揺籃

揺籃(第2話)

瀧上ルーシー

小説

44,084文字

高校中退でニートの俺と統合失調症で妄想を抱く妹の生活。

ソフトクリーム食べたい、百合子は暑さに参った小鳥のような声でそう言った。近くのベンチに彼女を座らせると、売店までそれを買いに行った。売店の前には五、六人の客が列をなしていた。皆額に汗を滴らせている。外は炎天下だった。百合子が行きたいと言わなければ俺は遊園地になど来ない。ただ可愛い妹の喜ぶ顔が見たくて家から三時間近くもかけてここまで来たのだ。売店のレジの前で五歳から小学二年生くらいに見える男の子がソフトクリームをチョコにするかバニラにするかミックスにするか悩んでいる。どれも同じようなものだから早くしろよと言ってやりたいが、こっちはもう二十歳になる大人なのでそんな罵声を浴びせなかった。あれ、百合子はバニラとチョコどっちが食べたいのだろう。無難にミックスにすればいいのだろうか。そうこう低レベルなことを考えていると、俺が注文する番がきた。自分の分も合わせて俺はミックスを二つ注文した。それを受け取ると百合子が座っているベンチまで戻っていく。

百合子は暑すぎてお化粧が剥がれちゃう、などと向日葵のような微笑みを浮かべて言った。ミックスでよかったか? と聞くと百合子は子供のように目を細めて頷いた。さっそく彼女は冷たいソフトクリームに蕾のような唇をつけた。俺はソフトクリームを食べながらぼんやりと百合子を眺めていた。白のキャミソールにデニムのショートパンツといった露出度が高い格好をしている。靴は涼しげなミュールだ。髪は肩までくらいの長さで市販のブリーチ剤で脱色した明るめの金髪。化粧はしているが男の俺にはよくわからない。目がまん丸く二重で唇はぽってりとしていて鼻は高くて小さい。自分の妹ながらそこそこ可愛いと思う。一方俺はといえばどちらかといえば不細工な顔をしていて、歯はギザギザだし目は細くて一重だ。もう一時間以上もアトラクションを目指して歩き回っていたので足は疲れている。俺は百合子の隣に座った。女物の香水の甘い匂いがした。

「おいしいね、おにいちゃん」

「そうだな」

百合子はそれから十分近くもかけてゆっくりとソフトクリームを食べ終えた。最後の方はクリームが溶けて地面にぼたぼたと白い染みを作っていた。

「もっとたくさん乗り物乗ろうね。せっかく一日フリーパスを買ったんだし」

「ああ」

それから俺と百合子は遊園地内を歩き回って、いろいろな乗り物に乗った。絶叫系マシンに乗れば悲鳴を上げ、お化け屋敷に入れば俺のTシャツの裾をずっと握っている。百合子はそんな感じだった。ふと思った。今この遊園地に兄妹二人きりで来ている客なんて他にいるのだろうか。冷静に考えれば考えるほど自分と妹の異常性が際立ってくる。俺が二十歳で百合子は十八歳だ。普通だったらお互いに恋人でも作って、兄妹とは無味乾燥とした付き合いになるのだろう。だが俺にとっても百合子にとってもお互いが一日の中で一番付き合うのが長い人間だった。仲が悪いよりは仲が良い方がいい。たった一人の血を分けた兄妹なのだから他人ではなく特別な存在だった。

殺人的な灼熱の日差しが降り注ぐ中、俺と百合子は遊園地を回った。通りすぎる周りの他人達も皆楽しそうに笑っていた。子供連れやカップル達の姿がこんなに沢山見られるのは遊園地ならではだと思う。手を繋いで歩いているカップル達の姿が目に眩しい。当たり前だが俺と百合子は兄妹であってカップルではないので手は繋がない。それは歩く歩幅くらいは合わせてやっているけど。

