シャボン

谷田七重

小説

9,212文字

老廃の矢崎は今日もシャボンを吹かす。近年になって、シャボンの箱には注意書きが記されるようになった。――シャボンの泡は、幻覚を引き起こす原因のひとつとなります

今日はどこかで大きな宴会でもあったのか、目の前の小路をまばらに行く人たちはみんな足元がおぼつかなく、ふらふらとしている。

矢崎は夜の公園の解放感に満ちたすがすがしい空気を味わいながら、気持ちよくシャボンを吹かしていた。うまく電灯の下のベンチに場所を占めたので、その光に向かってふうっとストローへ息を吹き込んでやる。するとシャボンの泡たちは、光を受けてまっすぐに電流のような光を放ったかと思うとすぐさま四方へ散り、思い思いの色をおもてに浮かべながらふわふわと漂い、消える。不意に風向きがこちらへ変わった時などは、吹いたそばから小さなシャボンが一斉に矢崎の顔を慕い、ぱちぱちと音を立てながら肌に吸いついてくる。

風の向くまま光の当たるまま、すなおに流れて瑠璃色の光を放つシャボンがかわいくていとおしくて、矢崎は無心にストローへ息を吹き込む。それを繰り返しているうちに、万華鏡に口をつけて奏でているような気持ちになり、うっとりとする。それほどにシャボンの泡たちは色彩表現ゆたかなのだ。

また風向きが変わった。シャボンのゆくえを見送っていた矢崎はおどろいた。こまかな泡たちがあやしいような光沢を放ちながらみるみるうちに蛾の群れとなり、電灯の光めざしてひしめき合い、ぱっと散った、かと思うときらきらした粉が降ってきた、ように見えた。思わずごしごしと目をこする。電灯は素知らぬ顔で煌々と輝いている。蛾の鱗粉には毒がある――そんな迷信が頭をよぎり、矢崎はぼんやりとした気味の悪さに包まれた。

だから、何者かが後ろから矢崎の肩へ手を掛けてきた時には飛び上がる思いだった。振り返ると、矢崎と同い歳くらいの白髪頭の男が苦い顔をしていた。

「困るんですよ」

「え?」

矢崎はギクリとしながらも空惚けようとする。

「困るんですよ」

男はもう一度繰り返して、

「ここはシャボン所じゃないんです。シャボンを吹かさない人には迷惑です。ごらんなさい、あの人たちを」

そう言って小路を行く人たちを指差した。

「みんな千鳥足じゃないですか。そのせいですよ」

今度は矢崎の脇に置いてあったウイスキーの小瓶を指差した。

「あっ」

「あなたの吹いたシャボンが弾けるたびに酒の匂いが広がるんですよ。それでみんな酔っ払ってるんです。シャボン所へ行ってくれませんか」

矢崎がしょんぼり立ち上がって歩き出そうとすると、男はかぶせるように言った。

「歩きシャボンも禁止ですよ」

シャボン愛好家には生きづらい世の中になったものだ。歩きながら矢崎は舌打ちをし、ひとりごちていた。だいたい、あの男だって若い頃には周りと競うようにシャボンを吹かしていただろうに。――それが近年になって、シャボンの箱には注意書きが印字されるようになった。

「シャボンの泡は、幻覚を引き起こす原因のひとつとなります」

そんなことは百も承知だ。夢うつつのうちに生を送ることがそんなに悪いことなのか。矢崎にとっては、現実をあくまで厳粛に受け止めて生きている人間こそ正気の沙汰とは思えない。

素直にシャボン所を探す気にもなれなかった。あんな狭いスペースで吹かしたって、他人のシャボンとぶつかり合って、目で追う暇もない。やっぱりゆったりとした空間で、ゆっくりと吹かすのが一番なのだ。

歩を進めるうちに、さらさらと柳の枝葉が流れる中にシャボンの群れが見えた。幻覚ではないようだった。白鳥のボートたちが星も見えない空に首を伸ばしたまま整然と並んでいる池に背を向け、短いスカートの若い娘が露わな脚を組み、シャボンの行方には無頓着にぼんやりとしていた。矢崎が近づくにつれうつろな目は焦点を取り戻していくようで、散漫な意識が自分に収斂していくのを感じながら、

