花冷え

谷田七重

小説

14,734文字

受け止めるでもなく、はじき返すでもない。宙に浮いたままの、たくさんのクエスチョンマークが漂っている中で、彼はいつも曖昧に笑っている。

その古ぼけた木造の平屋は廃屋に近く、住宅街の片隅で遠慮がちにじっとうずくまっていた。夏になると庭の雑草だけが生き生きと茂り、遠くから見ると陽炎の中に青い命が燃え立っているようだった。そして今、秋が深まるにつれて色をなくしていく草々は、風にうつろな音を立てながら流れるままにそっと冬枯れを待っているのかもしれなかった。抗うでもなく、諦めでもない。循環に身をゆだねているに過ぎない。ただこの平屋と、そこにひとりきりで住んでいる女は、長い長いまっすぐな川の流れに浮かんでいるようだった。時間は循環しない。一方にしか流れない。

その女がひそかに「椿さん」と呼ばれていることを、早苗は知っていた。酸いも甘いも噛み分けた老女たちは、今度は舌先に毒をまとわせて近隣住人の寸評に抜かりなかった。いつも椿さんが夕方に家を出る頃に彼女らは半ば道を塞ぎ、

「まあきれいなお召し物」

「今日もこれからお勤め? 遅いのね」

「気をつけてね」

そう何気ない風に挨拶し、椿さんが会釈をして通り過ぎていくと声を低くして何やら話し合っているのだった。

早苗はたまに講義が終わったあと、椿さんとすれ違うことがある。きっちりと着物をまとい、背筋を伸ばして歩いているものの、新しい化粧の匂う顔を支える首はどこか重たげだ。いつも伏し目がちに通り過ぎていくので、なおのことそう感じるのかもしれない。

十一月にしてはあたたかい日だった。早苗は昼からの講義に間に合えばよかったので、ゆっくりアパートを出た。気持ちいい小春日和に空を見上げながら歩いていると、目の端に輝く白いものが映った。平屋の荒れた庭先に、レースのあしらわれた白いスリップだけが干され、風に揺れていた。早苗はおどろいて目を逸らしたが、今にも朽ち果てそうな平屋と陽射しにまぶしいほどのスリップとの取り合わせは、どこか哀切な感じで、なぜだか胸が締め付けられるようだった。

電車に乗り込み、流れていく風景を眺めながらも、早苗はついさっき見たばかりの光景が目蓋に明滅しているような気がした。椿さんは三十の半ばだろうか、わからないけれど、芯の通った生き方をしているように思った。というよりも、本当は自分の人生を主人公として生きているような椿さんが羨ましいのかもしれなかった。だって、と早苗は考えた。主人公だからこそ大胆に秘密をさらけ出すことができるんじゃないの? それも自ら、挑発的でさえあるような、真っ白くまぶしい秘密を。……老女連があの光景を見て狼狽する姿を想像し、早苗は可笑しくなった。と同時に、自ら白日のもとにさらすスリップ、を持っている椿さんがやっぱり羨ましかった。

でも、私だって、もうすぐ、もしかしたら。そんなか細い期待を胸に、早苗は電車を降りた。

また次の講義に向かう友達と別れた早苗は、わき目も振らずキャンパスを横切り、池へと降りていく階段をたどった。池を囲むように生い茂る木々の枝はだんだんと露わになり、ふるい落とされて湿った枯葉がヒールにまとわりつく。一段ずつゆっくりと階段を降りながら、早苗は広い池の周りを見渡す。あの人はまだ来ていないようだった。

ベンチの上の枯葉を払い、腰かける。ここはいつも静かだ。こうしていると、やっと自分がひとりの人間であることを思い出せるような、そんな気がしたものだ。生活のために住んでいるアパートにひとりきりで居るのとは、また違う感覚だった。早苗は大学進学と共に、単身上京してきたのだった。小さい頃から洋服は姉のお下がりで、そしていつも年の離れた弟の面倒を見ていた。今や姉は結婚し、一児の母になり、両親は孫やそれを産んだ姉、そしてまだ育ちざかりの弟のことばかりを気に掛けていた。上京してひとり暮らしをし、大学で友達を作れば何かが変わるかもしれない、と思った。だけれど何も変わらなかった。いつの間にか三人グループの一員にはなったものの、二人を際立たせる背景に過ぎなかった。そうして今やそれに慣れてしまい、三人でいる時にはいつも口角をきゅっと上げて二人が話しているのを聞き、絶妙なタイミングで相槌をうち、ぱっと表情を変え、さらりと何か一言。そうすることで三人グループの整合性が保たれる。早苗は、これが自分の生涯における役回りなのかもしれない、と思うようになっていた。二人はいつもお互いの恋愛の話を飽かずくり返し、性に関することも開けっぴろげに話すのだった。早苗にはそれがまぶしかった。二人は何もかも許された甘い蜜たっぷりの、正真正銘の花咲ける女子大生だった。