「おにいちゃん、次はあれに乗りたい」

百合子は童女のようにはしゃいだ甲高い声でそう言った。長蛇の列が出来ているそのアトラクションは下から見てもわかるように、コースが筒のようになっている箇所があり、乗り物が横に回転しながらそのコースを通るようだった。他にもほとんど九十度だろと言いたくなるような乗り物が下に直下するコースもあり、乗る前から俺は百合子がこんなのに乗って大丈夫なのかと心配した。俺は別に平気だ。スピードが出る乗り物は子供の頃から大好きだった。列の最後尾に俺と百合子は並んだ。ロープで区切られた列の中には、どれくらい待つのか目安が書かれたプレートが立っていて、一時間近くも待たされるようだった。

「別のにしない? 一時間も待ちたくないよ」

俺はそう言ったのだが、百合子はイヤイヤするように首を振った。

「えー、これに乗りたいよ。どうしてもダメ?」

「そこまで乗りたいなら別にいいけど」

そう言うと百合子はぱあっと笑顔になった。口から並びのいい白い歯が覗いている。

「おにいちゃんありがとう。わたしおにいちゃんの妹で良かった」

「ニートなのにか。高学歴で働き者の兄貴の方が良かったんじゃないか」

俺は学校に行ってなければ働いてもいない無職だった。もっとも百合子もそうなんだけど。

「ううん、この」百合子は俺の腕をやんわりと掴んだ。「おにいちゃんがいいの」

まったく可愛い妹だ。適当な雑談をしながら列が前に進むのを待った。しかし次の次くらいで乗り物に乗れるというときに、百合子はぶつぶつと独り言を呟きだした。本当に小さな声なので何を言っているのかわからないが、今は嫌だよ、え、どうしても? わたしを困らせないで、……わかった、なんて断片的に聞き取れた。百合子はおにいちゃんごめん、と泣きそうな顔で言うとロープを下からくぐって列から抜けた。

「ちょっと待てよ」

俺も列から抜けて百合子を追いかける。彼女は走った。遊園地内での鬼ごっこが始まる。人が多くてすぐぶつかるので俺は全力疾走できない。百合子は何度も赤の他人にぶつかりながら前に進んだ。そうして数分間走り回っただろうか。百合子は銀色の金属製で出来ている壁の前で立ち止まった。鏡のように反射して壁には百合子の全身が映った。呆然とする俺をよそに彼女は不思議な動きをする。ぺたぺたと銀色の壁に触ると、まるで見えない糸を引くかのように百合子は腕を引いた。当たり前だが何も起こらない。

「どうして。ここが〝扉〟なんじゃないの」

俺は彼女になんて言うべきかわからなかった。百合子はヤク中毒者みたいにへんな踊りをしながら壁に何度も話しかけていた。そのうちに人が集まってくる。他人達は遠巻きに俺と百合子を眺めていた。俺は言ってやった。

「扉だか真実の世界だが知らねえけど、そんなもの無いからな」

百合子は俺の台詞を無視して、どうして、どうしてと壁を何度も殴った。俺はゆっくりと近づいていくと彼女を羽交い締めにした。放っておくと遊園地の係員が来るし、下手したら警察まで呼ばれてしまう。百合子は狂乱に陥って、涙さえ流しながら喚いた。

「こんな世界嫌だ。早くわたしを〝真実の世界〟に連れていって」

その泣き顔は心底この世界が嫌いだというふうに歪んでいた。俺もそうだが、百合子も人生が上手くいっていない。だからこの世界とは違う本当の世界がどこかにあるなんて夢を抱くのか。

俺は羽交い締めにしたまま百合子の身体を引きずると、近くのベンチの上に横たわらせた。ボディバッグから頓服薬を取り出し、百合子の口の中にそれを放り込み俺が口つけたものだがコーヒーが入っているマグボトルを持たせた。百合子はもう疲れたのか抵抗することなく薬を嚥下した。いわゆる向精神薬だ。俺の妹は病んでいる。自分が病気だと認めていないが彼女は百人に一人がなるという統合失調症に罹患していた。俺の膝を枕にし、ぐったりとした百合子は言った。

