エナメル

谷田七重

小説

6,816文字

19歳の昌美は、同じ映画同好会の誠治とうまく行っていない。なにかを変えようと手を伸ばしたマニキュアは、いままでつけたことのないような真っ赤な色をしていた。

陽の光に目をとじ浅き夢をみて

月夜にめざめ爪を赤く塗る

昌美はペディキュアだけつけることにした。というのも、あからさまに手の爪にまでつけることで、軽薄な女だと思われたくなかったからである。

しかし今夜は月に魅入られたのか、昌美はこんなことを考えた。

昌美はふと、机の上にぽつんと置かれた赤い小瓶に目をとめた。毒々しい真っ赤なネイルエナメルである。ほとんど色のつかないものや薄いピンクのエナメルしかつけたことのない十九歳の昌美は、深い赤に魅せられて買ってはみたもののつける勇気がなく、ただこの小瓶を机上に飾るだけにとどめていた。

梅雨明けの、まだ少し湿り気を帯びた夜気にあたっているうちに、昌美の目はいよいよ冴えてきた。梅雨のあいだは重たい雲に閉ざされていた月が、久しぶりに窓辺を訪れている。あれは満月だろうか、それとも微妙に欠けているのだろうか。とにかく今夜の月は妙に澄んでいて、異様なほどに明るい。カーテンを揺らしているのは風ではなく、清冽な月の光ではないかと思われるほどだ。昌美は久しぶりの月を見上げながら、明日三週間ぶりに会う誠治のことを考えていた。そうして混濁した思考の中で、月と誠治とをぼんやりと重ね合わせた。

午前二時半、昌美はそっとベッドから降りた。眠れない。素足の裏にひんやりとしたフローリングの木目が貼りついている。昌美は窓を開けてから、椅子に腰掛けて膝を抱えうずくまった。

昌美は小瓶を手にとり、月の光にかざすように眺めてみた。とろりとした赤黒い液体は、蒼白な光にかすかに透いてみえた。

既に体も許しているのにこんなことを考えるなんて、と昌美は可笑しくなった。

「軽薄な女…?」

「明日私がこの色をつけていったら、あの人は何と言うだろう?」

月が明るいので、電気はつけない。右足の踵を椅子の縁に置いて、昌美は丹念にペディキュアを塗りはじめた。ネイルエナメルのつんとした匂いに、鼻の奥が痺れるようだ。昌美はひと塗り、またひと塗りと重ねるうちに、自分の鼻孔を圧しているのは咲き初める真っ赤な薔薇の香気なのではないか、などと大袈裟なことを考えた。それほど昌美にとって真っ赤なネイルは異例であり、同時に憧れでもあった。

十本の指を塗り終えると、昌美は椅子に座ったまま両足を水平に伸ばし、五分足らずで劇的な変貌を遂げた爪先に見入った。月光に洗われた肌は透き通るように青白い。赤いペディキュアは、無機質な大理石にめ込まれた不吉な宝石のようだ。昌美は『悪徳の栄え』という映画を思い出した。ただただ淫靡いんびで窒息しそうなほどの濃密な映像美が、観ている間じゅう眩暈めまいを起こさせるかのような邦画だった。昌美は華美な画面に圧倒されて内容もろくに覚えていなかったが、ひとつだけ忘れられないシーンがあった。着衣の男がソファーの端に足を組んで腰掛け、煙草をくわえたまま、膝にのせた女の爪先に赤いペディキュアを塗っていた。女は裸でソファーに寝そべっていて、窓から部屋中に染みわたる妖しい夕日の赤に身をさらしていた。女はうっとりするように「夕日が赤くて、きれい……」と言った。このワンシーンに魅せられた昌美が、潜在的に赤いペディキュアに憧れていたとしても不思議ではない。昌美は思った。夕日の赤に包まれるのもいいけれど、冴え冴えとした月光に抱かれて赤いペディキュアを眺めるのも悪くない。それにしても、この妖しい足は本当に自分の一部なのだろうか。昌美は何度かゆっくりと爪先をたわめてみた。それでもやはり両足は、昌美とは全く別の生き物であるかのように、月明かりのなか厳かになまめいているように見えた。

どのくらいそうしていただろう。もはや昌美は、この赤いペディキュアが明晩誠治を夢中にさせるであろうことを疑わなかった。誠治に関するこれまでの不安は、深紅の刷毛はけによって一掃された。月光には劣るかもしれないが、ホテルのほの暗い照明の中でも、白い肌と赤いエナメルとのコントラストは映えるだろう。誠治は驚くにちがいない。そしていつもとは違う展開になるだろう。眠るときも、もう背を向けたりはしないはずだ。