ひとりになった時、この池を眺めに来るようになったのはいつからだろう。もう思い出せないけれど、あの日のことはよく覚えている。風がない時にはさざ波すら立たない池の沈黙になんとなく寂しくなり、小石を手に取って投げた。ぽちゃん、という音に遠いベンチの男が顔を上げ、早苗を見た。

それからというもの、早苗は池のほとりへ行くのが楽しみになった。必ずしも彼がいるとは限らなかったけれど、ひとりで講義が空きの時には必ず池へ向かった。彼がひとりで池のほとりに座っている時には、決まって本を読んでいた。底の見えない池が押し黙っているように、彼は静かに本の世界へ没入していた。早苗が池に石を投げる。目が合う。そうしたことを繰り返しているうち、ある日ついに彼の方から話しかけてきた。

「どうして石を投げるの?」

「なんとなく、寂しいから」

「ふうん」

うろたえながらも、早苗は口が勝手に喋るにまかせていた。

「石を投げたら寂しくなくなるの?」

「ちょっとだけ」

「ちょっとだけ?」

彼は小さく笑った。

「じゃあ今はもう寂しくないの?」

「あなたは寂しくないんですか?」

早苗は自分でおどろいた。彼もおどろいたようだった。

「変わってるねえ」

それからは、彼を見つけると早苗は池に石を投げ、自分の存在を知らせた。このふたりの関係は、池のほとりでしか成り立たないかのようだった。そもそもふたりの間に関係があるのかすら怪しかった。お互いに連絡先どころか、名前も知らないままだった。それでも早苗は池に通い続けているのだった。もちろん、時間が合わなかったのか、待っていても彼が現れないまま池を後にしなければならないこともあった。そんな時も、最後に小石を放り投げて、ぽちゃん、という音を聞くと、彼もどこかで聞いてくれているような、そんな気がするのだった。

小石を片手でもてあそびながら、今日も早苗は階段から彼が現れるのを待っていた。自分がひとりの人間だということをなんとか自覚できるこの場所で、よくわからない関係ではあるものの、隣に座って言葉を交わせる異性がいるということ、それは早苗にとってうれしいことだったし、何より今までに経験のないことだった。このことは、友達には一切話していない。誰にも話していない。今はまだ秘密にもならないような状態だけれど、これが熟して、自分の中に収穫することができれば、私もあの白いスリップ、のようなものを手に入れられるかもしれない。主人公になれるかもしれない。

そんなことをぼんやり考えていると、いつの間にか傍らに彼が立っていた。肌も髪も色素が薄い。整髪料も何も付けていないであろう猫っ毛が陽射しをやわらかく透かしていた。

「どうしたの、いつになくぽーっとして」

早苗は慌てて小石を池に投げた。ぽちゃん。

「遅いよ」

彼は笑って隣に腰を下ろした。

早苗は今日見た光景のことを話そうかとも考えたけれど、どう伝えればいいかわからないので、そのまましばらく黙っていた。と、彼が手に持っていた文庫本を開こうとしたので、

「何を読んでるの?」

「うーん」

彼はまた本を閉じた。

「生きるのが心底イヤになる本」

「どうしてそんなの読んでるの?」

「さあ。でもまあ読んでると妙に落ち着くからね」

「死にたいの?」

「そんなこたないよ」

「生きたいの?」

「そんなこたないよ」

「ふうん」

彼が膝の上に置いた本を見ると、カバーもない裸の表紙が薄汚れ、毛羽立っているので、

「それ古本?」

「いや、一応新品を買ったんだけどね」

「年季入ってるね」

「何度も読み返してるからね」

「生きるのが心底イヤになる本を何度も読んでるの?」

「そう」

なんだか自分ばかりが質問していることに気がついて、早苗はバツが悪くなった。だけれど本当はもっともっといろんなことを訊いてみたかった。……彼はどうなんだろう? いちばん最初の会話ではクエスチョンマークを投げかけてくれたけど、それからは? 名前すら訊こうとしない。今さらこっちから訊くのもなんだかおかしい気がする。早苗は、自分が投げかけたクエスチョンマークが、果たして彼に届いているのかとふと思った。受け止めるでもなく、はじき返すでもない。宙に浮いたままの、たくさんのクエスチョンマークが漂っている中で、彼はいつも曖昧に笑っている。

 

