに応じ、血を提供した。アナスは馬鹿丁寧に——それこそ、これまで出会った看護師とくらべても丁寧すぎるぐらいに——採血を終えると、アンプルを大事そうに抱えて、個室の扉から出て行った。引き戸から顔を出して「明日トゥモロー」と神妙に言うアナスの顔は、なんだかとてもユーモラスだった。柿崎は目を覚ましてから、昨日のことは多分夢だったのだろうと思った。夢らしい夢だ、と。左腕の内側に残った採血の跡を見ると、ふわふわとした気持ちが残った。

木曜日の昼食を終えたあと、理学療法士がトイレへ付き添うことになっていた。二十代前半だろう、若い理学療法士は柿崎が負った障害について、体育会系の後輩じみた深刻さで接した。ちょっとした動きのズレで痛みを訴える下腹部を調整しながら洋式の便所に腰掛けると、理学療法士は「マジで災難でしたね」と、眉をひそめた。確かに、災難としか言いようがなかった。女の子とちょっと遊ぶつもりだったのが、いまはセックスもままならない。セックスのない人生がどんなものか、柿崎は想像してみようとした。が、よくわからなかった。セックスがないと、どうなるのだろう? 惨めだろうか。それとも、単純にモテなくなるのだろうか。いずれにせよ、勃起しなくても、人生は続くのだが。

リハビリを終えると、柿崎はリハビリルームの前にある椅子に座った。少し休もうと思ったのだ。カテーテルの袋をぶら下げた点滴棒を掴んで座る柿崎は、重度の内蔵疾患を抱えているようにでも見えたのか、三人の高齢者に話しかけられた。その中の一人、感じの良さそうな老婆がまだ封の空いていないアーモンドチョコを一箱まるごとくれた。

「ありがとうございます。寝る前に食べます」

柿崎がそう言うと、老婆は悲しげに笑い、リューマチで足が痛むんでねえ、と膝を擦った。水菓子を売って生計を立てたが、重労働がたたったのだという。チョコレートは老婆の好物だそうだ。どんなに疲れても、チョコレートを食べれば身体の底から元気が湧いてくる。

「お兄ちゃんがあんまり元気なかったからなあ。どっか病気?」

「あ、いえ、ちょっと怪我したんで……」と、柿崎は言いよどんでから、開き直ったような気分で「おちんちんを」と付け加えた。老婆はありもしない睾丸を握りつぶされたように顔をしかめると「なに、女にでもやられたの?」と尋ねた。

「ええ、まあそうです」

「阿部定と同じね! それで、治るの? やれるようになるの?」

「まだわからんないですね」

「そう! お兄さん、ハンサムだから、治ってまた一杯やれるといいねえ」

老婆はそう言い残すと、リハビリ室へ入っていった。柿崎はアーモンドチョコのフィルムを剥がして、何粒か食べた。真新しいフィルムを剥がしてから二、三粒が一番美味かった。チョコレートのやわらかさと、アーモンドの歯ごたえと、口の中で溶けたチョコレートの甘さと、歯で豆をすりつぶした時の香ばしさ——その組み合わせはとても良く出来ていた。考えに考え抜かれて、結局のところこういう味覚に落ち着いて、多くの人がそれを愛し、ロングセラーになっている。ふと、ミナエのことが思い浮かんだ。ペニスを噛み切って吸う血は彼女にとってはチョコレートのようなものなのかもしれない。

夜になって、老婆に告げたとおり、残りのチョコレートを食べた。三粒ほど食べてから、烏龍茶とチョコレートが合わない気がしてきた。柿崎は点滴台を掴んで給湯室に向かった。下腹部に力を込めながら、よたよたと給湯室まで歩き、マグカップにインスタントコーヒーを注ぐ。まだ熱いコーヒーを流し込むと、口の中で甘ったるさが溶けていった。それから、少し泣いた。『7月4日に生まれて』という映画で、下半身不随になったトム・クルーズが娼婦を抱こうとして惨めさに涙するシーンを思い出した。ちょうどあんな惨めさだった。涙が収まると、熱いマグカップをこぼしてしまわないよう、慎重に歩を進めた。

病室へ戻るとベッドの脇にアナスが座っていた。アナスは肩で息をしながら、握手を差し出しだ。柿崎は握り返した手からアナスがひどい怪我を負っていることを感じた。アナスは激しい戦いによってミナエに勝利したようだった。