昌美はほしいままに空想を貪ったあとようやくベッドに戻り、窓を閉めるのもわすれたまま眠った。

 

誠治は昌美にとって二人目の男だった。かつて昌美が所属していた大学サークルのOBである。「映画愛好会」と称するこのサークルは、「映画研究会」のように真面目に製作をするでもなく、映画の素晴らしさを語るという名目のもとに会合という名の飲み会を開くだけの、いわゆる「飲みサークル」だった。昌美はそこで初めての男となった同い年の忠志と出会い、結局はサークル内での忠志の浮気により二人は別れた。「会合」には数回しか参加していなかった昌美は、これを機に映画愛好会を辞めた。そのあと昌美に言い寄ってきたのが社会人二年目の誠治である。初めての男女関係のあっけない終焉に途方に暮れていた昌美は、必死で傷の埋め合わせをするかのように誠治にのめり込んでいった。

忠志のときもそうだったが、誠治と初めて二人きりで会った日の夜には、もう既成事実が出来上がっていた。それから今日に至るわけだが、誠治は「社会人は忙しい」ということを理由に、ろくに連絡も寄こさなかった。しかし会ったときには甘く優しい言葉をくれる。昌美は自分を愚かだと思いながらも、すがるようにそれを信じた。

家を出るとき、爪先を覗かせるためにオープン・トゥのパンプスを履こうかと迷ったが、大学の女友達の目ざとい視線にさらされることを恥ずかしく思い、昌美はむしろ足元を隠すかのようにメッシュ地のショートブーツを履いた。ブーツのチャックを締めるとき、昌美はまるで極彩色の美しい秘密を隠蔽しているかのような快感を覚えた。次にこのブーツを脱ぐときには、誠治とホテルの一室にいる。足元にかがみ込んだままの昌美の瞳に、一瞬しどけない影がよぎった。

平日とはいえ、夕方の新宿の街は喧騒をきわめていた。誠治は連絡もよこさないまま、約束の時間を十分ほど遅れてやって来た。昌美は誠治が遅いといつも不安と焦燥の渦に呑まれるような心地がしていたが、今夜は誠治と秘密を共有できるという期待に満ちていたので、誠治を待つ時間は甘い妄想に費やされた。誠治が人ごみの中から顔をのぞかせたとき、昌美は思わずにっこりと微笑んだ。

「でさ、そいつが何かと俺に仕事を押し付けてくるんだよ、もう勘弁してほしいよ。でも俺はそういうの断れないからさ、無理してでも全部背負い込んじゃうわけ。それで自分の仕事が遅れちゃうと、周りは何も知らないから、冷たい目で見てくるんだよな。もうやってらんねえよ、………」

昌美と誠治は、すだれで仕切られている中途半端な個室居酒屋の一室にいる。昌美は聞き上手であることを自認していて、誠治の話の合間にタイミングを合わせて相槌を打ち、相手の語調に合わせて表情を変えたりすることで忠実な聞き役に徹していたが、本当は誠治の会社の話などどうでもよく、内心はうわのそらだった。ホテルに入る前段階としての居酒屋でのとりとめもない会話は、儀式のようなものだ。いつもと同じの、二人の関係には当たりさわりのない、どちらかといえば退屈で冗長な誠治の一人語りだったが、今夜の昌美は足元に秘密を忍ばせていたので、誠治の話が長ければ長いほど昌美の心の中の甘やかな情緒は増幅し、発酵し、くらくらするような芳香を放つかのようだった。昌美は誠治の大きな手の指が無造作に煙草を挟み、それを口元に当てる様を眺めた。煙草を吸うときに少し細くなる誠治の目が好きだ。横を向いて煙を吐き出すとき、ネクタイをゆるめた首元に喉仏の輪郭がはっきりと見えた。

「…………ったの?」

「え?」

不意に誠治が発した疑問符に、昌美は我にかえった。

「何、もう酔ってるの? なんかこの間、忠志がまた連絡を寄こしてきたとか言ってたじゃん。あれからどうなったの?」

昌美は軽く顔をしかめてみせた。

「ああ、いまだにちょくちょく連絡くるけど、全部無視してます。今さら何よ、て思うし」

「そうか」

誠治は頓着なく答えて、灰皿に灰を落とした。……

「誠治さん」

相手の無関心に呆れた昌美は、思わず言った。

「私のこと好き?」

誠治は煙を吐き出しながら笑った。

「好きだよ。なんで?」

「別に……聞いてみただけ」

昌美はごまかすかのようにグラスに手を掛け、残っていたスパークリングワインを飲み干した。息をついて軽く眼を閉じると、頭の芯がゆらゆら揺れる。酔い心地に、昌美は靴の中で昨夜のように両足指をたわめてみた。そしてどういうわけか思った。「大丈夫」……