キャンパスのイチョウ並木の燃えるような色に焦がされ、やがて熟れ落ちる晩秋の気配に早苗はマフラーを巻き直した。

「毎朝、椿さんのお家から違う男が帰っていくんだよ」

「いくらきれいだからって、あれじゃねえ。ろくな余生を送れないよ」

「あんたはちゃんと大学に行かせてもらってるんだから、椿さんみたいになっちゃ駄目だよ」

老女たちは、アパートから出たばかりの早苗を捕まえて口々に言うのだった。

噂だか妄言だかよくわからないことを喋る彼女ら、その皺だらけの顔を醜く歪めた表情を思い起こしながら、あの人たちにとって、自分より若く美しい女性はみんなふしだらに見えるんだろう。同時に、私はごく平凡な娘だからあんなことを言われるんだろうな、とぼんやり思った。老女たちが何と言おうと、やっぱり早苗は椿さんが羨ましかった。

調べ物をするために、早苗は大学図書館に入った。「神話と西洋美術の関り」というレポートを書かなくてはならなかった。適当に画集を選び、空いている席に座った早苗は、頬杖をついてぱらぱらと絵画を眺めていた。と、池のほとりだろうか、水面に身をかがめた青年を描いた絵が目に入り、手を止めた。「ナルキッソス」と書いてあった。よく見ると、青年は水鏡に映る自分の姿に見入っていた。解説には「ナルシシズムの語源」とあった、が早苗には、その青年が自分の容貌に見とれているというよりも、水鏡を通して自らの内面に没入しているように思えた。

もちろん、早苗は彼を連想した。もし彼がナルキッソスだったら、と考えた。いきなり小石を投げ込まれて、水鏡を乱されたら怒るだろうな。少し可笑しくなって、口元をほころばせながら顔を上げると、いつの間にか遠くの席に彼が座っていた。声を掛けようか、どうしようかと早苗はそっと彼の様子を窺っていたものの、何か資料を見ながらペンを走らせている真剣な様子に尻込みした。何より、私は小石を持っていないし、ここは池のほとりでもない。早苗はあきらめて、再び画集のナルキッソスに目を落とした。

図書館から出ると、色づいたイチョウが冷たい風にあそばれていた。冬になっても彼は池に来るのかな、と早苗は思った。今より寒くなると、外で本を読もうという気にならないかもしれない。それまでに、せめてあたたかい関係になりたかった。あたたかい関係。名前を呼び合って、お互いのことを理解して、体温を感じられる関係。頭の中で考えてはみたものの、早苗にとってはどれも途方もないことのようだった。決して高望みしているわけではないのに、こんなにも難しく感じてしまうのは、やっぱり自分はまだ主人公になれていないからだ、と思った。クリスマス前には冬休みに入ってしまう。しばらく会えなくなってしまうだろう。

そんなことを考えていた数日後、早苗は池のほとりで彼から唐突な誘いを受けた。めっきり寒くなったので、暖かい紅茶の缶を両手に握りしめていた早苗は、危うくそれをこぼしそうになった。

「え?」

「クラブだよ、クラブ。オールナイトのイベントがあるから、一緒に行かない?」

「クラブなんて行ったことないよ」

「意外と楽しいかもよ」

「そういうとこ、よく行くの?」

「まあ、たまにね」

早苗には、物静かな彼がクラブに行くとは到底信じられなかった。

「たまに行って、大音量の中で踊ってる人や騒いでる人の間をビール片手にふらふらするの、楽しいよ」

「いつもひとりで行ってるの?」

「そうだね」

「知らない人たちが騒いでるとこにひとりって、寂しくない?」

「喧騒がエネルギーになってぶつかってくるような気がしてね、刺激的だよ。それに、いくら騒いでるからって、皆もそれぞれひとりきりなんだよ」

「ふうん?」

よくわからないけれど、男の子から誘いを受けたのは初めてだったので、早苗はどぎまぎした。どんな服装で行けばいいんだろう、それにオールナイトっていうことは、もしかしたら?……その前に、せめて名前だけでも呼び合う仲になりたかった。だけれど今日も、きっかけを逃してしまった。

その日の帰り、早苗はドラッグストアでネイルエナメルを買った。派手な化粧ができない代わりに、爪だけでも染めてみようと思った。今までマニキュアといったら、透明なものか、薄ピンクのものしか着けたことはなかったけれど、今日は思いきって深い赤の色を選んだ。会計をする時、椿さんのことを思い出した。少しだけ、彼女に近づけるかもしれない。なんとなくそう思った。

