春のシンフォニー(後編)

谷田七重

小説

10,379文字

ナオミからの連絡が途絶え、「僕」は自身の人生に踏み出していく。最初は、ナオミと共有したイメージが、目に映る平穏な生活を彩っていたのだが……。29歳の「僕」による、日常と非日常のあわいの回想譚。

それは僕が大学を卒業して三年後、二十五歳のとき、観念して会社員になってから数ヶ月が経ったころのことだ。

僕は会社帰りに、当時住んでいた町の駅のホームを、周りの群集に混じって足早に歩いていた。上りの階段に差し掛かったとき、ふと顔を上げた。すると、階段を下りていた老人が、いきなりバランスを崩して転げ落ちてきた。階段の踊り場に仰向けに倒れこんだ老人の額には、生々しく鮮やかな一筋の血が細く流れていた。

辺りは騒然となり、老人の周りにはあっという間に人だかりができ、僕も思わず駆け寄った。「大丈夫ですか?!」「救急車を!」「いや、まず駅員さんを呼ぼう」といった周囲の慌てふためきぶりを尻目に、僕は老人の額から滴る真っ赤な血を凝視していた。

それは不思議な感覚だった。数秒後に、僕は自分がいま何を見ているのかを理解した。それは平穏な日常に突如として現出する、非日常の光景だった。僕はナオミの「春のシンフォニー」の話を思い出していた。僕がそのことをありありと鮮明に思い出した(ということは、それまでは忘れていたということだ)のは、この時が一回目だ。

まだ騒がしい野次馬たちをすり抜けて、僕は少し混乱しながらその現場を後にした。

『僕が老人に駆け寄ったのは、彼を助けるためじゃなく、ただ赤い血を見るためだったのかもしれない』

自分に対するかすかな嫌悪感と、同時に奇妙な懐かしさを感じながら、僕は脇目もふらずアパートに帰った。

 

僕は、就職活動をして会社に入ってからというもの久しく忘れていた、あるモノに対する僕自身の偏執を思い出していた。それは、ナオミが話していた「赤の要素」への執着だ。

ナオミからの連絡が途絶えたあと、僕はひとりで、ナオミの言う「春のシンフォニー」を感じようと学校に行ったわけだけど、僕はそこで幻をみた。というよりも、この目でしっかりと見てしまった。そう、まるでほんとうに自分の目の前で「それ」が起こったかのように、その幻は僕の脳髄にしっかりと刻み込まれてしまった。

「それ」とはすなわち、白いワンピースを着た少女が、桜の下で自分の頭をぶっ放す光景のことだ。

ナオミと話していたときは、その光景をあまりリアルに想像できなくて、ただ「へえー」と聞いているだけだった。でも実際に、絵画的なまでの(ナオミの言葉を借りれば)「春の秩序」を目の当たりにすると、そのほがらかでいながら余りに理路整然とした秩序に対する、ささやかな反逆を試みずにはいられなかった。と、そこへ、どこからか白いワンピースを着た少女が、陽ざしにするどい光を反射する黒い拳銃を片手にしずしずと歩いてきて、おもむろにそれをこめかみに当て、パーンと引き金を引いた。飛び散る赤、崩折れる少女。ほんの一瞬の、ほんのささやかな反逆。しかしながら限りないエクスタシー。

もちろんこれは妄想の光景だけど、あまりに鮮烈なイメージとなって僕の脳みそに巣くってしまった。そういう意味では、僕にとっては現実と言ってもいいかもしれない。

ちなみに、その「少女」は、ナオミではない。誰でもない。顔はもちろんあるけれど、言うなれば、抽象的な存在だ。白いワンピースが似合う、白い子鳩そのもののような素足の、美しい少女(こういうイメージを構築するのに、わざわざブサイクをもってくるヤツはいない)。それ以上のことは必要ない。どうやって拳銃を手に入れたのかも、その子がどうして死を選んだのかも。そんなストーリーはいらない。そこにあるのはイメージだけだ。

そんな妄想にエクスタシーを感じる僕を、変質者だと思う人もいるかもしれない。でも勘違いしないでほしい。僕がエクスタシーを感じるのは、少女が凄惨な死に様を曝すことそのものじゃない。これは秩序へのささやかな反逆願望であり、「美しい自殺」への礼賛であり、そして。

