羽根

山本ハイジ

小説

13,206文字

外界から切り離された研究所にて、行われているある実験。それは、人間は「刷り込み」だけでその肉体さえ変化させることが出来るのか、どうか? 研究員の「私」と実験体の「彼女」は研究室でたった二人、奇妙に過ごす。この実験の目標は、彼女の背中に見事な羽根をはやさせることだ。

 

この白い部屋の天井には、大きな真四角の窓がついている。見上げれば、いつでも空を観賞することが出来た。今は夜空。

その真下にベビーベッドで、ブランケットに包まれて眠る彼女がいる。先程ミルクを飲ませて、何とか寝かしつけたところだった。安らかな寝顔を眺めながら、ため息を一つ吐く。私はこれから長い時を彼女と過ごす。

彼女は死刑囚の女の腹から取り出されたらしい。女を母と認識していないうちに、彼女は研究所のこの部屋へ運ばれてきた。

私は彼女をある実験に基づいて育てるという、重要な役割を任せられている。つまり彼女は実験台。

あまり気乗りしない仕事だ。体が治ったばかりなのに。だが、仕方ない。眼鏡を外して白衣を脱ぐと、座っていたソファーベッドに寝転び、瞼を閉じた。

 

翌日。研究員たちから渡されたミルクとオシメで、彼女の世話をする。赤子の世話というのは予想していたより大変なもので、彼女が泣き出すたび戸惑ってしまった。あと、私がしなければならないことはもう一つ。これはミルクやオシメに比べたら、楽に感じた。が、慎重さを要する。

彼女を抱き上げるとテレビの前に座って、電源を点けた。映るのは木の枝に止まり、羽根を休めている鳥の映像。青い羽根が何とも美しい。彼女はじっと、画面の中の鳥を凝視している。一瞬後、鳥は羽ばたいて飛んでいった。画面はそれを追いかけるように、大空へ消えていく鳥を映す。私は彼女の耳元で囁いた。

「あれは、鳥」

「……」

「あんな風に、空を飛べるんだ」

「……」

「美しいだろう? 君もいつか、羽根がはえて鳥になるんだ」

「……」

「君は鳥だ」

彼女に「自分は鳥である」と思い込ませること。それが、実験の内容だった。

このテレビは鳥の映像しか映し出さない。テレビの他には、鳥の図鑑や鳥の写真集などを見せて教育した。

彼女はキャッキャッと笑いながら、小さな手のひらで鳥の写真を叩いて遊んでいる。強い興味を持ったようだ。私はひたすら「君は鳥だ」と、彼女に教え続ける。

鳥以外の余計な知識は、間違っても与えないように細心の注意を払った。彼女が自分は人間だと自覚してしまった瞬間、この実験は失敗に終わる。

彼女が赤子のうちに刷り込んでいく。実験の結果は彼女が成長すれば、わかることだ。

こんな風に私は彼女を育てていった。彼女が初めて発した言葉は「トリ」。喋れるようになっても、口数は少ない子だった。でも暗い訳ではない。よく笑い、よくはしゃぐ子だ。

彼女の体がベビーベッドに合わなくなれば、ベビーベッドは片づけて、彼女は私と一緒にソファーベッドで眠るようになった。彼女は私に抱きついて、甘えてくる。

トイレの仕方は人間的過ぎるから、教えなかった。彼女はこの先、オシメを外すことは出来ない。

彼女の食事はミルクから、食用ミミズに変えていた。

自分で動き回れるくらいになると、あの窓の下で彼女は昼の光を浴び、微笑みながらぴょんぴょん跳び回る。お気に入りの遊びらしい。

 

彼女が赤子から子供くらいに成長して、わかったことがある。それは、彼女は美しい少女だということ。色素の薄い茶色い髪はやわらかく、彫りの深い顔立ちをしていた。

彼女は今、窓の下に突っ立って空を見上げている。私はソファーベッドに座って、そんな彼女を眺めていた。そろそろ昼食にしようと、食用ミミズが一杯に詰め込まれたビニール袋を取る。

