ヌバの息子たち

月形与三郎

小説

28,915文字

男女の出会いから、恋愛小説に発展するかと 思ったら、ここに本格格闘技小説の誕生。

すべての偉大なものは嵐の中にたっている(マルティン・ハイデガー。一九三三年)

 

 

オン・ザ・ビューティフル・サイド・オブ・ア・ロマンス、その曲が流れる前に美羽(みわ)はカーラジオをとめた。つぎにかかるのが、その古い曲だというのを彼は知らなかった。

強風のたち折った枝をタイヤが踏んだ。音のしたほうへと振り向いた珠美(たまみ)の瞳に、後を走るメルセデスのライトが映った。雨滴の幕をつらぬく光の源に、彼女は目を凝らした。

雲が夜空の低みに乱れている。日中の花曇りは夕方から崩れていた。降りはじめた雨が夜更(よふ)けになって嵐へかわった。風の吹きすさぶたびに、沿道の木々の枝葉はさわぎ、(おのの)きが伝う。咲きそろった桜の花びらは名残(なごり)を惜しむ(いとま)なくつぎつぎと吹きちぎられた。

待ちわびた春の盛時が到来しながら、その饗宴の絶景、悦びのたけなわが、峻厳(しゅんげん)な試練におびやかされ、責め苛まれる。風すさまじく()くる()は、何処(いずこ)からともしれず宿命を運ぶ意志の顕現にみえた。この風の(はや)さ、雨の烈しさ、包囲する闇の深さ、夜嵐(よあらし)の打ち据える舞台で踊る花びらのおびただしさ。ことごとくが嵐の中にたっている、美羽はそう思った。

時刻は零時にせまった。国道××号線は、D峠に差しかかったあたりから左右に屹立する山並みを迫らせる。上り車線の雨に磨かれた黒い路面へ、いくつか車影が映っていた。反対車線を見れば、反照の連鎖が車群を追う黄金の布を敷いて夜を彩ると、みるみる遠ざかって、あるべき闇が取り戻される。ひとつ先の信号で停止しているトヨタの大型四輪駆動車を、美羽は好奇をもって眺めた。彼のメルセデスとの車間距離が縮まると、対向車からのライトに照らされ車中の男女の諍う姿が浮かびあがる。いくつか前の信号待ちで、後ろを振り返った女と、見るともなしに、ただ、どこか示し合わせるかのようにもして視線を交わしたのを憶えてもいた。

信号が青に変わり、セダンがゆっくり発進した。まるでそれを合図にしたかのように、男女の乗った四駆のドアが勢いよく開いた。女は無数の(ひだ)を蓄えた乳白の膝丈スカートからすっと伸びた両脚を、なんともぞんざいに車外へ放りだした。運転席のほうに首を廻らしてひと睨みして、彼女の手首をきつく捉えて離そうとしない恋人の手を乱暴に振りほどいた。銀白色のブラウスの袖が光った。高ぶった調子の言葉を恋人へ投げつけ、彼女は決然と車を降りた。すまして背筋を反らせながら後方へ歩きはじめた。青年は車窓から黒いTシャツ姿の半身を乗りだし、金色に染めた頭髪を両手で掻きあげている。堅固な上体を不自然にすくめたまま、優しげな顔立ちに一刷の険しさ加えると、激昂のかすれさせた声で、

「珠美!」と名を叫んだ。珠美は、かえりみようとしない。もっと姿勢を正して果断なほどの大股で歩いている。内心は気が気でなくとも、恋人は追おうとしないで運転席へとどまっている。青年のきたえられた肉体から匂いたつ、新芽のように青臭い痩我慢が、美羽は好もしかった。

珠美は、すらりとした肢体をさらに伸び上がらせた。美羽にむかって高く両手を揚げて、頭上で二度三度と交錯させて停車を求めた。後続車の発する光芒が、彼女の姿を周囲の暗がりから切り抜いた。美羽は手前で車を止めた。珠美が足早に近づくのを待って助手席の窓を下げた。外気が吹き込んだ。すこし躊躇するふうにして珠美は車内を覗き込んだ。濡れた前髪が目元を隠し、つぶさに表情を窺えない。

「乗せてもらえませんか」と珠美は恥ずかしげに言った。美羽はドアのロックをはずした。

――市街の灯が見え始めるころから山並みは遠ざかり視界は()らけた。建物の明かりが増えるにつれ、交通は煩瑣(はんさ)になった。吹く風が雨と落花を乱雑にまぜ、中空に湿った花路が敷かれている。自転車の男、コンビニの店員、酔漢、歳の離れたカップル、見慣れた夜景色が街灯に照らされる。ひっきりなしに電話が架かってきても、珠美はでようとしなかった。

「でなくていいのか」と美羽は言うと、バックミラーの中のトヨタを見た。珠美が車に乗った直後から、それは一定の間隔で追尾していた。四駆はたくさんの濡れた花びらを身にまとっている。美羽はミラーから前方へ目を戻した。散華の桜がボンネットにも夥しく降りかかって、不似合いな装いをこらす。美羽はアクセルを踏む足先へ力をこめた。車速は百キロに迫った。

『学生だろう』と美羽は思った。これほど春にふさわしいハプニングはそうない。真昼の景色の明瞭さがありながら、遥かな夕暮れの仄かさもある美しさ。肩にかかる黒いストレートの髪にはつやつや細やかなタッチが流れている。それが怜悧な顔立ちをいっそう涼しげにする。いつもなら湖水のように瞳を潤ませているのだろうが、いまは動揺がそこに小波をたてている。

珠美の頬は紅潮していた。光輝をこぼす前歯が、蒼ざめた唇を噛んだ。よくとおった鼻筋をしきりと人差し指でなぞっている。指は正確なリズムをで上下した。彼女はサイドミラーを覗きこんだ。鏡面は曇っていて、後ろを疾駆する青年の表情を見ることができない。

美羽は、ささやかな椿事に心躍る思いなのに気づき、苦笑しながら、

「いったい、どうしたいんだい」とまた訊ねた。そうしつつ速度を上げた。百二十キロ。そして美羽は、めまぐるしく車線を変え、クラクションをけたたましく鳴らして、先行車を次々に追い越していった。

乱暴に追い抜かれ、咄嗟(とっさ)のブレーキで衝突を回避したドライバーが、スキッドオフした車の中から指を立てて美羽たちを罵った。通行人が、荒野をゆくがごとく猛威をふるう六千ccの黒騎士を眺め、あっけにとられている。四駆も加速して追ってきている。

パトカーのサイレンが聞こえた。サイレンはじりじり近づいてくる。ランデブーする二個の塊りはエンジンをうならせ、車輪に金切り声をあげさせ、大きくうねり、すれすれに先行車をかわす。車間距離を一定に保ち、重たく湿った空気を押し除け駆ける。珠美は左右に揺り動かされながら、空を眺めていた。黒雲に覆われた天蓋(てんがい)に、月の夜遊(やゆう)はない。

「月はでてないんだ」珠美は独白すると、眼差しを運転席へひるがえした。そのとき、もはや若くはない男の相貌のうちに月光の兆すのを観たと思った。刹那、美羽はハンドルを右へ斬った。タイヤが鋭くいななき、セダンが何者か急襲するかのように旋回した。傾いた珠美の体が美羽の右肩へ触れるやいなや、衝撃音とともに反対車線との間を隔てるブロックへ乗り上げた。二人の体が宙に浮こうとするのを、シートベルトが引き戻した。金属の擦れる音がしじまを破り、闇を裂いて散った火花の、力がせめぎあったすえ(とも)った華燭(かしょく)のような輝きの残映が虚空へ呑まれる瞬間に、それは中央分離帯を跳び越えていった。

 

キッチンに立った広い背中を上目遣いで追いながら、珠美は小さなあくびをした。それから両手で顔をぎゅっぎゅっとマッサージした。いま顔色は蒼褪めていて、目は充血しているだろう。唇も乾いてかさかさだ。ちっとも可愛くみえないのではないかと心配した。メイクはすっかりとれてしまっていた。容赦ない照明の強さが、容姿の些細な欠点を強調して、男を幻滅させはしなかっただろうか。バッグにはメイク道具が入っている。でも、ここで顔を直すのは、なんか物欲しそうだし、まさか、いつもはもっと綺麗なのだ、というのも馬鹿みたいだし。

『ついつい家までついて来てしまった』と、珠美はソファーに体をあずけた。固めのクッションは快い。でも、やはり落ち着かない。つや消ししてある黒灰色のレザーを張った表面がお尻にひんやりする。

春夜の嵐はやんでいた。ときおり風向きのかげんで大通りからエンジン音が運ばれてくるだけで、その一帯には夜毎の静かさが戻っていた。居間の窓にはカーテンがかかっていない。縁側を下りたところにイキシアが咲いている。先には芝生を敷いただけのそう広くない庭がある。右手には近隣のマンションの部屋がまだ明かりを灯していた。左手は神社の敷地で、雑木林が黒く群れだっていて、花びらを隙なくはびこらせて点在している桜の枝々が、暗幕のほころびのように白くその身を揺り動かす。この住まいは、著名な建築家の「現代長屋」というアイデアを真似たものだ。一九八〇年代に数多あったようなコンセプトの鉄筋コンクリート住宅だった。