「純粋な色彩の配合の問題なのよ、あくまで視覚的な快楽のための」

……僕とナオミは共犯者だったのか、それとも単に僕がナオミに侵されてしまっただけなのか。

何はともあれ、繰り返しになるが、僕はこのようなイメージを脳髄にインプットされてしまった。以来僕は、このイメージの変形である「日常における非日常の現出」を平穏な生活の中に求め、それを発見してはひとり喜んでエクスタシーを得るという、見方によってはやはり変質者的な精神活動に邁進した。

また、赤い色への偏執もこの頃からだ。ばーんと飛び散る真っ赤な血が見たい、なんて贅沢なことは言わない。というよりも、あの豪勢な赤い血は、広大な春の秩序の中にあり、その秩序をささやかに裏切るからこそ美しい。全身真っ赤な服に身を包んだ女には、僕は興奮しない。地味な色の服を、黒いパンプスの先からちらりと覗く赤いペディキュアがそっと裏切っているような、そんな女がいい。僕は、これこそ正しい、効果的な、赤という色の使い方だと思う。

そういうわけで、僕は周囲に広がる世界を、ある種の期待と予感をもって眺めるようになった。といっても、なにか大それた光景、天変地異だとか超常現象だとか幽霊だとか、あるいはシカメツラシイ啓示だとか、そういったものを期待していたわけじゃない。ほんの些細なことだ。

たとえば、これは愉快な話。道を歩いているときに、ふと目についた小さな公園。遊具は隅に追いやられ、ベンチ代わりの真四角なブロックが散在している。そのことごとくに腰掛けている、くたびれたスーツを着た中年男たち、その絶妙な配置、そして彼らの体の向き! 皆ひとりの時間を持て余しているのか、放心していたり携帯電話をいじったり、缶コーヒーを飲んでいたり。でも「他人と向き合うのは絶対イヤだ」とばかりに、皆が皆、視線がぶつかることのないように、別々の向きで座っている。どこかから画家を連れてきて、《中年サラリーマンの断絶の午後》というタイトルで作品を描いてもらいたくなるほどだった。

また、夜道を歩いているときに、彼方から走ってくるパトカーや救急車。その赤い閃光を瞬かせながら闇夜を走っていく様に、うっとりとすることもあった。特に救急車だと、傍を通るときに、明るい車内の様子が見えることがある。僕は一度だけ見た。患者が横たわっていて、それに数人の救急隊員がかかりきりになっていた。何気ない日常の中にいきなり現れた、生と死の拮抗。僕は驚きと同時に、不謹慎だが、抑えがたいある種の興奮を覚えた。そのまま救急車は走り去っていった。赤い余韻を残して。……

目の前で、いきなり女の子の生理が始まったこともあった。本当に目の前で、露出した性器から、たらりと血が一筋。そのことを女の子に言うと、「いやだ」と言って顔をしかめた。妙にいやらしく美しく、珍しい光景なので、写真を撮りたかったが、さすがにそれはやめた。

女の子には辟易されてしまいそうだけれど、少しのあいだ付き合っていた、いつもわりと冷静なタチの彼女を、わざと怒らせたこともある。けっこうきれいな子だったけど、雑誌にでてくるようなモデルの「キメ顔」みたいな、判に押したような表情しか見せない不思議な、あるイミ味気ない子だった。そこで、彼女のプリミティブな表情が見たさに、彼女が嫉妬心を燃やしそうなことや、他の女の子と比較してやんわりと彼女を傷つけるような話を延々と続けてみた。すると彼女は、最初は軽く笑みを浮かべていたものの、だんだんと顔がひきつってきて、目元と口元の表情がちぐはぐになり、最後には僕への揺るぎない軽蔑で表情が統一されてしまった。どうやら僕は、彼女を嫉妬させるどころか、僕に対する決定的な幻滅・嫌悪の材料を、自ら提供してしまったらしかった。もちろんほどなくして、僕は、彼女の中に高くそびえ立つプライドによって放逐された。でも、彼女が秘めていた生身の表情を暴いたことに、僕は子供じみた勝利感を味わわないわけにはいかなかった。