アパートに帰ると、早苗は買ったばかりのネイルエナメルをさっそく袋から出し、蛍光灯にかざしてみた。しばらくそうして眺めながら、これを爪に塗る日が待ち遠しかった。イベントはちょうど大学が冬休みに入る頃だと聞いた。それからはきっと、名前を呼び合えるようになるだろう。連絡先も交換して、予定が合えば大学の池だけじゃなく、一緒にいろんなところに行けるだろう。そんな空想を楽しみながら、まるでこのエナメルの瓶が万華鏡であるかのように、何度も角度を変えて飽かず眺めていた。

 

「来週から冬休みだね」

「そうだね」

他愛もないことを話しながら、早苗は彼と夜十一時からの開場を待つ列に連なっていた。他愛ない、けれど早苗にとっては切実だった。このイベントをきっかけに、冬休みを彼と過ごせたら、と思いながらも、まだそんなことは口に出せなかった。少なくとも、今はまだ。

せっかくクラブに行くのに、厚く着こんで行ったら野暮かな、と思って薄いカットソーの上にコートを羽織ってきただけの早苗だったが、十二月中旬の深夜、耐えがたいほど寒く、かといって彼に身を寄せることもできなかった。今はまだ、今はまだ。

実際この列に並んでいるのは、案外ふつうの人たちだった。騒いではいるものの、そうすることで武装しているような、キャンパスによくいる学生みたいな感じだった。周りを見ながらつめたい手をこすり合わせていた早苗だったが、ふと自分の指先を見つめた。素のままの爪。

結局、なんとなく恥ずかしくて、目立つ手指にはマニキュアを塗れなかった。その代わり、足の爪にペディキュアを塗った。それが早苗の持つ、唯一の秘密だった。白いスリップだった。彼と共有するためだけに忍ばせた赤い花びら。

「やっと開場かな」と彼がつぶやいた。列が動き出した。音楽が聞こえる。だんだん大きくなる。入口で免許証を提示し、彼に続いて中に入ると、音の波が鼓膜を圧した。フロアではその波に乗るように人の影が踊っていた。色とりどりの光が、踊る影をかすめていく。その顔たちはすでに汗ばんでいる。壁にもたれてフロアを眺め、タバコを吸っている人たち、その煙も次々と色を変えていく。

立ちつくした早苗の前に、缶ビールが差しだされた。彼はいつものように曖昧に微笑んでいる。この静かな瞳の中に、今夜こそ飛びこめるのかな。そう思いながら、早苗は缶ビールを受け取った。

人気らしいDJが登場し、前へ前へと押されていく人たちの間をすり抜けて、ふたりはフロアを見渡せる階段に腰掛けた。池のベンチに座る時よりもぐっと近い距離だった。と、彼はいきなり早苗の耳元に口を寄せて、

「どう、初めてのクラブは」と大きな声で言った。

思わず早苗は身を縮めた。なるほど大音量の音楽、歓声、人いきれの中では、そうでもしないと会話できない。今度は私の番だ。

「なんだかよくわからない!」

思い切って顔を寄せ、叫んだ。本当によくわからなかった。こうして身体と顔を寄せ合っているのはどぎまぎするけれど、大声を出して喋ると緊張もほぐれていくような気がした。なんでも言えそうな気がした。また顔を寄せた。

「踊らないの?」

「踊らないよ」

「見てるだけ?」

「見てるだけ」

彼はフロアに目を注ぎながら、「踊る阿呆に見る阿呆」

「え?」

「同じ阿呆なら踊らにゃ損々」

早苗は笑った。

「じゃあ踊ればいいのに」

「俺は見るだけの阿呆でいいよ」

気持ちよく酔ってきた早苗の耳には、彼の謎のような言葉すら心地よかった。もどかしいとも思わなかった。フロアの熱狂がうつったのかもしれなかった。変わらず大音量の波に揺られて光が行き交っていた。早苗はふと思い出して、靴の中の足指をそっとたわめた。秘密のありかを確かめてから、また彼の耳元に大声で、

「いいこと考えた」

「なに?」

「コンペイトウをね」

「え?」

「池の中に金平糖を投げたら、溶けてって、池の色まで変わっちゃうかもしれないよ」

「ほんのり甘い池になるんだ」

「そう」

早苗がにこにこしながらビールを飲み干すと、彼は何も言わずにその缶を取り、自動販売機へ立っていった。それを見送りながら早苗は思った。そうだ、金平糖の代わりに、赤い花びらを浮かべよう。彼の瞳はどんな色になるかな。

DJが何度か交代し、二本目のビールももうなくなりそうだった。彼はじっとフロアを眺めているままだった。早苗は酔いが濃くなった頬に手を当てた。これ以上酔ってしまう前に、ここを出たかった。どこかでちゃんと話をしてから、秘密を明かしたかった。