珠美は首を伸ばした。ほのかに明るむ中庭を窓ガラス越しに眺めて、「なんにもないんだ」と呟いた。長方形の窓の上部には幾何学模様の色ガラスが嵌めてある。コンクリート打ちっぱなしの壁の僅かな彩だ。「あっちには、なんにもないな」と繰り返した。フローリング仕上げのリビングは広く閑散としている。氷を切ったみたいなガラスのテーブルが困惑気味な珠美の顔をぼんやり映した。テーブルの猫足は蝋色の漆塗りだ。彼女の座る二人掛けソファーと同じものが斜向かいにもう一つある。小さな木製書棚は空っぽだった。ちょっと時代錯誤な感じのするバロック調のサイドボードの上に、水仙の花へ寝そべるキューピッドを(かたど)った旧東ドイツ製の陶磁器が飾ってある。正面に大型テレビとDVDプレイヤーが置かれていた。金茶色のカーペットが敷かれている中央で、鉢植えの椰子がエアコンの風に葉裏を覗かせた。目線をひとわたりさせ、『生活臭がしない。家族はいないんだろうか』と珠美は思った。テーブルへ投げ出されていた「ジュリスト」という雑誌に目をとめた、『ジュリスト、弁護士?』

コーヒーの香りがしてきた。春の夜にふさわしい、春でなくとも相応しい、香りが満ちた。美羽は、キッチンからスペースシャトルに似た形の白銅のエスプレッソ・マシンを持ってくると、カップへコーヒーを注いだ。その手つき、異次元的な所作(アクション)、と珠美は意味不明な感想をもった。男の手が滑らかに動いてカップを珠美の前へ置いた。

そっぽをむいたまま美羽は、頭の後ろに右手をまわした姿勢で、斜向かいのソファーにゆったりと身を傾けている。淡いピンク地に金銀で装飾がほどこされたカップを彼は口に運んだ。なんだか、リラックスしているというよりも、いくらか放心癖のついている人に見えた。黒地に細かな水玉模様のネクタイを緩めている。グレーがかったダークスーツに包んだ体躯は型から鋳たみたいに強健で、身長百八十五センチはあった。胸襟を開いている。ライトブルーのシャツからでた首に太い腱が浮きだしていて、隆起した両肩はまるで高い丘だった。とてつもなく鍛えているので若く見えても、言葉遣いからして三十代半ば、あるいはもっと上なのかもしれない。ぎらぎら凄みのあるさがりぎみの大きな眼、秀でた眉、高い鉤鼻、厚めの唇、こけた頬から顎にかけての硬い線。豊かな長めの頭髪は無雑作に後ろへ撫でつけられている。無精ひげが伸びていた。ハリウッドのイタリア系スターみたいな個性派二枚目。ちょっとくどすぎはしても、哀愁がある。哀愁は年齢差のある男女が恋愛含みの邂逅(かいこう)をするには絶対必要なので、その点は合格だった。けれども隊商の足跡をすぐさま均そうとする砂漠の風のように、感情の起伏が(つまび)らかになるのを避けたがっているらしかった。オリエンタル系のコロンと混ざり合った男の匂いに珠美はちょっと眩暈をかんじた。そして、いっときでも妙な気分になったことがすぐに恥ずかしくなった。コーヒーに口をつけた。とても濃く、苦かった。

着いてから珠美は訊ねたい事があった。車中では見知らぬ土地へ運ばれていく子犬も同然で、彼女は心ここに在らずといった感じ。美羽のほうは終始にわたって憮然としていて、互いに自己紹介も済んでいない。ここへ着いてからも、なんとなく機会を失していた。変に和みすぎる前に何か言わなくては、と思い口を開いた、

「なんで私を乗せたんですか?」

しばらく押し黙っていた美羽は、ふいに「余計だったかな」と言った。ほんとにスターみたいな声、と珠美は可笑しかった。少しおいてから美羽は声を落として言った、「安心しているみたいだけれど、私が当て馬で満足するだけとは限らないと思わないのか」

と、きゅうに珠美へ覆いかぶさってきた。匂いが濃くなった。珠美は反射的に身構えながら立ち上がろうとした。それをふわと抱えた美羽は、ソファーのうえに彼女を投げ捨てた。珠美の体が、ぽんと弾んだ。こんなにも無造作に扱われたのは初めてだった。美羽は包むように、いやに自信に満ちた態度で肩を抱いた。窮屈に体を密着させて、彼女の口に唇を押し付けた。あっけないほど唐突なキスだ。珠美は足をばたばたさせはしたが、夢の中の出来事みたいで拒めなかった。

最初は骸のように硬かった彼女の唇が柔らかくなるにつれて、目は潤み頬は火照った。いそがしく吐く息があたりと異質な香気をのぼらす。体の中心で高まった期待が意に反して準備を始める。非合理的な情動の燃焼が、どこか未開地でおこった野火が炎風を運んでくる。目を閉じた珠美は、喉もとの窪みをごくりと動かした。ところが、きゅうに美羽は身を離した。瞼をあげた彼女へ、

「いまからシャワーを浴びる。あがったとき、まだ君が居たら、そのときは抱くことにしよう」と、出番の多いわりにロマネスクな台詞(せりふ)の乏しい主役がきめ台詞(ぜりふ)を言い放ったかのようにして立つと、(きびす)をくるりと返し、すたすた廊下へ通じるドアを出て、バスルームへいってしまった。

いまあったことの流れに意表をつかれた珠美はぼうっとしていた。バスルームからシャワーの音とハミング混じりの口笛がきれぎれに聞こえる。

『もし私が拒んでも、それでも、あの人は抱こうとするのだろうか』どちらにしろ美羽は「抱く」と宣言した。プライドを傷つけておいてのあつかましい一方的通告とはいえ、珠美は決断を迫られている。カードをきる役は彼女に委ねらた。『おかしな人だ』そう思いながらも珠美は去りがたい気持ちになっていた。……水音が止んだ。

――美羽はバスローブに袖を通しながら厚い胡桃のドアが開け閉めされる音を聞いた。この椿事、思えば起こりは、旧友が提起した民事事件の代理人として出張した帰りが遅くなっただけのことだった。

リビングに戻ると、珠美は居なかった。入浴後の冴えた嗅覚へ、彼女の残していった香りがひそやかに匂う。彼の促した珠美の選択が正しかったのは分かってはいても、どこか切ない気持ちを予期せず自分が抱いていることには驚いた。珠美の痕跡が、なにごとか美しい予感のように、芳しい若木の鞭で彼を打ちのめし、シルクの紐の柔らかさで、ところかまわず無神経に(まつ)わりついて、陶然とさせながら、もう一方で、いらだたせた。ロマンスには予感があるものだ、扉の向こう側で、なにかが待っている、ような。それだけならば、胸を高鳴らせるだけだ、しかし目覚めたときの頭痛の気配に似ていて、放っておくと確実に当りもする。

とうに肌は乾いていた。珠美のかけていたソファーに袋があった。『忘れ物か』大判の本が入っているのだろう。始発までは時間がある。追いかければ間に合う。美羽は庭に面した窓へ近寄った。開け放った。外気が流れ込んで、たちまち残り香をかき消した。暁闇の冷たさは彼を爽快にした。

 

雅也は道場の床にぺたりとあぐらをかいた。白いペンキの塗られたコンクリート壁に背中をもたせた。ミット打ちを終えたばかりだった。タイ人のチョウワイクン打撃コーチが、両手を肩の高さに組み合わせ、左右の膝を交互に突き上げ、流暢な日本語でまくしたてている。きんきん声だ。

「首相撲からの膝蹴りは、思いっきり高く蹴らなきゃだめだよ。疲れると足あがんなくなるから、いつもより高くあげるつもりじゃないと、弱いし、効かないから、倒せないよ」

これまでも同じアドバイスを飽きるほど聞かされている。それでも雅也は素直にうなずきながら、金色の髪から(したた)る汗を拭っていた。真紅のタオルを使う右腕の血管が薄青く脈動している。まだ荒い息づかいは、肩を上下させ、胸郭を膨らませては圧縮し、大胸筋から腹直筋にかけての描線をいっそう明確にする。窓から射し込む日の光をうけて、流れでた汗が、筋繊維の一本一本までサテンを縫いつけたように輝かせた。機能のひたむきな追究が彫琢した裸像。休憩中、雅也は、昨夜の出来事にばかり想いを廻らした。

『昨日から珠美は電話にでない。どこの誰か知れない奴と、……あんな乱暴な運転をさせてまで俺をまくなんて、一体全体どういうつもりなんだ』

本多道場は五反田駅から十分ほど歩いたビルの一階から三階までを占めている。三階フロアは、総合格闘技(注1)またはミックスド・マーシャル・アーツ(MMA)といわれる格闘競技の練習に使用されている。この階では他に、創成期の柔道に源流をもつ「ブラジリアン柔術」という寝技中心の武術と、同じく明治時代の柔道に由来する「サンボ」という旧ソビエト連邦の国民的格技を練習できる。二階には、ボクシングとキックボクシングのジム、それと少年レスリング教室がある。一階フロアで一般向けのボディビルとフィットネスを指導している。

