くずかごから酒場まで(3)

くずかごから酒場まで(第3話)

アサミ・ラムジフスキー

小説

8,424文字

特集*住石彰 ……稀代の天才・住石彰に迫る特集連載。第3回は批評家の望月真哉氏による歌詞考察です。

消えた詩人の肖像

望月真哉

 

文学者としての住石彰に関する論考を、との依頼だったが、はじめに宣言しておこう。ここでは彼の「小説」については扱わないものとする。住石彰という巨大な多面体を理解しようとするとき、目につきやすい一側面ばかりを凝視していてはかえって本質が見えなくなってしまうからだ。立体は面と辺と点の相互依存によって成立しているのであって、各分野の活動を並列的に見ていくことなしには、部分の理解にも繋がらない。むしろ、その周囲を丁寧に掘り下げていくことこそが、中心部を読み解く鍵となるだろう。部分が集まったものが全体なのではなく、全体を切り離したものが部分なのだという点をまず念頭に置いておきたい。

よって、ここでは彼の活動の二つの主翼であった文学と音楽とを横断する唯一の架け橋である、「歌詞」について検証してみたい。住石がそのキャリアにおいてはじめて発表した言語作品が、小説でもエッセイでも詩でもなく歌詞であったこと。そこに着目することは、文学者としての住石を論ずるうえで大きな意味を持つだろう。ひいてはそれは、住石の、言語との向き合いかたを体系的に捉えることにも繋がるはずだ。

 

ところで、住石の「最初の歌詞」とはどの作品のことなのだろうか。

公式には、十八歳でのデビューシングル「レモネードの夢」のB面に収録された「十三階の窓辺から吊るす」がそれに該当するということになっている。だが、住石に興味をもつ者であれば、誰しも「レモネード偽装論」の存在は無視できないはずだ。これは、表題曲も住石の手による詞なのだとする説だ。この説は実に根強く、有名ファンサイト内で実施されたアンケートによれば、ファンの七割ほどが支持者だとされる。公式の作詞者であり著作権者でもある矢沢ひとしはこの件について一切コメントを出していないが、その沈黙こそがなによりの証左であるとする者も多い。なにせ、矢沢ひとしなる人物の手がけた歌詞は、JASRACにこの一作のみしか登録されていないのだ。

ゴシップに類する話題ではあるが、これは案外重要なポイントである。なぜなら、住石はデビュー以前には一度も歌詞を書いたことがなかったからだ。「作詞家・住石彰」の作家性を論じる上では、作詞家としての純然たる処女作がなんであるかという点を軽んじるわけにはいかないだろう。

アマチュア時代に参加していたドックショウというプログレバンドは、全編インストかハミングないしスキャットのみの歌唱だった。幼少期のバイオリン教室を除けば、住石には音楽経験自体ほかにないのだから、作詞という行為への興味さえなかったのだろう。

では、なぜ突然詞を書いたのかというと、それは書かされたからにほかならない。当時の所属事務所社長にしてプロデューサーでもあった最能一郎(音楽プロデューサーとしては喜田淳正を名乗る)の指示だった。アイドル的に売り出そうとした張本人でありながら、そこは自身がグループサウンズの出身ゆえか、住石を単なるお飾りアイドルにはしたくなかったのだと思われる。

そうした経緯で住石は五篇ほどの歌詞を提出させられた。そのうちのひとつが「十三階~」であることは最能の著書より判明しているが、ほかの四篇がどうなったのかは不明だ。改作されて使われたのか、それともそのままお蔵入りなのか。レモネード偽装論が支持を集めている背景としては、この消えた四篇の詞も関係あるのだろう。

ただ、個人的には「レモネードの夢」は住石の作ではないように感じている。いや、まったく関わっていないとも思わないのだが、おそらくは住石が提出した未熟な詞を最能らスタッフによって補作したものなのではないかと考えられる。この点に関しては拙著にて分析したことがあるので、そちらを参照されたい。とりあえずここでは、「レモネード~」は扱わないこととする。

 