「真実の世界は本当にある。早く扉を見つけないと」

何度言ってもわからないやつだ。せっかく遠出してきたのにムキになって喧嘩したくないと思い俺は黙っていた。ベンチの上には屋根なんてない。熱い太陽が俺と百合子を焦がそうとしていた。百合子はぐったりとして一言も喋らない。俺は、帰ろうかと言った。百合子は俺の腹に顔をつけたまま、いいよと頷いた。

 

窓からは無表情に規則的に並んでいる街灯の明かり以外何も見えない。バスには俺と百合子の他乗客がいなかった。薬も飲んだし疲れたのか、百合子は隣の俺にもたれかかって眠っている。

一時間に二本しか出ていないバスに乗って駅に、これだけで三十分。一時間に三本しか出ていない電車に二時間以上乗って遊園地に到着。電車やバスを待つ都合もあるので、帰りはもっと時間がかかった。四時前には遊園地を出たのに時刻はもう午後七時を回っていた。季節がら外はまだ真っ暗ではない。香水の甘い匂いがする。出かけるとき以外つけていないみたいだが百合子の匂いといったらこの匂いだった。自分が彼女の兄貴だって自覚させられる匂いだ。

バスは鈍い走行音を立てて田舎の街を走った。家の近くにコンビニはあるが、それ以外の買い物施設は少し離れた場所にある。足がなければ何もできない街なので、ニートの俺でも中型バイクを持っていた。もちろん親の金で買ったバイクである。大学に行っていないどころか俺は高校中退だった。これからのことが不安で仕方ないが俺には労働意欲がなかった。三十歳までにはそれが出てくることを祈りつつ、俺は目をつむった。十分ほど目をつむっていただろうか。バスの運転手が話しかけてきた。ひょうきん者の声だった。田舎のバスなのでこういうことがたまにはある。

「お兄さん、可愛い彼女さんだね」

正直たまにそう勘ぐられることがある。慣れているので喜びもしないし怒りもしない。

「妹っす」

そう答えると運転手が動揺したのか、バスが横に揺れた気がした。

「嘘でしょ? 最近の兄妹がそんなに仲いいわけないよ」

「でも本当に妹です」

少しの間運転手は黙った。ミラー越しに運転手の顔が見えた。どこにでもいるような中年男だった。

「なら妹さんを大切にしなよ。おれがお兄ちゃんだったらこんな可愛い妹さんが結婚して家を出て行くときには泣いちゃうかもな」

俺はぎこちない愛想笑いだけを返した。百合子が結婚……もしそうなったら泣きはしないだろうが、喪失感のようなものを感じるのかもしれない。百合子は病気で俺が見てないとまともに生活できないが、器量もいいのでいつかは結婚して家を出て行くのだと思う。そうなったら俺には何が残るのか。案外労働意欲が出てきてニートを自主的に脱出するのかもしれない。

隣で眠っている百合子の髪を撫でた。脱色しているのにかさかさではなく子供の髪のように柔らかく細かった。俺は百合子がまともになるまでの間彼女を守ってやらなければならない。

 

朝六時。俺は箪笥、机、ベッド、本棚、パソコン、テレビが当たり前のようにある自分の部屋で目を覚ました。ニートの分際で恵まれていると自分でも思う。目覚ましをセットしていなくてもだいたい毎朝この時間に決まって起きる。両親は共働きで、もう家にいない。高校を中退して以来段々と食が細くなってきて、今では朝飯など食べなくなっていた。両親も百合子も食べる方だが、誰もおかずなど作らず食パンにマーガリンを塗って牛乳で流し込むだけだ。