「よう、ご一緒してもいいかね」と矢崎は隣に腰を下ろしかけた。

「前払い。一時間一万円」

「えっ」

娘は前を向いたまま、つっけんどんに片手を矢崎の方に伸ばし、金を受け取る仕草を見せた。

「いやいや、ただ一緒にシャボンを吹かせたら、と思っただけだよ、おどかすなよ」

娘は軽蔑したような表情で矢崎を一瞥し、またシャボン液にストローを浸け、吹かしはじめた。

矢崎はウイスキーを一口あおり、ポケットの中にシャボンの箱をさぐりながら、

「なんだい、あんたお客待ちかね。あぶねえぞ、そんなナリで夜にひとりぼけーっとシャボンなんか吹かして」

そのくせ自分も酒臭いシャボンを吹かし、柳の枝葉と一緒に流れていくのをうっとりと見送った。

五月とはいえ夜はまだ冷えるというのに、この娘は上着もなく薄い生地のカットソーから肩を覗かせ、高いヒールの脚にはストッキングも着けていないようだった。

「寒くないのか。ウイスキー飲むか」

矢崎が横から瓶を差し出しても、娘は一顧だにしなかった。ストローを動かす手と、そこから四方に散るシャボンだけが生きているようだった。薄い膜に包まれた娘の生命が次々に弾ける。まるでシャボンを吹かすことだけで命をつなぎとめているように見えた。あぶねえな、とまた矢崎は心の中でつぶやき、ストローをシャボン液に浸した。

ふうっと息を吹き込む。かわいいシャボンたちは夜風に惑う。するうち、娘のシャボンと混ざり合い、見分けがつかなくなり、ぶつかっては消えた。矢崎はぞっとした。娘の若い生命に直に触れた気がした。女に惑うことなどもう数年来なかったが、恍惚が電流のように全身を貫いた。

娘は何も感じなかったらしい。変わらず機械的にシャボンを吹かしている。矢崎は急に娘の猫背が痛ましくなった。派手に染めた髪の毛がぱさぱさと縺れているのにも哀れみを覚えた。膝を突いて拝みたいような衝動に駆られた。この娘こそ聖女ではないのか、と思った。気が遠くなった。

明るい陽射しに目を覚ますと、青い滝が自分めがけて落ちかかっているのに矢崎はおどろき、ベンチから転がり落ちた。我に返ってみると、何のことはない、ベンチの上に柳がかぶさっていただけだった。いつの間にか仰向けになって眠っていたらしい。

あの娘は?

ベンチに座り直し、辺りを見回すと、朝の通勤にせわしない人たちが通り過ぎていくだけだった。薄汚れたジャンパーを着て、ウイスキーの小瓶を携えているようなうらぶれた老人になど誰も視線を寄こさなかった。

「結局さ、結局さ、」

携帯電話で何か必死に喋っているスーツの若い男が足早に歩いていった。何をそんな簡単に結論づけられるというんだ? むしゃくしゃして矢崎はポケットにシャボンの箱を探した。なかった。少ししか残っていない一本の容器とストローしか見つけられなかった。まさか、と思って尻ポケットに手を突っ込むと、財布は中身も無事なままだった。

やれやれ、とシャボン液の容器を傾けストローに浸し、吹かした。通りかかったОL風の若い女が、あからさまに顔をしかめてシャボンを手で追い払って行った。この売女が、と矢崎はつぶやいた。

 

今夜はなんだか風が生あたたかい。ホテル街の上空にかすむ朧月から甘い腐臭が漂ってくるような、そんな晩春の夜だった。矢崎は店から受け取った小さな地図と、立ち並ぶホテルのネオンとを交互に見ながらのろのろ歩いていた。ちかちかする目をしばたたきながらも、この道の果てに見も知らぬ娘の大きな唇がぽっかりと開いていて、そこに身を躍らせるのだ、という有りもしない妄想をたくましくして歩を進めた。