鳥らしい食事だろう。研究員たちが飼育して、ちゃんと泥抜き処理もしたミミズ。ビニール袋の縛り口をほどいて、中に手を突っ込んだ。

一掴み、ミミズを取り出すと彼女を呼ぶ。

「おいで」

彼女は空から目を離し、私の方へ顔を向けると、表情をぱあっと輝かせて走り寄ってきた。

「……エサ!」

彼女は私の膝へと乗りかかり、腕を私の首に回して顔を近づけてくる。私はミミズを一口、含んだ。

ヌメヌメとした舌触り。味はほとんどしなかった。彼女の後頭部に片手を這わせて、エサをねだるその唇を塞いだ。

唾液と一緒に、どろどろになったミミズを彼女の口内へ流し込む。彼女は喉をゴクンと鳴らして、飲み下す。私がもう一口、ミミズを含むと今度は彼女から口づけてきて、生温かい舌が口の中で動き回った。

私の唇と彼女の唇の間で、唾液とミミズが糸を引いている。彼女はビニール袋のミミズを半分ほど減らして、私はその残りを食べた。

そして、彼女とテレビを見る。画面は白鳥の姿を映し出していた。彼女はテレビに眺め入っている。少しして、悪臭がしたから彼女のオシメを替えた。

日暮れには夕食を済ませて、洗面所へ入った。オレンジ色の石鹸が一つだけ置いてある洗面台と、簡素な脱衣所。それに隣接しているのはシャワー室。二人して裸になると、狭いシャワー室に彼女を先に入らせてから、私もやや無理をして入る。窮屈だ。シャワーのコックを捻ると頭上から降る、お湯の雫。

私はぼうっと彼女の濡れていく、浮き出た肩甲骨を見ていた。

シャワーを浴び終える。脱衣所で彼女の体と髪を丁寧にタオルで拭いて、オシメを穿かせた。前身頃から続く布を首の後ろで結ぶ、背中の出る型の白いワンピースを着せる。私も衣服を身に纏うと、彼女と一緒に洗面所から出た。

テレビを点けて、彼女が夢中になって見ている間に、今日出た汚れものとゴミを分けて袋に入れた。それを持つとドアの鍵を開けて、廊下に出る。忘れずに鍵はかけ直した。このドアは内側と外側の両方に鍵穴があり、開けることが出来るのはいつも白衣のポケットに鍵を入れている私だけだ。

廊下はしんとしている。並ぶ窓の向こうは薄暗く、もう日が落ちていた。遠くに見えるのは灯台の明かり。

ある研究員の部屋を目指して歩き出す。途中で腰の辺りから、私を呼び止める声が聞こえた。子供のような、甲高い声。

「ゴミか? 洗濯か?」

「……両方です」

立ち止まって振り返ると、視線を下へ向ける。禿げ上がった頭頂部が見えた。ゆっくりとその頭が後ろに傾き、顔が上がる。ぎょろぎょろとした落ち着きのない目。

彼の顔立ちは、とうに成人を過ぎた中年のものだ。目元と口元に深い皺を刻んでいる。それでいて不均衡にも身長が百センチほどしかなく、自分の寸法に合わせた短い白衣を纏っていた。私は彼の部屋へ向かうところだった。手間が省けた。

屈んで彼と視線を合わせると、袋を両手に手渡す。すると、彼はこんな質問をしてきた。

「娘、羽根はえたか?」

「いえ、まだ全然」

彼女の肩甲骨を思い出しながら答える。彼は「そうか」と呟くと頷き、そのまま袋を二つ床に引きずってとことこ去っていった。一応、彼は研究員たちの一人ではある。だがその実、やっていることは研究員というより、単なる雑用係だった。だから彼が羽根のことを聞く必要性はそんなにない。大方、せめて研究員の気分だけでも味わいたいのだろう。

トイレに寄って用を足してから、部屋へ帰ることにした。彼が廊下にいたのも、多分その為だろう。この研究所の研究員たちが住み込む部屋は、あの洗面台とシャワー室があるだけでトイレやキッチンは共同だった。

部屋に帰ると、彼女は変わらずテレビを見ている。

 

羽根。そう、実験の目的は彼女に羽根をはやさせること。人間は思い込みの力だけでその形を変えることが出来るのか、どうか? それを試しているのだった。

人間には羽根がないだなんて、どこの誰が決めたことだろう? いつの間にか出来上がった先入観に過ぎない。

その先入観さえ、最初からなければ。

 