「もう出ようよ、酔っ払っちゃった」

それは早苗にとって初めての媚態だった。だけれど彼は、「踊らなくていいの? せっかくクラブに来たんだし」と返してきた。

早苗には彼の真意が掴めなかった。

「ひとりじゃ恥ずかしくて踊れないよ、一緒に踊ってくれる?」

「みんなひとりだよ。俺は踊らないよ」

早苗はどうしたらいいのかわからないまま、二本目のビールを飲み干した。また彼が缶を受け取り、立っていった。完全に酔いが回ったようだった。痺れた頭に、テクノサウンドが鋭く突き刺さる。膝を抱えてうつむいていると、隣から「どうしたの?」と訊かれた。彼の声ではなかった。顔を上げると、その男はぐいぐい密着して腰を下ろし、早苗の顔を覗きこんだ。

「酔っ払っちゃったんだ。ひとりで来たの?」

早苗は拒むように身を引きながら、

「違います。彼がいます」

「いないじゃん。俺が見つけた時にひとりだったら君はひとりなんだよ、うん」

整髪料の匂いがきつかった。

「今ビールを買いに行ってるんです」

「ほんとかなあ」

男は慣れ慣れしく肩に手を回してきた。

「ね、これからどっか行かない?」

早苗はもうすぐ彼が帰ってきて、この男を追っ払ってくれるだろうと思った。けれど、それにしても遅かった。男は早苗の手をつかまえて、しきりに口説いてきた。早く助けてほしいと思いながらも、彼にこんな姿を見られたくなかった。

と、そこへ係員のような人が来て、「通行の邪魔になるので、階段に座らないでください」と注意された。男は力を得たように、「ほら、待ち人も来ないんだし、移動しよう」と早苗の手をつかまえたまま立ちあがろうとした。早苗は男の手を振りほどき、奥の自動販売機の周りに彼の姿を探した、けれど見当たらなかった。後ろから男が言った。

「お前、振られたんだよ。そんでお高くとまってんだからめでたいな」

まだ暗い外へ出た早苗は、あまりの寒さにおどろいた。クラブの周りをきょろきょろ見回してみたものの、彼の姿は見当たらなかった。やがてあきらめて、文字通り震えながらとぼとぼ歩いた。つめたい風に酔いは急速に醒めていって、あの男の言ったとおり、もしかしたら私は始めからひとりだったんじゃないか、と思った。精いっぱいの秘密をまとった、生まれて初めての媚態。むなしかった。

いつか、彼とあたたかい関係になりたい、と思ったことがあったっけ。名前を呼び合って、お互いのことを理解して、体温を感じられる関係。何ひとつ叶わなかった。耳元に寄せられた、あたたかく湿った謎のような言葉たち。それも人いきれの中に溶けてしまった。

早苗はカラオケ屋に入り、始発の電車を待つことにした。靴を脱いで裸足になり、彼に見てもらうことを何より楽しみにしていたのに、早苗は早々に靴を脱ぎ捨てるとタイツの脚をソファに投げ出し、丸くなった。とにかく寝てしまおうと思ったけれど、そう思えば思うほど眠れなかった。他の部屋から賑やかな声が聞こえてくる。

始発の電車の中でようやくうとうとと眠った早苗は、よろける足でアパートを目指した。平屋の前に差し掛かると、出口のところで男と女が向かい合い、何か小声で話していた。無造作に黒髪を束ねた素顔の椿さんは、口に手を当て、泣いているようにも見えた。早苗に気がつくと、うつむいてしまった。早苗は慌てて足早に通り過ぎた。

アパートに着いてからベッドに突っ伏し、昏々と眠った早苗だったが、高く昇った太陽のとろけるような陽射しに目を覚ました。そのあたたかさが、今の早苗には悲しかった。昨日の夜までに思い描いていた青写真では、まさに今、隣に彼がいるはずだった。それなのに、確かなものなど何もなかった。早苗はこのうつろな感情を、どう処理していいのかわからなかった。心の中に膨らんだ蕾を拵えたのも初めてだったし、それが咲かないままなす術もなく間引かれるのも、もちろん初めてだった。

それでも、ついに暴かれることのなかった秘密、暴かれることを前提として忍ばせた秘密は、なおもつま先に赤くなまめいていた。部屋着に着替えるためにタイツを脱いだ早苗は、ベッドの上に膝を抱え、しばらくペディキュアを眺めていた。今はまだ。……何度そう思ったことだろう。

