パラダイム蝉時雨

狐塚月歩

小説

3,263文字

じりじり、じりじり。まるで鳴りやまない蝉時雨が村じゅうを支配するかのような。

じりじり、じりじり。陽射しにあぶられた蝉がひとつ、またひとつ。林のわきにある道ばたに仰臥したまま死んでいる。

脚を折りたたんでいるあたりそれは、和歌の世界で即身仏にも例えられるとおり神仏へと祈りをささげるかのようだった。

聞こえよがしな本能が呼吸器官にまでしみてゆくかのごとく。

蝉たちの鳴き声がかまびすしいままに告げるのは、仲間たちの生存だった。

鳥の鳴き声がひとつあがった。もうじきに正午になることを、山寺にて飼育されている年老いて頭が呆けた鶏が先駆けてときを告げる。

―鐘がちょうど、ふたつ鳴った。

大気が深く浅く、波紋となり村中の正午を鳴動させている。

そんな日常が夏の恒例だった小規模な集落でのこと。

明治の末の年八月二十四日、エボシの村に夏がおわる。

午後はまだ始まっていない。

山村にあたって石清水の流れに川魚の群れと戯れるのは子どもたちだけではなくて。

突如として水面へと浮かびあがった水草のようにたゆたう厭に綺麗な黒髪だった。

きゃあきゃあと悲鳴をあげながら、十二、三歳の大将を主とした水遊びの群れは皆で蜘蛛の子を散らすように逃げまどう。

村まで逃げ帰った年長の子らが息せききってまことしやかに言うことには、清流にあったのは女性の水死体だった。

真水でふやけた目の玉のうちにある黒目がどろり。と、朝飯にたまに出る味噌漬けにした卵黄のように溶けた様相をていしていたことが印象に焼きついてはなれないのだ。と述べたてたものなので、村の役場も兼ねた集会所はたまげた。

大人たち総出で話にあった清流のあたりまでゆくと白い着物をきた黒い髪の長い女の死体が淵に浮いていて、脚を縄で岩にくくりつけられたうえに袂に石を詰めずっと水底のほうへ沈んでいたのだろうと推測された。

死後、数日が経ったので腹にたまったガスにより浮きあがってきたのだと、エボシの村では大人たち皆で噂したものだった。

それは、五年前に隣村から嫁いできた、この村のはずれにてマタギを生業とする佐々木与次郎という男の嫁だった。名前を常という。

一週間前から居場所がわからなくなっていたのだったけれども、どうしてそんな場所で変わり果てた姿になって発見されたのかというのは、まだ、日本政府によって全国へと配置された警察もない土地のことだったのでさだかではなかった。

鮎や虹鱒が獲れる石清水の河原に寝かされた鈴木常はまるで、村の外れにある寺に飾られている地獄絵図の屏風へ描かれた餓鬼のように膨れあがった腹部をしていたものなので、その場に居合わせた村人たちのなかでも神経の細いものは、皆いちように手を合わせ、眼を閉じると水死体を見ないようにして歯を喰いしばり、

「ああ。」

と、うめいた。

五十がらみになる住職は経を唱え終わるとこう言った。

「恨むなよ、常。お前は、この世の業をたらふくになるまで呑んで、あの世に行ったんだ。」

私はめずらしく、その日は他の子どもたちと水遊びをすることなく家で梅干しのような祖母といっしょに塩を振った西瓜を食べていたがゆえに、女の死体が浮かびあがったところには居合わせなかった。