数日後、彼女の様子に異変が現れはじめた。いつものように窓の下で跳びはねていたのだが、表情がおかしかった。空一点のみを見つめたまま、口元はまったく笑っていない。

苦しそうに喘ぎ、こめかみに汗を伝わせている。疲労は相当なはずだ。なのに彼女は両手を空に向けて伸ばし、跳び続けている。

私は止めることもせず、ソファーベッドに腰かけて彼女を観察していた。彼女が特に高く跳んで、着地に失敗して転んだ時にようやく駆け寄る。彼女はうめき声を上げながら、泣いていた。

足首を捻挫していたが、泣いているのは痛いだけが原因じゃないように思えた。研究員たちから救急箱をもらって、とりあえず彼女の足首を手当てする。包帯を巻けばそれ以上、彼女は跳ぶのを諦めた。

しかし、それでも彼女の奇行は止まらなかった。また少し日数が経って、ある日の昼間。今度は壁に頭を打ちつけたり、引っ掻いたりを繰り返すようになった。彼女の額は腫れて、小さな爪は剥がれて肉が露出する。真っ白な壁に描かれる赤い線。

私は前と同じく様子を見てから、彼女がぐったりしてきたところで介抱した。額に湿布を貼って、指先に包帯を巻く。包帯はすぐに血で汚れてしまった。彼女はソファーベッドに仰向けになって、天井の窓越しの空をぼうっと見ている。

痛々しい。彼女はきっとここを出て、空を飛びたいのだ。彼女の頭を撫でながら、優しく話しかける。

「空を飛べるのは羽根がはえて、君がもっと大きくなってからだ」

「……」

「多分、羽根ならあともう少しで、はえてくる」

彼女は静かに頷いた。羽根はあともう少しで、はえてくる。私のこの言葉は気休めではない。彼女の精神は確実に鳥と同化している。それが肉体に作用する前は、情緒不安定になるものだ。

ふと、彼女を撫でる手を止めて、上を向いた。差し込んでいた陽光が遮られたからだ。窓に映るのは見慣れた小人の、靴の裏。彼だ。脚立を抱えて、うろちょろしているようだった。屋上にいるということは、洗濯物でも干しているのだろう。

彼が視界から消えると、見えた太陽の煌めき。

……空を飛びたい、か。この実験の、実現を目指す最高目標だった。

実験は羽根をはやさせる以外にまだやることがある。彼女に羽根がはえて、またある程度成長させたら、彼女を空へ放つという最終実験。

 

私の言葉に頷いたにもかかわらず、彼女の壁に対する攻撃は日に日に激しさを増していった。足首の捻挫が治ると、彼女は再び窓の下で病的なくらい跳びはねる。彼女の体はもう、ボロボロだった。私は彼女を止めることにした。

暴れる彼女を無理やり正座させて、手首と足首を片方ずつ合わせると、まとめて包帯で縛り拘束する。長時間続けばかなり苦しい体勢だろう。

彼女は反抗的にウーウー唸っている。その唸る気力がなくなれば、包帯をほどいてやるつもりだ。残酷な仕打ちかもしれない。だが彼女を落ち着かせる為には、仕方ないことだ。彼女の前に立ってもう一度、言い聞かせる。

「まだ、早い」

彼女は唸りながら、私を睨んだ。

「……待つんだ」

せめて、彼女が退屈しないようにテレビを点けた。水辺で戯れているフラミンゴ。

しかし彼女は、画面から目をそらしてしまう。鳥を妬んでいるのだろうか。困った。

諦めてソファーベッドに座り、深くため息を吐く。

一時間、経った。彼女の唸り声は弱々しくなってきた。二時間、経った。彼女は沈黙した。念の為、あと一時間のばすことにした。そして三時間経った。彼女はうなだれて、太腿をもじらせている。包帯をほどいた。途端、彼女は横に倒れる。

その足は相当、痺れているのだろう。彼女の足をさすりながら、ワンピースの中へ手を滑り込ませて、オシメに手をかけるとそっと下ろす。

オシメの中には排泄物がたまっていた。ウエットティッシュで汚れた個所を拭い、新しいオシメを穿かせる。これで暫くは、大人しくなるだろう。ひどくこたえたはずだ。

だが、さすがに胸が痛い。彼女の顔へ向かって、手を伸ばす。彼女は一瞬ビクッと震えた。

その頬を優しく撫でてから、彼女を抱きしめる。彼女の後ろ髪を指でクシャクシャにしながら、互いの頬を擦り合わせた。

「ごめんよ。辛かっただろう? でもこれ以上、ケガをさせたくないんだ」

「……あ、あ」

「大丈夫、君は鳥だ。いつか飛べる」

彼女は嗚咽を漏らしていた。

「さあ、もうエサの時間だ」

そのあと、彼女は再び大人しくテレビを見たり、鳥の写真を眺めたりするようになった。これでいい。自傷ともいえる彼女の行為があのまま続いてエスカレートしていったら、取り返しのつかないことになったのかもしれないのだ。壁に思いっきり頭をぶつけて、もしもその打ち所が悪ければどうする? 大袈裟だろうが死ぬかもしれない。