「シャボンを吹かす子はいる?」

受付で娘を選ぶ時、矢崎は真っ先に訊いた。

「お嫌いですか」

「いや、一緒に吹かせる子がいいんだ」

この子なんていかがでしょう、と写真を指されたものの、矢崎はろくに見もしなかった。余程ひどくなければ、容姿など関係なかった。

「それでは、ホテルのお部屋に入ったらこちらに電話してください。女の子が向かいますので」

やっと指定されたホテルにたどり着いた矢崎は、フロントで鍵を受け取り、エレベーターに乗った。廊下に出ると、よくわからないアロマの香りが鼻腔をくすぐった。鍵の番号と同じ部屋番号を探し、ドアを開けた。ラジオがついたままになっていた。チープな装飾の散りばめられた中で、矢崎はゆったりとベッドに腰を下ろし、携帯電話で店に連絡した。

娘を待つあいだ、聞くともなくラジオを聞いていた。

「ペンネームまさたろうさん。桜の頃に娘が一人暮らしを始めて、気がつけばもう新緑の季節。元気にやってるかな、と思いながらも便りがないのは良い便り。盆休みにでも顔を見せに帰ってください。リクエストは――」

コンコン、とドアをノックする音に、矢崎は立ち上がった。扉を開けると、二十代半ばだろうか、小柄な娘が満面の笑みを湛えて矢崎を見上げた。

「はじめまして、リナです。お邪魔しまーす」

自分の靴を脱いだあと、矢崎の靴も揃えてくれた。

ここまで来て、なんだか照れくさいようにはにかみ笑いしかできない矢崎に、リナという娘は何のためらいもなく、「じゃあまずシャワー浴びましょうね」と言うのだった。

「いや、……その、俺は女の子とシャボンを吹かしたいだけだから、シャワーはいいよ」

リナは腑に落ちないといった顔で、「でも、お客様とは必ず一緒にシャワーを浴びてもらってるんですよ、ね?」と矢崎のベルトに手を掛けてくる。矢崎は慌てて、

「わかった、わかったよ。じゃあ俺ひとりでシャワー浴びてくるから。お前さんはシャボンでも吹かして待ってな」

言うが早いか、矢崎はリナに背を向けてそそくさと浴室へ向かった。なんでこんなことになるんだ、密室で娘とシャボンを吹かしたいだけなのに、畜生、と思いながらも矢崎は怪しまれないように丹念に身体を洗った。

腰にタオルを巻いて脱衣所に出ると、脱ぎ散らかした服がきれいに畳んであった。それをまた着ていると、リナが小走りにやって来て、

「あれ? また服着るの? なんで」

「だから言ったろう、俺はシャボンを吹かしたいだけなんだって」

「ふうん……?」

矢崎が部屋に戻ると、ラジオは消され、ほの青い光がぼんやりと照らす中でシャボンが漂っていた。リナは服を着たまま、ベッドの上で大きな枕に背を凭せていた。さっきの媚びるような笑顔は消えて、どこか遠くを見ているような眼差しで矢崎を迎えた。唇の間からかすかに歯が覗く程度の微笑だった。

矢崎はジャンパーのポケットからシャボンの箱とウイスキーの小瓶を取り出すと、リナの隣に座った。最初は上に向けて吹かし、次は正面に向けて吹かし、二人のシャボンが徐々に重なるように息を吹き込んだ。

「なあ、飲むか」

矢崎がウイスキーの瓶を差し出すと、リナは素直に受け取った。少し口をつけて、すぐに咳込んだ。

「無理しなくていい」

リナの手から瓶を受け取ると、矢崎は彼女のシャボンに向かってそっとストローへ息を吹き込んだ。青いシャボンたちは揺れ惑い、かすかにぶつかった。あたたかく若い生命と弾けるこころよさ。心のふるえに耐えるように、矢崎は目を瞑った。