挙句の果てには、道行く少女にこんな妄想を抱いたことがある。中学生くらいの少女が、膝すこし上のスカートをひらめかせながら、僕の前を軽やかに歩いていた。そのふくらはぎはみずみずしい白さで、ぶらさげた小さな手に、ピンク色のバラの簡素な花束を持っていた。無造作なポニーテールの項も透き通るように白く、後姿を見ただけでも美少女だとわかった。僕は、歩く少女のふくらはぎとバラの花束が、すれすれのところで交差しつづけているのを見ていたが、そのうちに自分が、『あのバラの棘が少女の足を刺してくれないだろうか』、といったあやしい願望を抱いているのに気づいた。僕は、匂いやかで鋭利なバラの棘が、少女の白くやわらかなふくらはぎを引っかき、そこから若い血が滲み出てくるのを想像した。胸がどきどきして、思わず目を閉じた。少ししてから目を開けると、少女の姿は視界から消えていた。

……こう例を挙げているときりがないが、僕はおおむねこのような主観に慣れ親しんでいた。大学三年の頃から、卒業後の約三年間までは。

僕は大学時代をこのように過ごしてきたので、当たり前のように、将来のことを考えたりすることはほとんどなかった。大事なのは今だ。まだ学生生活が半分残っているのに、どうしてケンジツに「将来のこと」を考えなきゃいけないんだ? どうして無理やりに「将来」に目を向けなきゃいけないんだ? 僕にはさっぱり分からなかった。「将来」なんて、僕にはまったく無関係のように思えた。興味もなかった。

というわけで、大学の就職課が主催する「就職活動セミナー」とやらに真面目に参加する学生たちを内心あざ笑い、就職活動真っ最中です、と主張するかのようにスーツで大学にやってくる学生を一瞥しては軽蔑した。

でもいま思うと、僕は彼らを軽蔑していたのではなくて、もしかしたら彼らに嫉妬していたのかもしれない。どっちだったんだろう? 今でも分からない。でも、「嫉妬していたのかもしれない」と思うようになったこと自体、僕が昔とは確実に変わってしまったことを示しているのだけは間違いない。

やがて、僕は大学を卒業した。猶予期間は終わり、自由を謳歌する大義名分を失くしてしまった。

僕は軽く虚脱状態に陥り、今頃ナオミはどうしているだろう、とぼんやり思った。大学三年の春、ナオミと連絡が取れなくなったまま新学期が始まったあと、「どうやらあの子は退学したらしい」ということを人づてに聞いたっきりだった。音信不通になってから、もう一度ナオミにメールを送ったことがある。しかしそれは、受取人不明で返ってきてしまった。

そのまま時間だけが過ぎていった。実家に住んでいたし、学生のころから古本屋でバイトをしていたので、食うには困らなかった。バイトの収入はわずかなものだったけれど、派手に遊んだりしない分には充分やりくりできた。両親はこんな僕に半ば呆れながらも、「まあ若いんだし、好きにやればいい」と言ってくれた。

色んなものが、どんどん僕を通り過ぎていった。色んなものが、現れては消えていった。時間が、季節が、思い出が、金が、希望が、絶望が、はたまた友人、女の子たちが。そのさなかで、僕はとにかく至るところを歩き回った。そうして、非日常の世界に没頭し続けた。

そうしているうちに、気づけばもう三年近く経っていた。早かった、本当にあっという間だった。誰かの、何かのいたずらなんじゃないかと思うくらい。でも、僕にそんないたずらをするヤツなんて誰もいない。けれど、時は確かに流れているようだった。僕は日に日に冷ややかになって焦燥の度合いを増してくる両親の目に、やっと気づいた。そして、そんな両親に歯向かっていくだけの理由も、僕にはなかった。

僕は初めて「将来」と対峙した。自分には何があるか、と考えてみた。何もなかった。ほんとうに何もなかった。夢も目標も信条も金も社会経験も、「将来」に希望を持つことに役立ちそうなものは何もない。……「社会経験」。こんなことに頭を抱えている僕を学生時代の自分が見たら、なんと言うだろう。そしてナオミは? なんと言うだろう。……そんなことを考えて、僕はひとり苦笑いをした。

両親には素直に言った。何もないと。すると父親は言った。「とりあえず就職して、働け。俺たちだって、いつまでも生きてるわけじゃないんだ」

僕には選択肢なんてなかった。ほんとうに何もなかったから。

僕は同級生たちより五年ほど遅れて、「とりあえず」就職活動をはじめることになった。どこでもよかった。何をしたい、というのもなかった。ただひとりで暮らしていけるだけの収入があれば、それでよかった。

ネットで求人情報を探し、マニュアルに沿った書類を送り続けた。そのうちに、書類がちょくちょく通るようになった。僕は人生で初めて、企業面接という、ウサンクサイことこの上ないステージに招待された。