羽根がまだ、はえていないのに。

 

私からミミズをもらって、鳥の姿をうっとり観賞して、天井の空を見上げて、そのまま楽しそうに軽やかに跳びはねて遊ぶ。そんな日々を繰り返し、彼女は十歳になった。身長がすらりと伸びている。ワンピースの裾から覗く、子供にしては長い脚。

彼女の成長について、気づいたことはもう一つ。肩甲骨が不自然に出っ張ってきた。研究員たちに報告すると、研究員たちは私にポラロイドカメラを渡して「これで娘の背中の経過を、まめに記録してくるように」と言った。

私はそれから毎日、彼女の背中を撮影した。増えていく写真は肩甲骨がどんどん目立っていく様子を、まるで連写したかのように写していた。今や肩甲骨は、皮膚を破って飛び出しそうな勢いだ。

彼女は気が狂ったように、背中を掻きむしっている。痒いのだろう。掻き過ぎて、背中は真っ赤になっていた。肩甲骨に伸ばされて薄くなった皮膚は、所々傷つき出血している。盛り上がった肩甲骨の頂上付近のもっとも薄い皮膚が掻き破られると、黄色い骨がうっすら見えた。

そして、その骨は徐々に突き出てきた。まるで爪が伸びるみたいに、肩甲骨は生長していく。私はひたすら写真を撮り続けた。

痒みの方はおさまってきたようだ。しかし今度は、シャワーを嫌がるようになった。しみて激痛が走るのだろう。彼女の体は濡らしたタオルで拭いて、綺麗にする。

だが、消毒は我慢してもらわなければならない。破られたばかりの皮膚は未完成で、ただの傷だ。放っておけば化膿して、黴菌が入るかもしれない。脱脂綿に消毒液を染み込ませて、骨の周りに押しつけると彼女は泣き叫んだ。が、暴れたりはしなかった。私が「あともう少し、もう少しで羽根は完成する」と、勇気づけていたからだろう。健気なものだ。

羽根が欲しい。きっとその一心で、彼女は苦痛に堪えている。思わず情に動かされて、何度も彼女に「がんばれ」などと声をかけた。

写真を撮って、消毒して、羽根のゆくすえを見守る。彼女を苦しませている骨は、少しずつ羽根の骨組みを形成していった。そして、芽吹きはじめる羽毛。

 

数ヶ月、経った。彼女の様子を報告する為に、写真を何枚か持って部屋を出る。そのまま研究員たちが集まっている部屋へ向かった。ドアを開ければ、並ぶデスクとコンピューターに、煙草の煙で満ちた空間。

ほとんどの研究員たちの仕事は、食用ミミズの育成と開発だ。羽根に直接関わっている者は僅かだった。そんな研究員たちのうち、ある一人に近寄る。

その研究員は私に気がつかず、くわえ煙草でコンピューターをいじっていた。私がいるのは研究員の右側。この研究員には、右目がない。左目はコンピューターの画面を凝視しているのだろう。

「報告です」

「おっ? ああ、悪い」

研究員は回転イスを腰で動かして、私の方を向いた。コンピューターのキーボードに置いていた右手で、煙草を口から離し、煙を吐きながら灰皿に灰を落とす。研究員は右目だけではなく、左手も存在していなかった。

写真を差し出すと、研究員は再び煙草をくわえてから写真を受け取った。手の甲で灰皿をデスクの隅へどけると、カードを広げるみたいな器用さで写真を並べる。彼女の変化していく背中を見て、煙草をまた口から離し、煙を吐きつつ話しはじめた。