 

寝るなよ、という誠治のおどけた声に、昌美はぼんやりと眼を開けた。誠治はかすかに微笑みながら、黙って昌美の顔を眺めている。「そろそろかな」と昌美は思った。男はこういうとき、単に女の顔を見つめているようでありながら、もっと遠くを眺めているかのような表情をしている。目の前の固有名詞をもつ女の顔を通り抜けて、はるか遠くを。

誠治は居酒屋の従業員を呼びとめて、会計を頼んだ。

ホテルに向うとき、誠治はいつも昌美の腰を抱きながら歩いた。意識的にそうしているのかは昌美には分かりかねたが、ときおり誠治の指先に微妙な力が入る。酔うと頭が朦朧もうろうとするかわりに感覚が鋭敏になる昌美の体は、誠治の指の動きに敏感に反応した。

待ち時間十分で入室できるとのことで、昌美と誠治はソファーとテーブルが置いてあるだけの待合室に入った。この小部屋の照明もすでにほの暗い。誠治は昌美の腰を抱いたままソファーに腰掛け、片手で煙草に火をつけた。小さなテーブルに煙草を持った片肘を付き、誠治は居酒屋のときと同じ表情で昌美を眺めた。腰に回した腕に力が入り、そのまま長い口づけをしているとき、昌美の期待は最高潮に達した。昌美は舌と舌が溶けあう甘やかな融和を感じながら、露をのせて咲き誇る真っ赤な薔薇の幻影をみた。

 

それから三日経った。昌美の生活は何ひとつ変わらない。嫌味なほどに鮮やかなペディキュアは、依然として爪先にこびりついている。昌美はあの夜のことを思いだすと、屈辱を感じると同時に情けなくなった。爪先に目をやることすら嫌になった。なにが赤いペディキュアだ。そんな小細工であの人を振り向かせることができるものか。でもあの人は、本当に何も感じなかったのだろうか。私が自分に酔っていただけなのだろうか。そうだとしたら、こんな間抜けなことはない。……昌美は混乱していた。

あのあと二人はホテルの一室に入った。誠治は背広をハンガーに掛けたあと、昌美に並んでソファーに腰掛けた。頬と頬をすり合わせるようにして待合室のときよりも荒々しい口づけをしたあと、誠治はソファーに寝かせた昌美の片足を背凭せもたれの上に押しあげ、体を開かせた。そのとき持ち上げられた片足の爪先が、誠治のちょうど目の下に赤くひらめいた。昌美は思わず息を呑んだ。誠治は「赤か、珍しいね」と言った。それだけだった。それだけで、後はいつもと何ひとつ変わらなかった。ベッドに入ってからも、いつもと同じ順序で、同じやり方で、同じ言葉で、誠治は昌美を抱いた。昌美は失望しながらも、いつものようにほだされ、従順につとめ、声を上げた。

事が終わったあと、誠治は枕元に灰皿を持ってきて、煙草を吸いはじめた。昌美は乱れたシーツの上に寝そべったままそれを眺め、もう一度聞いた。

「……私のこと好き?」

誠治は呆れたように昌美に目をやり、怪訝そうにして言った。

「どうしたの? 今日お前、なんか変だぞ」

誠治はいつも背を向けて寝る。前に昌美がそれとなく聞いてみたら、間抜けな寝顔を見られるのが嫌だ、ということだった。いつものように誠治の背中を眺めながら、昌美は眠れずにいた。誠治はすでに熟睡しているようだ。それにしても何と安らかな寝息だろう。

昌美はそっとベッドから降りて、素足で床を踏みしめ、ソファーに腰掛けてうずくまった。昨夜の自室での行動をなぞっているようだ。しかし昨夜よりもさらに混濁した思考が、昌美を螺旋らせんに引きずり込む。昨日は降り注ぐかのような月夜だった。そして今夜は? 月は出ていただろうか。誠治に腰を抱かれてホテルに向うとき、私は夜空を仰いで月を探すことをしなかった。そういえば昨夜は、月と誠治とを同じもののように思った。……そうして今、私の月は? 私に背を向けてひとり安らかに眠っている。私の月は私を照らさない。厚い雲に閉ざされたままだ。