(注1)総合格闘技の存在が世界的に認知されたのは、一九九三年から米国で催されている「ジ・アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ」通称「UFC」という大会によってである。UFCの闘いは、通常のリングではなく、「オクタゴン」と呼ばれる金網で囲まれた八角形のマット上で行われる(「オクタゴン」と名づけたのは米国の映画監督ジョン・ミリアス氏)。この大会は当初、ポルトガル語でバーリ・トゥードといわれる目潰しと噛みつきが禁止される以外はあらゆる攻撃が認められた試合形式のバイオレンス色の甚だしいものだったが、米国をはじめとする国際的な世論の批判をうけて、ルールの整備と大会運営の合理化がなされた。オープン・フィンガー・グローブの着用の義務付けによる素手での打撃技の禁止及びその他いくつかの禁止行為の追加、選手の健康と安全に関する管理体制の確立、また、グレイシー柔術及びブラジリアン柔術の世界的な普及によって防御技術が発達した結果としてのバイオレンス色の希薄化もあり、これらを経て、スポーツ競技MMAとなった。一九九○年代の日本の総合格闘技は、おもにUWFという格闘技色の濃いプロレス団体が分裂してできたいくつかの団体によって担われた。これらの団体は、フェイクファイトの要素を排除し、完全なリアルファイトに移行することで競技化を進めた。日本おけるルール面の整備は、米国に先んじて為されている。

フィットネス・クラブの女性会員二人が噂している。「あれあれ、あの人かっこいい。筋肉凄いし」「筋肉すきだよね。でも、ほんと強いよ。このまえ、テレビで試合やってたけど、黒人、ボッコボコにしてた。血だらけで死にそうなの」先々週催されたBLADEでの雅也の試合は、対戦相手のアフリカ系アメリカ人選手がなまじタフだったため凄惨な流血ショーになった。雅也がマウントポジション(注2)仰向けになっている相手の胴に馬乗りした体勢)から繰り出した顔面への連打でKOしたシーンは、壮絶なものだった。「優しそうなのにね。けどイケメンだよ」レオタード姿の見学者たちは、しげしげとウインドウ・ショッピングでもするみたいに眺めまわした。

雅也は二十四歳だ。総合格闘技大会BLADEの七十二キロ以下ライト級チャンピオンである。同階級では世界屈指の実力者だ。五年前のデビュー以来、総合格闘技戦無敗の成績を誇っている。特にこの二年は、内外の強豪選手を次々破ってきた。一昨年秋に世界トップレベルの選手十六名を集めて開催されたBLADEライト級グランプリ・トーナメントを制してライト級の初代王座に就いた。少年時分から有望な柔道選手だった彼は、高校一年生のときにBLADEをテレビで視て以来、総合格闘技に関心をもち、高校卒業後、多くの大学から誘いを受けていたにも関らず、それを蹴ってプロ総合格闘技へと進んだのだった。

真っ白なレスリングマットは十組以上スパーリングのできる広さで、三階の約半分の面積を占めている。マットの周辺には数個のサンドバッグとパンチングボールが備え付けられている。打撃練習をしている選手たちがパンチ・キックを絶え間なく放っていて、その間中、彼らは皆、サンドバッグを睨みながら歯を食いしばる。気合と胸苦しい声が、不協な和声を響かせ、サンドバッグを叩く鈍い音が道場内の空気を重たくした。寝姿勢をとるトレーナーの持つミットを跳び上がっては急降下して踏みつけたり、組み敷いた相手の持つミットにパンチを浴びせかけたりしている選手もいた。マットの端で、九十キロ余りあるふたりのブラジル人が、胸を合わせた状態で腕を交互に相手の脇に差し入れる「差し合い」という動作を黙々と続けている(注3)差し合いは有利な四つ組の体勢を取る動作のための基礎練習)。ブラジル人コーチが腕組みして見ていた。強豪二人は、日本滞在中の調整を本多道場で行っているのだ。階下の少年レスリング教室に通う小中学生が数人、めいめいサイン帳やデジタルカメラを持ち、延々と続く差し合いがいつ終わるのかと首を長くしていた。道場の隅に置かれたパイプ椅子に腰掛けている青年が格闘技誌を穴のあくほど熱心に読んでいた。記事の内容に感心したのか一人肯いている。シューズ、錘入りのリストバンド、ヘッドギア、ボクシンググローブ、オープンフィンガーグローブ、が散乱し、無造作にマットへ投げ出されているタオルと練習着が絵の具を撒いたようだ。シャドウボクシング用の鏡が何枚か壁に貼り付けてある。凝った絵柄の大会ポスターが数枚貼られ、うち一枚では、プラチナのチャンピオンベルトを巻く雅也が、大写しになってファイティング・ポーズをとっていた。

息を整えた雅也はマットにむかった。上半身裸や道衣を着た五組がレスリングと柔道が混ざったような動きで、投げをうち、組み合い、押さえ込み、より有利なポジションを取り合い、複雑に身体の自由を奪い合う。ひと組は、指先のでた薄いグローブを着けて、通常の寝技の応酬に弱めのパンチをまじえたマス・スパーリングといわれる練習をしていた。ヘッドギアをかぶり、立った状態でキックボクシング・スタイルのスパーリングをしている選手たちもいた。互いの四肢が目まぐるしく交差する。有名な女子レスリング選手が、頭だけを軸に前転するヘッドスプリングという連続動作の練習をしている。おかっぱの髪とシルバーの練習着のせいか、サイレント時代のSF映画に登場するアンドロイドみたいだった。雅也はストレッチングをしている中年男性に話しかけた。白地にカラフルなロゴがいくつもある道衣をその男は着ていた。

新居(あらい)さん、裸ですけどスパーお願いします」

「おっとっ」と新居は右四つの状態で倒れ掛かってきた選手たちをマット上へ押し戻してから、「ああ、いいよ」と気安い返事をした。そうして新居は、色褪せて萎びた黒帯を解いて上衣を脱ぎ、下穿きだけになって雅也と向き合った。雅也より数センチ背が低く一七〇センチほどだが、上体はひと回り大きい。ことに背中の筋肉の発達は見るも目覚しく、厚い甲羅を背負ったように隆起している。体重は通常時の雅也と同じくらいで八十キロ強だろう。短く刈り上げられた髪は、きちんと整えられていて、穏やかそうで理知的な風貌だった。ときおり眉をひそませた。

練習を中断した幾人かがスパーリングを観戦しようと周囲へ集まってきた。赤いサンボ衣を着た青年が興奮気味に言った、「すげえ、スーパーファイトじゃん」 女子レスラーはうなずいた。

互いに礼をした。雅也と新居は両脇をしめて、前傾の姿勢をとった。両者は、前方へだした右足のつま先に重心をかけ、右回りに立ち位置をずらしながら、間合いをじりじり詰めた。両手をやや前に出して交互に上下させたり、片足を踏み出すとみせかけたりした。ともにフェイントの動作を繰り返す。

二人とも相手の呼吸を読もうと息を詰めている。ふいに新居は、構えをボクシングでいうサウスポーからオーソドックスへ切り替えた。そうしてから左手を鎌形にしてさっと薙ぐと、雅也の後頭部を引きつけぎみに叩いてバランスを崩そうとした。その瞬間をついた雅也は素晴らしい速さで、新居の左足めがけて飛び込んだ。だが新居は、脚をふわと空へ泳がして後方に引き、易々(やすやす)と片足タックルを切ると、うつ伏せになった雅也の上半身を固定しておいてから、体をゆるりと腹の下に滑り込ませた。つぎに新居は、雅也の左の脇下に右腕をこじ入れ、同時に右足を股下に入れて跳ね上げつつ、左の踵で雅也の右膝の裏側を刈った。見学者たちは「おーっ」とか「さすが」とか、感嘆の声をあげたが、雅也は、下半身を軽々と宙に浮かされても、両脚を靡くようにして捻り、半転しながらすっくと着地した。直後、ふたりは、元の姿勢で対峙していた。

――先刻からマットの角では練習着姿の少年四人が、雅也と新居の周りを半円に囲んでいる。それぞれ楽な姿勢で床に尻をつけて座り、雅也に対して心を許した先輩に接するときの親しげな言葉遣いをしていた。この道場に通う未成年の格闘家の多くにとっては、ともすれば暗澹(あんたん)たる想像しか許さない将来、いずれ社会の低層で薄汚れていくだろう彼らの実像の延ばす長い影、それを祓うために崇拝する身近な偶像が雅也なのだった。雅也は、五年前まで自身が同じ立場だったことを思い起こし、こうして尊敬を集めていることが照れくさかった。あっという間に思えていた五年間のプロ格闘家生活が、燦然たる闘いの記憶が堆積する厚い地層を重ねさせるのに十分な悠久の時間と入替わったような、なにか遠くに眩いものを視たときのめくるめきを感じた。

雅也の身体では、午前中の練習で凝った筋肉があちこちで疼きはじめた。クールダウン気味に身体をほぐし、新居に極められた肘関節の軽い痛みと、スパーリング後の解放感とが混じり合った快さに浸った。隣で新居が瞑目してあぐらをかいている。