「大分、出来上がってきたね」

持ってきた写真は、毎日撮っていたものの中から選んで、彼女の変化をわかりやすくしたものだ。写真の一枚目は背中から伸びた骨を写している。骨に貫かれた皮膚は、赤く腫れていた。つけてしまった無数の引っ掻き傷はかさぶたになっていた。写真の二枚目は僅かながら骨に羽毛らしきものがはえてきて、皮膚の腫れは引いてきた。かさぶたも薄くなっている。写真の三枚目では骨の羽毛が増えていた。骨を囲む皮膚と、背中は綺麗になっている。それから四、五枚と続く背中の進化の様子。

「ええ、まだ小さい羽根ですが」

「彼女は今、何歳だっけ?」

「十歳です。……もうじき、十一歳になりますが」

「そう。実はね、彼女が成人して最終実験を行う前に、君に一つやってもらいたいことがあるんだ」

私に残された仕事はもう、彼女の羽根を育て上げることだけだと思っていた。

「やってもらいたいこと、とは?」

「ああ、今はいい。時期がくればいずれ話すよ」

研究員は写真をまとめて、灰皿を元の位置に戻すと、短くなった煙草を揉み消す。

報告は終わった。帰ろうと踵を返したが、あることを思い出してまた研究員に振り返る。

「ああ、そうだ……今日、彼女を庭に出してもいいですか?」

「うん? なんで?」

「たまには、外に出してやりたいんです。天気もいいことですし」

「まあ、別に構わないよ。皆に庭へいかないように言っておく」

「はい。ありがとうございます」

窓の下で楽しそうに跳ねている彼女を見て、思いついていたことだった。部屋を出ようとドアノブに手をかけたところで、ノブが勝手に下りる。開いたドアから現れたのは、資料を片手にたくさん抱えた頭が二つある研究員。その研究員に道を譲ってから廊下へと出た。

廊下の窓から見えるのは灯台と、太陽の光を反射して水面をキラキラさせている海。本当、天気がいい。

部屋に帰れば光差すあの窓の下で、踊るように跳びはねている彼女。ワンピースの裾をひらめかせて、背中には小さな羽根。

「庭へいくよ」

と、声をかけると彼女は跳ぶのをぴたりと止めて、表情を輝かせた。今まで彼女を庭へ連れ出したことは、ほんの数回しかない。たまには外の空気に触れて、直に空を眺めるのもいい学習になるだろう。ドアを開けて廊下に出れば、彼女はニコニコしながらついてくる。

長い階段を下りて玄関につくと、彼女の足にサンダルを履かせて、私もスリッパから適当な靴に履き替える。そしてガラスドアを開けて、彼女と共にアスファルトを踏んだ。

塗装された道を歩き、やがて見えるのは背の低い鉄製の柵。その向こう側では、ポプラの木が列をなしてはえている。柵の開き戸の上から身を乗り出して、内側に取りつけてあるカンヌキを外し、中へ入った。

ここからアスファルトは存在しない。やわらかな土と草を靴の裏に感じながら、彼女と手をつないでポプラへと向かう。木と木の間を通れば、そこは緑と白と青の世界。

地面一杯にはえている青い花をつけた露草と、小さな白い花をつけたアカネ。それを真っ白な花を咲かせる紫陽花、アナベルと鮮やかな青い大輪の花、西洋朝顔のヘブンリーブルーがさらに彩っている。そよ風に運ばれてくる甘い香りは、低木で下向きに咲いているラッパ状の大きな白い花、エンジェルス・トランペット。この美しい花畑を円形に囲んでいるポプラ。研究員たちの気分転換や、趣味での植物の研究に使われたりする場所だった。

エンジェルス・トランペットの花には毒がある。間違っても口に入れたりしないように言い聞かせてから、彼女を遊ばせた。私はポプラの幹に背を預けて、駆け回っている彼女を見守る。途中で走るのを止めては、好奇心旺盛にアナベルの花弁をつつく彼女。青天の下、無邪気に笑いながら花と戯れているその姿は、美しい。

……どうやら私は、見守るつもりが見とれていたらしい。彼女がまた走り出して、つまずいて前のめりに転んでも、ワンテンポ反応が遅れた。はっとして、慌てて倒れた彼女に近寄り、傍に膝をつくと彼女の体を仰向けにして上体を助け起こす。幸いにも茂った草がクッションになったのか、擦り傷一つ負っていなかった。彼女はきょとんとしている。