安物のスーツを着て、鏡の前に立ってみた。スーツを着るなんて、大学の卒業式以来だった。けれど、意外にしっくりきた。でも考えれば当たり前だ。スーツは制服と同じで、誰にでも似合うように作られている。僕はそう思うと、なぜだか安心した。匿名性に身を包むことが、こんなにも安心感をもたらすということを、初めて知った。ネクタイを、きゅっときつく絞めなおしてみた。僕は何者にでもなれそうな気がした。

紆余曲折はあったけれど(どこにでもある平凡なストーリーだ)、めでたく小さな会社の事務所への就職が決まった。両親はいたく喜んで、母親は赤飯を炊いてくれた。

「なんだか女の子の初潮のお祝いみたいだね」

「バカ」

兄はとうに家を出ていて、最近では少しずつ収入も増えているということだった。

「子供ふたりをようやっと社会に送り出すことができて、肩の荷が降りたよ。なあ、母さん」

「ほんとにねえ。あとはどっちかが早く結婚でもして、孫の顔を見せてくれたら、もう言うことないわ。親の役目を全うしたってもんよ」

その夜は三人で酒を飲んだ。両親は始終上機嫌で、僕は初めて親孝行というものをした気分になった。なかなか悪いものではなかった。

そうして、僕は会社務めを始めた。何もかもが初めてのことで、最初は困惑することが多かった。でもだんだんと慣れてくると、僕は新しい環境に身を置くことを苦痛とは思わなくなった。むしろ楽になった。僕は自分を、匿名性の海に沈めることに専念した。どんどん無感覚になり、どんどん楽になっていった。そんな僕を見て、両親はいっそう安心したようだった。やがて僕は家を出て、ひとりで暮らすようになった。

そんなふうにして、僕は「春のシンフォニー」からも、ナオミの記憶からも、学生時代の自分からも、どんどん遠ざかっていった。その日その日をやり過ごし、家に帰ったら食事もそこそこに眠り、休日には掃除や洗濯、食器洗いをした。

そんな矢先に、駅の階段の上から、老人が「非日常性」と一緒に、ごろごろと転げ落ちてきたのだった。

 

その事件からしばらくして、僕はある女性と知り合った。

彼女は会社の取引先の営業をしていて、僕が勤めている事務所によく行き来していた。美人とまではいかないが可愛らしいところのある、ほがらかに明るい、でも明るすぎるということもなくてほど良く落ち着いた、感じのいい女性だった。彼女が歩くと、コツコツと心地のよい靴音が刻まれて、なんだか心が軽やかになるようだった。

ある日、上司が不在のときに彼女がやって来て、僕が取次ぎの対応をすることになった。その時に名刺交換をしたのだけれど、それが僕らの距離を縮めていくことになった。

プライベートで何度か会って話をするうちに、僕は彼女のことが好きになった。僕は、彼女自身がおそらく気づいていないであろう魅力を発見した。

まず、仕事中の仕事用の表情と、仕事から離れたときの少しだけ放恣な表情とのギャップが気に入った。それは僕が初めて見る彼女の表情だったから。そうして次々と現れる彼女の未知の表情から、僕は目を離すことができなかった。彼女は実に表情が豊かな女性だった。しかし決して騒がしいというわけでもなく、穏やかな顔の中に色んな感情のさざ波が広がっていって、それがひとつの表情を形づくっていく、という感じだ。そして忘れてはならないことに、彼女の唇と時折のぞく口腔は、いつも潤っていて、しかもみずみずしい赤さだった。そしてそこから発される声も、ほとんど淀みがなく、涼やかに流れる小川のように、凛として澄み渡っていた。

そんな彼女を前にすると、僕は彼女とセックスをする妄想を抑えることができなかった。彼女はどんな表情で、どんな声で、どんな舌の動きで、僕に応えてくれるだろう? 彼女だったら、AV女優みたいな、決まりきった反応は返さないだろう。……そういうことを考えるにつけ、我知らず下半身がむずむずしてしまうのだった。

あとはあっという間だった。彼女は僕を受け入れてくれた。彼女と初めて夜を過ごしたとき、僕は心から得がたい女性だと感じた。

老人が転げ落ちてきてからというもの、僕の中で、ふたたび「赤の要素」への執着が頭をもたげていた。しかし忙しい生活の渦中にあって、そんなものに固執しているわけにはいかない。またあの感覚の虜になってしまったら、僕は現実と内面との背反に苦しむことになるだろう。それに、社会という匿名性の深淵がもたらす感覚の痺れはあまりに心地よく、学生時代のような社会に対する反発を感じられなくなったことも事実だ。