昨日のことがあるので静かに俺は百合子の部屋まで歩いていった。起こさないように抜き足差し足でだ。静かにドアノブを捻り彼女の部屋に入ると、クーラーの稼働音が耳に障る。ベッドの上では枕元のぬいぐるみに囲まれて百合子は眠っていた。俺と同じように机の上にはパソコンが乗っている。俺のパソコンはデスクトップ型で彼女のパソコンは若者らしくノート型だ。百合子は昨日の騒ぎが嘘のように眠りこけていた。身体の上にはタオルケットがかかっているが、白い肩や太股がはみ出ていた。百合子は冬はパジャマを着るが夏は下着姿で寝る。白い上下の下着が百合子の汚れなき心を表しているようだった。百合子はよくも悪くも純粋だ。純粋だから聞こえてくる幻聴の声を無視できないのだと思う。俺は百合子の安らかな寝顔を見て安心すると歯を磨くために階下へと下りた。

部屋に戻ってきて何をしようか悩んでしまう。三百六十五日二十四時間、誰にも束縛されない生活のため、朝起きてまず頭を使うことと言えば、その日何をして時間を潰すかだ。一応日課もあるのだが、その日課すら強制されていないし強迫観念があるわけでもないのでやらない日はやらない。ようするにただの自己満足だ。今日、俺は古いRPGをして時間を潰すことにした。様々な限定条件を自分で考えてそのRPGでは何度も遊んでいる。レベル1クリアなど朝飯前だ。少しでも長く遊ぶために俺は、キャラクターのジョブを白魔道士に固定してしかも本来四人いるパーティを三人わざと戦闘不能にして一人旅をすることにした。そうなるとこのゲームをクリアするまでのメインはレベル上げになってしまう。別にいい。ただの時間潰しだ。そんなに時間を潰したいならネットゲームでもやれと誰かに言われてしまいそうだが、ネット上とはいえ他人と一緒に時間を過ごすのは嫌だった。ゲームくらい黙々とやらせてくれ。ゆるやかに熱中している時間を過ごしていると部屋のドアをノックされた。俺は、入っていいよと答えた。部屋着のピンクのジャージ姿の百合子だった。昨日と違ってすっぴんなので眉毛は薄いし睫にボリュームもない。それでもそこそこ見られる顔だ。おにいちゃんおはよう、と彼女は言う。俺も、おはようと返した。無言で百合子はフローリングの床に直に座っている俺の隣に腰を下ろした。百合子はゲームをやらないがよく隣で俺がゲームをやるのを見ていることがある。百合子も俺と同じく高校を中退してから今までニートなので、きっと時間を潰せればなんでもいいのだ。病気で療養している人間をニートと呼ぶのは抵抗があるが、面倒なので百合子のこともニートだと思っておく。

少しの時間俺の隣に座っていると百合子は、顔洗って朝ご飯食べてくるねと言って俺の部屋から出て行った。百合子がいなくなって俺はパソコンを起動させた。百合子のブログを確認するのだ。ブックマークから百合子のブログ『真実の日記』を開いた。そこはピンクと白を沢山使った可愛らしいデザインのブログだった。ブログタイトルの周りには花が咲いている。

 

『今日はおにいちゃんと二人で遊園地に行ってきました。ジェットコースターやメリーゴーランド、ゴンドラ、お化け屋敷、ミラーハウス。どれも楽しかったです。

何度も書いているけどわたしはおにいちゃんが大好きです。ニートのわたしをこの世界で相手してくれるのはおにいちゃんくらいです。

お昼ごはんのハンバーガーも途中で買ってくれたソフトクリームもおいしかったです。あ、でもソフトクリームはバニラだけの方が良かったかな。わたしって一つの味を長く楽しみたいタイプだし。