途端、空から聞こえてきた鳴き声。彼女は私の体をはねのけて、急に立ち上がった。私はその拍子に尻餅をついてしまった。

「トリ!」

彼女は空を仰いでいる。座ったまま見上げてみれば視界に入った、白い羽根を広げて飛ぶ鳥。多分、白鷺だ。私に背中を向けているから、彼女の表情はわからない。でも、うっとりとした笑みをきっと浮かべていることだろう。

白鷺が去っても、彼女はずっと空に眺め入っている。私は視線を空から彼女の羽根へ移した。まだ小さいながら、形のよい羽根。

日没まで遊んだあと部屋に帰って、食事を済ませた。シャワーを浴びる前に、最近追加された世話をする。それは水を弾くように、羽根に薄く油を塗る作業だ。油をつけた指で彼女の白い羽根を一枚ずつ、丁寧に撫でていく。

彼女の羽根は、あの白鷺のように立派に育つだろうか。

 

天井の窓に雪が積もって、空が見えない。この季節、研究員たちからもらった電気ストーブを置いてはいるが、やはり肌寒い。

彼女はこの日点けっぱなしのテレビを見ることもせず、ソファーベッドでブランケットをかぶり寝込んでいた。お腹が痛い、と、うめいて。

寒いから差し込んでしまったのだろうか? かわいそうに。とりあえず彼女の排泄物を気にして、ブランケットを捲り、ワンピースも捲るとオシメに手をかけて下ろした。途端、鼻につく鉄臭さ。

驚きのあまり、腰を抜かしそうになった。オシメの中が赤黒く染まっていたからだ。何か、大変な病気にでもかかってしまったのだろうか? オシメを替えて、ブランケットをかけ直すと慌てて部屋から出た。

研究員たちの部屋に飛び込んで、彼女の出血について話す。すると出血の説明と、前に言われた「やってもらいたい」ことについての話をされて、私は研究員たちの部屋をあとにした。

私たちの部屋へ戻る。寝息を立てている彼女の安らかな顔。

 

それから私はいつも通り、彼女の世話を繰り返す日々を送った。彼女は月一回の痛みさえ乗り越えてしまえば、また元通りにテレビや写真で鳥を観賞して、窓の下で空を見上げて楽しそうに笑う。

しかし日数が経つにつれて彼女は時折、寂しそうな表情を浮かべるようになってしまった。それは一緒にテレビを見ている時。彼女はあの恍惚とした様子で画面の中の鳥に見とれていたのに、ふと私の方を振り向いた瞬間、熱に浮かされたような笑みは掻き消えて戸惑いの色を見せた。

その時私はきっと、恐ろしく冷めた顔をしていたのだろうと思う。画面の中の白鳩も不思議そうに小首をかしげて、こちらを見ていた。そんな錯覚。

彼女の世話はいつもと変わらずちゃんと行っている。ただ問題は、私の感情。それは無意識に態度へ現れて、彼女に伝わってしまったのだろう。以来、彼女がせっかく鳥たちを観賞していても、窓の下で遊んでいても、私の表情やふとした言葉の語調の冷たさで、彼女はうなだれて私の白衣の袖を引っぱるのだった。

親失格だ。このままだと、彼女の成長に支障をきたす。けれども私はどうしても、投げやりになってしまう自分を止めることが出来なかった。

研究員たちに言われた私にやってもらいたいことも、素直に従ってはいる。ビデオを渡されて、個室に通されても私の体はまったく反応しない。研究員たちはあの手この手で、私を反応させようと苦心している。……これは単に私が不能なだけなのか、それとも研究員たちに対する反発か。

 

そのまま冬と春が過ぎて、彼女は十二歳になった。天井の窓から差す、夏の日光。

私の不調のせいか、彼女は二度目の不安定期を迎えていた。彼女がいくら窓の下で転んでも壁に激突しても、ケガの手当てはするがもう止めることはしなかった。

頭と膝、手に包帯を巻いた姿でテレビの前に体育座りして、ぼうっと画面を眺めている彼女。私はソファーベッドで仰向けになって怠惰に過ごしていたが、そろそろ研究員たちの部屋へいかなければと思い、身を起こした。

彼女に何も言わないまま、部屋から出ると研究員たちの部屋へ向かう。そしていつも通りビデオと紙コップを渡されて、通される個室。二畳ほどしかない室内の半分を占めているソファーに座って、目の前のテレビに電源を入れるとデッキへビデオをセットした。