昌美は膝を抱えて視線を落とし、琥珀色のほの暗い照明に、なおもつややかに浮かび上がる赤いエナメルを、不思議な気持ちで眺めていた。底知れぬ喪失感に呆然としている昌美とは無関係であるかのように、爪先は昨夜と同じように超然と毒々しいまでになまめいている。混沌としてもつれ合ったあらゆる感情は、昌美が呟いた一言に集約された。「どうして?」

三日後の今も、考えまいとしながらいつのまにかあの夜の記憶を追っていた。そうしてぼんやりと思考をめぐらせては、「どうして?」という疑問に再び行き着くのだった。しかし考えても答えが出るような問題ではない。昌美は気分を変えようと、風呂に入る仕度をした。

昌美は湯船に浸かって目を閉じ、均一なリズムで蛇口からしたたる水滴の音を聞いていた。それが時計の秒針音のように思えてきて、昌美は火照った腕を重たげに伸ばし、蛇口を閉めなおした。音は止まった。昌美は、何気ない思いつきで突如として女らしく妖艶に変貌した爪先が昌美自身を取り残したまま、いたずらに時間だけ過ぎていくのが許せなかった。風呂を出たら、もうペディキュアを取ってしまおう。そう思って、昌美は湯船から上がった。

と同時にくらくらと眩暈を感じ、昌美は洗い場にしゃがみ込んだ。ひと心地ついてうっすらと目を開けると、くだんの爪先が眼前にあった。しかし少し様子が違う。よく見てみると、ところどころペディキュアが剥がれている。昌美はしゃがみ込んで固まったまま言いようのない不快感に見舞われ、同時に激しい憎悪が稲妻のように体中を駆けめぐるのを感じた。最初は何に対する憎悪なのか昌美自身にも分かりかねたが、次々と脳裏に浮かんでくる侮蔑の言葉は、他でもない誠治に対するものだった。……あの男は私のささやかな、しかし勇気をもってこしらえた供物を踏みにじった。いま思ってみれば、私は赤いエナメルによって第二の処女喪失を具現したといっても過言ではないのに。あの男はそれに気付くこともなく、ただただ動物的な欲望に突き動かされているだけだった。それこそ動物のように荒い息を吐いて、呻き声すら漏らして。思い出しただけでも吐き気がする。どうしてあんな男に夢中になっていたんだろう。あれは愛する価値もない、美的不能者だ。

昌美は立ち上がり、スポンジを乱暴に掴んでボディーソープのポンプを何度も押した。そうして泡をしたたらせながら、執拗にふたたび体中を洗った。誠治の手の感触がまだ残っているように感じたからである。脛を洗っているとき、昌美はふたたび爪先に目をやりながら思った。「これは咲かなかった薔薇だ」…そうだ、誠治は健気に咲こうとする花を、その鈍感さゆえに無残に踏みにじった。「でも、また蕾をこしらえればいい」昌美は微笑していた。

 

風呂から出ると、昌美はすぐさま携帯電話を手に取った。メール受信フォルダーの上方に、未返信マークがついた忠志の名が連なっている。昌美はそれらのメールをひとつひとつ読みなおしてから返信ボタンを押した。忠志からの返事はすぐさま返ってきて、明日の夜に会うことになった。

今夜の月はまん丸い、今日こそ満月に違いない。部屋の電気もつけず、初めて赤いエナメルを塗ったときと同じように窓を開けて、昌美は月を眺めた。もう月と男とを重ね合わせるような、馬鹿げたことはしない。忠志の目的は見え透いている。昌美の目的も同じだ。しかし昌美には、それ以上の目的がある。昌美はコットンに除光液をたっぷり含ませてエナメルの剥げかかった爪先に押しあて、一本一本の指先を丁寧に拭った。

 

昌美はいま、手の爪にも赤いエナメルを塗っている。その瞳は興奮に潤み、それを縁取る睫毛は震えている。……月は、淡いやさしい光ですべてを許容し、包みこむ。無遠慮な陽光がすべてを明らかにし、夢みる者を叱責するのとは対照的に。月は今夜も、そしらぬふりで闇夜をやさしく照らしている。そうしていつものように、そのやわらかい光でもって、あらゆる夢想や幻想、愚考や愚行を許容し、受けいれた。

2007年6月10日公開

© 2007 谷田七重

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