「フレンド、これがニコラ・リューの頭」

アナスの言葉——ミナエの本名がミコラ・リューだという言葉——は柿崎の胸を喜びに震わせた。アナスは膝に置いていた包みを解いた。中にはボロボロになった女の生首が入っていた。瞼と口になにか付いているとよく見たら、糸のようなもので縫い付けられた跡だった。髪の毛は虎刈りといっていいいぐらい短く切られ、鼻の一部は欠損していた。純粋な血を持つヴァンパイアの真祖は殺すことができない。理由はわからないが、ヴァンパイアの真祖を殺すと、より強い別の真祖が生まれることになる。まだ捉えられていない真祖はこの世界に少なくとも十八人いる。アナスの一族は真祖を捕らえると、人を魅了する目や、呪いを唱える口、呪術のにえとなる髪の毛を封じて無力化した上で、アナスの故郷の洞窟で保管する必要がある。

柿崎の胸に沸き起こってきたのは、恐怖や憎しみよりも、砂糖水のような哀れみだった。柿崎はその醜く損壊した生首を拾い上げ、そっとキスをした。ミナエの唇を縫い付けた糸のようなものは熱い痺れをもたらし、糸の隙間から感じる唇は冷たかった。自然と涙が溢れ、生首を強く強く抱きしめた。

「フレンド」

アナスは柿崎の腕を掴んで制した。残念そうに首を振っている。柿崎はたんに魅了チャームの呪いにかかって眷属キンになっているだけだった。チャームはヴァンパイアが死なないかぎり解けないが、真祖を殺すことはできない。辛いだろうが、我慢するしかない。初恋の幼なじみに生き別れるよりは辛くないはずだ——柿崎はアナスの説明が終わるのを待たず、ミナエの唇を縫い付けた糸のようなものを取ろうと指をかけた。その瞬間、アナスは刃物のようなものを柿崎の眉間につきつけた。柄の部分が冷たい銀色で装飾され、刀身が湾曲したナイフのようなものだった。緑色をしたアナスの瞳には、これまでの親しげな雰囲気はいっさいなくなっていた。

“Just charmed. It’s not real.”

湧き上がる哀れみが本物リアルではないと言われ、どうしようもない、と思った。かなうもそう言っていた——カッキーは本当に人を好きになったことがないんじゃない——と。でもそれなら、と柿崎はひとりごちた。いまのこの思いは本物なんじゃないか。

アナスは柿崎の腕からミナエの首をひったくると、包みにしまった。包みには月や太陽などの天体が一定の規則のもと描かれていた。それがなんらかの呪力をもたらすのかもしれなかった。ミナエの顔は天体の中で見えなくなった。

 

 

退院の日、ロビーで中村かなうが待っていた。退院の付き添いだった母は、彼女の姿を見て「彼女?」と耳打ちした。「いや」と柿崎は強く否定した。そんなことはありえなかった。柿崎は近いうちに会社を辞めて東京を去るつもりだった。マンションを売って、その金を持ったまま戻らない旅に出るのだ。

「じゃあ、私、遠慮するわ」

母はそう言うと、病院前のタクシープールに向かった。以前だったら少し腰の曲がったその姿を見て、孝行の念が湧いたものだが、いまは家族への愛情がまったくなくなっているのを感じた。

「今のお母さんだよね」と叶が尋ねた。

「そうだよ」

「なんか、邪魔しちゃった?」

「いいよ、気にしないで。家、近いし。彼女だと思って気を使ったんじゃない。先に家帰ってるらしいし」

「怪我は、大丈夫?」

「どうだろう。くっついてはいるけど、セックスはもうできないかもね」

叶は少し黙りこんだ。うつむいた顔を前下りのボブが隠している。何か言おうとしている。その予想通り、叶は「私、カッキーのこと好きだよ」と呟いた。

「ごめん、俺、好きな子いるんだ」

叶は泣きそうだった。

「誰? その、あそこを切り取った人?」

「そう」

「犯罪だよ、そんなの……」

そう言って顔を覆った叶に対して、柿崎は「ニコラ・リューっていう吸血鬼でさ」と言おうとしたが、なぜか声が出なかった。喉の奥が引きつって、窒息したようになった。ミナエのもたらした呪いが今もこんな風にして自分に効力を発揮していることが、柿崎は嬉しかった。

「まあ、飯でも食おうよ」

柿崎はそう言って叶の肩をぽんと叩いた。襟元にフリルのついたノースリーブからのぞく肩はしっとりと湿っていた。日焼け止めの脂っこさと女の汗の匂いがつんと鼻をついた。この匂いは映画にはない——そう思うと、砂漠の奥まった洞窟でミナエの封印を解いて彼女の髪の匂いを嗅ぐのがたまらなく楽しみだった。

2016年8月23日公開

© 2016 高橋文樹

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