途端、画面に現れたのは男女の交接の様子。それを暫く見ても、私の陰茎は勃起する気配がない。そのまま映像は終わって、退屈さにため息を吐きつつビデオを出す。

研究員たちの部屋に戻りビデオを返して、カラの紙コップを差し出せば、右目と左手の欠けた研究員は肩を落とした。平謝りしてから研究員の「次はもっと、強力な精力剤を仕入れて……」云々という独り言を聞き流し、部屋を出ようとドアを開ける。

ガツン、と、何か硬いものにドアをぶつけた手ごたえがあった。同時に甲高い悲鳴。何事かと廊下に踏み出してみると、そこにはひっくり返った小人の彼とプラスチックのカゴに、散乱している湿った衣類。

「びっくりした! びっくりした!」

「す、すみません」

後ろ手にドアを閉めつつ、急いで彼の体を助け起こす。幸いにもドアは彼に直接ぶつかった訳ではなく、カゴにぶつかったようだった。散乱した衣類はほとんどが白衣。私はカゴを手に取ると、それらを掻き集めて入れた。

彼は洗濯物を干しにいく途中だったのだろう。これはお詫びに、手伝ってあげるべきだ。洗濯物を入れたカゴを持ち上げると、彼は「一人で出来る! 一人で出来る!」と喚きはじめたので、こう宥めた。

「わかっています。貴方は小さいながら一人で何でも出来る。これはドアをぶつけて転ばせてしまったことに対する、お詫びです」

「う? なら、いいのか」

彼は首をかしげつつ、納得したようだ。一緒に廊下を歩いて、階段を上り屋上を目指す。

屋上のドアの鍵は彼が携帯している。ドアの前につくと、彼は白衣のポケットから鍵を取り出し、背伸びをして鍵を回すとドアを開けた。先に出ていく彼の後ろについていく。すると、頬を撫でる穏やかな風を感じた。

コンクリートの床面には四枚、四角形の配置で窓ガラスがはめ込まれている。うち一枚は、私たちの部屋の天井。あとの三枚がある部屋は空き室だった。横一列に並んだ物干し台の傍にカゴを置いて、アルミ製の竿を挟んでいる洗濯バサミを外す。カゴから一着の白衣を取り出すと、竿にかけて留めた。

彼は塔屋の壁に立てかけてあった脚立を持ってきて、身軽に上り下りしながら洗濯物を干していく。その身長をものともせず、かいがいしく仕事をこなしていた。改めて感心する。研究の仕事に憧れているようだが、彼には雑用の方が性に合っていると思う。

二人がかりだから、あっという間に洗濯物は片づいた。日差しは眩しいくらいだ。きっと、すぐに乾くだろう。彼女のところへ帰ろうと彼に背中を向けたが、脇腹を突っつかれて振り返った。

「一服しよう、しよう」

彼の手にはポケットから出したのであろう、煙草の箱が握られていた。

「……ええ、構いませんよ」

そろそろ彼女と昼食の時間だったが、煙草を吸うくらいの間なら話し相手になってもいいかと思って、承諾した。彼は嬉しそうに箱を開けて、中から一本抜き取ると差し出す。しゃがんで受け取れば、彼は箱の中に煙草と一緒に入っているライターも出して「点ける! 点ける!」と、はしゃいだ。

煙草をくわえる。ライターを持った彼の手が近づき、その指がフリントホイールを回転させた。パチッと火花が散り、小さな火柱に煙草の先端が燃やされる。めったに喫煙をしない私には久々過ぎて、吸い込むと胸の辺りが少し気持ち悪くなった。

彼も煙草をくわえて火を点ける。そのまま二人してフェンスに寄りかかり、紫煙を燻らせた。この煙草やその他諸々の生活用品、食料などはここの島よりずっと遠くにあるらしい島国から仕入れている。私はその島国を情報でしか知らないので、実際はどんなところなのか想像さえつかない。