「きょうは道場みてなくていいんですか」と雅也は訊ねた。新居寛之は「クリュプテイア」という柔術と総合格闘技を指導する道場の道場主である。

「俺の指導するクラスは夕方からだから、それまで帰ればいいんだ。近くに来る用事があったんで、ついでに稽古していこうと思ってな」 新居は、寝技を重んじた旧帝大柔道の伝統を継承する東都大学柔道部(現在は部員が集まらず活動休止中である)の出身で、かつては総合格闘技軽量級の第一人者であった。対戦相手の反則によって片眼の視力を失ってプロ総合格闘技を引退し、以来柔術に専念している、「再来週はよろしく頼む」雅也はうなずいた。新居の道場が主催する大会でエキシビションマッチに出る予定だ。「ところでさ、きょうは普段の動きじゃなかったよ。どっかうわの空だったな。心配事でもあるんじゃないか」と、新居は快活に声をあげて笑った。雅也はうつむき、

「新居さんの仕掛けは、予想できないことが多くて」と言った。

「それは未来永劫解けないかもしれないぞ」もったいぶっているともとれる新居の言いぐさに、雅也ははぐらかされて不貞くされた子供みたいにいじけた視線を泳がせて、すぐ左にあるガラスドアのほうをまるで永劫の果ての景色であるかに見た。廊下の窓から射し込む日の光が漂う埃をまたたく恒星の煌めきに変えている。

その自動ドアが開いて、ちょっと見は華奢だが、よく見ればたまらなくなるほどグラマーな中年美人が、ビデオカメラを持った青年を従えて、胸をゆさゆさしながら(かなり圧巻である)入ってきた。

「あら意外。新居さんもいらしたんだ」女は髪を撫でつけるようなしぐさをした。彼女は芦原梢という。プロレス・格闘技専門ケーブル放送局の専務兼統括プロデューサーだ。オーナー社長の妹である。兄は本業の不動産ビジネスが忙しくたまにしか局へ顔を出さないので、彼女が現場のトップだ。それでも、本人が好きなのと人手が足りないのとで、インタビューでも、海外取材でも、なんでもこなす。子供のいないリッチなバツ一で、ハンサムな有望選手を愛人にするのが趣味だった。雅也も、十九から二十歳まで、彼女をパトロンにして生活の面倒をみてもらっていた。「新居さん、あとでお話しきかせてくださいね」と梢は言いおき、雅也にはウィンクすると、ブラジル人選手たちのほうへ歩んでいった。

新居は「いいですよ」と追いかけ返事をしてから、また雅也のほうをむいた、「言うの忘れるところだった。明日の大会で一条はゲスト解説だろう。第三試合にうちの選手がでるから、よく見てやってくれよ。高森といって、この三月で十九になったばっかりだ」と新居は横を見、「沢木君も明日デビューだろう。君の実力なら落ち着いてやれば大丈夫だから、自信もっていけ」と激励した。横で聞いていた最年長の少年沢木昇は、

「はい、ありがとうございます。おれ、先生んとこの高森(ヒカル)君には、一月にアマの大会の決勝で負けてます」と、ちょっと悔しそうに顔を赤らめた。

「うん、あれはいい試合だった。判定になったら、上のポジションを長く取ってた沢木君のほうが有利だったよ」と新居は言った。その試合では、最終二ラウンドの終了二分前に新居の門下生ヒカルが、バックからのチョーク・スリーパー・ホールド(柔道では裸締め)で勝ったのだった。

レスリングでインターハイを二連覇し世界ジュニアの金メダリストでもある沢木の体は、すでに雅也と比べても見劣りしないまでに鍛えあがっている。彼は、ちびっ子レスリング教室の指導員と雅也の付き人を務めている。沢木は、雅也の試合をライブで見て以来総合格闘技にはげしく惹かれ、進学せずにプロへの道を択んだ。沢木は進学したい気持ちもあったし、なによりもオリンピックを捨てることには物凄く悩んだ。しかし超有名な女性占術家がテレビで、「二兎を追うもの一兎をも得ず」と言っているのを聞き、二つも三つも目標を持ったらどれも中途半端になってしまうと考え、目標をプロ格闘技一本に絞ると決意した。そのとき「一石二鳥」という言葉は思い浮かばなかった。レスリング界は思いとどまらせようと、入れ替わり立ち代り仕舞いは理事長までもが学校と家を訪ねてきて、オリンピックのメダルを取ってからのほうが箔がつくとか、レスリングと平行してやればいいとか(注4レスリング界は日本柔道界と異なり選手のプロ活動を全面的に容認している)、進学してレスリングを続けるよう懸命に説得をこころみたが、沢木の決心の固さを知り遂に諦めたのだった。両親はとても理解のある人たちで、こころよく賛成してくれた。

一番背の高い少年が言った、「俺は、打投極のうちで、投が一番大事だと思う。投がしっかりしてれば、打撃がうまいやつのときは寝技、寝技がうまいやつにはスタンドの打撃で闘えるだろ。投げとタックルがきちっとできれば、自分で試合を組み立てられるじゃないか」、彼は健康飲料のアルミのパックに刺したストローをくわえたまま喋っている(注・総合格闘技の技術体系は、打投極といわれる。パンチ・キック、投げ技やタックルなどのテイク・ダウン技術、主に寝技における絞め技と関節技、の攻防を略して、このように言うのである)。一番年下の中学校を卒業したばかりの男の子が話しに加わった。彼の可愛らしい顔についた両耳は、レスラーや柔道家によくみられるカリフラワーという肉が膨れ盛りあがった状態になっている。「レスリングがっちりやった人は、立ち組みが強いから、やっぱ安定感ありますよね。それに、体幹が強くて、軸がぶれないから、パウンドとか四点やサイドポジションの膝に威力があるし。でも、投が強くて上のポジションを取れれば、判定で有利なのが一番のいいとこかな」(注・パウンドとは、寝姿勢で上の位置から主として相手の頭部へパンチ攻撃をくわえることで、四点ポジションとは、両掌と両膝をマットについた四つん這い又はうつ伏せに近い姿勢のことをいい、四点ポジションをとっている相手に対しては、頭部への膝蹴りが有効な攻撃である。サイドポジションは柔道の横四方固めにあたる)。雅也が言った、「打投極のどれが一番大切ってことはない。一体でなきゃあいけないから。それに、最初から判定で勝とうとするなら、いっそ闘わないほうがいい」

諭すように新居が後を続けた、「一条の言うとおりだ。のっけから判定狙いなんて爺くさいな」

一番小柄な少年がふと、「でも、どうしたら沢木さんみたいに勝てんだろう。俺なんか、どうせプロは無理だから大学いくけど」と呟いた。

「沢木さんと俺らじゃ素質違いすぎ。あー、明日が見えない」と背の高い少年が言った。

「この歌知ってる?『あしたは、きっとなにかある。あしたはどっちだ♪』(作詞・寺山修司)」と最年少が歌った。

「古いマンガの歌知っているな」と新居が嬉しそうに言った。

『そうだ、明日には、きっと何かがあるだろう。たとえ、それがどんなものであったとしても』と雅也は思った、『だけど、この歌詞の意味も、新居さんには過去のものでしかない。この人は、もう生きるすべてを賭けて闘うことはできないんだ』

「先生、矢吹丈は、ホセ・メンドーサと闘って死んだんですか」と小柄な少年が訊ねた。このボクシングマンガの主人公は、メキシコ人の世界チャンピオンに挑戦するが、死闘のすえ判定で敗れる。少年たちは四人とも「あしたのジョー」の結末を知っており、新居がそのラストシーンの意味を示してくれるのを待っていた。

「ジョーは真っ白な灰になったんだ。そう書いてある」と新居は真顔で答えた。

「それって、やっぱ死んだってことですよ」と沢木が自信ありげに解釈した。本物のサムライは、最後の闘いで必ず死ななければならない、と彼は信じている。

「再起不能になったのかもしんない」と最年少が言った。

死亡説と再起不能説、二対二に分かれた。しばらく沈黙したのち新居は言った、

「ジョーの台詞のとおりだよ。真っ白な灰になったんだ。本を燃やせば灰になるさ」

少年たちは、新居の答えに不服だったが、これ以上訊いても無駄と悟ったらしい、背の高い少年が話題を変えた、

「一条さんの彼女、きょう練習を見に来ないんですか」

「どうかな、来るのかな」珠美に会っても昨日のことは言うまい、と雅也は思った。『昨日は過去にすぎない。俺が生きるのは明日だけだ。昨日を振り返るのは、闘えなくなったとき、そう、真っ白な灰になったときだ』

コーチのチョウワイクンが近づいてきて伝えた、

「笹本社長が来たよ。会長が、練習終わってたら、ちょっと顔出してくれって」笹本というのは、暴力団組長である。BLADEの実質的な役員格なのだ。

雅也が立ち上がろうとしたら、目前のガラスドアを見ていた最年少が、

「あっ、来た!」と歓声をあげるようにして叫んだ。

雅也が顔をあげると、向かい側の壁に掛かる鏡の中に、正午の光を浴びて佇む珠美の姿があった。鏡像が雅也へ笑いかけた。

 

一ラウンド五分経過のアナウンスが、さほど広くない幸楽苑ホール内の物音にかさなった。リング上では沢木が、中堅どころの選手をパンチの連打でロープ際に追い込んでいる。そして沢木は、クリンチしてきた相手をいなすとみせかけながら逆方向へ体を捻ると、虚を突く外無双で倒した。