「青くて、ふわふわして、クラゲみたい」

とろんとした声で言うリナも、前の娘と同じように何も感じないらしかった。

「うん。魚になって、口からあぶくを出してるみたいだな」

そのあぶくを互いに呼吸し合ってるようだ、と言いかけてやめた。

「ねえ、ほんとにいいの? 何もしなくて」

矢崎を見上げるリナの目には、明らかにそれとわかる付けまつ毛が貼りついていた。

「いいよ。若い娘さんとシャボンを吹かして、それを眺めるだけでいいんだから。それが老いぼれの楽しみなんだ」

「私、若くないよ」とリナははにかむようにうつむいて、指先で髪を耳に掛けた。

「いいからシャボンを吹かしてくれ」

矢崎はそう言って、ウイスキーをあおった。若くない、と言うものの、せいぜい二十五、六だろう。そんな娘が自分の年齢を恥じるようなそぶりを見せる。矢崎にはよくわからなかった。

「ああ、なんだか少し酔っ払っちゃったみたい」

密室なので、酒臭いシャボンを吹かしていると匂いがこもるのだろう。それよりも、リナが自分の息を呼吸しているという事実に、矢崎の心臓は大きく波打った。それをごまかすように、

「大丈夫か。もう飲むのやめようか」と言ったが、リナは「ううん、いい気持ち。このまま吹かして」と矢崎の肩に頭をあずけた。

呼吸の乱れが肩の動きに表れるのを恐れるように、矢崎は立て続けにストローに口をつけ、吹いた。このこころよさに比べたら、肉の快楽など何だろう。頭がぼうっと痺れてくる。思考がかすむ。目に入るのはシャボン、シャボン、またシャボン。このホテルの密室自体がシャボンの泡で、その中で若い娘と寄り添っているような、そんな錯覚にとらわれた。

思いがけず食いしばった歯の隙間から嗚咽がもれそうになった瞬間、部屋の電話がけたたましく鳴り、夢は霧散した。リナは大儀そうに手を伸ばし、受話器を取ると「はい、はい、はーい」と生返事をし、ガチャンと切った。

「時間になっちゃった」

そう言いながら立ち上がったリナは、少しよろけた。矢崎は矢崎で、あの残酷なまでに現実的な電話の残響が耳から離れず、しばらく動けなかった。夢の残り香を慕うように目を閉じていた。でももうシャボンはひとつ残らず弾けてしまった。

 

電車の中でスポーツ新聞を読んでいると、ある見出しが目に入り、矢崎の新聞を持つ手に力が入った。「シャボンまた値上げ」とあった。辺りはばからず舌打ちをし、電車を降りる時に新聞を網棚に放り投げた。

昼間から飲める酒場に落ち着くと、ホッピーセットととりあえずモツ煮込みを頼み、シャボンを吹かし始めた。飲食店ではこういう酒場でしか存分にシャボンを楽しめない。コーヒー一杯飲むにしてもシャボン席がある店を探すのに苦労する。その上また値上げだと? 矢崎は運ばれてきたホッピーをぐいとあおった。

店内を見回すと、矢崎と同じようにうらぶれた爺たちがシャボンをプカプカ吹かしている。この爺たちの中に、若い娘と弾けるシャボンのこころよさを知っている者はいるだろうか。多少の優越感に浸りながら、矢崎はモツをつまみ、ホッピーを飲み、シャボンを吹かした。まてよ、と思った。自分などはもう老廃に至り、シャボンでしか娘との生命の交流ができなくなってしまった。男性が機能しなくなってもなお、循環する血の流れがどこかで出口を求めるように、娘とシャボンを吹かすことはあさましい老醜かもしれない。

……なに、結局は俺だって腐っても男だってことだ、と思いながらまたストローに息を吹き込んだ。どこかの爺が吹かしたシャボンとぶつかって弾けた。むなしかった。なんとなく、矢崎は自分が死ぬ時の最後の吐息がシャボンとなり、漂うのを想像して、可笑しくなった。すぐあとにおそろしくなった。自分の吹かすシャボンが、目に見えて漂い、弾けるというのはどういうことだ。高層ビルから飛び降りる自分をスローモーションで眺めているような映像が脳裏をよぎった。叫びはシャボンの膜に包まれ、ビルの下を歩く人間たちには聞こえないようだ。地面にぶつかり、最後のシャボンが弾けて、俺は息絶える。