そんな漠然とした混乱を抱えていた時に知り合い、付き合うことになったひとつ年下の彼女は、今の僕の生活に欠落していた「赤の要素」を、円満な形で、過不足なく満たしてくれるように思った。赤い血や生死の拮抗など、そんな危なっかしいものは、僕はもう望んでいなかった。くるくる変わる彼女の表情、入り乱れる恥じらいとあどけなさと母性と女らしさ、そして赤く潤む唇と口腔と果肉。僕はこれ以上のものを望むまいと思った。彼女に会うことそのものが、僕にとっての非日常だった。

付き合いを重ねていくうちに、その非日常はやがて日常になった。その頃には、僕はまたナオミとの会話や、「春のシンフォニー」のことを忘れていた。それでも、軽くケンカをしたりするときに現れる、彼女の生身の感情や表情に触れると、僕は新鮮さと喜びを感じ、いっそう彼女を愛しく思った。彼女も、僕を深く愛してくれた。

そのようにして、僕は彼女の限りなくやわらかで甘やかな受容のソリに乗って、いくつもの月日を走り抜けた。

それからさらに三年が経った。仕事も順調で、いろんなことを信頼して任されるようになったし、彼女との付き合いは心身ともにさらに深く、芳醇なものになった。僕は自分の幸福を疑わなかった。

僕は彼女に婚約指輪を贈り、どぎまぎしながらプロポーズした。彼女は涙を流して喜んでくれた。ほどなくして僕らは同棲を始め、晴れて結婚した。母親は泣いて祝福し、父親は満面の笑みで僕の肩を叩いてくれた。僕は彼女の両親に、彼女を幸せにすることを固く誓った。

結婚してからも、妻は働いてくれた。二人の収入は決して多くはなかったけれど、それなりの生活を送ることができた。僕は平穏な幸福に身をうずめ、その麻酔にも似た甘い香りを胸いっぱいに嗅いだ。その匂いの細かな粒子は僕の鼻腔を隈なく覆い、あらゆる不安を排斥した。

半年くらいして、妻が妊娠した。僕らは狂喜し、僕はすぐさま妻に産休を取らせた。僕は仕事に出る前に必ず「絶対安静だからね」と妻に言い、その頬にくちづけをした。妻は腹に手を当てて、うれしそうに頷いた。

僕は一生懸命働いて、毎日できるだけ早く帰宅した。休みの日には、妻と一緒にデパートに行って、マタニティーの洋服や、「ちょっと早いかな」と言いながら、ベビー用の小さな洋服を買ったりもした。妻は毛糸で小さな靴下を編み始め、僕はそれを微笑ましく見守った。……そんなことをしながらも、僕はまだ、自分の子供が生まれるということに、いまいちリアリティーを感じられていなかった。何か、実体を持たない、抽象的な概念のようにしか捉えられていなかった。

やがて冬が来た。僕は二十九歳になっていた。この年も、もう暮れようとしていた。この頃になると、妻の腹は日増しに、目に見えて大きくなってきた。

「今日、電車に乗ってたらね、目の前に座ってた女の人が、席を譲ってくれたの。ちょうど私たちの両親と同年代の人だったのよ」

妻が嬉しそうに話してくれた。

「もしかしたら、その人の娘さんも妊婦だったりして」

僕は努めて明るく返した。

十二月で仕事が掻きこみ時なのもあり、僕は疲れてしまっていた。にも関わらず、ここの所あまり眠れない日が続いていた。仕事が忙しいのと、妻が大事な時なのとで、神経質になっているのかもしれない。でも、今が頑張り時だ。正月休みがあるじゃないか。僕はそう自分に言い聞かせていた。

その夜、ベッドで、先に眠ってしまった妻の腹を、そっと触ってみた。この中に、ひとつの命が眠っている。それはこうして目に見える形で、日ごとに存在感を増して、僕に迫ってくる。そしてそれは、紛れもない僕の血を引いた命だ。……僕はここまでぼんやりと考えて、ハッとした。『なんだよ、マタニティ・ブルーじゃあるまいし』

僕らの部屋は、自分たちが買ったものや、それぞれの両親が贈ってくれたベビーグッズで、同棲していた頃や結婚当初とは全く異なる様相を呈してきた。それらのひとつひとつを手にとっては、妻は言った。