遊園地で楽しいひとときを過ごしていると、突然ナビが聞こえてきました。楽しい時間を邪魔されたくなかったけど、わたしのたったひとつの夢は真実の世界に帰ることなので、無視できませんでした。ナビは〝百合子、はやく走れ〟とか〝なにやってんだよ。早く真実の世界に帰ろうよ〟と言ってました。わたしが応答するとナビは〝帰れなくなってもいいのか〟とか〝ぜったいに後悔するぞ〟とか言ってきました。真実の世界に帰れなくなるのは嫌なのでわたしは遊園地の中を走り回って、扉を探しました。本当に扉になるかわからないけど鏡の前でわたしは儀式をしました。すると鏡の中にぼんやりと女の人や男の人が何人か見えました。わたしは彼らに真実の世界まで案内させるために、鏡からこの世界に召喚しようとがんばりました。だけれどどれだけがんばって引っ張りだそうとしても彼らは出てきてくれませんでした。

ごめんなさい、混乱して扉を殴ってしまいました。すると扉の中の彼らは痛そうに顔を歪めて耐えていました。そこでわたしはおにいちゃんに羽交い締めにされてベンチまで引きずられていきました。おにいちゃんは本当にいい人だけれど、真実の世界のことを信用してくれません。どうしたら信用してくれるのかな?

真実の世界には帰れなかったけど楽しかったです。以上日記おしまい』

 

百合子の日記はいつも『以上日記おしまい』で終わる。

俺は真実の日記を閉じると、匿名掲示板へとパソコンをアクセスさせた。百合子は奇っ怪な日記をインターネット上に公開しているため、それを監視しているユーザー達が現実にいる。彼らは真実の日記が更新される度に掲示板の中で百合子を罵ったり下品な冗談を言ったりしていた。純粋な百合子は自分が現実で監視されているなんて知らないで馬鹿真面目に毎日ブログを更新していた。俺は百合子が傷つくのが怖くてそれを教えていない。匿名ユーザー達は百合子の陰口で盛り上がっていた。真実の日記には百合子の顔写真までもアップロードされたことがあるので、中には百合子とセックスしたいと言うユーザーまでもいた。住んでいる場所も都道府県までだが特定されている。いつか犯罪に巻き込まれるのではないかと俺は心配しているが、ニートの百合子のささやかな楽しみを奪うことはできなかった。百合子は弱い。だから俺が守ってあげなければならないのだ。

俺はパソコンの電源を落とすと、また元のように昔のRPGをプレイしだした。少ししてまだ眠たそうな顔をしている百合子がノックをして部屋に入ってきた。しばらく俺がゲームをしているのを眺めていると、また寝るね、と言って百合子は部屋を出て行った。百合子が出て行ってからもしばらく俺はゲームをしていたのだが、飽きてきたので日課に勤しむことにした。

 

 

今日は彼女とデートだ。朝早くに起きてリョウタは家から外に出ると、車を洗車しだした。夏の空に水しぶきが舞う。中古で買った安い国産車だがとくに不具合もなく車体に傷もない。鼻歌交じりにリョウタは泡のついたスポンジで車を丹念に洗っている。今日は久しぶりに彼女のユリエを乗せるのだから汚い車では幻滅させてしまうかもしれない。一時間近くかけて洗車を終わらせ、ワックスをつけたボロ切れで車体に磨きをかけると、今度は車内を掃除した。ガムの包み紙を取りあえずポケットの中にしまい、コードリールで電源を家の横の駐車スペースまで引っ張ってきて、中で掃除機をかけた。数分でそれを終わらせ車の前でよしと呟くとリョウタは自分の部屋へ戻って、今日のデートに着ていく服を見繕った。Tシャツに薄手のジーンズでもよかったのだが、ユリエに余裕のある大人のように見られたかったため、ラコステのポロシャツを着ていくことにした。もうユリエを迎えに行く時間だ。専業主婦の母親にいってきますと言うと、リョウタは先ほど洗車したセダンに乗り込んだ。

田舎の住宅街を走らせる。すぐにユリエの家まで到着した。車から降りないで、クラクションを二度鳴らした。それは明るい音だった。家からキャミソールにショートパンツ姿のユリエが出てくる。おはよう、と言いながら彼女は車に乗り込む。