さて、処女作たる「十三階~」の歌詞だ。ここからは、以後の住石の歌詞からは大きく異なる部分が見つけられる。たとえば、最も顕著な例として、歌詞の様式への忠実さを挙げることができる。ポップミュージックの発生以来、歌詞論の大きなテーマとして、詩=ポエムと歌詞=リリックの違いというものがあるが、括弧付の処女作「十三階~」はまさに歌詞然としていた。

 

拾い上げた 流線形 惑う

救い出した 十三階 誘う

アクリルのPalette トリコロール

忘れるNobody 飛び込むレール

「十三階の窓辺から吊るす」

 

右に引用したのは計四回繰り返されるフックであるが、四行とも日本語の真っ当な文章としては成り立っていない。格助詞が省略され、断片的な単語の羅列になっている。同一行中の単語同士には何らかの関係があると期待されるが、主述の構造を見つけることも難しい。語順の自由さが日本語の特徴だとはいえ、これを文章だとするならば、これでは行き過ぎた自由といわざるをえないだろう。しかしながら、このような書法が現在の日本語ポップスにおける歌詞の一潮流であるのは紛れもない事実だ。メロディーにのった時点で意味が浮かび上がれば歌詞としては成功しているというのが一般的な考えであり、紙に印刷されたものをただ朗読するといったふうには作られていない。ポエムとリリックの差はここにある。

だが、のちの住石の詞が詩とニアリーイコールであったことを思い出してほしい。ポップスシンガーとしての住石がそれなりの評価を得ていた一因には、歌詞の独創性の高さをよくあげられていたはずだ。それを考えると、まだ「十三階~」の時点では歌詞に対するスタンスが定まっていなかったといえる。

ここでは語意より語感を重視した単語の選択が目立つ。抽象的で観念的な文言は、徹底した押韻によってより抽象性を増し、意味性を薄弱にしているが、それがかえって語感を音楽的にしている点で、非常に歌詞的だといえるだろう。「のPalette」と「Nobody」の韻の踏み方からは、その言語センス/リズムセンスの片鱗を見て取ることができる。音楽評論家の村山登はこれを「プラスチック」と称したが、即興的に弾かれるバイオリンの音色に乗せて歌われると、たしかにこの歌詞からは無機的な情景が浮かび上がってくるのである。音があってはじめて輪郭をもつということは、歌詞としては正しい姿といえる。

また、従来どおりの歌詞の様式に沿っているゆえか、横文字が目立つことも特徴だ。キャリアを通じて片仮名語の使用は少なくないほうだが、それをわざわざ英字で表記するということをしたのは、実はこの「十三階~」だけなのだ。右の引用中の「Palette」、「Nobody」以外にも、「Squeeze」、「Truth」、「Whisky」、「Honesty」など、合計十三の英単語が含まれている。これは商業音楽の歌詞としては珍しくないことだが、逆説的に、住石がこの時期には明確に意識してポップスたろうとしていたともいえるだろう。十八歳でのはじめての作詞だと考えれば、ポップスの様式をなぞってしまうのも必然かもしれない。

 

歌詞の型という重力圏から飛び出し、真の意味で作詞家・住石の誕生したといえるのは、二枚目のシングル「ダリとデリダ」からだろう。このタイトルを見て、この時期から住石流インテリジェンス(およびペダンティシズム)の萌芽があったと考えている後追いのファンは多いようだが、事実は異なる。リリース時の雑誌インタビューで住石は堂々と、「ダリもデリダもよく知らない」と答えているのだ。むろんこれも彼特有のはぐらかしであった可能性はあるが、知っていたかどうかはどうでもよい。筆者が言いたいのは、ここではダリもデリダも関係がないという点なのだ。

 

歌えるだろ、ダーリン

誰だ 笑うのは

怠い でも 耐えられるだけ耐えると答える

どう?