「うまい」と思わず雅也は声を高めた。

「レスリングのテクニックですね」と若手アナウンサーが言った、「このあたり、さすがジュニアの金メダリストらしいテイクダウンをみせました」

沢木は上の位置からのパンチを振るって攻め込む。一発いいパンチをもらった中堅選手は、はやグロッキー状態だ。左の瞼が腫れあがり、光を失った目の縁が切れて、ひと筋血がたれた。朦朧とした敵の防御がおろそかになったところで、沢木は相手の左体側につこうとしている。

「沢木の攻め、一条さんはどう御覧になりますか」と、めりはりのきいた実況をしているアナウンサーは、実況席の左端に座っている雅也へ訊ねた。

「横にまわって膝蹴りきめたいとこです」と雅也は答えた。

「サイドの膝は、沢木選手得意ですよね」とゲストのアイドルが言った。なかなかの格闘マニアである。

「はい、沢木のグラウンドの膝は、ボディコントロールが抜群に上手いですから、軸がぶれないんで威力あるし、当て勘も凄くいいです」という雅也の言葉を受けて、真ん中に掛けているレギュラー解説者がつけ加えた。有名プロレスラーの彼はBLADEの顧問である、

「レスリングの地力があるし、一条選手を身近に見てますからね、アマチュアのころも、動きに無駄がなくて、容赦ない攻めしてましたよ。子供たちを教えてるときなんかは、ほんと天衣無縫なおにいちゃんなんですけど、おっ、きついの入った」と解説者は言った。

サイドポジションを奪った沢木の右膝が、相手の側頭部と顔面へ続けざまに落とされた。観客席が沸くと同時にレフェリーがストップした。

「とめました」とアナウンサーは言い、スロー再生を見た、「もう一発目で、意識がとんでいます。これは危ない」………

青コーナー側控え室では、黙っていても人目を引くほど綺麗な若者がパイプ椅子に掛けている。冷静そうな面差しの下に並々ならぬ闘争心を秘めている。

石綿利(いしわたり)先生、そろそろ行きましょ」と三十歳ちょっとの小柄な男桜田が言った。髪はポニーテール、シルバーのスーツを着、ピンクのシャツとお揃いの色の帽子をかぶっている。

「おう」と声をかけられた眼鏡の男は応えた。精悍な中年だ。

「ヒカル、リラックスしていけ」と桜田が言った。ヒカルはうなずいた。石綿利が言った、

「新居、おれたちは客席に行くからさ」

「うん、きょうは応援ありがとな」と新居は親友へ礼を言った。そして二人は控え室の出入り口にむかった。すると「忘れ物です」と墨色のトレーナーを着た青年が、廊下に出た桜田を呼び止めた。忘れ物のバッグを手渡された桜田は、「おっと、おれがあがっちまってどうすんだよ」と笑い、ついで「師範代も、セコンドしっかりたのむな」と言った。竹村は自らの胸を右拳で叩いてみせた。

計量からいままで、いつになくヒカルは長く感じた。水道橋に着いたときから、昨夜までの昂奮が退くかわり、視界にはなにも遮蔽物がないのに奇妙に見通しがわるくなり、たくさんの不等質な物事ともいえない何かが好天の明るさのなかにはびこっているかのように思った。午後いっぱい体が浮き上がる心地だった。いまにしても、この控え室で試合開始を待ったことは以前にもあるのに、そのときと違って、落書きだらけの壁が煉獄との境の重圧をもって迫ってくる。……この部屋へ入る前に見た観客席は、アマチュアの大会と違って満員だった。しかし、スター選手の闘う大会場の華やかさとは雰囲気がちがって、リッチな招待客も派手な女性客もなく、格闘技マニアの男性客ばかりで、やや殺伐としていた。それが、現在のようにショーアップされる前には普通だった、プロ格闘技会場のあるべき姿、無駄な衣装を脱いだ裸の暴力ショーが開演する前のムードなのかもしれない、とヒカルは思った。

沢木を囲んでセコンドの面々が廊下を通っていった。

「沢木君は、いい勝ち方したな。さあ今度は、おまえの番だ」と新居がはっぱをかけた。見えない右目の端に皺がよった。ヒカルは「はい」と言い、すっくと立った。

 

『痛くないの、と言われたのだろうか』ヒカルは落ちかけていた眠りから覚めた、「いま、なんて言ったの」と彼は聞き返した。

「痛そうだよ」とルイは言った。身をよじると、ぐっと恋人へよった彼女は、パープルの着け爪でほんのちょっとヒカルの顔を刺した。彼の左の頬骨あたりには、青黒い腫れが、白い料紙に墨が滲んだかのようにあった。細筆が朱で書いたような創傷が刻まれていた。授かったばかりの、勝利を証す花押だった。

「押すと痛い」とヒカルは言い、ルイの指をじゃけんに退けた。

「殴られたとき痛かった」とルイは心配そうに訊いた。痛みを分かち合いたかった。もう一度、「痛かった」と悲しそうに訊ねた。

「試合中は痛くなかった。いまはすこし痛い」ヒカルの負っているささやかな傷は、誰ともその痛みのもたらす真実を共有することができない彼だけの聖痕だった。

「治してあげる」とルイは覆いかぶさり、左頬へキスした。ヒカルのふわふわとした頭髪を両手で梳いている。薄い茶色をしたセミロングの髪がヒカルの顔をはき、なめしたような皮膚が触れ合った。トロピカルフルーツみたいなルイの胸は、鋭い断層がありありとした彼の胸部へ、揺れる影をおとすと、柔らかく、重くのしかかった。ヒカルの胸と擦れてルイの乳首が硬さを増した。ルイは、ヒカルの左手を彼がまだ顧みようとはしない乳房に赴かせ、右手を彼女の潤みはじめたところへいざなった。ヒカルの掌に乳頭を押しつけて愛撫を催促する。片膝を立てて股間に隙間をつくると、腰をくねらせた。ヒカルの手が、馴れた指遣いで応えた。喘ぎ始めたルイは、しなだれている恋人の下半身に愛らしい獣のような指先をしなやかに絡めた。ヒカルは、たちまち自身の桃色をした太刀が硬度を高め、そり立つのを感じた。ふたりは、むしゃぶりつくようにキスをした。恋人たちの脳が、濃密に醸しだされた快感に酔い、踊っている。ルイは、乳房の先で尖っている(つぼみ)をヒカルの唇にあてがった。ヒカルがきつく吸うと、彼女はひくと震えた。太い動脈が浮いた首筋にルイは吐息を吹きかけた。と、ヒカルが気忙しく体を入れ替えて、恋人を組み敷いた。そうして鬱蒼とした叢林の放つ匂いを嗅ぐと、もはや生温かな液体を満々と湛えている部分に顔を埋めた。果汁に舌を浸して、ヒカルは嬌声が夜陰に融け入るのを聞いた。

ヒカルは十九歳だ。BLADEチャレンジというプロ総合格闘技の登竜門といわれる大会で今日デビューした。相手は名の通ったベテラン選手だった。試合序盤は、緊張して硬くなってしまい、いつもならありえない不用意な投げ技を仕掛け、その投げをしくじったために寝技で不利な体勢に陥り、敵のパンチを受けるなどちょっと攻め込まれるシーンもあった。しかし寝姿勢での(もつ)れ合いのなかで相手選手がヒールホールドという内足靭帯にダメージを与える技を狙って踵を取ってきたところをあっさり逃れると、それに乗じたヒカルは、立ち技の攻防へ戻した。元来勝負度胸の備わっているヒカルは、徐々に落ち着きを取り戻した。攻勢に転じると、スタンドでのパンチとキックのコンビネーションを使って的確にダメージを与え、一ラウンド二分過ぎに、彼の打撃攻撃に押され、寝技に持ち込み難を避けようとした相手が腰砕け気味のタックルに来たのを潰して、グラウンドで有利なポジションをとるのに成功した。勝機をつかんだヒカルは、得意のパウンドのラッシュをここぞとばかり一気呵成に浴びせかけた。ベテランは粘り強くディフェンスして耐えたが、ついにパンチのクリーンヒットを受けて失神した。ヒカルはこうして、レフェリーストップによる一ラウンドKO勝ちをおさめた。知名度の高い実力者を圧倒したことで、一躍将来を嘱望される若手選手の仲間入りを果たした。

勝ったのは良かったものの、試合運びにはだいぶ悔いが残った。『沢木君の勝ち方のほうが、おれよりよかったかもしれない』と、自己採点は厳しかった。新居は、よくやった、といったきりで、試合内容へまったく言及しなかった。『先生はあんまり褒めてくれなかったけど、一条選手の目にはどう映ったろう』雅也は、ヒカルのヒーローだ。裕福な家庭の一人っ子で、スポーツは万能、勉強も良く出来たのに、さしたる理由もなく中学三年から突然不登校になり、そのまま全国一、二の進学高校を中退し、鬱然(うつぜん)とひきこもって本ばかり読む生活を送っていた。そのヒカルを格闘技に導いたのが雅也だった。三年半前、友達に誘われて行ったBLADEで雅也の試合をみたことが、ヒカルの総合格闘技を始めたきっかけなのだ。

