残り香

日常(第9話)

瀧上ルーシー

小説

1,362文字

彼の匂い。

彼が二人で暮らしていたアパートから出て行ったのは、つい先週だ。彼から聞かされた別れる理由は、他に好きな人が出来た、という在り来たりなものだった。彼は服や貯金通帳などの最低限の物しかアパートから持っていかなかった。1Kのアパートからは依然、彼の匂いがしていた。出て行かれてすぐの頃は盛大に泣いたしお酒にも逃避した。今はもうそんなことはない。どんな気持ちだって時間と共に風化していく。それがたとえ初めて同棲した彼氏への気持ちであってもだ。

今日は彼が残して行った物をすべて処分するのだ。友達も会社で話す人くらいしかいない私の休日は、彼がいないと家事くらいしかやることが見つからない。それかお酒を飲むかだ。昼間から飲む日もわりとあるので、いつか私はアル中になるかもしれない。

洗面所兼台所の流しの縁に載った硝子のコップから彼が使っていた柄が青い歯ブラシを取ってゴミ箱に投げる。色違いの私が使っている歯ブラシも一緒に捨てる、今度はデザインが全然違う物を買ってくればいい。毎朝一緒に姿見の前に立って歯を磨いた思い出の証拠が消えていく。

彼が暇さえあればやっていた家庭用ゲーム機とお気に入りの映画のDVDと漫画の本や小説をダンボール箱に詰める。中古ショップで換金する予定だ。自分から別れた負い目があるだろうから、彼はそれくらい怒らないはず。

いつも会社に行くときの革靴ばかり履いてあまり履いているのを見なかった、彼のスニーカーもゴミ袋に詰める。これは換金しても千円にもならないと思う。有り触れた四千円から五千円程度で買える運動靴だ。靴からは一種の夏の臭いがした。

彼が定期購読していた雑誌を束ねてビニール紐で縛り、貰ったペアリングを窓から投げ捨て、同じく貰ったぬいぐるみをゴミ箱に詰める。誕生日に彼に買ってもらった服や枕やアクセサリーを換金できそうな物と価値の無さそうなものに別ける。こうして彼との思い出の証拠が消えていく。数年経てば、彼とのいろいろな触れ合いまでも、本当にあったことなのかわからなくなりそうだ、だってその証拠をこれからすべて捨てるのだから。

荷物整理が終わると、一部屋しかない部屋に掃除機をかけて、ユニットバスとトイレを掃除して、もう自分の物しか置いていない玄関で靴を磨いた。

それからベランダに出て煙草を吸った。惰性であまり好きな味ではない彼と同じ銘柄を買ってしまっているが、この煙草が終わったら、違う煙草に変えようと思う。今度は細くてメンソールで軽い、女性らしい煙草にしたい。煙草煙草している今時殆どの男が避けるような銘柄を彼は毎日二箱も吸っていた。有り体に言って、彼は男臭い男だったのだ。

まだ昼前だ。休日はたっぷり残っている。ソファに座ってテレビを観ていると、となりに彼がいないのが気になった。きっと私は彼のことがまだ好きだ。本当なら新しい女になんか取られたくない。だが彼はもういない。

しばらくぼうっとしていた。ソファから立ち上がり棚に置かれている綺麗な小瓶に気がついた。シュっと自分の手首に吹きかけると濃い彼の匂いがした。この香水がなくなるまでに彼のことを綺麗さっぱり忘れたいと思う。でもどうしても寂しいそのときは彼の匂いを身体に纏うことにする。あと何回分彼の匂いは残っているのだろう。

 

2016年6月27日公開

作品集『日常』第9話 (全12話)

© 2016 瀧上ルーシー

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