大人たちのあとに金魚の糞のようについてきた八つの子どもだった私にはまるでつかみどころのない話だったのだけれども、

「もうひとり居るかも知れんぞ。探せ、さがせ。」

という大声に我にかえった祖母は、子どもの教育に悪いと判断したと見え、私と手をつないで帰路についたことをよく覚えている。

つないだ手は、年寄りのことだからかそれとも動揺のためか、かじかんでいるかのように冷たくて、そのくせ汗をじっとりとかいたぬめぬめと気持ちの悪いものだった。

心中の作法に則った装束をしていたくせに、常という二十八、九の女は、たったひとりで死んでいた。

「しっ。」

深い、本当に深い感銘をうけたらしい母がそれを夕飯の席で虹鱒か何か、川魚を焼いたあとの囲炉裏をつつきながら話していたのを、祖母がたしなめたのだった。

好奇心旺盛な兄と私が、話にくちばしをはさまずに静かにしているのを察したのだろう。

祖母。察しのよい彼女ならではの間の取りかただった。

家には、一昨年他界した祖父をのぞいた父と母に年の離れた兄と私と祖母が暮らしていた。

村の男たちがてんでに上流や下流の淵や流れのあたりをてんでに自宅から持ってきたらしい長い物干しざおや青竹でつついて探したけれども、もうひとりあるはずだったと思われていた溺死体は見つからずじまいで、警察へと知らせを届ける使いには、まだ若くて駿足で有名な、その年で二十六になる私の兄が選ばれた。

名前を平八という兄は、陽に焼けた浅黒い肌で上背があり村中の若い男たちのなかではそこそこ姿かたちが整っているほうではないだろうか。

妹の私からしてみても明白なまでに女から人気のある存在だったので、この村の人気者である彼は私の誇りでもあった。

電話もまだ通っていなかったころだった。

なので、山を三つ越した場所にある警察署までの道のりを、その日の夜になってから、彼はたったひとりで急ごうとしているのだという。

とっぷりと陽が暮れた街までの道というものは、成人した男の脚で片道五時間ほどだ。

警察が村へと到着するとすれば明日の朝になるだろう。

片手に灯りを灯さないままのカンテラ、腰のベルトには山刀をさげた私の兄は意気込みながら、

「じゃあ、行ってくる。」

と村の大人たちへと挨拶をした。

陽が暮れかかった途中で急に思いついた彼は近道をしようと、慣れたけもの道へと分けいった。

「何、この山なら自分の家の庭と変わらんよ。」

日ごろからそう豪語するだけのことはあって、兄は、林業を営む叔父の次くらいに山に詳しい男だ。

そんな彼は人がひとり死んでいたという事件ののち、動揺したのかどうかはしれないが下り坂で脚を踏みちがえたらしい。

そろそろ陽も暮れてきたのだと自覚した彼は、無精で点けていなかったカンテラに火を灯す。

近道をしようと勾配がきつい水辺を通ろうとしたのがそもそもの間違いのもとだった。

そう判断した私の兄は、浅瀬で何ものかに脚をすくわれるようにして地下足袋を履いた足首をぬめったものにとられてすべった。

「うわあ。」

叫び声をあげたい気分におそわれながら自分の足首のあたりをよく見ると、厭に綺麗な黒くて長い毛がからみついているではないか。

―不気味でしかない。

そのときはそう思ったが、しかし、足首に毛のみがからみついた程度で大の男は足もとをすくわれはしない。

奇しくもそこは、佐々木常の死体が見つかった淵の下流の河原にあったのだ。

―まさか。

暗がりのなか、おそるおそる照らしだしたさきには女の死体があった。

そのへん、豪気な彼は誰の死体かどうかくらいは確かめようとしたのだろう。

カンテラで照らしだしたさきには、昼間水死体で見つかった女、むしろで覆われた佐々木常の死体があったのだった。

「やっぱりな。」

そこにいたのは村の若い男たちを従えた住職だった。

「常の件、お前が誘ったのだろう。どうりで街とは真逆のこの河原まで来たというわけだ。」

私の兄を取り囲む包囲網はじりじりと輪をせばめて、彼を取り押さえようとしている。

佐々木常の心中相手は、おそらく兄だったのだろう。

どこからともなくやってきた翌朝、朝日が昇る前に兄は村から姿を消していた。

じりじり、じりじり。陽射しにあぶられた蝉がひとつ、またひとつ。林のわきにある道の上に仰臥したまま死んでいる。

脚を折りたたんでいるあたりそれは、和歌の世界で即身仏にも例えられるとおり神仏へと祈りをささげるかのようだった。

聞こえよがしな本能が呼吸器官にまでしみてゆくかのごとく。

蝉たちの鳴き声がかまびすしいままに告げるのは、仲間たちの生存だった。

鳥の鳴き声がひとつあがった。もうじきに正午になることを、山寺にて飼育されている年老いて頭が呆けた鶏が先駆けてときを告げる。

―鐘がちょうど、ふたつ鳴った。

2016年6月26日公開

© 2016 狐塚月歩

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