その試合は、当時軽量級最強といわれていたアメリカ人選手を相手にした闘いで、雅也は序盤から劣勢に追いやられた。米国選手のパワフルなパウンドを浴びつづけ、試合続行が不能かと危ぶまれるほど酷いダメージを負っていた。しかし雅也は、驚異的な精神力で持ちこたえ、最終の三ラウンド、スタンドでのワンチャンスを捉えた膝蹴りからの左フックをうけた敵が崩れたところを、チョーク・スリーパー・ホールドで絞めあげて、逆転の一本勝ちをおさめた。格闘技マニアの間では、現在でも語り草になっている名勝負で、雅也の出世試合だった。試合を見たヒカルは、吐きそうになるぐらい感動しながらも冴え返った意識のなかで、自分がすべきことはこれだ、と確信した。そして翌日、居ても立ってもいられず、家の近所にあるクリュプテイアに入門したのだった。

一年前からヒカルは、新宿歌舞伎町にあるショットバーで隔日のアルバイトをしている。女性に対する醒めた性格とイケメンに加えてナイスボディなのだから、まるで営業努力をしないでも女性客にはすこぶる人気がある。店の経営者の桜田は、歌舞伎町界隈では知られる成功者だった。桜田は格闘ビデオを一万本以上持つ極めつけのオタクで、マニアが高じて習った柔術では新居から黒帯をもらっているほどの選手でもある。ヒカルは、そのアルバイト先に客として来ていたルイと、去年の夏から誘われるままに時々セックスするようになり、秋になる頃から、仕事があった夜には、ルイが新宿に借りているこの部屋に泊っていた。きょうも家へは帰らない。

ルイは、ヒカルと同じ十九歳だ。擦れたところがなく天真爛漫で、不憫なほど恋に一途である。マイナーな青少年誌のミスコンで優勝してグラビア・デビューしている。ただしまだ無名、というよりも、そもそも、やる気がない。それでも家庭が裕福なうえ甘やかされており仕送りが多いのでかなり贅沢に暮らしている。ロリータ物アニメのヒロインみたいな可愛い顔立ちなのに、たいていの男性が振り返るほどのセクシーな肉体をもっている。そのアンバランスさがまた魅力だ。

ここは、カーテン、家具、小物にいたるまで、湿った粘膜の照りのようにケバい。ただ、縫いぐるみやポスターには、悲しいぐらいの少女らしさもある。蒸れた猥雑さのなかへ、ピンで留められた愛くるしさが共棲していた。ルイは整理整頓が大の苦手なので、ごちゃごちゃと無駄な物ばかり多い。おまけに掃除も嫌いなので、部屋はいつでも散らかっている。いまもふたりの衣服がリビングに点々と脱ぎ散らかしてあった。いつもは、ルイの派手な衣装や下着(ようするに露出過剰な衣類)をヒカルがせっせと片付けている。この部屋に泊まったときは、掃除、洗濯、食器洗い、ゴミ出し、などを済ませてから吉祥寺の本部道場へ練習に行くのが、ヒカルの習慣になっていた。いまでは彼が整頓係りだ。ルイは、そのことをヒカルの優しさと感じていて、自分を愛してくれている証拠だと思い、とても感激している。たんに彼は綺麗好きで、部屋が片付いていないと気分が悪いだけなのだが。それでも今夜は、試合前の二週間セックスレスだったことから、食事を済ますと、ヒカルはどうにも我慢できなくなってしまったのだ。

寝室に置かれた部屋の広さのわりに大きすぎる鏡台のうえでは、交歓が昂まるにつれて、香水、化粧水、乳液.化粧品の容器が水晶のようにひしめき合う。リビングにあるロココ調を模したベニヤのテーブルのうえに、片付けられず置きっ放しにされたピザの残り物とコーラの空き缶がある。ルイの口紅の付着した吸殻が、粗悪な磁器の灰皿に捨てられている。チーズとタバコ、香料の匂いがたちこめていた。乳と毒そして媚の香が混濁して充満している少しスレたかんじのする室内。ここはたしかに女の部屋だ、とヒカルは思った。

「ほっといてくれよ」わずかに怒気をみせてヒカルが言った。ふたりは、いましがた二度目のファックをし終えたばかりだった。

ルイは、面倒くさくもならないで、髪を引っ張ったり、鼻づらを摺り寄せ顔や喉元にキスしたり、あちらへこちらへと手をやって愛撫したり、ヒカルを弄ぶのが課された責務であるかと、それらの作為を試みている。ヒカルが思うに、ふだん彼女が物ぐさなのは、持てる意欲のすべてを愛への勤勉さに費やしているからなのだ。夜を通じた干渉、だが結局、彼女の術策に篭絡(ろうらく)されて応じてしまう自分自身に対して、ややヒカルは自己嫌悪を感じていた。

ヒカルは寝返りを打って、ルイの暑い湿った体から離れた。シーツのすべすべした肌触りが心地よかった。冷たい輪郭を辿って、ヒカルは右頬の傷に手をやった。闘いの刻印は失われずにあった。そこだけは熾きのように火照っていた。

『俺は勝った』と、闇の底で、いま一度(かまど)の焔を確かめんとする工匠のごとく若者は両眼を(みひら)いた。涼しい目の呑んでいる(やいば)の光が、砥いだように清ました鼻梁の蔭とコントラストをなしている。敵の鉄槌を受けてできた口腔の創傷は、(はがね)を舐めたときと同じ味がする。血と唾液の混じりあった酸味に、ヒカルは恍惚とした。『俺は勝ったんだ』焔の中を歩き燃え盛る祝福をうけた、とヒカルは思った。仕事の出来ばえに満足した人がよくそうするように目を閉じた。

「なに考えてるの」ルイは甘たるい声で言うと、ヒカルの左手をつかみ、彼女の左手と一緒に並べて枕元のスタンドの灯りにかざした。「ヒカルのブラックゴールドのほうがわたしのピンクより綺麗だね。キ、レ、イ」と、やわらかなルイの舌は音を分けて発声した。そうしてから、あれこれ角度を変えながら、ふたりの薬指に嵌められているペアリングをさも悦ばしげに眺めた。プロでの初勝利を記念して(ただし、買ったのは試合前だ)彼女の贈ったブランド品だった。二つの指輪が仲良く寄り添って、淡紅ひと色に見えるのが、ルイはうれしくてたまらなかった。飛びかかるようにして抱きつき、「つぎ勝ったときは、なにをプレゼントしようか」と、ヒカルの首にきつく両腕をまわして笑った。しかしヒカルは、戯れの形をしたしぐさを、女というものに生来巣食っている男に対する所有意思の顕われだと思った。

ルイは、くりくりしたミルク飲み人形みたいな目で見詰めると、小さな鼻をぴくぴくさせて、赤く濡れた厚めの唇を固く閉じられていたヒカルのそれに重ねた。唇をこじ開けてルイの舌先が挿しいれられる。粘り気のある唾液、密かに毒物を盛った乳糖、それはヒカルの口内に流れ込んだ。痺れていく意識の中へ傷の痛みが溶けていった。

 

揚場町のビル内にある如月(きさらぎ)法律事務所は雑然としている。事務所内はけっこう広い。それでも弁護士四名を含む十八人が書類の山に埋もれながら動き回るので狭苦しく感じる。

美羽明行は、幼稚園から高校まで字習院の東都大学法学部卒。職業は弁護士で、彼がこの事務所のボスである。大学在学中に司法試験に合格し、卒業してからは裁判官を務め、六年前にその官を辞した。裁判官を辞めた理由は単純で、からっきし向いていないとを悟ったからだった。その後、省庁再編によって新たに内閣府外局となったばかりの金融庁で二年半課長補佐級の専門官を務めてから、この事務所を構えた。

小柄な女性が玄関で、「お昼前には戻ります」と言いながらパンプスを履いていた。玄関には鉢植えのガーベラが咲く。赤と黄の花。この女性は共同で事務所を営む平中未来弁護士だ。なかなかキュートである。まだ三十一歳でも、ここでは美羽のつぎに年嵩の弁護士であった。ほかに平中の弟ともう一人女性の弁護士がいる。平中は、離婚問題、とりわけ渉外離婚に関しては、すでにスペシャリストといえる腕前だ。彼女も専門官として二年間金融庁に勤務した経験があり、そのころ美羽と親しくなった。「じゃ、行ってきます」玄関のドアの閉まる音を美羽は聞いた。隣の机では中年の女性が、ぶつぶつ独り言を呟きつつ忙しげにキーボードを叩いている。ほっそりした青年が、重そうな辞典を抱えて後ろを通っていった。ズボン吊りを肩へ食い込ませた熟年のパラリーガルが向かいの席で、眼鏡の曇りを拭った。

パラリーガルから目を逸らした美羽は机を離れると、応接室のソファーにかけた。質素な桜材の本棚には法律学書よりも経済学など社会科学の本が多く、哲学思想や数学・自然科学の教科書・入門書もあった。雑学派なのだろう。テーブルのうえで本を開いた。珠美の忘れていったものだ。「ヌバ」と題する一九七〇年代に出版された写真集だった。著者はレニ・リーフェンシュタール。その名前は知っていた。ナチ党大会やベルリン・オリンピックの記録映画を監督した巨匠で、ヒトラーが「完璧なドイツ女性」と賞賛した人物だと記憶していた。数年前に、百歳ぐらいで亡くなったはずだ。