勇気を出して主人公になろうとした記念として、この花が散るまでそのままにしておこう。ささやかな決心をして、早苗は靴下を履いた。

冬休みに入ると、早苗はできる限りバイトのシフトを埋め、働いた。ありがたいことに年末の店は忙しく、バイトをしている時は余計なことを考える暇もなかった。それでも、ふとした時に友達の会話を思い出したりもした。あの二人はクリスマスデートのことで盛り上がっていたっけ。もし私もあの時、……そう考えだすときりがないので、早苗は慌てて頭を切り替え、店のショーケースを磨いたりした。

けれど、帰りの電車を降りる頃になると、そうはいかなかった。住宅街へ続く鄙びた商店街。夜にはどの店もシャッターを下ろしているが、店主の計らいだろう、古びた店の脇に電飾をまとった小さなクリスマスツリーが置かれ、侘しい光の明滅とチープな音の「赤鼻のトナカイ」。その前を通るたびに、早苗はなぜだか無性に寂しくなるのだった。

アパートの暗い部屋に帰り、ユニットバスのシャワーだけで風呂を済ませると、ボディクリームを脚に擦りこみながらペディキュアを眺める。ここのところ少しずつ剥げてきて、爪も伸びてきたようだ。さながら花の手入れをするように、早苗は爪切りで足の爪を丁寧に切った。ティッシュの上の赤いかけらを見つめながら、こうして伸びるたびに爪を切り、赤い色が完全になくなったら、彼のことを忘れよう。そう思った。

 

帰省もしないまま、冬休みが終わった。とはいっても、テスト期間が終わったら一か月も経たないうちにまたすぐ春休みだ。早苗は池に行こうか、どうしようかと迷った。こんな真冬に池のほとりで本を読む人なんているのかな、と思いながらも、だって足の爪はまだ赤いままだし、と自分に言い訳して池へ降りる階段をたどった。もちろん彼はいなかったし、来なかった。帰る前に小石を手に取り、池に投げようかとも思ったけれど、今はそういう気にもなれなかった。立ち上がって顔を上げると、冬の重く曇った空に裸木がか細い腕を伸ばし、何かを求めているようだった。だけれど北風がかすめていくだけだった。

友達から返してもらったノートを見ながら、早苗は今日も大学へ行った。明日からテスト期間だ。講義には真面目に出ていたし、友達に貸せるくらいノートも充実しているので、テストには特に不安はなかった。それよりも、週ごとに少しずつ伸びていく足の爪、それを切るたびに感じる寂しさ、摘みとられた赤いかけら。そういったことを思い出すと、気が滅入るのだった。ティッシュの上の赤い爪を見ると、なんだか少しずつ温かみが失われていって、足が冷たくなるような、そんな気がした。

とりあえず図書館に入り、これは少し不安なフランス語のテキストを開いた。しばらく格闘していると、空いていた斜め前の席に誰か座ったので、ちらと目を上げると、彼だった。彼は前と変わらず曖昧な微笑で早苗の目に応え、カバンからノートを取り出した。早苗は慌ててテキストに目を落としたものの、フランス語どころではなくなった。顔が赤く火照っているのが自分でもわかる。頬杖でごまかそうとしたものの、そんなもので隠せるはずもなかった。

それからどれくらいの時間が経ったのかわからなかった。早苗には途方もなく長い時間に感じられた。ついに痺れを切らして、小さな付箋に「このあと空いてる?」と書き、彼の目の前に貼った。おそるおそる顔を上げると、彼は早苗を見てうなずいた。

誘ってみたはいいものの、何を話せばいいのかわからない。赤い秘密が散ろうとしている今、この人に差し出せるものは何もない。ゆるやかなクラシックの流れる喫茶店に入ったふたりは向かい合いながらも、注文した温かい飲み物を待つ間、別々のことを考えているようだった。と、彼が突然、

「どう、こないだは楽しかった?」と訊いてきたので、早苗は半ば呆れながら、

「楽しかったも何も、急にいなくなっちゃうんだもん」

「いや、邪魔しちゃ悪いかなと思って」

早苗はおどろいて彼をまともに見た。何事もなかったかのように、自分が言ったことの意味すらわかっていないかのように、彼は微笑んでいる。その茶色い瞳の奥は透明で、何も映していないようだった。