ラララ ラララ ララ

「ダリとデリダ」

 

この詞が、レコーディング完了後に書かれたものであることはよく知られている。つまり住石は実際にはこう歌ってはおらず、デモ段階の仮歌かのごとく、ダ行とラ行で即興的にスキャットしているだけなのだ(聴覚に素直になって書き起こすと、「だーらだーらだら」といった具合か)。そこに無理矢理それらしい詞をあとから当て嵌めたものが、歌詞カードに印刷されて発表されたのである。つまりダリもデリダも、たまたま語感がよかったから採用されただけのことで、この固有名詞から固有の意味は剥奪されている。

ポップスの世界では住石以前から、英語風に聞こえる日本語詞や、反対に日本語風に聞こえる英語詞といった試みが広くなされていたが、なんの言語ですらもない音素を既存の言語のなかに回収するというここでの試みは、ポップスのみならず言語への挑戦だったといえるかもしれない。住石自身にこのときその意識があったかどうかはわからないが(個人的見解としては、自覚ありだと思う)、結果的に、これが言葉の探求を押し進めることになったのは間違いないだろう。

続いて発表されたファーストアルバム『VIOLIN & ME』では、その意識が明確に強化されている。これは、ヒットした二つのシングルを収録しないという市場に挑発的な作品であったが、コンセプトからはきわめて妥当な判断だったといえる。

 

握り潰して教科書になすりつけたんだ

親指で 中指で 掌で なすりつけたんだ

将軍の肖像画が真っ赤になった 真っ赤になった 真っ赤に

だけどそれは薔薇の花のようにきれいで きれいで

穢らわしい

「トマトジュース」

 

右はアルバムのラストに収録されている「トマトジュース」からの抜粋だ。文面だけを取り上げれば、端的にいって、どうということもない歌詞である。幼稚といってもよい。それでもこの文面は、挑発的なアルバムを象徴しているといえる。実はこの歌詞は歌われていないのだ。さっきと同じじゃないか、という声が聞こえてきそうだが、これは「ダリとデリダ」のような意味での「歌われていない」ではなく、まったくそれらしい歌声さえ録音されていないのである。該当しそうな箇所もない。なのに歌詞カードにははっきりと印字されている。

どういうことかといえば、この一節は、ボーカルに与えられた詞ではなく、間奏のバイオリンのための詞なのだ。かつてフランスの作曲家オリヴィエ・メシアンは鳥のさえずりを旋律に書き起こし『鳥のカタログ』というピアノ曲集を発表したが、住石はここで、バイオリンの軋みや叫びを言語に変換したのだった。住石にとって、バイオリンはキャリアそのものの楽器だ。自身の声と同じレベルか、あるいはそれ以上のものとして扱うべきものであった。「私とバイオリン」ではなく、「バイオリンと私」がタイトルであることも興味深い。いわば『VIOLIN & ME』というタイトルは、単なる状況の説明ではなく、サイモン&ガーファンクルとかチャゲ&飛鳥とかと同様に、バイオリンと住石による音楽デュオの名称なのだと捉えられよう。このアルバムのなかで、住石はすべての収録曲にバイオリンの歌った詞を掲載している。

これは、言葉と文字を切り離す試みだったといえる。一旦隔離された意味は舞い戻ってきたが、言葉と文字がばらばらである以上、その意味も宙吊り状態であることに変わりはなく、ここでは言語が体をなしていないのだ。聴覚芸術である音楽において言葉が介在することにどれだけの自明性があるのか。リスナーが音楽を聴くとき、本当に聴いている部分とは音であるのか、メロディーであるのか、それともメッセージであるのか、あるいはそのどれでもない部分であるのか。これは、音楽産業が構造的に抱える問題を世間に問い直したアルバムだったともいえなくはないだろうか。

また、この言葉と文字と意味の関係は、そのまま、音源とパッケージとメッセージとに置き換えることができる。むしろこちらは現在でこそ生きてくる問題提起だろう。無形のデータで配信される音楽を購入することと、ジャケットやブックレットを含めたパッケージとして音楽を購入することと、代価を支払わずにイリーガルなデータを入手することと、同じソフトを特典目当てに何枚も買うこと。それらの行為における本質的な差異は、結局のところ音楽産業に対する態度の温度差でしかない。法的・経済的・倫理的・心理的な問題を度外視すれば、その態度によって鑑賞の内容が変わるわけではなく、感動に差が生じることもありえない。音楽など、所詮は物理的な波形データでしかないのだ。ならばいったいリスナーはなにを聴き、なにを買っているのか。