その本には、スーダン中部の山岳地帯に住む「ヌバ」と呼ばれるネグロイド人種、いわゆる「黒人」の様々な姿が写っていた。無文字社会の生活が卓越した美的表現力で映像化されている。人々は裸体で、日々の労働に勤しみ、竪琴を弾き、女たちは愛のために装い、歌い、踊り、皆で死者を弔う。そして男たちは、……闘っていた。

裁判官時代に担当した事件を美羽は想いおこした。ホモセクシュアルの大学教授が、スーダン人の同性愛相手に絞首され死に至らしめられた事件であった。被害者は、著名なフランス文学者。被告人は、スーダンのコルドファン州ヌバ山地生まれの黒人、つまり、目の前にある写真の人々、ヌバの一人だった。

当該事件の被告人は、一九六○年生まれ、七〇年代に戦禍を逃れて母親と英国に移住した。ヌバ山地で盛んなレスリングの一種である格技のチャンピオンだった父親は、戦時の虐殺の犠牲者であった。被告人は、まったく学校教育を受けておらず、文字を僅かしか解さなかった。少年時代から低賃金の職業を転々とする。二十三歳でドサまわりのプロレスラーになる。おもにフランスとドイツで活動した。一度ナミビア系ベルギー人女性と結婚したが、二年で離婚、子供はなかった。母は十四年前にロンドンで死去しており、同母の兄弟姉妹もなく異母兄弟及びその他の親戚とは疎遠で、事実上の天涯孤独だった。一九九四年、被告人は、パリに滞在中の被害者と知り合い、同性愛関係を結んだ。その関係が事件当時まで続いたのだった。九六年、被告人は負傷してプロレスを引退。被害者を頼って来日して以降、日本に居住した。一九九七年×月×日の深夜、被害者が所有する都内のマンションの一室において、被告人は、肛門性交中に背後から被害者の首を腕で絞めて、死亡させた。心肺停止から約十時間後の翌日午前九時半に、第一発見者である家政婦が通報。被告人は逃亡二日目に都内で逮捕された。公判で被告人はSM行為による事故死であると主張した。だが、通常なら認められるSM行為の痕跡はなく、被告人の言い分は信用されなかった。事件後に被告人の逃亡したことが事態をさらに悪化させた。また、被告人がヨーロッパでプロレスラーをしていたということ、少年時代にヌバの格技の選手であったことが不利にはたらいた。柔道でいう裸絞めによってフランス文学者は死亡しており、仮にSMであれば、失神(おち)たときは手ごたえで判るので、殺意が無ければ絞めを解けばよく、元プロレスラーである被告人が加減を知らぬわけがない、と部長裁判官は考えた。被告人は、おちたと思っても、しばらくの間は緩めず絞め続けるようフランス文学者から事前にきつく命じられていたと述べた。以前に、ぐったりしたので手を離したら、完全に失神していなかった被害者から酷く叱責されたので、絞首を解けなかった、と言った。美羽は、被告人は被害者に面倒をみてもらっていた愛人であって、故郷は戦火で荒廃し、共同体は近代化によって解体され、異郷にあって帰るべきところもなく、命令を拒めない弱い立場なのだし、逃亡したのは気が動転していたからで、おそらく彼は、仏文学者が自己破壊の欲望のために仕組んだメロドラマの加害者として仕立てられたのだ、と思った。ところが、オートエロチシズムという言葉すら知らない東都地裁刑事△△部長は、そうは判断しなかった。とくに事件へ深入りするつもりのなかった美羽は、多分に漏れず上司の意見に異論を唱えなかった。そして、まるでやる気のない無能な国選弁護人が、失当した重罪の成立に貢献した。二審でも同じだった。けっきょくスーダン人は、殺人の罪で服役し、そして半年後に心筋梗塞で死んだ。房の鉄格子にシーツを裂いてつくったロープをかけて首吊り自殺したという噂がどこからともなく広まった。美羽はそれが事実だと確信していた。囚人が死亡して三日(のち)、美羽は明け方、スーダン人、いや、彼の幽霊というべきか、その姿をみた。判決書を書きを終えて息抜きに庭を眺めたら、花の盛る桜の枝に跨ったスーダン人が、二階の書斎にいた美羽へ笑いかけてきた。薄暗がりに口内の真紅をさらして哄笑していた。そのとき、丸裸だった彼の喉に、縄痕の一筋ついているのが見得ずとも分かった。やがて曙がさすとともにヌバの姿は消えた。以来現われていない男の名はナピという。毒蛇に噛まれて死んだ故郷の最強者とおなじ名だった。

玄関が開き、「こんにちは」と、着物姿の女性が挨拶した。うりざね顔の、よくいう渋皮の剥けたタイプだ。「明行先生いらっしゃる」 女性事務員が「おはようございます。なかにおります、どうぞ」と応接した。

会田郁子、旧姓嘉納は、美羽と同じ三十九歳。名の通った日本舞踊家で、美羽の母の旧友である舞踊家の高弟だ。美羽とは幼馴染である。舞踊と和歌を一緒に習っており、四歳の初舞台ではお染と半九郎を踊った間柄だった。中学二年のとき、互いに初の性体験をもった相手でもあった。文政から続く造り酒屋の「お嬢様」だが、かなり奔放で、いまは三度目の離婚のために調停中である。平中が代理人を務めている。最初の夫との間に高校生の娘がいる。娘は父親と暮らしている。実家が大地主のうえに、離婚するたび財産が増えるという要領の良い女性で、神楽坂と揚場町にオフィスビルを三つ所有している。この事務所のあるビルのオーナーなのだ。最上の十四階に稽古場と住まいを構えている。

「いらっしゃい」と美羽は言った。応接室にはいった郁子は、

「これ、お姉さんたちによろしく」と祝儀袋を机の上へ置いた。

「どうもありがとう」と言ってから美羽は、「幾ちとせ高砂の岸に澄よしのまつゐの水と今しくみなむ」と、添えられている郁子の歌を読んだ。

「お目出度げな言葉がくどいかしら?」

「賀歌だから丁度いいさ」と美羽は感想を言った。きょうは宮城県の大家(たいけ)に嫁している姉の長女の婚礼の日であった。いまから美羽はS市へ発つ。

 

雅也との間で、なんで会うたびごとに諍いが生じるのか、その理由を珠美は分かっていた。彼女のほうに原因のあることを分かっていた。あの夜の口論にしても、さもないことで珠美が無知をあげつらったのがきっかけだった。いつもどおり雅也は家に送ってくれていただけだったのに……。珠美は辛辣な言葉で傷つけ、いよいよ雅也が怒りを露にすると、ヒッチ・ハイクの真似してまで気を揉ませようとした。本心では、ほどほどのところで美羽の車から降りようと考えてはいた。ところが事態は、予想外の方向へ漂流した。『なぜそんなことをしてしまうのだろう』 自分が雅也を好きなのは間違いないはずだと思った。珠美の美しさは、彼女の通う慶教大学内だけでなく他校にも知られていたし、小遣い稼ぎ程度にしているモデルのアルバイトでも人と知り合う機会が多かったので、求愛もひっきりなしだった。珠美は、経済的な利益になるセクシーな相手なら、抵抗なく性交渉をもった。それに、雅也のほかにも決まったセックスフレンドはいる。ハンサムな大学院生で、たいていの女子学生なら垂涎するような金満家の子息だった。その青年は、珠美に対して真剣だ。しかし彼女のほうは、たいした魅力を感じておらず、彼は都合のいい消閑の道具でしかなかった。むしろ、雅也を愛しすぎてしまうことへの恐れが、他のボーイフレンドを必要とするのかもしれない、とも思う。経済学部の学生らしく卵を複数のバスケットに分散して運んでいるのだった。

とぼけた味のある教師が、鼻眼鏡を叱りつけながら、

「横道に逸れるけども、早々と結婚を考えてる人もおるかもしれへんし、ついでに言うておこうか。ノーベル賞もらったゲイリー・ベッカーは、ある人が結婚を決断する場合、婚姻関係によって得られる便益と必要とされる費用を金銭的なタームで表して、共通の割引率で割り引いた現在価値が等しくなる割引利率を求めたうえ、それを市場利子率と比較して結婚するか否かを決定する、と言うている」と、さらに「こんな計算をして結婚する人が世の中にいたら、お目にかかりたいものやけどね。もしや、僕は、結婚するときに計算さぼったせいで、現在苦しんでいるんやろか」と言い、馬面をいっそう緩めた。教室のあちこちからシニカルな笑い声が聞こえた。