「リョウタ、お金どれくらいもってきた? 余裕がなかったら言ってね。私も出すから」

「十分持ってるから大丈夫だよ。これでも月に百時間弱バイトしてるからな」

居酒屋でだ。結構実入りがいい。

「夜にバイトして、大学しょっちゅう休んでるじゃん。進級できなくても知らないよ」

「大丈夫大丈夫。ギリギリのところをついてるからな。ちゃんと計算して休んでるよ」

リョウタがそう言うとユリエは不服そうな顔をした。

「寂しいからもっと大学来て欲しいってことなのに……空気読めバカ」

ユリエは隣で頬を膨らませている。リョウタは大学三年生でユリエは大学一年生だ。二人は同じ大学に通っていた。ユリエが高校生の頃から付き合っていて、もうかれこれ二年以上交際している。ユリエは顔の整った彼女だった。髪を金髪にしているのがギャルかヤンキーのようでいただけないが、リョウタに比べ顔は断然整っていた。

「寂しいたって、金がなくてデートでカラオケばかり行ってたら嫌だろ? 男は働いて女にうまい飯を食わせるもんだよ」

「別に毎回カラオケでも私は逃げていかないけどね。私が好きなリョウタがそこにいるなら」

ユリエの台詞に照れてリョウタはしばらく無言で車を走らせた。二時間ほど走らせると目当ての遊園地まで到着した。入り口のゲートの前で先にユリエを降ろす。リョウタは駐車場に車を停め彼女の元へと急いだ。ゲートの前までやってくると、ユリエがチケットを渡してきた。

「金払うよ」

リョウタがそう言うと慌てたふうにユリエは手を振った。

「いいよ。記念日のプレゼントいつもリョウタの方だけ高い物くれるし。これは私のおごり」

「ありがとう」

入り口のゲートをくぐると、この暑い中リョウタとユリエは手を繋いで遊園地を回った。絶叫マシンでもメリーゴーランドでもお化け屋敷でもユリエはリョウタの前で笑顔を絶やさなかった。途中で売店で食べ物もいくつか買った。金はリョウタが払ったのだが、ユリエは喜んで美味しい美味しいと言いながら食べてくれた。なんでも喜んでくれる彼女には金を沢山使ってやりたくなる。全男が共通してそう思うだろう。そうして夜になると遊園地内でパレードが始まって、きらきらとした眼差しでそれを見詰めるユリエにリョウタはそっとキスをした。その唇は柔らかくしっとりしていて何よりユリエの匂いがした。

 

 

台所で俺と百合子の分の昼飯を作っていた。インターネット上にはクックパッドという便利なサイトもあるし、プロ顔負けとまでは行かないが食べられる程度に美味しい物を作ることは一応俺でもできた。この日は手抜きして、チャーハンと中華の旨味調味料で味をつけた葱が浮いているスープ、それとキャベツと人参のコールスローを作った。飯出来たぞ、と台所からやや乱暴に呼ぶと、百合子はどたどたと足音を鳴らせて台所までやってきた。百合子は今日の昼飯がチャーハンだと知るとたちまち笑顔になった。栄養バランスのことも考えて肉類が魚肉ソーセージしか入っていない野菜炒めを作ることもある。それに比べたらチャーハンでも当たりメニューなのだろう。いただきますと言って百合子はチャーハンを口に運んでいった。

「おいっしい……昨日遊園地で食べたごはんもおいしかったけどやっぱりおにいちゃんの作るものが一番だね」

はっきり言って俺が作る物はそこまで美味しくない。あくまでなんとか作れるといった程度だ。だが喜んで食べてもらえると嬉しくないと言ったら嘘になる。百合子が美味しそうに食べてくれるから俺は楽しみながら食事を作れるのだ。