「見てたの?」

「うん」

彼は運ばれてきた熱いコーヒーに息を吹きかけ、一口飲んだ。

「踊った?」

「え?」

「あの男と」

早苗は首を横に振った。どう言葉を返せばいいのかわからなかった。何も響かない。あの池と同じ。私の言葉は石ころのように沈んでいくだけ。

「なんていうかね」

「うん」

「私はひとりで生きていけるほど強くないのね」

「うん」

「だけどひとりで生きていける人が強いとも思わないのね」

「うん」

自分でも何を言っているのかよくわからないまま、早苗は漠然と思った。初めて池に石を投げた時よりも、距離が遠いみたい。池のベンチでも、クラブの階段でも、こうして向かい合っていてさえ、ついに彼に近づくことはできなかった。……あのナルキッソスの絵を思い出した。私は水鏡に映った彼の幻影を追いかけていただけなのかもしれない。それに石を投げて乱しては、ひとりで一喜一憂していただけなのかもしれない。そう、ほんとうに私の言葉は石ころのように池の暗い沈黙の底に沈んでいくばかり。早苗は思わず目を閉じた。

「どうしたの?」

我に返ると、変わらずテクノサウンドのうねりが脳髄を揺らすように響いていて、フロアには海草のように漂う人たちが踊っていた。顔を上げると、知らない男は行き交う光に色を変えながら笑っているように見えた。

「酔っ払っちゃったんだ。ひとりで来たの?」

早苗が頷くのを待たず、男は隣に腰を下ろして顔を寄せ、「タバコ平気?」とそのくせタバコ臭い息を吐きかけた。

「踊らないの?」

「え?」

早苗は曖昧に振り向いた。タバコの火口が赤く光っていた。

「踊れないの」

そう言いながらまたフロアに目を注ぎ、身体に感じる男の重圧を拒もうともしなかった。

「ねえ、名前なんていうの?」

フロアに目を向けたままの早苗の顔は強ばった。

「……なえ」

「え? もう一回」

「早苗」

自分をどこかへ運ぼうとする圧力。彼ではなく、見ず知らずの男に名前を明かすことになるとは思いもしなかった。

肩に腕を回したり、手を取ったりと、男はしきりに早苗を振り向かせようとしているようだった。ただ、心まで欲しがっているわけではないと早苗はわかっていた。耳にかかる熱い息づかい、チープな口説き文句。うつろな目を遠くに投げている早苗には自分を取り巻くものすべてに実感が持てなかった。流れるまま、流されるままに身を浮かべているようだった。

不意に、男が早苗の顔を間近に覗きこんできた。

「あれ、泣いてるの?」

思いがけない言葉に早苗は男の視線に応え、笑った。

翌朝、早苗が目を覚ますと男はすでに身支度を整えていた。

「十時にはホテル出なきゃなんないからな。早く服着ろよ」

ベッドの上に散らばった下着や洋服をもぞもぞとかき集めている早苗を、男はタバコを吹かしながら眺めていた。

ベッドに座ったままタイツを履く時、早苗はふと爪先を見つめた。もう爪の上半分にしかペディキュアは残っておらず、それもところどころ剥げている。男はタバコの煙と一緒に、吐き出すように笑った。

「なんだよその足。きったねえな」

帰り、アパートへ向かう途中で、早苗はいつの間にか椿が咲いているのを目にした。それはいつも椿さんの悪口を言っている老婆の家に植えられたもので、少し可笑しかった。と、地面を見ると一輪の椿が花開いたままぽつりと落ちていた。

 

それからも早苗は変わりなくバイトをこなした。あの一夜のことなど、ほんとうに自分の身に起きたこととは思えなかった。いつしかなかったことにしていた。

もうペディキュアは落としてしまった。除光液をふんだんに染み込ませたコットンを足指に押し当てた時も、特に何も考えなかった。赤い秘密。秘密。それは自分の意思とは別に、もう身体に刻まれている。そのことに関しても、悲しいとか、そういった気持ちは起きなかった。

ただ、このまま流れるように人生が過ぎ去っていくのかな、となんとなく思った。自分で運命を切り拓くことなど、私にはできないだろう。椿さんなら、……早苗は彼とクラブに行った朝帰りの日に、椿さんが泣いていたのを思い出した。あんなにきれいな人でも、恋に泣くことがあるのかな。彼女がどうして泣いていたのかはわからないけれど、きっとドラマチックな理由があったんだろう。ドラマチック。やっぱり椿さんは、自身の人生の主人公だから、だから。

私は彼の前では泣かなかった、泣けなかった。かといってひとりの時に泣いたかといえば、そうでもない。周りを流れ去っていくものを、ただぼんやりと眺めているような、もしかしたら自分自身さえ遠くから眺めているような、そんな気がした。だから泣けないのかもしれない。

早苗という名前、固有名詞。それすら抽斗の中にしまったきりになっている唯一の小さな装飾品のようなもので、私には必要ないものなのかもしれない。少なくとも彼には明かさないままになってしまったし、あの男にしたってそんなものには目もくれなかった。

「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」

「俺は見てるだけの阿呆でいいよ」

……彼も、自分から名乗ることはなかった。みんなひとりだよ、と言った彼。彼もまたひとりだったし、私もひとりだった。ひとりとひとりが合わさってふたりになること、そんな簡単なことがどうして叶わなかったんだろう?