『この先生の授業は珍説の紹介があって面白い。なるほどね、ベッカーのアイデアは、経験科学の理論仮説としては、陳腐だな。けど大まかには、いいところを突いてもいる。やはり恋と結婚は違う、女性にとっては特に。私も結局は他の女の子たちと同じように、ベネフィットとコストを適当に見積もり、割り切ることになるのだろうか。……たしかにリングは、世の闘いをめぐる隠喩がおしなべて布置されるタブローで、象徴の兵器庫から取り出された装備を身につけ、そこで闘う男どもは美しい。ゴングが鳴る前の鉛を呑みこんだ空気。筋肉をぶつけ合うときの千切れそうなほど張り詰めた気合。真夏の陽射しのようなじりじりと熾烈な駆け引き。隙を狙う敏捷な身のこなし、剣戟(けんげき)が響くような攻防の交錯。組み合う者どうし次第に収斂してゆく荒い息づかい。凛々と漲る勇気。リング上から客席を睥睨(へいげい)するばかりに誇示される勝者の驕りと肩を落とす敗者の喪心。たいていの人が凄惨だと目を背ける、渾身の力で相手の首を絞めあげるときの目を剥いた顔、舌を出し(よだれ)を垂らしながら絞め落とされ失神する者の顔、組み敷いた敵の顔面を容赦なく殴りつける者のみせる破壊の喜悦、赤黒く腫れあがった顔と燦然としたライトに照らされてきらきら飛び散る血しぶきの対照。強打を浴びて彷徨い崩れ落ちていく姿。すべての動きとすべての表情に魅入られる。だが、闘いの炎は薄命だ。一瞬激しく輝くと、すぐに燃え尽きる。恋は、その余熱が残る間だけ身を焦がす。しかも、それにしたところで所詮(しょせん)、戦士の帰還を「待っていた者」に与えられるおこぼれにすぎない。栄光は、分かつことなく勇者に属する。(たと)え烈日と見紛うほどの満月も、そこには日の名残すらなく、遂に陽の光が翳れば、後には冷たい愛の遺骸が、荒れはてた灰色の姿をさらすのだ。……私は、自分が誠実でないことを知っている。負い目は、私にある。彼もそれを感じ取っているのに、ちっとも責めないことが、私を焦らし、ひねくれさせ、いらいらさせる。だから、つまらないことでつっかかって、やりこめて、いよいよ我慢できなくなるまで追い討ちをかけ、撃鉄に指をかけるように仕向ける。そうして争いになる』

「ベッカーは、不倫に関して仮説を示していないらしいから、僕が不倫の経済学を考えることにする。理論が完成したら、不倫するときは、しっかり計算することにしよ」と、講師は前歯を出して笑った。

『不倫か…。あの人は結婚しているのかな、仕事はたぶん弁護士、これしか知らないのか。名前も分からない。あわてていて表札を見なかったし、買ったばかりの本も忘れてきた。私は冷静ではなかったんだ。おかしな宣言をされなかったら、どうなっていたのかな……』

 

手際よく息子たちの礼服を整えていた妻を見て、美羽はわずかに眉頭をよせた。この日の典子のこらした装いが、新婦の叔母にしては、やや華美すぎると思った。妻は小財閥といえる家の長女である。桜をあしらった江戸紫の留袖を着た典子は、袖模様に合わせ桜の大輪を散らした金茶の帯を締めている。いま身に着けている無双の色留袖と西陣の帯は、典子の母が娘のために誂えたものだ。アップにした髪を飾る螺鈿(らでん)細工の鼈甲(べっこう)の櫛が、漆黒の浦に目映く帆をあげていた。

「早かったのね、お義姉さんたちにはご挨拶したの」と典子は言った。後れ毛に手をやりながら、窓際のテーブルへ茶碗を置いた女中をさがらせた。

「姉さんは、藍子の支度で忙しいみたいだったな。北黒河の親戚連中には挨拶してきたよ。婿さんのほうは、一息ついたら行ってくる」 藍子は姉の長女である。姉の婚家は北黒河という。

肘掛け椅子へ腰を下ろした美羽は、のどかな山間の景色を眺め渡すと、つぎに目線をあげて遠方に連なる高峰の八重垣から湧き()でた雲の青みを見やり、その八雲を面にうすく映した桜湯を一口含んだ。

「A温泉って、S市の街場から随分近いのね。もっと遠いと思ったわ」 この温泉地に典子が来たのは初めてだ。美羽の妻子は、彼の兄一家と一緒に東京を発っており、一足早くこちらに到着していた。

「ああ。…子供たちはどこに行った」と美羽は三人の息子たちのことを訊ねた。

「お義兄さんと石綿利の叔父様たちとみんなで露天風呂へ行ったわ。せっかく来たんだから、ご挨拶が済んだら、あなたも入ってきたら。お式までは時間があるし。内風呂より気分がでるでしょう。

でも温泉に泊りがけの披露宴なんて、東京ではめったにないわ。こっちは、まだのんびりしているのね」

「どうかな、そういうことは、おまえみたいに詳しくないから」と美羽は言った。

「だって、泊りがけの披露宴なんて、小人数でハワイあたりに行くぐらいじゃない」

本館だけでなく別館も全てこの日の婚礼のために貸り切っている。昭和も終わり頃のバブル最盛期に建てられたこのホテルは、俗に言う金に糸目をつけない造りだった。総檜の部屋の匂いと、どこやらの歴史的建築物のレプリカであろうそこかしこの不調和な細工から瀰漫する成金趣味に、美羽は早くも食傷した。

「北黒河のお義兄さん、大分お悪いみたい。今日も車椅子から立てないのよ」

できちゃった(、、、、、、)だけじゃあなく、日取りを早めた理由には、それもあるだろう」 姉の夫北黒河俊宗は、一昨年から原因のはっきりしない心臓病を患っている。彼の父もおなじ症状の病で没していた。「内々でということにしたのもそれでだ」 ただ内々とはいっても、両家の親戚筋だけで千人以上いるので、招待客は二千人を超えている。

「お義兄さんに藍子ちゃんの花嫁姿を見せられてよかった。藍子ちゃん、まだ二十四にならないわよね」と典子は言った。

『江戸紫に桜』と、美羽は、二十年あまり前、母の親友の舞踊家に紹介されて歌舞伎座で初めて典子と親しく言葉を交わした時にかかっていたのが助六だったのを思いだした。『典子は、桜があでやかな江戸紫の振袖を着ていた。俺は、女助六だね、と話しかけたのだ』

「二十三歳。私があなたと結婚したのと同じ歳」と典子は、しばし手を休め、夫とともに眺望するかのように目を細めた。ところが、

「そうだったかな」と美羽は無関心な風で、「俺は今夜中に戻らなきゃあならない。明日は、朝から仕事があるんだ。泊まるのは、おまえたちだけだ」とそっけなく告げた。

「……そうなの。子供たち、がっかりするわね。パパも泊まるって言ったから」典子は淡然と言ったが、そこに非難の声色が染みを広げるのを美羽は観ていた。

美羽が妻子から離れて一人住まいを始めてから一ヶ月になる。何の前触れもなく家を出るとを切りだした際、うろたえる様子もあらわさず典子の発した第一声が、いかなる場合でも離婚には応じない、というものであった。以来別居が続いている。この(かん)美羽は、離婚に関する話し合いをもとうと申し入れたことはない。なぜなら、妻を愛さない理由が何ひとつないのだから。美羽は久しぶりに妻の姿を見た。見ながら、結婚前、彼女と会えない日には、その姿を細部まで想い出せないと、焦燥のあまり寝つくことができず、典子の写真を何枚も引っぱり出してきて脳裏に焼き付けるほど凝視してからやっと灯りを消し、それでも僅かに記憶が薄れると起きだして写真を眺める、といったことのあったのを思い返した。それが現在は、楽々と彼女のすべてを詳細に想い描くことができるのに、なんの安息も与えてはくれない。もうすぐ典子は三十六歳になるけれど、肢体はみずみずしさを保っており、移ろうのを忘れたかとみえる。目鼻立ちは打ち水をしたように涼しげで、気品の高い口元は細く結ばれながらも潤いがあった。和洋古今の教養があり、立ち居振る舞いは凛として、所持万端怠りがない。つまり、才色兼備を純粋培養して良妻賢母を標本にした、みたいなのであった。具体的に意に添わぬところなどなにも無い。それが、今はかつて魅了されたものに違和感を覚える。美羽は、妻を愛しており、愛されてもいた。だが、終極的なかんじのする明識(インサイト)が日に日に深まって、数年来、彼の生命は、存在の領域(ドメイン)に投じられていることの不具合感に耐えていた。いわば不安。細かな砂に足をとられたような漠とした懊悩(おうのう)だった。

大滝のおちる音がする。「あら、ほととぎすが鳴いているわ」と典子は呟いた。時鳥(ほととぎす)の声に呼ばれ、棚引く雲にいささかも遮られぬ日ざしをうけた山峡を、いま一度、美羽は見晴るかした。そこには、花という文字も、hanaという音声もないのに、咲く花はそよとの風に散り、木々の深緑をほの朱くした。舞い散る花桜は、移ろうとみえて、むしろ名残を留めようとするかとより明々と春の景観を彩る。……音をたてて玄関の引き戸が開いた。浴衣を着た三人の男の子が飛び込んできた。

「パパ」と、四歳になったばかりの末息子が美羽に抱きついた。大人びたところのある上のふたりもやはり父親をめがけて駆けよった。典子は、怜悧さを失うことなく春の雲のように微笑みながら、子供たちのうれしそうな顔を見ている。しかし、妻の慈愛の匂う表情が、美羽の目には勝ち誇った欺瞞の漲りにみえた。

2011年1月13日公開

© 2011 月形与三郎

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