彼が話しかけてきた。

「娘、飛べそうか?」

私は躊躇うことなく答えた。

「いえ、無理だと思います」

彼は煙草を指に挟んで、目を見開くとこちらを見た。元々異様に大きな目をしているから、それはこぼれ落ちそうなほどだった。私は構わずに続ける。

「彼女は所詮、人間の子です。その証拠に月経を迎えてしまった。鳥に月経はありません」

「……う、う?」

月経、というものが理解出来ないようだ。首を捻っている。

「彼女はただの道具だった」

気づいたら私の吸っている煙草は、フィルター近くまで短くなっていた。彼は煙を鼻から吹き出しつつ、ウーウー唸っている。

煙草を落とし、足で踏みつけて消した。何となく空を見上げてから、彼に視線を戻す。

「ワケわからんこと、言うな! 言うな!」

と、燃え尽きて灰の落ちた、フィルターしか残っていないものを指に挟んで振り回し、騒いでいる彼を尻目に屋上から離れた。

部屋へ戻れば彼女は変わらずテレビを見ている。鳥たちが優雅に羽根を広げて、青い空を飛び回っていた。

空に恋い焦がれている横顔が哀しそうに見えて、彼女の背後に膝をつくと羽根を胸で押さないようにその体を優しく抱く。しかし彼女は私を無視して、画面から目を離さない。

「ダメな親で、すまない」

「……」

「エサにしよう」

「トビタイ!」

彼女は急にヒステリックな叫び声を上げると、私を突き飛ばして立ち上がり、壁に向かって突進した。派手な音を立てて衝突すると、よろめいて二、三歩下がった。そして今度は壁をガリガリと引っ掻きはじめる。

私はそれを、ただ呆然と見ていた。

 

強力な精力剤は確かに強力だった。見せられた映像は、彼女と同じくらいの年の少女。

その帰りに小人の彼の部屋を訪ねて「用があるから、あとで私の部屋へ来てほしい」と、伝えた。

何故、その用を今ここで言わないのか? 何か片づけて欲しいゴミか汚れものが溜まっているにしろ、それは私が持ってくればいい話。彼女が私以外の研究員と会ってもしもその研究員が、人間にまつわる余計な情報を彼女に与えてしまうようなミスを犯したら大変だから、他人を通すことはめったにない実験室なのに……と、いう疑問を彼は一切抱かなかったようで、素直にドアをノックしてきたのだった。

ドアを開ければ廊下に彼がいて、上目遣いで私を見ている。

「なんの、用だ?」

屈んで彼の両脇に手を差し込み、抱き上げてしまうと部屋の中に入った。ついでに、肘でドアを閉める。

「何するか!? 何するか!?」

両足をバタバタさせて抵抗する彼をソファーベッドへ投げ出す。むちゃくちゃに暴れる体を押さえつけて、彼の白衣のポケットを漁った。

彼女はこの状況でも気にせず、窓の下で跳びはねることに集中している。屋上の鍵を見つけて抜き取ると、私は彼女に振り向いた。

「飛びにいくよ」

聞こえていないのか彼女は跳ぶのを止めない。彼は喚きながら、私の背中を叩いてくる。彼を突き飛ばす。勢いあまって、彼はソファーベッドから転げ落ちた。

彼女が床に着地する瞬間を見はからって近寄ると、その手を掴んだ。跳ぶのを中断させられた彼女は、嫌そうに眉を寄せて私の手を振りほどこうとした。構わずに手を引いて部屋を出る。

立ち上がって追いかけてくる彼が目の前に迫っていたが、すぐにドアを閉めて遮った。戸惑っている彼女を連れて屋上へと向かい、階段を駆け上がる。

ドアの鍵を開けて、一歩踏み出す。

彼女は広がる空を目の当たりにするなり、暫しぽかんとしてから、急に私の手を振りほどいて走り出した。そしてフェンスに飛びつくと、よじ登って頂上に腰かける。私の方へ振り返り、満面に笑顔を浮かべた彼女。そっと笑い返す。

彼女は両手を広げて、空へ飛び込んだ。カシャン、と、音を立てて揺れるフェンスとすぐに聞こえてきた衝突音。フェンスに近寄って、下を覗く。

哀れにも、彼女は頭から落ちてしまったようだった。その美しかった顔はもう、原形を留めていないのだろう。遠目でもわかる赤く染まった羽根。

……やはり駄目だったか。私は今まで、いったい彼女に何を期待していたのだろう。飛べる羽根? そう、無理だと知りながら。

私の背中には潰れた、不格好な羽根がある。私もあの時、頭から落ちていればよかったのだろうか。

どこか遠くから、鳥たちの鳴き声が聞こえる。まるで私を嘲笑しているようだった。

 

2010年10月6日公開

© 2010 山本ハイジ

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

ファンタジー 少女 幻想

"羽根"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る