長い春休みをひたすらバイトに費やしていた早苗は、ある日電車の中から桜が咲き始めているのを見た。そういえばもう、真冬の底冷えするような寒気はだんだんと溶けているような気がした。そろそろ衣替えかな、と思った。冬にずっと着ていた分厚く重いコートを脱いで、スプリングコートに着替えよう。また新しく咲こうとしている春の気配に、早苗の心もだんだんと晴れてきた。

だけれど、久しぶりにキャンパスに来てみると空は厚い雲に覆われ、今にも雨が降ってきそうだった。昨日バイトへ向かう電車の窓から見えた桜が八分咲きになっていたので、静かなところで桜を見たい、と考えてまだ春休みのキャンパスへ来たのだった。寒かった。薄いスプリングコートを着てきたことを後悔した。

早苗はひとまず池へ向かった。やろうと思っていたことがあった。もうこの池には来ないだろう。石を投げることもないだろう。早苗はスーパーの駄菓子コーナーで買った小さな金平糖の袋を取り出した。ひと時の感傷に過ぎないかもしれないけれど、自分の気持ちにけりをつけるために二、三粒を手に取ると池に投げた。音は聞こえなかった。早苗は目を閉じて、金平糖が池の中でゆっくりと溶けていくのを想像した。まず外側のトゲトゲがなくなって、丸くなって、小さくなって、消える。一粒を口に含む。薄い、砂糖そのものの味。それを舌先で転がしながら、また二、三粒を手に取り、投げる。手ごたえはないけれど、池の中で溶けていく金平糖を私は口の中で感じている。

頬に何か落ちてきたと思ったら、雨粒のようだった。空を見上げて、なんとなく思う。どうして春なのに雨が降るんだろう。でも、まだ本降りではなかった。

と、口の中の金平糖がかすかに歯に当たり、砕けてしまった。かけらが舌にざらざらと鳴る。せめて池に投げたものは、きれいに溶けていってくれるように。祈りにも似た気持ちで今度は何粒かをてのひらに乗せ、下から投げた。届かなかった。岸辺にぶつかり、転がり落ちていった。

雨脚が強くなってきた。早苗はバッグから折畳傘を出し、座ったままぼんやり池を眺めていた。水面が雨粒にさわいでいる。

早苗は池を離れた。桜を目的に来たのだから、ちゃんと見て帰りたかった。けれど、それにしても寒かった。キャンパスを歩いていると、ベンチの上に覆いかぶさるような大きな桜の木があった。早苗は自分の座るところだけポケットティッシュで拭いて、腰かけた。地面には雨に濡れた花びらが散り敷いていた。

雨にそぼ濡れる桜を眺めているうちに、またなんとなく思った。どうして桜が咲いているのに雨が降ってるんだろう。どうして桜が咲いているのにこんなに寒いんだろう。思っているうちに、切実な気持ちへ変わっていった。どうして、どうして。

花冷え、という言葉は知っていたけれど、それを目の当たりにし、我がこととして考えたのは初めてだった。その理由も、ようやくわかった。花ざかりのはずなのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。どうしてこんなに寂しいんだろう。わけがわからなかった。雨に桜が散ってしまうのも、心がこんなにむなしいのも、どうしてだかわからなかった。とてつもない不条理のように思えた。熱い涙がぽろぽろとこぼれ、あとは流れるばかりだった。桜の木の下、傘の下、しゃくりあげながら早苗はひとりで泣いた。

 

春休みが明けて、また早苗はいつもの日常に戻った。三人グループの一員として、空気のように、二人にとって心地よい風景のように溶け込んだ。もう池にも行かなかったし、彼に会うこともなかった。すべてが元通りになった、かのようだった。

ある日、講義も昼過ぎに終わり、あたたかな陽気に空を見上げながらアパートに帰っていると、前の方から何やら大きな音が聞こえ、目に砂粒が入ってきた。目をしばたたきながら歩を進めると、あの平屋が大きなショベルカーに齧られていた。半壊した木組みが露わになっていて、何もない部屋の中まで見えた。早苗はおどろいて立ち尽くしたけれど、作業員の一瞥に慌てて歩き去った。

間もなくそこは更地になり、「売土地」と書かれた看板が立った。

椿さんがどこへ行ったのかは、誰も知らない。

2016年2月10日公開

© 2016 谷田七重

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