「なら、もっと食べるか? 俺の分のちょっと取っていいぞ」

「いいの? ありがとう」

そう言って百合子は俺の皿からチャーハンをスプーン五杯ほど取っていった。少ししてゆっくりとチャーハンを食べる百合子に俺は言ってやった。

「俺も人のこと言えないけど、ずっと家に閉じ籠もってるのはよくないぞ。病院のデイケアでも通ってみないか」

百合子は一年通った高校を中退してすぐに三ヶ月ほど精神病院に入院している。子供の頃から思い込みが激しいという特徴はあったが、高校で一年間も虐められたせいか百合子は訳の分からない妄想を抱くようになった。昨日の遊園地の一件もそうだ。百合子は扉を探せばこの世界ではない真実の世界に行けると本気で信じている。百合子は果たしてこの世界に絶望しているのだろうか。百合子は顔を青くさせると無言になって、気がつくと涙をぽろぽろと零していた。下を向いたまま彼女は言った。

「病気じゃないのに……真実の世界は本当にあるのに……」

こうなってしまったら何を言っても無駄なので、俺は平謝りした。そんなふうに思うはずがないが、そうだよな。どこかに違う世界があってもいいよな、なんて嘯いた。百合子はそのまま少しの間泣き続けると、涙を拭かないままチャーハンをスプーンで口に運んでいった。

「俺が悪かった。今の言葉は忘れてくれ」

「うん、気にしないようにするよ」

百合子はむすっとした表情をしている。

「機嫌直してくれよ」

「うん、本当に気にしてないから」

俺が先に食べ終わって汚れた皿や作るのに使った中華鍋を洗っていると、百合子は流しに自分が食べ終わった皿を横から入れてきた。そのまま無言で部屋に戻っていく。これも兄貴の役目だ。俺は文句のひとつも言うことなく皿を洗っていった。その後で百合子が食後の薬を飲んでいないことに気がつき、俺は部屋まで薬と水を持って行くとそれを飲ませた。百合子はまた、病気じゃないのにと不満そうに唇を尖らせた。

 

珍しく仕事へ行く前の母親に起こされた。二十歳の息子がいるにしては若々しい外見の女だ。寝ぼけた頭で俺はそんなことを考えていた。親父と母親は大学生のときに学生結婚をしてすぐに俺を生んだ。だから母親はまだ四十前なのだ。ベッドの上で目を擦っていると彼女は言った。

「百合子、家にいないから。探してきて」

それだけ言うと母親は部屋から出て階段を降りて家から仕事場へと出かけて行った。車のエンジンがかかった音が俺の部屋まで聞こえてくる。

たまにこういうことがある。〝ナビ〟と呼んでいる幻聴に従って外へ出て、真実の世界へ続く〝扉〟を探すために百合子は夜の田舎を彷徨う。現金は一円足りとも持たせていないから遠くには行けない。完全に文無しじゃ可哀想なので、インターネットの通販は利用できるようになっている。アマゾンギフト券という便利な物がこの世界にはあるのだ。〝真実の世界〟にはそんな物あるのだろうか。百合子は毎月二万円分もアマゾンで少女漫画や化粧品を購入している。

俺は着替えて顔を洗い台所に行くと、インスタントコーヒーを淹れてそれを飲んでから家の外へ出た。家の小さな門扉の前に俺のバイクが停めてある。まずは車体にかけてあるカバーを外す。ビッグスクーターと呼ばれるタイプのバイクで249CCで二人乗りもできる。俺は黒く光っているスクーターを家の外へ出すと、スマートフォンで百合子の位置を確認した。家から八キロほど離れた場所にいるようだった。百合子には内緒で彼女の携帯のGPSで位置が確認できるようになっている。毎回毎回百合子が家出をする度に俺が現われるから彼女も不思議に思っているだろうがこういう便利な物まで〝この世界〟にはあるのだ。パソコンを持っているものの今ひとつ機械にうとい百合子はGPSの存在に気がついていない。