「もうすぐね。もうすぐ、新しい家族に会えるのね。私たちの子ども!」

 

その日は、仕事が長引いてしまった。僕は夜も更けた暗い道を、家に向かって足早に歩いていた。人通りもほとんどなく、車もめったに通らなかった。寒い夜だった。吐いた息は、すぐさま白く凍りつき、僕の顔にまとわりついた。

なんとなく、このまま家に帰るのが、後ろめたいような、変な気持ちだった。こんなことは、絶えてないことだ。このまま暗い夜道を、まっすぐ、どこまでも歩いてみたいような、そんな気持ちになった。でも、そんなわけにもいかない。家では妻が、心配して待っているだろう。僕の足は、家の方角に向かってまっすぐに歩を運んでいた。

その時だ。暗い道の彼方から、闇をつんざいて、真っ赤な鋭い閃光がこちらに向かって走ってくるのを見た。僕は思わず、目を細めた。それはだんだんと近づいてきて、その姿を現した。それは救急車だった。横を通り過ぎるとき、僕は反射的に、車の中に目をやった。しかし薄いカーテンが引かれていて、内部を窺い知ることはできなかった。その夢のように美しい赤いイリュージョンは、音もなく走り去っていった。ひとり僕を残して。……僕は、だんだんと遠ざかるその赤い余韻を、いつまでも見送っていた。いつまでも、いつまでも。ついに闇に没して見えなくなるまで。

僕は呆然と、その場に立ちつくしていた。そしてまた鮮烈に、脳裏にあの光景が蘇った。

『おだやかな春の陽射しを浴びて、白い少女は黒い拳銃をこめかみに当てる。やわらかい緑の草を素足で踏みしめ、そよ風にさわぐ薄紅の桜の下で、無感情に引き金を引く。おびただしい赤が桜と散る。白い少女は音もなく崩折れる。おだやかな春の日に、赤は無意志に氾濫する。はるかな空は悠然と青を奏でる。白い少女は赤にひたされ静物と化した。』

……僕は家のチャイムを押した。妻が、いつもと変わらない、やわらかい笑顔で出迎えてくれた。

「今日ね、この子がお腹を蹴ったのよ。きっと元気な子が産まれるわ」

妻はそう言って、腹に手を当てて笑った。

僕はこう思ってしまった、思わずにはいられなかった。

『これが、僕の思い描いた「幸福」というものなのか?』

妻が眠ってしまったあと、僕は例のごとく、妻の腹にそっと手を触れた。そこには紛れもなく僕自身がこしらえた、小さな命が息づいていた。いつしか僕はうつらうつらと眠り、白い短い夢をみた。

――ナオミだ。ナオミがじっと僕を見つめている。まるで遠くの陽炎を見つめているような、まぶしそうな目で。そのうちにその顔がほころび、ナオミは微笑を浮かべていた。

僕はゆっくりと目を開け、ごろりと寝返りをうった。なぜだか哀しい気持ちだった。僕は暗い天井を見上げながら、ナオミの言葉を思い出していた。

『だって、広大な春のシンフォニーの中では、一瞬飛び散る私の血なんて、取るに足らない一つの点に過ぎないじゃない? 他は何も変わらない。空は水色を湛えたままだし、薄紅の桜は相変わらず風にそよいでいて。その秩序は何ひとつ変わらない、乱れない。そこに私の死体が転がっていて血が飛び散っていようが、それもいずれその調和の中に還っていく。そしてそれでいいの』

もしかしたら、ナオミこそが、僕の人生における「赤の要素」そのものだったのかもしれない。そうしてナオミは、僕がいずれ、ナオミと共有した物たちを忘れて、平穏な人生という秩序に土着することが分かっていたのかもしれない。

僕はふたたび横を向いて、妻の腹と向き合った。そうして思った。この小さな命は、僕をどこへ運んでいくんだろう? 僕にどんな変化を求めるんだろう? ……僕には見当もつかなかった。僕はただ、痛いほど感じた。『もう後戻りはできない』

膨れ上がった生命をじっと見つめているうちに、遠い地響きのような、胎動の音が聞こえてくるような気がした。そのかすかな振動に身をあずけながら、やがて僕は深い眠りについた。

2008年6月26日公開

© 2008 谷田七重

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

学園モノ 恋愛 青春

"春のシンフォニー(後編)"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る