これは音楽だけにかぎらず、あらゆる創造産業に内在する問題である。映画もゲームもアニメも、もちろん文学もそう。こうした、何十年ものちの世界にも通用するほどの高い批評性を、ポップスという枠のなかで表現していたその先見性は、特筆に値する。これは偏に、住石がポップ的なものに興味がなかったからこそ生まれえたものであろう。文学者に転身する以前より、住石の表現の中枢にあるものは変わっていないのだ。

 

だが、この時点で住石の歌詞における探求は早くもピークを迎えたともいえる。続く二枚目のアルバム『SHOW IS OVER』では、住石はわざとらしく歌謡曲をなぞったような詞を書いてみたり、まったくの支離滅裂な歌詞を書いてみたりと、いちじるしく歌詞の価値を貶めるような真似をしているのだが、そこには前作でみられたような鮮烈な衝撃はない。

 

夕焼けの坂道を 転がり落ちた初恋

強がるかわりに ブレーキが泣いたね

空き缶 溜息ばかり受け止めて

大好きだったレモンティー 冷めて渋くなった

「放課後」

カモメの青少年 清少納言を嗤う 「……恨メシヤ」

釜飯屋の庭でダンス バランス悪いくせにバウンス

五本立った! 蒼き血潮のクセナキス

彼女、共産党員です 僕は取り返しのつかない蟹料理を棄てた

「空色えのぐ」

前作において形式からの逸脱を達成した住石は、さらにそこからも逸脱しようと図ったようだが、これらは結果的に、逸脱のための逸脱でしかなかった。逸脱のための逸脱は袋小路へ自ら追い詰められるようなものであり、先細りになっていくほか道はない。幸いにも、音楽としてはこのセカンドアルバムもまずまずの評価を得たようだが、文学として歌詞を捉えるのであればこれらはすべて失敗作だ。前作であまりに成功してしまったがために、歌詞に関する住石の試行は自縄自縛の様相を呈してしまったのだ。それが、このような凡庸な詞を生んでしまったのだろう。

しかし、これをもってして住石の才能の枯渇を叫ぶのは早計である。もとより住石は歌詞に関心などなかったのだ。生来の好奇心が前作での充実を生んだものの、そこで達成感を覚えてしまったがために、もはや歌詞に情熱を注ぐ意欲が湧かなかったのだと考えられるだろう。どんな天才も、興味のないものに才能を発揮することはできない。

このアルバムの完成をもって、突如として脱アイドル宣言をし前衛音楽の世界へ転身していったことは、必然であったかもしれない。歌詞も歌も旋律もない音楽に転じていった住石の心中で、言語を扱おうという欲求はまったくべつのものとして成長肥大し、それが文学への道を歩ませたのだと考えると、本人がなかったことにしたがっているアイドル期の作品も大きな意味をもっていたことになる。

 

以後の音楽室シリーズと呼ばれる一連の実験音楽アルバムにおいては、言葉も文字もほとんど介在することはなかった。ジャケットにさえ最低限の文字しか記載されず、ブックレットも抽象的な画像が並べられているだけだ。それらと時を同じくして、住石がエッセイやコラム等の執筆活動を開始し、第一詩集『世の中ね、顔かお金かなのよ』を発表したことは、ぜひ併記しておきたい。

シリーズ最終作『音楽室φ』に収録された「影画のインスタレーション」という曲では、実に六年ぶりに住石自身の声が録音されていたが、これも歌ではなく朗読であり、そのテキストというのも新規に書き下ろされたわけではなく、第一詩集からのものであった。この曲自体がサウンドコラージュ的であったので、これは手抜きということではなくコンセプトに忠実に沿った結果だったのだろう。言葉の内容自体に意味を持たせているわけではないのだ。もはやこの時期になると、住石にとって言語はただの記号でしかないようだった。件の詩集のタイトルにもそれは窺えて、平仮名に開いてみれば一目瞭然なように、これは回文になっている。本来の伝達という役割を最小限まで削ぎ落とされた言語/文字は、単なる音波/幾何学模様でしかない。