酒場の喧騒が一段と大きくなったように感じた。矢崎は怯えたような目で辺りを見回した。酔いに顔が赤黒くなった者や、何か討論しながらせわしなくストローを液に浸し、吹かす者もいた。あちこちでシャボンに息が吹き込まれ、弾け、生まれ、死んだ。際限のない繰り返しにきょろきょろ惑いながら、矢崎は自分を確かめるように頬を手のひらでごしごしと擦った。酔いもあったかもしれない。

なにしろ酒場の中では酒の匂いのシャボンが次々と弾けるのだ、酔いが早くなるのも無理はない。シャボンを吹かすことで死の恐怖を目の当たりにした者はこの中にいるだろうか。それともこんな考えこそ幻覚なのだろうか。

「キリストは奇跡なんか起こしゃしねえよ」

「じゃあ何をしたんだ」

「苦しむ者に寄り添ってただけだ」

「そんなの意味ねえじゃねえか」

「だから殺されたんだ」

耳に飛び込んできた不可解な会話に、矢崎は阿呆らしいと思った。実在しなかった人間について語ったってしょうがない。あいつらも幻妄にとらわれているな、と思った。しかし彼らの顔をちらと見ると真剣にやり合っていた。かといってその会話に耳をそばだてる気にもならなかった。ただ、「苦しむ者に寄り添ってただけだ」という言葉は耳に残った。

柳のベンチの娘を思い出した。どこの誰と知るよしもないが、ある人間に膝を突いて拝みたくなることなど、そうそうあるものではない。矢崎はもう七十の手前だが、つい最近までそんな経験はなかったようだ。

「やはり聖女だったのかな」

矢崎はひとりごちた。寄り添うどころか冷たい一瞥をくれただけで、シャボンの箱を盗んでいった娘。

当然リナのことも思い出した。柳の娘と違って愛嬌を振りまき、矢崎の肩に頭をあずけ、酒のシャボンに酔っ払った娘。

若い花ざかりの身体をひさぎ、男たちに血肉を捧げる。もしかしたら矢崎は、その爪痕に憐憫を感じただけなのかもしれなかった。俺なんてかわいいもんさ、と思ったすぐあとにストローを動かす手が止まった。俺は娘たちの生命そのものを削っているんじゃないのか。矢崎はそら恐ろしくなった。シャボンを吹かすことが緩慢な自殺なら、娘の脆いシャボンと一緒に弾けて恍惚に浸るのは遠まわしな殺人、いや心中願望ではないのか。

そんなはずはない。矢崎はうつむいて目をしばたたいた。爺どものたむろしているこんな酒場に居るから、妙な考えが次々に浮かぶのだ。そう思って、会計を頼んだ。

 

「やあ、待ってたよ」

完全に出来上がった状態でホテルのドアを開けた矢崎を見て、リナはおどろいたらしかった。

「どうしたの、飲んできたの? 危ないからベッドに座ってて」

慌てて靴を脱ぎながら、矢崎の脱ぎ散らかした靴も揃えることは忘れない。

「俺はシャボンを吹かす。お前さんもシャボンを吹かす。不足することはないよ。ほら、こんなにある」

矢崎はコンビニ袋を逆さまにして、ベッドに未開封のシャボンの箱を幾つも散りばめた。

「あれ、値上げ前だからたくさん買い込んだんだ」

爪先にスリッパを引っかけて、前と同じようにリナは小走りでやって来た。その脇に両手を差しこみ、持ち上げてベッドに引きずり込みたかったが、矢崎は酔いの中でも自分にそんな体力は残されていないということを承知していた。

「今日は無理にシャワー浴びなくていいからね、前はごめんね。また指名してくれて、嬉しい」

リナは並んでベッドに浅く腰掛け、矢崎の痩せた腿に手を置いた。その上に手を重ねたくなったが、自分の老いさらばえた醜い手で若い潤った肌に触れることは何かおそろしい気がして、矢崎はシャボンの箱を一つ取ると、リナに差しだした。少し震えていた。