バイクを走らせる。朝っぱらから日差しは強いが、アクセルを吹かしてスピードを出すと身体に当たる風が冷たく気持ちよかった。走っているとラヴホテルの看板と広い道路以外何も無い通りに出た。他の車は少しだけ走っている。家があるのがド田舎でよかった。混雑した道を走らなくて済むし、何より百合子が妄想故に深夜徘徊しても他人に大きな迷惑をかけられない。この田舎は百合子を閉じ込めておく檻だった。いつかは百合子の病気が良くなるのだと思うが、それまでの間この檻の役目は尽きることがない。

百合子はまだまだ続く道路しか無い場所をとぼとぼと歩いていた。両手に壊れたミュールを手にして裸足で歩いている。俺は彼女の横でバイクを停車させた。汗と香水が混ざった百合子のエロティックな匂いがした。

「今日はどうしたんだ」

ヘルメットを外してそう聞くと、百合子は涙をこぼした。徘徊の後はいつもこうだ。泣くくらいなら家でじっとしてればいいのにと思う。

「あのね、ナビに言われてここまで歩いてきたんだけど急にナビが聞こえなくなっちゃったの。だから取りあえずまっすぐ歩いてた」

ナビだなんてアニメや漫画のようなテクニカルワードを連発しているが、ようするに幻聴だ。百合子は幻聴の命令する通りに行動してしまうことがある。俺はバイクのメットインから百合子の分のヘルメットを出すと、彼女に渡した。

「いいから後ろ乗れ。帰るぞ」

その前に百合子の壊れたミュールをしまってやった。

「うん……」

百合子は後ろに乗って俺の腹に両腕を回した。百合子の手は少しだけひんやりとしていた。バイクを発進させる。家までの道を走っていると百合子が言った。風が気持ちいいね、俺はそうだな、と返答した。

客観的に考えると結構俺は百合子に迷惑をかけられているのかもしれないが、迷惑だとは感じていなかった。たった一人の妹だし、どう控えめに言っても百合子はまだ一人で生きていくことができない子供だ。弱い者を守るのが家族の基本的機能だ。誰だって生まれたばかりの赤子に生まれてきたんだから後は自分の力で生きろよ、なんて言わない。見返りを求めないで弱い同居人を守る。家族とはそういうものだ。

家に帰ってきた。百合子は帰ってきてそうそうに風呂場の脱衣所に入っていった。昨夜の何時から百合子が外を徘徊していたのか知らないが、沢山歩いて腹が減っただろうと思い、俺は焼きそばを作ってやった。風呂から上がってきた百合子はそれをゆっくりと平らげていった。俺は百合子に統合失調症を治療する薬を飲ませた。

百合子が部屋に引っ込んだ後、俺はまたRPGで遊んでいた。正午になったくらいの時間にノックをして百合子が部屋に入ってきた。いくらなんでも俺の前に出てくるときはパジャマを着ている。

「眠れないの」

疲れた顔で彼女は言う。

「睡眠薬あるぞ。でも、今の時間に飲むのはまずいかな」

「ううん、薬はいいから一緒に寝て」

ごく希に添い寝を頼まれることがある。俺はいやいやといったふうを装って百合子の部屋に入った。百合子は何も言わずにベッドの上で転がる。彼女の黄色っぽい髪がベッドの上で広がった。石鹸の優しい香りがする。少し心臓がうるさくなるが俺は百合子の横に寝た。カーテンをしていても外からの日差しが部屋の中まで漏れてくる。これは百合子でなくても眠れないのは仕方がないように思えた。隣で百合子は言った。

「もしこのまま真実の世界に行けないでここで一生暮らすのかと思うと怖くて眠れない」

もう今までに何度も聞いているが俺は聞いた。

「真実の世界ってどんなところなんだ?」

2016年6月19日公開

作品集『揺籃』最終話 (全2話)

揺籃

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© 2016 瀧上ルーシー

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