これを最後に住石は長く音楽から遠ざかる。「現代カレーライス試論」で小説家デビューを果たし、俳優として出演した映画「スイミング」ではカンヌにまで行き、気の迷いで国会議員まで務めた。この、原点であるはずの音楽を排除した時期の活動は、非常に充実していたように見える。現在の視点で分析すれば、これは、音楽の呪縛から逃れるために必要なクールダウンの時期だったのだろう。

 

次に本格的な住石の歌詞が世に出るまでは、実に十四年もの歳月を待たねばならなかった。妻で声優の村治美紀をボーカリストとして擁した『imag_0x//s2=m』というアルバムがそれであるが、ここでも、そのアルバムタイトル同様に言葉の意味は薄弱だ。これもやはり、一般的にいうところのポップスとは似ても似つかぬもので、電子音の飛び交う前衛的なサウンドのうえに無理矢理キャッチーなメロディーを乗せて美紀に歌わせたという特異なものであった。したがってこれも、その音の構成・構造に主眼がおかれているのであり、歌詞は付加的なものでしかなかったように思える。

 

プランクトン 上海育ち

倍々ゲームで殖えるよ 萌えるよ

空蝉 虚空に舞う

プランクトン 散財未遂

サバイバル名人が殖えるよ 肥えるよ

鬱蝉 故郷に散る

「無題8」

 

十四年ものブランクがありながら、表面上は『SHOW IS OVER』における歌詞となんらスタンスは変わっていないように思える。詞はあくまでも音に相応しい語感を与えるためのものなのだ。しかし違うのは『VIOLIN & ME』のころのような躍動感を詞から感じられる点だ。語感やリズムと戯れることを、ただの戯れで終わらせずに、はっきりと楽しんでいるのだ。住石の詞作における楽しみというのは、おそらく世間一般のそれとは大きく観点が違うものではあるだろう。だが、言葉を紡ぎ出すことの快楽を再び手に入れた住石の詞は、ここでようやく詩になったといえよう。

このさき、住石はおもに他者への楽曲提供として多くの歌詞を手がけることになるが、二度と初期のような詞に戻ることはなかった。

 

アイドル期のインタビューに興味深い発言があったので、最後に載せておこう。

 

歌詞なんてどうでもいいんですよ。共感してもらいたいなんて思ったこともないです。誰かの詞に共感したこともありません。(中略)ただ、音楽にのせるわけだから、響きだけは蔑ろにできないというか。

たとえばね、フランス語でもアラビア語でもなんでもいいんですけど、そのネイティブの人にしか発音できない音があるとして、どうしてもその響きが欲しいと思ったら、僕は自分で歌わずにネイティブのシンガーを探してきますよ。そうしなければその音は手に入らないんですから。未知の響きが欲しくなったときには、宇宙人でも異世界人でも捕獲してきます。歌うことにさほどプライオリティはおいてないんですよ。歌手じゃなくて音楽家なので。

 

煙に巻くような受け答えの多い住石だが、この「どうでもいい」というのは真意に思える。そして、住石の活動のすべてを総合的に語っているようにも思える。「どうでもいい」からこそ革新的な作詞ができたのであり、「どうでもいい」ゆえに退屈な詞も書いた。そしてそこに賭けていた分の「どうでもいい」情熱がそっくりそのまま小説に注がれたと考えると、すべての活動の流れがひとつの線になる。

もしかすると、住石がこれまでに発表したあらゆる原稿は、未だ発表されていない音楽のための歌詞なのではないか。そんな空想に耽ってみるのも、また楽しいものである。住石がいま見ている夢のBGMはそんな音楽かもしれない。

(もちづき・しんや 批評家)

2010年5月18日公開

作品集『くずかごから酒場まで』第3話 (全11話)

くずかごから酒場まで

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© 2010 アサミ・ラムジフスキー

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