前と同じようにリナは照明を青くして、二人は大きな枕に背を凭せ、ベッドの上で足を伸ばした。すでに酔っているものの、矢崎は傍らにウイスキーの小瓶を置いておかないと落ち着かない。リナが先に吹かしだしたシャボンを呆けたように見ているうち、やはり瓶に手が伸び、ごくりと一口飲んだ。この娘の吹かすシャボンをふらふらと追い、かぶりつきたい。狂人じみた考えがちらと頭をよぎった。

「ね、吹かさないの?」

目蓋を塗りたくったリナの目が矢崎を間近に覗きこんだ。すでに瞳は焦点を失いつつあるようだった。生きるためか。生きるためにこんなにも粧うのか。生きるために粧って、身体を、命を削っているのか。

もちろんそんなことは口に出さず、矢崎はシャボン液にストローを浸し、吹かした。不思議と安らかな気持ちだった。酒場でひとり怯えていたのが嘘のようだった。此岸と彼岸のはざま、ゆるやかな川に浮かぶ小舟の上でまどろんでいるような、そんな穏やかな気持ちだった。

「気持ちいいなあ」

自分のシャボンとリナのシャボンとが混ざり合い、ぶつかり、弾けるのを見ていて、矢崎は率直に言った。

「気持ちいいよ」

リナは微笑と一緒にやわらかく湿った吐息の音で応え、またシャボンを吹かした。

二人は言葉少なにシャボンを吹かし続けた。少なくとも矢崎には、もはや時間の感覚すらなかった。部屋にシャボンが尽きることなどなかった。シャボンが尽きない限り、この空間はどこまでも無限に保たれるような、そんな気がした。

だから、また時間終了を告げるけたたましい電話が鳴ると、矢崎は身をすくめた。リナは受話器を耳に当て、はい、はい、と繰り返している。矢崎はほとんど発作的に受話器を奪った。唖然とするリナを尻目に、「延長だ、延長を頼む」とむしゃぶりつくように言った。

さっきまでの穏やかな気持ちにヒビが入った。

「延長してくれたの? うれしい」

とろんとした目で笑うリナの肩を両手で掴んだ。娘の瞳が揺らいだ。矢崎は腕に力を入れた。リナは呆気なく仰向けに倒れた。矢崎の呼吸は乱れていた、がさして抵抗するでもなくどこか哀しげな微笑を浮かべているリナに、かえって戸惑った。瞬間、娘の鼻から一筋の血が流れた。

「やだ」と言ってリナは仰向けになったままベッドの上のティッシュに手を伸ばし、鼻を拭った。

「わ、やっぱり鼻血だ。ごめんなさい、いいとこだったのに……」

矢崎は呆然としていた。いたわりの言葉すら掛けられなかった。目の前の娘を通して、娘――自分のほんとうの娘――を見ていた。

「パパ、シャボン玉、シャボン玉」

公園で娘にせがまれ、矢崎は得意になって慎重に息を吹き込み、大きなシャボンをこしらえてやる。小さな娘は大はしゃぎ、まだ覚束ない足取りでシャボンを追いかけ、触れようとしてばたりと転んだ。矢崎の妻が慌てて抱き起こす。泣くどころか、娘はにいっと笑った。鼻血が垂れていた。ある日、妻から離婚届けを突き出された。親権は妻に渡り、娘に会うことは今後一切ゆるされなかった。

あいつは今ごろどうしてるだろう、などという感傷は浮かばなかった。まさに今、目の前に鼻血を出しながら困ったように微笑んでいる娘がいるじゃないか。照明のせいで、少し青ざめたような頬に矢崎はそっと手を当てた。一緒に横たわり、服の上から娘の身体を両腕でやわらかく包んだ。そのまま目を閉じた。老いて皺の寄った目尻から、涙が一筋こぼれた。どういう感情からくる涙なのかわからなかった。矢崎はぼんやり目を開けた。潤んだ部屋は歪んでいた。シャボンがない、ひとつもない。

なに、また吹かせばいい。弾けるたびに吹かせばいい。部屋いっぱい、頭の中までも満たせばいい。ぼんやりと思いながら、矢崎はまた目を瞑った。

2016年4月11日公開

© 2016 谷田七重

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